2006/03/30
ゲリラと自警団の狭間で:HRWレポート

谷川昌幸(C)

HRW(人権監視)が「ネパール内戦:戦闘再開」(2006年3月)を発表した。第5次現地調査報告であり,調査期間は2006年2月末から3月初の3週間。このレポートによると,状況はさらに悪化している。

1.国際世論の圧力の効果
レポートはまず国際世論,国連,人権諸団体,NGO等の和平,人権への圧力が相当の効果を上げていることを指摘している。

政府側については,即決処刑や連行後不明者が減少し,国連人権高等弁務官ネパール事務所(OHCHR)の軍施設立ち入り調査も可能となった。武器禁輸も継続され,中国,パキスタン,イスラエルもいまのところ攻撃用武器輸出を控えている。また,人権侵害の部隊や軍人のPKO雇用禁止要求も,かなり効果的だという。ネパールPKO要員数は世界第5位で,経済的,軍事的に王国軍を支えているからだ。

同じくマオイスト側も,OHCHRの調査活動の自由を認め,いくつかの警告には対応策をとっている。

このように,国際的な平和,人権要求は,決して無力ではない。これはわれわれにとって大きな励みであり,希望である。

しかし,その反面,レポートは,地方住民が政府とマオイストの狭間に立たされ,ますます困難な事態に追い込まれている状況をも,具体的事例を挙げながら報告している。

2.マオイスト側
(1)住民の盾
マオイストが地域住民を盾として利用していることは周知の事実だ。彼らからすれば,人民とともに闘っていることになるのだろうが,「人民の大海」に潜み,人民の中から攻撃すれば,交戦で非戦闘員の犠牲が出るのは当然だ。国際人道法からすれば,これは許されない。

(2)子供兵
マオイストは子供を多数徴用し,戦闘にも参加させている(戦時子供権利条約では18歳未満が子供兵)。アジア人権委員会2003年度報告によれば,マオイスト軍の30%が子供兵だという。

(3)強制連行
INSECによると,2005年9−12月に,マオイストは生徒,教師を中心に8777人を強制連行し,政治教育を施した。驚くべき数字だ。ほとんどが教育後戻されているが,強制的にゲリラにされたものも少なくないという。

3.政府側
(1)無差別空爆(indiscriminate aerial b.)
国軍は,ヘリコプターからmotar shells(迫撃地雷?)を投下,地域住民が犠牲になっている。

兵器のことはよく分からないが,ヘリコプターの窓から投下しているらしく,不発弾も多く,これらは対人地雷となり,住民を恐怖に陥れている。たとえば,2006年2月28日のパルパ郡ギデム村爆撃。

むろん,現代戦では,米軍の高価な超精密誘導爆弾による「誤爆」の方が王国軍の手動投下ローテク爆弾による住民殺傷よりも質量ともにはるかに残虐だが,だからといって非戦闘員攻撃が免責されるわけではない。

(2)子供兵拘束
政府は,マオイスト子供兵を拘束し,大人と同じように処遇している。これは子供の権利侵害。

(3)無処罰
政府は,国軍,治安部隊による違法行為を厳重に取り締まらず,適正に処罰していない。
(4)強制連行,行方不明
2001年11月以降の連行後行方不明者約1700人の内,1300人は治安部隊によるもの。NHRCによれば,現在の政府連行不明者は,750人という。

(5)自警団
政府は,タライ地方を中心に強制的に自警団を作らせ,ほとんど訓練をしないまま武器を与え,マオイスト・ゲリラと戦わせている。訓練がないので,国軍以上に無法,残虐となり,また銃は旧式で,弾薬等は住民からの強制「寄付」でまかなっている。団員は何をしても見逃され,ほぼ無処罰。

4.政府自警団vsマオイスト・ゲリラ
(1)内戦のタガ外し
ネパール内戦は,幾度も指摘してきたように,この種の内戦としてはよく統制がとれていた。そして,そこに和平への希望も見て取れた。内戦は悲惨とはいえ,決してイラクのような泥沼の無法状態ではなかった。

ところが,このHRWレポートが事実だとすると,ネパール内戦は,国王−7政党−マオイストの覇権争いから,住民自身が分裂し憎悪し攻撃し合う泥沼の住民紛争に転化し始めたことになる。

そうなると,もうコントロールが出来なくなる。外人は攻撃しない,といった「見事な統制」はもはや利かなくなり,ネパールは住民だけでなく,特権外人にとっても危険な地域となるだろう。

(2)自殺行為の自警団
マオイストの住民の盾や子供兵はむろん許されないが,だからといって政府が住民に武器を与え,マオイストと戦わせるのは,自ら国家を解体する自殺行為である。

住民は,もはや単にマオイストと政府の交戦に巻き込まれるだけではない。このままでは,ゲリラか自警団のいずれかへの参加を強制され,強制「寄付」を取られ,そして同胞への憎悪を駆り立てられ,攻撃させられる。両派とも正規軍ではないから,人道法は無視され,相互の残虐行為はとめどなくエスカレートするだろう。イラクのような憎悪と暴力の悪循環。たとえば,2005年2月のカピラバツ郡での両派の戦闘の残虐悲惨さを見よ。

(3)国税・マオイスト税・自警団税
外人トレッカーは,すぐ攻撃されることはなくても,これからは「寄付」をマオイストからだけでなく自警団からも強要されることになろう。つまり,国王政府の税,マオイスト政府の税,そして自警団の税の3本立てだ。

