2006/08/31

法の権威を損なう暫定憲法案

谷川昌幸(C)

暫定憲法案とはまた妙なものをつくったものだ。常識的には,「4月革命」は単なる政変にすぎないから,90年憲法の不都合な部分だけを停止し,必要最小限の暫定規定を作り,それにより暫定政府→制憲会議選挙→新憲法制定・新政府とすればよい。それなのに,75ページ,172か条にも及ぶ水ぶくれ暫定憲法案を作ってしまった。

1.拙速
暫定憲法起草委員会のLaxmi Aryal委員長は,任命直後,暫定憲法案起草には14日もかからないと公言していたという。あまりにも安易だ。だから,実際には68日かけて作文してもアナだらけ。どうしようもない。

2.権利の出血バーゲン
7党とマオイストが対立している部分はすべて両論併記か後回し。これではカッコがつかないので,大見得を張って権利の出血バーゲンセール。

 ☆選挙権 16歳以上
 ☆公務員 女性枠50%

バナナのたたき売りじゃあるまいし,年齢を引き下げればよいと言うものではない。古い伝統を持つ長老制のメリットについては考えもしなかったのかな。

また,女性50%枠は大いに結構なことだ。軍も役所も女性50%。そうなると,男は大量失業し,タイヤ焼きに励むことになるだろう。あるいは,海外出稼ぎでムコ不足になるかもしれない。

3.法の権威の失墜
少し手直しすれば十分に使える立派な90年憲法を足蹴にして,こんな拙速暫定憲法案を作って何の役に立つのだろう。

最大の懸念は,法の権威の失墜,遵法精神の喪失だ。イエーリング『権利のための闘争』を読めば,法(=権利)は生命を賭しても守らねばならないという強固な遵法精神こそが,社会を根底から支える基礎だ。

いまのネパールは,ヒンズー教的遵法精神の遺産で食いつないでいる。この前近代的ダルマから近代法への転換を慎重にやらないと,遵法精神が崩壊し,アナーキーとなってしまうだろう。

* 「権威」については,なだ・いなだ『権威と権力』(岩波新書)参照。
* イエーリング『権利のための闘争』岩波文庫
* Purbbasi Chhetr, "Interim Draft Constitution-2063: A Solution Or A Problem?," Rising Nepal, Aug.30.

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2006/08/30

新植民地主義とネパール

谷川昌幸(C)

民主化を広義の文明化と言い換えるとするなら,ネパール民主化は,ネパールがグローバル化時代の新植民地主義に組み込まれ始めていることを意味するだろう。

この問題を考えるのに参考になるのが,西川氏の新著である。

西川長夫『<新>植民地主義論:グローバル化時代の植民地主義を問う』平凡社,2006

1.文明化と植民地化
周知のように,「暗黒の中世社会」を克服した西洋文明にとって,次の目標は,他の非文明世界にもあまねく光明を及ぼし文明化することであった。これは善意であったかもしれないが,まさにこの「文明化の使命」(p.11)こそが植民地主義のイデオロギーにほかならなかった。

2.文明化=国民化と国内植民地化
この文明化は,西川氏によれば,対外的だけでなく,一国内でも働き,地方を「国内植民地」とする。

「植民地主義は,単に主権のおよぶ領土の拡大や支配下にある土地や住民からの収奪に止まることなく,植民地主義の内面化をはかり,また内面化された植民地主義によって支えられているのである。・・・・ 少なくとも国民化とは「文明化」と「同化」であったのだから。町から来た教師に「方言」を禁止されて「国語」を学ぶ地方の小学生と,他国から来た教師に「母国語」を禁止されて「日本語」を学ぶ植民地の小学生のあいだに,どれほどの違いがあるだろうか。女性は「最後の植民地」という言い方を借りるなら,国民は広大な「最初の植民地」であった。」(p・25-26)

これはキツイ批判だ。たとえば,ネパールで活動する日本人ボランティアは,教育支援でネパール国家全体の植民地化に加担するだけでなく,ネパール国内の植民地化にも力を貸し,ジェンダー問題に取り組むことで女性植民地化にさえ加担することになる。

3.第二の植民地主義としてのグローバル化
この文明化を第一の植民地化とすると,グローバル化は第二の植民地化だという。 

「植民地主義は「文明化の使命」という口実のもとに進められた。「文明化」は植民地主義のイデオロギーである。グローバリゼーションがもし第二の植民地主義を意味するものであれば,その新たな植民地はどのような形態をとるのであろうか。世界の周辺部の大半を占める旧植民地が再び搾取の対象となっていることは否定できない。だが新しい植民地主義は,特定の領土を限定して政治的軍事的に統治する必要はない。戦争がくりかえされた移民と難民の世紀のあとで,情報が一瞬にして世界の隅々にまで達し労働力の移動が日営的となったいま,植民地は世界の到る所に,旧宗主国や覇権国の内部においても形成されうるからである。新しい植民地の境界を示しているのは,もはや領土や国境ではなく,政治的経済的な構造の中での位置である。」(p.11)

この新しい植民地主義は,領土の占領や入植を必要とせず,組織やコミュニケーションを通して人々を植民地化する。それは「植民地なき植民地主義」(p.50)なのである。

4.多文化主義の欺瞞
同じく,グローバル化と並行して唱えられるようになった多文化主義についても,西川氏はその問題点を厳しく批判している。

「国是あるいは政策,したがって政治のレベルにおける多文化主義は,最初の多文化主義宣言とも言うべき,1971年の連邦議会におけるカナダの首相トルドーの演説や,オーストラリアの「多文化国家オーストラリアのための全国計画」(1989年)に明記されているように、広大な移民国家(旧大英帝国の植民地)の住民(国民)のアイデンティティ(ナショナル・アイデンティティ)の安定と活性化を図り,危機に瀕した国民統合の強化を図ることを主要な目標としていた。」(p.165)

「また多文化主義の対象であり多文化主義にとって最も気がかりな存在である先住民族は,多文化主義について最も批判的なまなざしをもっている。じっさい自分たちの土地を侵略し,生命を奪い生活を破壊してきた移民たちが,その罪を問われようとしているいまになって多文化主義と共生をとなえ,自己の存在を正当化しているのだ。」(p。167)

5.文明化の最終局面としてのグローバル化
そのような多文化主義の興隆をともないつつ進行しているグローバル化は,実は,文明化の最後の局面だという。

「文明化(=文明civilisation)とは,大航海時代以来の西欧的な最高の価値を示す用語であり,西欧の発展と植民地主義,すなわち西欧の膨張を支える最大のイデオロギーであった。文明化の「最終局面」という言葉で私が言おうとしていたのは,文明化のイデオロギーはこの段階に至って最も強い露骨な形をとるであろうが(・・・・),しかしそれは同時に支配的であった西欧的価値観が崩壊し,支配的な力を失って他の新しい価値観(それを非西欧的価値,ローカルなあるいはグローバルな価値と言うかは別として)にとって代わられる過程をも意味しており,そして現にその徴候は,世界のいたるところに(西欧をも含めて――西欧の脱西欧化)現われている,ということであった。したがってこの短い定義の試みには,グローバリゼーションが第二の植民地主義であると同時にその終焉に至るものであるという主張がこめられている。」(p.223-4)

ここでいわれている「他の新しい価値観」とは,具体的には,何だろうか?

ネパールはいままさに文明化,グローバル化に引き込まれ始めたところだ。その荒波に飲み込まれてしまうのではなく,この「他の新しい価値観」を探ることがネパールには出来ないであろうか? 

難しいことだが,後発者の優位ということもある,何とか「最終局面」に来てしまったグローバル化世界のために,知恵を貸してもらえないだろうか?

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2006/08/29

チベット石油とネパール

谷川昌幸(C)

Bhaskar Koirala氏が,ネパール・中国関係の強化を訴えている。ビレンドラ国王の「平和地帯(Zone of Peace)」を再評価し,外交的立場を強化し,国益を増進せよということらしい。この主張が以前と少し違うのは,実利の裏付けがありそうな点だ。

1.チベット石油
全く知らなかったが,チベットやその周辺にはかなりの石油・天然ガス資源があるらしい。中国が西方開発に熱心なのも,そのためという。コイララ氏はこの資源に期待している。

「ガスや石油類が安く買えるようになったら,すでにカネ亡者になっている(already cash-strapped)ネパール人が,こんなバカ高い代金を払い続けるわけがない。」

かつてヒマラヤは海底だったから,チベットから石油が出ても不思議ではない。ネパールからは出そうにないのが残念だが。

2.交易中継基地・観光開発
これは,伝統的な考え方だが,ネパールを中印交易の中継基地とし,稼ぐという目論見。

すでに道路建設が進み,鉄道も「青海チベット鉄道」が完成,これはネパール国境まで延伸の予定。物流だけでなく,観光面でも将来性は大だ。

チベット鉄道は連日満員御礼。これがネパール国境まで延び,ネパール側とうまく結びつけば,観光目玉になる。

3.光ファイバー
光ファイバーでカトマンズ=北京=香港を結ぶ計画が進んでいるそうだ。これにより通信の高速安定化が実現すれば,ネパール人はインド人と同じくIT能力は高いようなので,有望だ。

4.政治より商売
チベットから石油が出るかどうか分からないが,すでに中国,インドとも政治の季節は終わり,いまは金儲けに目が向いている。メシも食えぬイデオロギーよりも,まずは商売だ。

これはネパールにとってチャンス。政治を生業とするブラーマン,チェットリを養うだけの人民戦争,ゴムタイヤ焼きはほどほどにして,早く商売に目を向けた方がよい。

観光資源もIT技術も潜在的に豊富なのだから,その気になれば,第二のシンガポール,香港になるのも夢ではあるまい。

* Bhaskar Koirala, "The Promise Inherent in Nepal-China Relations," Nepalnews.com, Aug.28.

