2007/08/30

牛祭りとマンガル・ドゥーン

谷川昌幸(C)

1.バクタプール入場料10ドル
8月29日は牛祭り。バクタプールで見学した。入場料10ドル。安い! ちゃんと保存してくれるなら,これくらいの負担は当然だ。それなのに,密入場したと自慢したり,ごまかし方を伝授したり。品格を疑われるようなことはすべきではない。

2.陽気な葬送
牛祭りはその年なくなった身内を送る行事。これが気に入っているのは,陽気なこと。神仏(守護者)を喜ばせようと,陽気にはやし立てる。

そう,死は決して悲しむべきことではない。いきさつはどうであれ,結局は天寿であったのであり,来世の幸せを祈り,楽しく送り出す。よい習慣だ。

3.マンガル・ドゥーンで華々しく
私の葬儀も,にぎやかに,マンガル・ドゥーンで華々しく挙行してもらおう。バクタプールでも何組か楽隊がマンガル・ドゥーンで葬送していた。なかなか味はあったが,音楽的にはいまいちだった。西洋音楽の教育しか受けていなくても,ネパール音楽の善し悪しは分かる。私の葬儀用に,よいCDを見つけたいと思っている。

4.新国歌はやはりダメ
蛇足ながら,ネパール新国歌について何人かのネパール人に尋ねたところ,「歌詞はよいが曲はダメだ」という意見ばかりだった。やはりネパールでも新国歌に違和感を感じている人が少なくないらしい。

国歌は権力で強制して歌わせる歌だ。親しまれ,自然に歌われるような国民愛唱歌であるべきだろう。  

2007/08/28

餓死の自由とルピー高

谷川昌幸(C)

ネパールは経済学の教科書のようだ。人民は経済外的強制から解放され,自由な労働者になりつつあるが,これは餓死への自由であり,これがいまのルピー高を支えている。皮肉なものだ。

カースト制は,ダリットはいうに及ばず,経済の論理以外の理由により人々を拘束している。下位カーストも上位カーストも自由な個人ではなく,カースト規制の続く限り,資本主義の発展はあり得ない。

そのカースト制が急速に弛緩し,人々は移動の自由,職業選択の自由を得つつある。逆に言えば,雇用者側は保護下の人々を自由にクビにし,経済合理性を追求してもよいのだ。こうしてカースト的保護を失った大量の失業者が生まれる。餓死の自由こそ資本主義発展の条件だ。

それでも国内に仕事があればまだよいが,ネパールにはそれがないので,3K覚悟で海外に出稼ぎに出ざるを得ない。新聞には連日海外出稼ぎ広告が出ている。世界的企業は,ネパール人出稼ぎ労働者を安価で使い捨てにすることによりぼろ儲けをしている。

この海外出稼ぎ労働者が大量の外貨をネパールに持ち込む。ネパールルピーはインドルピーと連動しており,インドルピー高が直接の原因とは言え,そうした出稼ぎ送金がなければ,いまのネパールルピー高はあり得ない。

海外から持ち込まれた大量の外貨は,他に投資先がないので,不動産投資に向かう。カトマンズはいま大変な建設ブーム。一見華やかだが,その背後の出稼ぎ労働を思うと心穏やかではいられない。

カースト的保護を奪うのであれば,それに代わるべき国内雇用の拡大は不可欠だ。餓死の自由を与えるだけの解放では,ネパール社会の安定は期待できない。

●海外出稼ぎ:月約4万人(公式2万人,非公式約2万人),昨年比16%増
       湾岸諸国,マレーシアなどへ
●貿易収支赤字:739億ルピー(2004),毎年増加中

* The Himalayan Times, 28 Aug.; Kathmandu Post 28 Aug.  

2007/08/27

コーラ帝国主義とゴミ問題

谷川昌幸(C)

カトマンズの清掃事業については全く知識はないが,ゴミ山積を見ると大変な状況らしいということは想像がつく。生活用品が自然素材でつくられていた頃は,使用後,自然に戻るが,プラスチックなど工業製品が増えてくると,ゴミ処理も近代化・合理化せざるをえない。

今日,コーラ(500ml)を買ったら,定価(本体印刷)32ルピー。高い! が,結構売れている。そして,そのプラスチック容器が数分後にはゴミとなって捨てられている。

  コーラ帝国主義!

コカコーラ社は,ビンでは飽きたらず,プラスチック容器化で軽量化,回収不要化し,儲けを倍加させ,後のゴミ処理は人民負担とする。コーラ帝国主義の神髄だ。(むろん、ここではコーラは消費資本主義の象徴)

「消費は美徳」という悪徳が侵入する以前のカトマンズは,伝統的カースト分業によりゴミは処理されていた。清掃人へのカースト差別がケシカランことはいうまでもないが,彼らは少なくとも職業としては保護されており,ゴミもきちんと処理されていた。カトマンズは美しかった。

ところが,コーラのペットボトルに象徴される近代ゴミは伝統ゴミとは全く異質で,量もけた違いに多い。伝統的カースト分業ではどうにもならない。こうして,ゴミ処理の近代化=合理化=民主化が始まる。

コーラ帝国主義は,ペットボトル化で儲ける一方,ゴミ処理の近代化を強制し,伝統的清掃人を失業させる。清掃人組合が抵抗しているらしいが,コーラ帝国主義には敵わない。カースト差別は悪であり,近代化=民主化は善だからだ。

コーラ丸儲け,ネパール人民丸損。  

2007/08/26

儀式王制で合意か?

