2006年10月   ネパール評論


2006/10/31

これがネパール式選挙だ

谷川昌幸(C)

United We Blog!が,憲法制定会議選挙を批判している。私自身,かつて

国内ミニ冷戦の平和  民主化試行錯誤の許容範囲

と書いているが,どうやらその方向に展開しているようだ。

1.巨大な制憲会議
まず,唖然とするのが,制憲会議の巨大さ。なんと425人,しかもその構成が傑作だ。

憲法制定会議  任期2年
 選挙で選出  205人
 政党指名   204人
 首相指名    16人
 −−−−−−−−−−−−−
    計     425人

この構成がのどこが民主的なのか? people's powerとはこのことか? 16名もの指名権を持つ首相は,国王とどこが違うのか? しかも任期は2年とのこと。いつ,新憲法をつくるつもりなのだろう。

つぎに暫定立法議会。これも巨大だ。

暫定立法議会
NC               73人
NC-D              40人 
UML              68人
CPN-M            95人
RPP/Rastriya Janashakti 12人
Sadbhawana           5人
Majdoor Kisan          1人
Janamorcha Nepal       6人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      計         300人

2.パイの分け前
この方向で決着すれば,権力の2/3を7政党,1/3をマオイストが権益として占めることになる。ただし,現在の勢力からして,これではマオイストが納得しないかもしれない。

いずれにせよ,これから明らかなように,復活議会は特権保持が第一目的であり,現状をできるだけ引き延ばそうとする。マオイストは,武力で,国家権力の分け前をできるだけたくさん分捕ろうとしている。

共和主義,people's powerなんて,せいぜいこの程度のものなのだ。政治はそれを十分踏まえた上で語るべきであろう。

 * United We Blog, Oct.30.

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2006/10/29

安倍首相の怪著「美しい国へ」

谷川昌幸(C)

安倍晋三『美しい国へ』文春新書,2006年,730円

安倍首相の『美しい国へ』を100円電車の中で読んだ。あぁ,なんたる怪著! 幼稚,軽薄,愚劣,無節操。とても日出ずる国の偉大な首相の書いた本とは思えない。

これは絶対にゴーストライターの作だ。安倍氏は大国日本の首相なのだから,経費をケチらず,もう少しマシなゴーストライターを雇うべきだった。わが敬愛する安倍首相が自ら書かれたものではないと確信しているが,ゴーストライターを使用したとどこにも書いてないし,著者紹介には「本書が本格的な初の単著となる」と明記されているので,一応,あくまでも仮にだが,安倍首相が書かれた本として,以下に感想を少々述べさせていただく。

いつもネパールの政治家について論評しているので,たまには日本の政治家についても紹介し,比較してみるのもよいだろう。

1.ニヒリスト小泉前首相の利己的美学
安倍首相に政権を(事実上)禅譲した小泉前首相は,ネオリベラルであり,ケシカラン政治家だったが,確信的利己的ニヒリスト特有の悪の魅力をもっていた。

彼にとって,国家権力は自己陶酔のための手段であり,これはたとえば趣味のオペラと同じことであった。権力行使によって何かを実現しようとしたわけではない。権力行使それ自体の甘美な陶酔それ自体が目的であり,成功しようが失敗しようが,彼にとって,それはどうでもよいことであった。いまだけを生きる積極的ニヒリスト。

歴史に名を残すなどといった甘い幻想は,これっぽっちも無かったにちがいない。国民は,小泉前首相のその悪魔的・悪女的魅力に魅せられ,すんでのところで地獄に突き落とされるところだった。(イラク参戦を見よ。)

2.ネオコン少年の安倍首相
安倍首相には,ニヒリスト小泉前首相のような悪の魅力もスゴさも全くない。安倍首相はネオコン(neo-conservative)になりきていない未熟ネオコン少年である。

しかし,見方によっては,ネオコン少年の方が,審美的権力ニヒリストよりも何倍も危険である。ニヒリスト小泉前首相は,自分に快楽をもたらす権力やオペラの本質を見抜いており,分かった上で快楽にふけっていた。しかも徹底的に利己的だから,面倒なことになる前に,さっさと権力を放棄してしまった。ヒトラーのような粘着質の権力ニヒリストとは,そこが根本的に違う。

ところが,安倍首相は,未熟ネオコン少年だから,権力の本質が全く分かっていない。小泉前首相が権力悪を楽しんだのに対し,安倍首相は権力を使って善行を施そうなどという,甘っちょろい考えをもっている。ネオコンごっこで権力強化し,よい子ぶって,その権力で国民を善導しようなどと幼稚なことを考えている。要するに,子供の火遊びだ。そして,これがいちばん危険なのだ。こんな政権は一刻も早く引導を渡すべきだ。

3.チチばなれ出来ない晋三氏
『美しい国へ』を開くと,晋三氏のお父さん(安倍晋太郎元外相)やお祖父さん(岸信介元首相)がやたらと出てくる。そのこと自体は別にかまわないのだが,情けないのは,「お祖父ちゃん,お父ちゃんに言われたとおり,ぼくちゃんはやっています」といった話しが次々に出てくること。

「祖父は,幼いころから私の目には,国の将来をどうすべきか,そればかり考えていた真摯な政治家としか写っていない。それどころか,世間のごうごうたる非難を向こうに回して,その泰然とした態度には,身内ながら誇らしく思うようになっていった。」(p.24)
「父,そして祖父も政治家だったので,わたしも子供のころは素朴に父のようになりたいと思っていた。」(p.30)
「《政治家は,自らの目標を達成させるためには淡泊であってはならない》――父から学んだ大切な教訓である。」(p.37)

ふつう52歳にもなったら,こんなことは恥ずかしくて書けはしない。おそらく晋三氏には,大人になるための通過儀礼たる「反抗期」は無かったのだろう。

4.確たる信念なく,たじろぎ・・・・
その未熟ネオコン安倍首相の信念は,チャーチルに学んだ「確たる信念をもち,たじろがず,批判を覚悟で臨む」(p.41)だそうだ。

が,この本のどこに「確たる信念」があるのか? チャーチルこそ,いい迷惑だろう。

5.人権よりも主権が先の拉致問題
安倍首相の信念らしきものといえば,なんといっても拉致問題への強硬姿勢だろう。威勢はよいが,これは信念というより,独りよがりであり,要注意。

彼は,人権よりも,「なによりも日本の主権が侵害され」(p.46)たことを問題にしているのだ。人権侵害の立場に立てば,国際世論を糾合して解決に向かうはずなのに,主権侵害が先に立つので,そうした努力は十分にはなされず,後回しにされてきた。北朝鮮問題の解決が,国際的協力なしには一歩も前進しないことは,いまや常識となりつつある。

6.へなちょこ靖国参拝論
安倍首相のもう一つの信念らしきものは,靖国参拝。この本でも,「一国の指導者が,その国のために殉じた人びとにたいして,尊崇の念を表するのは,どこの国でもおこなう行為である」(p.68)とはっきり述べている。ところが,周知のように,かれはどうやら靖国参拝は行わないという言質を入れ,中国・韓国訪問を実現したらしい。へなちょこ信念ではないか。

その点,小泉前首相は立派だった。おそらく彼自身は靖国神社なんか信じていないだろうが,信じた振りを演じきった。立派なワルであり,困った首相だが,美しい。

ところが,安倍首相は,靖国をシンプルに,無邪気な少年のように信じ切っているのに,中国・韓国(そして米国)の圧力にへなへなと負け,参拝をやめてしまった。「たじろがず,批判を覚悟で」は,どこへ行ったのか!

