ネパール評論 Nepal Review ネパール研究会 谷川研究室 Mail English  

●2007年7月   総覧(表示)
2007/07/31 時流とジャーナリズム,個人善と集団悪
2007/07/29 PLAから学ぶ,ジェンダーフリーSDF
2007/07/26 パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2e)
2007/07/25 権威としての大統領
2007/07/24 非政治的と政治的と
2007/07/17 パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2d)
2007/07/16 官厚民薄予算,王室予算も計上
2007/07/15 パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2c)
2007/07/14 退位で王制継続勧告,米大使
2007/07/13 パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2b)
2007/07/09 国王・8党共犯関係?/新祭政政治
2007/07/07 パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2a)
2007/07/03 新古と善悪
2007/07/02 パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(1)
2007/07/01 キス禁止令,ネパール性タブーの逆襲

2007/07/31

時流とジャーナリズム,個人善と集団悪

谷川昌幸(C)

1.「美しい国」幻想
参院選で自民が大敗した。

 自民(改選議席)64→(当選者)37 (改選前総議席)110→(改選後総議席)83
 民主(改選議席)32→(当選者)60 (改選前総議席)81→(改選後総議席)109

敗因は,直接的には年金(社保庁),政治資金(松岡,赤城),原爆しょうがない発言(久馬)だが,最も根本的なのは,安倍首相の「品格」欠陥だったといってよい。安倍首相は,本物の「ワル」でも「善人」でもなく,そのくせ空威張り,猪突の政治家不適格の人物だ。このブログでは,安倍政権成立前後から,安倍首相の「ニセモノ」「アナクロ」「猪武者」を批判してきた。たとえば,

 「安倍首相の怪著『美しい国へ』」(2006.10.29)

ところが,教室で安倍首相の評価を求めると,大部分が北朝鮮強硬政策を絶賛したり,「美しい国」をもてはやしたりする。腹が立ったので,本来,こんな言いっぱなしブログは教室で使うべきではないが,上記ブログを印刷し,安倍首相のニセモノぶり,『美しい国へ』のお粗末さを解説してやった。

2.時流迎合ジャーナリズム
この「美しい国」幻想については,ジャーナリズムの責任が大きい。ちょっと読めば『美しい国へ』の軽薄さは明白なのに,マスコミは「書店で平積み」「50万部突破!」などと,ちょうちん持ち。見苦しい限りだ。

時流迎合,多数派の味方は,本来のジャーナリズムではない。時流や多数派に流されることなく,本物とニセモノを見分けること。多数派にいかに嫌われようが「悪魔の代弁者(J.S.ミル)」になって,まず「ノー」といって,時流や多数意見を検証する。ハエのようにブンブンうるさく飛び回って大衆の独断のまどろみを覚醒させるのが,ジャーナリズムだ。

3.ネパール・ジャーナリズム
時流迎合という点では,ネパール・ジャーナリズムやアカデミズムは,日本以上にひどい。時流といっても,10年後,20年後を考えた時流ならまだしも,そうした歴史感覚もなく,いま目の前で動いているその流れに棹さし,波に乗ろうとしているにすぎない。

共和制がその典型。共和制の波が来たら,昨日までのことはころりと忘れ,われがちに飛び乗る。なぜまともな共和制批判が現れないのか? ネパールのジャーナリズムもアカデミズムも,共和制批判の責務を放棄している。日本ジャーナリズムが「美しい国」幻想批判を回避し,よい子ちゃんになっていたように。

4.抵抗者マオイストに即して
マオイスト報道についても同じだ。マオイストが構造的暴力(貧困,搾取,差別,偏見など)の犠牲者の立場に立ち,彼らを苦しめている社会構造からネパールを根本的に変えていこうとしていることは,基本的に正しい。マオイストが「主流(main stream)」に対し異議申し立てをしていた頃,わたしは彼らの立場への理解を繰り返し訴えてきた。たとえば,

 「不況・飢饉・マオイスト」(1998.07)

マオイストは,王族殺害事件前後までは,時代錯誤の絶滅危惧種として珍奇の目で見られ,現地ルポでも,

「マオイストはまともに読み書きできず,マルクスも毛沢東も知らず,ただ教え込まれたスローガンを叫んでいるにすぎない」

といった類のものが多かった。それは,生活苦と社会悪への生の怒りから,やむにやまれず武器を取り抵抗を始めた人々への無理解であり,不当な侮蔑とすらいってよかった。そこで私は,マオイスト反乱の正当性を説明し,

「では,日本国民の何人がスミスやリカードを理解し資本主義経済活動に従事しているのか?」(発表先失念)

と反論したものだ。資本主義理論を説明できなくても,資本主義経済活動は出来るし,事実,大部分の人はそうしている。自分のことを棚に上げ,マオイストの理論的無知を軽蔑するのは,天にツバするようなもの,恥知らずのニセ傲慢ジャーナリストだ。

5.生活共産主義と体制共産主義
日本でも共産党に対しては,戦前・戦後の「アカ」教育で洗脳されていたため,人々は冷たかった。

しかし,高度成長前後頃までの地域の共産党員やシンパは,それは誠実,模範的な共産主義者だった。村や都市下層住民の苦しみを直に肌で受け止め,共感し,彼らのために無私の活動を続けていた。

そうした地域の平党員やシンパたちは,マルクス・レーニン・スターリンなどの理論は,おそらくよく知らなかっただろう。しかし,彼らの怒りが本物であり,活動が誠実であることは見ていてよく分かった。彼らの実感に基づく生活共産主義活動は間違いなく本物であり,私はつねに敬意を表していた。

しかし,その実感に基づく共産主義活動が組織化され,体制化すると,これはとんでもないことになる。スターリンは批判されたが(ネパールではまだスターリン批判以前),体制共産主義はウェーバーの予言通り官僚主義に毒され,民主集中制にしても批判の自由は実際にはない。草の根生活共産主義の実感に基づく怒り,誠実な忍耐強い活動と,共産官僚主義との間には,超えがたいギャップがある。

ネパールでも,地域の抵抗する草の根マオイストを侮蔑することは許されない。全体として,彼らの怒りは本物であり,抵抗は正当だからだ。しかし一方,その抵抗運動が拡大し,地域で支配的になり,中央でも主流(main stream)に入ろうかという段階になると,共産主義運動も実感レベルではやっていけず,必ず官僚制化し,体制化してくる。官僚制化は不可避であり,そのこと自体は非難には当たらない。問題は,官僚制化し,体制化すると,生活実感共産主義の維持が困難になり,運動が共産官僚主義化してくることだ。

R.ニーバーに『道徳的人間と非道徳的社会(Moral Man and Unmoral Society, 1932)』という本がある。彼がいうように,善意の個人が集まっても,人は集団になると非道徳的に行動せざるを得ない。マオイストも同じだ。

ジャーナリズムやアカデミズムは,この集団のメカニズムを注意深く観察し,批判すべきは批判しなければならない。草の根の実感としての怒りや行動が本物であっても,官僚制化された運動が本物とは限らない。一人一人が善意の個人であっても10万人,20万人の集団になると,unmoralな別の要素が入ってくる。ジャーナリズムは,そのmoral―unmoral―immoralの関係を批判的に観察し,報道しなければならない。

それなのに,ジャーナリズムやアカデミズムが,自ら10万人の中に入ってアジっていては,職責忘却といわざるを得ない。ジャーナリズムやアカデミズムの堕落は,権力や大衆から嫌われることを忌避するところから始まる。嫌われてこそ,ジャーナリズムなのだ。  

2007/07/29

PLAから学ぶ,ジェンダーフリーSDF

谷川昌幸(C)
日本国自衛隊(SDF)が「個人資格」で陸自隊員をネパール派兵して早や4月,実戦先進国ネパールから学ぶものは多いにちがいない。その中でも特に人民解放軍(PLA)のジェンダーフリーは,SDFが真っ先に目をつけ,学習し,取り入れるべきものだ。