HRWレポートも指摘するように,王国軍は,もはや首都圏と地方拠点だけしか防衛できていない。その穴埋めに自警団を作らせ,旧式銃を与え,「寄付」を取らせている。直営方式のマオイスト・ゲリラよりも質が悪い。

窮余の策とはいえ,国家が軍事と徴税の統制権を自ら放棄するのは,国家自殺行為であり,アナーキーへの危険きわまりない愚策である。

* Human Rights Watch, Nepal's Civil War: The Conflict Resumes, http://hrw.org/english/docs/2006/03/28/nepal13078.htm



2006/03/26
英議員使節団,追い返される

谷川昌幸(C)

国王が,「英国ネパール議員協会」訪ネ使節団との面会を拒否し,追い返した。

使節団は,団長スタンリ卿,議員6名(保守3,自民1,労働1,無所属1)からなり,3月19日に訪ネ,ギリ副首相,各党幹部,人権活動家らと会い,意見交換はしたものの,結局国王には会えなかった。

スタンリ卿はこう語った―
「国王の権限を決めるのは主権国民たるネパール人だ。」「国王の憲法上の位置は,選挙により表明される人民の公平な意思で決めるべきことだ。」

たしかに,他国に来て,こんなよけいなことをいうような議員使節団には,国王は会いたくないだろう。

しかし,スタンリ卿は保守党の大物であり,「貴族」でもあられる。旧宗主国で,グルカ兵の雇用主でもある大英帝国の,そんな偉い人を,国王は門前払いにした。ネパール・ナショナリストは,永年のうっぷんが晴れ,スカッとしたのではないか。

それにしても,国王はスゴい。いかに民主主義の祖国,立憲君主制の本家といえども,内政干渉は許さない,とのその断固たるナショナリズムは,日本ナショナリストのお手本になろう。

もっとも,その毅然たる内政干渉拒否政策は,日本ナショナリストの大嫌いなお隣の大国が支えているのではあるが。

* Kathmandu Post, Mar23.



2006/03/25
正義か平和か:トランセンド法の可能性

谷川昌幸(C)

ネパール紛争は常態化し,今のところ解決の兆しは見られない。3月21日にも,交戦で30人以上の犠牲者が出た。内戦とは規定されていないが,30人以上もの死者が出る武力紛争は,常識では内戦であり,ネパールは内戦状態といってよい。

1.紛争地トレッキングの異様さ
この内戦のような内戦でないような状態――ここに,ネパール紛争の特徴があり,また解決の難しさがある。紛争で毎日のように死傷者が出る一方,都市部では平静な日常生活が営まれ,外人客はヒマラヤ・トレッキングを楽しんでいる。北側諸国,ましてや日本では絶対に考えられない状態だ。

たとえば,東京郊外や地方が内戦状態になっているのに,東京は平静,信州では楽しい山歩き――そんな異様なことが日本でありうるか? 絶対にない。人々が殺し合っているすぐそばを,楽しくハイキングするなどという感覚自体が,異常だ。

2.ダブルスタンダード
これは明白なダブル・スタンダードであり,構造的暴力だ。この構造的暴力を,加害者の側,つまり外人トレッカーに象徴される北側諸国やカトマンズ特権階級は容認している。そして,そこにネパール紛争の根本的な原因があり,またそれがこの紛争の解決を困難にしている元凶なのだ。

3.「平和」か?
もしそうだとすると,ネパール紛争の解決は,「平和」ではなく「正義」が目標になる。
「平和」とは,いまさかんに試みられている和平努力のことであり,つまりはパワーゲームである。これは対立する諸勢力のいずれに「正義」があるかは問わない。どこかで妥協し,戦争がない状態にすれば,「平和」(消極的平和)は実現される。その反面,「正義」を問わないから,問題そのものの解決にはならない。

この「平和」(和平)努力は,ネパールがグローバル化以前の伝統的社会であったなら,たぶん有効であっただろう。諸勢力が対立していても,社会構造の変更をめぐる対立ではないから,どこかでパワーエリート間の妥協がなり,新しい権力バランスが成立し,「平和」が実現される。

4.「正義」か?
ところが,いまのネパール紛争は,社会構造にかかわる紛争であり,構造的暴力の除去,つまり「正義」が実現されなければ,解決されないだろう。

しかし,ここで問題になるのは,周知のごとく,「正義」は対立する諸勢力のいずれの側にもある(と主張される)ことである。プロパガンダだけを見ると,構造的暴力除去としての「正義」は,明らかにマオイストの側にある。しかし,政治の世界では,プロパガンダ通りの行動は難しく,そうなると,国王や諸政党の側のプロパガンダの中にも「正義」はある可能性がある。

ネパール紛争の解決には,「平和」ではなく「正義」が必要だが,「正義」を求めると解釈をめぐって紛争になり,解決には「平和」を求めざるを得ないが,「平和」は「正義」の実現なしには実現されない・・・・

5.トランセンド
この難問とどう取り組むか? 一つの選択肢は,ガルトゥングの紛争転換(Transcend)だ。トランセンドについては,全くの素人であり,ガルトゥングの『平和を創る発想術』をぱらぱら見たくらいの知識しかないが,たとえば次のようなことらしい。

“私たちは紛争を「力で解決する」のではなく,いずれの紛争当事者もが満足できる平和的な解決法を見いださなければなりません。それは単に「解決」にとどまらず,「解決によって,創造性のあるアイデアを創り出す」ことです。これを私は「紛争の転換」と呼びます。”(p.2)

●沖縄米軍基地問題の場合(p.7)
<解決策>
1  琉球王国独立
1.5 永世中立国
2. 日本へ返還
3. 米軍駐留継続
4. 日米による共同管理
5. (考えるべきでない)

