ネパール評論 2007年12月


2007/12/27

ガイ教授(15):公的参加とマイノリティ(j)

谷川昌幸(C)

6.公的参加の形と制度(2)

(1)代表(立法への参加)
マイノリティの公的参加としては,国家あるいは地方政府の意思決定である立法への参加が最も重要である。マイノリティが代表を送ることが出来れば,政権参加あるいは野党としての意見反映が可能となる。また,代表選出や選挙の過程で,マイノリティの結集,アイデンティティの強化も可能だ。

選挙制度としては,比例制あるいは割当制(separate representation)がある。後者の一つとして,社会集団代表(communal representation)が注目されている。ボスニア・ヘルツェゴビナ,クロアチア,フィンランド,ハンガリー,ルーマニア,スロベキア,キプロス,フィージー,中国,ニュージーランド,サモアなど。

マイノリティ代表を確実にするなら,比例制ではなく,社会集団代表とせざるを得ない。しかし,これはコミュナリズムへの逆行であり,批判も多い。ガイはスタンリー・スミスの次のような批判を紹介している。

「(コミュナル議席割当は)既存のコミュナル対立を激化させる。社会諸集団は,それぞれアイデンティティの強化を図り,選挙戦はコミュナル偏見に支配される。そして,新しい社会集団が現れ,自分たちにも議席を割り当てよ,と要求するようになる。」

ガイによれば,コミュナル選挙となると,政治統合に必要な国民政党(national party)の存立が困難になる。また,たとえこの方法でマイノリティが議席を得ても,これだけでは国家の重要な職に就くことは困難だ。

コミュナル選挙は,様々な社会集団がもつ共通性を見えなくするし,多数派もコミュナル代表まかせにし,彼らの問題を棚上げにしてしまうおそれがある。

ガイの勧めるのは,一つの統合的選挙制度を維持しつつ,比例代表制候補者リストへのマイノリティ登録や,マイノリティ候補者数の下限設定などを,法的手段あるいは政治的方法で実現していくことである。

この方法は,妥協には違いないが,おそらくそれがより賢明なやり方であろう。コミュナル対立が激しく,そうした妥協が困難な場合もあり得るが,コミュナル選挙が望ましくないことはいうまでもない。マイノリティ原理主義者は怒るであろうが,政治は妥協だから,この点ではガイの提案は妥当である。

(2)権力の分有(power sharing)
マイノリティの公的参加には立法府への代表選出だけでは不十分であり,政府,行政への参加による権力分有も必要だ。もっともよく知られているのが,consociationalismであり,これについてはレイプハルトの次の説明がわかりやすい。

「多極共存型民主主義(consociational democracy)。宗教的,民族的,人種的,地域的セグメント(部分)に深く分裂している国々に見られる民主主義。多極共存型民主主義には,主要な特徴として,大連立とセグメント自治の二つがある。共通の問題については,すべての主要なセグメントの代表が参加して共同で決定する一方,それ以外のすべての問題については,それぞれのセグメントが自分で,自分のために自主的に決定をする。また,副次的な特徴としては,政治的代表,公務員任用,公金分配における比例配分と,自己の重要問題に対するマイノリティの拒否権の二つがある。割り当てについては,厳密な比例割り当てではなく,マイノリティ優遇割り当てもある。以上の4点で,多極共存型民主主義は,多数派支配型民主主義とは明確に異なっている。・・・・多極共存型民主主義は,民主主義理論に二つの重要な貢献をした。一つは,民主主義を多数派の支配と同一視する狭い民主主義観を批判したこと。もう一つは,民主主義の適用範囲を広げ,伝統的に民主的統治には適さないと見られてきた社会でも民主主義は可能としたことである。」(Arend Lijphart,"consociational democracy," Oxford Companion to Politics, p.188-189)

この多極共存型民主主義によれば,各民族が政治集団として認められ,民族内については自治,国家的なことについては権力分有で政治参加することになる。

権力分有は,憲法に記述されることもあれば,慣習として行われることもある。インドでは,内閣に指定カースト1人を入れる。アメリカでは,最高裁判事の1人はユダヤ人,1人は黒人となっている。

しかし,権力分有には問題も多い。権力参加すると,外からの批判がなくなったり,逆に,決定が出来ず,不効率,不安定になったりする。クォーター制にすると,有能でない者まで公的参加する可能性がある。とくに拒否権を認めると,決定が非常に難しくなる。また,コミュナリズムとなりやすい。

以上のような問題はあるが,ガイによれば,権力分有は民族紛争解決に役立つ場合が多く,そうした社会の民主主義への移行期には有用である。

(3)自治
マイノリティの公的参加を実現する他の方法は,自治(autonomy)であり,これには領域(territorial)自治と集団(group)自治がある。マイノリティが特定地域に集中している場合は,連邦制(カナダ,インド,スイスなど)や地域自治(カシミール,スコットランド,ニューカレドニアなど)をとり,そうでない場合は,集団自治(インドのムスリム,ベルギーの言語集団,イスラエルのアラブ系など)となる。

こうした自治は,民族対立の軽減,解消をもたらす場合が多いが,失敗も少なくない。しかし,民族対立が激しいところでは,何らかの自治は採用せざるを得ないだろう。

ここで問題は,やはり,ある集団に自治を与えると,集団内の少数派の権利が侵害される場合が多いことだ。領域自治であれば,たとえばアイルランドの少数派内少数派の問題。集団自治であれば,ユダヤ教集団やイスラム教集団における女性の権利保護の問題。あるいは,領域自治,集団自治を認めたら,さらに新たな領域や集団があらわれ,自治を要求するという問題もある。ガイは,これを次のようにまとめている。

「南アフリカでは伝統的支配者たちが慣習法の継続を求めたが,アフリカの女性たちは,財産管理や相続において差別されるとして,これに反対した。南アフリカは,慣習法の適用は認めるが,人権規定(Bill of Rights)には従うという方法でこれを解決した。カナダ政府も集団法(band laws)問題で同じような解決を図ろうとしている。」(p.24)

しかし,これは解決策としては少々安易だ。むしろ,問題はここから始まる。この問題には,おそらく一般論は妥当しないだろう。諸民族の交渉の積み重ねにより,その地域,その文化に適した諸民族の共存の仕方を探っていくしか仕方あるまい。

7.結論

この論文全体の結論として,ガイは以下のように述べている。

マイノリティにとって,公的事柄への参加はアイデンティティ問題の中心をしめるものであり, 参加して初めて国家の一員としての感覚も持てる。公的参加は,マイノリティが意見を述べ,決定と実施に参加し,これにより自己の利益を守るためにも不可欠だ。

しかし,公的参加の方法については,意見の一致はない。大きく分けると,一つは,マイノリティの最大限の自治を目標とし,立法,行政等にそれぞれ独立したマイノリティとして参加することを目指すもの,もう一つは,様々な方法での参加を通して,マイノリティの全体への統合を目指すもの,の二つがある。が,一般的に適用できるようなモデルはない。特別扱いを望まないマイノリティもいるし,個人の権利とコミュナル権利との関係も様々でありうる。結局,こういってよいであろう。

「現代の特徴である一時的・流動的なアイデンティティを固定した実体と見誤ってはならない。代表や制度をそれぞれ集団ごとに認めると,民族が他の目的のための操作手段として利用されたり,民族至上主義になったりしがちだ。最近,多くの案が提案されているが,それらはまだ実施されたこともなく,また実施に移されている様々な案であっても,成功か否かの評価はまだ時期尚早だ。それらの多くは主に紛争解決のためのものであり,長期的な目標に向けられたものとはいえない。」(p.25)

このガイの結論は,妥当なものだ。マイノリティ問題は,公的参加なくしては解決は難しい。しかし,連邦制や民族自治にすれば問題解決というわけにはいかない。それらには別の難しい問題があり,それらを見据えながら,漸進的に政治統合を進めていくべきだと考えられるからである。

2007/12/26

神々の自由競争市場へ? 新憲法の課題


谷川昌幸(C)

1.大浦天主堂のクリスマス・ミサ
大浦天主堂(国宝)のクリスマス・ミサに参列。敬虔なよいミサだった。日本のキリスト教は禁教令の大弾圧で絶滅したと思われていたが,1865年,居留外国人のために大浦天主堂が建設されると,潜伏キリシタンが密かに礼拝に訪れ,ここに劇的な「信徒発見」となる。この教会こそ,日本カトリックの再生の地である。

2.信仰の自由
この由緒ある教会の敬虔なミサに参列していると,異教徒の私にも,信仰の深い喜びがよく感じ取れる。このような信仰共同体に入れば,孤独も不安もいやされ,永遠の生に浴することが出来るのではないか,と。

人にとって信仰は大切なものであり,信仰の自由は絶対に保障されなければならない。だから,信仰の自由は,自由権の中でも最も重要な権利の一つとして,たとえば日本国憲法でも「信仰の自由は何人にたいしてもこれを保障する」(第20条)と無条件で保障しているのだ。

oura2  oura 大浦天主堂 2007.12.24 21:00

3.政治の論理
ところが,一方,信仰が社会現象であることも事実で,教会は政治集団でもある。キリシタン信仰の強靱さ,クリスマス・ミサの敬虔さに深い敬意を表しつつも,もし江戸時代に信仰の自由が認められていたら,日本はどうなっていただろうか,とも思わざるをえない。徳川幕府が恐れたように,おそらくキリスト教は急拡大し,各地で寺社と衝突し,そこに欧米キリスト教国が介入し,日本は他のアジア,アフリカ諸国と同じような運命をたどっていた可能性が高い。信仰の自由の観点からはキリシタン弾圧は許されないが,独立維持の政治的観点からは,それはやむを得ざる選択だったとも言えなくもない。自由と自由,権利と権利が対立するときの選択は難しい。

4.文明の伝道者ド・ロ神父
1859年,長崎が開港され,1873年禁教令が撤廃されると,宣教師がやってきてキリスト教を布教し始めた。潜伏キリシタンにとって,彼らは待ちこがれたローマ教会の神父であり,熱狂的に歓迎されたことは言うまでもない。と同時に,宣教師たちは欧米近代文明の権化でもあった。この頃,彼,我の知力・財力の差は目もくらむばかりであり,宣教師たちは長崎の住民にとって万能の世俗の神のごとき存在だった。

たとえば,遠藤周作の『沈黙』の舞台となった外海には,フランスからド・ロ神父がやってきた。外海は,耕地もない海沿いの僻地。現代的に言えば,最も開発の遅れた極貧の地だった。だからこそ,幕府もキリシタンの潜伏を知りつつ,弾圧のコストと見合わないと考え,見逃してきたのだろう。その外海の潜伏キリシタンや村人にとって,ド・ロ神父は宗教上の神父であると同時に,西洋近代文明の伝道者でもあった。

ド・ロ神父は,1840年フランスに生まれ,1867年パリ外国宣教会入会,1968年長崎へ渡来し,1875年大浦神学校(重文)建設。1879年外海赴任,出津教会司教となる。1882年出津教会建設。1883年救護院創設,授産場,マカロニ工場(重文)建設,パン,マカロニ,ソーメン,織物事業開始。1884年原野開拓開始。1885年鰯網工場,保育所(重文),製粉工場建設,薬局設置。1891年赤痢避病舎設置。1893年大野教会建設。1895年村民救済のための県道工事。1898年共同墓地建設。1901年茶農園建設。1914年長崎市南山手で没。(「ド・ロ神父記念館」パンフレットより)

このように,ド・ロ神父は,外海の人々にとって神のごとき万能の開発の父でもあった。この12月15日,開拓地と牧場跡(写真参照)を見学したが,荒れ地にこれだけの事業をやれるド・ロ神父は,地元民には神の似姿と見えたであろう。神は,長い弾圧の日々を耐えてきた外海のキリシタンのために,ド・ロ神父を使わし,その栄光を現わされた,きっとそう思ったにちがいない。

徳川幕府がキリスト教を恐れたのは,このド・ロ神父のように,それが世俗の知力・財力を伴って日本に上陸したからに違いない。外海のキリシタン遺跡を見ると,幕府がキリシタンに対して抱いた強い警戒心をよく理解できる。世俗の統治者として,それは当然のことといわざるをえない。

de rotz馬小屋跡 sitsu 出津遠景

5.ネパールのキリスト教布教規制
この徳川幕府と同じような宗教政策を取ってきたのが,実はネパールである。1951年開国後もこの政策は継承され,民主化運動後の1990年憲法,さらには現行2007年暫定憲法にさえも,事実上キリスト教を対象とした布教規制の条文が用心深く残されている。そこで,いま注目すべきは,この布教禁止条項が次の新憲法にも残るか否かである。

信仰の自由は基本的人権だ。そんなことは分かっている。では,ネパールを神々の自由競争市場としてキリスト教にも解放するのか?