1.男女共同参画ジェンダーフリー自衛隊へ
じつは日本でもSDFは,女に目をつけている。このSDF長崎HPの写真を見よ。少し小さいが,男女がきちんと3人ずつ,サイズも同じ。

これは,長崎の自衛官募集ポスターだ。パルバティ同志のPLAと同じく,長崎SDFも男女共同参画ジェンダーフリー軍隊を目指しているようだ。

このポスターの実物は,HPが宣伝するようにバスと路面電車に掲示されている。私も毎日利用するプロレタリアの乗物100円電車に乗ると,このジェンダーフリー自衛官募集ポスターが,被搾取人民大衆乗客に,やさしく微笑みかけてくるのだ。

2.労基局の自衛官募集協力
100円電車の車内では,ブルジョアの総元締め日本国家の出先機関,長崎労働基準監督署が「長崎県の最低賃金は611円です」とテープで繰り返し広報している。しかも,この広報が流れるのは,自衛官募集センターの前を走行中なのだ!(写真はキリシタン処刑地=カトリック聖地=西坂から撮影。手前の国道軌道上を100円電車が走り,ここで最低賃金広報を流す。遠景は稲佐山)

時給611円だと1日8時間働いて4888円。1月25日で,122200円。学生に聞くと,賃金は限りなく最低賃金に近く,不払い労働時間を入れると,実際には最低賃金以下だという。今日の朝日新聞長崎版も,タクシー運転手の月給は16時間乗務/10時間休憩で15万円と報道していた。これでは到底食えないので,夫婦だと共稼ぎ,新卒は親元から通うことになる。

3.ネ日女性と軍隊
そんな生活苦プロレタリア人民に目をつけ,自衛隊が入隊を呼びかけている。パルバティ同志は驚くだろうが,日本でも女性は階級と性の二重搾取を受けている。だから,安定し高収入のジェンダーフリー自衛隊に女性が殺到しないわけがない。すでに国際協力分野は競争激化,狭き門となっている。

この自衛隊ジェンダーフリーを女性解放への前進と見るべきか? フェミニストは,これを歓迎するのか? 長崎の被抑圧女性にとって,入隊は生活苦からの脱出であり,男性隊員と同等の地位を得るチャンスだ。経済的,社会的地位向上は明白だ。これは女性解放への前進ではないか?

問題の本質は,ネパールと長崎は同じだ。ネパールの方が状況は厳しく,女性と軍隊と解放の関係が,理念型に近い形で現れているにすぎない。

ブルジョアの用心棒たる自衛隊も,被抑圧人民の味方PLAも共に軍隊だ。そして,いまでは軍は,民主化すればするほど強くなることをよく知っている。英国王軍はピューリタン鉄騎兵に負け,皇軍は米軍に負けた。

4.軍は女性を解放するか?
さて,日本の被抑圧プロレタリア女性はどうするか? ジェンダーフリーSDFポスターを歓迎するか,それとも糾弾するか? 日本の女性たちも,生活の全面的軍事化と男女共同参画軍隊を唱えるパルバティ同志の戦線にはせ参じるか? 日本の女も試されている。

*自衛隊長崎地方協力本部HP http://www.mod.go.jp/pco/nagasaki/(2007.7.29閲覧)  

2007/07/26

パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2e)

谷川昌幸(C)

6.新しい科学的文化
(1)新しくて古い「新しい科学」
共産主義は近代の嫡子であり,近代崇拝といってもよい。パルバティ同志の場合も,「新しい」と「科学」を多用しており,近代化を目指していることは明白だ。パ同志のスローガンを列挙してみよう。

女性改革,意識向上,清潔向上,清潔な禁酒環境,衣服簡素化,地場産品使用,贅沢結婚式反対,長期服喪反対,寡婦抑圧反対,初潮女子虐待禁止,(汚れた女性の)耕作・屋根葺き禁止反対,新しい休日の採用(国際女性デー,メーデー,人民戦争開戦記念日,殉死者週間)

「新しい科学的文化」の核心は,「意識(自覚)」「清潔」「簡素(簡潔)」等々,つまり主体性と合理性(効率)のようだ。たしかに中世からすれば「新しい」が,ポストモダンの現代からすれば「古い」。

(2)科学的男女関係
ここには,期待していた「科学的男女関係」の説明はなかった。肩すかしだが,それが「新しい科学的文化」の一部であることは明白なので,そこから推測すると,それは主体的,自覚的,清潔,合理的な男女関係,つまり無駄な虚飾を排し科学的合理的な愛情のみに基づく男女関係ということになるだろう。

では,その「愛情」とは何か? その説明は全くないが,いうまでもなくそれはマルクス・レーニン・毛沢東主義イデオロギーに基づく科学的愛情だろう。科学は普遍性をもつから,もしパ同志のいう「愛情」がそのような科学的なものであるなら,男女関係の正邪も科学的に判定できることになる。パ同志自身は明言してはいないが,「科学的男女関係」という以上,論理的にそうならざるを得ない。

(3)新しい科学的文化
「新しい科学的文化」は,このような「科学的男女関係」を含む合理的近代的文化のことだ。パ同志は,ブルジョアどもが合理化(商品化)をためらった愛情の領域までも大胆に科学の世界に引き込み,科学により合理化することをねらっているのだ。

パ同志が,圧倒的な抑圧的遺制を前に,科学の威力を借りたいと思ったのは無理からぬところだ。女性を取り巻く耐え難い因習や抑圧的制度の数々,それらは廃止されて当然だ。それはその通りだが,一方,それは耐え難いから廃止するのであり,厳密にいえば,「古い」からでも「非科学的」だからでもない。たとえば,ダサインとメーデーを比較して,メーデーの方が「新しい」とか「科学的」だなどといってみても仕方ない。

といいつつも,正直に告白すれば,昔々,学生時代に進歩的学生の間で,簡素で合理的,科学的な会費制結婚式が流行し,私も何回か出席し,その「新しさ」「科学的合理性」に感動したものだ。すんでのところで,「古い」結婚式は非科学的,因習的でケシカラン,と叫びそうになった。が,もちろん結婚式は趣味の問題だから,カップルの好みにより古式ゆかしく厳かに挙式しても何ら問題はない。

問題は科学的か否かではなく,別のところにある。インドやネパールでは,持参金や豪華結婚式が社会的圧力となり,極端な場合,娘殺しまで引き起こしている。こんな悪習をどうして廃止させるか? 「古い」「非科学的」というのが手っ取り早く,効果的だ。日本でも,高度成長以前のまだ貧しかった頃,本物の門松のかわりに,松を印刷した紙を玄関に貼る生活合理化運動があった。科学的結婚式以上に浅薄な運動であり,伝統的文化を衰退させる一因となったが,時代状況からしてやむを得なかったかなぁ,という気がする。

この印刷門松同様,パ同志の「新しい科学的文化」も浅薄であり,およそ非文化的,あるいは反文化的ですらある。これは文化大革命の一種だ。

しかし,私は,パ同志が「非科学的後進文化」を否定し「新しい科学的文化」を主張せざるを得ない政治的理由はよく分かる。科学的結婚式を強行しなければ,積年のジェンダー差別は解消されないのだ。革命は一般に非文化的,反文化的な政治運動だ。私は,「新しい科学的文化」はそれ自体くだらないもの,およそ文化の名に値しないものだと思うが,それを唱えざるを得ない事情はよく理解できる。その意味では,パ同志を私は支持する。頑張れ,パ同志!