ガルトゥングの考える紛争転換(トランセンド)は,1か1.5だという。たしかに,沖縄を永世中立国にしてしまえば,基地問題の根本的転換(トランセンド)は実現する。どこまで現実的か別にして,論理的には,確かに紛争の転換ではある。

6.ネパール紛争の転換
このようなトランセンド法がネパール紛争にも適用可能か? 適用可能としたら,どの局面か? 今のところ,これは私には分からない。

ネパール紛争を解決するには,何かをしなければならない。その方法の一つとして,トランセンド法を学び,適用の可能性を探ってみたいと考えている。

*ヨハン・ガルトゥング『平和を創る発想術』岩波ブックレット,2003



2006/03/21
複雑怪奇なれど・・・・

谷川昌幸(C)

マオイストは14日からの首都封鎖を20日解除し,4月3日からのゼネストも中止すると発表した。これに呼応(!)して,合法7政党が4月6日からゼネスト,8日には非合法反政府大集会を決行し,これを非合法マオイストが支援するという。

あれあれと思っていたら,訪米中の親米デウバNC-D党首が20日,反テロ原理主義アメリカに,合法7政党と非合法マオイストとの非合法反政府闘争への理解を要請した。複雑怪奇?

されど,原理主義ブッシュ氏も,アメ玉には弱い。インド原発協力で,米原理主義のいいかげんさを世界中に披瀝した。そして,そのついでに,テロリストのはずのマオイストに暴力を放棄して王様と仲直りしては,とともとれるような,いいかげんな発言をした。テロリストとは取引をしないはずではなかったのか。アメリカの反テロ原理主義など,どうせ,この程度のものだ。

だから,デウバ党首のいうことは,筋が通っている。アメリカが,7政党=マオイスト連合を応援してくれたら,90年革命が再来し,今度は革命の父デウバ氏が首相になれるかもしれない。

そんなバカな,と思うのは,あまりにもお人好しだからだ。ネパール政治は,内政というよりは,外交の論理で考えた方がよい。そうすれば,一発爽快,疑問は氷解し,精神衛生にもよい。

ネパール政治が複雑怪奇に見えるのは,外交音痴だから。老獪な国際政治学者,高坂正堯の『国際政治』(中公新書)は,日本外交の未熟さへの絶望的な怒りでもって始まる。

“昭和14年8月の末,独ソ不可侵条約の締結の報に接した平沼内閣は,「複雑怪奇」という有名な言葉を残して退陣した。強い反共主義のイデオロギーを持ち,みずから,ヨーロッパを共産主義から守ると砦であると自認するドイツ,しかも日本と防共協定で結ばれているドイツが,その主要な敵であるソ連と不可侵条約を結んだことは,権力政治的視野にかける日本の政府と国民を,文字どおり周章狼狽させたのであった。”(p.4)

ネパール政治は,内政としては複雑怪奇だが,「権力政治」の観点をとれば,むしろ単純明快とさえいえる。権力政治において,本質主義的な思い込みは厳禁。独ソ不可侵条約に比べれば,7政党=マオイスト連合も,国王=マオイスト連合も,はたまたブッシュ反共原理主義=マオイスト共産原理主義連合(国王=中国連合)も,はるかに予見可能だ。

複雑怪奇の背後にある論理さえ押さえておけば,ネパール政治は日本情緒政治よりも,はるかに合理的で,分かりやすい。

* ekantipur, Mar20.



2006/03/18
中国の国王政府支援

谷川昌幸(C)

唐家セン国務委員が3月16日から3日間の予定でネパールを公式訪問,ビスタ,ギリ両副首相,パンデ外相と会談し,ギャネンドラ国王とも会見した。

唐国務委員は,もちろん政党側,たとえばコイララNC党首,デウバNC-D党首,ボハラUML書記長代理らとも会談をした。そして,レセプションでは,合法諸勢力の和解による和平実現を求めた。

中立的とも見えるが,発言には注意を要する。ekantipur(3/17)によれば,唐国務委員は「ネパールの主権,独立,領土保全の努力を全面的に支持する」,「ネパールは主権国家であり,内政には外部勢力はいかなる形でも介入すべきではない」と述べた。そして,台湾,チベット問題について,ネパールが中国を強く支持してきたことを,高く評価した。
これをCRI(中国国際放送局)は,こう報道している。

「ネパール内閣の両副議長は、「ネパールは中国を永遠の友と見なし、一つの中国の立場を揺るぎなく堅持し、中国の統一を断固として支持し、ダライ・ラマグループのネパールにおける中国破壊活動を決して許さない」と述べました。」(3/17)

「ギャネンドラ国王は会見で、ネパールに対する中国の友好政策を積極的に評価し、中国がこれまで一貫して、国家主権、独立、領土保全を維持するために払ったネパールの努力を支持したことに感謝し、「ネパールは一つの中国の政策を堅持する」と述べました。」(3/18)

国王政府にとって,中国によるこのような「内政不干渉」宣言は何よりもありがたい。これで国王親政は内政問題となり,印米は介入しづらくなる。

一方,中国にとっても,ネパール政府による「一つの中国」支持宣言は,これまたありがたい。チベット問題ですら,お隣のネパールが中国政府を強く支持している。当然,台湾統一も中国の内政であり,外国は介入すべきではない,ということになる。

国王と中国の利害は一致している。しばらくは,この構図は崩れないのではないだろうか。



2006/03/12
定松栄一著『開発援助か社会運動か』をめぐって

谷川昌幸(C)

