時 評 | 谷川昌幸 ネパール協会HP同時掲載 |
2004年e (→Index)
041227 | 首都封鎖で非常事態宣言か? |
041226 | 教員の反マオイスト闘争 |
041225 | 和平仲介に消極的な日本 |
041224 | 人民戦線の反マオイスト闘争 |
041223 | 「スターリン批判」の批判 |
041219 | 報復合戦エスカレート |
041218 | 墓場からの異議申し立て |
041216 | ネパール毛主義の中国毛思想批判 |
041215 | 墓なく死ねぬ人々 |
041213b | 世界革命の根拠地としてのネパール |
041213a | 多文化社会の政治統合 文化vs人権 |
041211 | ダイレクの反マオイスト蜂起 |
041204 | 人道介入無用論 |
041201 | Road to War |
041127 | ランタンの水商売 |
041123 | 政治学者,銃殺 |
041122 | 会報かHPか |
041116b | ヒマラヤ革命区 |
041116a | もしガンジーなら |
041114 | 軍拡にはODA停止も |
041111 | 内戦再開,スンダーラ爆破 |
041109 | 人を殺してよいとき |
041107 | 先進国の原罪 |
041105 | マスコミのブッシュ再選批判 |
041103 | イラク人質続発,ネ日の対応への不安 |
041227 首都封鎖で非常事態宣言か?
マオイストの首都封鎖に対抗するためモシン情報相(事実上の首相)が12月19日,非常事態宣言の可能性を示唆したのに対し,アディカリ副首相は25日これを否定した。いずれになるかまだ予断は許さないが,カトマンズ情勢がまた緊迫してきたことは確かだ。
首都封鎖の理由は今のところよく分からない。考えられるのは,一つには。マオイストのカトマンズ責任者プサント(サドラム・デブコタ)の逮捕と自殺。プサントは11月4日逮捕され,国軍のバラジュ拘置所に勾留されていたが,12月19日首つり自殺した。プサントはマオイストを裏切ったともいわれており,首都担当をはずされたようだが,彼の自殺をマオイストは疑い,復讐を宣言している。たしかに軍拘置所での彼の自殺には不審な点が多い。しかし,彼の逮捕,自殺は首都封鎖と無関係ではないだろうが,主要な理由とは思われない。
もっと根本的な理由は,おそらく戦術的なものだろう。先述の通り,中西部では反マオイスト運動が広がり,国軍,武装警察はこれを強力に支援している。おそらくマオイストはこれに怒ったのだろう。聖域に手を出すなら首都を落としてやるとばかりに,大々的に首都封鎖作戦を始めた。前回と同様,これは簡単。首都圏のストックは,食料,灯油,ガソリン15日分,ディーゼル油21日分しかない。すぐ干上がってしまう。
マオイストは,首都圏に通じる主要道路を封鎖,18日には,カトマンズ向けトラック18台をマクワンプルで焼き討ちにした。無期限封鎖の対象はナラヤニ・ゾーン。また首都や主要都市へ通じるマヘンドラ・ハイウェイ,プリトビ・ハイウェイ,トリブバン・ハイウェイも21日無期限封鎖となった。
政府は,灯油等の生活必需品の統制を宣言し,商工会議所(FNCCI)は封鎖解除をマオイストに要望した。が,物価は急上昇し,政府は売り惜しみ通報電話を開設して対応しようとしているが,お手上げ状態だ。
前回も,危機を煽る報道被害との説が出たが,そうではない。首都封鎖など,その気になれば,簡単だ。政府は,トラック等の車両を軍が警備して運行させようとしているが,所詮焼け石に水。そこで,武装ヘリや航空機による空からの警備を始めたが,そんな不経済なことが長続きするはずはない。
結局,政府は,特権階級の飛び地,カトマンズを守るため,治安部隊を中西部から呼び戻さざるをえないだろうが,たとえそうしても,マオイストが本気なら,首都圏への交通を確保することは難しい。
しかも,中西部から治安部隊が引き上げれば,反マオイスト運動に立ち上がった人々が置き去りにされ,見殺しにされてしまう。首都圏封鎖は,地方の問題でもある。こちらも深刻だ。
(KOL,23-27; KtmP,19-27)
041226 教員の反マオイスト闘争
ネパリタイムズ(#225)によれば,ダイレクでは教師たちも反マオイスト運動を始めた。
以前から,教師はマオイストの主要なターゲットであった。2年前,ラムジュンでムクチナース・アディカリ先生が,キリストのように木に釘で打ち付けられ虐殺された。この写真は,教師受難の象徴となり,ドルバ・バスネットの映画「銃火のなかの学校」(カトマンズ映画祭上映)でもこの虐殺シーンは描かれている。
INSECによると,人民戦争でマオイストが殺した教師は74人,政府側がマオイスト容疑で殺した教師は52人。政府側も同じくらい残虐だが,ダイレクではアディカリ先生受難が人々の脳裏に焼き付き,マオイストの残虐さを強烈に印象づけているという。
マオイストは,教師たちにパートタイムではなくホールタイム(フルタイム)のマオイストになるよう強要している。先生がフルタイムの真性マオイストになれば,生徒たちへの影響は大きい。
これを拒否した教師たちは,地下に潜ったり,都市部に逃れたりし,多くの学校が閉鎖された。校舎はマオイストの兵舎になり,生徒たちは「トンネル戦争」のための塹壕掘りなどに動員されている。
女性蜂起に勇気づけられ,ダイレクの教員組合も反マオイスト闘争を継続するという。これに対し,マオイスト側には,教員たちを完全には追放できない事情がある。人民政府は,教員給与の10%を税として徴収している。つまり,国庫→教員給与→人民政府税。国庫(外国援助も含まれる)からの経済援助でマオイストは活動しており,その金の卵を産むニワトリを殺してしまっては元も子もない。
マオイストにとってもっとも望ましいのは,教員や役人や開発関係者が国庫からたっぷり給与や助成金をもらい,それを最大限人民政府に上納してくれることだ。これは何もマオイストの発明ではない。これまで特権階級の人々がさんざんやってきたことを,人民政府がまねているにすぎない。マオイストは宿り木か否か? 宿り木であれば,本体を枯らすことはないが,もしそうでなければ・・・・。
041225 和平仲介に消極的な日本
日本政府は,たしかにネパール情勢についてほとんど積極的な発言はしていないし,和平仲介にも消極的です。国連や欧州諸国が和平仲介の可能性を探っている中で,最大の援助国,日本が和平仲介に消極的であるのは不可解ですが,諸般の状況から推測すると,その主な理由は以下の通りだと思います。
(1)儲からない。国益にならない。和平仲介が成功すれば,平和愛好国,人権主義国としての名声が高まりますが,それですぐ得するわけではない。
残念なことに,ネパール政府は,日本の常任理事国入りへの賛成をすでに表明してしまっている。森首相がほんの数時間訪ネし,儀式中居眠りをして(そう見えた)ひんしゅくを買ったが,それでも訪ネのお礼にネパール政府は常任理事国入り支持の切り札を切ってしまった。
安売りすべきではなかったが,まだ遅くはない。日本政府をその気にさせるには,常任理事国入り支持をきっぱりと撤回する。そうすれば,ネパールの支持獲得が日本の国益となり,少しは積極的になるかもしれない。
(2)意思も能力もない。日本は,侵略戦争や国際連盟からのカッコよい脱退の経験はあるが,平和外交の経験は乏しい。スリランカ和平も,ノルウェーかどこかが和平の大枠をまとめた後で,金を出しているにすぎない。
(3)ネパールの国王も政府も外国の仲介を拒否している。仲介を最も望んでいるのは,マオイスト。もし仲介をすれば,日本はマオイスト支援国と見られるおそれがある。そんなこと,気にしなくてもよいが,日本政府にはその勇気はない。
(4)中印両国のご機嫌を損ねる。ネパールは,中印パワーゲームのコマにすぎない。両国とも核大国,政治大国であり,外交的にとても太刀打ちできない。下手に手を出すと,大やけどをする。黙って金を出しているのが,無難。
(5)成功の見込みがない。人民戦争は,構造的な矛盾によるものであり,表面上の和平を実現しても,すぐ壊れる。苦労しても報われない。
――以上が,日本政府が和平仲介に積極的には動かない主な理由でしょう。
041224 人民戦線の反マオイスト闘争
ネパリタイムズ(#225)によれば,ダイレクの反マオイスト蜂起(11/22)に呼応して,人民戦線(Jana
Morcha)がバグルンで反マオイスト運動を始めた。
人民戦線は,イデオロギー的にはマオイストに近く共闘もしていたが,いまは議会闘争戦術を唱え,マオイストと対立している。というよりも,例のごとく,マオイストに自分たちの縄張りを荒らされたので,チャンス到来とばかりに,反マオイスト闘争を呼びかけたのだ。
マオイストと人民戦線は,支持基盤が重なっているので,両派の争いはセクト的内ゲバの惨事に発展する可能性がある。
9月,マオイストは人民戦線大会に行く途中のメンバー4人を拉致し,さらに翌日には活動家ら数名を拉致していた。ダイレク蜂起に乗じて,マオイストのこれらの残虐行為に対する人民戦線の抗議運動が拡大すると,マオイストは11月29日,300人の大部隊でダメクVDCを攻撃し,人民戦線地域代表ハリ・タパの妻ら6人を拷問し,足に穴をあけた(drilling holes into her legs)。他の村人20名もひどく殴られた。
両派の対立は拉致合戦になり,11月マオイストがダメクで5人を拉致すれば,人民戦線はマオイスト6人を拉致し返した。
まさに泥仕合。それも,悲惨な。どこかの国と同じく,ここでも急進左翼は内ゲバで自滅へ向かうのだろうか?