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2006/08/28

国王の財産隠し

谷川昌幸(C)

議会自然資源委員会が8月27日,国王投資の調査概要を明らかにした。それによると,国王はソルティーグループなど,18の会社,ホテルを所有しているが,最近それらを家族に分散移転させ,資産隠しに躍起という。議会側調査だから割り引くとしても,君主にあるまじき情けない話しだ。

王家所有地については,「世俗断念が王制の条件」参照 

1.王の家政と国政
ネパール王制は,ウェーバーのいう伝統的支配の中の家産制(Patrimonialismus)の要素をまだかなり色濃く残している。国王は,国家を自分の家産と考え,国政は王家の家政の拡大と考えてきたように思われる。

事実,これまで国王は公私の区別をしようとはせず,政治も経済もしばしば国王の非合理的介入を受けてきた。こうした伝統的家産制的支配においては,資本主義は発達しない。ウェーバーは,『支配の諸類型』において,こう述べている。

「これらすべての理由からして,通常の家産制的な権力の支配下においては,確かに, (a)商人資本主義,(b)租税賃貸借的,官職賃貸借的,官職売買的資本主義,(c)御用商人的,戦費調達的資本主義,(d)事情によっては,プランテーション的,植民地的資本主義,は土着的であり,またしばしば盛んな繁栄を遂げることがあるが,これに反して,司法・行政・課税の非合理性に対しては――それが計算可能性を攪乱するが故に――極度に敏感な・私的消費者の市場状況に志向した・固定資本と自由な労働の合理的組織化とを備えた営利企業は,根を下ろしえない。」(邦訳,p.63-64)

逆にいえば,資本主義にとって,伝統的支配や家産制は,その支配の非合理性・予測不能性の故に,発展の致命的な障害になるということである。

2.資本主義化の障害となったネパール王制
ネパールは1990年革命で自由民主主義を選択し,それ以後,都市部を中心に急速に資本主義化が進んだ。

その資本主義化から利益を得つつある人々にとって,伝統的家産制的支配に固執する国王は,邪魔になってきた。たとえば,王家の都合で,何の予告もなく,突然休日になることが,90年革命以降もしばしばあった。このような予測不能性,非合理性こそ,近代資本主義の最も嫌うところだ。

先の2006年4月革命は,資本主義化した新興都市有産階級と,資本主義化で没落しつつある地方農民との暗黙の共闘と考えてよいだろう。

この状況下で国王が王制の存続を図るには,資本主義化の邪魔にならないように自己の世俗的権力を全面的に放棄し,ナショナリズム感情に訴えるしかあるまい。同床異夢の7党とマオイストでは代表しきれない「国民」感情,それにすがるしか国王には道はなさそうだ。

* eKantipur, Aug.27
* M・ウェバー『支配の諸類型』世良晃志郎訳,創文社,1970

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2006/08/27

民主主義と自由主義:ムフを手掛かりに

谷川昌幸(C)

シャンタル・ムフは,名前が面白いだけでなく,本も小難しく面白い。「人民」観念の氷上でから滑りしているように見えるネパールの有識者の皆さんにも,ぜひ読んでいただきたい。

「民主主義の逆説」以文社,2006
 Chantal Mouffe, Democratic Paradox, 2000

ムフは,ウェストミンスター大学民主主義研究所教授。つまり,民主主義そのものを専門としている。その専門家中の専門家から見ると,民主主義にはどんな逆説があるというのだろうか? (以下,典拠明示以外の部分は,拙論。ムフ説の要約ではありません。)

1.二つの民主主義
民主主義は,少なくとも19世紀半ば頃までは下品で信用のならない軽蔑すべき思想と見られてきた。古代ギリシャでも,最善の政体は君主制であり,民主制は次善の実現可能な政体にすぎなかった。ネパール民主制原理主義者には想像もつかないだろうが,民主主義なんて,たかがその程度のものにすぎない。まずは幻想を捨てること。

ところが,産業革命による産業資本家階級,労働者階級の急成長により,その怪しげな民主主義が支持を拡大,19世紀後半には優位に立ち,20世紀にはいると,ほぼ思想的ヘゲモニーを確立した。「この紋所が目に入らぬか」と黄門様(アメリカ)が民主主義印を示せば,「恐れ入りました」とみな頭を下げざるを得なくなった。

しかし,アメリカ黄門様に待ったをかけるもう一人の黄門様がいた。ソ連だ。アメリカ民主主義はニセモノ,本物は社会主義であり,自分たちこそが民主主義の本家だと主張した。こうして両国は,核兵器を振りかざし,MAD幻想にとりつかれ,人類絶滅を賭けてつばぜり合いの真剣勝負を挑んだ。

忘れてはならない。人類絶滅を賭しても勝利しようとしたのは,民主主義者であって,断じて君主制論者や貴族制論者ではなかった。

2.アメリカ自由民主主義の勝利
この2つの民主主義の死闘に決着をつけたのは,ちゃっかり非民主主義的要素を取り入れていたずる賢いアメリカだ。

People's powerの理念からすれば,社会主義の方が明らかに純粋であり,民主主義的だ。そのかぎりでは,アメリカは理念的・思想的には社会主義には到底かなわない。ところが,アメリカ政治には非民主主義的諸要素が最初から巧妙に取り込まれていた。

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness. (The Declaration of Independence, 1776)

この独立宣言の生命,自由,幸福追求を天賦人権とする思想は,自由主義・個人主義であり,民主主義そのものではない。これはロックの自然権としてのpropertyを読み替えたものであり,要するにマクファーソンの言う「所有的個人主義」,つまり財産追求の自由を宣言したものに他ならない。アメリカ民主主義がソ連民主主義に勝利したのは,崇高な民主主義理念によってではなく,結局は,この個人主義的自由主義の理念,極言するなら人間の卑俗な獲得欲に迎合したその所有的個人主義によってであった。

こうして勝利した民主主義は,「自由民主主義(liberal democracy)」と呼ばれている。いまや,アメリカが自由民主主義の紋所を示せば,北朝鮮,キューバ,中東のいくつかの国などを除けば,みなが「恐れ入りました」と平伏せざるを得ない状況となっている。

3.ネパールにおける自由民主主義の勝利
ネパールでも,1990年革命により自由民主主義が勝利した。90年憲法の大原則は自由民主主義だったし,いま作成中の暫定憲法も2007年に制定予定の新憲法も,おそらく自由民主主義を原則とするだろう。

ネパール中がpeople's powerで燃えているのに,これはちょっと変だ。マオイストよ,もっと頑張らないと,アメリカのブルジョア民主主義のお先棒担ぎにされてしまうぞ。

4.自由主義と民主主義との永遠の闘争
自由民主主義に屈するマオイストの軟弱も情けないが,脳天気にpeople's powerを唱えている民主制原理主義者たちのいい加減さも見過ごせない。

民主主義は,元来,自由主義とは別の原理であり,両者は容易に結合できないし,また安易な結合は危険でもある。

これは,先駆的には17世紀のJ・ロックが警告していたし,本格的には,民主主義の優位がはっきりしてきた19世紀のトクヴィルやJ・S・ミルによって取り上げられ,徹底的に議論された。

だから,いまさらムフさんにお説教されるまでもないのだが,繰り返し警告されないと,つい忘れてしまい,people's powerが人権と問題なく両立するかのような甘い幻想に流されてしまうことになる。美しいサイレンの声に心奪われると,破滅だ。ムフはこう警告する。

「一方には,人権の擁護,個人的自由の尊重という法の支配による自由主義の伝統があり,他方には,平等,支配者と被支配者の一致,人民主権を主要な理念とする民主主義の伝統がある。・・・・これらふたつの異なる伝統には必然的な関連があるわけではなく,歴史的接合の偶発性によるものにすぎない。・・・・その結合はスムーズな過程であるどころか,痛烈な苦闘の結果であったことを忘れてはならない。」(p.7)

つまり,自由民主主義は,本来相容れない2原理の強引な結合であり,両者は永遠に闘技的(agonistic)な関係にある。私たちは,まずこの基本的事実の確認から出発しなければならない。

5.剃刀シュミットの民主主義論
ここでムフが参考にしているのが,剃刀のように切れ味の鋭いカール・シュミットの民主主義論である。

「シュミットは,個人中心の道徳的言説をともなう自由主義的個人主義と,本質的に政治的で,同質性にもとづく同一性を創出することを目指す民主主義理念とのあいだには,克服しがたい対立があると主張する。自由主義は民主主義を否定し,民主主義は自由主義をを否定する。」(p.62)

つまり,people's powerにおいて,人民は同質でなければならず,異質なものは絶滅させられる。これが,あくまでも民主主義の出発点だ。

このことは,民主主義帝国アメリカが,民主主義秩序に入らない人々を「テロリスト」と見なし,防衛的先制攻撃(何たる偽善!)で地上から抹殺しようとしているのを見てもよく分かる。

ネパール・マオイストも,民主主義を認めなければ,抹殺は免れない。むろん,マオイスト自身が権力を取り民主化を突き進めるなら,非マオイストが「人民」「民主主義」の名で抹殺されることになる。これこそが,剃刀シュミットが言うように,民主主義の本質なのだ。

6.自由主義の反民主性
これに対し,自由主義は素性の怪しい思想だ。「法の支配」も「権力分立」も起源は言わずとしれた中世封建思想。お手本のイギリス人の「自由」は「古来の自由」。いずれもpeople's power人民主権の断固たる拒否だ。