共和制も重要だが,私にはむしろ,こちらの方が気になる。ネパールは現在,国連管理下にある。新憲法制定に,国際社会(先進国)が驚くほど広く深く介入している。先進国にとっては,信仰の自由は当たり前のことだ。先進国は,トヨタとGMが自由市場で競争するように,神々も信仰の自由市場で競争すればよいと考え,おそらく布教禁止条項を撤廃しようとするだろう。下部構造としての経済の規制緩和・自由化は,当然,上部構造の宗教の規制緩和・自由化をもたらす。これが,ネパール社会にどのような変化をもたらすか?

6.神々の自由競争市場
この信仰の自由市場で,ヒンズー教の神々はキリスト教の神と闘い,勝利することが出来るだろうか? どちらが勝とうが,フェアな自由競争だから,勝った方が正しい,というのが先進国の考え方。これに対し,日本やネパールの歴代為政者たちは,開発格差のあるところでの自由競争は公平ではないとして,布教の禁止や制限をしてきた。

難しいのは,先進国もいまでは途上国の強硬な要求に譲歩し,不本意ながらも各民族に固有文化維持の権利を認めていることだ。文化については,表向きは自由競争市場主義をとらないことになっている。もしこの多文化主義原理に依拠するなら,ネパールの固有文化は何と言ってもヒンズー教だから,ヒンズー教保護,キリスト教布教規制は正当と言うことになる。

では,ネパールはどうするか? 先進国は表向きは多文化主義的文化保護・文化規制に譲歩しているが,これは巧妙な二枚舌,本音は生活全般の自由市場化であることはまちがいない。民主化支援,憲法制定支援で,先進国はキリスト教布教規制の撤廃まで突き進むか? それとも,ヒンズー原理主義を中心とした守旧派が固有文化としてのヒンズー教保護規定を残しうるか? 

この問題がややこしいのは,ネパールには,仏教やイスラム教,あるいは非アーリア系の諸民族がいて,信仰の自由化はこれらの宗教や固有文化にとっては解放となるからだ。全体としてみると,この問題に関しては,先進国=非アーリア系諸民族連合が結局は勝利し,信教の自由が認められる可能性が高い。それが,非アーリア系諸民族の固有文化の維持発展となるかどうかは疑わしいが。

2007/12/24

ガイ教授(14):公的参加とマイノリティ(i)

谷川昌幸(C)
6.公的参加の形と制度(1)
 
公的参加には,様々な形とレベルがある。立法,行政,司法への参加,それも決定段階だけでなく,決定以前の審議から決定以後の実施,評価にいたるまで参加の形は様々だ。また,国家や自治体などの公的機関だけでなく,NGO等への参加もある。ガイは,その詳細については,自らも委員として参加して作成された「欧州安全保障協力機構(OSCE)」の「The Lund Recommendation on the Effective Participation of National Minorities in Public Life」(1999)に委ねている。この勧告は,公的参加の原則について,こう述べている。
 
「1)公的生活へのナショナル・マイノリティの効果的参加は,平和的・民主的社会にとって不可欠のものである。ヨーロッパや他の地域の経験から,そのような参加を促進するには,政府はナショナル・マイノリティのために特別の措置をとる必要があることが分かる。この勧告は,国内マイノリティの包摂(inclusion)を促進し,マイノリティが自らのアイデンティティと特性を維持できるようにし,これにより国家の良き統治と統合を促進することを目的とする。」
 
この勧告で興味深く,また民族問題に長年取り組んできた欧州の成熟した深慮を感じさせるのが,次の勧告である。
 
「4)個々人は,ナショナル・マイノリティの成員としてのアイデンティティ以外に,様々な方法で自らのアイデンティティを形成する。ある個人が自分をあるマイノリティの一員と考えるか,それとも多数派の一員と考えるか,あるいはいずれでもないと考えるかの判断は,その個人がするのであり,それを他から強制されるべきではない。また,そのような選択をしたこと,あるいは選択をしなかったことを理由として,いかなる不利益もその人に与えてはならない。」
 
マイノリティ問題の核心は,まさにここにある。1)と2)の二原則は,そう簡単に両立はしない。勧告は,全体をザッと見たかぎりでは,問題を詰めることをせず,両論併記にとどまっている。具体的な適用の段階で,プラグマチックに対応しようと言うことであろうか。
 
この点に不満が残るにせよ,この勧告はマイノリティの公的参加の全体構造を分かりやすい形で提示してくれている。勧告の構成は次の通り。
 I. General Principles
 II. Participation in Decision-Making
   A. Arrangements at the Level of the Central Government
   B. Elections
   C. Arrangements at the Regional and Local Levels
   D. Advisory and Consultative Bodies
 III. Self-Governance
   A. Non-Territorial Arrangements
   B. Territorial Arrangements
 IV. Guarantees
   A. Constitutional and Legal Safeguards
   B. Remedies
 
公的参加の全体構成は,おそらくこのようなものであろう。ガイは,これを「代表」「権力分有」「自治」の3要素にまとめ,次のように説明している。
2007/12/23

残虐の質と量:王国軍と人民解放軍

谷川昌幸(C)

1.真実と和解のための加害調査
国軍(王国軍)がマオイストら49人を殺し埋めたとされるシバプリ国立公園の調査が,いま議論となっている。

国軍や警察が人民戦争中に多くの国際人権法・人道法違反の残虐行為を働いたことは周知の事実であり,国王と,それ以上にNC,UML等の政党政治家の責任は免れない。政党政府指揮下の警察の残虐行為や,国王指揮下の国軍の残虐行為は,徹底的に調査し,真実を明らかにすべきだ。

しかし,それと同時に,マオイスト側も,おびただしい人権侵害,残虐行為を行っている。これも調査し,真実を明らかにすべきだ。ネパール平和構築には,南アフリカにならった「真実和解委員会」方式が採用されているので,国王・諸政党による加害とマオイストによる加害の双方を調査し,真実を明らかにし,その上で和解へと進むべきだろう。

2.残虐の質と量
残虐の質という点では,調査結果が出ないと正確には分からないが,これまでの報道からすると,国王・諸政党側の行為も,マオイスト側の行為も,おぞましい人権侵害であり,弁解の余地はない。

残虐の量については,様々な報告がある。ちょっと古いが,INSEC(2005)によれば,殺害者数は政府側によるもの8,283人,マオイスト側によるもの4,582人。この人数だけからいうと,国王・諸政党側の加害責任の方が大きいことになるが,マオイストも数千人を殺しているのであり,いずれにせよ残虐な大量殺害であることに変わりはない。

それは乱暴だ,とマオイスト・シンパは反論するであろうが,殺害目的が「国王のため」であれ「人民のため」であれ,殺害には変わりはない。しかも悪いことに,一般的にいうと,一人または少数の国王や貴族よりも,多数者の「人民」の方が残虐なものなのだ。

【補注12/26】
統計の取り方により数字はまちまちだ。INSEC, Human Rights Year Book 2007の表を集計すると,次のようになる。 政府もマオイストも女性や子供を多数殺している。
      被殺害者数1996−2006(人)
     政府による殺害  マオイストによる殺害     
総人数  8,393       4,915        13,308
女 性    820         193         1,013
子 供    249         201           450  

3.民主主義の残虐性
「人民」は残虐だというと,そんなことはない,ウソだと頭から反発する人も多いが,「民主主義の理念の崇高さ・人民支持の強さは残虐さに比例する」ということは,すでにほぼ立証されている。

先入見,偏見を拭い去り,冷静に事実を見てほしい。まず分かりやすいのが,残虐の量。共和国が殺した人数は,君主国が殺した人数の百倍,千倍,あるいは万倍であろう。あるいは,世界の民主化以前と民主化以後とを比較すると,民主化以後の被虐殺者数はこれまた百倍,千倍,万倍であろう。量的に,民主主義がそれ以外の政治よりもはるかに多くの人々を虐殺していることは,明白な事実である。

次に,質の点では,民主主義は他の政治に勝るとも劣らず残虐だ。最も残虐な殺し方はむろん拷問であり,最も人道的な殺し方は国際人道法が認める殺し方,あるいは日本政府が認める絞首やアメリカ政府が認める薬殺・電気殺であろう。民主主義は,何の罪もない子供,女性,老人を含め何千万人もの人々を人道的に殺す一方,残虐な拷問技術も高度に発展させ,実際に使用してきた。

残虐行為としては,天皇陛下の軍隊による捕虜虐待や生体実験,あるいは民族社会主義ドイツの強制収容所が知られているが,残虐さの点ではキリスト教会の魔女裁判や異端裁判の方が上だ。教会は神の栄光のために拷問を組織的に研究・実験し,最大限の苦痛を与える方法を開発,テキストすら発行し,世界に広めた。日本のキリシタン拷問もひどかったが,キリスト教会の宗教裁判に比べたら,はるかに稚拙だ。神のための敬虔な裁判こそが,残虐の極致といってよい。

民主主義は,その宗教裁判に勝るとも劣らない残虐な拷問を開発し,そして現に使用している。神と同じく,民主主義も正義であり,人々がそれを信じれば信じるほど,拷問は手段として正当化され,残虐となる。

4.NHK「民主主義」の衝撃
これを実写映像で実証したのが,NHKBS「民主主義」。35カ国共同制作で,放送時間は8時間(以上?)に及ぶ。超大作で,質も高い。こんな番組を放送するNHKは偉い。

全部は見ていないが,第1回目の「米国『闇』へ」(ギブニー監督)をみて,大きな衝撃を受けた。近代民主主義の長い歴史を持ち,世界の民主主義の総本山と自他共に許すアメリカが,民主主義の名でおぞましい残虐行為を行っている。

舞台は対テロ戦争の基地,アフガンのバグラム,イラクのアブグレイブ,そしてキューバのグアンタナモだ。そこには,テロリスト容疑で多くの人々が収容され,基本的人権もジュネーブ条約も無視した拷問が組織的に行われてきた。

むろん,アメリカ政府や米軍は,拷問は一部の「腐ったリンゴ」のやったことだと弁解する。しかし,このドキュメンタリは,事実はそうでないことを,実写映像で淡々と描いていく。

アメリカ人民によって民主的に選ばれたブッシュ大統領は,対テロ戦争ではテロリストにはジュネーブ条約は適用されないという趣旨の発言をした。ラムズフェルド国防長官は拷問を許可し,自ら署名もしている。チェイニー副大統領も,情報収集のためには「『闇の力』も必要だ」「成功のためには方策はすべて使う」「目的達成のためにはあらゆる手段を使う」と発言し,拷問を容認した。

パウエル国務長官が国連でイラクとアルカイダとの関係を証言したときの証拠も残虐な拷問でえられたもので,これはのちに拷問による虚偽の自白と判明した。

民主国アメリカの民主的に選ばれた指導者たちは,多くの場合,ストレートな表現は慎重に避けているが,文脈に照らして解釈すれば,拷問容認は明白であり,そのトップリーダーたちの民主的決定に従い,拷問が組織的に各地で行われてきたのだ。

拷問の方法は,宗教裁判のそれによく似ている。水尋問(スペイン宗教裁判で使用されたものと同じ水責め拷問),裸にする,眠らせない,立たせる(最長40時間!),犬をけしかける,天井から鎖・手錠でつるす,殴る,蹴る等々。そして,男性容疑者に対し,女性を使い性的拷問さえ加えている。自由と民主主義のためであれば,こんなことも許されるのだ。

この虐待,拷問が明るみにでたあとも,直接手を下した現場の少数の実行者が処罰されただけで,ブッシュ大統領をはじめ指導者たちは何ら処罰されず,議会も「戦時に国家は何をしてもよい」との趣旨の議決をし,彼らを免責した。

そして,アブグレイブのあのおぞましい虐待拷問写真が報道され世界中に衝撃を与えた後ですら,アメリカ人民の実に35%が拷問を支持しつづけた。民主的人民とはこんなものなのだ。

NHK「民主主義」は,民主主義がいかに残虐となりうるかを実写映像でリアルに描いている。人民も,人民の民主的代表も,国王や貴族以上に,残虐となりうるのだ。

5.それでも民主主義を
現代の難しさは,それでも私たちには民主主義しか選択肢がない,ということだ。これは,貴族であり保守主義者であったA.トックヴィルが「アメリカの民主主義」(1835)で論じたことであり,またやはり貴族で保守主義者のチャーチルが語ったことでもある。

ネパール王国軍や警察は,住民やマオイストを多数虐殺した。しかし,INSEC調査(2005,2007)によれば,マオイストや人民解放軍も女性,子供を含め数千人を殺害した。「人民」のための党,「人民」のための人民解放軍なのに,なぜそんなことになってしまうのか? ネパールが民主化を進めて行くには,そうした人民自身への厳しい問いかけが必要であろう。民主化は宿命だが,それには自らの業への反省が伴わなければならないだろう。

*12月26日,一部修正。

 

2007/12/22

レズもゲイもバイもトランスもインターも:後発国の優位?