041223 「スターリン批判」の批判
周知のように,ネパールではまだ「スターリン批判」も「文革(毛沢東)批判」も行われてはいません。
ネパールでも,情報化の威力はすさまじく,「堕落した資本主義文化」が洪水のように流入し,都市上・中流層に急速に広まっていますが,グローバル資本主義の恩恵は地方や都市周縁には届かず,国民の大半を占めるこれら下層階級にとっては,むしろマオイズムや急進革命思想の方が説得力を持つ状況になっています。
インドでは「人民戦争グループPWG」等のマオイスト諸派が勢力を拡大し,ネパール・マオイストとの連携を強めています。北米マオイストは最近押さえ込まれ地下に潜ったようですが,スペイン,イタリアなどの欧州マオイストは結構元気で,ネパール・マオイストとの連帯を表明しています。マオイズムは,決して時代遅れでも観念論でもないのです。
この状況を無視して,ネパールではまだ「スターリン批判」もしていないと冷笑するのは,よほど用心しないと,的はずれになります。
ネパールの共産党系知識人は,共産主義運動史をよく研究していて,「スターリン批判」のことも,もちろんよく知っています。よく分かった上で,ネパールの現状では「スターリン批判」などやらない方が得策だと判断し,
マルクス→レーニン→スターリン→毛沢東
で,革命闘争を指導しているのです。
これが相当の説得力を持っていることは,南アジアにおけるマオイズムの拡大が実証しているとおりです。ネパール・マオイスト指導者たちは,スターリン未批判冷笑派よりもはるかに現実的といえます。
それともう一つ,われわれが,ネパールではいまだに「スターリン批判」をしていないと冷笑していられないのは,われわれ自身が同種の批判をしていないからです。たとえば,「天皇批判」「マッカーシー批判」。
日本では,誰でも知っているように,恐ろしくて天皇批判は出来ません。もし天皇を批判しようものなら,愛国者と称する人々に暗殺されかねません。長崎の元市長は,どちらかというと温厚な保守的な人ですが,ちょっと天皇の戦争責任に触れただけで,銃撃されました。いやそればかりか,公権力でさえ,白昼堂々と,天皇批判を弾圧しています。東京では,日の丸,君が代に積極的に賛成しなかったというだけで,多数の教員が処罰されました。たしか広島では校長が自殺に追いやられています。スターリン未批判を冷笑する前に天皇批判をやれ,といわれたら,反論のしようがありません。
アメリカでも,ブッシュ政権が,アカ狩りに狂奔したマッカーシー上院議員と同じようなことを,「反テロ戦争」と称して国内外でやっています。マッカーシーイズムはスターリニズム並び称される全体主義に他なりませんが,その「マッカーシー批判」をアメリカはやっていないではないか,といわれたら,まともなアメリカ人なら反論に窮するでしょう。
王族殺害事件の時も,ネパールの未開性,野蛮さが盛んに報道されたが,これも根本的な誤りです。そんなことをいうなら,ダイアナ事件(暗殺?),ケネディ暗殺はどうか,と問われたら,これも反論できません。ネパールが特に未開,野蛮であるわけではない。欧米や日本では,問題が別の現れ方をしているにすぎないのです。
ネパール・マオイスト問題は,ネパールの状況の中で分析し解決策を探っていくことが必要ではないでしょうか。
041219 報復合戦エスカレート
■治安部隊による即決処刑(12/18)
12月18日,治安部隊はモラングでマオイスト系の「全ネパール独立学生組合ANNISU-R」のリーダー6人を逮捕後,銃殺した。身柄拘束後の銃殺だから,もちろん立派な人道犯罪ないし戦争犯罪。このようなことが起こるのは,政府が自ら刑事訴訟手続きを否定し,その場で射殺せよとの「即決処刑」政策を公然と指示しているからだ。
近代国家は国民を殺してもかまわないが,法の手続きだけはちゃんと守らなければならない。法を守らなければ,ただの暴力団にすぎない。日本政府も相当数の日本人を毎年殺しているが,かろうじて形式的には法の手続きを守っている。もしそうでなければ,日本政府は単なる密室殺人集団になってしまう。
ネパールのようにゲリラ戦状況になると,報復感情が高まり,「即決処刑だ!」となりがちだが,ネパール政府がそれをやれば,自らの正統性を自ら否定することになる。ここは,ぐっと我慢して,マオイスト容疑者にも,戦争捕虜ないし犯罪容疑者としての法的権利を保障すべきだろう。どうしても処刑したいのであれば,死刑禁止の1990年憲法を改正し,死刑を合法化すればよい。
もっとも,日本も,憲法は死刑を禁止しているのに,刑法で死刑を定め,こっそり密室で絞首刑を実施しているので,威張れたものではない。政府の手で国民を殺すのであれば,違憲合法的死刑などといった姑息な手段を使わず,憲法を改正して死刑を合憲化し,アメリカの一部で実施しているように,公開処刑をしてもらいたい。民主国家の国民には,処刑をしかと見届ける義務がある。見ることができないのなら,死刑は廃止すべきだ。
■マオイストによる警官殺害(12/18,19)
学生組合リーダー殺害と同じ12月18日,マオイストの方はカトマンズ近郊のサンクー警察署を襲撃,署長以下5名を殺害し,3人重体,負傷十数名の大損害を与えた。マオイストはバスとタクシーを連ねてやってきたというから,これは本格的攻撃だ。速報では,19日にも,マオイストはヘタウダ警察署を襲撃する一方,シンドパルチョークでは治安部隊を攻撃し10名を殺害している。このところ弱体化が伝えられていたが,必ずしもそうとも言えない状況だ。
マオイストのこうした襲撃も,報復感情からのものが少なくない。同志を殺害された報復として,国軍兵士,警官,「スパイ」を非人道的に虐殺する。これも,もちろん人道犯罪,戦争犯罪だ。内戦では,正当な戦闘と,そうでない殺人との区別は難しいが,マオイストがそれを無視すれば,今度はマオイストが単なるテロリスト,強盗殺人集団に転落してしまう。政府に対し国際人道法,戦争法の順守を要求するのであれば,彼らもそれらの法を守るべきだ。
■報復の連鎖を断つには
平和的手段でどうしても解決できないときは,最後の手段として戦争に訴えるのは仕方ない。しかし,その場合,少なくとも戦争法だけは守ってほしい。自らのつくった法に自ら従うことができるのは人間だけだ。最低限の戦争法をすら守らないとすれば,もはや人間ではない。そして,神の法を守るケダモノでもない。人定法も神法も守らない存在,人でもケダモノでもない存在――それはまさしく化け物だ。
報復感情にとりつかれると歯止めが利かなくなり,人は化け物になる。戦争は仕方ない。人を殺すのも仕方ない。しかし,化け物にはならないでほしい。王国政府は国際社会で承認された正統政府である。まずはこの王国政府が率先して法を守ってほしい。攻撃するなとも,逮捕処刑するなともいっているわけではない。たとえて敵を殺すとしても,最低限の法さえ守っておれば,人は化け物への転落を免れ,ぎりぎりのところで人として踏みとどまり,どこかで報復の連鎖を止め,和解への道が開けてくる。ぜひ,そうあってほしい。
041218 墓場からの異議申し立て
ヒンズー教化されていない少数民族のなかには,墓を造る人々もいる。彼らと反体制運動との関係はよく分からないが,内戦がヒンズー化された現体制に対する非ヒンズー的諸勢力の異議申し立ての側面をもっていることは周知の事実だ。
■1
前述のように,近代の人権や民主主義は死とは切っても切れない関係にあり,take it
easyとはいかない。それが可能なのは「死んでも死なない人々」だけだ。むろん,どう生き死ぬかは人生観の問題であり,各人が自由に選択すればよいが,少なくとも「死なない人」には近代的な人権や民主主義はない。
■2
そこで注目すべきは,マオイストが戦死者をどう扱っているかである。これは抽象的な議論ではなく,ごく日常的な現実の問題である。科学的マルクス主義によりヒンズー教を否定したとすると,毎日のように発生する同志の死をどう意味づけ,遺体をどう扱っているのか?