7.女性と人民戦争の成果
(1)ネパール・イメージの革新
パルバティ同志によれば,ネパールの女性はこの「新しい科学文化」を学習し,「赤い専門家(red and expert)」にならねばならない。女性は今のところイデオロギーと理論が弱い。女性が革命を指導するには「新しい科学文化」の学習が不可欠なのだ。

ネパール女性にはこうした課題があるものの,女性参加の人民戦争が大きな成果を上げたことは間違いない。人民戦争により,ネパールのイメージは――
 「疲れた栄養不良の女たちが子供を背負い家畜の世話をしている」
というものから,
 「威厳ある女たちが銃をとり戦っている」
というものに,劇的に変化した。

たしかにそのとおりだ。ネパール女性と,彼女らに象徴されるネパール・イメージは激変した。(ただし,銃を取ることを女性解放への前進と手放しで歓迎することは出来ないが。)

(2)人民戦争の成果
パ同志は,人民戦争の成果を次のようにまとめている。

@階級戦争への結集=国家暴力,家庭内暴力への抵抗を階級戦争に高めた。封建的抑圧下で押さえ込まれていた女性の怒りを,封建国家との戦いへと解放した。

A女性のための基礎インフラ整備=根拠地では保育センター,寄宿舎がつくられ,女性の家内労働を軽減し,女性の活動を社会的により生産的,より目的志向的とした。(美しい家庭を唱えるアナクロ安倍首相の逆鱗に触れそうだ。)

B「女性搾取皆無モデル村」=理論実践の場であり,ここで成果が確認される。

C共産主義への前進=家財を守ることを名目に要求されてきた女性の個人的献身を,社会のための社会的献身に高めた。女性が生産力,再生産力として獲得した社会的・共同体的能力を新しい人民国家のために使い,共産主義へと前進することが可能となった。

D全面的政治化=社会,とりわけ被抑圧社会を全面的に政治化した。アーリア系女性,とくにタライのマデシ女性から封建的桎梏を除去した。モンゴル系女性については,伝統的に享受してきた相対的に大きな自由を確認し,発展させ,そして目的志向的なものとした。特に大きな成功は,非人間的境遇にあったダリット女性を立ち上がらせ,彼女らの尊厳ある生活への向上を支援したこと。

E封建国家攻撃の成功=女性抑圧の制度としての封建国家を攻撃することにより,女性たちに旧国家の軍隊と戦うための自分たち自身の軍隊を持つことの必要性を自覚させた。

Fジェンダー問題と階級問題の融合=人民戦争を通したイデオロギー的発展により,ジェンダー問題と階級問題を融合させることが出来た。

パ同志によれば,以上の成果を確保し,さらに発展させるには,国家権力の奪取と,マルクス=レーニン=毛沢東イデオロギーに基づくプロレタリアの軍隊が必要だ。プロレタリア軍によってのみ,女性がこれまでに獲得したものは確保され,さらに発展させられるのである。

8.革命の蛮勇
パルバティ同志の「人民戦争10周年と女性解放の問題」(2006)は,わずか10ページほどの短文だが,以上のように,なかなか面白い。共産党系の文章は,1行読むと以後の100ページは読まなくても分かるようなものが多いが,パ同志の文章には,本音がちらほら含まれており,読者を飽きさせない。

パ同志の「新しい科学的文化」は,文化論としてはナンセンスだが,政治運動のスローガンとしては有効だ。彼女の怒りは本物であり,武器は科学と軍隊。左手に科学,右手に軍隊,山の神同志は憤怒相となり,蛮勇をふるい,封建遺制を粉砕する。

うろ覚えだが,ツヴァイクが『エラスムスとルター』のなかで,時代を変えたのは賢者エラスムスの英知ではなく熱狂ルターの蛮勇だったといった趣旨のことを書いていた(ような気がする)。神秘主義者,とんでもない女性差別主義者のルターがヨーロッパ近代の幕を開いたのだ。

パ同志において,本来相容れないはずの氷と火の科学と革命(怒り)が結びつき,既存社会を焼き尽くそうとしている。その怒りが持続し,ネパール近代化革命が達成されるかどうか,注視していたい。

なお,結びとして勇敢プラチャンダ議長の文章が長々と引用してあるが,これは刺身のつま。無味乾燥で,食えたものではない。こんな金ぴか額縁をつけざるを得ないのが,共産党系組織人の悲しさだ。

2007/07/25

権威としての大統領

谷川昌幸(C)

1.共和派の「権威」無感覚
ネパール憲法制定に当たっては,「権威」と「権力」の分離が問題になる。

その点,共和派はまるで子供,問題意識そのものが欠如している。マチェンドラナート祭でコイララ首相が宗教行事を執行しても,賞賛ばかりで批判は皆無。インドラ祭でもクマリ祭礼を執行するのだろう。世俗共和派がこんなことをしていてはダメだ。

2.国王選挙制,あるいは大統領制
90年革命の時は,力関係もあったにせよ,「権威」についてはもう少し慎重だった。たとえば共産党系最大のUMLも,当然共和主義だったが,暫定的に立憲君主制を認めることとし,将来の権威のあり方を他党も交え真剣に議論していた。「国王」を選挙制とし,いずれは「大統領」とする案など,面白いと思ったものだ。90年革命の時の方が,政教分離,権威・権力分離については,少なくとも議論としては,レベルが高かった。

3.インド大統領制
共和制にも権威は不可欠だ。お手本は,隣のインド。7月21日選挙で,プラティバ・パティルさんが初の女性大統領になった。

引っ越し中で資料がなく直接確かめることはできないが,たしかインド大統領は政治的実権を持たず,権威のみを分担する儀礼的な存在だ。なぜそんな飾りをおくかといえば,統治は「権威」と「権力」の両輪により安定するのであり,権威=権力の一輪になると,転倒か暴走の危険があるからだ。さずが,インドは偉い。

4.権威の制度化
統治に「権威」は不可欠だとすると,誰か(あるいは何か)がそれを担わなければならない。首相独占はよろしくない。

(1)象徴王制=国王を完全無力化し,羽根飾りのようなものとして継承する。私自身は,これが一番リスクが少ないと思う。
(2)大統領制=インド・モデルにしたがう。
(3)国家・国民の象徴となりうるような他の名誉職をつくる。

権威は名前であり飾りにすぎないが,これをバカにすると,実体が化け物となり,制御できなくなる。たしか宮崎駿「もののけ姫」に名無し怪物が出てきた。怪物支配はごめん被りたい。

2007/07/24

非政治的と政治的と

谷川昌幸(C)

『カトマンドゥ通信』(2007年第2号)はB4数枚の小さな会報だが,記事はたいへん興味深い。

「NPOカトマンドゥ」は,紙パックを集め,N郡で植林支援をしている。紙パック15枚で苗1本。M村ではすでに10万本植林したという。地道な営々たる努力が実り,いまでは見事な林となり,村の生活の安定に寄与している。

植林事業は,本来,非政治的な活動だ。NPOカトマンドゥも非政治的を方針としてこれまで活動してきたのだろう。しかし,そうした非政治的活動ですら,この十数年の激しい政治闘争は,容赦なく政治の世界に引き込んでしまう。村の長老も,脅され,辞職させられた。こうした政治化の状況下では,

   「非政治的

を貫くのは至難であり,本物の勇気が試される。

ある村では,政府側に追われたマオイスト軍が撤退の時間稼ぎに7年前に植林した森に火をつけ,生育した1000本あまりの木々を焼いてしまった。

淡々と語られているが,植林放火の理不尽,いいようのない無念さは行間にあふれている。苗を植え,水をやり,7年育てた村の人々の努力が一瞬にして灰燼に帰してしまった。

非政治的活動をする非政治的団体が立ち上がれば,政治的活動になる。そのやり場のない残念無念の思いに,涙せざるを得ない。

非政治的人間が非政治的でいられるような社会――そんな普通の社会にいつネパールは立ち戻ることができるのだろうか?