谷川昌幸(C)
後発国の優位は,技術については明白だ。何もない国へは,鉄道でもケイタイでも最新式を簡単に導入できる。先進国のように既存設備があると,反対や継承が問題となり,最新式への更新はかえって難しい。技術については,後発国の優位に疑問の余地はない。では,人文社会領域ではどうだろうか?
 
少なくともネパールにおいては,人々は政治・社会についても後発国の優位を無条件で信じ込んでいるように見える。たとえば,今日の新聞報道によれば,ネパール最高裁は性的少数派のための公益訴訟において「画期的な判決(landmark verdict)」を出した。
 
「レスビアン,ゲイ,バイセクシャル,トランスセクシャル,インターセックス(LGBTI)もまた『自然な人々』だから,・・・・あらゆる権利の享受を認められるべきだ。」(KOL,Dec22)
 
これらの人々は,それぞれ希望する性の市民権,パスポート等を与えられるべきだし,同性結婚の制度化も検討すべきだという。
 
う〜ん。たしかにこれは「世界初の判決」であり,「画期的,歴史的な勇気づけられる判決」だ。レズ,ゲイ,バイくらいは分かるが,トランスやインターともなると,見当もつかない。インターナショナルとはちょっと違うかな??
 
そんな性的少数派が,ネパールには何と人口の10%もいるのだそうだ。スゴイが,本当かもしれない。これについては,下記拙論参照。
▼「皇太子回復祈願,バス停爆破,世界貿易センター」

さて,この性的少数派が10%もいるとすると,これまたネパールが世界に誇る最新民主主義によれば,議会は比例制となるそうだから,議員の10%がこれら性的少数派となる。これはスゴイ! ネパール流に表現すれば,「世界初」だ。
 
さらに,画期的なネパール完全民主主義によれば,マイノリティは自治権を認められるから,2500万人×0.1=250万人の性的少数者自治州が誕生することになる。こんなところは世界のどこにもない。これもスゴイぞ!
 
たしかにスゴイことはスゴイが,こんなスゴイ判決がスイスイ出せるのは本当にスゴイことなのか? 男女差別の総本山キリスト教や男尊女卑の本家儒教の伝統の強い欧米や日本では,激しい抵抗を受け,こんな画期的判決はなかなか出せないだろう。あえて断言するなら,スゴイことをするにはスゴイ抵抗を受けるのが普通であり,抵抗なしにスゴイことをするのは本当はスゴイことではない。
 
性的少数派についても,性的趣味を理由に差別をすることは無粋なヨロシクナイことだが,だからといって,何でもありのこんな判決を安易に出し,「世界初の判決」などと一流紙が脳天気に絶賛するのは,いかがなものであろうか。このニュースを報じたネパールニューズコムのトップページには,こんなゲイ宣伝(下図参照)が堂々と掲載されている。「健康」は周知のようにファッシズムであり不健康だが,白昼のゲイ宣伝も「不健康」とはいわないまでも健康とも言いかねるのではないか。
 
ネパールが政治でも社会でも「最新式」に飛びつくのは無理からぬところだ。しかし,それらは最新式であり,特にネパールでは歴史の試練を経ていない。たいてい,ひも付き援助で導入されるそれらの最新式思想や政治・社会諸制度は,多くの場合,ネパールに根付くことは難しく,人々にとって望ましい結果をもたらすとは思えない。
 
政治・社会の分野では,後発国の優位は,技術分野と同じようには言えない。「急がば回れ」の方が,犠牲が少なく,安全ではないのだろうか。
gay (nepalnews.com, Dec.22のトップページ宣伝)
2007/12/21

ガイ教授(13):公的参加とマイノリティ(h)

谷川昌幸(C)
5.公的参加の前提条件
 
参加権を実際に行使するには,ガイによれば,次のような条件が満たされねばならない。生命身体の安全,経済的生活基盤の保障,基礎教育,寛容,差別を許さない環境,文化間交流(intercultural exchange)など。
 
(1)権利と国籍
ガイによれば,伝統的に権利の保障は国民(citizen)にのみ限定されてきた。しかし,グローバル化,大量移住の時代となり,こうした国籍による権利制限はまず国際法で禁止され,国内法でもその方向への改善が進んでいる。
 
むろん,外国人差別はまだ多い。「自由権規約(ICCPR)」の定める自由や権利の保障について,多くの国家がそれらは国民に限定されると主張している。ILO143条約(1975)の2年経過外国人労働者雇用制限禁止も,多くの国で無視されている。外国人に対し,ドイツでは政党活動が制限され,ポルトガルでは政治活動が規制され,スイスでは非公開集会での政治的発言にさえ州政府の許可がいる。
 
しかし,その一方,外国人差別の緩和は参政権も含めスウェーデンなどの北欧諸国から進んできている。
 
また,国連人権委員会は,ICCPR第27条の規定は,国内の外国人にも適用されると宣言した。さらに,「世界人権宣言」第21条とICCPR第25条は参政権を国民に限定したが,「国連少数者権利宣言」ではナショナル・マイノリティとエスニック・マイノリティが対象とされ,そこには移住民社会も含まれることになろう。ヨーロッパの条約や宣言には「ナショナル・マイノリティ」に権利を限定するものが多いが,この語には,「国民,「エスニシティ」,「長期在住マイノリティ」とする解釈があり,あとの2者であれば,外国人も含まれることになるだろう。
 
国籍取得制限は世界人権宣言やICCPRの精神に反しており,これにはさらに強い措置が必要である。
 
(2)経済的・社会的権利
参加の前提条件は,いうまでもなく能力と生活基盤であり,マイノリティの教育と経済発展のための政策が必要である。これは「コペンハーゲン社会開発宣言」(1995)で宣言されており,また国内法でもそれを規定する国が増えてきた。
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(参考資料)
 
世界人権宣言 
第21条(参政権)1 すべての者は,直接に,又は自由に選んだ代表者を通じて,自国の統治に参加する権利を有する。
市民的及び政治的権利に関する国際規約 
第25条(政治に参与する権利) すべての市民は,第二条に規定するいかなる差別もなく,かつ,不合理な制限なしに,次のことを行う権利及び機会を有する。
(a)直接に,又は自由に選んだ代表を通じて,政治に参与すること。
(b)普通かつ平等の選挙権に基づき秘密投票により行われ,選挙人の意思の自由な表明を保障する真正な定期的選挙において,投票し及び選挙されること。
(c)一般的な平等条件の下で自国の公務に携わること。
(出典:『国際人権条約・宣言集』東信堂)
 
社会開発に関するコペンハーゲン宣言
2. 我々は、世界のあらゆる国々に影響を与えている深刻な社会問題、特に貧困、失業及び社会的疎外に対する緊急な取り組みの必要性を世界中の人々がさまざまな形で表明していることを認識する。人々の生活から不確実性や危険性を除去するために、構造的かつ根本的原因とその悲惨な結果の双方に立ち向かうのが我々の責務である。
3. 我々は、さまざまな国々や地域に生活する個人やその家族及びコミュニティーの物質的、精神的ニーズに対し、我々の社会がより効果的に応えなければならないことを認める。我々は、これを緊急の課題として、しかも将来にわたり持続的で揺るぎないコミットメントとして取り組んでいかなければならない。
http://www.unic.or.jp/centre/pdf/summit.pdf#search='コペンハーゲン社会開発宣言')
2007/12/19

ガイ教授(12):公的参加権とマイノリティ(g)

谷川昌幸(C)
4.マイノリティ公的参加権の法的基礎(3)
 
(3)自決権
参加権の根拠としては,ガイが言うように,自治権,自決権(自己決定権)があることは言うまでもない。
 
自決権は,従来,民族自決権(right of peoples to self-determination, right of national self-determination)として議論されてきた。この民族自決は,理念的にはフランス革命に起源を持ち,19世紀の民族国家独立をもたらしたが,一般化するのは,W.ウィルソンやレーニンが民族自決を唱えたことによる。
 
この古典的民族自決は,植民地独立に大きく寄与し,国連憲章にも「人民の同権および自決の原則の尊重」(第1条2)が規定されている。
 
しかし,問題は,この民族独立と言う場合の「民族」とは誰のことか,ということである。植民地独立のように,独立国家を形成しうる民族の権利なのか,それとも国内の諸民族も含まれるのか?
 
ガイによれば,最近では,分離・独立を目指す民族というよりも,国内の諸民族について民族自決が議論されることが多くなった。それには,国連や諸国連合などの紛争介入が増え,紛争解決の手段として国内の諸民族の自決・自治が利用されるようになったからである。
 
こうした自治権,自決権はすでに多くの国が憲法で保障している。フィージー,パプアニューギニア,フィリピン,スペイン,エチオピアなど。また,ロシア憲法(1993)および中国憲法(1982年)も次のように定めている。
ロシア憲法
「ロシア連邦は、21の共和国、6 のクライ(地方)、49 の州、2 の連邦的意義を有する都市(モスクワ市及びサンクトペテルブルグ市)、1 の自治州及び10 の自治管区からなる、総計89 の「連邦構成主体(連邦の主体)」で構成され、これら連邦構成主体は、すべて同等の地位に立つ(5 条、65条)」(衆議院ロシア等欧州各国及びイスラエル憲法調査議員団報告書,2001年,p.18)
中国憲法
「第4条 中華人民共和国の諸民族は、一律に平等である。国家は各少数民族の合法的な権利および利益を保障し、諸民族の平等、団結および互恵関係を守り、発展させる。いかなる民族に対する差別と抑圧も禁止し、民族の団結を破壊し民族の分裂を引き起こす行為も、これを禁止する。
 国家は少数民族の特徴および必要に基づいて、各少数民族地区が経済および文化の発展を速めるよう援助する。
 各少数民族の集居している地区では区域自治を実行し、自治機関を設け、自治権を行使する。いずれの民族自治区も中華人民共和国の切り離すことのできない一部である。
 いずれの民族もすべて、自己の言語・文字を使用し、発展させる自由を有し、自己の風俗習慣を保持または変革する自由を有する。」
 
