ネパール評論 2007年4月
谷川昌幸(C)
マオイストが,悪役・国王のテコ入れに懸命だ。野宿PLAの後始末,7+1党体制の維持,UNMIN特需の継続拡大――どれ一つとっても,悪の枢軸の総元締めが必要なのだ。
見え見えなのに,元祖テロリストたるマオイストの議員総代で政府代弁者のクリシュナ・マハラ情報相は,国王が国軍R・カトワル幕僚総長(CoAS)と密会したと大宣伝している。少し前の王党派によるアメリカ人襲撃情報と同じく,某日某所らしい。
むろん,もしかりに事実とすれば,これは危険きわまることで,国王はそんなことを断じてしてはならない。
同じく,ダクシンカリ参拝も国軍兵など伴わず,丸裸で行くべきだ。偉大なカーリー女神が守ってくれているし,万が一,攻撃されるとしても,それはnoblesse oblige,国王の名誉として甘受すべきだ。
元祖テロリスト・マオイストは,「悪」の効用をよく知り,国王を悪の枢軸の総元締め,本家テロリストとしたがっている。マオイストにとって一番困るのは,国王がよい子ちゃんになってしまうことだ。
言い換えるなら,国王にとっての最善の自己防衛策は,一切の政治的活動を止め,自分を完全な象徴にしてしまうこと。世俗権限を失っても,国王には千年以上の「王制」の歴史的伝統がある。政治を断念すれば暇が出来るから,保守主義の元祖,E・バークでも繙いて,21世紀型君主への道を研究していただきたい。
最善は「純粋象徴」君主制,次善が「悪の象徴」君主制,最悪が「犠牲の子羊」共和制。軽薄な国会投票で「悪の象徴」国王がいなくなれば,現状では,まず間違いなく国王に代わる「犠牲の子羊」探しが行われる。7+1党の面々は,自分が子羊に仕立てられ,共和宗教の祭壇に捧げられる日のことを想定して行動すべきだ。
いや,親分衆だけではない。マオイスト直接行動主義の代弁者マハラ情報相は,このところさかんに民族や地域や諸団体に対しバンダを止めよ,と要求している。それらの一つを国王代理として「犠牲の子羊」に仕立て上げるのは造作もない。
法治は法が人を支配する。法治に犠牲の子羊は不要だ。ところが,人が人を治める人治主義のマオイストにおいては,自分がやってきたこと,今もしていることを,他者には許容できない。それを正当化するため,人治には「犠牲の子羊」が不可欠なのだ。
* eKantipur, 29Apr2007
谷川昌幸(C)
「けぇがるね?」さんの「ギャンのテーマ」によると,ネパールでは「そろそろ,場外乱闘?」。くわばらくわばら。
たしかに,今のネパールには,神様王様,われわれ王様(we=king),儀式王様,王様命国軍,金権印米組,民族派左翼,国際派左翼,カメレオン知識人など,多士済々。それぞれの応援団が国王賛歌やら王制打倒お題目やらインターナショナルやらを高歌放吟,いやはやにぎやかなことだ。
日本なんか,安倍軽薄猪突内閣が教育基本法を改悪しようが憲法改悪に手をつけ始めようが,大学は薄暮曇天の静けさだし,もうすぐメーデーだというのに労働組合も福沢流にいうなら「その柔順なること家に飼いたる痩犬の如し」。高歌放吟どころか,放送終了前の「君が代」のように暗〜く陰鬱だ。「永遠の平和(ewigen Frieden)」も近い。
高歌放吟の青春か,「永遠の平和」か? 苦労は多かろうが,光り輝いているのは,やはり青春だ。墓場に片足を入れた私ですら,この3月ネパールに行ったときは,20歳は若返り,毎日走り回りブログを書きまくったものだ。回春のネパール! おかげで帰国したとたん,反動で30歳も年をとり,一月近く半病人だった。
「けぇがるね?」さんが,いつも元気でメチャ面白くタメになるのは,青春真っ只中のネパール在住だからにちがいない。うらやましくもあるが,老人にとっては現地は刺激過多,長くいると頭に血が上って昇天するに決まっている。番茶でもすすりながら,のんびりと日本で「けぇがるね?」と楽しんでいることにしよう。
谷川昌幸(C)
朝日新聞(4/17)によると,安倍首相は,アフガンPRT(Provisional Reconstruction Team)への自衛隊派遣を見送ると述べた。