安倍首相には,日本国の運命よりも自分の美学を優先させる小泉前首相のような「美しさ」は,みじんも感じられない。若年寄の小賢しい俗な現実主義があるだけだ。

7.軽薄ナショナリズム
安倍首相の第3のウリは,ナショナリズム。ところが,このナショナリズムも,安倍首相が語ると,軽薄そのもの,ヘナヘナ,ペラペラだ。

東京オリンピックのころ,安倍少年は「日本人が活躍しそうなときは」みんなでテレビを見,「日本人が勝ったという誇らしげな気分」にひたったという。小学生の安倍氏の行動そのものに後知恵でイチャモンをつけているのではない。そうではなく,大国日本の首相ともあろう人が,こんな稚拙な文章を書き,ナショナリズム――重く怪しく危険きわまりない――を弄び,正当化しようとする軽率さが問題なのだ。こんなことも言っている。

「国際スポーツ大会における勝ち負けというのは,国がどれほど力を入れるかで,おおきく左右されるものだ。勝つことを目標にかかげることで,それにむかって頑張ろうとする国民の気持ちが求心力のはたらきをえて,ひとつになる。」(p.79)

情けない。小学生か! まだまだある。

「いま若者たちはスポーツで愛国心を率直に表現している。スポーツには,健全な愛国心を引きだす力があるのだ。/スポーツに託して,自らの帰属する国家やアイデンティティを確認する――ナショナリズムがストレートにあらわれる典型がサッカーのW杯だ。」(p.80)

「2004年のアテネオリンピックで,水泳800メートル自由形で優勝した柴田亜衣選手は,笑顔で表彰台にのぼったのに,降りるときには大粒の涙を落としていた。/『金メダルを首にかけて,日の丸があがって,「君が代」が流れたら。もうダメでした』。/日本人として,健闘を称えられたことが率直にうれしかったのだ。」(p.82)

日本人として,情けなくて,涙が流れそうだ。安倍首相には,スポーツがナショナリズムを超える力を持つ――それこそがスポーツの本質――ということが,まるで分かっていないようだ。

東京オリンピックで最高の感動を呼んだのは何だったか。決して日の丸ではない。ほとんどの日本人が,日本人たることを忘れて感動したときがあった。小細工で歴史を偽造してはならない。

それは,いうまでもなく,マラソンのアベベだ。裸足で黙々と走る哲人のようなアベベの姿。それは,国家も民族も超え,日本中の人々を感動させた。スポーツは,国境を越えるところに,その本質がある。国旗を振り振りナショナリズムを煽るような軽薄なスポーツは,企業と国家の野合であり,決して本物のスポーツではなく,見せ物である。

8.愛なき人の愛説教
未熟ネオコン安倍首相は,よせばよいのに,大人の領域である宗教や愛にまで口を挟む。これは,もうどうしようもない。無教養丸出し。遠藤周作の『沈黙』について,こんなことを書いている。

「ロドリゴは,拷問を受けても棄教せず,殉教していく日本人キリシタンたちを救うために,自ら踏み絵を踏み,信仰を捨てる選択をする。神に仕えるロドリゴにとって,仲間のキリシタンを助けることは世俗のことにすぎない。しかし,彼は結局は,世俗を優先し,現実の世界で誰かを救うため,いままでの人生を否定することまでした。」

こんな浅薄な読みは,小学生でもしない。情けない。踏み絵を踏むことが,「世俗のことにすぎない」とは,およそ信仰とも愛とも無縁の人の言うことだ。安倍首相には,愛や思いやりの心を語る資格は全くない。

9.気の抜けた家族国家論
安倍首相の軽薄ナショナリズム,愛なき愛説教は,気の抜けた二番煎じの軽薄家族国家論にたどり着く。

戦前の家族国家論は,伊藤博文らの苦心の作たる「大日本帝国憲法」を根拠にしており,『国体の本義』に見られるように,それなりによくできていた。西洋近代思想をよく研究し,その弱みをつき,「そうかなぁ」と思わせるようなできばえとなっていた。

つまり,自然な家族愛が郷土愛となり,これが愛国心となる。家族の長が父であるように,国家の長は赤子の父たる天皇陛下である。自然な家族共同体の拡大したものが自然な生命国家日本であり,これは利己的人間が集まって人為的につくった西洋の機械的国家とは全く異なるものだというわけだ。初等教育で思考のベクトルを機械よりも生命,論よりも情に方向付けてしまえば,あとは簡単,国民はこの情緒的生命国家論,家族国家論の世界の中でしか思考できなくなってしまう。『国体の本義』は悪書だが,妖艶な悪女の魅力を備えている。

安倍首相は,この家族国家論を墓場から掘り起こし再生させたいようだが,グローバル化の21世紀,そんなアナクロ秘術で騙されるような単純な人はいないはずだ。

たとえば,戦前の軍国主義者たちがそうしたのと同じく,安倍首相も特攻隊員の自然な愛を国家のために横取りしようとする。

「《かれら(特攻隊員)は,この戦争に勝てば,日本は平和で豊かな国になると信じた。愛しきもののために――それは,父母であり,兄弟姉妹であり,友人であり,恋人であった。そしてその愛しきものたちが住まう,日本であり,郷土であった。かれらは,それらを守るために出撃していったのだ》/わたしもそう思う。だが他方,自らの死を意味あるものにし,自らの生を永遠のものにしようとする意志もあった。それを可能にするのが大義に殉じることではなかったか。・・・・死を目前にした瞬間,愛しい人のことを思いつつも,日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。」(p.107)

日本軍国主義の聖典『国体の本義』の下手な引き写しである。あのアジア・太平洋戦争のどこに「大義」があったのか? 父母が身を挺して子を守るように,愛ゆえに自らの生を犠牲にすることは,崇高な行為である。国家のため生命を捧げるということも当然ありうる。しかし,家族愛と国家愛とのあいだには,越えなければならない手順がたくさんある。家族愛が無条件に国家愛に直結するわけではない。国家は機械だから,機械の保守のために命を捧げるには,合理的に納得できるだけの根拠がいる。100%合理的な了解は無理としても,ギリギリまで合理的に理解し,納得する努力は絶対に不可欠だ。それが民主主義だ。ところが,大日本帝国はその合理的手順を放棄し,家族愛と国家愛を情緒で直結し,それを安倍首相も安易に引き写している。

安倍首相には,親子関係ですら機械的な契約関係で合理的に説明したホッブズの厳しさは,みじんも感じられない。親が子を,子が親を守ることを,ホッブズはギリギリのところまで合理的に説明し,納得させようとした。情で直結するような手抜きは許さなかった。それが政治家というものだ。政治家には,そうした厳しさが求められる。