人民のための戦死だから来世で報われる,などと教えているのであれば。毛沢東主義失格。お釈迦様の掌の上で兄弟げんかをしているにすぎない。もしそうではなく,「同志よ,君は唯一無二の生命を人民のために捧げた。人民は君の死を永遠に記憶するだろう」と,その1回的死を意義づけているとすれば,これは本物であり,手強い。
■3
Take it
easyは,悪いとはいわないが,それでは眼前の現象の本質を見逃す恐れがある。ダイレクの反マオイスト蜂起の本質は何か? 蜂起の詳細は不明だが,おそらく次のような展開であったと思われる。
マオイストが1住民を地域人民政府代表にした。
→政府治安部隊が彼を殺害。
→家族は伝統的葬儀をしようとした。
→そこにマオイストが来て,遺体を赤旗でくるもうとした。
→これに家族・住民が怒り,その場でマオイストを殴り,追い払った。
→これが反マオイスト蜂起に発展。
→政府が,軍事力を総動員して,住民蜂起を支援。
→空爆など戦闘拡大で,死傷者急拡大。
つまり,これは死者の奪い合いに他ならない。死者をヒンズー教徒ないしヒンズー的仏教徒として輪廻転生させるか,それとも科学的マルクス主義的に死なせるか,の壮絶な綱引きだ。ことの重大性は,節穴ジャーナリズムよりも,両当事者のほうがはるかによく実感している。死者を取った方が,結局は,勝ちなのだ。
■4
日本を見よ。軍国日本は戦死者の魂を靖国で国家管理した。陛下の臣民(subject)は,死語も陛下に服従(subject)させられた。
戦後になっても,自衛隊員が死ぬと,たとえば彼が仏教徒,妻がクリスチャンであってもお構いなく,お上が魂を召し上げ,勝手に靖国に祭ってしまう。日本では,死者にすら信仰の自由はない。
また,死者の祭り方は,日本とアジア諸国との間に激しい対立をもたらし,国家だけでなくごく普通の庶民ですら相互不信や嫌悪感を募らせる大きな原因となっている。死者は国際政治の道具でもある。
戦争は人殺しであり,死者の扱いがちゃんとしていないと,勝ち目がない。イラク派兵した日本政府が一番心配しているのは,死者が出ることではなく,その魂をいかに国家管理するかということである。当事者の派遣隊員も国民も知らされていないが,おそらく遺体と魂の管理マニュアルはすでにできあがっているはずだ。そうでなければ,派兵など出来はしない。
ネパールでも日本でも,人が人として生まれることは難しく,人として死ぬことはさらに難しい。
041215 墓なく死ねぬ人々
宗教や民俗学は全くの専門外であり,以下,見当違いがあればご訂正願いたいのだが,たしかネパールにはお墓はないはずだ。ヒンズー教徒も仏教徒も墓は造らない。ネパール人は,死ぬと火葬され,灰はバグマティ川やビシュヌマティ川に流され,ガンジスを経てインド洋へと運ばれていく。
■1
諸説があるようだが,通俗的な説によると,火葬のとき,死者の魂は煙とともに天に昇り,やがて雨(雨雲はインド洋から来るのだろう)となって地上に降り,再び母胎に入り,そして「再生」する。再生後,人は再び生き,そして死に,また火葬とともに天に昇る・・・・・
ネパール人が墓を造らないのは,人は死んでも再生すると信じているからだ。逆にいえば,ネパール人は厳密な意味では,死なない。いや,死ねない。現世は苦界だとすると,苦しみは未来永劫つづく。そこからの救済は,永遠の輪廻転生からの離脱,つまり完全な自己否定のみである。自己(おのれ)とは,要するに,自己の限定性への固執であり,煩悩にすぎないから,人は己を滅却し悟りを開けば,ブラフマンに帰一し救済される。が,この悟りを開けるのは,ごく限られた少数者にすぎないし,悟りは死ではない。それは要するに己を滅却することであり,自己の死を意識しないことにすぎない。
だから,ヒンズー教徒は一人として死なず,したがって墓もいらない。大多数は仮の死と再生の苦しみを繰り返し,特殊な少数者は悟りを開いて輪廻から離脱するが,その瞬間,もはや彼固有の存在は消滅していている。
この墓なき人生が,どのようなものか,私たち日本人には想像もできない。永遠に死ねない苦悩,そんな恐ろしい人生をどうして生きられようか? 死ねないということは,いまのようには生きられないということである。たしか永遠の生を約束された人が,未来を絶望して自殺したという小説があったと記憶している。が,これはまだ甘い。われわれはせっぱ詰まってどうにもならなくなったとき「死んでお詫びする」が,死ねないネパール人は「死んでも,死にきれない」。彼の魂は輪廻し,生前の悪業ゆえに,さらに苦しい生を生きねばならない。それほど,ネパール人の人生観は厳しいのだ。
■2
これに比べ,キリスト教の場合,たしかに絶対者,神は恐ろしくはあるが,人は死に,墓に入り,そして信仰さえあれば,その身体とともに「復活」し,永遠の生命を享受できる。
人は,自分自身のかけがえのない身体と魂を持った者として生まれ,生き,やがて死に,そしてその身体とともに「復活」する。魂が永遠に輪廻する「再生」ではない。だから,身体を葬る墓は決定的に大切だ。遺体をちゃんと保存しておかないと,自分の魂の戻る場所がなくなる。たとえ肉は腐っても骨だけは残さないと,元通り復活できない。だから,正統的クリスチャンにとって,遺体が土に戻ってしまわない石棺埋葬が理想なのだ。
クリスチャンは,原罪で始まり最後の審判で終わる一回的直線的時間,つまり歴史の中で,唯一無二の身体と魂を持った者として生まれ,生き,死に,そして信じる者は,その個人として救われる。何たる自己中心的個人主義か!