1.自衛隊PRT派遣断念の理由
アフガンPRTは「軍民共同」「軍民一体型」であり,自民党=財界が密かにねらっている次の軍拡の本命。それをアフガンでは断念した。理由はいくつか考えられる。
(1)違憲の武力行使の恐れ(政府内の慎重派)
アフガンに自衛隊を派遣すれば,交戦の可能性大で,そうなれば武力行使となり,明白な違憲。相手を殺したり,自衛隊員が戦死したりする恐れがある。さすがに今の段階では,そこまでは踏み切れなかったということらしい。
しかし,改憲すればもちろんのこと,解釈改憲によってすら,猪突安倍内閣であれば,この「憲法の制約」を取り除く(無視する)ことは造作もない。日本は海外交戦の瀬戸際まで来ているといってよい。
(2)自衛隊内の反対
自衛隊にしてみれば,武器使用を「正当防衛」や「緊急避難」でしか正当化できないような現状では,危なくて,とてもじゃないが出兵させられない。本格出兵は,正々堂々と交戦できるように憲法を改正(改悪)してからだ,ということだろう。
自衛隊員の立場からすれば,これはもっともな意見だ。自衛隊PRT派遣断念の決定に,この自衛隊内からの反対が大きく影響していることは,まず間違いない。
しかし,これもちゃんと交戦できるように法を整備すれば,すぐにでも出兵できることを意味する。自衛隊は軍隊であり,戦争を仕事とし,戦争によって予算と人を拡大する。歴史上,いやというほどある実例のとおりだ。
(3)NGOの平和支援実績
これは以前にも述べたことだが,アフガンでは,中村哲氏らのNGOによる開発協力(平和支援)の輝かしい実績がある。
PRTに自衛隊を派遣すれば,日本の援助活動も軍民一体となり,いくら中村氏らが自分たちは違うと言っても,それは通らない。日の丸(日本)=日本軍となり,区別できず(されず),攻撃対象となる。長年の地道なNGOの努力は,一瞬にして水泡に帰す。安倍内閣も,さすがにまだこんな暴挙をやる勇気はなかったのだろう。
――結局,PRT自衛隊派遣を最後のところでくい止めたのは,中村氏らの非軍事的アフガン支援活動の実績と,それを支持する国民世論だということになる。
ここで,マスコミやネット・ブロガーの責任が問われる。マスコミやネット・ブロガーは,もっともっと中村氏らの活動を継続的に伝え,軍民共同活動の危険性を訴え,非軍事的支援こそが真の問題解決への道であることを広く理解してもらう必要がある。地道なNGO活動だからこそ,それを伝える側の責任は重い。
2.自衛隊UNMIN派遣
アフガンへの自衛隊派遣を断念した安倍内閣が,ネパールへは何のためらいもなく派遣を実施した。なぜか? いうまでもなく,それは先の(1)(2)(3)の裏返しである。
ネパールでは交戦の可能性は低く,したがって自衛隊内にも反対はない。NGO活動も,数は多いが,中村氏らほどの実績はない。
メディアも,これからはヒマラヤやジャングル,クジャクやゾウ,寺院や祭などの写真と組み合わせ,陸自隊員の活躍を華々しく報道することが多くなろう。無理なヤラセをしなくても,ネパールは絵になるからだ。
しかし,UNMINは「政治ミッション」とはいえ,軍民共同活動にはちがいない。財界=自民党=自衛隊にとっては,絶好のチャンス到来だ。
今後の自衛隊海外派兵は,軍単独で行くことは,あまりないであろう。本命は,軍民共同活動。その活動分野はアジア,アフリカには無限にある。安倍首相はそうした「国際貢献」への意欲を繰り返し表明している。そうなると,自衛隊は今の24万人ではとても足りない。倍増,3倍増で,韓国の68万人などすぐ追い越すだろう。
そうなれば,東アジアの軍事的緊張は高まり,ODA予算は削減される。負の連鎖反応だ。そんな大軍拡をするのなら,その分,非軍事的開発援助に振り向ける方が,はるかに賢明な選択だ。
ネパールを日本軍拡の道具として利用させてはならない。ネパール派遣陸自隊員は即時撤退すべきだ。
谷川昌幸(C)