近代になって,万人の自然権,つまり人は人として生まれながらに生きる権利を有するという普遍的人権の思想が出てくるが,これまたpeople's powerの否定だ。

多数決によっても奪えない権利があるというのが人権思想であり,これは自由主義の核心。たとえば,主権者人民が圧倒的多数で決めても,自白強制など,やりたくてもやれないことがいくつもある。これほど反民主主義的なことはあるまい。自由主義は,人類=個人の立場から,国家=人民の民主主義を否定するのである。

7.自由主義と民主主義のあいだの闘技
ムフの考えによれば,自由民主主義は,この二つの原理のあいだの緊張を引き受け,相互を一つの競技場における競技の対抗者(adversaries)として認めなければならない。これが彼女の言う「闘技的民主主義(agonistic democracy)」である。

したがって,この緊張関係・対抗関係を取り除きうると考える合理主義的アプローチはすべて拒否される。ロールズの「よく秩序づけられた社会」,ギデンズの「第三の道」,ハーバーマスの「討議的民主主義」のいずれも,結局,不健全な「対抗者なき政治」をもたらすことになる。

「それ[第三の道]は,あらゆる利害が和解可能であり,あらゆる人々が『人民』を構成するふりをするのである。」(p.23)

「自由民主主義が正しく理解されるならば,そこでは権力関係がつねに問題化され,いかなる最終的な勝利もありえないのである。しかしながら,そうした『闘技的』民主主義では,政治には対立と分離が内在するものであって,『人民』の統一の十全な実現としての決定的な和解が達成されるような場が存在しないことを,私たちは受け入れなくはならない。」(p.24-25)

8.「人民」の危険性
昨今のネパールは,こんな議論とはおよそ無縁だ。知識人も政治家も,「人民」を代弁し,people's powerを大合唱している。「人民」を主張するには,非人民が不可欠なことなど,まるで頭にない。

幸か不幸か,これまでは国王が非人民として「人民」の構成を可能としてくれた。これから先,王制が廃止されれば,それと同時に「人民」も消散する。どうするつもりだろうか?

そうした場合,これまで世界各地で例外なくやられてきたことは,非人民(非国民)をでっち上げ,弾圧し,それにより「人民」を確認し,維持強化することであった。ネパールがこの悲劇を避けるには,people's powerの自己催眠から一刻も早く覚醒するしかない。

9.実践としての民主主義
それともう一つ確認しておくべきことは,人民が権力を取り,人民の意思通り法律をつくったからと言って,その法律が守られ,民主主義が実行されるわけではないということ。

それは,90年憲法の民主的諸条項がほとんど守られなかったことを見ても,あるいは日常生活のために作成された諸規則が多くの場合遵守されていない現状を見ても,すぐ理解されるであろう。peopple's powerで憲法をつくっても,まず絵に描いた餅,守られはしない。

「ウィトゲンシュタインにとって,『規則に従う』ことは一つの実践であり,規則についての私たちの理解はある技術の習得のうちにあるのである。一般的関係の語法は,したがって,間主観的な『実践』もしくは『慣習』として理解されることになり,それはチェスやテニスのようなゲームとさして変わらないのである。」(p.112)

「ウィトゲンシュタインにとって,規則とはつねに実践の要約であり,個々の生の形式から切り離すことはできない。・・・・こうした視座からみると,民主主義への忠誠とその諸制度の価値への信念は,それに知的基礎を与えることに依拠しているわけではないということになる。むしろそれは,ウィトゲンシュタインが,『あるひとつの座標系を情熱的に受け入れることにすぎないのではないか,と思われる。つまり信仰なのではあるのだが,ひとつの生き方,生の判断の仕方なのである』となぞらえるものの本性においてあるのである」(p.150)

「マイケル・オークショットが喚起するように,政治的諸制度の権威は合意の問題ではなく,公的なもののうちに刻印された諸状況に従う義務を認める市民の絶えざる承認の問題なのである。この思考にしたがうと,民主主義の諸制度への忠誠で真に問題になっているのは,民主主義的市民の創出を可能にする諸実践の総体の構成にあるということが理解できる。」(p.147)

10.人民主権の合理の上で空転
民主主義は,実体としての「人民」を想定し,そこから合理的に制度を作り出したからと言って機能するものではない。合理の氷上で空転するのみだ。

民主主義は,実践であり,エートスである。これはむろん合理的には説明し尽くせず,したがって非合理的な「摩擦」である。しかし――

「ウィトゲンシュタインは次のように言う。『われわれはなめらかな氷の上に迷い込んでいて,そこでは摩擦がなく,したがって諸条件がある意味では理想的なのだけれども,しかし,われわれはまさにそのために先へ進むことができない。われわれは先へ進みたいのだ。だから摩擦が必要なのだ。ザラザラとした大地へ戻れ!』。」(p.151)

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2006/08/26

暫定憲法案発表

谷川昌幸(C)

暫定憲法起草委員会(ICDC)LP.アリヤル委員長が,8月25日,暫定憲法案を,和平交渉の政府側代表KP.シタウラ内相とマオイスト側代表KB.マハラ氏に引き渡した。

暫定にもかかわらず,172か条に及ぶ長大な憲法案。さずが法=dharma=ブラーマンの国だ。

単なる作文か,多少とも実効性を期待しているのか? 憲法制定権力は「人民」とやらにあるらしいので,またまた,ゴムタイヤに火をつけ,立ち上る煙で占うことになりそうだ。

90年憲法ですら守れなかったのに,どうして最高度の政治的成熟を要する民主的憲法の運用ができるのか? 明治憲法,日本国憲法の長い成文憲法の歴史を持ちながら,9条(戦争放棄)も20条(政教分離)も守れない日本国の1市民としては,民主主義の実践(praxis)慣習なしでも立派な憲法規定を守る秘訣をぜひ教えて欲しいものだ。

暫定憲法案全文

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2006/08/24

天皇元首化vs王制廃止――対比の妙

谷川昌幸(C)

ネパール王制問題は,よそ事ながら,わがことのように切実に感じられる。というのも,次期首相と目される安倍氏が,8月22日,政権公約の骨子を表明し,憲法と教育基本法の改正を最優先課題と宣言したからだ(朝日新聞,8/23)。

1.憲法改正で日本軍を世界展開
ねらいはもちろん,憲法9条を改正し,自衛隊を国軍(皇軍)に格上げし,アメリカと協力してグローバル資本主義秩序を守ること。つまり,アメリカ軍を補完し日本国益を守るため,世界のどこにでも日本軍を展開できるようにすることである。

2.教育基本法改正で愛国心育成
そして,この目的(日本産軍官政複合体の利益)のための国民動員を可能にするのが,教育基本法改正だ。学校で愛国心が教え込まれ,その奥の院の御簾の奥にはもちろん天皇が鎮座している。いくら否定しても,本質的には「忠君愛国」の再来であることは明白だ。

アナクロと侮ってはならない。これはグローバル化日本の現状と重ね合わせると,極めて現実的な政策だ。

日本軍が本格的に海外展開すれば,必ず死傷者が出る。本人も家族も,そして国民も,「世界平和のため」では納得しない。祖国のために命を捧げ,靖国に祀られ,神となり,天皇陛下に頭を下げてもらう。この神話を生涯教育を通して復活させなければ,飽食のこの時代,誰も紛争地に行きはしない。人は,世界平和といった抽象的理念のために生命を捧げたりはしない。生命を捨てさせるには,自分の家族,郷里といった具体的な守るべき対象がいる。その自然な家族愛,郷土愛をかすめ取り,「国益」のため人々を戦わせ,大量に殺してきたのが,近代国家だ。

国家は家族や郷里と違い,人工的な,不自然な制度である。したがって,それを愛させるには,不自然な教育による教化・洗脳や,天皇,靖国神社といった壮大な「現代の神話」が不可欠なのだ。

安倍次期政権は,この国家神話・国家神道を,グローバル化世界で「生き残る」ために,憲法・教育基本法改正により,再興しようとしている。アナクロに見えて,アナクロではない。そこが怖い。

3.「日本人」意識で労働者分断
それともう一つ,この国家神道復活への企ては,国内のグローバル化対策でもある。グローバル競争に「生き残る」ため,労働条件が引き下げられ,日本は格差社会になった。日本=天皇へ向けた「愛国心」涵養により,まず,この格差の痛みを慰撫し,受容させること。祖国=天皇のためなら,喜んで労苦を引き受けよう。

そして,その労苦は「日本人」であることにより,さらに癒される。つまり,グローバル化により,今後,途上国から日本に大量の労働者が入ってくる。たとえば,フィリピン介護士の受け入れなど。企業も外国人労働者受け入れを声高に要求しており,この流れはもはや不可避だ。

こうした外国人労働者に対し,日本人は「日本人」であるということで優位に立ち,優越感を持ちうる。使用者側にとって,日本人労働者と外国人労働者が連帯し,共闘を始めたら一大事。それを防止するのが,「日本人」アイデンティティなのだ。分割統治せよ,ということ。ここでも国家神道復活は,アナクロであるどころか,極めて現実的な政策なのである。

4.途上国ネパールの共和制化
このように,先進国日本で天皇制(君主制)復活強化が図られているのとは逆に,後発途上国ネパールでは,王制から共和制への流れが加速している。これは興味深いコントラストだ。

ネパールの人々が日本のこの保守「反動」の動きを見たら,どう思うだろうか? 日本の遅れにビックリし,軽蔑するか? それとも,世界で最も国民統合の諸条件が整っている先進国日本が,あえていま天皇制復活を目指す理由を注意深く探ってみようとするのであろうか? 他の諸条件が異なるから単純な比較はできないが,現実政治的にも理論的にも面白い課題だ。(もちろん,日本人がネパール共和制論から君主制の持つ本来的危険性を学ぶことも可能だ。)