2007/07/17

パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2d)

谷川昌幸(C)

4.女性50%,ネパール版パリティ
パルバティ同志は,諸組織における女性比率50%を目標として掲げている。

これは正しい。私自身10数年前,山形のある女性団体に関係していたとき,政党候補者,国・自治体の各種委員会委員等をすべて男女半々にすべきだと提案した。フランスのパリティ要求がまだ始まっていなかったか,知られていなかった頃のことであり,当の出席女性の方々から「女性はまだ能力不足」「「女性には向いていない」といった理由で猛反対された。結局,私の提案は否決された。いま思うと,ちょっと,いやかなり残念なことだった。

もう一つ,数年前,各大学教職員で組織する労働組合の委員会に出席したら,十数名の委員は男ばかりだったので,「これは,いかん。女性委員を少なくとも組合員男女比率と同じにすべきだ」と提案したら,ある有名大学の教授が「能力も考えず女だからという理由で委員にすべきではない」と反対され,ここでも私の提案は否決された。進歩的とされる労組ですら,ことジェンダーに関してはこの程度の意識なのだ。

いまのネパール農村の女性の状況は,十数年前の山形の女性たちや数年前の大学女性教職員よりもはるかに厳しい。男はむろんのこと教養ある女性ですら,いや自分に教養あるがゆえに,「女はまだ能力不足」と反対する恐れは十分ある。パルバティ同志は,それが分かった上で,女性50%を要求する。

この点では,私はパ同志の考えを全面的に支持する。新自由主義の「能力評価」が差別拡大・固定化の隠れ蓑であるのと同様,「女はまだ能力不足」は数千年来の「女には理性がない」の近代版であり,女性差別の合理化に他ならない。

男女はほぼ半々だから,すべての組織は男女半々を原則とする。もし男女いずれかが多いときは,多くする理由を説明しなければならない。女性側は,立証責任を引き受けてはダメだ。いま問題となっている年金未納問題と同じく,男性優位の場合の立証責任は男にある。

だから,フランスのパリティは正しく,そしてパ同志の女性50%要求も文句なく正しい。

とはいっても,頑迷な男どもはこれだけでは納得しないから,パ同志も女性が有能なことの説明を迫られる。その責任は男の頑迷にあるが,女性の有能さの説明に当たっては,ミイラ取りがミイラにならないよう,くれぐれも用心していただきたい。

5.女性組織の活躍
というわけで,パルバティ同志は女性の有能さの説明をはじめる。すでにPLAや民兵隊での女性の有能さは立証された。しかし,それだけでなく,女性,とくに女性組織は人民政府支配下地域で活動を拡大している。たとえば,次のような分野である。(この文章からは具体的な状況はわからない。実地見学に行きたいと思っている。)

(1)経済
人民政府のレストラン,商店,小規模企業に投資し,参加。人民政府小規模工場では,靴下,手袋,衣類,カバンなどを製造している。

(2)教育
識字教室,モデル学校,保育所,寮などの設置,運営。

(3)司法
法学基礎教育を受け,人民法廷の「裸足の法律家」として活躍している。「女性搾取皆無モデル村」では,遺産相続は男女平等となり,家庭内暴力も激減。幼児婚,強制結婚,一夫多妻も減少。さらに独立した女性法,家族法が作られた。

(4)建設
人馬道路,休憩所,橋,殉死者ゲートなどの建設。大規模建設にも参加している。

(5)文化
「新しい科学的文化」の創出。これは面白いので節を改めて説明する。

2007/07/16

官厚民薄予算,王室予算も計上

谷川昌幸(C)

2007/08年度予算案が7月12日発表された。暫定政府の本音を探る絶好の資料だが,マハト蔵相の予算演説はA4で41ページもあり難解,とてもじゃないが素人の私には解読できない。そこで安直に新聞報道により特徴を見ていくことにする。

1.安直予算案
まず驚くのが,予算案提出が12日,成立予定が16日。実質審議なしだ。いくら11月22日までの暫定予算とはいえ,ちょっと乱暴では? 公務員給与引き上げだけは17日実施と抜け目がないのに。

2.閣内不統一,無能マオイスト大臣
この予算案は,政府提出(以前は国王提出)。ということは,8党,特に大臣を5名も出しているマオイストも,当然事前了解しているはずだ。20大臣の内マオイストは,K.B.マハラ情報相,D.P.グルン地方開発相,M.P.ヤダブ森林・土壌保全相,ヒシラ・ヤミ公共事業相,K.B.ビシュワカルマ女性子供福祉相。いくら立派な「博士」とはいえ,NCのマハト蔵相が勝手に予算案を作成し,提出したわけではあるまい。

それなのに,マオイストを筆頭に,不平たらたら。マオイストは「いかさまだ」と声高に叫んでいるが,内閣の1/4の大臣を占めていて騙されたのなら,それは無能の証明,政治家失格だ。「cheat」はネパール常套句だが,政治業界内では騙される政治家の方が間抜けなのだ。

3.王室費計上
王室費については,13日新聞各紙は「王室費ゼロ」とハデに報道したが,現に存在するものに予算ゼロはないだろう。本当かなぁ,とちょっと調べれば分かるのに,朝日をはじめ各社が大活字でセンセーショナルに報道し,あとは知らん顔だ。

暫定憲法は,王制を棚上げし,存廃は制憲議会選挙後の初回会議の単純多数決で決定すると明記している(第159条)。王制はまだ廃止されておらず,棚上げ状態で,国王も王族も事実として存在する。

ただし,国家機関としては憲法上明記されていないので,そこに予算計上はできないのは当然(第92条)。そこで,内閣府予算から支出することにしたわけだ。

M.K.ネパールUML書記長が,「政府は刑務所囚人にも予算をつけなければならないから,王室予算も当然だ」と語ったが,リーガルマインドがあれば,こんなことはあたりまえだ。同じ共産党でも,この点ではマルクス・レーニンの党がマオの党よりもまともだ。ネパール氏はこのところ落ち目だが,久し振りに存在感を示した。

詳細は分からないが,新聞報道では,王室費は次の通り。
  王室費     4500万ルピー
    国王・王族手当 2500万ルピー(昨年度3270万ルピー)
    王宮管理費   2000万ルピー
  王宮職員手当  8000万ルピー 
    計     12500万ルピー

一方,国王・王族財産の国有化経費も,きちんと計上されているから,これを見れば,こと王室に関しては,政府方針は守られていることになる。5大臣もいるのだから,マオイストも賛成していたと見るべきだ。「だまされた」などと泣き言を言わないこと。天下に「間抜け」を告白することになってしまう。

4.お手盛り水ぶくれ予算
政治変動期で得をするのは,声の大きい勢力や実権を持つ人々。今回も大盤振る舞い。総予算は,昨年度の17.4%増,昨年度実績に対しては28.2%増。大丈夫かな? 

そして,この水ぶくれ予算の行き先は――
 (1)公務員=給与27%,年金10%の引き上げ。しかも,7月17日実施。
 (2)治安関係=警察95.9億ルピー,軍108.9億ルピー
 (3)平和基金=10億ルピー。マオイストPLA関係費。
 (4)選挙関係=35億ルピー
 (5)農業関係=58.2億ルピー(対前年47.3%増)
  ▼ 所得税=10%程度引き上げか?

会計に疎いのでよくは分からないが,(1)〜(4)のどれ一つとして国民生活を積極的に向上させるものではない。(5)も地方の現状を考えると,執行は怪しい。全体としてみると,水ぶくれ官厚民薄予算といってよいだろう。

5.国王は予算返上を
王制との関係でいうと,国王はこんな端金なんか自主的に辞退した方がよい。

日本の皇族も,江戸時代には京でそれは貧しい生活をしていた。金も権力もない。あるのは名のみ。それでも耐え忍び,今日まで生きのび,いまや歴史上,最後まで残る王室(皇室)の一つとされている。

いま7+1政党は,シャハ王家の遺産(正負両遺産)を食いながら権力維持している。食いつぶしたとき,どうなるか? どうなろうと,それは自業自得,見ているより仕方ない。

そこで,王室が生き残りたいのであれば,金も権力も自ら率先して放棄することだ。そうすれば,ギャネンドラ国王,パラス皇太子の退位は避けられないだろうが,王制の存続の芽が出てくる。国王が自転車でバザールに買い物――そんな王室になれば,「まぁ,あってもよいか」ということになるにちがいない。