Tanigawa(C)

8月24日の7王宮国有化実施について,マスコミは王制廃止への一歩前進とはしゃいでいるが,実際には必ずしもそうとは言い切れない。7王宮国有化は,翌25日のマオイストの選挙4月延期表明とセットであり,その心は儀式王制存続という見方も出来る。

このところマオイストの人気はがた落ちで,一方,国王クーデターの噂は絶えない。マオイストは自由選挙を実施すれば大敗は確実で,比例制で十数人当選が関の山だ。選挙は出来ない。

だから,自分たちの決めた暫定憲法を無視し,選挙実施に次々と条件を付け,引き延ばしを図ってきた。そして,いよいよとなって4月延期を表明したが,カッコがつかないので王宮国有化実施を宣言させ,その代わりクーデターを断念すれば儀式王制を残すという裏取引をした。そんなところではないか?

マオイストと国王との怪しい関係は,公然の秘密だ。面白い話しだが,確証が取れないので困る。

2007/08/25

階級か民族か

 谷川昌幸(C) 

1.民族インフレ

ネパールはいま「民族(ethnicities, nationalities)インフレ」。民族自治,民族自決,民族代表等々,「民族」がつけば恐いものなしだ。セミナーなど,「民族」産業も繁盛している。

 

しかし,周知のように,民族ほど恐いものはない。カースト制も王制も。民族を制度化し,パンドラの箱に押し込める工夫であり,それなりに機能してきた。ケシカラン制度ではあれ,破滅的な民族解放よりはましとはいえる。

 

それなのに,カースト制や王制のケシカラン側面だけを見て,それらを安易に除去し,パンドラの箱を開け,民族を野に放とうとしている。危ないぞ,これは。

 

2.近代民主主義と民族

近代革命は人民主権を掲げ,国民国家を形成した。国民主義,つまりナショナリズムであり,民族主義の勝利だ。

 

ところが,この市民革命で勝利したのは,自己を国民とすることに成功した大民族だけ。中小民族は,大民族への同化を強制され,従わなければ弾圧された。近代民主主義の民族自決は,大民族独裁民主制のことである。

 

3.共産主義と民族

この近代国家のまやかしを鋭く批判したのが共産主義だが,しかしその共産主義にとっても民族は難物だ。アキレス腱といってもよい。

 

「プロレタリアートは祖国をもたない」「万国の労働者よ団結せよ」

 

この『共産党宣言』の階級による民族の否定こそが,共産主義の大原則だ。こういうと,そんな単純なことはない,共産主義者は民族を重視し,民族自治を繰り返し主張してきたと反論されるかもしれない。が,史的唯物論からしても,階級つまりプロレタリアートこそが普遍性をもつのであり,だからこそ万国の労働者は団結し,世界革命に立ち上がれるのだ。共産主義にとって,民族は所詮革命の手段,道具にすぎない。

 

いやそれどころか,ブルジョアどもが人民主権の美名でブルジョアジーの利益を守り,しかもそのブルジョアジーも実際には自己を「国民」となしえた大民族に他ならなかったのと同じように,普遍的階級としてのプロレタリアートとは,自己を国民となし得る「歴史的民族」のことであり,あるいは世界を支配すべき「世界史的民族」のことであった。これをみても,共産主義が西洋近代の嫡子であることがよく分かる。共産主義は,フランス民主主義(ルソー主義)とドイツ民族主義(ヘーゲル主義)の継承者なのだ。

 

4.レーニンと民族

そんなことはない,レーニンは民族自決を強力に主張したと反論されるかもしれない。たしかに,多民族を抱えるロシアにおいては,諸民族を味方に引き込まなければ革命は不可能であり,だからこそレーニンも民族問題に積極的に取り組み,民族自決を唱えたのだ。

 

「民族とは,歴史的に形成された,安定した,人々の共通性である。それは,言語,地域,経済性,および文化の共通性に現れる心理状態の共通性を基盤としている」(スターリン『マルクス主義と民族問題』1913)。

 

レーニンは「言葉と領域」を強調するものの,民族定義はこれと基本的には同じであり,これがロシア共産党の公式の定義となっていく。

 

レーニンらはこの民族に自決権を与え,民族の言語や文化を尊重せよとさんざん表明したのに,どうして共産主義はユダヤ人弾圧や少数民族抑圧,さらには他民族国家侵略に逸脱していったのか?

 

詳しくは後述するが,それは要するに,共産主義にとっては階級は民族に優先するからに他ならない。そして,もしネパール・マオイストも共産主義政党なら,彼らの宣伝する民族自治,民族代表は,要注意だ。そもそもマオイストは,階級と民族の関係をどう考えているのだろうか?