5.国王国家機関の宣言を
それにしても,ネパールでは王制存廃の瀬戸際に来ているのに,国王や王党派から何の発言もないのは,なぜだろう? もし彼らがダンマリを決め込み,裏で何かをたくらんでいるとすると,これは愚策だ。

以前から指摘しているように,もし国王が王制存続を望むのであれば,国王は世俗の権力や財産を全部断念し,象徴に徹することを自ら宣言するのが最善の策だ。

換言すれば,国王が自ら政教完全分離を宣言し,自分を儀式に専念する国家機関と宣言するのがよい。天皇機関説のネパール版,「国王機関説」だ。

あるいは,国民のアイドルとしての国王と言い換えてもよい。Idleだから,世俗の権力・財産をすべて放棄し,何もしない(idle)。そんな国家機関としてのアイドル国王になるという宣言。

6.人間の弱さと王制
むろん,そんなにまでして,なぜ王制を残す必要があるのか,という反論はありうる。それには,人間は元来不完全な弱いものであり。伝統的な神や国王を否定しても,新たな代替神,代替国王をでっち上げ,歴史に徴するに,大抵後者の方が前者の何倍も危険であった,とだけ答えておこう。

いずれにせよ,民主化は現代の宿命。ネパール国王も,民主化に適応しなければ,生き残れない。このままでは,王制に未来はない。

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2006/08/22

ゴムタイヤの変な教訓,UWB

谷川昌幸(C)

昨日,UWBを誉めたが,21日付記事をみると,支離滅裂。

ゴムタイヤ政治の教訓について――
A colleague this afternoon asked, “What does this protest symbolizes?” I answered: “Anyone trying to save the monarchy in future will face the same kind of wrath and that force will be demolished by the people.”

また,マハト蔵相について――
It [state exchequer] belongs to Nepali people and if people decide not to hike price, he [Mahat] should obey that and reduce the tax on fuel import.

それは違うだろう。19日付記事は,そんなことは書いてなかったはずだ。記事の趣旨を私なりに言い換えるなら,元首がギャネンドラ,コイララ,プラチャンダのいずれであろうと,原油高にかわりはなく,したがって問題は放置できないということ。また,選択肢も示さず,人民の意思を問うことは出来ないということ。19日記事は,これをいいたかったはずだ。

それなのに,この記事はいったいなんだ。共和制,石油価格据え置き――どちらも,それ自体は立派な選択肢である。問題は,ゴムタイヤ=人民の意思とする,その短絡思考にある。19日付UWBはそこを鋭く突いたはずだ。それなのに・・・・

まさかゴーストライターではないんでしょうね。もしかりにそうだとしたら,ちゃんと監督していないと,信用を失いますよ。

*Dinesh Wagle, "Fuel Price Protest Lesson: Monarchy in Nepal Should Be Abolished," UWB, Aug.21.

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2006/08/21

値上げ撤回と人民の責任無能力

谷川昌幸(C)

人民のネパール政府は,8月20日,石油類値上げ決定(18日)を撤回した。人民と政府の統治無能力がまたまた露呈した。

1.最低限の合理性もない
むろん,私は値上げせよと行っているのではない。めでたく民主主義になったのだから,政府は石油価格決定の基本的仕組みを分かりやすく説明し,諸政党や「市民社会」は,その基本的事実を踏まえた上で,価格をどうするかを議論する。たとえば,逆鞘補填の激増にどこまで耐えられるか,地続きのインドとの価格差をこのまま放置できるか等々。そんなこともせず,ゴムタイヤを焼いて価格決定することの不合理は,サルにでも分かる。

2.成熟を示したUWB
このゴムタイヤ政治の愚劣に気づいたのは,なんと,あの過激派UWBだ。6月頃から論調は変化していたが,19日付記事で責任あるジャーナリズムへの見事な成熟を示した。ディネシュ・ワグレ氏は,ゴムタイヤ政治をこう痛烈に批判する。

The decision, very painful but necessary, was taken yesterday by the government and now, after seeing the protest, all sides want to run away from the protest target.

そう,people's powerがゴムタイヤに火をつけると,誰も責任を取ろうとはせず,逃げ出してしまう。こんなものは,断じて民主主義ではない。

ワグレ氏は,問題を直視し,こう問いかける。

Yes, the extreme decision would be to take back yesterday’s decision of raising the price and reduce the price by as much as 50 percent. That means the state has to subsidize on the petroleum products. But would such decision be sustainable? No. Then what is the option? Should we leave this issue to the election of Constituent Assembly saying that CA would decide on this?!!? I would not be kidding to think like that given the current situation in the country. But the must plausible option would be that all parties should come together and collectively decide. If no one wants to hike the price for the shake of politics, okay, cut the defense or even development budget and subsidize on the petroleum products.

これこそ,本物のジャーナリズムだ。「石油値上げをすれば,庶民が怒るのは当然だ」などと,分かり切ったことを,しかも後知恵で書き,人民の友,正義の味方のふりをするような新聞は,ゴムタイヤで儲ける火事場泥棒的ジャーナリズムだ。

ネパールは,すでに人民主権を選んだ。決定し責任を取るのは,人民=政党自身だ。逃げてはならないし,もはや逃げられはしない。

「もし誰も値上げを望まないなら・・・・,それもよかろう,軍事費か開発予算をカットし,それで石油類の価格補填をせよ。」 えらい! よく言ってくれた。

3.選択肢を示せ
民主主義は,選択肢を示して人民の意見を問うのが大原則。たとえば,
 (a)ガソリン1リットル当たり10ルピー値上げ。
 (b)価格据え置き。そのかわり,国防費50%カット。
 (c)価格据え置き。そのかわり,教育予算20%カット。
 (d)・・・・
この程度の民主的選択は,サル社会でもやっている。そんな選択肢も示さず,ゴムタイヤに火をつけ,逃げてしまう。誰が尻ぬぐいするのだ。

以前,市場原理主義を押しつけ石油類値上げを強要したとして世界銀行を批判したことがある。
 冷血「世界銀行」の大罪
 石油値上げ反対デモ,警官隊と衝突
世銀はその後,改心し,市場原理主義をやや修正したが,昨今のネパール政治の無責任を見ていると,世銀の厳しい態度もある程度仕方ないかな,という気がしてきた。

4.ガンジーに学ぶ
しかし,以上は,すべて近代化,資本主義化を認めた上での議論。もし,それを拒否し,別のネパールらしい生き方を求めるのなら,そのお手本はガンジーにある。

グローバル化(民主化)に引きずり込まれるまでのネパールは,化石燃料にさほど依存せず,ちゃんと生きてきた。カネはないが,ガンジー主義的な質素な立派な生き方だった。

資本家どもが石油値上げをするというのなら,一層のこと石油不買運動を始めたらどうか。カトマンズは小さな盆地であり,自転車と電気自動車があれば十分だ。牛を飼えば,燃料とミルクも増産できる。車全廃は難しいだろうが,石油依存の危険は激減する。ガンジー主義は,今後の世界を見据えるなら,むしろ現実的な選択となるであろう。

いや,ガンジーはいやだ,というのなら仕方ない。資本主義で生きる算段をせざるを得ない。車を走らせながら,ガソリン代は払いたくないと言っても,それは資本主義社会では通用しない。カネを払いたくなければ,資本主義をやめ,ガンジーに習うことだ。

* Dinesh Wagle,"Petroleum Price Hike Protest and Blame Game Politics," United We Blog! for a Democratic Nepal, Aug.19.
* eKantipur, Aug.20.
* ヴェッド・メータ『ガンディーと使徒たち』新評論,2004
 ガンジー関係本は無数にあるが,メータのこの本は,ガンジーの人間性の深淵が伺われ,興味深い。性欲の奴隷だった彼が,禁欲のため若い女性と同衾していた。ガンジーは偉大だ。

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2006/08/20

10ルピー値上げにも耐えられぬ民主主義

谷川昌幸(C)

石油類値上げでネパールはまたまた騒乱状態らしい。ガソリンで10ルピー程度。この問題については7月26日付記事ではっきり予言しておいたので,ご覧ください

1.逃げ場のない民主主義
People's powerは人民主権=自治だから,逃げ場(民主的支配の外部)はない。これについても,縷々説明したので,そちらをご覧ください

2.ネパールを存続させてきた非民主主義
ネパール国家が,これまで曲がりなりにも存続してきたのは,非民主主義体制であったから。貧困も差別も汚職も,諸悪の根源はすべて人民の外部にあった。それは,ヒンズーの神々であり,国王であり,インド,アメリカであった。

つい数年前までのこと,1990年代のネパールを思い出して欲しい。すべての悪は,インドにあった。知識人,政治家の枕詞は「インドはけしからん」であり,何でもかんでも責任はインドにあった。

そのころ,私は,そんなことはない,インドは友好的であり寛大だ,と大いに弁護して嫌がられていた。

その後,ギャネンドラ国王即位後は,国王が諸悪の根源になった。たしかに国王も皇太子も清廉潔白とは言い難いが,そこまで国王(王制)のせいにすることはないだろうと思い,最近は王制を弁護し,にわか共和主義者や進歩派から非難攻撃されている。

しかし,よく考えて欲しい。こんな劣悪な条件下でネパールを持たせてきたのは,庶民の不満を引き受けてくれたヒンズー教の神々であり,国王であり,そしてインドであったことを。