神の前で,個人はあくまでも個人として自己の行為への責任を取らされる。その意味で厳しいとも言えるが,しかし,よく考えてみると,信じさえすれば,彼はちゃんと死ぬことができ,そして元の身体のまま,いまの自分のまま,復活できるのであり,これは大いなる救い,慰めである。
西欧近代民主主義も,まさにこの自己責任を取ることのできる個人,神以外に依存する必要のない自立的個人を前提にして,成立している。前世など無いから,人は自分自身の行為以外の何に対しても責任を取る必要はない。自分の行為への責任は免れないが,それとて信じさえすれば神の無限の愛により,復活の瞬間に許されてしまう。キリスト教に,運命論や宿命論は無縁だ。
■3
これに対し,ヒンズー教は厳しい。ほとんど不可能に近い解脱を達成できなければ,人は死と再生を繰り返し,何度も何度も処罰される。時間(歴史)は始点から終点に向け一直線に,一回的に進むのではなく,止めどもなく循環するから,そこには唯一無二の絶対的個人という者は存在しない。いまの自分は,自分だけの存在ではなく,前世の誰かの業を引き継いでおり,自分のいまの行いは,また誰か分からぬが後世の誰かへ業となって引き継がれていく。人は,自分のものではない過去の行為の責任をいま取らされ,そして自分のいまの行為の責任を後世の誰か分からぬ人へ送り渡す。
ヒンズー教徒は運命論に従わざるをえないのであり,ここでは西欧型の自分の行為に責任を取る自立的個人は存在しない。自己への固執そのものが,ここでは最大の罪なのだ。
もしそうであるのなら,ネパールで西欧型近代民主主義を確立することは,困難である。近代民主主義の大前提である,自立的個人が存在しないからだ。近代民主主義は,死すべき人間の民主主義である。
■4
そこで不思議なのは,日本だ。大部分が仏教徒のはずなのに,せっせと墓を造る。成仏したら,死体なんか単なる物体にすぎないのに,大金を掛けて金ぴか霊柩車で運び,火葬にし,骨を壺に入れ,ご丁寧にも永久に腐らないようにその骨壺を石造りの墓に収め,縁日には拝みにいく。仏は,そんなところに居るはずがないではないか。
日本人は,ネパールのヒンズー教徒や仏教徒とは違い,なぜ墓を造るのか? 西洋かぶれで,キリスト教のまねをした訳ではない。どうやら儒教の影響らしい。儒教では,死とともに身体から離れた魂が,再び元の身体に戻ってくる,と信じられていたらしい。キリスト教ほど徹底していないが,魂はちゃんと自分の身体に戻る。その考え方を仏教とチャンポンにして中国から日本に取り入れたようだ。
儒教とピューリタニズムの類似性を指摘し,儒教資本主義を唱えることが,一時流行した。たしかに禁欲エートスといい,墓といい,似ているところはある。が,日本は儒教の土葬主義にも徹しきれなかった。墓は造るが,ちゃっかりヒンズー教,仏教の火葬を取り入れ,仏教徒のふりをしているのだ。
日本は墓大国だが,万事折衷主義で,死すべき者を前提とする民主主義の確立は難しい。ネパールほどではないが,自己の行為への責任意識は薄いし,個人の自立も弱い。死者たちは,輪廻転生するわけでも神によってありのまま復活させられるわけでもなく,大多数は中陰付近を右往左往している。なかには閻魔様も敬遠したくなるような政治家たちによって無理矢理「護国の神々」として呼び戻され,政治的に利用される気の毒な死者もいる。日本は,器用なご都合主義の国だ。政治においてオポチュニズムが悪いとは必ずしも言えないが,死すべき者の近代民主主義には向いていないようだ。
041216 ネパール毛主義の中国毛思想批判
毛主義(Maoism)と毛思想(Mao
Thought)は違う。ネパール共産党毛沢東主義派(Communist Party of Nepal -
Maoist)は,もちろん毛主義であり,毛思想を批判している。
CPN-Mの議長兼人民解放軍最高司令官は,プラチャンダ氏だが,彼の権威ある説明によれば,「主義」と「思想」の違いは次のところにある。
まず,マルクス主義には,3つの構成要素がある。(1)哲学,(2)経済学,(3)科学的社会主義。これは「科学」であり,その発展は自然過程である。この過程もやはり3段階に分けられる。(1)マルクス(マルクス主義),(2)レーニン(レーニン主義),(3)毛沢東(毛主義)。
つまり,現在の国際プロレタリアートが手にするのは,マルクス主義−レーニン主義−毛主義であり,毛主義抜きのマルクス・レーニン主義は,真の共産主義ではない。いま世界中の反動や修正主義者たちが躍起になって毛主義を攻撃しているのは,そのためである。
CPN-Mは,最初から,この毛主義を正しく理解していたが,呼称は中国と同じく「毛思想」を使用していた。ところが,ケシカランことに,毛同志の死後,中国は資本主義化し,ケ小平(Deng Xiaoping)らが「毛思想」を隠れ蓑に使い,修正主義を宣伝するようになった。したがって,この状況で「毛思想」を使用し続けると,誤解を招き,修正主義者につけ込まれる恐れがある。そこで,CPN-Mは「毛主義Maoism」を使用することにしたのだ。
悲しいことに,反革命後の中国では,かつての革命家たちも「毛思想」使用を強制され,「毛主義」がマルクス主義の第3段階であることを否定させられている。だから,いま断固として「毛主義」を使用することが,決定的に大切なのだ。
なるほど,そうか。よく分かった。「毛思想」がケ小平一派の修正主義の隠れ蓑になってしまったので,毛沢東の革命思想を正統に継承しているネパール共産党毛沢東派は,たしか1995年から「毛主義」を使用することになったのだ。世界最高峰のエベレスト,いやサガルマータの上に立つ赤旗は,世界最先端の革命思想の象徴であらねばならない。
ところで,議長にして最高司令官のプラチャンダ氏は,毛沢東同志よりも偉いか? これは難問だが,数年前(正確な年失念),CPN-Mは「プラチャンダの道Prachanda Path」を公式採用した。マルクス主義は科学であり,自然的発展過程を取るとすれば,「プラチャンダの道」は「毛主義」の次の発展段階,つまりグローバル資本主義段階における共産主義となるのではないか?
もしそうなれば,赤旗は「プラチャンダの道」を通ってサガルマータの頂上に運ばれ打ち立てられることになる。これは快挙だ。
(Prachanda, On Maoism)
041213b 世界革命の根拠地としてのネパール
2003年12月24日付文章で,ネパール共産党毛沢東派プラチャンダ議長は,人民戦争の成果と見通しを,不動の確信を持って表明した。
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<p>
人民戦争により,旧封建制は地方からはほぼ完全に一掃され,人民戦争はいまや戦略的均衡の段階から戦略的攻撃の段階に入った。これに対し,アメリカ帝国主義を先導とする反動勢力は,王国軍を軍事的に支援し,もはや民衆の支持を失い死の床で息も絶え絶えの専制的封建王制を再生させようと躍起になっている。さらにアメリカは,陰謀をめぐらせ,破廉恥にも,わが党と偉大なネパール人民を国際テロリズム・リストに載せた。
ネパール人民戦争は,軍事テロ恐怖支配に他ならない帝国主義を打倒し,民衆のための新しい世界を創り出すことを目指しており,したがって,それが世界中の反帝国主義プロレタリア民衆の大いなる支持を得てきたことは当然といってよい。
ネパール革命は,新しい世界のための根拠地である。この革命を支える思想は,世界民衆のものとならねばならない。21世紀は人民の世紀であり,人民戦争は,世界帝国主義を打倒するプロレタリア国際主義の偉大な精神をもって戦われているのである。
(Prachanda, Foreword, Problems & Prospects of Revolution in Nepal,
2003)
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いささか大時代的,劇画的だが,プラチャンダ議長の意気軒昂な様子がうかがえ,ほほえましい。そして,人民戦争が,建前としては,何を狙っているかもよく分かる。
こうした理念やイデオロギー政党の恐ろしさは,史的唯物論(唯物論的史観)のはずなのに,その理念(精神)が歴史を創ることだ。「戦略的攻撃段階に入った」という観念が宣言されたら,いかに観念的であれ,その理念に合う現実は創られねばならない。スターリンも偉大な毛沢東もそうしたように。観念に合わせて現実を無理矢理創ろうとすれば,無理が高じて,人民政府にも国王政府にも,そして偉大なネパール民衆にも,多くの悲劇が生じる。
やはり,「ミネルヴァの梟」は,夕暮れに飛ぶのが自然だ。
041213a 多文化社会の政治統合 文化vs人権
快晴の日曜日,陰鬱な官舎でヒマつぶしに少しカタイ本(グローバル時代の平和学3,法律文化社)を読んでいたら,「北」の人権は「南」を食い物にしているというケシカラン議論にまたまた出くわした。不愉快だが,他に面白いこともないので,仕方なく読んでみた。多文化ネパールの政治統合にとって,多少は参考になるかもしれないので,紹介してみる。
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■1
グローバル化は世界のいたるところで社会の多民族化,多文化化を促進し,もはや国家は同質的「国民文化・民族文化」を前提とする近代的「国民国家」ではありえなくなった。
また,近代的国民国家は,グローバル化と共に深刻化してきた環境問題などの超国家的諸問題を扱うには小さすぎ,また多様化してきた日常生活の身近な諸問題を扱うには大きすぎるため,その機能を一方では超国家的国際機関に,他方では地方自治体(地域政府)やNGO等に委譲して行かざるをえないし,事実,その動きはグローバル化と共に世界各地で加速している。
この国民国家相対化の動きは,グローバル化がもはや止められないとするなら,誰にも止めようがないし,また世界の多様な人々がその多様性に応じて等しく尊重されるべきであるなら,止めるべきでもない。
ところが,この動きに対し,国民国家の危機を訴え,国民固有の「文化」や「伝統」により国民統合を再建強化しようとする復古的ナショナリズム運動が,日本だけでなく英独仏など世界各地で拡大している。これは明らかに時代に逆行するもの,つまり語の正確な意味での反動reactionaryであり,長い目で見れれば,成功の見込みはない。
しかし,短期的に見ると,情緒的ナショナリズムは悪魔的魅力を持ち,庶民の支持をえ,勝利する可能性は大いにある。もしそうした偏狭なナショナリズムがグローバル化の今日,再び勝利を得るようなことになれば,人権侵害,他民族・他文化弾圧など,甚大な被害を世界各地にもたらすことになるであろう。反動的国民国家主義は許されるべきものではない。
一方,国民国家はもはや時代遅れになったので解体してしまえという考え方も,短絡的である。国民国家は,ウェストファリア条約以降3世紀以上存続し,日独のような後発国でも100年以上の歴史がある。国民国家の枠組みは,人権保障や福祉実現にとって,まだきわめて有益であり,将来も,役割見直しは必然としても,その機能そのものが他の組織によって完全に取って代わられる,つまり国家は消滅する,ということはないであろう。
そこで,国民国家の枠組は今後も存続するし,存続すべきだとすると,問題はグローバル化=多文化化の下で国家にどのような機能を担わせるか,ということになる。
■2
浪岡新太郎「フランスにおける移民新世代結社と<新しい市民権>」(本書第9章)によれば,多文化社会における政治統合には,次の二つの類型がある。
(1)フランス共和制モデル
公的空間と私的空間を区別。公的空間では,人々は集団的属性から切り離された個人=抽象的市民としてのみ平等に承認される。集団的属性に関係なく,誰でもフランス市民として政治共同体に参加する。
(2)アングロサクソン・モデル(多文化主義モデル)
個人でなく,エスニック共同体を公認する多文化主義的統合。(p.249-250)
これら2種類の統合モデルのうち,いずれが望ましいかは,一概には言えない。人権の普遍的保障という点では,フランス型が有利だが,これには人権のイデオロギー性や「差異への権利」の否認という問題がある。他方,アングロサクソン(多文化主義)モデルも,文化の多様性を認める結果,人権の普遍的保障が困難になり,文化(民族)を理由とした女性差別などの人権侵害を容認せざるをえない,という問題が生じる。
さらにグローバル化の下では,これに南北問題が絡むから,問題は一層複雑になる。グローバル化,多文化多民族化の下で,われわれはどのような政治統合を目指すべきか?