ところが,安倍首相のアナクロ家族国家論は,「甘えの構造」(土居健郎)にどっぷり浸かり,政治家としての本物の自覚,責任感を完全に忘却している。政治家が国民にむかって愛や道徳を説くのは,支配を合理的に説明できないのを糊塗するための「甘え」であり,国民はこのようなごまかしを断じて許してはならない。

大日本帝国も安倍首相も,特攻隊員の死を合理的に説明できない。だから愛に甘え,ごまかすのだ。国家との関係で言えば,特攻隊員の死には,何の意味もない。無駄死にだ。しかし,権力者たちは,もし彼らの死を無駄死にと認めると,そうさせた彼らの責任が追求されるので,「大義に殉じること」(p.107)と情緒的に美化し,偽りの意義を与えたのだ。卑怯ではないか。

日の丸をうち振って特攻隊を賛美する安倍首相のような人々こそが,私たちから家族,友人,恋人,郷土を奪っていくのだ。観念的情緒的日本国家のために。そんなくだらぬもののために,命を捨ててはならない。

10.従属国家へ
アナクロ・ナショナリスト安倍首相は,日本国家の独立を願っているらしい。

「では,わたしたちが守るべきものとは何か。それは,いうまでもなく国家の独立,つまり国家主権であり,わたしたちが享受している平和である。」(p.129)

ところが,「『自分の国は自分で守る』という気概が必要なのはいうまでもないが,核抑止力や極東地域の安定を考えるなら,米国との同盟は不可欠であり,米国の国際社会への影響力,経済力,そして最強の軍事力を考慮すれば,日米同盟はベストの選択なのである」(p.129)ということになる。

しかし,これはウソだ。沖縄はいうに及ばず,日本全国に米軍基地があり,軍事占領されているに等しい。自衛隊がいても,これは米軍の下働きであり,独自作戦は不可能だ。

しかも,米軍は日本防衛のために駐留しているというのは,全くのウソであり,話しにもならない。アメリカは,米国本土防衛の盾,弾よけとするため,日本に経費を負担させ米軍を日本に駐留させているのだ。

この点では,チチ離れできない安倍首相よりも,自主防衛論を採る石原東京都知事の方が,危険ではあるが論敵としては立派だ。

11.自衛隊の海外傭兵化
アナクロ安倍首相は,グローバル化の怖さも知らぬまま,アメリカの軍事的下働きを海外にまで拡大するため,自衛隊を海外に派遣しようとしている。

PKF参加解除で,「これまでの後方支援から停戦や武装解除の監視,あるいは放棄された武器の収集,処分といった幅広い国際協力が可能になった。また,・・・・武器使用の制限も,正当防衛の範囲内で緩和された」(p.143)。

いよいよ自衛隊が,イラクやアフガンのような紛争地に本格的に派遣され,米軍の下働きとして働かされ,米兵の身代わりとなって名誉の戦死を遂げ,そして,靖国神社に英霊として祭られることになる。こうなれば,安倍首相も,堂々と靖国神社参拝が出来るわけだ。

12.そして,先制攻撃へ
そして,安倍首相のアナクロ国家主義の仕上げが,先制攻撃論。国家主義者らしく安倍首相は「日本も自然権としての集団自衛権を有している」と強弁している。

自然権は,自然人(個々の人々)の生存権だけだ。国家は不自然な人工物であり,その権利はすべて個々人より信託されたものにすぎない。これは,政治学の常識。それなのに,安倍首相は,自然権としての自衛権を根拠に,先制攻撃を正当化する。

「どこの国でももっている自然の権利である自然権を行使することによって,交戦になることは十分にありうることだ。・・・・明らかに甚大な被害が出るであろう状況がわかっていても,こちらに被害が生じてからしか,反撃が出来ないというのが,憲法解釈の答えなのである。」(p.133)

だから,憲法を改悪し,軍隊を堂々と保持し,アメリカのように先制攻撃が出来るようにせよということになる。想像力の欠如としか言いようがない。日本が先制攻撃権を振りかざせば,当然相手も同じことを考える。ミサイルの時代,先制攻撃されたら,防ぎようがない。

13.アナクロ教育論
先にも触れたように,一般に政治家は合理的に説明できない胡散臭いことをするとき,国民に愛やモラルを説くものだ。安倍首相も「モラルの低下」(p.212)を嘆き,「教育の再生」を唱える。バカバカしい提案ばかりだが,極めつけは,ボランティアの強制。

「たとえば,大学入試の条件として,一定のボランティア活動を義務づける方法が考えられる。大学の入学時期を原則9月にあらため,高校卒業後,大学の合格決定があったら,それから3カ月間をその活動にあてるのである。」(p.213-4)

愚劣きわまりない。「美しい国へ」というのなら,「ボランティア」などという敵性言語の使用からまずやめるべきだ。「奉仕活動」「勤労奉仕」といった「美しい」日本語があるではないか。そして,この3カ月を自衛隊体験入隊にすると,日本はもっと「美しい国」になるだろう。

こんなくだらない提案を恥ずかしげもなく掲げることが出来るのは,安倍首相がそもそも「愛」を知らないからだ。愛なき奉仕は苦役であり,教育にとっては全くの逆効果。そんな「愛」なき政治家が教育改革を政策の目玉にする。日本はもはや末世だ。

14.美しくない国,日本
いまの日本は,残念ながら,たいへん醜い。そうしたのは,晋三氏のお祖父さん,お父さん,大叔父(佐藤栄作)さんをはじめとする権力政治家たちだ。

晋三氏は,いまの日本は美しくないと批判しつつ,そうしたのが誰かまで頭が回らない。憲法,教育基本法があるにもかかわらず,それらを無視した政治により,日本は醜くされてきた。「日本社会は,自由と民主主義,そして基本的人権を尊重する社会であり,しっかりした法の支配の下にある」(p.158)。あれあれ,憲法9条(戦争放棄)や20条(信教の自由)を他に率先して無視してきたのは,誰だったのだろう。

日本は美しくない。『美しい国へ』で政治を進めると,ますます美しくなくなる。憲法,教育基本法の遺産があるあいだに,『美しい国へ』を捨て,本当に美しい国へと方向転換を図らねばならない。

15.必読文献としての「美しい国へ」
正直いって,『美しい国へ』を読む以前は,安倍首相がこんなにヒドイ人物とは思っていなかった。美しいがワルの小泉首相よりもマシかな,と想像していた。ところが,そうではなかった。安倍首相は,美しくなく,そして悪い。

私たちにとって,良書だけが必読なのではない。悪書もときには読む必要がある。『美しい国へ』は,美しくも面白くもない駄作だが,われらが首相の「本格的な初の単著」(著者紹介)である。国民には,たとえ拷問に耐えるほどの決意が必要だとしても,読む義務がある。

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2006/10/24

WFP食料供与,大人の現実主義

谷川昌幸(C)

WFP(国連世界食糧計画 )が武装解除後のマオイストに食料を供与すると発表した。さすが経験豊かなWFP,大人の現実主義だ。

人民解放軍はいまや35000人。5,6千だったのが,この1,2年で急増した。常識から見て,毛沢東思想の信者はせいぜい数百人,多くて数千人。残りの3万余は,メシのために戦っているにすぎない。

しかし,これを放置すれば,メシのための戦いが構造化し,戦争なしでは済まなくなってしまう。そうなるとやっかいだ。

そこでWFPは,マオイスト兵35000人に食糧を供給することにしたのだ。これは,腹のふくれぬ共和制お題目よりもはるかに大きな和平へのはずみになる。

しかし,ネパールはすでに困った状況になっている。マオイスト税が急拡大し,人民戦争で儲かる構造ができつつあるのだ。

カネはメシよりも始末が悪い。食糧供与で納得しない強欲「マオイスト」がすでに各地に割拠しているのではないか? 