定松栄一氏の『開発援助か社会運動か』(コモンズ,2002)を読んだ。ネパールでの活動経験をもとに,開発援助のあり方を鋭く問う好著である。

(1)カマイヤ支援事業
著者は1994年,シャプラニール職員としてネパール開発援助に着手,現地カウンターパートとしてSPACEを選び,バルディヤ郡のカマイヤ支援を始めることになった。

当時,カマイヤのことはまだよく分かっていなかったので,本格的な事業開始前に数年かけて現地の綿密な実態調査を行い,それに基づき具体的な支援計画を作成し,事業を実施していった。

こう紹介すると,支援事業は順風満帆,ありきたりの成功物語かと誤解されかねないが,本書は決してそのような類の報告ではない。

(2)試行錯誤
著者は,シャプラニール東京事務所=SPACE=支援先住民の間に立って,本音でギリギリの交渉を繰り返し行い,問題があればその都度計画を変更し,より適切な支援プログラムを模索していく。その過程はドラマチックとさえいえる。

そして,こうして作成された計画に基づき,伝染病予防キャンペーン,識字学級などの事業が実施されていくが,その中で最も効果的であったと著者が評価するのが,少額ローンのための基金の設立,運営であった。

(3)低利ローン基金支援
著者は当初,カマイヤ→賃金労働者→分益小作人,という階層上昇移動を住民が望んでいると思い込み,その支援を進めようとしたが,これには必ずしも十分な賛同が得られなかった。

そこで,数年かけて作成したこの計画を実態に合わせて変更した。つまり,支援先住民にとっていま最も切実なのは,端境期の食糧不足のため高利で借金をし,それにより債務労働者に転落せざるを得ない,ということであった。この問題を解決するため,著者は,低利ローンのための住民基金の設立,運営を支援することにした。

(4)基金の「成功」
この基金は,住民自身の発案によるものであり,運営も彼ら自身が行った。SPACEからの最初の貸し出しは総額25,600ルピー(51,200円),住民の借り入れは1人当たり800〜3000ルピーだった。半年後,借入金は全額基金に返済され,利子1万ルピー以上が自己資金として積み立てられた。

この基金は,住民の工夫で貸し出し対象を広げ,順調に発展していった。この事業について,著者自身も「住民が自分たちで考え,やると決めたことから始めた開発」と高く評価している。

(5)政治的中立への疑問
ところが,ここで著者は,この種の政治的中立を原則とするNGOの支援活動に対し,根本的な疑問を抱くことになる。

カマイヤ(債務労働者)問題は,現に存在するカマイヤの生活改善支援ではなく,カマイヤそのもの人権回復運動支援として取り組まなければ根本的な解決にはならないのではないか,という疑問である。

これは,ネパールの社会構造に関わる運動であり,その支援は,当然,政治的意味を持つ。従来NGOは内政干渉をおそれ,原則として政治問題に関わらない形での開発に支援活動を限定してきた。ところが,それでは部分的な改善は出来ても,たとえばカマイヤ問題の根本的な解決にはならない。

(6)アクション・エイドの解放運動支援
こうした問題意識から,カマイヤ解放運動を積極的に支援したのが,アクション・エイドである。これは政治的意味を持つ支援活動であり,明らかに外部からのネパール政治への「介入」であった。

アクション・エイドのこの支援活動は,著者にとって,重い問いかけとなった。貧困が社会構造と密接に結びついているとき,NGOは,政治的を理由に,その問題に沈黙していてよいのか? アクション・エイドは,「ノー」といった。では,われわれは・・・・?

(7)市民的非暴力的介入
著者はここで,最上敏樹『人道的介入』(岩波新書)で展開されている市民的非武力的介入に注目する。著者はそれを,国家がその責任を果たさないとき,NGOは「その責任遂行を求めていく」ことが出来ると理解しているようである。そして,次のように言う。

「この(カマイヤの土地への権利の)ような場合,NGOは『政治的な問題にかかわることは相手国の政府から認められていないから』と言って沈黙していてよいのだろうか。」

「(カマイヤの)土地獲得運動も実は一緒に出来たのではないか」「私たちの間にはそういう協力関係もありえたのではないか」

「政治活動の主体」ともNGOは協力できるのではないか? これは,実に重い問いかけである。

(8)一方的介入のおごり
そして,これが重いのは,じつは「介入」は自分自身に跳ね返ってくる問題でもあるからである。

グローバル化が進んだとはいえ,現在はまだ,主権国家が厳然として存在する。その状況でNGOが政府の認めない「介入」を行うことには,大きな制約と危険が伴う。

たとえば,われわれは「人道的介入」というと,先進国や先進国NGOによる途上国への介入だけを考える。しかし,その背後には,「介入」を権力的に保障している先進国の軍事力がある。それに気づかないのは,無知の善意か,単なるおごりにすぎない。

(9)日本への人道的介入
日本についていえば,たとえば死刑廃止国であるネパールのNGOが,日本政府による残虐な死刑執行に「介入」することは当然可能だし,奴隷労働以上に過酷な労働を強いている一部の日本企業に「介入」することも可能だ。

ネパールNGOが,世界市民として「人権」の観点から,日本の政治や社会に「介入」する。そんなバカな,とはいえないはずだ。日本政府がそれを拒否する,あるいは拒否する日本政府を日本国民が容認するのであれば,日本NGOのネパール「介入」をネパール政府が拒否することを非難はできない。

われわれがネパールに「介入」するのなら,ネパール人も日本に「介入」出来る。当然のことだ。もしこれを甘受できないのなら,途上国への一方的「介入」は考え直さなければならない。