 

*資料なしで書いているので不正確な部分があるかもしれない。誤りがあれば,後で訂正します。

2007/08/14

新国歌は試作品だ,A.グルン

谷川昌幸(C)
 
音楽の素人がネパール国歌にコメントするのは,「モナリザ」の右手は不自然だと論評するに等しいが,それを許すのが絵画や音楽。「音楽マエストロ」(P.ニューパネ)には畏れ多いが,たで食う虫も好きずき,山海の珍味も味は食う本人が決める。

1.試作品としての国歌
作曲家グルン氏は,大マエストロらしく,インタビューで「これが国歌の決定版か?」と尋ねられ,

 「これは試作品,一つのモデルにすぎない。まだ手を入れているところだ」

と正直に答えている。さすがマエストロ,俗な政府決定にペコペコしたりしない。尊敬すべき音楽家であり,大好きになった。

グルン氏らがどこに手を入れているのかは分からない。たぶん編曲か演奏方法だろうが,素人判断では,主旋律の最後の1/3が不自然だ。ここを修正すると,かなりよくなる。大胆な編曲で直してしまう手もある。

2.設計主義の誤り
現在では,政治・社会制度を理念に従い人為的に作り上げるというのは,設計主義として嫌われ,問題外とされている。社会の諸制度は自ずと生成するもので,われわれはその自然な自生的秩序に期待すべきだとされている。

この自生的秩序論にも問題はあるが,少なくとも国歌に関しては,この考え方で行くべきだ。

3.人為が完成し自然となる
ネパール新国歌は,マエストロ自身が説明するように,伝統的旋律を使って「作曲」された。この「作曲」の人為的な部分を消すことだ。

  人為=artificial=不自然

マエストロ自身が少しずつ修正していってもよいし,人々が勝手に自然になるように修正してもよい。そのようにして「人為」が「自然なもの」となり,人々が自然に口ずさむようになれば,それが真の「国歌」となる。

  慣習は第二の自然

人為なのに自然と見まがう。これこそ本物の芸術だ。

  art(人為)=芸術(art)

(補足)新国歌公定に関する議論は異常に少ない。全くないよりはましだと考え,かなり危険な批判を抜粋掲載した。「しっくりこない新国歌」をご覧ください。

* Pawan Neupane, This is a true national anthem, ekantipur, Aug.12
2007/08/13

マオイスト言論弾圧にハンスト抗議

谷川昌幸(c)

政府与党マオイストの言論統制は見ていて微笑ましい。ヤッテル,ヤッテルという感じ。しかし,当事者にとっては,笑い事ではない。決死のハンストまで始まった。

1.THT,AP発行妨害
マオイスト系「通信・印刷。出版労組(CPPWU)」は8月11−12日,ヒマラヤンタイムズ(THT),アンナプルナポスト(AP)がパタン控訴院のマオイスト系労組員喚問を記事にしたことを反労組と見なし,両紙の印刷・配布を阻止し,発行させなかった。マオイスト系労組は,数日前にも,Nepal Samacharpatraの発行妨害をしている。

むろん記者も直接脅迫している。THTによれば,事務所前の集会で,全ネパール通信・印刷・出版労組アジア太平洋通信社(APCA)ネパール支部のA.K.ゴータム議長は,こう述べた。

「反労組記事を書いた記者は分かっている。ジャーナリストがペンを取るなら,われらは拳を握る。殺して死ぬ覚悟だ。どうなるか,考えて見よ。」

一方の当事者の紙面だから割り引くとしても,これは穏やかではない。たかが言論なのに,命がけだ。

2.マハラ情報相の関与?
ネパール記者連盟(FNJ)が,こうした言論弾圧に抗議声明を出し,マハラ情報相に善処を要求したのは当然だ。マハラ情報相も,一応,「新聞印刷発行を妨害するのはよろしくない」との声明を出した。

しかし,マハラ情報相はマオイストであり,どこまで本気か分からない。後述のように,関与を示唆する情報さえある。

3.決死のハンスト
こうした言論弾圧の中,HBC・FMのビレンドラ・ダハール氏が8月12日,報道委員会ネパール(PCN)前で,決死のハンストに入った。全政党のリーダーらが外交団に向け「報道攻撃をしないという文書での声明」を出さなければ,死に至るまでハンストをつづけるという。

ダハール氏によれば,マオイスト系社員がHBC・FMの制作室を占拠し,5日前から放送できない状態になっている。しかも,彼らは国家権力を利用しているという。具体的にそれがどのようなことなのかは明らかでないが,ありそうな話しだ。

一方,H.D.ダハール議員(NC-D)によれば,マオイストのマハラ情報相は,「情報の流れを統制しようとしている」という。たしかに,ゴルカパトラの記者解雇事件(前記事参照),THT,AP,HBC・FMの攻撃などを考えると,そうした意図があるのではないかと疑われる。