6.ネパール民主共和派は日本天皇制批判も
これは日本天皇家も同じだ。雅子さんを見れば分かるように,今のような非人間的な人権抹殺体制がいつまでも続くはずがない。しかも,アナクロ安倍首相を筆頭に,天皇主義者たちは天皇を政治的に利用し,反動教育(日の丸・君が代教育の凄まじさを見よ),軍国主義化を着々と押し進めている。現状では,日本の天皇制は明らかに危険な方向にむかって逆行している。こんな反動的天皇制は廃止すべきだ。

日本天皇制も,生き残りを願うなら,ヨーロッパ王室のように,君主でも気軽に自転車で買い物に行くような制度に変えていかなければならない。むろん,そうすれば,天皇と一般市民とが限りなく接近していき,いずれは天皇制そのものが静かに消えていくことにはなるであろうが。

日本で,そのような天皇制自然消滅への地道な努力をせず,ネパール王制について云々することは,本来なら出来ないはずだ。出来ないはずだから,努めて反動的天皇制批判をするように努力はしているが,これは小心者の私には少々荷が重い。ネパール民主共和制を応援されている方々には,その鋭い舌鋒をもって日本の反動的天皇制批判の陣営にはせ参じていただきたいと願っている。

* Kathmandu Post, KOL, Nepalnews.com, 12-14 Jul. 

2007/07/15

パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2c)

谷川昌幸(C)

(2)女性解放としての人民戦争とPLA
ヒマラヤの娘パルバティ同志に,そんなプチブル的迷いはない。軍隊は偉大な差別解消装置であり,「軍事化(militarisation)」により女性は解放される。

パ同志によれば,人民解放軍(PLA)の女性兵士は,男性がいないから仕方なく採用したのでもなければ,単なる戦術として採用したのでもなく,「女性の怒りを解放するための戦略の一部」に他ならなかった。

「PLAは,女性に加えられてきたイデオロギー的,身体的,心理的,社会的,経済的な様々な形態の中世的抑圧から女性を解放した」(p4)。パ同志は,このPLAによる女性解放を6つに分け,具体的に説明している。順に見ていこう。

@PLAによる女性の恐怖心,不安の除去。これにより,家庭内の宗教的迷信を除去できた。

A封建的女性観の破壊。女性を汚れ,病み,救われない魂と見る封建的女性観を否定した。イデオロギー的,身体的能力の開発により,女性は自分の身体に誇りを持ち,大切にするようになった。

B知的能力の向上。PLA参加女性は,党の他組織の女性よりも貧しい階級出身かより抑圧された社会出身。大半が入隊以前は非識字,半識字だった。その女性たちにPLAは学習機会を与え,いまでは彼女らは読み書きできるようになっている。

Cジェンダー教育。支配のジェンダー性,階級性を実践を通して教えた。理論と実践の統一。たとえば「権力は銃口から生まれる」「軍なくして人民は無」「国家権力掌握が最終目標」。(ただし,これらとジェンダーとの関係は私にはよく分からない。)

D戦場における男女平等。多くの女性兵士が(男性同様)攻撃を指揮し,戦死し,負傷し,拷問され,レイプされ,監禁された。

E封建的男女関係の除去。この部分は面白いので,そのまま引用。
「PLAは封建的男女関係を除去し,科学的健康的男女関係に置き換えた。その結果,宗教,民族,地域の障害をすべて乗り越えた,イデオロギーと愛情に基づく恋愛結婚が可能となった。これはまた伝統的分業も変えた。妻が戦場,夫が銃後というケースもあれば,妻が戦場で指揮官として夫を指揮するというケースもある」(p5)。(「科学的男女関係」は実に興味深い。後で改めて議論したい。)

さて,「パルバティ」が宗教的迷信に由来する名前かどうか私には全く分からないが,少なくともパルバティ同志はそんなことは一顧だにせず,PLAによる宗教的封建的抑圧からの女性解放を手放しで礼賛する。

パ同志によれば,PLAの30〜50%は女性であり,民兵隊(militia)となると女性比率はもっと高い。重要な役割も果たしている。
  女性軍=分隊,小隊,中隊がある。(女性中隊の包囲攻撃はさぞ恐いことだろう。) 
  女性コマンダー(正・副)=中隊以下だけでなく,大隊,旅団にもいる。
たしかに,女性進出はめざましい。軍隊の男女平等化だ。

(3)軍事化による全面解放
「パルバティ」が破壊の神シバの妻かどうかさえも私は知らないが,マオイストのパルバティ同志は,破壊を使命とするはずの軍隊の論理を全社会に及ぼすべきだと主張する。ここはそのまま引用しておこう。

「党と大衆の全体を軍事化する政策は,女性の軍事化を助長し,こうすることにより永年の差別を除去することになる。事実,この軍事化は,旧国軍のネパール王国軍(RNA)をして,マオイスト女性に対抗させるため,そのイデオロギーに反するにもかかわらず女性兵士の採用を余儀なくさせさえした。軍事的構造の拡大は,女性がその諸能力を様々な分野で発揮できるようにし,またこれにより女性戦闘員が出産後軍組織に戻ることを可能とした。注目すべきことに,女性大衆組織も,女性を民兵隊やPLAに入隊させやすくするため『家庭から前線へキャンペーン』を掲げ,しばしばキャンペーンを行ってきた」(p5)。

これはまたすさまじい。フリーター赤木氏も顔色無しだ。もしいまの日本でこんなことを言えば,ファシスト,軍国主義者,反動・・・・と罵詈雑言の雨あられだ。生活の全面的軍事化による女性全面開放! フリーター赤木氏がちょっと口を滑らせ「希望は戦争」と言っただけで,袋だたき。とてもじゃないが,こんな恐ろしいことを言う勇気は私にはない。さすが山の神同志だ。

それはともあれ,パ同志によれば,女性は男性よりも不撓不屈であり,秘密をよく守り,戦場から逃げ出すこともない。PLAは女性兵士なしでは戦えない。それなのに,PLAの女性処遇にはまだ問題がある,とパ同志は批判する。特に結婚,出産後の継続が難しい。また,体力の衰えも男性より早く,兵士継続に支障が生じる。そこで,パ同志はこう主張する――

「それゆえ,適切な健康ケアを行い,男女には家族計画ができるようにすべきだ。また,党はPLA内女性リーダーシップ確立への障害を除去すべきである」(p6)。

ここまでくると,恐怖を覚える。これぞまさしくフーコーらのいう「生権力」ではないか。党が人々の健康や性生活までも管理し,女性(と男性)を戦争と党活動に全面動員する。

パ同志は,何を学び,こんな議論を組み立てたのだろうか? もし人民戦争の実践の中から,女性の生(性を含む)の全面動員の理論を構築したのだとすると,それはパ同志の才能をよく実証するものの,それだけにかえって空恐ろしい。

パ同志の女性解放論は,完全な男女平等のかわりに,女性(と男性)が国家のために性生活を行い,国家のために子供を産み,国家が国家のために子供を育てるプラトンの理想国家まで,あと一歩だ。

2007/07/14

退位で王制継続勧告,米大使

谷川昌幸(C)

モリアーティ米大使がギャネンドラ国王退位による王制継続を勧告した。米政府もたまにはまともなことをいう。そして,わが日本政府も,ギャネンドラ=パラス専制化支援という大失態を犯したが,いまではおそらく米政府と同じ考えをもっているにちがいない。米政府(と日本政府)の対ネ政策を応援するのは,いささか気まずいが,この際そんな私的感情は棚上げし,米政府(と日本政府)の王制存続政策を応援しよう。(国制の決定権はいうまでもなくネパール人民自身にある。いうまでもないから,そんな分かり切ったことはいわない,ということをいっておく。)

カンチプル(13Jul)の記事が正確であれば,任期を終えまもなく帰国するモリアーティ大使は7月13日の記者会見で,国王への最後の助言は「もし王制を救いたいのであれば,国王は退位すべきだ」というものだった,と語った。米政府はネパール版名誉革命を願っているのだ。