■3
この問題を考える上で,阿部浩己「要塞の中の多民族共生/多文化主義」(p.285-310)はたいへん示唆的である。
この論文で取り上げられているのはEUである。EUは多民族・多文化共生の先進地とされているが,皮肉なことに,EUが欧州条約などで域内の人権保障を図ろうとすればするほど,欧州中心主義となり,少数民族・文化は周縁化され,差別されていく。EU内の人権保障は,域外民族・文化の抑圧・搾取によりなり立っているのである。
・宇沢弘文
「EC,最近はEU(欧州連合)ですが,あれが戦後一番悪い役割を果たしてきた集団だと私は思います。ECが世界の,特にアフリカの貧困の大きな原因になったと思います。ECは,結局金持ちだけが集まり,高い関税障壁を設けて,自分たちだけの繁栄を謳歌しようとした動きです。・・・・アフリカの飢餓の問題は決定的にEUがつくり上げている。」(本書p.287,原著=内橋克人編『経済学は誰のためにあるのか』岩波書店,
1997)
・斉藤純一
「南アフリカの看護師が旧宗主国のイギリスにお金で次々に引き抜かれている・・・・。南アフリカでは,看護師は高等教育を受けた準エリートなのですが,英語を話すということもあり,イギリスの病院や高齢者施設のケア・テイカーとして引き抜かれていく。ケアが手薄になった南アフリカは,今度は,ガーナなどのさらに貧しい地域から医師や看護師を引き抜いてその穴を埋めようとする。そうすると,最貧国におけるヘルス・ケアは空洞化せざるをえない。・・・・ケアの資源は先進国に引き寄せられ,その鎖の末端のところでは,ケアのない状態にならざるをえない。フィリピンの女性がアメリカなどにケア・テイカーとして出稼ぎに行くというのも,同じようなケアの収奪の例です。」(本書p.288,原著=斉藤純一「グローバル化のなかでのセキュリティ/公共性」季刊ピープルズ・プラン24号)
・阿部浩己
「「北」の先進性,EUの先駆性は「南」の物的・人的資源の一方的収奪の上にはじめて成り立っている。・・・・域内で発現する多民族共生の風景は,そうした負の行為を幾重にも積み重ねてきた歴史の所産といってもよい。共生・人権という美しい言辞には醜悪な暴力の構造的陰影が宿っているということを忘却してはなるまい。」(p.288)「人権保障へのコミットメントを強め民族・文化の多元性に寛容な姿勢を示しているようにみえるEU/欧州人権条約体制のもつ暴力性を,非欧州人/「他者」の存在を可視化させながら批判的に見つめ直してみる。」(p.288)
このEU中心主義を,もう少し詳しく分析すると,次のようになる。
(1)EU市民権
EU市民には域内における移動・居住の自由が保障されている。これは,普遍的人権の理念に沿うポスト国民国家的市民権だといわれている。しかし,「構成国の国籍を有する者は何人も連合の市民となる」(第7条)ということであり,この市民権はEU構成国の国民に限定さている。そして,EU各国は,多かれ少なかれ国籍付与を主流民族,主流文化により条件付け,それに反する者は排除してきた。
(2)EU加盟国
「自由,民主主義,人権および基本的自由の尊重ならびに法の支配」などの諸原則を守る国が,加盟国になりうる(第49条)。人権劣等国の国民を排除することにより,EU内での人権は保障されている。EUの要塞化。入域阻止政策。その結果,被庇護者であっても,入域が難しく,不法入域せざるを得ないことになる。
(3)定住外国人
EU域内では,外国人は第二世代であっても刑罰に加え,出身国への国外退去の可能性をつねにもっている。これは自国民にはない危険であり,人権侵害の「二重の危険」といえる。
この多民族,多文化差別を,EU人権保障の中心的機関である欧州人権裁判所も,事実上,容認している。つまり欧州人権裁判所は――
(1)国家の国境管理権を人権より優先させている。
(2)加盟国の国籍法は,植民地主義的,人種主義的な要素をもっているのに,それを容認している。
(3)同じ犯罪でも,外国人には退去強制を課している。
(4)事実上,一元文化論をとっている。たとえばフランス主流文化でないと,フランス人ではない。阿部によれば,「裁判所にとって,チュニジア人コミュニティへの帰属はフランスへの統合を示す事象とは解されていない。チュニジア人のサークルは現代フランス社会を構成する動態的な一部なのではなく,「中立的な」フランス主流社会,つまり「フランス的次元」の周辺に位置する,人種化された異質な外部と見られている。そうした人種化されたコミュニティへの帰属は,滞在国への統合を意味するものとは解されていないのである。」(p.300)
結局,EUの多民族/多文化共生は,EUの中心性を認めた上での共生にすぎないと,阿部は厳しく批判する。
「欧州の現実に表出しているように,多民族/多文化共生にかかわる「北」の法言説は,「南」からの人の移動を統制し消去しようとする力学と対になって構成されている。「北」は常に,中心にあって安全でなくてはならない。「共生」が許されるのはその限りにおいてである。安全を脅かす異質な存在は,「北」の構成員性を認められないだけでなく,(外周)国境上で拒絶の対象になり,さらに家族がいようとも,「北」の領域から放遂される。その営みを人権の論理が擁護してきたのは皮肉というほかない。」(p.302)
■4
たしかに,阿部の批判するとおり,EUの多民族・多文化共生は,EU中心主義の枠内のものであろう。そして,他民族・他文化は,EUにより抑圧・搾取されてもいるであろう。それは,その通りだ。
しかし,それではどうすればよいのか? EUや国家は,国境(国籍)管理を放棄してしまう,つまり人々の移動を完全自由化してしまうべきだろうか? 人権の普遍性を徹底すべきだとすれば,おそらくそうなるであろう。
しかし,それで人権や文化が果たして守られるであろうか? 多民族・多文化が花開き,平和共存できるのであろうか? 私の見るところ,そのようなバラ色のユートピアは実現しそうにない。
複数の人間,複数の民族・文化が存在するところ,共存のための一定の枠組みが必要であり,それを保障するのが政治権力である。人権や文化もその枠組みの中で権力(暴力)により守られている。このパラドックスを見つめない国家批判は,十分な説得力を持ち得ない。
近代的人権は,普遍性を主張したからこそ,ブルジョアの枠を超え「国民」に広がり,そして,いま「北」の枠を超え,「南」にも広がりつつある。しかし一方,人はそのアイデンティティにおいて尊重されるべきだという考え方,つまり集団の人権,文化への権利も認められるようになった。普遍的人権と個別的文化への権利をともに守る政治的枠組みとしては,何が最も有効であり現実的なのであろうか? また,政治統合は,フランス共和制モデルとアングロサクソン(多文化主義)型のいずれが望ましいのであろうか?