(10)世界市民的介入の可能性
市民的非暴力的介入は,そのような問いをわれわれに突きつけている。これはNGO活動のグローバル化と言い換えてもよい。

カマイヤが途上国型債務労働だとすれば,30年ローンを背負っての長時間労働は,現代型(資本主義型)債務労働である。どちらがより悲惨かは,一概にはいえない。NGOが人間開発,人権救済を目指すなら,両方が当然視野に入ってくることになろう。



2006/03/09
日本右派のネパール接近

谷川昌幸(C)

当然といえば当然だが,最近,日本の右派もネパールへ接近する動きを見せている。

ヤフーなどの検索で,「新風ネパール王国支援委員会」というHPがよく出てくるので,のぞいてみたら。かなり面白い記事が出ていた。「設立趣意」によれば,

「ネパール王国の危機は対岸の火事ではなく、共産中国(支那)と国境を接する我が国日本を始とした全ての国々にとって切実な、そして可及的速やかに対処すべき問題である。/全ての日本国民と共に、中華人民共和国の覇権主義と策謀に反対し、ネパール王国の安寧秩序回復と平和を求めて連帯と支援を訴えて止まない。/ここにおいて維新政党・新風は決然として『新風ネパール王国支援委員会』を設置し、日本国政府に対してネパール王国への物的・人的緊急支援の供出を断固要請するものである。」

つまり,共産主義中国に対抗するため,ネパール国王=王国軍を日本国政府は支援せよ,ということらしい。

あれあれ? マオイストと戦っている国王を支援しているのは,反マオイストの中国ではなかったかな? その国王を支援すれば,国王はマオイストとインドのくびきから逃れ,ますます中国へ接近するが,それでいいのかな?



2006/03/08
ネパール協会HP修正

谷川昌幸(C)

3月3日付記事で議論したネパール協会のホームページが修正された。迅速な対応に敬意を表したい。

先にも述べたように,ホームページは協会にとって決定的に重要だ。現在の「会報」(印刷・郵送)は,遠からず継続困難となる可能性が高い。「会報」のHP化は避けられないだろう。

情報化は,日本でもネパールでも加速度的に進行している。協会の今後の発展はホームページの成否にかかっていると言っても過言ではない。

「会報」についても,協会は,著作権,肖像権などについて明確な基準を定め,公表し,そして,それに基づいてホームページ版へと出来るだけ早く移行していただきたいと願っている。



2006/03/03
ホームページと著作権: ネパール協会の場合

谷川昌幸(C)

インターネットの普及で誰でも簡単に情報発信できるようになったのは喜ばしいが,ここで問題になるのが,著作権。これはなかなか難しい問題である。

1.著作権は認められるべきか?

(1)知は万人のもの
かつて岩波茂雄は「読書子に寄す――岩波文庫発刊に際して――」(1927)において,こう述べた。

「真理は万人に求められることを自ら欲し,芸術は万人によって愛されることを自ら望む。」

この岩波の格調高い宣言通りだとすると,著作権により「真理」や「芸術」の流通を制限するのは,「進取的なる民衆の切実なる要求」(岩波)に反するばかりか,普遍化を求める「真理」そのものとも相容れないことになる。

人間は本来,自らを表現すること(世界に現れること―H・アレント)それ自体を欲し,そこに喜びを感じる。表現したもの,つまり著作物(文章,絵画,イラスト,写真,音楽,演劇,プログラムなど)は,その表現活動の結果であり,それらがもし普遍化を求める真理や芸術なら,万人が自由にそれらを利用してもよいはずだ。いや,利用させるべきである。

この著作権否定の考え方は,インターネットの普及により,事実上実践に移されている。ネット上では,文章も写真も,複製,加工のし放題,もう止めようがない。ネット上には,事実上,著作権はない。知も芸術も万人のものになりつつある。

これは岩波の「真理は万人のもの」という理念への前進といってよい。万人が共通の文化世界に参加し,そこに蓄積されつつある膨大な情報を自由自在に利用し,真善美のさらなる実現に向けて努力する。おそらくこれが,人類の創造的活動の一つの理想的なあり方であろう。

(2)知は創作者のもの
ところが,皮肉なことに,真理の普遍性を高らかに唱えた岩波茂雄自身が,著作権による知の私有財産化(囲い込み)によって,岩波文化を育成発展させていった。著作権で守られていなければ,そもそも岩波文庫ですら,存立し得なかったはずだ。

この皮肉は,「学問のすすめ」で知の普及,万人の啓蒙を唱えた福沢諭吉が,他方では,自分の著書の海賊版の横行に立腹し,「著作権」の確立に奔走した史実にも見て取れる。万人の啓蒙が福沢の願いなら,著書が複写され,世間に出回ることは,むしろ歓迎すべきことではないか。

(3)人格の具体化としての著作物
福沢や岩波が「真理は万人のもの」といいつつ,自分たちの創作物=著作物を「自分のもの(財産)」と主張せざるを得なかったのは,著作物が彼ら自身の人格の具体化されたもの,つまり彼ら自身だったからである。

著作物は具体化された自分の人格だから,自分の生命や身体や意志が尊重されるのと同じく,著作物も尊重してほしいということ。これは,もっともな要求である。著作権は人格権だとすれば,その侵害は人権侵害であり許されないことになる。

そして,人権は自分の権利だから,著作権は財産権でもある。J・ロックはこう説明している。――生命と身体と,その身体の働きの結果は,各人固有(proper)のものであり,したがってそれらは各人の財産(property)である,と。