また,マオイスト兵力は10万人という説もある。食料がもらえるエリート・マオイストと,もらえないマオイスト雑兵をどう区別するのか? これも頭が痛い問題になりそうだ。

* ekantipur, Oct.23; nepalnews.com, Oct.23.

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2006/10/22

マオイスト警察,リンチか正義か?

谷川昌幸(C)

ネパリタイムズ(10/20-26)がカトマンズへの人民政府進出を伝えている。興味深い。

1.誰が誰を何から守っているのか?
まず写真(10/15)が衝撃的。地元の人は見慣れたかもしれないが,首相官邸をマオイスト兵が警備し,群衆整理をしている。首相官邸といえば,いまでは国家権力の中心。そこに敵対政府の治安部隊が現れ,堂々と警備している。異様というか,無様というか,もはや末期症状だ。いったい誰が誰を何から守っているのか?

2.マオイスト警察,タメルに出動
ネパリタイムズによれば,10月14日夜,マオイスト50人が5台の車に分乗しタメルに出動,治安維持に当たっているのが目撃された。人民解放軍か他の組織か不明だが,50人は大組織,おそらく警察のようなものだろう。外人ですらマオイスト警察に警護されるようになった。

戯画的というか倒錯というか,いやネパール的というべきか。

タメル=植民地支配する先進諸国の人々の遊興のための租界。ドラッグ,酒池肉林の堕落と悪の巣窟。良家の子女の立ち入り禁止。
マオイスト=植民地支配打倒。禁酒,禁ドラッグ,女性解放。健全な人民の育成。ネパールの尊厳と全面解放。

さて,タメル出動のマオイストは,誰を何から守っているのか? これはタメルの堕落か? それとも,マオイストの堕落か? 倒錯が倒錯して,ネパールの常識になってしまったのか?

3.マオイスト警察・法廷の活動
ネパリタイムズによれば,これはカトマンズへの人民政府の本格的進出の現れのようだ。マオイストはカトマンズにも警察と人民裁判所を設置し,悪人どもを取り締まり始めたらしい。

14日夕方,酔っ払いケンカを始めたラマさんを,マオイスト警察が来て逮捕,3日間拘置し,バラジュのマオイスト労組事務所で説諭のうえ釈放した。ラマさんは,足腰立たなくなるほど殴られ半殺しの目にあったが,酒なんか飲んだ罰であり,これは悪癖からの人民解放のための愛のムチ,感謝こそすれ,ゆめゆめマオイスト同志を逆恨みしてはなるまい。

ラマさんによると,マオイスト拘置所には他にも拘置されている人が何人かいたというから,マオイスト警察は人民の精神的肉体的浄化のため,カトマンズでも本格的に活動し始めたのだろう。

ネワール系マオイスト組織のシュレスタ氏は,「この3週間,市中をパトロールし,何人かを訴追のため勾留した」「有罪と認めた者は,訊問後,警察(7党政府警察のこと)に引き渡すつもりだ」と正々堂々と認めている。

ネパリタイムズによると,マオイスト警察に連行され,行方不明になっている人も,ラジェシュ・シュレシタさんら5人など,何人かいるらしい。肉体浄化されたのか?

少し前,プラチャンダ議長は都市部では人民裁判は行わないとはっきり約束した。ところが,停戦監視委員会タラナト・ダハール委員は,カトマンズ盆地でもマオイストが人々を逮捕し,人民裁判で裁いている,というウワサがあることを認めている。これは,上述の状況から見て,本当だろう。

4.1国2政府の無理
1つの国に2政府があり,それぞれが立法,行政,司法のサービスを国民に提供するのは,競争原理の導入であり,結構なことだ。ネパール国民は,サービスのよい方を選ぶことができる。

たとえば,土地紛争や離婚問題を7党政府裁判所よりもマオイスト裁判所の方が迅速かつ低料金で裁いてくれるなら,国民はマオイスト裁判所に訴えるとよい。あるいは,道路や橋の建設を7党政府とマオイスト政府に競わせ,マオイスト政府の方が好条件なら,地域住民はマオイスト政府に建設を発注するとよい。競争原理により,選ばれた方の政府が生き残る。めでたし,めでたしと言いたいところだが,さて本当にそううまくいくだろうか?

残念ながら,現実には,そうはならない。たとえば,離婚問題で妻はマオイスト裁判所,夫は7党政府裁判所に訴えたら,どうなるか? あるいは,道路建設を望む地域住民がマオイスト裁判所に,土地を接収されそうな地主は7党政府裁判所にそれぞれ訴えたら,どうなるか?

裁判所は権力機関であり,判決は執行されなければならない。判決は,行政機関,警察,そして最後には軍隊により執行を担保されているのだ。

極端なことを言えば,離婚判決を執行するため,妻側は人民解放軍を,夫側は7党政府軍を動員し,両軍の戦争により,決着をつけざるをえない。つまり,1国内に2政府があれば,戦争は不可避なのだ。

5.リンチと正義
1国内では,正義(裁判権)は1つでなければならない。それ以外は,リンチ(私刑)であり,許されない。

現在のネパールは,過渡的な1国2政府状態にあり,どちらの政府が正統か,どちらの裁判がリンチか,分かりにくい状況にある。

しかし,法治主義の基本原則から見ると,7党政府の裁判の方が,特に都市部においては,まだはるかにましであることは確かだ。7党政府,とくに国軍が違法行為をすることが少なくないのは事実であり,それらは厳しく糾弾されなければならない。しかし,7党政府は,一般的にはまだ法治主義の拘束の下にある。不十分とはいえ,最低限の人身保護は制度的に保障されているのである。

ところが,報道で見る限り,マオイスト人民裁判所には,そんなものはほとんどない。闇裁判であり,リンチである。過渡期,移行期,革命途上と理由はあるにせよ,こんなリンチの拡大を許してはならない。

さて,タメルで酒を飲みケンカになったとき,あなたは7党政府警察を呼ぶか,それともマオイスト警察を呼ぶか? ビールでも飲みながら,じっくり考えてみることにしよう。

マオイスト拘置所で不審死
と,ここまで書き,ブログに書き込もうとしてインターネットを開くと,何と,危惧していたことが現実のものになった。首都ではなく,ジャパでのことだが,マオイスト警察に勾留されていた市民が不審死したのだ。