今日の朝日新聞社会面(西部版,4月22日)は,面白い。右上が,佐藤優「伝統守るため護憲必要」,その左下が小暮哲夫(朝日記者)「『本来任務』初の派遣,国連ネパール支援,自衛官6人参加」。絶妙の配置だ。
1.権力と権威を分離する憲法を守れ
佐藤優さんは,かつて鈴木宗男氏の懐刀,いまは有罪判決を受け上告中。休職中とはいえ,外務省職員だ。
その佐藤さんが,鈴木氏や自分が国策捜査で逮捕・起訴されたことへの反省をこめ,権力と権威が一体化することの危険性に警鐘をうち鳴らしている。
「権力と権威が一体化するとどうなるか。大衆を扇動するポピュリズムに流れ,正義を振りかざした大統領の下で国策捜査が行われると,私や鈴木宗男さんは極端な場合,死刑になる可能性すらあるのだ。」(朝日)
また,日本が交戦権をもち,天皇が宣戦布告する場合のことを考えると,象徴天皇制と戦争放棄を定めた現行憲法は変えるべきではないという。
「外交官として仕事をしていた頃,日本は軍隊を持って普通の国になるべきだと思っていた。だが,逮捕・勾留された経験から,憲法の文言を一言も変えてはならないと強く思うようになった。」(朝日)
佐藤さんも鈴木さんも,自分が奉仕(行使)してきた権力に裏切られ,捨てられた経験から多くのことを学ばれ,実に立派な人物になられた。権力を恣に利用してきた方々だからこそ,敵に回したときの権力の恐ろしさを知り抜き,憲法でそれを縛ることの必要性を痛感されているのだろう。歴史を心に刻むとは,まさにこのことだ。
2.何も学ばない安倍首相
鈴木,佐藤両氏とは逆に,歴史から何も学ばなかったのが,岸信介やその孫の安倍首相だ。宮沢元首相はいうに及ばず,後藤田正晴氏のような強面政治家でも,多少ともまともな保守主義者であれば,敗戦により,権威・権力一体型国体(天皇制)の恐ろしさ,危険性を思い知らされ,決して戦前回帰をたくらんだりはしなかった。
ところが,軽薄保守の安倍首相には,保守思想の重さが全く理解できていない。「伝統」とは重いものに決まっているのに,重い伝統を担う決意があるからこそ保守なのに,安倍首相は敗戦の重みにも,その後の憲法60年の伝統の重みにも耐えられず,安直に伝統を放棄し,改憲しようとしている。中韓に脅され靖国参拝をためらい(参拝しないと言う勇気もない),アメリカに脅され従軍慰安婦にあいまいに謝罪する。これが「美しい国」の首相か。小泉さんの方が敵ながらあっぱれ,はるかに美しかった(困った耽美的ニヒリストだったが)。
3.朝日の陸自UNMIN記事
右上(右派)の反戦護憲論に対し,左派を気取る朝日は左下に陸自UNMIN記事を配したが,これがヌエ的記事,こんなものなら朝雲新聞の方がはるかに立派だ。
ネパール側の本音は,日本陸軍(海外では陸軍)ではなく,それが持ってくる金だけ。市ヶ谷あたりでモニターを見ていてもらえば済むのに,わざわざネパールくんだりまで日本陸軍を引きずり込んだのは,軍隊はODAとは比較にならないほどおいしい金づるだから。その証拠に,派遣された陸自隊員には,事実上,何の権限もなく,ただそこにいて見ているだけ。
それなのに,朝日記事は,無線チェックをする陸自隊員の勇姿を大きな写真で紹介している。いまのところまだ無背景なので我慢できるが,もしヒマラヤかゾウでも背景に写し込まれると,もうダメ,100人中の他の99人と一緒に私も「日本国自衛隊,バンザイ!」と叫んでしまうにちがいない。
朝雲新聞がネパール派遣陸自隊員の勇姿を華々しく伝えるのはよい。それは立派な行為だ。が,朝日が,ヌエ的記事でUNMIN陸自を大きく報道するのは,国民を誤った方向へ誘導する品性下劣な行為だ。
朝日は,鈴木,佐藤両氏を編集顧問に迎え,歴史の見方や,事実の捉え方・報道の仕方を一から学び直すべきだろう。
谷川昌幸(C)
宮原氏のネパール開発党(Nepal National Development Party
=
NNDP)が選管に政党登録された。署名は3万1千名。
日系ネパール人はごくわずかだから,支持は日系以外に訴えることになろう。どんな政策か,注目される。
*
ekantipur, 20 Apr.