(4)著作物の二面性
このように,著作物は真理を表現したものとして普遍化を求める側面と,著者=創始者(author)の所有する財産(property)として他者から保護されるべき側面の二面性をもつ。

この二つの要求は相対立するものであり,したがって社会では何らかの形で調整されなければならない。この権利の調整を行うのが,世界社会に置いては,ベルヌ条約(1886),万国著作権条約(1952),TRIPS条約(1994),WIPO著作権条約(1996)などであり,日本では「著作権法」である。

(5)「同意」の原則
著作権法の根本原理は,一言でいえば,著者の「同意」である。著作物の創始者(author)は著者本人だから,著作物への権利は当然本人にある。他者は,著者が同意してはじめて,つまり著者による権利譲渡(authorize)によってはじめて,その著作物を利用することが出来るようになる。

J・ロックにおいて,「同意」なき統治権は簒奪であった。それと同じく,「同意」なき著作物の利用は簒奪であり,許されない人権侵害ということになる。

(6)著作権とインターネット
著作物使用におけるこの「同意」原則は,伝統的な印刷物においては,ほぼ確立しており,たとえ侵害があっても,救済は比較的容易である。ところが,はじめに述べたように,近年急拡大したインターネットにおいては,法律も社会慣行もまだ整わず,事実上,アナーキー状態である。

これに対し,「真理は万人のもの」と開き直り,文章でも写真でも無制限にネットに載せてしまう,というのも一つの考え方である。いやなら,世間に自分の著作物を出さなければよいわけだ。

しかし,これについては,やはり先述のように,人間は世界への現れ(アレント)をもって本質としているから,人間は何かを表現せざるを得ない存在である。表現は人権そのものである。だから,勝手に使われるのがいやなら,表現しなければよい,とはいえない。それは,人間をやめなさい,ということに他ならない。表現の自由はもっとも基本的な人権であり,最大限保障されなければならない。

そして,その表現の結果としての著作物も,具体化された人格=自分自身であるから,その使用方法については,本人に当然の権利があると考えざるを得ない。人はすべて「個人として尊重される」。個人の人格や財産の安全が保障されなければ,人は安心して生きていけないし,人類の発展も望めない。ネット時代とはいえ,著作権は一定の範囲内で守られるべき権利だといえる。

こう考えてくると,インターネットにおいても,著作物の使用の可否は,結局,本人(author)の「同意」の原則に従って判断するのが妥当だということになる。


2.著作権法の規定

日本の著作権法も,この「同意」原則に従って構成されている。

(1)著作人格権
 1)公表権(18条)=著作物の公表の可否,公表の方法を決定する権利
 2)氏名表示権(19条)
 3)同一性保持権(20条)=著作物の名称や内容を変更する権利

(2)著作財産権
 1)複製権(21条)
 2)公衆送信権(23条)=著作物を放送したり,サーバーにアップロードして公衆送信する権利
 3)以下略

(3)著作権の譲渡
著作権は権利だから,著作権者は複製権,公衆送信権などを譲渡することが出来る。そして,譲渡された者は,譲渡された権利の範囲内で,著作物を利用できる。


3.事例:雑誌の表紙・目次・記事ダイジェストのデータベース化,HP掲載

以上の著作権の規定それ自体は明快だが,問題は,デジタル化時代においては高品位な複製・加工が誰にでも容易に出来てしまうこと,そして,いったんネット上に公表されたら損害の回復は極めて困難なことである。

たとえば,本や雑誌をスキャンし,HPに掲載することは,小学生にでも出来ることだし,事実,その類のことはいたるところで見られる。これが著作権法違反であることは,明白である。

では,もう少し微妙な場合はどうか? 著作権情報センター『著作権講座U』(2005)は,公立図書館が雑誌の表紙・目次・記事ダイジェストをデータベース化し,ホームページに掲載する場合について,次のように解説している。

「これら(雑誌の表紙・目次・記事ダイジェスト)をデータベース化することは,当然,複製権あるいは翻案権が働きます。更に,インターネットのホームページにこのデータをアップロードする場合には,・・・・著作権法の公衆送信権が働きます。したがって,著作権法上,定められた例外規定を除いてはこれらを許諾なく行うことは出来ません。」(p.22)

著作権法上は,公共図書館ですら,著作物のインターネットでの利用には,これほど厳しい制限が付されている。それは,デジタル化されたデータは,品質劣化なく,瞬時に何千,何万もの複製が可能であり,著作権が著しく侵害される恐れがあるからである。


4.ネパール協会HPの場合

それでは,ネパール協会HPの場合は,どう判断すべきだろうか? 私は協会の1会員だし,HPに私の関与した著作物も掲載されているので,これは私自身の問題でもある。

(1)会報1面スキャン画像掲載
協会HPには,会報バックナンバー(No.98-194)のスキャン画像が一覧表示されている。

  ・194号スキャン画像(HP掲載ファイル)

  ・194号紹介画面(HP掲載ファイル)

「会報」の1面(1頁)は,全体の1/2〜1/3が写真またはイラストであり,雑誌表紙というよりは小冊子本体の第1ページである。画像(194号の場合)は,513×736ピクセル(jpeg)。124KB。

画質は,モニター表示には十分だし,「会報」と同じB5用紙に印刷しても十分鑑賞にたえる。つまり,HP画像をダウンロードして印刷すれば,「会報」1面は誰にでも容易に入手できる状態になっている。

(2)無断転載か?
「会報」への寄稿者は,ごく少数を除き,著作物(写真,イラスト,文章など)を「会報」に掲載することは同意していたが,それのデジタル化(電子化)複製にもホームページ掲載にも,同意はしていない。これは,厳密に言えば,無断転載である。