10月15日,マオイスト警察はジャパのラジバンシさんを窃盗容疑で逮捕し,勾留した。そして,その1週間後の22日,マオイスト警察は彼が服毒自殺したと発表し,検視も解剖もせず,また遺体を遺族に渡すことすら拒否し,メチ川の川岸に埋葬してしまった。ところが,人権活動家たちによると,彼の遺体には殴られた傷跡があったという。

ネパールニューズコムによると,この数週間で少なくとも2人がマオイスト拘置所で死亡しているという。

人身保護,法の適正手続は,ひとかけらも見られない。これはリンチだ。断じて正義(裁判)ではない。

人民の意志(people's power)は,リンチを誉めたたえることはあっても,正義は守らない。人民は法で縛られてはじめて,正義の女神に頭を垂れるのだ。

* Alok Tumbahangphey, "Red road," Nepali Times, #319, Oct.20-26, 2006; nepalnews.com, Oct.22; eKantipur, Oct.22

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2006/10/19

商工会議所vsマオイストvs地方自治体

谷川昌幸(C)

1.転向の雪崩現象
日本にいるとよく分からないが,ウワサでは,いまやネパールでは「転向」が流行っているそうだ。各界のエライさんや見識ある「知識人」が,傾れを打ってマオイストへ転向しているという。人民より先に,上流階級が「解放」されている。

2.商工会議所
これに頑固に抵抗しているのが,商工会議所(FNCCI)。パタン上訴裁判所の禁止命令を無視し,10月17日全国ストを実施,商店,工場を閉鎖した。ポカラでは,スト破りのトラック運転手と衝突し,9人が負傷した。

FNCCIの要求は,要するに,マオイストの財物強要(マオイスト税)や妨害行為をやめさせよ,ということ。これに対し,コイララ首相はこう答えた。

「企業家たちが,商工業の平和と安全の保障,労働組合紛争の解決を要求したのに対し,首相はこの要求に応えることを約束した。」(nepalnews.com, Oct.18)

商工会議所が全国ロックアウトを敢行し政府に圧力をかけるのも,首相がこんな場当たり的な安請合いをするのも,いかにもネパールらしい。

3.地方自治体,大量解雇
マオイスト税の増税は地方自治体を直撃,昨年度35.3億ルピーの税収が今年度は半分になりそうだという。

そのため,地方自治体は18000人の臨時雇いを解雇する予定という。税収もないのに,雇用できるわけがない。

マオイストが,これらの気の毒な臨時雇いをマオイスト政府職員として雇用してくれれば,少なくとも雇用に関しては問題はない。しかし,おそらくマオイスト税の大部分は人民解放軍の維持に優先的に回されるだろう。

3.力は正義なり
「武器なき予言者は破滅する。」政治の場では,結局は,力は正義であり,マオイスト支配の拡大やマオイストへの大量「転向」をもたらしているのは,人民解放軍の「力」である。「革命は銃口から生まれる」(毛沢東)。

和平交渉も,いまや軍隊をもつ2政府間の交渉に近いものになっており,したがって武器管理が難航するのも当然だ。

しかし他方,政治は,"Might is right" と言い切れないところに,深さと難しさと,そしてまた希望もあるのである。

* nepalnews.com, Oct.18; eKantipur, Oct.17.

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2006/10/16

ネグリ=ハート「マルチチュード」(3) 帝国

谷川昌幸(C)

 ネグリ=ハート「マルチチュード」(1) グローバル帝国の解剖
 ネグリ=ハート「マルチチュード」(2) 人民とマルチチュード
    M=『マルチチュード』NHKブックス,2005   E=『帝国』以文社,2003

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面白い本の面白くない解説
冒頭で述べたように,ネグリ=ハートのこの本は,スゴイ本のようだ。この類の本の解説は,どう書いても原本以上に面白くはならない。

たとえば,丸山眞男の本はメチャ面白いが,陸続と現れる解説や研究はどれも面白くない。著者諸氏には悪いが,気の抜けたビール。丸山論を読むくらいなら,丸山本人の文章を再読,再々読した方が,はるかに面白く,その都度新たな発見がある。

むろん,解説を書くほどの人々は,そんなことは十分承知の上だ。それでも恥を忍んで書くのは,丸山を読むと何か言わざるを得ない,書かざるを得ないようになる,つまり丸山に書かされてしまうのだ。本物の古典とは,そうした力を持つ文章のことだ。

ネグリ=ハートの本は,まだ100円電車内で冒頭の数十ページを読んだにすぎず,本当にそうした古典かどうかまだ分からない。しかし,スゴイ感じはする。だから,以下は読みながら「面白いな」と感じたことの,抜き書きにすぎない。こんな駄文を読んでくださる方はあまりないだろうが,あらかじめ,重複や不徹底,思い違いが多々生じるかもしれないことを,お断りしておく。(可能な限り訂正はします。)
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6.帝国主義
帝国主義とは,ホブスンによれば,19世紀中葉以降の国民国家による植民地拡張主義のことであり,レーニンによれば,世紀転換期以降(独占段階の資本主義)の列強による植民地拡張主義ことである。ネグリ=ハートは,こう定義している。

「じっさい帝国主義とは,ヨーロッパの国民国家による,それ自身の境界を超える主権の拡張のことだった。その結果,最終的には世界のほぼ全領域が分割されるにいたり,世界地図全体も英国の領土は赤色,フランスは青色,ポルトガルは緑色などといった具合に,ヨーロッパ諸国の色に応じて塗り分けられることになった。近代的主権は,どこに根を下ろそうとも,かならずや一個のリヴァイアサンを構築したのである。」(E4-5)

ところが,グローバル化は,この世界の構造を根本的に変えてしまった。世界はもはや独立した主権国家からなる近代世界でもなければ,列強の相争う帝国主義の世界でもない。グローバル化は,世界を<帝国(Empire)>に変えてしまったのである。

7.帝国
この<帝国>とは,国民国家に加え,超国家的制度,巨大企業,その他の権力が要素ないし節点となって形成されている「ネットワーク状の権力」である(M17)。

この<帝国>では,たとえアメリカといえども単独行動主義は無理であり,また逆に諸国の平等な参加による多国間協調主義もあり得ない。<帝国>は,分裂しつつ階層秩序を維持する「ネットワーク状権力」なのである。

「<帝国>が,私たちのまさに目の前に,姿を現している。この数十年のあいだに,植民地体制が打倒され,資本主義的な世界秩序に対するソヴィエト連邦の障壁がついに崩壊を迎えたすぐのちに,私たちが目の当たりにしてきたのは,経済的・文化的な交換の,抗しがたく不可逆的なグローバル化の動きだった。市場と生産回路のグローバル化に伴い,グローバルな秩序,支配の新たな論理と構造,ひと言でいえば新たな主権の形態が出現しているのだ。<帝国>とは,これらグローバルな交換を有効に調節する政治的主体のことであり,この世界を統治している主権的権力のことである。」(E3)