谷川昌幸(C)
1.丸山の「肉体政治」批判
「肉体政治」は,崇拝する丸山真男の造語。崇拝は科学的ではないが,無信仰より信仰を私はとる。丸山は偉く,肉体政治は丸山がダメといっているのだからダメなのだ。
丸山の肉体政治批判の解説は割愛。詳しくは丸山「肉体文学から肉体政治へ」をご覧ください。
2.長崎市長銃撃と肉体派安倍首相
長崎市長銃撃が肉体政治の極限であることはいうまでもない。そして,民主主義が肉体政治の対極にあることも明白だ。これは政治を職業(M.ウェーバー)とするものにとっては自明の理であり,政治の場において肉体が攻撃されたら,本能的に「否!」と反応するものだ。
ところが,安倍首相の第一声は「真相が究明されることを望む」(朝日4/18他)だった。私もこれを聞いて唖然とした。世論に非難され,翌朝,「選挙期間中,選挙運動中の凶行は民主主義に対する挑戦であり,断じて許すわけにはいかない」(朝日4/18)と記者に語ったが,この期に及んでも「選挙期間中」などと留保をつけている。
政治への暴力行使は留保なしでダメなのだ。馬脚丸出し,安倍首相は肉体派であることを自ら天下に告白したようなものだ。
近代民主主義が,反肉体主義なのに対し,安倍首相らの反動的保守主義は肉体主義だ。三島由紀夫は文学者としては一流だが,政治においては自分の肉体を誇示するホモ的肉体政治主義者だった。だから,決起して切腹してしまった。三島のような人物ですら,肉体派は政治には向かない。安倍首相も政治向きではないので,即刻,身を引き,肉体文学を志すべきだ。文学になら,肉体派の存在余地はある。
3.ネパールの肉体政治
ネパールは,肉体政治のショーウインドウだ。テロ,暴力沙汰,買収等々,怪しい肉体政治が一杯。
これも崇拝する丸山のことばだが,民主主義は「ウソを有用なウソとして信じる政治」だ。代表(議員),議会,多数決――これらは全部人間が作った制度であり,山や川のように実在するものではなく,その意味では信号の「赤は止まれ」と同じく,ウソだ。
民主主義は,そのウソを寄せ集めた,ウソの総本山。たとえば「国民代表」をウソと知りつつ,それを守る(信じる)ことに利益を認め同意をしたのだから,それは守るべきだ。守らなければ,民主主義は崩壊する。
ところが,ネパールの政治家たちは都合が悪くなるとすぐ民主主義の手続を反故にし,肉体行使に走る。デモ,バンダ,テロ,脅迫,買収・・・・・。
4.肉体政治家の暴力依存
肉体政治家はことば(ウソ)ではなく,暴力(実在としての力)に依存する。陸自隊員をネパールに送った安倍首相は,案外,ネパール肉体政治家諸氏と気が合うのかもしれない。
日ネの怪しい肉体関係だ。
谷川昌幸(C)
銃撃された伊藤市長が亡くなられた。許せない。
詳細はまだ分からないが,この銃撃事件の特異性は,暴力団幹部(山口組水心会会長代行)の犯人が市長襲撃を「私怨」,つまり非政治的理由によるものとしたがっているということ。TV朝日にその旨を述べた文書まで送り,しかし私怨らしからぬ周到さで確実に殺害している。本当に単なる私怨か?