これは妥当な政策だ。そして,日本政府も同じ考えをもっていることはまず間違いないから,かなりのリスクを負うことにはなるが,この際,宗主国アメリカにならい,日本政府もネパール名誉革命を希望する,と表明するとよい。

ネパール王制問題は,すでに単なる内政問題ではなくなりつつある。マオイストが先祖帰りして本家中国に接近し共和制へ向かうのに対し,米(日)は対中政策上,立憲君主制で体制安定化を図りたいと考えているはずだ。これにインドが乗れば,米印日の支援でネパール名誉革命の芽が出てくる。

では,国王退位宣言はいつがよいか? 効果的なのは,憲法制定議会選挙直前だろう。早すぎると退位効果が薄れ,遅れると共和制になってしまう。選挙前にパラス皇太子共々退位すれば,ギャネンドラ国王は,一発逆転,身を捨て国を救った名君として歴史に名を残すことになるかもしれない。

王制は便利な反面,危険でもある。タイ王室は,国民統合機能をよく果たしてきたが,その反面,軍事クーデターの根拠としても利用されてきた。象徴王制のミソは,前者を極大化し,後者を極小化する点にある。米国は(そしておそらく日本も),それをねらっているのだろう。

ネパール象徴王制論は,最近の思いつきではない。1990年革命の頃から,一貫して,その考え公表してきた。下記参照――

The Rationale for the Kingship in Nepal (1996) 

世俗断念が王制の条件(2006) 

2007/07/13

パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2b)

谷川昌幸(C)

3.戦争と軍隊と女性解放

(1)戦争と軍隊への希望
軍隊,特に近代的軍隊は,絶望的境遇にある人々にとって,しばしば解放への希望となる。古代では奴隷は軍隊で大活躍することにより解放されることがあったし,戦前の日本では貧農の次男以下にとって帝国陸軍は腹一杯食べ,働きにより昇進の可能性のある解放への組織だった。

いやそれどころか,つい最近――

赤木智弘「『丸山真男』をひっぱたきたい。31歳フリーター。希望は,戦争」,『論座』2007年1月号

という文章が発表され,戦前の貧農次三男と同じようなことがあからさまに主張され,世間を驚かせた。フリーター赤木氏はこう述べている。

 「我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状能を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。・・・・
 戦争は悲惨だ。
 しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。・・・・
 ・・・・国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。・・・・
 ・・・・1944年3月、当時30歳の[東京帝国大学法学部助教授]丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
 戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。」(p58-59)

偉大な政治思想史家,丸山真男をダシにしたとして評判は芳しくないが,『論座』4月号に各界著名人のコメントが掲載され,さらに6月号で赤木氏がそれらに応えるなど,かなりの反響を呼んでいる。

たしかに赤木氏の議論は少々乱暴だ。が,私には,4月号に反論を掲載した良識派の面々よりも赤木氏の方が現状をより鋭く,あるいは危機感を持って認識しているように思われる。継続的な絶望状況にあっては,状況を流動化させる戦争や目的合理的軍隊はたしかに希望となりうるのだ。たとえそれが,良識派のいうように,偽りの希望だとしても。

まさにそのような解放への希望こそ,ネパール被抑圧人民,特に女性たちが人民戦争と人民解放軍(PLA)に期待したものだった。

日本の良識派の面々は,平和主義の高みから,ニート赤木氏の戦争と軍隊への希望を偽りの希望と切り捨てた。では,日本格差社会のニートの何倍も過酷な絶望的境遇にあるネパール女性たちに対しても,それは偽りの希望だと良識の高みから説き聞かせることができるだろうか?

私は,戦争と軍隊が女性の解放をもたらすとは思わない。革命は銃口から生まれても,女性解放は女性が銃をもつことによっては達成されない。しかし,それにもかかわらず,女性たちの戦争と軍隊への希望は偽りの希望だと良識ぶって説き聞かせる勇気もない。では,どうすればよいのか・・・・?

2007/07/09

国王・8党共犯関係?/新祭政政治へ

谷川昌幸(C)

1.国王生誕60年祝賀
ギャネンドラ国王生誕60周年祝賀行事が7月7日,小競り合いはあったものの,大過なく終了した。ダイヤモンドの輝きとはいかなかったが,まずはめでたい。

王宮には王党派200人が集まり,その中にはS.B.タパ,L.B.チャンド,B.K.シンなどの有力者もいた。主な出席者は―― Royal ministers Kirtinidhi Bista, Badri Mandal, Salim Miya Ansari, Kamal Thapa, Ramesh Nath Pandey, Durga Pokhrel, Jog Mehar Shrestha, Niranjan Thapa, Shishu Shamshere Rana, Bholi Maya Tamang, and chief secretary Lok Man Singha Karki.

2.国王・8党共犯関係?
これは奇妙な光景だ。国王はまるで7+1党の分裂防止のため助け船を出しているように見える。まさか,と思われるだろうが,もし国王が完全な沈黙を守り,まな板の鯉に徹すれば,困るのは7+1党の方だ。これは自明。

むろん,国王と7+1党の意図的権力ゲームではないだろうが,両派が阿吽の呼吸で権力ゲームをしていると思えてならない。意図ぜざる,あるいは黒幕が糸を引く共犯関係にあるのではないか?

3.闇権力の不気味さ
もし現状が一種の権力ゲームなら,遊ばせている黒幕が気になる。それはおそらく王族虐殺の闇権力と繋がっているのであろう。あれだけのことがやれるのだ。どこかに潜んで政治を操作していて不思議ではない。

ギャネンドラ国王は,どうみても自由な独裁的権力行使主体ではない。2006年革命を前に,彼は何もしなかった。できなかった,あるいはさせてもらえなかった。権力者としては失格だ(その頃のブログ参照)。どこかの闇権力に操られているとしか思えない。権力を行使すべきときに行使せず,行使すべきでないときに行使する。この不可解な行動は,推測にすぎないが,そうとしか説明がつかない。

4. 新祭政政治へ
ところで,国王生誕60年祝賀の翌日(7月8日),マチェンドラナート祭が行われ,国王ではなくコイララ首相が主賓として出席し,238年の歴史で初めてボート(宝飾下着)を検分した。これを祝い,政府は8日を祭日とした。

あれあれ,世俗国家,政教分離はどうなったの? マチェンドラナートは仏教では観自在菩薩,ヒンズー教ではビシュヌまたはシバの化身ではなかったかな?

日本では,地鎮祭が宗教行事か習俗かでもめているが,マチェンドラナート祭は紛れもない宗教行事。世俗国家の元首は,そんな宗教行事に主賓として出席し,宗教儀式を執行してはならない。

宗教は,神であれ仏であれ,権力に権威を与える最高の装置だ。危険だから分離しようというのが歴史の叡知であり,世俗国家の意味はそこにある。世俗国家をいう以上,神の後光のない地味な政治に耐えなければならない。

ところが,世俗国家を声高に叫んできた人々やマスコミが,こぞって,コイララ首相のマチェンドラナート礼拝に喝采した。ネパールにはクリスチャンもムスリムもいるのだ。世俗国家は,彼ら少数派のためにある。民主共和制は多数派のためのものだから,人権を平気で無視するのは当然といえば当然である。

* Kathmandu Post & KOL, Jul.7-8.

2007/07/07

パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(2a)

谷川昌幸(C)

パルバティ同志(パ同志)はやはり面白い。正直いって,これまでマオイストのものはほとんど読んでいない。2,3行読むと,たいてい寝てしまう。パ同志も同じかと思っていたが,さすが山の神,かなり自由に発言しており,本音がちらちら見え,眠気覚ましになる。勇敢プラチャンダ同志の「マルクスいわく」式の無味乾燥プロパガンダよりも,はるかに人間的だ。がんばれ,パ同志!