以上のような自治権,自決権が実際にどこまで保障されているかは別として,それらが多くの憲法に書き込まれていることは事実である。
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(参考資料)
ウイグル人の希望の星〜ラビア・カーディルさんの戦い(下)
2007年11月03日 アムネスティ@中国・新疆ウイグル自治区
 中国の少数民族・ウイグル人の希望の星と呼ばれているラビア・カーディルさんは99年、「国家に不利な情報を海外に提供した」として国家安全危害罪で投獄されてしまいました。アムネスティは彼女を「良心の囚人」と認定し、即時釈放を求めて世界中から支援しました。
 
■ウイグル人に対する差別と抑圧
 ラビアさんの出身地、新彊ウイグル自治区では、中央政府が政策的に漢民族を移住させた結果、かつて5%程度だった漢民族人口は現在50%を超えるまでになり、自治政府当局によるウイグル人社会への締め付けは激しさを増しています。
 イスラム教を信仰するウイグル人に対し、非公認のモスクを閉鎖させるなど宗教の自由を侵害したり、母語であるウイグル語での教育や出版の制限するなど、基本的な人権が侵害されています。また中央政府は、国際的な「テロとの戦い」を口実に、平和的な抗議行動をする者や民族の権利を主張する者を「テロリスト」「分離主義者」として逮捕し、数千人の政治囚が監獄に入れられています。不当な裁判で死刑にされた人も少なくありません。このような状況に絶望して国外へ逃れる人も多くなっています。
 近年、漢民族の移住や中央からの投資によって地域の経済は活性化していますが、漢民族とウイグル人の経済格差はどんどん広がるばかりです。このような状況に心を痛めたラビアさんは、店舗を持てず露天を営むウイグル人たちのためにテナントビルを提供したり、さまざまな慈善活動を行なっていました。
http://www.asahi.com/international/shien/TKY200711020300.html
 
2007/12/18

朝日の不可解なネパール記事訂正

谷川昌幸(C)
日本人はネパールが大好きなので,小国の割にはネパール記事は多い。暫定憲法改正についても,たとえば朝日新聞は国際面で,「ネパール『共和制』を明記 改正憲法案 王制廃止確実に」(西部版,17日付)の見出しで,かなり大きく報じた。ところが,翌18日,朝日はこれを誤報とする「訂正」記事を掲載した。
        誤             正
「暫定政府は16日」 → 「主要政党は16日までに」
「暫定議会に提出した」 → 「暫定議会に提出することで大筋合意した」 
「『共和制』を明記」 → 「『共和制』を明記へ」
 
「訂正」が正しければ,17日付記事は大誤報となる。ところが,地元英字紙によれば,政府(R.C.ポウデル平和大臣)は15日夕方,7党合意に基づく改憲案を閣議決定し議会事務局に提出,翌16日,N.B.ネワン法務大臣が開会された議会に法案を提出した,とされている。もしこの報道通りとすれば,はじめの二カ所は間違いではない(訂正不要)ということになる。では,どこが誤報か?
 
おそらく「『共和制』を明記」の部分だろう。まだ改憲案そのものを見ていないので,いまのところ正確には分からないが,地元報道では,改憲案は第63条規定の制憲議会選挙期限を12月から4ヶ月間延期するものであり,「共和制」への体制変更は入っていない。緊急の改憲案だから,常識からみて,おそらくそうであろう。とすれば,この部分はとんでもない大誤報となる。
 
ネパール政治は,こと,かように不可解だ。17日付記事のある部分は正確だが,ある部分は常識外れの大誤報だったというになるかもしれない。それとも,これはもともと見込み記事で,たまたま予想が一部当たっただけなのか? あるいは,功を焦って,7党と政府を取り違えたのか?
 
大朝日ですら,ネパール政治は不可解で,こんなみっともない訂正記事を書かざるをえない羽目に陥る。いまネパールでは,先進国選挙原理主義者の大煽動で選挙産業大繁盛だが,一般庶民はいったいどんな情報に基づいて投票するのだろうか? 選挙や投票の有効性を,少なくとも知識人やジャーナリストはもう少し真面目に――現実的に――議論すべきではないか。 欧米民主国以上にとまでは言わないが,少なくとも同程度には。  
 
2007/12/16

ガイ教授(11):公的参加とマイノリティ(f)

谷川昌幸(C)
4.マイノリティ公的参加権の法的基礎(2)
 
(2)先住民族の権利
マイノリティの公的参加権の第二の根拠は,先住民族の権利である。これについては,先述の通り,ILOが先行的に承認した。
 
ILO107条約「先住民族および部族に関する条約」(1957年)は,「先住民族,他の部族およびう準部族(semi-tribal)の保護と統合」(前文)を目的としている。これらの民族の社会的・経済的状況は他の国民よりも遅れているので,保護し,「国民統合」を促進するということである(第2条)。第4条で「これらの民族の統合を促進する手段として力または強制を使用することは認められない」と規定しているが,この107条約が国民統合主義的であることは明白である。
 
たしかに,不利な条件にある先住民族に対し「先住民族の制度,人格,財産,労働の保護のために特別の政策を実施すべきである」(第3条1)と定めてはいるが,それは「特別保護が必要な限りであり,かつそうした保護が必要な範囲内においてのみ」(第3条2b)である。また,「市民の一般的権利の差別のない享受は,そのような特別保護政策により侵害されてはならない」(第3条)とも定めている。つまり,先住民族の権利保護は原則として消極的(negative)なのである。
 
むろん,先住民族の文化,宗教,社会慣習などの尊重や土地の「集団的または個人的所有権」(第11条)も規定されている。そして,参加についても,「これらの民族とその代表者たちの協力を求めること」(第5条a),「これらの民族に自主性を開発する機会を与えること」(第5条b),「これらの民族の市民的自由,各種選挙制度の設立・参加をあらゆる手段を通し発展させること」(第5条c)などが定められている。しかし,全体として,国民統合が目的であり,父権主義的,保護主義的であることは明白である。
 
これに対し,ILO169条約(1989年)は,1957年以降の国際法の発展を取り入れ,先住民族の諸権利をより前面に押し出している。先住民族の諸制度,生活方法,経済発展に対する自主権,アイデンティティ,言語,宗教を維持発展させる権利などである(前文)。個別に見ると:
 
「集団を画定する基本的基準は先住民族・部族の自決である」(第1条2)
「これらの民族の価値観・慣習・制度の統合性は,尊重されなければならない」(第5条6)
「彼らに関するあらゆるレベルの決定作成に,これらの民族が自由に参加できる手段の確立」(打6条b)
「これらの民族自身の制度や自主活動を十分に発展させるための手段の確立」(第6条c)
「先住民族の伝統的に占有してきた土地の所有権・保有権は承認されなければならない」(第14条)
 
このように,ILO169条約では,先住民族の「国民統合」が削除され,先住民族の存在により積極的な意味づけがなされている。この条約は「文化的多様性と人類の社会的・生態的調和,および国際的協力・理解のために,先住民族の果たす特別の貢献を考慮して」制定された(前文)。そして,そのための自決権や参加権が書き込まれている。しかし,その一方,先述のように,「この条約における民族(peoples)という語は,国際法でこの語に関連づけられる権利にかかわる意味をもつものとは解釈されない。」(第1条3)といった限定がつけられていることも忘れてはならない。
 
このILO169条約の先住民族の諸権利保障は,これまた先述の通り「先住民族の権利に関する国連宣言」(2007年)で全面的に承認されることになった。そして,現実に,こうした権利はオーストラリア,ニュージーランド,カナダなどで,先住民族の対政府交渉の根拠となりつつある。
 
ガイによれば,先住民族の公的参加権の根拠としては,「固有の主権」と「入植者との間の条約」も用いられている。
 
アメリカでは,連邦最高裁がアラスカ先住民族の「主権」を認めた。この主権から参加権,自治政府の権利が引き出される。カナダでは,First Nations(先住諸民族)に自治権と土地所有権が認められた。ここから広範な参加権が引き出されている。他方,ニュージーランドでは,先住民族と英国王との間の条約(1840年)の有効性が再確認され,ここから大幅な参加権が認められるようになった。
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(参考資料)
Canada: CONSTITUTION ACT, 1982
PART II
RIGHTS OF THE ABORIGINAL PEOPLES OF CANADA
RECOGNITION OF EXISTING ABORIGINAL AND TREATY RIGHTS
 
35.- (1) The existing aboriginal and treaty rights of the aboriginal peoples of Canada are hereby recognized and affirmed.
 
Definition of "aboriginal peoples of Canada"
(2) In this Act, "aboriginal peoples of Canada" includes the Indian, Inuit and Metis peoples of Canada.
 
Land claims agreements
(3) For greater certainty, in subsection (1) "treaty rights" includes rights that now exist by way of land claims agreements or may be so acquired.
 
Aboriginal and treaty rights are guaranteed equally to both sexes
(4) Notwithstanding any other provision of this Act, the aboriginal and treaty rights referred to in subsection (1) are guaranteed equally to male and female persons. *(Subsections 35(3) and (4) were added by the Constitution Amendment Proclamation, 1983. See SI/84-102)

法の上にあるもの:人民の力

谷川昌幸(C)
法は原理的に保守的なものだ。過去の約束=法が未来を拘束する。この不合理は子供でもすぐ分かる。なぜ人々は,こんな不合理に服従するのか?
 
1.法を基礎づける権威
様々な理屈があるが,要するに,それは人の意志を超えたもの=権威への畏れからだ。神あるいは神的なものの前で約束するから,その約束が永遠性をもち,未来を拘束するのだ。これは権威主義であり,こうした権威を内在する歴史への畏れがなければ,法の支配は不可能だ。不合理に人を従わせるのは,権威のみだ。
 
むろん,ポストモダン,ポスト・ポストモダンの現在,人々はもはや古代や中世の神や近代の理性=正義(代替神)に恐れ入るほど率直ではなくなった。しかし,だからといって,法の客観性,永遠性なしに生きられるほど強くもなっていない。理性=正義といったジョーカーを出さずに,何とか法の権威を確立し,法の支配を維持しようと模索しているのが現状である。
 
2.国王の権威と議会復活の秘蹟
ネパールでも,国王や伝統的支配者は,彼らの支配の根拠が権威であることをよく知っていたので,法(慣習を含む広い意味での法)は比較的よく守った。(ネパールに限らず法遵守は伝統的支配の本質。)彼らは,人民の自由や権利をしばしば侵害したが,それでも法は守った。
 
ギャネンドラ国王も,その無議会政治はケシカランが,2006年春の政変のとき,ちゃんと1990年憲法に則り,自ら議会を復活させ,のちの暫定議会,暫定政府のためにギリギリの法的正統性を確保した。誰の入れ知恵かは知らないが,アッパレといってよい。いまの議会は,国王の秘蹟により墓場より復活させられた。国王に秘蹟を行わせたのは怒れる人民だが,秘蹟を行ったのは国王だ。
 
3.人民の力の支配
しかし,ここで人民(と称するもの)は,権威なしでも統治できるとの大いなる錯覚に陥った。People's Powerの統治だ。これは文字通りpower=tantra=力の支配だ。法の支配ではない。力は人が持つから,人の支配といってもよい。
 
暫定政府は,people's powerだから,法には従わなくてもよい。法は人民がつくるのであり,不都合となれば,いつ改廃してもよい。これは極めて一貫した論理的な思考だ。ネパールは「完全民主主義」の国となった。
 
だからコイララ首相を反民主的というなかれ。彼はpeople's powerが授権したのであり,彼こそが人民だ。人々はノーベル平和賞に推薦するほど,彼を熱狂的に支持した。その彼の悪口を言う輩は非国民だ。
 
コイララ首相の暫定政府が,極悪専制君主ギャネンドラ国王が1990年憲法に対して払ったほどの敬意すら暫定憲法に対して払っていないのは,people's powerの論理からして当然だ。主権は唯一絶対であり,主権者を拘束するものは何もない。過去は未来を拘束しない。都合が悪くなれば,憲法を無視しても変えても何の問題もない。人民はその力=意志により支配するからだ。
 