非民主的,非人権的。もちろんそうだ。そんなことは分かっている。しかし,見たくはあるまいが,その非民主的・非人権的要素こそが,ネパールを存続させてきたのだ。

3.人民は権力を担いうるか?
いまや「4月革命」により,ネパールは世俗国家になり,主権は人民にあり,国権の最高機関は議会である。

だから,このたび石油値上げをしたのは,ヒンズーの神々でもなければ,国王でもインドでもなく,7党政府=議会=人民なのだ。自分で値上げしておいて,なぜタイヤに火をつけて騒いでいるのだ。愚劣きわまりない。民主主義のイロハも分からない人民に民主主義を求める資格はない。

4.王国軍の英知
もっと危険なのが,軍の民主化。議会は国軍指揮権を国王から奪い,首相(国防会議)に与えた。

軍は強力な暴力集団であり,誰が指揮権を持っても危険なことにかわりはない。要は,諸条件を勘案し,いずれがより安全かの悪の選択の問題だ。

90年憲法では,軍指揮権は最終的には国王にあったが,首相を長とする国防会議の勧告を受けることになっていた。あいまいといえばあいまいだが,危険きわまりない軍の指揮権の集中を避けるための工夫であったともいえる。

軍は王室のものでもあり,だから国王は軍の動員には極めて慎重であった。

忘れてもらっては困る。指揮下の警察力を動員し,マオイストを大弾圧し,残虐非道のかぎりを尽くし,国際的非難を浴び,そしてこれによりマオイスト運動を急成長させたのが,人民選出議会(NC中心)だったことを。

そのころ,国王は軍を動かさなかった。他にも思惑はあったであろうが,それはともかく,国王は信じられないほど国軍動員に慎重であった。耐えに耐えた。だからビレンドラ国王は暗殺されたのかもしれないが,王制下の軍隊は,王室の軍であるからこそ,民主主義など他の目的のための動員には慎重であった。

断言してもよい。もし軍指揮権が現在のように首相と議会にあったなら,はるかに早い段階で軍がマオイスト掃討作戦に使用され,しかもそれは徹底的な容赦のない弾圧となっていたであろう。

5.国軍=人民軍は正義を欲する
なぜか? それは,民主主義では,人民=正義であり,したがって反政府活動=反人民=絶対悪となるからである。

90年代の政党政府は,指揮権を持つ警察をつかってあれだけ大弾圧をやった。もし軍隊を握ったら,政党政府は何をやるか? 恐ろしい。

6.文民統制の危険性
民主化すれば文民統制が利くから大丈夫だ,と反論されるだろうが,これは大変な思い違い。民主主義の盟主アメリカですら,文民統制は利かず,産軍複合体が牛耳っていることは周知の事実だ。

文民統制の本家イギリスは,軍の危険性を知り抜き,長らく常備軍をもたず,いまでも志願制を本来の姿としている。しかも,イギリスは王制であり,民主主義ではない。イギリス軍はいまでも「女王陛下の軍隊Her Majesty's Armed Forces」であり,指揮権は女王陛下にある。文民統制と民主主義の本家ですら,どちらもにもまだ自信がないのだ。これは,スゴイことだ。

中途半端な民主主義国では,文民統制は,文民非統制よりもはるかに危険だ。プロの軍人は,自分たちが戦うのだから,戦争の危険性,悲惨さをよく知っている。これに対し,文民=人民は,戦争を知らないから,情緒に流され,好戦的となり,いったん軍をつかうと,限度なく残虐行為に走る。文民統制こそが危険なのだ。

7.10ルピーに耐えられぬ人民
ネパールでは,軍には王室を守らせておく方がはるかに安全だ。

議会主権になろうが,生活苦はつづく。以前は,「責任者,出てこい!」と叫び,神々,国王,インドを罵っておれば,それでよかった。ところが,ありがたい人民主権のおかげで,責任者は人民自身になった。

ところが,その人民には,とてもじゃないが自分で責任を取るだけの能力はない(日本人も同じことだが)。10ルピーばかりのガソリン値上げでタイヤを焼き騒ぐ始末。以前なら,神様を恨んだり王様人形を焼いて憂さ晴らしが出来たのに,愚かにもその道を自ら断ってしまった。

世俗的なゴムタイヤを焼いても仕方ないことはすぐ分かるので,次はおそらくコイララ人形であろう。

8.コイララ人形の怖さ
しかし,人民は思い違いをしてはならない。コイララ人形の祟りは,王様人形の比ではない。王様はビシュヌ化身だから,悪口を言われるのも仕事のうち,ちょこっと弾圧はしても,もともと住む世界が違うから,あとは王様らしく鷹揚に黙認してやり過ごすことが出来た。

ところが,コイララ人形は,実は人民人形でもある。コイララ首相は人民=正義を代表しており,しかも彼の手には軍隊がある。

コイララ人形を焼く者は,人民の敵となり,これは絶対悪。コイララ首相は,人民から託された軍隊を動員して,この人民の敵を抹殺してもよい。いや,それは義務ですらある。

10ルピーでタイヤを焼くような人民には,政治や軍事の人民統制は無理である。もちろんこれはネパール庶民を蔑視していっているのではない。誤解なきように。というのも――

9.先進国の狡さ
実は,先進国は,民主主義がいかに危険なものか,自国の人民がいかに信用できないかをネパールなどよりもはるかに深刻に自覚しており,だからこそ様々な非民主主義的仕組みを政治の中に組み込んでいる。先進国の人民にも,政治や軍事の民主的統制は無理なのだ。

先進国が狡いのは,そうした自分たちの恥部を巧妙に隠し,美しい建前だけを途上国に見せようとする点だ。民主主義は,欧米日の価値観となっており,これを認めさせること(政治的劣等意識を植え付けること)が,先進国の途上国支配を正当化することになるからである。

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2006/08/18

国連はビシュヌ化身か?

谷川昌幸(C)

ネパールは日本以上に国連中心主義だ。国連チームが来れば停戦監視,武器管理がなり,平和裡に制憲会議選挙,憲法起草・施行が出来ると,夢見ている。仏様には叱られるが,他力本願の見本だ。

ネパールは武器だらけ。国軍9万,人民解放軍はいつのまにやら3万5千に急増,そのうち国軍を追い越すのではないか。それに,国王陛下が村落自警団にばらまいた武器もある。圧力鍋だって爆弾に早変わり。そんな火薬庫みたいな国を,国連はどうやって管理するつもりか?

国連を牛耳っているのは,いうまでもなくアメリカ。アメリカの息のかかっていない監視団なんか,派遣できないだろう。しかも丸腰でないとすると,どの国の軍隊が派遣されるのか?

まさか,わが日の丸自衛隊ではあるまいな。先日テレビで防衛大学校特集をやっていた。インタビューに,凛々しい女性幹部候補生が「求められれば世界中どこへでも行く。自衛隊の活躍の場はいまや世界中にある」と,何のためらいもなく堂々と答えていた。

あれあれ,憲法9条はどこへ行った。日の丸たてて鉄砲かついで世界に雄飛。格好いいな! マオイスト並みに女性兵士50%になると,もっとすばらしい。ヒマラヤ山麓ではさぞかし絵になることだろう。

ヒマラヤの向こうに日の丸が立てば中国が怒るので,まぁ自衛隊は行きたくても行けないだろう。では,どの国の部隊が国連から派遣されるのか。丸腰文官だけとしても,どの国が中心になるのだろうか? 大いに気になるところだ。

しかし,そんなことより,選挙をやるにしてもどんな方法でやるつもりか。そろそろ決めた方がよくはないか。小選挙区制か比例制か? それとも民族,地域,職域代表? 選挙方法が決まれば,結果はほぼ予想できる。だからこそ,選挙方法の議論をしないのかな? それとも,選挙方法も国連(アメリカ)に決めてもらうつもりかな? 

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2006/08/17

Loktantra and/or post-modern(再説)

谷川昌幸(C)

8月3日の記事については,「author」「名前」などというのは無反省な近代主義であり,そうしたアイデンティティの追求自体が権力を正当化し抑圧を強化するのだ,という批判が聞こえてくる。「神」や「本人」「主体」「責任」など,ポストモダンでは時代遅れだ,と。

こういった議論は,戦後近代主義で育った私にはあまりにも難しく,よく理解できない。いまネパールでは,
 loktantra = democracy = people's power
が熱烈に求められている。これは,「人民」が自分の主体性を確立し,本人=authorとして,自ら国家を創りたい。そして,国政についても,人民が自分で創ったのだから,人民自身で責任を取りたい,ということだ。至極まっとうな考え方だが,ポストモダンからすると,そうした国民的主体性への欲求や民主主義的正義の要求自体が,人々の抑圧を生み出すことになるらしい。分かるような分からぬような?