というわけで,最近のパ同志の文章を読んでみることにした。読みながら書いているので,重複,誤読,脱落があるかも知れない。ご指摘いただき,後で訂正します。

Hisila Yami, "Ten Years of People's War and the Question of Women's Liberation,"2006, in People's War and Women's Liberation in Nepal, Purvaiya Prakashan, 2006

1.階級闘争による宗教,民族そして女性の解放
パルバティ同志によれば,いま世界中で帝国主義に対する闘いが起きているのに,「科学的方向付け」ができていないため,それらは宗教紛争,民族紛争,地域紛争の形をとっている。そして,これらの紛争では,つねに女性が最大の犠牲者だった。というのも,それらの紛争においては,女性を守るという名目で,女性が中世的抑圧の下に押し込められてきたからだ。

しかし,ネパールは違う。ネパールでは,宗教もナショナリティ(民族)も地域もジェンダーも区別しないプロレタリア階級が,階級闘争として解放闘争を戦っているからだ。

宗教,人種,カースト,ナショナリティ(民族),ジェンダーの対立は,それらに基づく運動を階級闘争に統合することによってのみ除去できる。そして,女性が本当に解放されるのも,この階級闘争によってのみである。ネパールでは,まさにこれがいま起こっているのである。

ネパールでは,階級闘争の結果,80%の地域が解放され,地域自治,ナショナリティ(民族)自治が実現している。そして,そうした地域では,女性が大きな権利を享受している。これは女性の解放が階級,ダリット,ナショナリティ(民族),地域の解放と深く結びついていることをよく示している。レーニンも,国の発展は女性の地位により判定されるといっている。

「この観点から,人民戦争10年の成果は,女性たちがこの10年間で特に党,人民解放軍そして新しい国家において,何を達成したかによって判定できる」(p2).

――感動的な明晰さ。宗教,民族,地域,ジェンダー等々を理由とする闘いは,階級闘争に統合され闘われることにより解決され,その階級闘争の成果は女性解放の程度により評価され,さらにその女性解放は党,人民解放軍,マオイスト政府への女性参加の程度によって判定される。

あまりにも明快すぎて,本当かなぁ,とマユにツバしたくなるくらいだ。階級は民族に完敗したのではなかったかな? 階級とジェンダーは別だとフェミニストが怒っていたのではなかったかな? たしか,そんなこともあったはずだが,山の神は,そんなことは歯牙にもかけない。パ同志の主張は一貫している。すべての闘争エネルギーを階級闘争に統合し,これにより女性を解放し,そして女性(パ同志を筆頭に)を党,軍,政府の要職に押し上げること。

小気味よい明快な野心。それを平然と語れるパ同志は立派であり,私は好きだ。尊敬に値する。

2.女性登用による党浄化
パルバティ同志は,以上の議論に基づき,大胆にも女性登用による党浄化を訴える。某国の民族浄化は醜悪だったが,そんなことは気にもかけず,パ同志は神の無慈悲をもって党(男?)浄化を宣言する。えらい!

パ同志によれば,人民戦争以前は,女性は党活動において重要な役割を果たしていなかった。
 ・夫=フルタイム党活動/妻=夫の支援,手伝いとしての党活動
 ・父=   〃      /母=父の支援,   〃
 ・兄弟=  〃      /姉妹=兄弟の支援, 〃
つまり,党においても,男性の党活動を背後から支援するのが理想の女性とされていた。また,独身の時は要職にあった女性も,結婚により党活動のレベルを下げていくのが一般的だった。

しかし,パ同志は,マオイスト内にさえあったこの女性観を断固拒否する。女性は歴史上,最初に支配服従させられ,そして最後に解放される存在だ。女性は,長い間苦しい抑圧労働に耐え,そのなかで規律,守秘義務(口の堅さ),機敏さ,寛容,自己犠牲,社会性,勤勉さ,信念の堅さ,率直さ,責任感,誠実さを体得している。まさに,こうした資質こそが共産主義運動が求めるものであり,したがって女性こそが「革命の鉄柱(iron pillars for revolution)」なのだ。

この女性の革命性を実証したのが,人民戦争だ。人民戦争は,ジェンダーに関わりなく,能力のある者に活動の機会を与えた。女性たちは,拷問,レイプ,拉致,拘禁,虐殺にもかかわらず勇敢に戦ってきた。

その結果,女性は,銃後の男性支援から革命運動の前面に出て,フルタイム活動家になっていった。夫が入党すると妻がそれを支援するという形から,女性を入党させると,家族が目覚め党活動に参加するという形に変わってきた。そこで,積極的に女性を党活動に参加させるようにした。「1地域に1組織,1家族に1党員」が女性組織のスローガンだ。

女性は,長い間二重の抑圧(階級支配と性支配)を受け,したがって,本来なら男性よりも堅固なプロレタリア精神を持ち,革命を新民主主義から社会主義へ,そして完全な解放である共産主義へと押し進めていくことが出来るはずである。

しかし,残念ながら,女性は戦場では強いが,まだ理論的,イデオロギー的には弱い。たとえば,これまで女性は女性組織で働くことを好んだ。しかし,これではいけない。

女性は,もっとイデオロギーを学び理論武装すれば,「運動により深くコミットし,党浄化(cleansing the Party)のための極めて重要な役割を果たすことができる」(p4)。

だからこそ,党は女性を幹部としてもっと登用せよ,とパルバティ同志は要求する。そして,女性自身も党活動を目指すべきである。なぜなら「反革命は党組織から始まり,他の諸領域に拡大する」(p3)からである。「不断の粛正運動」による「党浄化」,これこそが女性,つまりはパ同志の任務なのだ。

スゴイ! 帝国主義の「鉄の女」はサッチャーだったが,ネパール「革命の鉄柱」の主柱はもちろんパルバティ同志だ。がんばれ,パ同志!

2007/07/03

新古と善悪

谷川昌幸

安部先生ご指導の佐賀スタディツアーに参加し,唐津を見学しているうちに,「新古と善悪」の関係を改めて考えさせられた。物事にはすべて多面性があるが,ここでは単純化し要点だけを述べることにする。

新古と善悪の関係には,図のようにA(新しくて善いもの),B(古くて善いもの),C(古くて悪いもの),D(新しくて悪いもの)の4類型がある。

本来これらは峻別されるべきだが,近現代人は進歩史観に囚われ,無意識のうちにA(新=善)かC(古=悪)の二者択一しかないと思いがちだ。たとえば,本来「新しさ」そのものには何の価値もないはずの教育の場ですら,とにかく「新しければよい」との思いこみから,生徒学生と教職員を実験材料にし,右往左往,いたるところで無惨な教育の荒廃を招いている。

唐津でも,最新の醜悪な風景が広がっていた。西の浜・旧高取邸対岸のグロテスクな火力発電所,名護屋城趾西方の不気味な巨大原発,そして古き良き村の裏山の奇怪な発電風車。新=善の思い込みがなければ,いかに効用のためとはいえ,こんな無神経な文化景観破壊はしないだろう。馬にまたがり一人敢然と風車に突撃したドンキホーテ。その悲壮な決意,騎士精神の気高さが忍ばれる。

近現代のこの浅薄卑俗なA信仰に反省を迫るのが歴史遺産だ。菜畑の「最古の稲作」は,「古さ」そのものが価値を生むことを教えてくれる。名護屋城趾,旧唐津銀行本店,旧三菱唐津支店本館,旧高取邸は,たとえ封建的支配や資本主義的搾取の結果であったとしても,そこでは超時間的美と崇高が時間的持続と渾然一体となり,今では見事な歴史的文化景観となっている。いやそれどころか,慶長の役の「鼻請取状」のような醜悪きわまりないものであっても,名護屋城博物館展示のように,古さが歴史的価値を生むことを教えてくれている。

むろん,古いものも初めは新しかったのであり,またC(古くて悪いもの)も多々存在する。あるいは,観点によって善くも悪くもなるものも少なくない。しかし,時間を経てきたものは,それだけの理由があったのであり,まずは敬意をもって遇するべきである。固陋,旧弊の恐れはある。が,集団A妄想の今だからこそ,あえてB再評価を力説したい。最近の製品はパソコンのように発売3か月でもう旧製品。学校もそんな即戦力使い捨て「人材」を育成してよいのか。新しさ競争のA妄想時代にあっては,古さこそがカッコよい。そんなことを,佐賀スタディツアーは考えさせてくれた。