権力奪取に情報支配は不可欠だ。マオイストの目標は国家権力掌握であり,マオイストがいよいよそのための情報統制作戦に入ったとしても不思議ではない。

4.情報支配の方法の違い?
むろん,こうした情報統制はマオイストだけがやっているわけではない。世界的には,マードック氏がグローバル資本のためにやっているし,日本でも大企業がマスコミをソフトに買収している。天皇や日の丸,君が代批判をしようものなら,爆弾を投げつけられたり,刺されたりする。ネパールでも,90年革命以前の情報統制は,それはすさまじいものだった。

だから,権力を狙うマオイストが情報統制に乗り出すのは,特異なことでもなければ,ことさら非難されるべき事でもない。先述のように,憲法の「包摂」原理からしても,マハラ情報相は,封建的家父長制主義者の男性記者どもを解雇して女性記者を半分にし,もし頑迷な男性記者どもがそれに抵抗したら,国家権力(警察,軍隊)で強制排除し,ブタ箱にぶち込んでもかまわないのだ。

情報統制はアメリカでも日本でもやっている。マオイストの特技ではない。それなのに,マオイストが始めると,あぁ,ヤッテル,ヤッテルと見えてしまうのはなぜなのか? これは不思議だ。

* "HBC FM man goes on hunger strike," Himalayan Times, Aug.13
* "Maoist workers threaten AP journalist," Himalayan Times, Aug.12
* "Maoists obstruct printing of THT, AP," eKantiour, Aug.12  

2007/08/12

格差・紛争・陸自派兵,朝日紙面の二面性

 谷川昌幸(C)
お盆の朝日新聞(8月12日)が面白い。2つの記事を関連づけていると,マル優だったのに残念。
 
1.途上国の格差拡大
経済面「途上国で格差拡大」。アジア開発銀行報告書の紹介。紙面棒グラフでは,一人あたり支出額の伸びで,中国を別格とすれば,ネパール(1995-2003)の格差拡大が際立つ。富裕層(上位20%)と貧困層(下位20%)を購買力平価で比較しているので,実態に近い(Fig4)。また,ADB報告書にあるジニ係数比較では,ネパールはダントツ。格差拡大のすさまじさがよく分かる(Fig3)。(添付グラフは朝日紙面ではなく,ADB,Inequality in Asia,2007より)
 
このことは,カトマンズ周辺の豪華マンション乱立を見ると,実感としてよく納得できる。平均的日本人よりも,生活水準は彼らの方がはるかに上だ。
 
一方,地方を見ると,収入源は出稼ぎくらいしかない。そして,そこに近代化。3月タライで,一家総出の小麦収穫をあざ笑うかのように,コンバインが収穫していくのを見た。まるで絨毯爆撃。悪夢だ。コンバインは地方に目もくらむ格差と,絶望的な失業者を生み出す。
  ●タルーと人食いコンバイン 
都市と地方の格差,都市・地方それぞれの地域内格差――これで紛争にならなければ,奇跡だ。
 
2.退屈をもてあます派兵陸自隊員
このような格差拡大に起因するネパール紛争の解決のため,日本政府は陸自を派兵した。朝日社会面「自衛隊の海外派遣変質」は,その活動を伝えている。
 
「ネパール中部。林の中に立つ大型テントが、陸上自衛隊2佐の石橋克伸(43)の職場だ。
 政府軍と武装勢力との内戦終結後の3月末,国連の監視要員として派遣された。派遣国が違う3人のメンバーと,武装勢力が暮らすキャンプ地に入り,武器庫を見張る。『悲しいぐらい退屈で,地味な仕事』と笑う。」(朝日,8/12,強調谷川)
 
朝日記事によれば,石橋2佐は,カンボジアに監視要員として派遣され,地元民から感謝され,引き留められた。「『こうした活動に力を入れるべきだ』。こんな思いを強くした。」(同上)
 
朝日の主張は鮮明。自衛隊派兵を誉めたたえ,煽っているのだ。ちょうちん持ち記事。が,ここで朝日は,社会面の記事を思い出すべきだ。ネパール紛争の直接の原因(遠因ではない)は,格差拡大,大量失業だ。統計で「失業」とならないくらい深刻なのだ。それなのに,派兵を煽って何とする。
 
もともとUNMINは「兵員と武器の管理」の監視が任務。以前にも助言したように,監視カメラをつけ,市ヶ谷の冷房の利いた快適な部屋で,イラム茶でもすすりながら,モニター画面を見ておれば済むことだ。
 
憲法を無視し,大金を無駄遣いし,「悲しいぐらい退屈」な思いまでして,陸自派兵をつづけることはない。即刻撤兵すべきだ。
2007/08/11

ピケ元記者,マオイストに強制排除される

谷川昌幸(C)