「<帝国>が支配するのは,内部分裂や階層構造によってバラバラになり,さらには恒常的な戦争に苛まれたグローバル秩序である。<帝国>において戦争状態は不可避のものであり,戦争は支配の道具として機能する。古代ローマの時代と同様,今日の<帝国>による平和も見せかけだけの偽りの平和にすぎず,実際には恒常的な戦争状態を統轄するものでしかない。」(M18)

グローバル化世界の構造と,それが戦争を必要としていることの見事な見取り図だ。

8.グローバル主権
主権についていうと,近代国民国家から<帝国>への変化は,主権の否定ではなく,その新たな形態の出現である。

「もっとも支配的ないくつかの国民国家でさえ,その国境の外側においてもあるいは内側においてすら,もはや最高かつ至上の権威として考えられるべきではない。とはいえしかし,国民国家の主権の衰退は,主権そのものが衰退したということを意味するわけではない。いま現在起きているさまざまの変容をとおして,政治的統制・国家機能・規制機構は,経済的かつ社会的な生産と交換の領域を支配しつづけてきているのだ。それゆえ,私たちの基本的な前提はこうなる。すなわち,主権が新たな形態をとるようになったということ,しかも,この新たな形態は,単一の支配論理の下に統合された一連の国家的かつ超国家的な組織体からなるということ,これである。この新しいグローバルな主権形態こそ,私たちが<帝国>と呼ぶものにほかならない。」(E4)

したがって,アメリカでさえ,世界の中心として主権を維持できない。

「じっさいいかなる国民国家も,今日,帝国主義的プロジェクトの中心を形成することはできないのであって,合衆国もまた中心とはなりえないのだ。帝国主義は終わった。今後,いかなる国家も,近代のヨーロッパ諸国がかつてそうであったようなあり方で世界の指導者になることはないであろう。」(E6)

9.<帝国>に境界なし
<帝国>の基本的特徴は,「境界」「限界」がないということである。

(1)空間的には,全体を包み込む体制。文明化された世界全体を支配する体制。領土上の境界では制限できない。

(2)時間的な境界をもたない。歴史の外部,ないし歴史の終わりに位置する。いまある状況を恒久的に固定化する秩序。

(3)人間の自然を支配する生権力。人間の社会的な生を丸ごと,徹底的に管理・支配し,またその世界を創り出す。生権力については, 下記参照。 Loktantra and/or post-modern(再説) 檜垣立哉『生と権力の哲学』(ちくま新書)

(4)<帝国>の概念は平和,実践は血まみれ。(E7-8)

(未完)

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和平交渉不調,無期延期に

谷川昌幸(C)

10月15日の和平交渉は,実質協議に入らないまま打ち切りとなり,次回は無期延期となった。

この膠着状態で利するのはどちらだろうか? マオイストは,地方の行政,司法をますます支配下に収め,マオイスト税・関税の徴収を強化していくだろう。しかし,それだけで急膨張した人民解放軍やシンパを養いきれるとは思えない。やはり都市部を攻略しないと,無理なのではないだろうか?

政治において,理念はむろん大切だ。しかし,同時に,理念の背後の現実も直視しなければならない。ネパールの現状は,「軍閥割拠」に向かっていると見た方がよいのではないか?

そんな新しい「封建制」を阻止するため,和平交渉は是が非でも成功させねばならない。カギは7政党,特にNCとNC-Dの合意形成にある。今の7政党には当事者能力が不足している。

15日の交渉失敗は,決定的決裂ではあるまいが,明日以降,また騒乱状態に逆戻りし始める恐れは十分にある。要注意だ。

* eKantipur, Oct.15

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2006/10/14

民主化試行錯誤の許容範囲

谷川昌幸(C)

欧米300年,日本ですら100余年をかけた立憲民主制を,ネパールは数十年ないし十数年でつくろうというのだから,試行錯誤は当たり前。人殺しさえなければ,とりあえずそれでよし,とせざるをえない。これが前提。

今日も行われている和平交渉でも,権力の分捕り合戦が中心。暫定政府については,大臣職をめぐってもめている。「民主的」解決法は,大臣乱造。この経験は世界一。

議会については,暫定議会であれ憲法制定会議であれ,「民主的」解決法は,議員倍増。

NC
(1)現下院をそのまま憲法制定会議とする。NCにとって理想だが,現状ではちょっと難しい。

(2)現議員205+比例選出議員204=憲法制定会議409議員
有権者には,タライのインド系住民も加える。――これは「民主的」。頑張れ,NC。

UML
憲法制定会議選挙は,比例制でやろう。でも,タライのインド系住民は,ネパール人ではないので,選挙権は認めない。奴らはわが愛する「人民」ではないのだ。ネパール共和国「人民」は,畏れおおくもビレンドラ国王陛下の欽定したもうた1979年国民投票名簿を基にするべきだ。――お見事! これこそ愛国的「人民」共和主義者だ。

マオイスト
もちろん憲法制定会議選挙を断固要求しているが,どんな選挙方法か,いまいちよく分からない。マオイスト「指定議席」を要求するのではないか? いずれにせよ,選挙をしても,勝てば「人民」の勝利,負ければ「選挙不正」で街頭活動再開。むろん,これはネパールの政治風土なので,マオイストだけの責任ではない。

民主主義は本来試行錯誤だから,殺し合いにならない程度に行われるのであれば,それで結構だ。ただ,大臣乱造・議員倍増であれ,選挙のバカ騒ぎであれ,負担は全部庶民に来る。用心しないと,庶民が怒り,今度こそ本当に立ち上がり,軍事独裁を樹立し,反庶民的な特権階級の我利我利亡者どもを一掃してしまうことになりかねない。

* Suman Pradhan, "Fate of Monarchy a Stricking Point," IPS, Oct.4, 2006.

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2006/10/13

ネグリ=ハート「マルチチュード」(2) 人民とマルチチュード

谷川昌幸(C)
 
   ネグリ=ハート「マルチチュード」(1) グローバル帝国の解剖

1.グローバル化の2側面
ネグリ=ハートによると,グローバル化には次の2側面がある。

「ひとつは,<帝国>が,支配と恒常的な対立という新しいメカニズムを通して秩序を維持する,階層構造と分裂に彩られたネットワークをグローバルに広げていくという側面である。」

「だがグローバリゼーションには,国境や大陸を超えた新しい協働と協調の回路を創造し,無数の出会いを生み出すという,もう一つの側面もある。これは,世界中の人びとが皆同じになることを意味するわけではない。そうではなく,それぞれの違いはそのままで,私たちが互いにコミュニケートしたり一緒に行動したりすることのできる<共>性を見いだす可能性が生まれているということだ。したがってマルチチュードもまた,ネットワークとして考えることができるだろう。すなわち,あらゆる差異を自由かつ対等に表現することのできる発展的で開かれたネットワーク,言いかえれば,出会いの手段を提供し,私たちが共に働き生きることを可能にするネットワークである。」(p.19)