.人治の無責任性
人民=議会=首相は,その力=意志により,何でも出来る。過去の暫定憲法をいまの必要のためにどう改変しようが,まったく自由だ。
 
外国援助を継続拡大させるため,選挙を小刻みに先延ばししてもかまわない。選挙落選を防止するため,制憲議会をさらに拡大してもかまわない。議員特権維持のため,軍統一で軍事費を拡大してもかまわない。
 
無責任というなかれ。「責任」は権威や歴史への畏れがあって始めて成立する概念だ。people's powerには責任意識はない。力への意志には制約はない。
 
5.議会の権力への意志
この観点から見て,大いに感動したのは,12月15日の7党(=人民)合意だ。
 
「諸政党は今日,制憲議会を601議席とし,335議席を比例制,240議席を小選挙区制,残りの26議席を指名制により選出することに合意した。」(KOL, 15 Dec)
 
これはスゴイ! とくに指名26議席は,さすがpeople's powerだと,大いに感動した。
 
議会が大きければ大きいほど,現職議員の再選確率は高まる。特権議員になりたい人の要求にも応えられる。一層のこと,1000人か5000人にするとよい。金は誰かが出す。people's powerは絶対だから,出来ないことはない。力への意志は「より強くなる」ことのみを目的とする。
 
なお,議会膨張は,以前,予言しておいたので,興味のある方は参照されたい。
2007.11.28 軍事費,誰が出すのか
2007.01.15 選挙延期ほぼ決定
2006.11.09 針のむしろの和平合意
2006.10.31 これがネパール式選挙だ
2007/12/13

ガイ教授(10):公的参加とマイノリティ(e)

谷川昌幸(C)
 
4.マイノリティ公的参加権の法的基礎(1)
 
ガイによれば,マイノリティ参加権は,一般的人権規範からも引き出しうるが,より具体的には(1)マイノリティの権利,(2)先住民族の権利,(3)自己決定の権利(自決権),にその根拠をもつといってよい。この権利の領域は変化が激しいが,まずはガイの説明を補足しながら見ていこう。
 
(1)マイノリティの権利
[A] 国連や国際社会は,当初,マイノリティの個人の権利は認めても集団の権利は認めなかった。
 
「種族的、宗教的又は言語的少数民族が存在する国において、当該少数民族に属する者(persons belonging to such minorities)は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない。」(市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)第27条)
 
この権利保障は,マイノリティ集団の権利ではなく,その集団に属する個人の権利である。この権利主張が集団的側面をもつにせよ,権利としては個人に保障されており,国家に対しては権利侵害の防止を義務づけているにすぎない。その意味では消極的(negative)な権利保障である。
 
しかし,この第27条の権利規定には,国家の積極的介入を認める余地がないわけではない。そして,事実,国連人権委員会(UN Human Rights Committee)は,最近,そのような解釈に踏み込み,自治をも含むマイノリティの権利の積極的実現を要請するようになった。マイノリティの集団的権利の承認(1988),文化・生活様式の保護(1990),伝統的生活の保障(1995)などである。さらにマイノリティの権利は領土要求とも結びつく権利であることさえ,人権委員会は認めるようになった。マイノリティの権利は,彼らの文化,言語,宗教などを維持できなければ保障され得ないからである。人権委員会はこう述べている。
 
「第27条に規定する諸権利は個人の権利であるが,それらはマイノリティ集団が自らの文化,言語あるいは宗教を維持できることを前提としている。したがって,マイノリティのアイデンティティを守り,その成員が集団の他の成員とともに自らの文化と言語を享受・発展させ,また自らの宗教を実践する権利を守るためには,国家の積極的な政策が必要であろう。」(General Comment 23, par.6.2)
「これらの権利の享受には,マイノリティ社会の成員が自分たちに関係する決定に効果的に参加することを保障するための積極的な法的保護などが必要であろう。」(ibid, par.7)
 
こうした積極的権利への拡大は,「Declaration on the Rights of Persons Belonging to National or Ethnic, Religious and Linguistic Minorities (1992)」でも採用されている。これも表題にあるとおり,個人の権利しか認めていないが,他方では,マイノリティのアイデンティティ保障のための積極的政策を求めている。
 
「国家はそれぞれの領域内のマイノリティのナショナル,民族的,文化的,宗教的,言語的なアイデンティティを保護し,そのアイデンティティ育成のための条件を向上させなければならない。」(第1条1)
 
さらに,第2条では参加権が保障されている。
「マイノリティに属する者は,文化的,宗教的,社会的,経済的,公的な生活に効果的に参加する権利を有する。」(第2条2)
 
また,決定参加権も明記されている。
「マイノリティに属する者は,自分の属するマイノリティに関係する国政レベルまたは地域レベル,あるいは居住地区での決定に,国家の立法に反しない限り,効果的に参加する権利を有する。」(第2条3)
 
このほかにも,次のようなマイノリティの権利が規定されている。自分たちの社会をつくり維持する権利(2・4),国境を超えて他のマイノリティと交流する権利(2・5),経済開発への参加権(4・5)。
 
こうした参加権は,「市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)」第25条からも根拠づけることが出来る。
 
「すべての市民は、第二条に規定するいかなる差別もなく、かつ、不合理な制限なしに、次のことを行う権利及び機会を有する。
 (a) 直接に、又は自由に選んだ代表者を通じて、政治に参与すること。
 (b) 普通かつ平等の選挙権に基づき秘密投票により行われ、選挙人の意思の自由な表明を保障する真正な定期的選挙において、投票し及び選挙されること。
 (c) 一般的な平等条件の下で自国の公務に携わること。」(第25条)
 
したがって,国政にマイノリティが代表されていない場合,参加を可能とする特別措置を国家はとらなければならないのである。
 
[B] ヨーロッパでは,OSCR(Organization for Security and Coopration in Europe),欧州評議会,EUなどが,マイノリティの参加権や自治を促進するための政策を採っている。たとえば,Copenhagen Document on the Human Dimension (1990)は,第4部でマイノリティの諸権利を詳しく規定している。
 
「参加諸国は,ナショナル・マイノリティに属する人々の公的事柄に効果的に参加する権利を尊重する。・・・・参加諸国は,・・・・ナショナル・マイノリティの民族的・言語的・宗教的アイデンティティを助長する諸条件を守りまた創り出すため・・・・適切な地方政府または自治政府を設立する努力をする・・・・」(第35条)
 
欧州評議会も,「Framework Convention for the Protection of National Minorities」(1995)で,マイノリティの諸権利を保護している。たとえば参加権については,こう規定している。
 
「当事国はナショナル・マイノリティに属する人々が文化的,社会的,経済的生活および公的事項―特に彼らに関係する―に効果的に参加するために必要な諸条件を創り出さねばならない。」(第15条)
 
また,「ナショナル・マイノリティに属する人々の居住地域において人口比率を変えるような政策を採るべきではない」(第16条)とも規定している。この欧州評議会のFramework Conventionもコペンハーゲン文書も厳格な法的拘束力はないが,EUもそれを認め,実際に紛争解決にも使われている。
 
[C] 以上,ガイはマイノリティの参加権を国際条約,国際取り決め,国際文書等で裏付け,それがいま(2001年)ではほぼ国際的に承認されたマイノリティの権利となっていることを明らかにしている。
 
ここで理論的に興味深いのは,ガイが繰り返し指摘しているように,国連や国際諸組織がマイノリティの諸権利を「個人の権利」とは認めても,マイノリティ集団の権利としては認めてこなかったことだ。これまでの国際的諸規定は,「マイノリティに属する人々の権利(rights of persons belonging to minorities)」という回りくどい表現を使用し,個人の権利であることを確認してきた。
 
むろん個人のアイデンティティが集団内で形成される場合,個人の権利保障は集団無くしてあり得ないから,それは自ずと「集団の権利」保障に近づくが,文言としては,あくまでも個人の権利保障という形を取ろうとしてきた。
 
ガイは2001年のこの論文では,この問題を詰めることなく,マイノリティ成員への権利保障が事実上マイノリティ集団の権利保障となっている,と指摘するにとどめている。
 
[D] これは面白い問題であり,少し補足説明をすると,集団的権利(collective rights)は実際には以前から議論され,認められてはいた。
 
早い段階で先住民族の権利を保障したのがILO第107条約(1957年)。ここで先住民族の「集団的権利」が認められたとされているが,規定の文言は「population」となっている。国家統合の観点から,先住諸民族(populations)の権利を認め,保護するという考え方である。
 
この第107号条約の改正である第169条約(1989)では,「先住民族indigenous peoples」となっており,この先住民族に諸権利が保障されている。これは集団的権利といってよいであろうが,この条約では次のような限定がつけてある。
 
「この条約における民族(peoples)という語は,国際法でこの語に関連づけられる権利にかかわる意味をもつものとは解釈されない。」(第1条3)
 
国際法は専門外なのでよく分からないが,先住民族は国家国民ではない,ということだろう。先住民族の集団的権利は認めるが,主権国民ではないということか。ここは微妙なところだ。現在では,国際社会の構成員は国家だけではない。個人,諸集団なども構成員になりつつある。この点は,別の機会に考えてみよう(どなたか,ご教示いただければ幸いです)。
 
このILO第169条約を受けて採択されたのが「民族の集団的権利に関する世界宣言(バルセロナ,1990年)。ここでははっきりと「民族の集団的権利(collective rights of peoples)」と宣言されている。
 
1994年になると国連経済社会会議が「集団的権利の光の下で個人的権利を評価する」ことを提案した「先住民族の権利に関する宣言」草稿に関する報告を出している。
 
こうした集団的権利承認への流れを集大成したのが,「先住民族の権利に関する国連宣言」(草稿1994年,総会採択2007年)である。ここでは先住民族の集団的権利が,前面に押し出され,高らかに宣言されている。
 
先住民族の権利に関する国連宣言(国連総会採択2007年,61/295)
 
第1条 先住民族は,国連憲章,世界人権宣言および国際人権法で認められているすべての人権と基本的自由を,集団として,または個人として,完全に享受する権利を有する。
第2条 先住の民族および諸個人は自由であり,他のすべての民族や諸個人と平等である・・・・
第3条 先住民族は自決権を有する・・・・
第4条 先住民族は,自決権の行使により,自治あるいは自らの政府を持つ権利を有する・・・・
第5条 先住民族は,自らの政治的,法的,経済的,社会的,文化的制度を維持し強化する権利を有する・・・・
第6条 先住民族のすべての個人は,ナショナリティへの(ナショナルな存在となる)権利を有する。
第7条 1(略)
     2 先住民族は,独立した民族として自由,平和,安全に生活する集団的権利を有する。・・・・
第8条 1 先住の民族および諸個人は,強制的同化や文化の破壊を受けない権利を有する。
(以下,略)
 