長崎で暴力団や右翼が天皇批判や反戦を理由にテロを行えば,市民は立場を越えて犠牲者側につく。これは他の地域では考えられないほど徹底している。キリシタン弾圧(「沈黙」をみよ)や被爆(「長崎の鐘」など)の過去が,長崎の人々の心に刻まれ,経験として今に生きているからだ。暴力団や右翼も,それをよく知っている。誤解を恐れずにいうならば,襲撃で犠牲者を「英雄」にしてはならないのだ。
まだ確かなことは分からない。が,暴力団幹部の犯人が私怨による非政治的事件にしたがっていることは間違いない。マスコミが安易にこれに乗って,事件を矮小化することは断じて許されない。暴力団幹部が,反核・反軍拡・反戦の長崎市長を,投票日直前に銃撃した――これがそんな単純な事件でないことは明白だ。
ネパールの選挙では,暴力事件ははるかに多い。大きな構造的暴力があることはいうまでもない。選挙の大前提たる「自由(消極的自由と積極的自由)」の保障がない。そうした「自由」がないところでの選挙をどう実施し,何を,どこまで解決するのか――これは,よくよく考えてみるべき課題だ。(4月18日午前10時10分)
谷川昌幸(C)
伊藤一長・長崎市長が銃撃され,重体となった(危篤状態)。銃撃は午後8時前。その直後,私は市電で現場の長崎駅に着いた。パトカーが走ってきたが,焦げ臭いにおいがしたので,火事だと思い,そのまま電車で帰宅した。ニュースで初めて伊藤市長が撃たれ,焦げ臭かったのは火薬の臭いだと分かった。
長崎はいま市長・市議会議員選挙中。投票は22日(日曜)。長崎では1990年,本島市長が銃撃されたが,この時は天皇の戦争責任発言が理由だった。先ほどの伊藤市長銃撃の理由はまだ分からない。確信犯らしく,おそらく政治的理由からだろう。
幾度か指摘したように,選挙戦も戦いであり,対立が激化する。政治的に成熟した社会であれば,対立は言論戦にとどまり,暴力とはならない。しかし,日本は,丸山真男の言葉を借りるなら「肉体政治」であり,選挙戦は,人格攻撃から人身攻撃へとエスカレートしがちだ。
選挙民主主義は難しい。ネパールの政治は,日本以上に「肉体政治」だ。その自省もなしに,選挙!,選挙!と浮かれていると,危険だ。長崎市長銃撃はネパールでも報道されるだろう。日本にしてこれだ。ネパールの人々も,選挙で何が,どこまで可能になるか,頭を冷やして,考え直して欲しい。
選挙は有用な統治手段だが,万能薬ではない。出来ないことの方が多い。ネパールの知識人,ジャーナリズムは,それを語るべきだ。過剰な期待ほど危険なものはない。幸か不幸か,選挙はどうやら秋まで延期となりそうだから。
(4月17日午後9時半)
谷川昌幸(C)
フランスと東チモールの大統領選挙を扱ったNHK海外ネット(4月15日)は面白かった。
1.フランス大統領選挙
フランスはいわずとしれた人権と民主主義の国。そのフランスでさえ,民族問題が絡むと今回の大統領選挙のように選挙は難しく,下手をすると,選挙でルペン極右勢力大躍進となりかねない。
2.東チモール大統領選挙
一方,東チモールは,国連の選挙民主主義モデルで平和構築に取りかかり,日本も自衛隊や警官を派遣し全面協力,一時はうまくいくかと思われたが,元兵士叛乱とその後の選挙で権力争いが激化し,独立以前より状況はむしろ悪化しているとさえいわれ始めた。日本援助の立派な中学校がメチャクチャに破壊され略奪されているのが,何とも哀れだった。この状況での大統領選挙は,和解よりもむしろ対立を煽り立てかねない。
つまり,選挙は,フランスですら手こずるほど難しいものなのだ。それは,決して投票箱などの「ハコモノ」の問題ではない。
3.ネパール選挙ハコモノ援助