2.人民・大衆・労働者階級
グローバル化の積極的未来を切り開いていくのが,マルチチュード。これは,旧知の「人民」「大衆」「労働者階級」ではない。

(1)人民=「人民は,伝統的に統一的な概念として構成されてきたものである。いうまでもなく,人々の集まり(ポピュレーション)はあらゆる種類の差異を特徴とするが,人民という概念はそうした多様性を統一性へと縮減し,人びとの集まりを単一の同一性と見なす。『人民』とは一なるものなのだ。」(p.19)

(2)大衆=「大衆の本質は差異の欠如にこそあるのだ。すべての差異は大衆のなかで覆い隠され,かき消されてしまう。人びとのもつさまざまな色合いは薄められ,灰色一色になってしまうのだ。大衆が一斉に動くことができるのは,彼らが均一で識別不可能な塊となっているからにすぎない。」(p.20)

(3)労働者階級=「労働者階級という概念は今や,生活を維持するために働く必要のない所有者から労働者を区別するためだけでなく,労働者階級をそれ以外の働く人びとから切り離すための排他的な概念として用いられている。」(p.20)

明快な区分だ。「人民」は,まさしく同一的単一性をもつ(べき)存在だ。だから,「人民の意志」とかpeople's powerといった美しいウソが掲げられ,人々は「人民」神を礼拝させられ,神を操る神官(人民共和主義者)どもの食い物にされるのだ。

ネパールに「人民」はいるか? 半封建的疑似「人民」はいるが,近代的な本物の「人民」はまだいない。

「大衆」はリースマンのいう「孤独な群衆」にほかならない。砂のようにバラバラで,堆積すれば砂漠のように風で動き,野蛮に文化を破壊する。

ネパールには,まだ「大衆」もいない。

「労働者階級」は,「人民」の矮小な代替物。国内に不平分子がいて「人民」を独占できないので,「われこそは労働者階級なり」といって,他者を差別するための概念となっている。同一性をもつ(べき)閉鎖集団。

ネパールに「労働者階級」はいるか? 都市部の工場被用者やタクシー運転手のような人々は,比較的近代化しており,階級意識を持ち始めているかもしれない。しかし,働く人々の大半は即自的(階級自覚を持たない)農民や奉公人で,近代的な「階級」はまだ形成途上の段階だろう。だから,ネパールで「人民」「大衆」「労働者階級」といった舶来概念を使うのは,要注意だ。

3.マルチチュードの定義
マルチチュード(Multitude)は,上記3概念とは異なる概念だ。すでに引用した部分に,マルチチュードは定義されているが,もう少し補足すれば,次のようになる。

「マルチチュードでは,さまざまな社会的差異はそのまま差異として存続しつづける――鮮やかな色彩はそのままで。したがってマルチチュードという概念が提起する課題は,いかにして社会的な多数多様性が,内的に異なるものでありながら,互いにコミュニケートしつつともに行動することができるのか,ということである。」(p.20)

モデルは,グローバル化の旗手ともいうべきインターネットである。「ここでも,インターネットのような分散型ネットワークは,マルチチュードにとっての格好の初期イメージまたはモデルとなる。その理由は第一に,さまざまな節点(ノード)がすべて互いに異なったまま,ウェブのなかで接続されていること,第二に,ネットワーク以外の外的な環境が開かれているため,常に新しい節点や関係性を追加できることである。」(p.21)

4.マルチチュードの民主主義
(1)<共>的行動
こうした特性を持つマルチチュードは,グローバル化世界の民主化に貢献することができる。

「マルチチュードが人民のような同一性も,大衆のような均一性ももたない以上,マルチチュードの内的差異は,相互のコミュニケーションや<共>的行動を可能にする<共(the common)>を見いださなければならない。(p.21)

つまり,差異を認めた上での「協働とコミュニケーションのネットワークを創り出す」こと。これこそが,グローバル民主主義の展望を切り開くのである。

(2)民主的組織化
革命独裁,people's powerではなく,「権威の所在を協働的な関係性の中に置くネットワーク状の組織への移行」であり,「抵抗と革命組織が単に民主的な社会を達成するための手段であるにとどまらず,その組織構造の内部に民主的な関係性を創り出す」(p.23)ということである。マルチチュードの様々な異議申し立てや抵抗がグローバル民主主義を創り出していくのだ。

5.ネパールとマルチチュード
ネパールにおいて,このようなマルチチュードを語ることに意味はあるのか? 「人民」「大衆」「労働者階級」ですら存在しないのに,時期尚早ではないか?

そうとも言えない。現代のグローバル化は,「帝国」(後述)の出現であり,中世世界の復活を思わせる要素がたぶんにある。

日本の戦前の「近代の超克」は噴飯ものだったが,後発者の優位ということは十分にありうる。

ネパールに押し寄せてきたグローバル化は,著者たちがいうように,一面では自由市場経済化(ウルトラ近代化)の暴力だが,他方では,それは差異(中世的社会の特質)のネットワーク型再構築でもある。「差異」は,要するに「差別」だから,要注意にはちがいないが,ネパールでもマルチチュード型民主化の可能性は大いにあるのではないか。

People's powerは血塗りの近代民主主義だ。人殺しに明け暮れ,いまも「アメリカ人民の民主主義」のため,あちこちで大量殺戮が行われている。

「人民の,人民による,人民のための政治」という場合の「人民」とは,いまのアメリカでは誰か? そして,いまのネパールでは誰であろうか?

* アントニオ・ネグリ,マイケル・ハート『マルチチュード』(上下)幾島幸子訳,NKKブックス,2005

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2006/10/11

国内ミニ冷戦の平和

谷川昌幸(C)

10月10日の和平交渉は,残念ながら,めぼしい成果はなかったようだ。来年6月中旬(あるいは4,5月)までに,憲法制定会議選挙を実施するということには合意したらしいが,来年のことなど鬼が笑う。

和平交渉は,軍隊をもつ2政府の交渉であり,むしろ国際関係に近い。北朝鮮が核実験で頑張るのと同じく,人民政府もはおいそれとは人民解放軍を手放しはしないだろう。人民政府税,人民共和国関税などを堂々と徴収し,自前の裁判もやっているのだから,別に焦る必要はないわけだ。

だから,「選挙」「共和制」などは,お念仏。イワシの頭の有難味もない。90年革命のとき,「政党民主制」が光り輝いていたのと同じこと。十数年前のことをコロりと忘れるようでは,明日のこと,ましてや1年後の約束など,鬼は笑う気もしないだろう。

7党政府とマオイスト政府の力がほぼ拮抗し,Balance of Powerとなり平和が実現した。ネパール内ミニ冷戦。7党もマオイストも,案外,現状が居心地よいのかもしれない。むろん,「立ち上がった人民」とおだてられた庶民は,2政府によるダブル課税に苦しめられているが。

それもこれも,兵隊さんを2倍にし,国会議員を1・5倍にし,そして公務員を激増させるのが,7党とマオイストの暗黙の目標らしいから,仕方ない。そのような提案は,すでにいくつもある。再生居直り議員200+マオイスト議員100=300議員。これなら選挙でもめなくて済む。

新生ネパール共和国は,「人民」奉仕者(公僕)の天国になるのではないか?

* ekantipur, Oct.10; nepalnews.com, Oct.10.