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(参考資料)
先住民族の権利に関する国際連合宣言[草稿] E/CN.4/Sub.2/1994/Add.1
(ミネソタ大学人権図書館資料,手島武雅訳,[草稿]は引用者追加)
第2条 先住民個人および民族は、自由であり、かつ尊厳と権利において他の全ての個人および民族と平等であ り、さらに、いかなる種類の否定的差別からも、特に彼(女)らの先住民族としての出自あるいはアイデンティティ(帰属意識)に基づく差別から自由である権利を有する。
第3条 先住民族は、自決の権利を有する。この権利に基づき、先住民族は、自らの政治的地位を自由に決定し、並びにその経済的、社会的および文化的発展を自由に追求する。
第4条 先住民族は、国家の政治的、経済的、社会的および文化的生活に、彼(女)らがそう選択すれば、完全に参加する権利を保持する一方、彼(女)らの法制度に加えて、彼(女)らの明確に異なる政治的、経済的、社会的および文化的特徴を維持しかつ強化する権利を有する。
第6条 先住民族は、明確な民族として自由で平和にそして安全に生活し、ジエノサイド(集団虐殺)または、あらゆる口実の下での家族および共同体からの先住民の子どもの引き離しを含む、他のあらゆる暴力行為に反対する十分な保証に対する集団的権利を有する。・・・・
第7条 先住民族は、・・・・エスノサイド(民族根絶)および文化的ジェノサイドにさらされない集団的および個人的権利を有する。
第8条 先住民族は、自らを先住(indigenous)と認定しかつそのように認知される権利を含めて、彼(女)らの明確に異なるアイデンティティおよび特徴を維持しかつ発展させる集団的および個人的権利を有する。
第19条 先住民族は、彼(女)ら先住民族固有の決定作成制度を維持しかつ発展させる権利のみならず、彼(女)らの権 利、生活および運命に影響を及ぼし得る事柄における決定作成の全てのレベルで彼(女)ら自身の手続きに従って彼(女)ら自身によって選ばれた代表を通じて、彼(女)らがそう選択すれば、完全に参加する権利を有する。
第25条 先住民族は、彼(女)らが伝統的に領有もしくは他の方法で占有または使用してきた土地、領土、水域および沿岸海域、その他の資源との彼(女)らの独特な精神的および物質的関係を維持しかつ強化し、そしてこの点における未来の世代に対する彼(女)らの責任を守る権利を有する。
第31条 先住民族は、・・・・彼(女)らの内部的および共同体的(local)問題に関連する事柄における自律(autonomy)あるいは自治(self-government)に対する権利を有する。
第32条 先住民族は、彼(女)らの慣習と伝統に従って、彼(女)ら自身の市民の資格を決定する集団としての権利を有する。・・・・先住民族は、彼(女)ら自身の手続きに従って、彼(女)らの制度の構造を決定しかつその構成員を選抜する権利を有する。
第34条 先住民族は、自己の共同体に対する個人の責任を決定する集団としての権利を有する。
(出展:http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/Jdeclra.htm
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2007/12/09

ガイ教授(9):公的参加とマイノリティ(d)

谷川昌幸(C)
2.公的参加の定義
 
公的事柄決定への参加は,後述のように,「世界人権宣言」や「市民的・政治的権利規約」などに明確に規定されている。参加による自己決定の権利(right of self-determination)は,民族の権利であり,また個人の権利でもある。
 
ここでの問題は,この公的参加権,自己決定権をマイノリティに対してどう保障するかである。非差別(non-discrimination)原則だけでは,明らかに不十分である。
 
マイノリティのアイデンティティ,生存,尊厳を守るには,特別の手続き,制度,機関などが必要だ。それは立法,行政,司法から社会,文化にまで広く及ぶ。非差別という消極的原則だけではなく,積極的な参加のための工夫が求められているのだ。
 
公的参加の定義そのものはすでに確立している。ここでは,ガイはその参加がマイノリティにとっての切実な課題となっていることを確認してるにすぎない。

3.公的参加の重要性
ガイによれば,マイノリティの公的参加は,まずは公平のためである。それは人権の重要部分であり,当然マイノリティにも認められなければならない。
 
だから,非差別原則だけでは不可能だった参加を現実に可能とするためのマイノリティ特例は,決して特権ではなく,マイノリティを多数派と同等の立場におくための工夫にすぎない。
 
ガイによれば,こうしてマイノリティの公的参加を促進すれば,彼らは社会に統合されていく。つまり,マイノリティ特例は,社会全体から見れば,マイノリティ統合のためのものといってもよい。
 
そして,マイノリティが社会の中に統合されれば,マイノリティの諸能力を社会に役立てることができ,社会はより安定し発展する。平和と繁栄が実現する。
 
また,マイノリティ統合により多文化社会となれば,議論が盛んとなり,社会は開かれたものとなり,民族偏見や閉ざされた正統主義も防止することが出来る。
 
むろん,こうした参加の正当化や要求に対しては,マイノリティの中にも,それは多数派への妥協であり,取り込まれてしまうことになる,と批判する人もいる。特に先住民の中には,参加による統合ではなく,独立や高度の自治をあくまでも要求すべきだと考える人が少なくない。また,マイノリティ集団の成員の中には,特別扱いされる集団には拘束されたくないという人もいるという。
 
ガイは,こうした諸々の問題を考慮した上で,参加には様々な形がありうる,と答えている。それはそうだが,これはややお役人的回答だ。ガイの本音は,参加による統合の方にあるように思われる。
 
2007/12/08

ガイ教授(8):公的参加とマイノリティ(c)

谷川昌幸(C)
1.序論
ガイは序論でマイノリティ問題の基本的な考え方を整理している。決して急進的ではなく,どちらかというと保守的であり,経験の厚み,熟成を感じさせる。
 
ガイによれば,この20年間でマイノリティ問題の扱いが大きく変化した。消極的なマイノリティ保護の観点から,その文化的権利,政治的権利の積極的実現への転換だ。いまでは,「マイノリティの権利」が民主社会の必須の要件として認めれれている。しかし,マイノリティ参加権のあり方は,まだ確立していない。
 
従来,マイノリティは,多数派の観点から見られてきた。「国民形成」のための多数派文化への同化,「国民」への排他的忠誠の要求である。
 
これに対し,現在,マイノリティに固有の政治的社会的権利を要求する運動が広がっているが,これにも問題はある。マイノリティ問題の解決には,多数派との関係も考えなければならない。民族諸集団の属すより広い政治社会(国家など)を維持するには,共通の価値,その社会への共通の忠誠心も必要である。この問題について,西側には二つの議論がある。
 
(1)多極共存主義(Consociationalism, Lijphart)
より有力なのは,レイプハルトのこの理論。民族諸集団にそれぞれ代表権を与え,公的領域に参加させる。民族ごとの代表権,参加権を憲法化する。各民族は,可能な場合は地域ごとに,困難な場合は他の方法で,集団的文化的自治を行う。制度的には,比例代表,集団代表,集団拒否権,諸機関への比例的参加権などである。
 
(2)統合的アプローチ
多極共存主義が集団の権利を強調するのに対し,この統合的アプローチは集団の権利と同時に,市民の個人的権利も重視する。マイノリティの文化やアイデンティティを尊重しつつ,同化ではなく,統合を目指す。これは公私二領域の区別による。
 
・公共空間:全員に共通の空間,国家の中立性。
・私的空間:各集団が言語,宗教,文化を自由に追求。
 
制度的には,多民族政党の育成,民族間協調を進めるような選挙法の工夫など。
 
むろん,これら二つのアプローチは,集団の権利をより強調するか否かのちがいであり,ガイ自身も,実際には二つのアプローチが併用されると言っている。が,文脈からは,ガイは統合的アプローチの方にかなり好意的と見て取れる。
 
公私二分割論は,自由主義の大原則であり,元気なフェミニストらにさんざん批判されてきた。もう古いと言われるかもしれない。が,しかし,これは御用済みの過去の理論ではない。たとえば,先述の「マイノリティ内マイノリティ」の問題など,この理論を使った方がよい場合も少なくない。
 
ガイが具体的な状況の中で,マイノリティの問題をどう考えたのか,以下,彼の議論を追っていくことにしよう。
2007/12/07

ガイ教授(7):公的参加とマイノリティ(b)

谷川昌幸(C)
 
序 文(M.ラチマー)
M.ラチマーの序文によれば,マイノリティの参加権については,最近,重要性が国際的に広く認められてきた。
 
・United Nations Declaration on Minorities,1992.
・The Council of Europe's Framework Convention for Protection of National Minorities, 1998.
・Organization for Security and Cooperation in Europe Conference on Governance and Participation: Integrating Diversity, 1998.
・Lund Recommendations on the Effective Participation of National Minorities in Public Life, 1999.
 
こうした流れを受けて書かれたガイの「公的参加とマイノリティ」(2001)は,参加の重要性とその複雑さをよく描いている。
 
ラチマーによれば,ガイにおいて「差異」や「多様性」は認められるべきだが,同時にマイノリティと多数派との統合も大切だ。つまり「統一ある社会にとって必須の共通の価値や忠誠を損なうことなくマイノリティや先住民の参加を実現する」ということである。
 
「このレポートは,権力分有,自治,自己決定といった憲法・政治概念を明晰に分析し,現代のマイノリティや先住民族のための憲法・政治制度の実例のなかからもっとも特徴的なものをいくつか取り上げ,議論している」(p3)。
 
結論は,ある意味では平凡。つまり,どの社会にも当てはまるような定式はない,「適切な解決策は外部から強制されるものではなく,当該社会のなかから見つけ出されるものだ」ということである(p3)。
 
目標は「社会間(intercommunity)協力」。わずか30頁弱のレポートだが,マイノリティ内マイノリティなど,扱われている問題は重要かつ複雑である。
2007/12/06

ガイ教授(6):公的参加とマイノリティ(a)

谷川昌幸(C)
 
ヤッシュ・ガイの中心テーマの一つは,グローバル化時代におけるマイノリティの問題である。
 
グローバル化は国民国家の主権(領土・国民に対する支配権)を相対的に低下させる一方,国家以外の諸組織,諸集団,諸地域の力を増大させてきた。国民国家以上の大きな組織としては,最も有力で成功しているのはいうまでもなく欧州連合(EU)だが,それほどではなくても国連も活動範囲を拡大しているし,ASEAN等も力をつけてきている。また,世界銀行,WTOなどの超国家組織,あるいはアムネスティなどの国際NGOも大きな影響力を持つようになった。
 
以上は,国家より大きな組織だが,これとは逆に,国家より小さな組織,集団,地域もそれぞれ自己主張を強め,国家規制を逃れ,自立化しようとする動きを見せている。近代の「個人−国家」の民主主義原理が動揺し,「個人−諸集団・地域−国家−国際組織」というように,人間関係が多層化,多元化してきたのだ。
 
近代国家においては,人権(人間の権利)とは個人の権利だった。そして,近代民主主義においては多数決は当然とされていたから(J.ロックを見よ),多数派(強者)が有利であり,国家において実際に保障される権利も多数派の権利となりがちであった。
 
グローバル化による国家の相対化は,この近代国家における多数派支配,多数派への同化主義を根底から動揺させ,それまで多数派に抑圧されてきた国内の少数派諸集団や地域を国家一元支配から開放し,自立へと向かわせ始めた。世界各地の地域紛争の多くは,このグローバル化に伴う大きな政治構造変化により引き起こされているといっても過言ではない。
 
したがって,政治学や憲法学の現在の関心の中心も,こうしたグローバル政治構造の変化とそれに伴う諸民族,諸地域の問題に移っている。具体的には,少数民族,先住民,地域などが,議論の中心になってきたのである。
 
多数派に対置される少数派には,民族,文化,性など様々ある。英語ではminorityでこれらを表しうるが,この語の日本語訳はどの語を当てはめてもピタリとこない。そこで,知的怠慢のそしりは免れないが,以下ではマイノリティの語を使用することにする。
 
このマイノリティの問題に一貫して取り組んできたのが,ガイである。彼はアフリカ生まれのインド人であり,ヨーロッパでもアフリカでもマイノリティであった。そんな彼が,各地のマイノリティに関心をもち,研究し,そしてその研究を基礎に多くの途上国でマイノリティのための憲法制定や政治改革に情熱を傾けるようになったのは,自然な成り行きであったといえるであろう。
 
ここで紹介する論文(レポート)も,そのようなガイのマイノリティ研究の一環である。
Yash Ghai, "Public Participation and Minorities, " Minority Rights Group International Report, 2001
 
Preface by Mark Lattimer (3)
Introduction (4)
Definition of Public Participation (5)
The Importance of Public Participation Rights (6)
Legal Foundations for Public Participation Rights of Minorities (7-9)
Preconditions for Public Participation (10-11)
Forms and Mechanisms of Public Participation (12-24)
Conclusions (25)
Recommendations (26)  Note (27)  Bibliography (28)
2007/12/05

ガイ教授(5):憲法改正過程(b)

谷川昌幸(C)
 
V 憲法制定の目的と制定過程の意義
 
以上の議論に基づき,ガイは憲法制定の目的と制定過程のあり方を次のようにまとめている。一部繰り返しになるが,項目を列挙しておこう。
 
1.憲法制定の目的
(1)紛争を解決し,統治の基礎をつくる。
(2)国家諸機関の正統性の確立。
(3)新しい国家目標と権力関係の確定。
(4)国民アイデンティティの確立・強化。
(5)国際社会への参加。
(6)民主主義,文民統制,社会正義の実現。
 