自分では分からないので,フーコー,ドゥルーズ,ネグリらを見てみたがチンプンカンプン。仕方なく,彼らについて書かれたものを読んでみたが,やはりよく分からない。 それでも先日,新書コーナーに平積みされていた
 檜垣立哉『生と権力の哲学』(ちくま新書)
を買い求め,悪戦苦闘してみると,ほんの少しだけ分かるかな,という感じがしてきた。

1.「殺す」から「生かす」へ
フーコーによると,近現代の権力は「生かす」権力だという。かつての権力は国王のように人民から「見える」権力で,見える形で権力を行使した。典型は死刑で,日本でも西欧でも,権力行使の極限としての処刑は公開の場で見せ物として執行された。

しかし近現代では,権力に関する可視・不可視の関係が逆転する。ベンサムのパノプチコン(刑務所)では,収容者に光が当てられ可視化されるのに対し,それを見張る監視者は収容者からは見えないように合理的に設計されている。このように,近現代的権力の理想は,監視者が全く不可視であるにもかかわらず,いやたとえ存在しなくても,収容者=被支配者が自己監視し,支配システムから逸脱しない状態である。

2.死刑を見る義務
このような近現代的統治理念からするなら,支配の暴力性を見せつける死刑は望ましくないことになる。だから公開処刑は廃止され,日本では絞首刑執行の日時,場所ですら隠されるようになった。

しかし,日本のような立派な民主主義国では,死刑を宣告し執行するのは主権者たる私でありあなただから,私たちには死刑の一部始終をしかと見届ける義務がある。むろん1億人で一人の首を絞めるわけには行かないから,実際の執行は代理人に任せ,そのかわり絞首刑を完全生中継し,全国民に視聴を義務づけるべきだ。それが民主国日本の主権者の当然の義務だ。

3.人道主義の欺瞞
ところが,それは非人道的ということで,前述のように死刑は国民の目からはほぼ完全に隠されている。people's powerだから,死刑囚の生命を奪うのは人民自身なのに,人民はそれを見ようとはしない。子供にチキンを食わせながら,鶏の首を絞め,羽根をむしり,調理する過程を見せるのは残酷であり,子供の情操教育に悪影響を及ぼすとヒステリックに叫ぶ教育ママと同じ心理構造だ。

自分で暴力を行使し人の命を奪っているのに,その事実を直視できないので,「人道」や「人権」を持ち出し,見ないことを正当化しているのだ。ヒューマニズムや人権は,私たちの暴力行使を隠蔽するための隠れ蓑,血まみれの自分の手を美しく覆い隠す花飾りに他ならない。

4.公開処刑の倫理性
人間としては,現在の「人道的」「人権的」日本人よりも,悪人を裁き,公開処刑し,首をさらした江戸時代のお上の方がはるかに立派だ。権力者としての自らと,権力(暴力)行使の過程を下々に見せ,生命を奪ったことへの少なくとも倫理的責任は引き受けているからだ。

それに比べ,私やあなたは何と矮小なのか。人民の名で死刑を宣告し,残虐な絞首刑で生命を奪っておきながら,その事実を直視せず,「人道」や「人権」で見ないことを正当化している。逆にいえば,われわれの要求する「正義」や「人道主義」「人権」こそが,近現代的な権力行使を不可視化し,支配を強化しているのだ。

5.死刑廃止による権力強化
しかし,死刑はいくら人道主義で隠しても,支配にとっては失敗である。殺してしまえば,そこで支配は終わり,もはや権力行使は出来なくなる。そこで権力はさらに支配を徹底するため,殺すのではなく「生かす」ことを支配の目的にする。そして,その時の根拠も人権や人道である。

つまり,社会逸脱者は,ムチ打ち刑や死刑の対象ではなく,人道的観点から,むしろ社会に適応できない非行者,いわば病人とみなされ,その非行の原因が科学的に分析され,徹底的に治療され,そして治れば社会に戻されることになる。

近現代的支配は,以前であれば支配の外部に放置されていた様々な逸脱者をもはや認めようとはしない。「人道」「人権」の観点からあらゆる非行を予防,治療し,すべてを自らの正義の支配の下に組み込んでいくのである。

6.NGO,ボランティア等の共犯性
「正義」「人道」「人権」がこのようなものだとすると,私たちはもはや途上国とかマイノリティとかの立場に立ち,先進国や多数派の悪を告発するという分かりやすい戦略をとることが出来なくなる。「正義」「人道」「人権」の主張そのものが,グローバル化した世界秩序への彼らの組み込みであり,グローバル権力の強化に加担することになるからである。ちょうど死刑廃止運動が,「生かす」ことを目標とする近代的権力の加担者となってしまうのと同じことである。

グローバル化した現代では,もはや世界秩序に対する「外部」はない。

「『帝国』が現出する現在において,もはや素朴に語られる外部の世界は存在しない。世界システムにおいては,すべてが内的にネットワーク化されている。だからそこで,NGO,ボランティア,ローカルな組織を守ろうとするものは,人類学者よりもさらに強烈な仕方で,自分自身が『帝国』の尖兵であることをいつも認識しなければならない。」(檜垣,p.218)

では,どうすればよいのか?

「(ネグリの)『帝国』が見据えるのは,国民国家が崩壊し,あらゆるナショナリティーやそれを軸にうごめく情念が消滅し,すべての個的なアイデンティティーの主張が消え去っていく,雑多な混合体としての社会の現勢化なのである。それは,民族や国民国家にもとづく伝統的なブルジョワ共同体がすでに維持できないことを肯定し,社会が機械的技術に浸透され,そのなかで新たなシステムが現出することを評価する。だからそれは,伝統的保守であることからもっとも離れた政治スタンスであるだろう。
 しかし,同時にそれは,体制的な左翼の言説も根底的に拒絶する。『正義』やローカリティ,はたまたマイナーなアイデンティティーを自己の根拠としてもちだし,『平等』と『公正』を上からの統制によって推進するエリート主義的な左翼の姿は,近代的権力の最後のあがきにほかならない。マルチチュードとは,そもそもが統制不可能な民衆である。それは,いかなる進歩的政党もメディア的媒介者も,自己の『代表』として想定することはない。」(檜垣,p.230)

7.絶対的民主主義
う〜ん,分かったようで分からないような,分からないようで分かったような気がする。夏バテから回復した頃,もう一度考えてみよう。

ちなみに,「絶対的民主主義」とは,このポストモダン民主主義のことだそうです。念のため。

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2006/08/16

神政日本と世俗共和制ネパール

谷川昌幸(C)

日本が根源的な部分で神政であることが,またもや露呈した。8月15日,小泉首相が靖国神社を参拝し,憲法よりも国家神道に従うことを内外に宣明した。

そして,国家神道を批判すればどうなるかも,この日,グロテスクな形で世界に示された。報道によれば,加藤紘一議員の自宅(山形県鶴岡市)が放火され全焼,放火犯と見られる右翼男性がその場で割腹自殺を図っていたのだ。もし報道通りだとすれば,いかにも日本的だ。

かつて日本は天皇崩御の際の異様さで,世界とくにアジア諸国を戦慄させた。理解を超えた底知れぬ不気味な情念に,結局は,日本人は支配されている。いつかまたそれが政治を席巻することになるのではないか,と。

日本の国家神道に比べるなら,ネパール王政ははるかに表面的であり,前近代的である。したがって王制を廃止し共和制に移行することも,日本よりはるかに容易であろう。

しかし,ネパール世俗共和制化の議論の前では,つい躊躇してしまう。じゃあ,おまえはどうなんだ,自分は天皇制の下でぬくぬくと生きていながら,なぜネパールに共和制を要求するのだ,と反論されたら答えようがないからである。

天皇制の下で生きながら,ネパール王制を時代遅れ,反民主的と一方的に非難する勇気は,私にはない。

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2006/08/12

民主主義: 強い個人の強い国家

谷川昌幸(C)

民主主義は「強い個人」の存在を前提としている。自主独立の個人が,社会や政治に関心を持ち,これを理性的に判断し,合理的に行動する。これが民主主義の大前提である。

ネパールでいま唱えられている民主主義は,「絶対的(absolute)民主主義」あるいは「成熟した(full-fledged)民主主義」である。スローガンだからある程度はやむを得ないが,真に受け誇大妄想になると,ろくなことはない。

1.強い個人の強い国家――米仏
個人と国家の強さをパターン化すると,次のようになる。

         強い個人
           |
    伊      |   仏・米
           |
           |
 弱い国家―――|――――強い国家
           |
           |
   ネ(?)    |    日
           |
         弱い個人

強い個人を想定し,強い国家を組織しているのが,アメリカやフランス。とくに自己責任の本家アメリカでは,個人は強くなければ生き残れない。その強い個人が集まって,世界最強のアメリカをつくっている。

2.弱い個人の強い国――日本
これと対照的なのが,日本。弱い個人が集まって,強い国家をつくっている。イタリアのことはよく知らないが,聞くところによると,個々人はやたら強いのに国家は弱いらしい。

3.ネパールは?
ではネパールはどうか? 難しいところだが,弱い個人が集まって弱い国をつくっている,といったところか。

強い個人は,自己の主体性,理性に自信があるから,国家形成・運営においても,それ以外の要素を可能な限り排除しようとする。

これに対し,弱い個人は,自分の理性・主体性に自信がないから,政治においてもその弱さを補うものを可能な限り利用しようとする。

4.弱い日本人の天皇利用
たとえば,虚弱とすらいってよい日本の個人は,21世紀の現在においても,天皇制に依存している。世界第2位の経済力,世界最先端に並ぶ科学技術をもち,しかも世界にもまれな民族的・文化的同質性を持ちながら,それでも天皇制がなければ日本は維持できないと考えている。情けないが,それが現実だ。

天皇制依存は考えものだが,自己の弱さへの自覚そのものは,健全な国家形成にとって不可欠だ。

5.強い個人の弱さ自覚の強さ――イギリス
その典型がイギリス。この世界一の政治的国民は,強力な個人主義を持ちつつも,他方では人間の弱さをよく自覚している。

民主主義原理からすればとうてい容認できないような様々な制度を後生大事に守り続けてきた。カビの生えたような古色蒼然たるイギリス憲法,有形文化財の貴族と貴族院,そして女王陛下! いずれも,民主主義では容認されない非民主的,非理性的制度だ。

イギリス人たちは,本当は世界最古・最強の個人主義を持つくせに,それをアメリカ人のようにひけらかすことはせず,いやいや自分たちは弱いのです,とてもじゃないが理性的自立人を前提にした民主主義はまだ無理です,私たちには依存すべき女王陛下,貴族の方々,そして誰にも理解しきれない古く複雑怪奇な憲法が必要なのです,といって謙遜している。えらい! さすがジェントルマン。

6.ネパール人の強さ?
本当は強い個人が,強いがゆえに弱さを自覚して国家をつくっているのがイギリス。これに対し,ネパールの政治家はどうか?