国有ゴルカパトラ社前で平和的にピケを張ろうとしていた元記者25人が8月9日,ぼこぼこに殴られ,強制排除された。
 
7+1党政府は,7月26日,ゴルカパトラ記者49(45)人をクビにした。理由は社の体制を「包摂的(inclusive)」にするため。
 
ネパール記者連盟(FJN)はこの解雇を非難し,抗議運動をすると宣言,今回のピケもその抗議運動の一環だった。
 
しかし,いまの暫定憲法は「包摂性」を大原則としている。
 ・「ネパールは包摂的国家」(第4条)
 ・諸民族,諸集団等は「比例的包摂原理により国家組織に参加する権利を持つ」(第21条)
 ・国家は,既存の偏った構造を排除し,国家を「包摂的に再構築する」義務を負う。(第33条)
国有ゴルカパトラ社は,最高法規としてのこの暫定憲法規定に忠実に従い,45人をクビにしたのだ。
 
マオイスト系の「革命記者同盟」(RJA)も,憲法遵守の立場から,包摂性原理による政府メディアの再構築を支持すると発表,王党派系が「政府メディアの革新的前進を妨害している」と非難した。
 
情報通信大臣はマオイストのクリシュナ・バハドゥル・マハラ氏。大臣が憲法に従って行政を行うのは当然であり,今回の憲法「包摂性」原理による45人馘首も,もちろん文句なしに合憲だ。文句があるなら,憲法に言え。
 
そして,今は革命途上だ。「暫定」は「革命」により補完される。だから,反革命の動きを実力により排除するのは,これまた正当(legitimate)だ。
 
国有ゴルカパトラ社が,反革命記者たちの襲撃に備え,約60名の排除要員を社屋ビル内に待機させ,ピケが始まると実力でそれを排除したのも,これまた革命と憲法の原理により正当だ。
 
かつて国王が旧憲法の国王大権を使用し,警察力でカンチプルを制圧したのと,何ら変わらない。マオイストはいまや政府与党であり,ゴルカパトラ社が今回のように自力でピケを排除できなければ,警察を動員してもよいのだ。革命と憲法の原理によれば,何ら問題はない。
 
ライジングネパールHPは,再三指摘するように,反革命の根城だ。誰がやっているのか知らないが,この状況下でまだなお,
 ・国家元首は国王
 ・国歌は国王賛歌
 ・ヒンズー教は国教
と,堂々と掲げている。違憲ながら,あっぱれ。押し寄せる官軍に最後まで抵抗した会津鶴が城,飯盛山の白虎隊の悲しくも美しい最後を思わせる。判官びいきは日本だけではないだろう。
 
* "Journalists at Gorkhapatra attacked, "eKantipur, Aug.9
* "FNJ condemns sacking of journos", Asia Media, Jul.29
2007/08/10

ヴァンダナ・シヴァ,ユートピアとしての前近代社会?

 ヴァンダナ・シヴァ(1952−)さんのことは,ネット上の様々な論文(英語)を見て以前から知っていたが,翻訳がほぼ出そろったので,日本語で読んでみた。

インドは大国であり,けた外れの偉人が輩出する。しかも近年は女性が多い。けた外れとなるかどうかまだ分からないが,たとえばアルンダティ・ロイ。過激で美しく,大いに尊敬している。
 ●ロイの闘いと,社会の政治的成熟度 
 
シヴァさんも,若くして非暴力抵抗運動に参加し,以後,生物多様性と文化多様性のための実践運動に参加しつつ,多数の著書を発表している。神がかり的といってもよい。グローバル資本主義批判の舌鋒は鋭く,超過激で,美しく,やはり私は大いに尊敬している。

そのシヴァさんの『アース・デモクラシー』(2005)を読むと,彼女は,近現代資本主義批判を徹底していき,ついには近代以前の社会を賛美するに至ったかと思えるほどだ。もちろん,聡明な彼女が,インドや西欧,日本の「中世」の悪しき面を知らないはずはない。それらすべてを分かった上で,やはり近代以前のインドや世界には,人類の英知が多数あり,それらは回復されるべきだと,過激に主張するのだ。

これに対し,ネパール・マオイストやにわか民主主義者たちは,なにかというと「中世」の悪を言い立てる。それは,マオイストが近代の嫡子であり,近代主義に目がくらみ,近代以前の英知が見えないからだ。自分たちを明るく輝かせるために,中世を「暗黒」とする。レトリックとしては分からぬではないが,事実はそうではない。過激派シヴァさんがほのめかすように,近代以前の人々は,決して不自由でもなければ不幸でもなかった。近代資本主義社会より,はるかにまともに幸せに暮らしていた。

シヴァさんの本を読んでいると,近代以前の社会はまるでユートピアのようだ。人間が人間らしく自然と調和し幸せに暮らしていた。いまはやりのグローバル資本主義のユートピア,マオイストのユートピア,そして中世に通ずる「アース・デモクラシー」のユートピア。どれが一番人間的なのだろう。虚心に考えてみるべきだろう。
2007/08/09

国歌とナショナリズム 表意音楽評価の難しさ

谷川昌幸(C)
国歌は国旗とともに,ナショナリズム高揚を目的としており,自国民だけでなく他国民に対してすら,それらへの敬意が国際慣習により義務づけられている。国歌,国旗は批判を許さない特権的地位にあるのだ。