2.憲法制定過程のあり方
(1)包摂性
・憲法制定への国民合意の形成。
・憲法の議論,採択過程は包摂的とする。社会の各層,各利益を参加させる。そこには,小学生も入れ,全国民による憲法制定とする。各地の地域言語も使用する。
(2)市民教育
・市民憲法教育。人民参加により民主主義教育,憲法教育を促進し,憲法の施行・擁護を図る。市民教育は,主として市民社会が担当する。
・憲法制定後の市民教育。憲法教育により市民が憲法を理解し,政府に憲法を守らせることが出来る。
・憲法問題を議論する手段や場の保障。参加の安全保障。憲法情報の調査・提供。専門家会議の開催。
(3)憲法改正手続き・行程表
・紛争原因の特定と改革のための明確な行程表の作成。
・専門家による憲法案作成→公表し公論に付す→制憲議会→国民投票による承認。(この方法の問題点は,憲法案作成段階で憲法の範囲が限定されてしまう恐れがあること。また,国民投票については,制憲議会が人民をよく代表しておれば,不要。)
・国民参加は必要だが,参加に比例し,コストは高くなる。国民投票は少数派の否定となりやすい。
・制憲議会は,国民各層から広く代表を集めることが出来るが,その反面,参加が拡大すると,要求も多くなり,また憲法問題に不慣れな代表も多くなり,意見対立の激化や期間の長期化が生じやすい。これについては,委員会や事務局体制を整備し,会期の限定も必要となる。制憲議会開会の時点で主要な論点は出揃っているので,憲法制定議会派迅速な憲法採択をすべきだ。
・憲法を守る責任は政府と市民社会にある。
  政府=憲法施行を監視する国家機関の設置
  市民社会=市民教育,ロビー活動,調査研究など
・役割
  人民=憲法目標の設定
  専門家=法律文書の作成
  議会=最終決定

▼コメント
ガイが憲法制定を途上国紛争解決のための重要な課題と考え,結果としての憲法よりも憲法制定過程の包摂性,民主性に注目したのは,さすがに慧眼である。民主主義は,丸山眞男がいうように,出来上がった結果としてあるのではなく,過程としてある。自由も権利も,行使する過程としてのみ存在する。ガイも,憲法は,憲法を作り守る努力としてのみ,生きた憲法として存在しうると考える。これは重要な指摘だ。
 
憲法は,もともとconstitution,つまり政治集団(国家)をconstitute(構成)するという意味だ。成文憲法が中心となるとはいえ,政治集団(国家)は常に変動しているから,その面に注目すれば,憲法はつねに憲法を構成(constitute)していく過程としてのみ存在する。これこそが生きた憲法だ。
 
そして,もし民主主義がもはや疑問の余地のない政治目標なら,その憲法過程に人民が参加するのも,当然だ。憲法は民主的たらざるを得ない。
 
ここまではガイの議論はよく分かり,私も全面的に賛成だ。が,問題は肝心の人民参加をどうするか,という点だ。つまり,「包摂的inclusive」の実現方法である。これは難しい。
 
ガイは,国際人権論の動向を引きつつ,「すべての人民,すべての社会集団が憲法や政治制度の決定に参加すべきだ」(p7)と主張する。「すべての人民」の方は近代民主主義の根本原理であり,少なくとも方法的には難しくない。が,「社会集団」の方は,難物だ。決定に参加する権利を有する「社会集団」とは,いったい何者なのか?
 
ガイは,練達の憲法実務家でもあるから,その難しさはよく知っている。公式的には,「人民の間の差異をまずはっきりさせ,次にそれを解決することにより,国民アイデンティティを発展強化させる」(p4)と述べている。差別を解消するには,まず差別を明確に認識せざるを得ない。カーストを無くすには,カーストの科学的認識が必要となる。それと同じ論理だ。理論的には決して間違っているわけではない。
 
ところが,これは下世話に言う「寝た子をおこす」こと,あるいは西洋流に言えば「パンドラの箱を開ける」ことだ。さすがガイ,その危険性もよく分かっており,こう述べている。
 
参加を限定せざるを得ない大きな理由は,「それが『パンドラの箱』を開ける恐れがあるからだ。長らく解決済みと考えられてきた問題や新しい問題が噴出し,容易に解決できなくなる。国民統一や合意の脆弱な国では,これは特に深刻な問題だ」(p5)。
 
それでもガイは,あえて「すべての社会集団」に参加させ,その中には「小学生さえも入れよ」という。このガイの理想主義,使命感はよく理解できる。しかしながら,それが本当に現実的か,あるいは現実的と仮定して,それが本当に望ましいことなのか,については疑問がある。
 
「パンドラの箱」を開けてしまえば,収拾がつかなくなるかもしれない。あるいは,小学生たちが「people's power万歳!」と叫び行進する羽目になるかもしれない。それが果たして望ましい政治か?
 
現実主義者,保守主義者,エリート論者などは,人間は不完全な存在だから,そんな完全な人間を想定した政治論は誤りであり危険だと反論する。そして,彼らの主張にも,かなりの根拠があるのだ。全人民を参加させると言っても,すでに亡くなっている過去の人々や,これから生まれる未来の人々の参加は不可能だ。現代の人々がすべてを決める,というのは根拠なき現代人の傲慢だ。これだけ見ても,参加の包摂性には致命的限界がある。民主主義のご本尊,ルソーですら,神ならぬ人間には本来の人民主権=民主主義は不可能だといっている。
 
立憲君主制,国民代表議会,権力分立,人権など,すべて人間不信の非民主的,あるいは反民主的政治原理だ。この歴史の叡智を,途上国憲法の中にどう取り入れるか?
 
ガイは,むろん,そんな議論はよく知っている。それらが分かった上で,それでも包摂的民主主義と包摂的憲法に,途上国紛争の平和的解決を求めている。短絡的なpeople's powerの諸氏とは,そこが違う。ガイの議論をさらに聞いてみることにしよう。
2007/12/04

ガイ教授(4):憲法改正過程(a)

谷川昌幸(C)
ヤッシュ・ガイは,2004年8月3-5日,ナガルコットで開催されたセミナー「包摂的・参加的憲法制定に向けて」に参加し,次のテーマで報告した。
 The Constitution Reform Process: Comparative Perspectives
 
要約によれば,この論文は,憲法制定を平和過程(peace process)の一部と考え,憲法改正交渉を党派対立の解決に資するものと評価する観点から書かれている。憲法の採択方法,制憲議会の役割,制憲過程を包摂的とし人民をそこに参加させる方法を紹介し,特に憲法制定の手続きについて重点的に分析している。
 
この報告は,2004年8月であり,人民戦争の真っ只中であったが,他方では国連関与による和平交渉の可能性がデウバ政府とマオイストの間で盛んに模索されていた時期でもある。この報告は,そのような文脈のなかで行われた。ガイが,この時点で,どのように和平を考えていたかが分かり,興味深い。以下,論文の要点を要約する。

T 和平過程の一部として憲法制定
 
憲法の改正あるいは新憲法の制定は,現在のネパールにみられる通り,和平過程の一部である。国内紛争は一般に完全な勝者がいない。そこに平和をもたらすには,諸勢力の交渉により国家を造りかえ,権力配分を変える以外になく,これはつまり憲法を変えると言うことだ。
 
この憲法制定が,いつ始まるか(始めるべきか)は,状況により異なる。紛争終結後の場合(ナンビア,カンボジア,東チモール,アフガン)もあれば,紛争初期から始まる場合(スリランカ)もある。いずれにせよ,新憲法の制定・施行が平和実現の象徴となるわけだ。
 
むろん憲法問題そのものは,和平過程全体にわたるものだ。憲法を改正するということだけに合意して和平交渉を始める場合もあれば,現行憲法の問題とされている部分の改正を行ってから和平交渉を行う場合もある。また,和平交渉のための一般的合意が新憲法の内容を決めることになる場合もある。
 
したがって,憲法助言者は,憲法制定過程の後の方で技術的助言をするにとどまるよりも,早い段階から参加し,諸勢力の考えをよく理解しておく方がよい。また,初期からの参加により,憲法助言者は,紛争当事者すべてが受け入れうる共通の土俵を提示できる場合も多いからである。南アフリカは,憲法助言者の早期参加により敵対状況から抜け出し,不可能と見られていた和解へと前進できた。現実には,憲法制定の終盤には,決定的な対立点はすでに解消されている場合が多い。

U 紛争解決のための憲法の役割
 
敵対する諸勢力が平和を願うなら,交渉により憲法を定めざるをえない。
 
紛争終結後の場合,憲法制定は法技術の問題となる。紛争終結以前だと,憲法が和平の中心問題となる。むろん,「紛争中」と「紛争後」の明確な区別はできない。「紛争後」の交渉がうまくいかなければ,紛争再発も当然あり得る。新憲法が制定・施行されるまでは,「紛争中」と考えた方がよい。憲法制定は,和平過程において,決定的に重要といってよい。
 
憲法制定は,和平に対し,手続き的な面と内容的な面の双方で貢献できる。手続き的には,和平交渉の当事者の特定と,彼らの交渉の場の提供である。また,和平交渉の項目も準備できる。
 
決定方法の決定も重要だ。交渉初期の政治的段階では「同意」がより重要だが,憲法制定段階になると最終的には「投票」によることになる。また,交渉の透明性を確保することにより,民衆の意見を聴取することも可能となる。さらに,専門家が参加することにより,難しい問題を技術的なレベルで解決することも可能となる。このように,憲法助言者が適切に役割を果たせば,和平は諸勢力の対話と同意により達成されることになる。
 
次に,内容的な面では,もし憲法的諸問題への合意が達成されるなら,それは平和を定着させ,未来の共存のための基礎を準備することになる。憲法は容易に変えられず,したがって紛争を効果的に終結させることが出来る。解釈は司法が行い,諸勢力の直接介入は防止される。争いを解決するためのルールと審判が存在するようになるのだ。憲法が定着すると,権力行使は自律化する。対立する諸党派が直接実力行使することはなくなる。
 
紛争後憲法は,交渉による解決だ。が,これには二面性がある。この憲法は,紛争を終結させるが,紛争の背後にある様々な原因までも除去しない場合があり,このときは憲法の正統性は脆弱だ。もし交渉当事者が敵対してきた党派幹部に限定されるなら,新憲法は彼らだけのものになり,一般民衆や他の諸党派の意志を反映しないものとなってしまう。
 
だから,制憲手続きと交渉項目の決定が決定的に重要となる。参加の機会を最大限拡大し,制限をなくす努力が求められる。

V 憲法制定過程
 
1.憲法制定過程で達成されるべき目的
憲法の改正や制定にはいくつかの形があるが,最近みられるようになった新しい形が,カンボジア,ボスニア,東チモール,ナンビア等の部外者の援助,指導による憲法制定,つまり紛争解決のための憲法,共存のための憲法制定だ。
 
制憲方法としては,紛争当事者の交渉を主とするものと,幅広い参加を重視するものがある。前者は短期的解決,後者は長期的解決に適する。
 
当事者は憲法制定を「必要(necessity)」とみるか,あるいは「好機(opportunity)」とみる。「必要」と見る場合,短期的解決となる。人民参加を制限し,秘密交渉とし,交渉をきっちりと管理し,憲法は最小限の小さなものとなる。「好機」と見なす場合,制憲過程は開かれており,人民の広範な参加を求め,交渉項目は多くなり,合意にむけ努力がなされる。この場合,国民アイデンティティを強化し,人々の間の差異を明確化した上で解消し,すべての社会集団が受け入れうるような合意文書としての憲法を作ることが目的となる。
 
憲法制定過程は,憲法秩序の性格を変えることが出来る。それは人々の憲法能力を高め,制定された憲法への協力を強化することが出来る。憲法制定過程は,制定された憲法の成否にとって決定的に重要である。
 