(3)著作権侵害か?
したがって,厳密にいえば,これは著作権(公表権,複製権,公衆送信権)の侵害に相当するし,著作権情報センターの先述の事例に照らしても,違法である。

「会報」で自ら「本紙の記事,図表,図版その他一切の無断転載を禁じます」と著作権法遵守を宣言しているのだから,ホームページ上の該当ページは削除したほうがよいであろう。

ネパール協会のような弱小団体が,ホームページを大いに活用し,「会報」を掲載するのは効果的であり望ましいことだし,私自身それの実現に努力してきたが,その前提として,著作権者の同意を得ておくことが絶対に必要なことはいうまでもない。

(4)「暗黙の同意」はあったか?
しかし,協会HPの場合,掲載したのは「会報」を編集・発行している協会自身である。だから,先の図書館とは,同列に扱えない側面もある。つまり,著作権者は,「会報」への寄稿時に,デジタル化,HP掲載にも「暗黙の同意」を与えているのではないか,という議論である。

その可能性は,必ずしも否定できない。あの「同意」の哲学者J・ロックでさえ,権利譲渡には「明示の同意」が必要といいつつも,それに徹しきれず,実際には「暗黙の同意」を持ち出さざるを得なかった。

「会報」に写真やイラストを提供したのは,日ネ友好促進と協会の発展のためであった。「会報」のHP掲載は,その目的に合致する。したがって,寄稿者はHP掲載にも「暗黙の同意」を与えているはずだ,という論理である。

たしかに,そうともいえる。断定は難しいので「行列の出来る法律相談室」風にいうならば,著作権侵害と訴えて勝てる可能性は,80%といったところか。

(5)損得計算では?
法的には,おそらく協会の方が,相当,分が悪いだろう。それでは,損得計算ではどうか?

協会HPが「明示の同意」なしに「会報」スキャン画像を掲載していることは,明白な事実だ。1面の写真やイラストは,多少画質は落ちるが,自由自在にデジタルコピーやプリントが出来る状態になっている。では,この事実は,著者に対して,どのような影響を与えるだろうか?

すぐ予想されるのは,「会報」編集委員会も理事会も,著作権をあまり尊重しないのだな,という印象を著者に与えることである。つまり,「会報」に寄稿したら,「明示の同意」なしに著作物を勝手に利用されかねない,という不信感の発生・拡大である。

そうなれば,たとえば命がけで撮った写真,長年の研究の成果など,つまり上質の貴重な著作物であればあるほど,「会報」には寄稿されなくなり,結局,会報は二束三文の捨てネタばかりということになる。

それでよい,というのであれば,それはそれで一つの行き方であり,これ以上,いうことはない。

いや,それは困る,「会報」は可能な限り高度な水準を維持したい,というのであれば,功利主義的損得計算からいっても,「明示の同意」のない「会報」スキャン画像はHPから削除した方がよいと思う。


5.創作の苦難,複製の安直

どのようなものであれ,何かを創り出すことは大変なことであり,だからこそ創始者=著者の創作物=著作物=外化された人格は尊重されなければならない。

これに対し,コピー,複製はいとも簡単,いまではサルにでも出来る。

この創作の苦難と複製の安直の間には,目もくらむような落差がある。われわれが,公平のために,刑事罰まで動員して著作権を守ろうとするのは,そのためである。

しかし,いくら処罰で脅しても,複製の安直には抗しがたい魅力がある。正直に告白するなら,私自身,複製,剽窃,盗作の誘惑を常に感じている。私のHPにも,安直に走り著作権侵害をしている部分があるかもしれない。それほど,盗用への誘惑は執拗であり,ちょっと気を緩めると,つい誘い込まれてしまう。

著作権には,人格と密接に関わるだけに,そのような日々人の品格を試すような厳しさがある。もって重々自戒したいところである。




2006/03/01
ホリエモンの高貴さ,政財界の卑俗さ

谷川昌幸:

ホリエモンが勾留され,四面楚歌,非難の大合唱だ。卑怯ではないか! 口封じに閉じこめ,安全圏から一方的に糾弾するとは。ホリエモンに反論の自由があるとき,なぜ批判しなかったのか?

▼犠牲の子羊,ホリエモン
これは陰謀ではないか? ホリエモンは,巨悪を隠すためのスケープゴートにされたにちがいない。巨悪に骨までしゃぶられている庶民は,ゆめゆめ政財界やマスコミにたぶらかされ,ホリエモン非難の楚歌を合唱してはならない。

すでに何回か指摘したように(1/11,1/18,1/25),ホリエモン・バブルを煽ってきたのは政財界や朝日等のマスコミであり,それに便乗して一儲けしようとしたのは投機家たちだ。株や金融商品取引は,本来,投機家たちの化かし合いの世界,それこそ自民党のいう「自己責任」の下にある。額に汗することなく,指先一本で,巨万の富を得ようとすること自体,庶民倫理にもとる。それを承知で始めたくせに,いまになって騙されたと泣きつくのは,何ともみっともない。

▼朝日のホリエモン糾弾特集
みっともないばかりか,許せないのが,朝日だ。2月26日から「ホリエモンはなぜ生まれたか」という糾弾特集の連載を始めた。

「ライブドアが・・・・急成長できたのは,なぜなのか。拝金主義をあおるような言動も辞さなかった堀江貴文社長は,なぜ時代の寵児になれたのか。」(朝日2/26)

あれあれ,それは朝日新聞社のおかげではないか。大朝日が,はやし立てなければ,堅気の庶民が株バクチなんかに手を出すはずがない。

その朝日が,自分の大罪にほおかむりして,ホリエモン糾弾を始めたのは,なぜか?