別格の国歌を筆頭に,一般に表意音楽の曲を曲そのものとして評価することは難しい。歌詞がついておればなおさらだ。しかし,全く出来ないわけではない。何の予備知識もなく歌詞も理解できない音楽を聴いても,好き嫌い,良し悪しはちゃんと判断できる。この場合,曲そのものを評価していると言ってよいだろう。

同じく国旗も,たとえば「日の丸」を日本国家と切り離し純粋にデザインとして評価することは可能だ。

このように,国歌,国旗をナショナリズムと切り離して評価できないことはない。事実,個々人は,日々そのような評価(好き嫌い判断)を行っている。ところが,それを言うことは,実際には極めて困難であり危険でもある。日本で「君が代」「日の丸」の悪口を言えば,命を狙われる恐れがある。国歌,国旗にはそれほど強力なナショナリズム呪縛力があり,そこが権力の狙い目なのだ。

国歌,国旗は「取り扱い注意」。ナショナリズムもそのシンボルも,それほど危険である。が,そうした国歌,国旗のあり方,つまりは国家のあり方は,グロ−バル化とともに変わりつつあるし,また変わるべきだろう。今日の「天声人語」が,「異質なものを排除しがちな時代への警鐘」として,次のように述べている。

「世論を分かつ大テーマ(集団自衛権)なのに,異なる声を聴く耳はないらしい。論敵について,勝海舟が言ったそうだ。『敵がいないと,事が出来ぬ。国家というものは,みンながワイワイ反対して,それでいいのだ』。(朝日新聞,8月9日)
 
2007/08/08

新国歌制定への疑問

 谷川昌幸(C)
1.議論がない
新国歌の公式決定というのに,少なくとも日本から見る限りでは,大手マスコミではちょうちん持ち記事以外には,議論はない。全くない。それを異常と感じないのが異常。

こんな状況では,「国王賛歌」をまだ国歌として堂々と掲げているゴルカパトラ(ライジングネパール)の方が偉い。ここにいたって,更新忘れ,はあるまい。表紙の次のページだから,確信犯だ。反動でも,無いよりはましだ。

2.新国歌と新国家の理念的矛盾
国歌は,近代主権国家(絶対主義国家,民主主義国家)が地域の多文化を弾圧し国民文化に同化させるために制定し,強制してきたものだ。

ネパール新国家は,その中央集権的近代主権国家のあり方を原理的に否定し,民族自治,多文化共生をスローガンにしている。新国歌制定は,この自らの国家理念と原理的に矛盾している。文化,民族,地域の多様性を,唯一の国歌で権力的に強制しようとするのは,マンガ的。

かつて大日本帝国は,アジア諸国植民地で「君が代」を歌わせ,民族共和,みな天皇の赤子といいつつ,実際には「2等臣民」「3等臣民」と差別し,植民地搾取した。社会主義国も,インターナショナルを歌いながら,少数民族や隣接諸国を侵略支配した。国歌とは所詮そんなものだ。

3.国歌の抑圧的専制性
音楽は情感に訴えるものであり,情感は内面的作用だ。人権思想の根本は,国家権力は外面を規制し内面には介入しないということ。政教分離も同じ原理に立っている。

国歌は,この原理に真っ向から反する。国家が,本来,人の趣味に任せるべき音楽を権力的に制定し,学校等で強制的に歌わせる。これは許し難い人権侵害だ。

だから,一国の政府が定めた国歌にケチをつけるな,という批判は,根本的に間違いである。
 (1)上述の通り,国歌国定は原理的誤り。
 (2)グローバル化の時代,ネパール国歌はネパール人だけのものではない。それを聴く外国人が批評するのは当然。
 (3)音楽は趣味の領域に属し,国家権力が決めようが共産党が決めようが,善し悪しを判断するのは聴く本人だ。政府の決めたことに文句を言わず従うべきは,「赤では止まれ」という決定くらい。だからこそ,逆にいえば。個人の好き嫌いに関することを,国家権力で決めてはならない,ということ。

4.「国王賛歌」批判と「君が代」批判
「国王賛歌」批判は,このグローバル化の時代では,「君が代」批判に直結する。ネパールの「国王賛歌」を反民主的と批判しておいて,日本で「君が代」を歌っていては,しゃれにもならない。

「君が代」はとんでもない国歌だ。「強制しない」と公約して法制化したくせに,いまや「君が代」は日本恐怖政治の応援歌だ。

東京を見よ。音楽は内面性にかかわるものであり,歌うこと,聴くことは,人々の内面的精神活動だ。それなのに,石原都政は「君が代」を教職員に強制し,従わない者を処罰してきた。2007年4月現在,381人が懲戒処分。東京を筆頭に,日本の学校は,全体主義的「君が代」支配下にあり,教職員は完全に萎縮している。

こんな足元の「君が代」専制を容認しながら,「国王賛歌」批判は出来ないはずだ。

5.価値基準の多様性と評価の可能性
音楽の評価基準が西洋近代音楽だけでなく,文化ごとに多様なことは常識だが,にもかかわらずそれぞれの文化内での客観的評価は可能だ。これはM・ウェーバー「社会科学の客観性」の第一原理で,周知のこと。尺は多様だが,それぞれの尺で計ることは出来る。