ネパール人は強いか弱いか? つまり,近代的観点からして,精神的自律性・自立性を持っているか否か? おそらくアメリカ人,イギリス人,フランス人よりは弱いだろう。虚弱日本人といい勝負ではないか?

もしそうだとすると,弱い個人しかいないところで,強い個人を想定した制度を作ったらどうなるか,ということが当然問題になってくる。

7.強がり弱虫の危険性
すぐ分かることは,どんなに立派な民主主義制度を作ってみても機能しないということ。1990年憲法は,立派な憲法だったが,これすら立派すぎて守られなかった。ましてやこれ以上に立派な絶対民主主義憲法をつくってみても,おそらく,守られはしないだろう。

しかし,それ以上に危険なのは,弱さを自覚せず民主主義制度を作ると,これは必ず暴走するということ。ヒトラー,スターリンまでは行かなくとも,そのアジア版くらいにはなるおそれがある。

「絶対民主主義absolute democracy」などという恐ろしい言葉をまき散らしている政治家には,もう一度,目の前の一票を行使するであろう人々の実態をよく見てほしい。国政に関する情報を集め,分析し,理解し,そして理性的に行動する。そんなことを本当に期待してよいのだろうか?

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2006/08/10

2ちゃんねるとネパールと著作権

谷川昌幸(C)

朝日新聞(8/10)の「ネット掲示板の文章は誰のモノ」が面白い。

1.「2ちゃんねる」,著作権無償譲渡を義務化
記事によると,2ちゃんねるが,著作権を運営者(西村氏)に無償譲渡することを投稿条件としたという。以下,2チャンネルの「投稿確認」全文(2006.8.10)。

投稿確認
・投稿者は、投稿に関して発生する責任が全て投稿者に帰すことを承諾します。
・投稿者は、話題と無関係な広告の投稿に関して、相応の費用を支払うことを承諾します
・投稿者は、投稿された内容及びこれに含まれる知的財産権、(著作権法第21条ないし第28条に規定される権利も含む)その他の権利につき(第三者に対して再許諾する権利を含みます。)、掲示板運営者に対し、無償で譲渡することを承諾します。ただし、投稿が別に定める削除ガイドラインに該当する場合、投稿に関する知的財産権その他の権利、義務は一定期間投稿者に留保されます。
・掲示板運営者は、投稿者に対して日本国内外において無償で非独占的に複製、公衆送信、頒布及び翻訳する権利を投稿者に許諾します。また、投稿者は掲示板運営者が指定する第三者に対して、一切の権利(第三者に対して再許諾する権利を含みます)を許諾しないことを承諾します。
・投稿者は、掲示板運営者あるいはその指定する者に対して、著作者人格権を一切行使しないことを承諾します。
                       (「2ちゃんねる」よりコピー)

まことにもってすさまじい。こんな恐ろしい規定は信じがたい。カネのこともさることながら,人格にかかわること,つまり「著作者人格権を一切行使しないこと」とは,要するに,自己の人格が否定されても文句を言わないということだ。

とんでもない規定だが,分からないでもない。

2.近代主体性原理への屈服
匿名自由投稿で始まった2ちゃんねるも,だれのものか判然としない文章・作品は,結局は,無責任になる,ということを認めざるを得なくなった。近代主体性原理への屈服だ。

近代主体性原理は,世俗世界でいえば財産原理であり,その核心が著作権である。事実,資本主義のチャンピオン,アメリカは石油よりもむしろ著作権に命をかけている。その著作権原理主義に,2チャンネルも屈服した。しかも,節度を忘れて!

3.有名化へ
著作権は,著作者の義務を当然予想しており,これからは,2チャンネル記事の全部について,西村氏が責任を負う。そんな神様みたいなことが出来るのか?

出来はしない。とすれば,結局,責任を追求しきれない匿名は禁止ということになり,身元の分かる――名前を明示した――投稿しか受け付けないという方向に向かわざるを得ない。Post-web2.0だ。

2ちゃんねるは,悪口を書かれたとき数回見ただけなので,朝日記事により書いているこの文章にもし誤解や的外れな部分があれば,ご指摘ください。

3.ネパールと著作権
でも,これはネパールとは無関係では? そんなことはない。著作権の観念がなかった古き良き時代(前近代)のネパール文化を破壊したのは,インドを資本主義化したアメリカだ。インドに続き,ネパールに「著作権」を教え,MSNソフトの無断コピーを禁止し,WTOに加盟させた。

著作権を認めなければ,ワードだろうが英米現代小説だろうが,いやi-podや医薬品でさえ,コピーのし放題。ネパールはもっともっと豊かに暮らせる。1人当たりGDPが1/100以下の国が,なぜ著作権料を先進国に支払わねばならないのか? 知は万人のものではないか? それとも,知は金儲けのためのものか? あさましい。

4.マオイストも屈服
しかし,もはや手遅れ。ネパールはすでに世界資本主義に組み込まれ,著作権なしでは生きられなくなってしまっている。マオイスト革命に期待したが,これも「改革・解放」の社会主義的資本主義になり,著作権への抵抗はほぼ放棄してしまった。

近代主体性原理は,かくも強力であり,これといかに折り合いをつけるかが,本物のポストモダンの課題であろう。

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2006/08/08

パシュパティナートと靖国神社

谷川昌幸(C)

重要問題が,ネパールでは日本以上に,次々と流行のように移り変わる。議論を詰めないから,あとにほとんど何も残らない。あれほど騒がれた世俗国家化もそうだ。

1.ネパールも例外ではない
国家と宗教の関係は,取り扱い注意の最たるもので,安易な議論は厳禁だ。ネパールの人々は,中東やアフガンとネパールは別だというが,お隣のインド,パキスタンもこの問題で苦しみ続けている。ネパールがどうして例外といえるのか? 過去の遺産で食いつないでいるにすぎないのではないか?

2.靖国問題
日本でも,靖国神社がいま内政,外交の大問題になっている。A級戦犯を祀っている靖国への首相参拝に対し,中韓が猛反発し,またアメリカでも問題視され始めた。

このままでは,米からの非難→右翼ナショナリスト台頭→日米関係悪化→日本孤立,という最悪の展開になりかねない。

3.昭和天皇の靖国発言
そんななか日本経済新聞が7月20日,昭和天皇の靖国発言をメモした富田元宮内庁長官の手帳を掲載した(引用はmainichi-msn20060720より)。

 「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ(原文のまま)」

危ない危険極まりない発言とその公表であり,使い方によっては憲法違反になる。そもそも象徴たる天皇は,晴れでも雨でも「いい天気ですね」と語り,何を聞かれても「あぁ,そう」と応えなければならない。

いずれにせよ,A級戦犯合祀の有無に関わりなく,首相らの公人としての靖国参拝は厳禁すべきだ。

4.靖国国家護持(1)――谷垣財務相案
ところが,それができない。そこで,いま日本では,とんでもない議論が真面目に語られ,支持を広めている。靖国神社の国家護持だ。

一つは,国家護持そのものではないが,靖国神社にA級戦犯を分祀させ,公人参拝を可能にするという谷垣財務相らの案。独立した宗教法人に政府が強要し分祀させるのだから,事実上,国家護持と大差ない。

5.靖国国家護持(2)――麻生外相案
もう一つは,麻生外相らの本物の靖国国家護持案。宗教法人としての靖国神社を解散させ,全国の護国神社と合わせて「国立靖国社」とする。

最も悪質かつ危険なのが,この「国立靖国社」案。「靖国神社は宗教ではない」といって他の宗教を弾圧したのは,つい半世紀前のことだ。その「非宗教的」靖国神社こそ,日本国家神道,日本軍国主義の中核だった。それをまた復活させようというのだ。これは断じて許してはならない。

5.政教分離の難しさ:ネパールと日本
このように,国家世俗化は,そう簡単なことではない。パシュパティナート守護者は誰であるべきか? 国王か首相か,それとも完全な政教分離か? いずれがネパール人民にとって,より安全か? これはよく考えてみるべきだ。

6.身近な政教不分離
政教分離がいかに難しいか。身近な例を一つ。昨日長崎市公報が配布され,この中に神社の祭礼と寄付依頼のチラシが折り込まれていた。明白な政教分離原則違反。

これまでにも何度か抗議したが,一向にやめない。長崎市役所も,この憲法違反,人権侵害をただす意思はまるでない。神社も市役所も「神社は宗教ではない」と信じているらしい。

しかし,神社は誰が見ても宗教だ。長崎は国際都市であり,様々な国の人が住んでいる。毎日のように近所でインド系の人や中東系の人に出会う。もし彼らが長崎市広報にヒンズー教かイスラム教のチラシを折り込んでくれ,と要求したらどうするつもりか? 断れないだろう。神社チラシを折り込んでいるのだから。

大問題になるに決まっているが,そんなことは分かった上で,政治家や宗教家は宗教を国政や地方行政に持ち込んでくる。宗教と政治は,相互に,どうしても断念しがたいほどの利用価値があるのだ。

ネパールでも,7政党政府が世俗国家宣言をしたくらいでは,政教分離問題は解決されはしないのである。

*麻生太郎「靖国問題 非宗教法人化こそ解決の道」(私の視点)『朝日新聞』8/8;「靖国『あり方』論浮上」同紙。

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2006/08/07

世俗断念が王制の条件

谷川昌幸(C)