それなのに,日本政府はネパールにプラスチック投票箱6万個を送り,4月11日,ネパール側に引き渡した。まさしく「ハコモノ」援助。
投票箱など木製手作りでもよく,ネパール職人に発注すれば,少なくとも仕事と9千万ルピーほどの金がネパール各地に落ちる。日本製かどうか知らないが,プラスチック投票箱などネパールではすぐ壊れ,廃棄され,公害となるだけだ。
ネパールでは,選挙は自分たちでコツコツ投票箱を作るところから始めるべきだ。上からの押しつけ選挙は,アフガン,イラク,東チモールと同じく,対立を煽るだけとなりがちだ。選挙民主主義は,最も高度な統治方法だということを肝に銘じるべきだろう。
それにしても選挙支援までハコモノ(投票箱)とは,発想がいかにも貧困だ。NGOの諸先達に援助のイロハについて教えを請い,自らをまず開発すべきではないか?
http://nepalreview.spaces.live.com/blog/cns!3E4D69F91C3579D6!543.entry
http://www.nepalnews.com/archive/2007/apr/apr11/news10.php
谷川昌幸(C)
1.政治学から性治学へ
春が来て回春。関心が「政」から「性」に移った。「性治学」への転進。困った現象だが,自然には逆らえない。
2.インドの性的虐待
ということで,今朝も真っ先に目にとまったのが,この記事。
「子供の5割 性的虐待 インド実態調査 大半,被害伝えず」
(朝日新聞,ニューデリー=木暮哲夫,2007.4.14)
記事によれば,インド女性・子供開発省調査で次の事実が判明した。インドでは,5〜18歳男女の5割が何らかの性的虐待を受け,2割はレイプやヌード撮影など「深刻な虐待」だという。
とんでもない数字だ。事実とすれば,インド社会は根底から病んでいることになる。そして,これは当然,同じことがネパールでも起こりつつある,あるいは少し遅れて起こる,ということを示唆している。
3.先進国の退行的性ニヒリズム
インド=ネパールの性アナーキーは,先進国のそれとは区別して考える必要がある。たしかにプリモダンとポストモダンの性現象はよく似ており,紙一重の差だ。特に古代では,インド=ネパールに限らず,どこでも性的なものがあふれていた。
(プリモダン) (ポストモダン)
多種多様な女神たち ミスコン,半裸モデル
男女性器・交合図像 ポルノ写真
カーマスートラ ポルノ動画
しかしその後,西洋ではキリスト教が,日本では儒教が性を抑圧し,性を私的領域に押し込め,そして近代に入ると理性が性から野生を奪い,人々をインポテンツにしてしまった。
だから,西洋や日本で性タブーを解除しても,野生を奪われてしまった性にはもはや暴力的革命性はなく,せいぜい退行的性ニヒリズムが蔓延し,社会をじわじわ根腐れさせていくくらいのことだ。(これを恐れた安倍首相がアナクロ貞操論を唱えているが,ポストモダン・ニヒリズムには勝てるはずがない。)
4.インド=ネパールの破壊的性ニヒリズム
これに対し,インド=ネパールがプリモダンの性タブーを解き,性アナーキーになると,これは恐ろしい。
日常生活の場にあふれている性的なものが,その本来的無拘束性,暴力性,破壊性を解き放たれ,まずはインドに見られるように社会的弱者たる女性や子供への性暴力をもたらし,最悪の場合,社会崩壊をもたらすだろう。インポテンツ西洋人・日本人とは違い,インド=ネパール人はまだまだ元気なのだ。
5.校門横の交合像をどう説明するか
上掲写真の即物的巨大男根や交合像を,隣の小学校や数軒先の私の交流校の生徒たちは毎日見ながら登下校している。
当然,「先生,あれは何?」となる。神のタブーがあれば,「あれは神様。いたずらしてはダメ! 罰が当たりますよ」で,万事OK。