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2006/10/10

ネグリ=ハート「マルチチュード」(1) グローバル帝国の解剖

谷川昌幸(C)

アントニオ・ネグリとその弟子マイケル・ハートの共著『マルチチュード』(NHK出版)を読み始めた。100円電車内だが,これはまた何たる明晰さ,揺れも騒音も遮断され,一気に現代世界の冷徹な解剖と怒りの告発に引き込まれた。翻訳も見事だ。

ネグリ=ハートの共著は,この本も『帝国』(以文社)も大著である。しかも,ネグリはイタリア急進左派の指導者であり,1979年テロリスト嫌疑で逮捕,投獄され,83年フランス亡命,97年イタリア帰国で収監といった「危険人物」である。これまで敬遠してきたが,彼らの本は,現代世界のグローバル化を語るには,やはり避けては通れないようだ。

で,ネパールとの関係? もちろん,直接的には,ない。しかし,グローバル化は,米欧日などの中心部分よりも,途上国の方に大きな衝撃を与えている。グローバル化は,資本主義システムの外部にいたネパールのような国々を,内部の周縁部分に組み込むことだから,その変化は大きく,破滅的な打撃を与える場合が少なくない。

ネパール・マオイストは,決して21世紀のアナクロ妖怪ではない。旧知の名だが,内実はこのグローバル「帝国」に対する「新しい」抵抗運動としての様相を持ち始めている。エベレストの赤旗が世界「帝国」への抵抗のシンボルとなるのも夢ではない。

では,マルチチュードとは,何なのか?

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2006/10/08

カースト差別より危険な血液型差別

谷川昌幸(C)

人間は平等よりも差別を好むらしく,日本では血液型性格判断が若者を中心にはやり,とうとう朝日新聞までがそれに加担し始めた。

血液型差別は100%生まれによる差別であり,カースト制よりもむしろ危険である。ネパールには,こんな似非科学,ナチス的優生学的人間差別はあるまい。

朝日新聞までが,こんな「科学的」人間差別に加担し始めたのを座視し得ず,抗議の投稿をした。下記が10月7日付紙面(西部本社)に掲載された投稿の原文(紙面では一部変更・省略)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

血液型の記載 記事には不要

大学教員 谷川昌幸

今回の自民党総裁選記事に,朝日新聞は候補者の血液型を掲載した。全く不適切であり,謝罪し取り消すべきだ。

9月9日付記事では安倍,谷垣,麻生各氏,22日付では安倍氏の血液型が,身長,体重とともに記載されている。自民党総裁選は,実質的には次期首相を決めるものであり,国民の関心も高かった。朝日新聞が総裁候補に関する情報を詳細に報道するのは当然だ。しかし,身長や体重,ましてや血液型と政治的能力とはどのような関係にあるのか。政治家には,たとえばB型が最適,O型はやや難があり,A型は不適格ということか。

血液型性格分類の根拠は科学的には立証されていない。ところが,若者を中心に血液型性格判断は広く支持されており,大学ですら「彼はB型だから・・・・」といった会話が日常的に交わされている。遊び半分といって済まされない状況だ。

ここでもし朝日記事が先例となり政治家紹介に血液型を書くことが一般化したらどうなるか。血液型で政治家適性が判断されたり,保守はA型,革新はB型,中道はO型といった血液型政治論が現れ,「私はA型だから,A政党に投票する」といったことになりかねない。

朝日新聞は,おそらく若者の間の血液型性格判断人気を念頭に,硬くなりがちな政治記事を親しみやすくするつもりで総裁候補の血液型を掲載したのだろう。しかし,血液型と政治家の資質の間には何の関係もない。両者の関係づけはきわめて危険であり,倫理的にも政治的にも絶対にやってはならないことだ。

(朝日新聞,10月7日付投稿記事原文)

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2006/10/05

「老人パワー」とNC統一

谷川昌幸(C)

本家NCと分家NC-Dとの復縁話がなかなか前進しない。イギリスの呪縛の下,小選挙制は変わりそうにない。選挙を考えるなら,統一が絶対に有利なのに,それができない。

両党ともイデオロギー的には大差はない。要するに,親分の反目,派閥争い。統一すれば,政界の風景が変わり,王制存続の目も出てくるだろう。

統一には,GP・コイララ,KP・バタライ両氏は積極的だが,デウバ氏が逡巡しているという。米国の圧力はないのだろうか?

それにしても,KP・バタライ氏とは,懐かしい名前だ。明治維新を含め,たいていの国では大変革は若い新世代が主導するものだが,ネパールではそうではない。「老人パワー」だ。これは,政治家論としても面白い。

* "Executive committee needed for Congress unification: Deuba," eKantipur,Oct.4.

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2006/10/02

でたらめ人民法廷

谷川昌幸(C)

ネパリ・タイムズのマオイスト報告が面白い。

Naresh Newar, "Justice for All," Nepali Times. #317, Sep29-Oct05, 2006

1.スピード判決で人気沸騰
記事によれば,マオイスト支配地域では,行政も司法もほぼ人民政府が握り,運用している。

人民法廷(people's court)には,財産争い,暴力事件,レイプ,多重婚など,あらゆる紛争が持ち込まれ,裁かれている。

人気の理由の一つは,スピード。中央政府の郡裁判所だと,何ヶ月もかかり,ときにはうやむやになってしまうような紛争でも,人民法廷ならわずか1週間で判決が出る。

2.拙速危険な人民裁判
しかし,速いのはよいが,よく見ると,これはとんでもない裁判だ。人気なのは,証拠不十分で到底勝てそうにないもの,あるいはすでに郡裁判所で棄却か敗訴になった訴訟が,証拠調べのいい加減な人民法廷に大量に持ち込まれているかららしい。

また,人民法廷の裁判官は1人で,たいてい法学の十分な素養を持たないマオイストだ。人々は,そのような裁判官を利用して自分に有利な判決を出させたり,裁判官は裁判官でマオイスト同調者に有利な判決を出しているという。

ひどいのは,故郷から追い出された人々が,不在なのに訴えられ,欠席裁判で裁かれ,土地などの財産を奪われていること。これでは,不法強奪,不法占拠の追認ではないか。

しかも,その裁判は「われわれの法」に則って行われているという。しかし,その「法」とは何か? 近代法の常識からいえば,一般に公布されていない法は効力を持たない。さて,「マオイスト六法」はあったっけ。

3.日常化
あまりにもひどいという非難の声に押され,最近プラチャンダ議長が町地域の人民法廷の閉鎖を命令したが,すでに人民法廷は各地で出来上がっており,閉鎖できなくなっているそうだ。

4.税金は人民解放軍へ
極西部では,マオイストが行政組織を握り,様々な税金を取り立て,人民解放軍を養っている。バルディヤとバンケの開発・行政予算2100万ルピーもその大半が人民解放軍に費やされている。

5.マオイスト・ガバナンス?
グッド・ガバナンスはブルジョア思想かもしれないが,それがないと統治は続かない。ところが,いまのマオイスト統治には,そのようなものは皆目みられない。

こんな状態では,人民政府は内部から自壊していくのではないか?