ネパール王制は,いま存亡の瀬戸際にある。シャハ家はもともと地方領主権力の一つにすぎず,国家王家としてはせいぜい2百年ほどの歴史しかない。いわば武家の総代といったところ。日本国の神武天皇にまで遡るらしい万世一系の天皇家とは,そもそも有難味が違う。ビシュヌの化身といったところで,仏陀の化身もいるし,さして神秘性が増すわけでもない。また,アラブのようにアブラがあるわけでもない。そうした単なる武家の総代が国王の地位を維持するには,アラブ王族や日本国天皇の何百倍,何千倍もの努力がいる。

残念なことに,ギャネンドラ国王は,兄王とは対照的に,そのような努力を何もしてこなかった。それだけでなく,王族殺害事件の前後も含め,何事についても現国王はおそらく自分で決断して行動したことはなかったのだろう。(独裁者に見え,私もひょっとしてそうかなと思った時もあったが,そうではなかったようだ。)

不思議でならないのは,この春,反政府デモが拡大し,首都が燃え上がっているというのに,年中行事か占いかでポカラにとどまり,何ら手を打たなかったこと。このとき,あぁ,この国王は権力者ではなく,単なる操り人形だな,という印象を強く持った。

もし私が国王なら,善悪は別にして,おそらく何らかの手を打っていただろう。たとえば,天安門のケ小平氏に習い,軍を総動員し,中国製特車などで群衆を踏みつぶし蹴散らし,一気に鎮圧してしまう。国家理性に従えないような国王は,マキャベリもいうように,権力者失格だ。そんなことも出来ない国王は,化石化した封建領主にすぎない。

そのような権威もなく権力もなく,おまけに化石燃料もない,化石化した封建領主が,21世紀国家の国王たるには何が必要か?

以前から繰り返し強調しているように,国の象徴に徹する努力をすること。これ以外にない。

ところが,8月4日,土地改革省から議会に提出された報告書によると,王家は3万4千ロパニもの土地を所有しているらしい。いかにも封建領主らしい。他にもホテル,タバコ会社,金地金,現金など膨大な財産をもっている。

これは,国の象徴にはふさわしくない。全部国家に寄進してしまう。早くやらないと,没収となり,悪評だけが残る。

政治権力も,強奪される前に自ら放棄しておれば,今頃は名君とあがめられていたはずだ。王族の範囲も,自ら制限しておれば,7月31日政府決定により国王,王妃,皇太子,皇太子妃,皇太后に限定されるといった屈辱をなめずに済んだ。政府決定の女王容認も同じこと。

国家理性に従い断固権力を行使する勇気もなければ,世俗の権力と富を放棄し国の象徴となる潔い志もない。こりゃ,ダメだ。

コイララ首相が8月6日,王制護持をまた力説した。国王というより,王制に象徴される既得権益を守るために他ならない。この形で王制が残っても,国王は有産特権階級に利用されるだけだ。

そうかといって,一発逆転,クーデターをやっても,国軍と組むにせよ人民解放軍と組むにせよ,国王が利用されることは目に見えている。

国王にとって最も賢明なのは,繰り返すが,一切の世俗権限,世俗財産を自ら放棄し,ネパール国とネパール人民の象徴になる,と宣言することだ。戦争放棄が日本国にとって,人間宣言が天皇にとって,最も現実的であったのと同じように,世俗断念宣言が,世俗国家ネパールで国王が生き残る最も現実的な方法である。

* eKantipur, Jul.31, Aug.4-6.

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2006/08/04

Loktantra and/or post-modern

谷川昌幸(C)

昨日の記事については,「author」「名前」などというのは無反省な近代主義であり,そうしたアイデンティティの追求自体が権力を正当化し抑圧を強化するのだ,という批判が聞こえてくる。「神」や「本人」「主体」「責任」など,ポストモダンでは時代遅れだ,と。

こういった議論は,戦後近代主義で育った私にはあまりにも難しく,よく理解できない。いまネパールでは,
    loktantra = democracy = people's power
が熱烈に求められている。これは,「人民」が自分の主体性を確立し,本人=authorとして,自ら国家を創りたい。そして,国政についても,人民が自分で創ったのだから,人民自身で責任を取りたい,ということだ。至極まっとうな考え方だが,ポストモダンからすると,そうした国民的主体性への欲求や民主主義的正義の要求自体が,人々の抑圧を生み出すことになるらしい。分かるような分からぬような?

自分では分からないので,フーコー,ドゥルーズ,ネグリらを見てみたがチンプンカンプン。仕方なく,彼らについて書かれたものを読んでみたが,やはりよく分からない。

それでも先日,新書コーナーに平積みされていた
   檜垣立哉『生と権力の哲学』(ちくま新書)
を買い求め,悪戦苦闘してみると,ほんの少しだけ分かるかな,という感じがしてきた。

1.「殺す」から「生かす」へ (以下,つづく)

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2006/08/03

Post-web2.0 無名から有名へ

谷川昌幸(C)

ネパール政治から少し離れ,ネット論を補足。朝日新聞が7月27日から「ウェブが変える」の連載を始めたからだ。

1.Wikiとグーグル
ウィキベディアに代表される自由投稿情報とグーグルに代表される他者情報の利用技術。そうしたものをWeb2.0と呼ぶらしい。これがいま爆発的に拡大している。便利だが,朝日が特集を始めるころは,もう峠を越しているのが一般的。

ウィキペディアの情報は膨大で,正確さもブリタニカに劣らないそうだ。誰でも情報を自由にタダで(free)提供でき,それを誰もが自由にタダで利用できる。知は万人のものであり,これは理想的なように見える。

これは「ことば」のようなものだ。「ことば」は皆でつくり皆でつかう。ウィキベディアは,「ことば」のような百科事典をつくっていくのだろう。

2.ウィキペディアの弱点
これは偉大な功績,雄大な計画だが,その一方,この種の情報には致命的な欠点がある。「誰がつくったか」が判然としないことだ。

Author(創始者,著者)は自分の創りだしたものに責任を持つ。神は世界をつくりだしたから世界に対し責任を持ち,神につくられた私はこのブログ記事をつくり,それに対し責任を持つ。この創造の自由と責任を保障しているのが法だ。この世では,道徳律と法が創造者を保護している。最も世俗的なものが著作権法。これは,人々に創造の意欲と創造されたもの,つまり外化された人格を保障している。

3.ウィキベディアの無神論
ウィキペディアは,この創造の大原則への原理的挑戦だ。それは無神論の世界であり,誰が創造したのか判らないもの,つまり誰に責任があるか判らないものを,判らないままにつかうという無責任の世界だ。すでにコンピューターはある程度自由に文章をつくれる。もしコンピューターがウィキペディアに投稿を始めたら,人間は機械が提供した情報で生きていくことになる。

ウィキペディアは非人間的であり,人間の顔が見えず,健全な常識と感覚を持った人であれば,本能的に警戒する。これは誰が書いたのか? 信用できるのか,と。

ところが,ネット世代の多くは,最初からネット情報の洪水の中で育ってきたから,そうした警戒心をほとんどもたない。最近の大学生のレポートは,ウィキペディアなどのネット情報の切り貼り。「こんなものは信用できない。誰が書いたのだ。0点!」

4.著者は誰か?
Authorは誰か? これは人生の根元的な問いだ。私の創始者は父母であり,父母の創始者は,遡っていけば神だろう。「ことば」にしても,たしかに誰が創ったかなど気にせず自由に使っており,それが「ことば」の特質だが,厳密にいえば,それも神が創ったことになっている(聖書を見よ)。「ことば」を大切にしようとすればするほど,結局は,誰が創ったのかという根元的な問題は避けられないのだ。

もっと身近な例を出せば,素晴らしい「ことば」は,詩人や作家の名を記し,永遠にその功績を称えようとする。その「ことば」は,詩人や作家の人格が具体化されたものであり,読者はそのような「ことば」を創造してくれたことに感謝し,作者を尊敬し信用するからだ。名がなければ,このような人が人を信用するという崇高な人間的行為は成立しない。

5.有名情報の世界へ
Web.2.0が無名の自由の世界だとすると,Post-web2.0は,有名情報の世界となる。著者が自分の正体(名前)をさらし,責任を引き受けた上で,発言する。そして,そうした身元の明確な情報だけが信用しうる情報として評価される。

すでに新聞も,かつては無署名記事が大半だったが,最近は署名記事が多くなった(著作権法対策でもあるが)。「朝日新聞社が書いた」では,もう信用されない。朝日の誰が書いたのか? 読者は,著者が身元を明らかにして書いた記事を信用するようになってきている。

ウィキペディアは今後も増大し便利に利用されるだろうが,無名情報であるかぎり,究極的には信用されないだろう。

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2006/08/02

Web技術と政治の落差

谷川昌幸(C)

今日からブログが衣替え。改善か改悪か? 私のような文字中心派にはシンプルが一番だが,無料サービスだから文句は言えない。お付き合いください。

そこで感じたのだが,ネット等の科学技術は日進月歩なのに,なぜ政治は旧態依然なのか? 政治学は最古の学問の一つであり,いまでもプラトン,孔子,カウティリヤなどが堂々と通用している。21世紀政治をプラトンで分析するのは,ケイタイを石器で改良しようとするようなもの。政治学の人気凋落はもっともだ。

ネパールを見ても,Webページの見事さ,先進性と,政治のドタバタとの落差は大きい。どうしてか?

いや,世界最先端の科学技術をほぼ独占しているアメリカであっても,イスラエルの国際法違反にはお手上げだ。

『すばらしき新世界』や『1984年』の逆ユートピアか,さもなければ人類破滅か? グーグルやヤフーやMSNが頑張れば頑張るほど,憂鬱になる。政治学の業病だ。