ところが,神のタブーが無くなると,もはやその手は使えない。そもそも人間の性行為など合理的に説明できるわけがなく,いくら説明しても子供は納得せず,ましてや大人は納得しない。
ネパールの性は,タブーを解かれると,攻撃的性ニヒリズムになり,まずは弱者の女性・子供に襲いかかり,悪くすると社会すらも破壊する恐れがある。
6.マオイストと性
この性タブーについては,マオイストは二面性を持つようだ。男根(リンガ)破壊などをやっているらしいが,その反面,性タブーを巧みに利用しているようにも思われる。
マオイストは,一方では,女性解放を唱え人民戦争に女性を大量動員してきた。しかし,人民解放軍の女性比率が高い(40%位?)のをみて,女性の解放・地位向上の実現などとバカなことをいうフェミニストは一人もいないだろう。子供を兵士にすることが子供の解放にならないのと全く同じことだ。(1家族1名の徴兵割り当てがあれば,家族内弱者の女性や子供が人民解放軍に送られるのは当然だ。人民解放軍に女性兵士が多いのは女性解放ゆえではない。)
女性解放のリップサービスの一方,マオイストはどうやら裏口からこっそりと前近代的「封建的」性タブーを引き入れているようだ。もしそうした強力な性タブーがなければ,性衝動最強の青年男女3万余が雑居する人民解放軍は維持できるはずがない。
以上は,もちろん推測にすぎない。マオイストの性についての報告は,管見の限りではまだ見当たらない。
しかし,常識的に見て,男女混成軍で戦争なんかやってられない。人殺しよりもまず恋だ。性管理がはるかに容易なハイテク戦争中心のアメリカ軍ですら,兵士の性問題にはお手上げだ。ましてや人間くさいローテク人民戦争。人民解放軍が秩序を保ち戦ってこれたのは,強力な宗教的「封建的」性タブーを隠し持っているからにちがいない。実証はこれからだが,きっとそうだとにらんでいる。
谷川昌幸(C)
この写真(2007.3.27,路上から撮影)は,ビシュヌマティ川対岸の小さな聖所。人通りの多い道路沿いにあり,隣は小学校。その数軒隣が,私の交流している別の小学校。
ここはかつては畦道沿いの聖所だったのだろう。それが都市爆発で市街化され,隣に小学校まで出来てしまった。
子供たちが学校になど行かず野原を駆け回っていた頃は,この聖所も周囲の自然や文化と美しく調和し何の違和感もなかったはずだ。ところが,今やここを通るたびに,ギョ!とする。
シバ神の責任ではない。理性の金縛りになった人々が,神の領域を侵略し,罰当たりにも隣に理性の監獄たる小学校まで建設してしまったのだ。
あわれ聖所のシバ神は,車の排煙と埃にまみれ,隣の小学校の理性的大人子供にバカにされ(ているはず),神の尊厳を失い,いまや単なるエロ,グロに成り下がってしまった。
このシバ神の末路は次のいずれか。こんなエロいものが小学校の隣にあると児童の教育,健全育成によろしくないとして,人跡まれな山奥に移転させられてしまうか,さもなければ,文明の排出する煤煙に埋もれ,いつの間にか誰かが土地を占拠し,コンビニでも開店し,マモン教に奉仕し始めるか。可能性大なのはもちろん後者。
こういったことは先進国でもあったが,先進国では長い年月をかけ徐々に変化したのに対し,ネパールではそれがとんでもない速度で進行している。無責任な外部観察者には,速送りで近代化過程を見ているようで興味深く勉強になるが,当事者のネパールの人々にとっては順応が難しく,軋轢や混乱が生じ,たまったものではないであろう。
金儲けのため,近代化・民主化を押しつけ,子供を学校で調教させているのは先進国だから,その結果として生じている混乱を緩和するため最大限の援助をするのは先進国側の当然の義務である。