ネパールは日本に比べ小さな国だが,音楽には素晴らしいものが多数ある。ネパールやインドの音楽は決して西洋音楽に劣るものではない。それは,演歌やジャズを西洋クラシック音楽の基準で評価することがナンセンスなのと同じことだ。そんなことは小学生でもやっていない。

音楽の好き嫌いはあくまでも聴く本人のものであり,したがって国歌といえども好き嫌いは言ってもよい。石原都知事のようにそれを言わせず,権力的に強制するのは,専制だ。と同時に,音楽は好き嫌いだけではない。それぞれの文化基準に従って,良いものは良いと高く評価される。最終的には,民衆が歴史の中で音楽の評価を確定していく。

音楽は,個人的であると同時に民主的であり,同時代的であると同時に歴史的だ。この音楽こそが,あるべき政治のモデルだ。政府が決めた国歌にケチをつけるな,というのは,最も民主的でない態度である。
2007/08/04

しっくりこない新国歌

谷川昌幸(C)

新国歌が8月4日,正式決定され発表された。音楽(メロディ)は好きずきだが,出来不出来は厳然としてあり,趣味判断は出来る。ズバリ,新国歌はダメだ。歌詞は別として,こんな曲では元気も出ない。「君が代」といい勝負だ。

新国歌(2007.8.4-)
 ・作詞 Byakul Maila
 ・作曲 Amber Gurung

旧国歌(1899-)
 ・作詞 Chakrapani Chalise
 ・作曲 Bakhatbir Budhapirthi

そもそも国歌を政府が権力的に決定するという発想が時代錯誤だ。国歌は長年歌い継がれてきたものが国民愛唱歌となり,国歌となる。それなのに,お上(政府)が決めて下々に与えるなどという反民主主義的発想に囚われているから,こんなしっくりこない小学校校歌のような曲を国歌にしてしまうのだ。

こんな曲なら,旧国歌の曲に新しい歌詞をつけた方がはるかによい。フランスやドイツですら,都合の悪い歌詞を時代に合わせなんとかやりくりし,古い国歌を使いつづけている。

ネパール旧国歌のメロディは,短いにもかかわらず威厳があり,元気が出て,いかにも有り難い曲だった。100年もの歴史をバカにしていると,文化が廃れてしまう。

"Nepal's national anthem is one of the oldest in world history. Since a monarchy was established by Prithvi Narayan Shah after unifying the petty states into Nepal, the then poet Chakrapani Chalise took upon it, as early as 1899, to pour national tribute through the national anthem. The music was composed by Bhaktabir Budhapirati. Thus, it has been molding the Nepalese nationalistic psyche for one hundred and seven years." (Bijay Kumar Rauniyar, Rising Nepal,2006-9-16)

* Cf. e-Kantipur, 4 Aug.(語句一部訂正,英文記事追加,8/5)
*「稚拙な」を「しっくりこない」に修正,「学芸会」削除(8/9)

 ▼参考意見(8月12日追加)
Kathmanduspeaksというブログに,次のような意見が出ていた。著者がどのような方か全く存じ上げない。どのような立場の方であれ,国歌を公定するについて,異論はあった方がよい。参考までに,抜粋を掲載する。もともと歌詞の議論だったようだが,意見は曲の方に集まっている。曲に違和感をもつ人が,ネパールにも少なからずいるようだ。

Kathmanduspeaks
I won't sing the song- and, perhaps, it won't make a difference. But for me- it makes a lot of difference. "Rato Ra Chandra Surya"- is far more patriotic and historic than this Mahila's crap.
National Song or National Shame
Do you expect me to sing Byakul's song? Should I stand when it's played on government programmes and functions? Do you expect me to show respect to my national anthem? Then, throw the new anthem into a dustbin. Conduct a referendum- not now, dear leaders, don't worry- to see if we, Nepali people, accept it as our national song or not. It's not that you can decide if our country will be Nepal or New-Nepal with a monarch or a president or we'll be a democracy or a republic- you just do your job- show us that you can hold CA elections on time. As for the rest- leave them unto us.
"I was telling my mom how Indian national song is- and how they sing the national anthem of Netherland with full synergy," my friend said, "But when our national song was played on the television, I was so sorry. Do we call this a national song?"
"This song is like one we used to sing in our annual school-day functions," another said.
"When Rato Ra Chandra Surya' is played, our blood boils with patriotism. I don't like this song, but now that they have made it our new anthem- we must accept it. It's not so bad, isn't it," my another colleague said sarcastically.
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August 4, 2007 6:51 AM  
Nepali Akash said...
the way it ends with "jaya jaya nepala" lacks melody. Sounds like a pop version of a folk song.

August 4, 2007 10:43 AM  
Prajwol said...
I agree with Nepali Akash. Though, it's very hard to replace the anthem that we are used to all our lives, I believe the composition could have been better.
I have no problem with the words, it seems quite comprehensive, but I was really hoping for better compositon . Since this is a national issue, rather than just assigning handfull composers, government could have asked everyone/anyone to come up with a tune, and conduct a popularity poll to finalise.
Like I mentioned earlier, since we were used to previous version, it might take us little long time to getting used to new one, and ultimatly liking it.