2007/12/02

ガイ教授(3):UNDP憲法支援 PPCBP&APPN

谷川昌幸(C)
 
2.平和・憲法構築参加プロジェクト(PPCBP) 2007.07-2008.06 / US$ 1,898,506
 
UNDPは,ネパール人の75%は制憲議会のことをよく知らない(IDA調査)から緊急な啓蒙が必要だ,と考える。また,被差別諸集団の不平の高まりやマデシ危機を見ると,すべての集団を制憲過程に参加させることの必要性も明白だ。
 
制憲過程への全員参加,包摂的憲法制定が実現すれば,和解が進み,国民統一が強化され,国民意識が高まり,永続的平和が実現される。そのためには,憲法に関する情報を広く知らせ,自由な討論の場を用意する必要がある。
 
このPPCBP事業は,情報を広め,憲法制定への社会的参加を可能にするものだ。2万の社会集団(CBOs)のネットワークを利用しつつ,BBC世界サービストラスト(WST)と協力し,人々を直接啓蒙し,憲法制定に参加させる。全国で村レベルの討論会を開き,憲法制定に関する意見を聞き,ラジオ番組を聞く3百万の全国視聴者とも関心を共有できるようにする。
 
活動
UNDPはBBC世界サービストラストと協力し,次のことを行う。
(1)市民社会の憲法能力の向上。
(2)ラジオドラマ,公開討論番組の制作・放送。包摂的憲法制定への個人と集団の理解の拡大。
(3)社会運動家の能力開発を行い,UNDP支援組織と協力し,紛争転換を図る。
(4)排除されてきた2500の少数派集団に参加し意見を述べる場を与える。
(5)2500LDGの組織化,地方と中央の紛争転換ネットワークの組織化と開発。
(6)地域ラジオ局を情報チャンネルとして強化。
(7)参加手法による効果的・長期的紛争転換・和解プロジェクトのための記録作成。ラジオドラマ,公開討論番組(ネパール語)を制作し放送。
(8)研究班を設置し研究計画を策定。
(9)憲法制定関係ラジオ番組をBBCネパール語サービスと20のFM局から放送。
(10)5000台のラジカセを学習グループに配布。
 
コメント
諸集団を包摂的に憲法制定過程に参加させるというのは,明らかに,一つの政治的立場だ。諸集団を「当事者」とするには,諸集団を明確に特定・限定せざるを得ない。つまり,UNDPが,当事者適格をもつ諸集団を創り出すわけだ。認定されなければ,憲法制定過程に参加し,そこで権利を実現する道も閉ざされる。
 
これは,カーストを支配の道具として,あるいは差別解消のために,明確に定義しようとした英帝国主義者あるいは善意の研究者・社会運動家と共通した考え方だ。カーストの上下関係は以前からあっただろう。しかし,それが明確な上下関係のヒエラルヒーの中に「科学的」に位置づけられ,激しく敵対するようになったのは,こうした悪意の,あるいは善意の「科学的」カースト定義によるところが大きい。
 
差別をなくすには,差別の実態を知らねばならない。それはその通りだが,一方,その実態調査が,差別を創り出し,激化させることも事実だ。パンチャヤト政府がカースト(民族)別人口調査をさせなかったのは,一つの見識である。科学的な1991年人口調査が,今日の民族紛争を招いたといった短絡的思考をするつもりはないが,「集団」調査,ましてやその社会内での上下関係の「科学的」調査が極めて危険なものであり,要注意であることは忘れてはならないだろう。
 
UNDPやUNMINの活動に対しては,エスニック集団やマデシ諸派を煽動しているという非難の声が聞かれる。包摂民主主義は一つの政治的立場であり,これをUNDPがネパールに押しつけるのであれば,そうした危険に対する十分な配慮が必要であろう。
 
次に,UNDPがマスメディアを通してネパールの世論づくりに直接関与することの是非も考える必要がある。しかも,BBCを通してだ。CNNでもNHKでもなく,BBC。旧宗主国だから? 放送網があり,カネも出るから? なぜネパール国営放送ではないのか?
 
ここでも,国家の形と魂を外国が作ることの難しさが,よく見て取れる。もしCNNが日本国民に向け,憲法を改めよ,国民はこう考えるべきだ,などと説教を始めたら,たまったものではない。よけいなお世話だ,と猛反発されるだろう。そういうことが,ネパールでは現に行われているのだ。
 
*Participation in Peace & Constitution-Building Project - PPCBP  http://www.undp.org.np/crisis/projects/ppcbp/index.php?ProgramID=31
 
 
3.ネパール平和構築支援(APPN) 2007.01-12 / US$ 1,233,770.
 
7党とマオイストとの間で包括的和平協定(2006.11.21)が締結され,平和構築が始まり,それに伴い,広範な支援が必要になった。UNMIN監督下でのマオイスト戦闘員登録・武器管理の支援,マオイスト兵宿営所管理の技術的・財政的支援,政府の調整・管理活動支援など。
 
そこでUNDPは2007年初め,「平和構築・回復ユニット」を設立し,平和回復・再統合,憲法制定,平和構築,選挙の4分野への支援を始めた。
 
目標・成果
(1)UNMINの監督下で,マオイスト戦闘員と武器の登録が完了。
(2)マオイスト兵宿営所の管理運営支援。
(3)UNDP技術支援・援助国財政支援による政府平和基金の設立運営。
活動
(1)UNMINを支援しマオイスト兵を登録。UNDPアフガンから専門家派遣。
(2)マオイスト兵の資格審査支援。
(3)ルワンダとアフガンからマオイスト兵資格審査のためUNDP専門家を派遣。地元UNDPスタッフと協力し政府のためデータベース作成。
(4)マオイスト兵宿営所の調査・改善支援。
(5)2006年11月,援助金により平和構築をするめるため政府が「ネパール平和基金」を設立。UNDPは,この基金を支援。また,「UN多国援助信託基金」を設立し,政府基金を補完。
 
コメント
このAPPNは,憲法制定支援ではなく,その前提となる包括的和平協定に基づくマオイスト軍管理,監視が主目的である。
 
UNDP3プロジェクトについて
以上の3プロジェクトを見ると,UNDPがUNMINと一体化し,マオイスト軍の管理・監視から,民主化のための市民教育,指導者教育,そして憲法制定にまで深く関わっていることが分かる。特に憲法制定は,国家の目標と構造を定めることであり,これにUNDPがこれほど大きく関与していることは,驚きである。
 
ヤッシュ・ガイの下の「憲法支援ユニット」は,全国規模の一連の会議を開き,そこで包摂的憲法,連邦制,人権と社会正義を議論させている。むろんUNDPが連邦制にせよと指導しているのではないが,包摂民主制の立場に立っていることは明白であり,とすると連邦制も示唆していることになる。
 
ネパール知識人たちの憲法論議が,あまりにも一面的なのは,UNDPの議論に安易に迎合しているからではないか? たとえば,立憲君主制にせよ,一元的国家の下での地方分権にせよ,ネパールの選択肢として十分考えられてよいのに,そんなものには見向きもしない。これは不幸な現象だ。
 
ヤッシュ・ガイ自身は,制度の二面性をよく理解しており,複眼的思考が出来る優れた学者であり実務家だ。しかし,UNDPの政策となると,政治運動に近くなり一面化せざるを得ないのではないか。その辺のことは,これから確かめてみることにする。
 
*Assistance to the Peace Process in Nepal - APPN  http://www.undp.org.np/crisis/projects/appn/index.php?ProgramID=33
2007/12/01

ガイ教授(2):UNDP憲法支援−SCBP

谷川昌幸(C)
ヤッシュ・ガイを中心とするUNDPネパール憲法制定支援は,これまでに次の3プログラムを実施してきた。
(1)SCBP=Support to the Constitution-Building Process in Nepal
(2)PPCBP=Participation in Peace & Constitution-Building Project
(3)APPN=Assistance to the Peace Process in Nepal
 
1.ネパール憲法制定支援(SCBP): 2006.12-2007.11 /  US$ 921,580
人民戦争が終結し,憲法制定が重要課題となってきたが,UNDPの見るところ,ネパールの人民もメディアも市民社会も,いや国家指導者たちですら,制憲議会−憲法制定・施行について,ほとんど知識を持たず,このままでは憲法制定は失敗する恐れがある。
 
そこでUNDPは,2006年9月「憲法支援ユニット(Constitution Advisory Support Unit=CASU)」を設立し,憲法制定支援のための予備的1年プログラムを始めることにした。
 
このプログラムは,諸政党の制憲活動を専門技術的に支援し,また関係者に制憲過程に関する教育をすることを目的とする。また,世論喚起により公民教育を進め,民衆の憲法理解と制憲過程参加を促進する。つまり,指導者層と庶民の憲法能力を高め,憲法制定に参加させ,これを成功させることが目標である。
 
具体的活動
   A .CASUの設立と憲法制定能力の向上
(1)国際的評価を得ている憲法制定問題上級顧問を雇用し,諸政党に専門技術的助言を与える。
(2)憲法改正プログラムの知識と経験を持つ実務家の雇用
(3)憲法上の重要問題に関する一連の会議を開催し,そこに憲法専門家,学者,政党指導者,専門職業人等を招き,制憲議会(CA)などの活動に参加するための準備をさせる。
(4)3日間のオリエンテーション・ワークショップを開催し,新憲法制定のための知識と能力を高め,制憲議会議員として活動できるようにする。
(5)翻訳者を雇い,英語文書を翻訳し,諸政党,憲法委員会等に配布し,利用させる。
 
   B. 憲法制定への市民教育
(1)1990年憲法の諸問題を分析した本の出版。ネパール語版と英語版。
(2)憲法問題資料の整備
(3)ポスター等の広報で,民主主義や憲法制定への市民教育をする。
(4)ジャーナリスト・ワークショップを開催し,憲法制定への理解を高め,報道を促進させる。
(5)憲法制定問題関係ホームページ作成。
(6)暫定憲法,新憲法草案,新憲法をネパール語と英語で配布する。
 
コメント
3プロジェクト全体についてはあとで総括するとして,ここでまず気付くことは,これはまるで小学校のクラス会か生徒会の規則づくりのようだ,ということだ。UNDPが先生,ネパール人が生徒。何も知らない生徒に,憲法のイロハから手取り足取り教え,憲法を作らせる。プライドの高いネパール人たちが,このような屈辱に耐えているのは,不思議だ。
 
日本国憲法も,敗戦によりアメリカに作られ押しつけられた。だから改正せよ,というのは乱暴だが,戦争責任を自分で裁けず,憲法も自力では作れなかったと言うことは,日本国民の恥だ。ネパールも人民戦争で国家破綻寸前だったから,憲法=国家(構造)を外国介入により作ってもらわざるを得ない。これは,本当は,恥ずかしいことだ。
 
次に,これもあとで述べることになろうが,憲法制定支援といっても,一定の政治原理の強制であることは明白だ。UNDPが外から国家目標を定め,憲法に書かせようとしている。正しいことだから文句言うな,というのは「民主的」ではない。憲法制定だから,単なる支援では済まない。実質的には,国家目標の決定に,UNDPは深く関与せざるを得ない。これも深刻な問題だ。
 
そして,英語帝国主義の問題。SCBP文書だけを見ても,UNDPが英語帝国主義に加担していることは明白だ。言葉はコミュニケーション手段だから便利で何が悪い,といわれればそれまでだが,まさにその理屈が英語帝国主義を正当化することになっている。UNDPは,英語化=グローバル化の利益に奉仕していることになる。
 
さらに,この事業がネパールの世界に冠たる「セミナー文化」をさらに繁盛させていることも明白だ。外国人研究者にとっては有り難いが,さてそれが現実にどれだけ効果があるかはまだ分からない。少なくとも,これまではあまり効果的ではなかった。
 
*Support to the Constitution-Building Process in Nepal - SCBP,http://www.undp.org.np/crisis/projects/scbp/index.php?ProgramID=32