▼搾取のからくり
ホリエモンは,根が正直,本物の美意識が災いして,小汚く騙しきれなかった。これに対し,巨悪は老獪であり,卑屈をものともせず庶民や途上国から富を搾り取っている。

健忘症の日本人はもう忘れたかもしれないが,前回バブルのころ,日本の金融機関は,アメリカに騙され,マスコミに煽られ,節税対策アパート経営,地上げなど,詐欺師かヤクザまがいのことを日本中で繰り広げた。ホリエモンの比ではない。挙げ句の果て,バブル破裂で,金融機関は負債まみれになり,とても返済できない,と誰もが思った。

ところが,いまやそれらの金融機関は,ぼろ儲け,儲かりすぎてカネの使い道に困っている。あの天文学的負債は,誰が穴埋めしたのか?

もちろん,庶民だ。時給700円,月給12万円(某米系保険会社の例)の中から,新自由主義の生み出した将来不安に備えコツコツためた貯金に,銀行は0.001%程度の利息しか付けない。ただ同然。そして,そうして集めた金を銀行は内外の株,債権,不動産に投資し,莫大な利益を得ている。自己責任には頬被りし,税金で尻ぬぐいしてもらい,さらに庶民からも,日々,かすめ取っている。

仕掛けが巨大すぎて,実直な庶民には見えないだけ。政財界ぐるみの国家的詐欺といっても,言い過ぎではあるまい。

▼実のなる花の卑俗さ
この詐欺同然の巨悪をカモフラージュしているのが,政財界の「心」や「心の教育」だ。ホリエモンは,その「心」でさえ,金で買えることを天下に知らしめたため,そう,あまりにも正直であったため,巨悪の仕掛けをバラされては困る政財界の怒りを買ったのだ。

政財界の「心」は,おいしい実をつける花である。いや,もっと正確に言うと,巨利を産み出す仕組みをごまかし,美化する卑俗な花に他ならない。

ホリエモンは偉い。実(利得)が尊いものなら,なぜ花で隠す必要があるのか,と語り,実践した。子(利益)が本当に大切なものなら,子を産む行為も子を生み出す部分も,恥部ではなく,隠す必要はないではないか。

これは逆鱗に触れた。政財界の利得行為は恥ずかしい行為,生み出す部分は恥部であり,花でもって覆い隠さなければ,とてもじゃないがやっていけない。

その卑俗な花を,ホリエモンはむしり取ろうとした。恥部丸出しでは,恥ずかしくて巨利は生み出せない。政財界が一致団結してホリエモン抹殺に動いたのはそのためである。

▼あだ花の高貴さ
その提灯持ちが,朝日だ。26日のホリエモン糾弾シリーズ(1)の見出は「あだ花」。これはまた,何たる浅はかさか!

ホリエモンは,資本主義社会で利潤を生むことは恥ずかしいことではなく,隠蔽するための花など必要ない,と喝破した。そして,儲けはどうせ浮利だから,浮利の論理に徹したらよいと開き直った。ここにホリエモンの偉さがある。

花は,本来,昆虫などを騙すためのものだ。うまく騙せば,受精し,実が稔る。だから,花を咲かせ,おいしい実をたわわに稔らせている政財界のお歴々は,本心(受精)を隠し,庶民をうまく騙していることになる。

ところが,その反面,実をつける花は,実をつけるという,後ろめたい不純な動機を持っているので,つまり恥部隠蔽の卑小な原罪意識に災いされ,美に徹しきれず,美しくはなりきれない。

これに対し,実のならない「あだ花」は,美しく騙すことそれ自体が目的であり,したがって純粋であり,絶対的に美しい。観賞用の花が実をつけなくても,誰も「騙された」といって怒りはしない。あだ花の美と戯れ,美しさに騙され,これを楽しめば,それでよい。

▼ホリエモンの美しさ
ホリエモンは,善良な庶民を騙すつもりは,毛頭なかった。彼は,政財界の卑俗な「心」(実のなる花)の本性を暴露した上で,バーチャル金融の花札に参加した。そして,そこで「株式時価総額」という「あだ花」で投機家たちを誘った。

ホリエモンは,政財界のように「心」で「利得」を隠すような卑小な詐術は弄していない。カネはカネだと明言した上で,「時価総額」という美しい「あだ花」で投機家たちを誘惑した。最初から「あだ花」だよ,といって金融投機の花札をやっているのだから,ウソはついていない。

ところが,皮肉なことに,「あだ花」の方が,実のなる花よりも圧倒的に美しい。花札だと分かって始めた投機家たちも,そのあまりの妖艶さに魂を奪われ,我を忘れ,のめり込んでしまったのだ。

ただ,それだけのこと。バーチャル金融世界は,本来そういうところであり,魂を奪われたのは,奪われた方が悪い。自己責任に決まっている。それなのに,失恋の責任を恋人の美しさになすり付け,権力に泣きつくとは,何とも情けない話しだ。

▼小姑的嫉妬に負けるな!
政財界や朝日などのホリエモン糾弾は,ホリエモンの「あだ花」的美しさへの,小姑的な醜い嫉妬に由来する。ホリエモンの美しさは,彼の罪ではない。遊び心を忘れ,本気で惚れ,振られた。自業自得だ。

ホリエモン頑張れ! 出獄したら,もう一度同じことをやり,その美しさで朝日や投機家どもを魅了し,そして,もう一度捨ててやれ!