近代は,国民国家に文化的統一と人権保障の機能をほぼ独占的に担わせようとした。しかし,グローバル化の下で,それはもはや無理となった。国家の現有機能のうち国家以外のものに委譲する方がよい部分は,超国家的国際機関や国内諸機関に委譲すべきであろう。しかし,そのように権限委譲しても,現在の国家の多くは適切な政治的枠組みとして残り,人権や文化の保障機能の重要な部分を担っていくにちがいない。
将来,地域政府―国家政府―国際的地域政府―地球政府といった段階的政治統合が実現しても,やはり普遍的人権と個別的文化の対立は残るだろう。文化は本質的に特殊的なものであり,守るためには,多かれ少なかれ他から区別された自らの社会を必要とする。その根本的事実を無視し,人権の普遍性だけを唱えても非現実的だし,またもしかりに地球政府による人権の一元的保障が可能になったとしても,そうすることは各人の多様な文化的アイデンティティを求める人類の幸福にとっては決して望ましいものではないであろう。
041211 ダイレクの反マオイスト蜂起
ネパリタイムズ(#223,224)によれば,11月末頃から,反マオイスト蜂起がダイレクを中心に拡大している。紙面には,多くの人々(約5千人)がドルーの広場に集まり,抗議集会を開いている写真が掲載されている。
このドルー集会は,母親を中心とする女性たちが自発的に始めたもので,「マオイズム打倒!」「プラチャンダ打倒!」を叫び,男性も加わり,勢いを増しているという。
女性たちは,マオイストの金銭や食料要求,とくに1家族1名の徴兵要求に怒り,立ち上がった。男子でも女子でも,とにかく1家族1名を人民解放軍に参加させよという要求にたまりかね,母親たちは「私を殺すなら殺せ! が,息子や娘は渡さない」と声を上げ始めたのだ。
引き金はいくつかあった。マオイストが無理矢理「ドルー人民政府」代表にしたラジュ・バジラチャルヤが,11月初旬,治安部隊に殺された。治安部隊が引き上げた後,マオイストがその遺体にマオイスト旗を掛けようとしたとき,遺族が怒り,マオイストを殴り倒した。また,マオイストはティハールを禁止し,少年少女を真性マオイストになるよう強制した。一方,サレリではマオイストに反対人々が殺されたり連行されたりしたので,約1200人がダイレク・バザールに逃げてきていた。
ダイレク蜂起は,こうして発生したようだ。これに対し,政府は全面支援を表明し,マオイストは波及を恐れ,ダイレク事件を謝罪し,調査委員会を設置した。
たしかに,このところマオイストに不利な情報が増えた。東部やタライの内部対立・分裂,幹部の相次ぐ逮捕など。また,国軍のデパック・グルン大佐によると,2003年8月27日以降の戦死者数は,国軍304名に対し,マオイスト2768名だという(KOL,Dec8)。
報道で見る限り,マオイストは内部対立が激化し,国軍に圧倒され,民衆にも抵抗され,退潮に向かい始めたように見える。しかし,情勢判断は,慎重を要する。たしかに内部対立はあるだろうが,まだまだ統制はとれている。プラチャンダ氏とバッタライ氏の対立が公然化するようでないと,本格的分裂とはいえないだろう。また,マオイストの死者が国軍の10倍というのも信用できない。真性マオイスト以外の一般住民も多数含まれているのではないか?
そして,ダイレク蜂起も,たしかに住民は怒り,立ち上がったのであろうが,政府が宣伝するほど自発的かどうかは即断できない。ジャーナリストたちは,国軍に連れて行ってもらっているのだ。
モシン情報相は,国王代表であり事実上の首相といわれている。デウバ氏は名目首相。もし情報相の強力な情報統制が始まっているとするなら,ネパール報道はこれまで以上に慎重な分析を要する。1989−90年の民主化運動ですら,当時の「ライジング・ネパール」は何一つ伝えなかったのだから。
041207 バス乱射で2人死亡,負傷多数
12月5日(日)夕方,バルディア郡のマヘンドラ・ハイウェイを走行中の旅客バスに向け,マオイストらしき集団がジャングルから銃撃,乗客のうち2名死亡,負傷者多数。被害から見て,無差別乱射であろう。
同日,バンケでも旅客バスが銃撃され,2人が負傷した。
日没後,車両の識別は難しい。誰が撃たれるか分からない状態。これは怖い。
041204 人道介入無用論
久しぶりに真面目なカタイ本を読んでいたら,人道介入無用論が紹介されていた。このページの読者には援助関係者が多いので怖いのだが,正直に告白すると,人道介入・人道援助無用論にほとんど納得させられてしまった。
磯村早苗・山田康博(編)『グローバル時代の平和学2』法律文化社,2004年
第4章 人道的介入――“第二のルワンダ”にどう対応するのか(饗庭和彦)
●人道的介入否定論
(1)構造主義論
新自由主義政治経済による中心と周縁の非対称構造を前提に,中心(普遍)のために介入するのは,周縁側にとっては,破壊的意味を持つ。北側の人道的介入は北側のマッチポンプ(武者小路公秀)。
川上で,Xが毒を流す→→→川下で,Yが毒水をZに飲ませようとする。それを阻止するために,Xが介入し,Zを助ける
人道的介入とは,このXの行為のようなもの(最上敏樹)。この考え方からすれば,人道的介入は,北側による新たな植民地主義にすぎない。
(2)濫用警戒論
人道的介入は,介入に口実を与え,権力濫用となり,大国の覇権主義的武力行使をもたらすことになる。自衛権が濫用されているのと同じこと。
(3)戦争のパラドックス論
他国の紛争に介入すると,かえって紛争を悪化させる。介入しなければ,いずれかの勢力の勝利か,両方の疲弊,妥協で,紛争は介入する場合よりも早く,犠牲も少なく終わる。ソマリアもの場合も,アメリカが介入したため悪化し,結局,アメリカは撤退した。現地の自律性に任せるのがよい。
(4)錯誤認識論
人道危機の発生という認識自体が錯誤。ソマリアもコソボも,故意か錯誤により「人道危機」と伝えられた可能性がある。もし「人道危機」が錯誤か故意による「ウソ」なら,他の方法による解決の方が適切となる。
――いちいちもっともだ。とくに戦争パラドックス論は,耳が痛い。外国が介入しなければ,政府かマオイストのいずれかが勝ち,平和が実現する。あるいは,戦い疲れて妥協がなり,平和再建となる。
また,構造主義論も,おそらくはその通りだろう。恩着せがましく援助なんかしているが,要するに,先進国がもっと搾取するためでしょ,といわれたら,返す言葉がない。
それでも人道介入・人道援助をするのか? 「困っている人がいたら助けるべきだ」というのも,たしかに正論だ。だから難しい。誰が悪いのか知らないが,悩ましい問題だ。
041204b
HP&メールアドレス訂正
私のHPとメールのアドレスが,以前のものになっていました。正しくは,ここに表示されているアドレスです。
ドリームネットは,以前は,速くて安いので契約したのに,OCN(NTTコミュニケーションズ)に買収されたとたん,エロサイトまがいになってしまった。おかげで,ドリームネットのメール・アドレスへもHメールが山ほど来るようになった。
NTTともあろうものが,けしからん! と抗議したが,もちろん金儲け第一,道徳的・良心的な一利用者の意見など聞くはずがない。
エロとカネほど強いものはない。ネパールもエロ・カネ化にはくれぐれもご用心いただきたい。
(補足)
ここでも,中心と周縁関係が見られる。
・OCN(本社,本国)=品行方正なHP。正義の味方HP
・ドリームネット(子会社,植民地)=周縁文化としてのエロと金儲け
しかし,OCNからはドリームネットにこっそりリンクされており,正義を唱えつつ利益を搾り取る構造になっている。実に興味深い。
041201 Road to War
ネパリ・タイムズ(#222)が,ラメスワ・ボハラ「戦争への道」という恐ろしいタイトルの記事を掲載している。
ボハラによれば,マオイストは最近,戦術を転換した。道路を木材などで閉鎖し,軍や警官をおびき出して,攻撃する。11月16,17日の2日間だけで,この作戦で19人が殺された。この種のHit-and-run 作戦は以前からやっていたが,最近はこれが中心になってきたという。