2007/07/02

パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(1)

谷川昌幸(C)

1.山の神同志,ヒシラ・ヤミ
パルバティ同志,ヒシラ・ヤミ(Comrade Parbati, Hisila Yami)は,マオイスト内の最有力女性リーダーだ。

差別廃絶を目指す共産党は,自らについては階級序列と勲章が大好きな集団なので,ネパール・マオイストについても,1番プラチャンダ同志,2番バブラム・バッタライ同志と厳格な序列格差をつけて紹介すべきことはいうまでもない。(国家は国家によって,格差は格差によって,弁証法的に止揚される!) もちろん,男女の区別も大切だ。女性1番は大変名誉なことだ。その女性マオイスト1番が,この人パルバティ同志だ(たぶん。間違っていたらご指摘ください。)

名前からしてスゴイ。パルバテ=山(ヒマラヤ)=神様だから,山の神がマオイスト女性軍団を率いていることになる。マオイスト女性軍団がアマゾネスのように強いのは,当然といえよう。

2.夫はバブラム・バッタライ同志
山の神パルバティ同志の夫は,人民評議会議長のバブラム・バッタライ同志。まだ2番手だが,山の神の夫は1番でなければならないから,姓名判断からすれば,いずれマオイスト内のシバ神の位置に就くに違いない。そうなれば,めでたく山の男神と女神がマオイスト軍団を統治することになる。

それはともかく,このマオイスト夫妻は,ともに超エリートで,マオイスト軍団の前衛指導者にふさわしい。バッタライ同志は,ゴルカの少年時代から他に並ぶものなき秀才で,インドで学び,ネルー大学博士号取得。パルバティ同志も,教育はほとんどインドで受け,さらにイギリス名門大学で修士号をとっている。夫妻とも,教育なきネパール貧困農民に「汝を知れ」と叱咤激励し,革命闘争へと導いていくに最適の知的エリートだ。

3.権力インテリの魅力
私は,個人的には,村のマオイスト諸氏よりも,権力的インテリ・マオイストの方に関心がある。村の農民マオイスト諸氏こそが,革命の原動力ではあろうが,ヘーゲル=マルクス流にいえばan sichマオイストであり,食指が動かない。

これに対し,インテリ・マオイストは,野心満々だったり,自己の原罪(インテリ,ブルジョア)のため怪しく屈折していたりしており,興味津々だ。人民戦争のような革命闘争は,実直な農民マオイストには指導できない。原罪意識にもかかわらず,いや原罪意識があるからこそ,自己否定と自己肯定のない交ぜになった欲望に突き動かされ,人民を駒として自在に使い,平然と前進することのできる権力インテリこそが,革命指導者にはふさわしい。

パルバティ同志も,きっとそのような野心家に違いない。ネパールに存在するらしいプロレタリア女性を踏み台にし,権力の座を虎視眈々とねらっている。これはまだ直感に過ぎないが,おそらくそうだろう。もしそうなら,山の神同志は,論じるに値する歴史的人物たりうる。ぜひ,そうあってほしい,

4.パルバティ同志の略歴
1959年
 カトマンズの有力ネワールの家に生まれる(ゴルカ郡生まれとの説もある)。父Dharma Ratna Yamiは元副大臣(1951年)。教育はほとんどインドで受ける。
1984-96年 プルチョーク・キャンパス(パタン)の工学講師
1993-95年 イギリスのNew Castle-Upon Tyneで建築学修士
(運動歴)
1978年 インドで学生運動を始める。
1981-82年 全印ネパール学生組合書記長
1983年 ネパール帰国
1985-87年 ネパール工学系組合会計
1995-97年 全ネパール女性組合(革命派)(ANWA-R)代表
1990年 逮捕。投獄20日間。
1995年 逮捕2回
1990年 「今年の女性」に選ばれる(Antarvastriya Manch)
2005年 「ネパールの女性10人」に選ばれる(Bimochan)
(現在)
ネパール共産党(マオイスト)政治局員
公共計画事業大臣(Minister of Physical Planning and Work)

(注)ヒシラ・ヤミは,出自から見ても「ネワール」だと思われるが,権威ある日本ネパール協会ホームページでは下記の通り「マガール」とされている。どちらが正しいのだろうか? ご存じの方,お教えください。

「ヒシラ ヤミ(Hisila Yami) バブラム・バッタライ氏(Bahun)の妻。マオイストの女性リーダー。Magar」(http://www.nichine.or.jp/20070401cabinet%20minister%20list.pdf

2007/07/01

キス禁止令,ネパール性タブーの逆襲

谷川昌幸(C)

AFP(6/30)によると,ダルバール広場保存計画委員会は6月28日,「宗教に対する尊厳」を理由に広場でのキス禁止警告を発した。

「宮殿や寺院で囲まれたダルバール広場では,カップルは抱き合ったりキスをすることは控えるべきだ。」

委員会は,禁止掲示を出したが,すぐはがされたので――

「やめさせるためにカップルの写真を撮り,公開することを計画している」

見よ,これぞネパール性タブーの神髄。48手どころか奇想天外なエゲツナイ性交像が無数に公開陳列されている寺院の軒下で,生身の男女がちょっとキスしただけで,「写真に撮り公開する」という。これは面白い。ぜひ,実行してもらいたい。

古来の神聖な性交彫刻を彫りつけた頬杖の1,2m下の壁面に,現代カップルのキス写真を展示公開する。これは見物だ。

な〜んだ,同じじゃないか! もっと派手にやろう。若者なら,きっとそう思うだろう。ヒンズー原理主義者たちが,イヤ,寺院の全裸男女性交像は神聖だが現代の着衣男女キスはワイセツだ,なんていってみても,まぁ,説得力はないだろう。アナクロ安倍首相の『美しい国へ』より少しましなくらいだ。

問題の核心は,性の神聖と性のワイセツの,この紙一重の差にある。一切を創造し,一切を破壊する神聖にして危険な性の二面性。文化は,結局,この性をいかに飼い慣らすかの試行錯誤の歴史といってよい。

西欧諸国は,処女崇拝という倒錯的性タブーを,金儲け(資本主義)を代替物にすることにより徐々に解除していった。性の魅力に対抗しうるのは,金と権力。いずれも被搾取者,被抑圧者が必要なので簡単ではないが,西欧諸国はそれらに成功。めでたく性タブーの解除に成功したのだ。

しかし,金も権力もまがいもの,真に価値あるものは何も創造しない。西欧も日本も性タブーの遺産を食いつぶし,「生きる力」を失い,早晩,衰退していくだろう。これは自業自得であり,仕方ない。

危ないのは,ネパール。神聖な性交像と猥褻なキスとの間の間一髪の差を,性タブー以外の何で埋めていくか? 金儲けも権力も,当面は望み薄。利用可能な代替物はない。それでも,先進諸国のワイセツ文化は容赦なく押し寄せてくる。どうするのか?

可能性大なのは,ヒンズー原理主義の復活。「ダルバール広場キス禁止令」はその手始めだ。

もう一つは,いわずとしれたマオイスト。革命戦争動員には,性抑圧は不可欠だから,どこの革命運動でも性規範は重視され,性取締機関が発達した。いまのところネパール・マオイストはヒンズー教性タブーに依存しており,本格的な性取締機関は設置していないようだ。しかし,今後急速に性タブーが弛緩していけば,必ず性道徳キャンペーンをはじめる。禁酒キャンペーンと同じことだ。同志が,恋愛沙汰や酒に惑わされたら,革命にならないからだ。

さて,ネパールはどうするか? 頬杖の神聖な性交像とその下の猥褻キス。あるいは,美術館・博物館展示の性交図と鑑賞する仲良し猥褻カップル。これは深刻な悲喜劇といわざるを得ないだろう。

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