* http://kathmanduspeaks.blogspot.com/2007/08/nepals-new-anthem.html

2007/08/01

防衛副大臣訪ネと搾取者日本

谷川昌幸(C)

1.ネパール側,防衛副大臣に開発期待
カンチプル(31Jul)が木村隆秀防衛副大臣の訪問を大きく報道している。興味深いのはまたもや報道内容。カンチプルは,木村副大臣が制憲議会選挙と平和構築への期待を述べたと紹介したあと,

 ・観光
 ・水力発電
 ・インフラ整備

についてサハナ・プラダン外務大臣と意見交換したと報道している。日本は水力発電所建設と観光振興への援助を確約したとも念押ししている。陸自隊員の軍事監視活動視察の記事は付け足しだ。

2.日本側,防衛副大臣の訪ネ目的は軍事監視視察
では,日本大使館の公式訪問発表文(30Jul)はどうなっているのか? 

訪問目的: UNMINの日本軍事監視員の活動視察

あれあれ! 軍事監視活動の視察だけ。 防衛省情報によると思われる時事通信(7/27)記事では,「国連の軍事監視要員としてネパールに派遣されている陸上自衛官を激励するほか、同国のコイララ首相を表敬訪問」。日本側はもっぱら軍事なのに,ネパール側は経済協力ばかり。

ネパールでは,防衛副大臣が訪問しているのに,軍事的なことではなく,開発援助に関心が集まる。木村副大臣としては不本意であろうが,私はこれこそ日ネ友好の偉大な遺産だと思う。日本の平和国家のイメージがネパールではまだ強烈に残っているのだ。

3.日ネ報道比較
日本側の続報はまだだが,大胆に予測すれば,開発援助なんか後回しで,勇ましい軍事監視活動視察記事となりそうだ。

こうして,日ネ両国民の間に誤解が拡大再生産され,日ネ友好の過去の遺産が食いつぶされていく。

4.帝国主義的搾取者,日本
非軍事的日ネ友好の遺産はかけがえのないものであり,在ネ日本人の安全はこの遺産により保障されているといってもよい。

そもそも日本人がネパールでは誰からも好意的に見られているというのは,根拠のない幻想だ。日本人は,共産主義諸勢力にとって,印米に並ぶ帝国主義的搾取者に他ならない。たとえば,いま手元にあるH.ヤミ=B.バッタライ共著「ネパールの民族問題」(2007)では,こう批判されている。

「・・・・ネパールは,1950,60年代以降,日本,ドイツ,アメリカ等の強国との新植民地主義的関係を強化してきた。」

「ネパールを支配している他の(アメリカ以外の)強国は,主として日本とドイツであり,その支配形態は貿易と金融によるものだ。」

光栄なことに,マオイストにとって,日本は印米並の搾取者,ときにはその筆頭にあげられている。日本人はネパールのお友達と思っているかもしれないが,マオイストや共産主義諸派はそうは思っていない。日本はネパール人民の敵なのだ。

5.陸自派遣の危険性
そこに日本が軍隊を派遣した。「個人派遣」などといっているが,それならなぜ防衛副大臣が「激励」(前線視察)に行くのか? ネパール側からすれば,派兵と何らかわりはない。

いまは防衛副大臣が前線視察に出向いても,話しは開発援助ばかりのようだが,いずれ日本側の報道も伝わり,陸自派遣は軍事目的だということがネパール側にもはっきり分かるようになるだろう。

そうなったとき,非軍事的日ネ友好の長年の努力は水泡に帰し,そして,マオイストらの帝国主義的・新植民地主義的支配者=日本人という見方が一気に広がるだろう。

アフガンやイラクを見れば,派兵がその地に居住する同胞にとっていかに危険なことかは明白である。マオイストにとって,日本(人)は打倒すべき搾取者だ。いまはスローガンかもしれないが,派兵によりそれがスローガンにとどまらない恐れが出てきた。

ネパール在住日本人の安全のためにも,陸自は速やかに撤兵すべきだ。

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The Official Visit of Mr. Takahide KIMURA
Senior Vice-Minister for Defense of Japan to Nepal

Purpose of the visit
Inspection of the activities of Japanese Arms Monitors of UNMIN.

Courtesy Call on Rt. Honorable Prime Minister and Minister for Defense Mr. G. P. Koirala and Honorable Minister for Foreign Affairs Ms. Sahana Pradhan.

Schedule
31 Jul., 2007 Arrival at Kathmandu
Courtesy Call on Honorable Minister for Foreign Affairs Ms. Sahana Pradhan (3 p.m.)

1 Aug., 2007 Inspection of the activities of Japanese Arms Monitors of UNMIN

2 Aug., 2007 Courtesy Call on Rt. Honorable Prime Minister and Minister for Defense Mr. G. P. Koirala (8.30 a.m.)

Departure from Nepal

(在ネ日本大使館HP http://www.np.emb-japan.go.jp/ann/300707.html)