この道路封鎖作戦には木材の他,地雷も使用されている。政府は,インド製耐地雷装甲車を導入しているが,問題は一般車両。そのうち,インド特製装甲観光バスが運行されるかも知れない。
政府の軍備増強,現場即殺害作戦,ネパール版治安維持法TADAなどにより,マオイストは劣勢になってきたとも,内部対立・分裂が始まったともいわれている。
たしかにその傾向は見られるが,それが一般庶民や外国人旅行者にとって事態の好転かというと,決してそうではない。
そもそも,マオイストが大部隊で政府軍を正面攻撃するといった作戦は,カッコよいが,時代錯誤の大艦巨砲主義で,ちょっと考えれば,その非効率・非現実性は明白だ。逆にいえば,庶民や外国人には,マオイストが準正規軍化し,正規戦をやってくれている限り,とばっちりはあっても,比較的安全だ。ところが,政府側がなりふり構わぬ強硬策を進めた結果,マオイストは本来のゲリラ戦に転換しつつある。
これは,非正規戦だから,庶民や外国人にとって,正規戦よりもはるかに恐ろしい。以前にも書いたが,いまの待ち伏せ作戦は,まだマオイストに余裕があり,標的を兵士や警官に限定している。しかし,もっと追いつめられたら,通常の対車両地雷や対人地雷を使用し始めるだろう。
そんな地獄をみる前に,何とか和平の方向へ転換してほしい。議会政党が協力すれば,不可能ではない。破綻国家寸前なのに,なぜ協力できないのか,不思議でならない。
041127 ランタンの水商売
今日の朝日新聞(11/27)に,「ネパール王国産ミネラルウォーター,Langtang ランタン500ml」のお詫び広告が出ていて,びっくりした。糸状の水カビが発生し,健康への悪影響は無いものの,回収するとのこと。
ランタンの水がはるばる日本にまで輸入されていたとは,全く知らなかった。(輸入)三井物産,(販売)クロレラ工業だから,本物だろうが,どうやって運んでくるのだろう? 空路,それとも陸+海? どちらも大変な運賃だ。
日本は金持ちだから,霊山ヒマラヤの霊水を飲み,霊山国民の2倍の長寿を楽しむのはよいが,だったら水カビ(ひょっとしたら長寿の秘薬かも知れない)位,目をつむって飲むくらいの信心はあってもよいだろう。「水カビ」がお気に召さないのなら,「ヒマラヤ酵素」とか何とか命名すれば何の問題もない。
そもそも成金二世的ワガママがすぎる。ありがたい霊山水をバカ高い運賃で輸入しておきながら,得体の知れない「ありがたさ」を除去し,清潔無害にしようとする。だったら,霊山水をフィルターにかけ,煮沸・殺菌してから売るか,最初から水道水に「ヒマラヤ霊山水」と命名して売ればよい。
ランタン水は無尽蔵,原価ゼロだから,日本は大いに輸入したらよい。ただし,空港近辺や道路沿いは近代文明に毒されてしまっているので,奥地の方がありがたい。たとえば,ランタンではなくムスタン。石頭視聴者に袋だたきにあったNHK「ムスタン王国」に感動的に描かれていたような高山の難路を人力で延々と運ばれてきた「ムスタン王国・霊山水」なら,国産栄養ドリンクの何倍もの効力があろう。
霊水を,清潔・無害,お手軽に飲み,不死の霊験をえたい,という近代人の切なる願いは分からないではないが,それは所詮無理な話だ。水商売はもともと夢を売るもの。霊水は,不合理,不潔ゆえに,ありがたい。それを信じて飲めないのなら,最初から水商売のお店には入らない方がよい。あとから,ボラれた,ダマされたと騒ぐのは,野暮というものだ。
041123 政治学者,銃殺
トリブバン大学ポカラ校の政治学者インドラ・B・アチャルヤ氏が,11月19日午前10時20分,湖畔の自宅前でマオイストに銃で撃たれ死亡した。間接的だが,知っている人であり,ショックだ。
マオイスト第9旅団のラシュミ旅団長が,大学教員殺害への非難の高まりを受け,これは意図的ではなく人違いだったと釈明したが,3日前から尾行し,至近距離から3発も頭に撃ち込んでいるから,人違いであるはずがない。
彼は政治学者として反マオイスト的発言をしたのか? それとも,軍との関係を疑われたのか?
ネパールでは,紛争の近代化に成功し思想闘争になっているから,アチャルヤ氏も頭の中に弾を撃ち込まれたのだろうが,頭の中は外からは見えないので困る。
国軍は人民の頭の中にマオイストをみて殺し,マオイストは政府スパイをみて殺す。犠牲者の何人が,本物の敵だったのだろうか? (Nepalnews.com, Nov.19&21)
041122 会報かHPか
このHP(ホームページ)を立ち上げた頃,ネパール協会のような貧乏団体には会報の印刷・郵送の継続は無理で,いずれはHPに移行せざるをえないと熱く議論されたものだ。少々,時期尚早で議論は尻すぼみになったが,そろそろ考えてもよい段階になった。
(A)HP版会報のために
▼コスト
雲泥の差。HP版であれば,印刷・郵送費はゼロ。たとえ自分で印刷するにしても,1頁あたり,用紙1円,インク代2円で,計3円位。印刷版とは比較にならない。
▼速さ
カメと光。たとえば,目次をいくつか設定しておいて,そこに執筆担当者が直接記載するようにすれば,時間差ゼロ。世界同時。こんなスゴイことは,パピルス会報には出来ない。編集・印刷遅れで発送が遅れたなどということも,古き良き時代の懐かしい思い出となろう。
▼自由
印刷版は高コストでスペースが限られているが,HP版会報になれば,いくらでもスペースを増やし,カラー写真や動画,音楽も自由に組み込めるし,いずれモモの香りなども伝えられるようになるだろう。
●結論
ローテク・ハイコスト印刷版会報は,廃止した方がよい。印刷版希望者には印刷・郵送料負担で,個別に郵送すれば,何ら問題はない。
(B)印刷版会報のために
▼著作権
HP版になると,著作権は形式的には残っても,実質的には存在しない。それで,まともな原稿が集まるはずはなく,会報の質が落ちる。2チャンネル会報。
▼編集
編集委員会が全体に目を通し,調整・訂正してHPに載せるのであれば,印刷版と時間的に大差なく,著作権を失うだけ。全く無意味。
逆に,編集なしに著者に直接記載してもらうと,会報の質が落ちることは避けられない。出版物は,独立した編集者が責任を持って編集するから品位,品格が保たれる。
●結論
もし会報の品位,品格を重視するのであれば,高コストで多少発行時期が前後するようなことがあっても,当分は印刷版会報を継続すべきだ。
印刷版の生命は,人間臭さ,ローテク性にある。編集者が著者と交渉し,あれこれ意見を交換し,ときには怒られたり怒ったりし,作り上げていくもの――それがローテク高品位の印刷版会報だ。
印刷版会報の本質は,近代合理性ではなく,パピルス以来の前近代的人間性にある。近代合理主義神学にとりつかれ,速さ,時間厳守(もちろん近代的時間)のワナに絡め取られたら,印刷版会報は,ハイテクHP版の敵ではない。そんな印刷版会報なら,即刻,廃刊すべきだ。
(注)議論を面白くするため,アクセス制限付きHP版の議論は割愛。
041116b ヒマラヤ革命区
マオイストが地下に潜り始めた。比喩ではなく,本当に地下トンネルを掘り,潜伏するらしい。そして,カシミール=ネパール=ブータン=アッサムを「ヒマラヤ革命区」とし,南アジアのマオイスト諸派と連帯して,「米帝国主義」「印膨張主義」と対決するという。
すでに,ブータンにはマオイスト政党が設立され,バングラデッシュ西部ではマオイスト活動が活発化し,もともと強力なインドのマオイスト諸党との共闘強化が図られている。
彼らの希望の星は,もちろんネパール・マオイスト。米帝の軍事援助とTADO利用でマオイスト弾圧がさらに強化されれば,ヒマラヤ山麓を貫通する大地下トンネルができ,「南ア・マオイスト共闘」が組織化されるかも知れない。
地下潜行と国際連帯は,弾圧された反体制派の常套手段。アメリカは,地下基地破壊のための小型核を開発中だ。見せしめのために,まずネパールで一発,とならないことを祈っている。
(Cf.
P. Gautam, Tunnel Vision, Nepali Times, No.220)
041116a もしガンジーなら
「よろしくない」とすれば,どう対処するかが問題でしょうね。ガンジーのように非暴力で対決するか,それとも別の方法を工夫するか?
一ついえることは,もしガンジーなら,まず自分の生命を賭して国軍による大虐殺を止めさせただろう,ということです。
ネパールにも日本にも,両派の暴力に抗議して,ガンジー式断食をする人はいない。ガンジーの勇気と覚悟なくして,非暴力をいっても,無力です。
041114 軍拡にはODA停止も
ネパール内戦は,判明しているだけでも死者1万人を上回り,いまも週23人の割合で増加している。繁盛しているのは戦争産業ばかりだ。
▼政府兵力(RNA,AFP,警察) 138,000人
▼人民解放軍 約10万人
師団3,旅団9,大隊29,民兵(約10万)
国軍は15万人構想を持ち,軍備増強を進めてきた。警察を武装強化し準軍隊化すれば,すでに14万人。目標に近い。内戦以前は,同規模の途上国と比べ,はるかに軽武装であった。それが,いまや堂々たる軍事国家。国営戦争産業の近代化,急成長には驚かされる。
一方,人民解放軍は,実態がよく分からないが,民兵も入れると10万人位らしい。本当だとすると,これも堂々たる大軍事力。
ネパールは,日本の1/3の国土,1/4の人口,1/100〜200のGDP(一人当り)だが,軍事開発だけは大成功し,戦争産業が繁盛している。この近代化,効率化の情熱と能力が生活産業に振り向けられるとよいのだが,こちらはあまり儲からないとみえ,乗り気ではない。
これはもちろん米帝国主義(いまや左翼だけでなく識者から右翼まで好んで使用)の下請けである。 J・F・モリアーティ大使は「わが政府は現時点での和平仲介には賛成できない」(10/3)と述べ,軍事作戦優先を再確認した。
インド,中国も,それぞれの思惑から,国際的和平仲介に反対。
対照的に,EU,特にスイスやノルウェーは和平仲介に積極的だ。国連のアナン事務総長も,繰り返し仲介を申し出ている。
さて,わが日本はどうか? 不思議なことに,日本はネパール報道には全く出てこない。日本政府が地道な平和構築努力をしていることは一部には知られているが,まさに一部であり,一般には全く知られていない。
では,日本に何が出来るか? そろそろODAの停止を考えてもよいのではないか。ネパールの軍国主義化は明白なので,それをやめない限り,ODAは停止する。平和愛好国・日本にとって,当然の要求だ。
ODA停止には,もちろん反対があるだろう。それは,カーペット輸入禁止と同種の問題だ。輸入禁止にすれば,結局,働かされている子供たちが困るだけだ,と批判された。それでも,いくつかの国(たしかドイツなど)は,断固,輸入禁止を貫いた。
軍拡をやめなければ,ODAを停止する。これは検討されてよい選択肢だ。
(Cf. Dev Raj Dahal, Nepal: Conflict Dynamics and Choices for Peace, Oct. 2004, Friedrich Ebert Stiftung)
041123 Re: 質問です
>@11・14付“日本政府が地道な平和構築努力・・・・
外務省は数年前から平和構築(peace building)支援を重視し,たしかネパールについてもどこかの大学(東京外大?)の研究援助をしていたはずです(文部科学省かも知れませんが)。外務省HPに報告書が出ているかも知れません。
>A11・16付“マオイスト政党がブータンで設立・・・・
これは,Dev Raj Dahal氏の報告書が出所です。ダハール氏は最も優れた政治学書の一人で,その調査報告は十分信頼できます。FESかDev Raj Dahalで検索すると,HP上に公開されている多数の論文を読むことが出来ます。
041111 内戦再開,スンダーラ爆破
停戦(10/20-28)は和平へ向かわなかった。報道で見る限り,まず政府軍が本格攻撃再開,これにマオイストが反撃,そして再び報復合戦となった。
11月9日,カトマンズのど真ん中,スンダーラで新築中の政府ビルが爆破。午後2時半のことで,歩行者,店員,建設業者ら38人負傷,タクシー,テンプ,バイクも被害を受けた。
同日午後4時,バクタプルの役所も爆破,2人負傷。
人心も都心も荒廃していく。(Nepalnews.com,KOL,Nov.9)
041109 人を殺してよいとき
残念ながら,人間社会では,人を殺してよい場合,殺すべき場合があります。問題は,正当か否かだけです。
ガンジーは,受動態で巧みに論点を回避していますが,事実上,同じことを言っています。
ガンジーにおいて,真理(satya)は生命に優先する。真理のためなら,人は何万,何億といえども殺されるべきだ。これが,彼の思想です。
041107 先進国の原罪
マオイスト・シンパだけでなく一般庶民の中にも,ビンラディン氏に共感する人がいることは容易に想像できます。先日,学生にアフリカ旅行の写真を見せてもらったら,ごく普通の家にビンラディン氏の肖像が飾ってあった。
私自身にも,いまでもトラウマになっている原体験があります。十数年前親しい友人の家に行ったら,ポスターが貼ってあった。日本人は鳥の姿をした吸血鬼として描かれ,ネパールの内臓をついばんでいる。
これはショックだった。いくら日ネ友好といっても,これだけ格差があれば,そうみられても仕方ない。これは日本人の原罪として引き受けるしかない――そう観念して,今に至っています。
041105 マスコミのブッシュ再選批判
再選を果たしたブッシュ大統領にネパール国王とデウバ首相は祝意を表明したが,マスコミは総じて冷淡ないし批判的だ。
親ブッシュのアナンダ・アディチャ氏は,「ブッシュの強硬策なくしてサダムとタリバンへの勝利はなかっただろう」と述べ,ブッシュの反テロ戦争を評価しているが,これは少数派。(Akhil Tripathi, Nov.2, in Nepalnews.com, Nov.4)
反ブッシュ派は,クンダ・デクジット氏(Nepali Times),アキレシュ・ウパダヤ氏(Nation)など,多数。ウパダヤ氏によれば,「ブッシュ大統領の下でアメリカは道徳的優位を大きく毀損した」(ibid)。
カトマンズ・ポスト社説(11/4)は,もっと厳しい。「世界中の反ブッシュには当然の理由がある。世界の指導者として失格であり,多くの場合,弱い者いじめの無頼漢のように行動した。傲慢で,意固地な単独行動主義者だ。」
批判というより罵倒に近い。そして,悪政の具体例を列挙したあとで,こう言い放つ。――もし,こうした政策を根本的に改めないのなら,われわれは「2008年のヒラリー・クリントンに希望を託すのみだ」。
これが,ネパールを代表する英字紙,ネパールのニューヨーク・タイムズといってもよいカトマンズ・ポストの社説だ。さっそく国務省筋あたりが抗議しているかもしれない。それとも,無視かな?
041103 イラク人質続発,ネ日の対応への不安
11月1日,ネパール人がまた人質になった。バグダッドのサウジ系企業SATCCが襲撃され,米人,フィリピン人,イラク人ら5人と共に,ネパール人のYunush
Kawari氏が拉致されたのだ。SATCCは軍に食料を納めており,彼は食堂で働いていたようだ。
イラクでの人質は約160人,そのうち米人は12人で,3人が首を切られ殺された。ネパール人も同類とみられ,8月31日12人が惨殺されたことは周知の通り。
ネパール政府は先の人質殺害暴動の反省から,ただちに全力で救出にあたると声明を出したが,イラクとは国交もなく,小国のネパールには,事実上,何も出来ないのではないだろうか。もし不幸なことになれば,対イスラム感情がさらに屈折し悪化することが心配される。
もっと危ないのが,日本だ。人権派が政府責任を追求すればするほど,実は,政府はこれを絶好のチャンスと見ている。政府自身が正直に告白しているように,いまの日本には情報も救出能力もない。さっそくタカ派は,情報能力(つまりスパイや秘密機関)の強化や,自衛隊による邦人保護を唱え始めた。
いまサマワにいる自衛隊の派遣目的には,邦人保護は含まれていない。もしサマワ周辺で日本人が人質になっても(今回の日本人犠牲者もサマワに行く予定だった),自衛隊には何も出来ない。これに対し,日本世論は何というか? タカ派が「自衛隊を救出に出せ」とちょっと一言火をつければ,一億一心,日本世論は憲法も特措法も見向きもせず,自衛隊出動を合唱するだろう。
自衛隊撤退,そして交渉などというハト派の声など,「人質を見殺しにするのか!」とのタカの一声で,一瞬にして蹴散らされてしまうだろう。
人権派は,そんな状況をつくってしまったら,負けだ。イラク支援民間人を称賛したパウエル長官の高等戦術に人権派,良識派はたわいもなく丸め込まれてしまったが(No.3381,3388,3389参照),タカはハトより巧妙なことを忘れず,慎重に行動したい。ハトには,鋭いツメはないのだから。
(Nepalnews.com, KOL, Washingtonpost, Nov.2)
041105 人質解放
人質になっていたKawari氏が11月5日,解放された。
詳細はまだ不明だが,大事にならず,よかった。