ネパール評論 Nepal Review ネパール研究会 谷川研究室 Mail English  

●2007年6月   総覧(表示)
2007/06/28 比較性治学―ネパール・西欧・日本
2007/06/27 Mangal Dhoonに永遠を観る
2007/06/25 自由の代償
2007/06/24 国王とライジングネパール
2007/06/21 ブータン選挙のウラ事情
2007/06/18 宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』(9)
2007/06/17 奇妙なブータン選挙
2007/06/14 また改正,軽〜い憲法
2007/06/12 陸自の勇姿,スワヤンブーも見守る
2007/06/10 宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』(8)
2007/06/07 宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』(7)


2007/06/28

比較性治学―ネパール・西欧・日本

谷川昌幸(C)

性治学は政治学よりおもしろいが,学校で開講するとコワ〜イ保護者や文科省に叱られるので,ネット開講にとどめる。

1.ヒンズー教の神秘的性タブー
この4月15日,リチャード・ギアがエイズ撲滅キャンペーン会場でインド女優の頬にキスをして大問題になった。ヒンズー原理主義者を中心に,ヒンズーの性タブーを破ったとしてギアを糾弾し,「公然わいせつ罪」でインド地裁に逮捕状を発行させた。幸い,ギアは最高裁の差し止め命令で逮捕を免れたが,これによりインドの性タブーの厳しさが世界中に知れ渡った。

それにしても奇妙だ。あちこちの寺院や聖所に露骨な性交図,性交像が氾濫しているのに,たかが挨拶代わりのキスくらいで,どうして「公然わいせつ」となるのか? やはり,ヒンズー教独特の性タブーのせいといわざるを得ない。

こうした性タブーの健在は,ネパールの各HPをみても分かる。一時,かなりエロチックな映像が氾濫していたが,最近はほとんど見なくなった。日本よりはるかに健全だ。

これはマオイスト同志の力ではない。人民解放軍の30〜40%は女性兵士(女性解放万歳!)なのに,PLAが性解放区にならないのは,おそらくHPを自主規制させているのと同じヒンズー教性タブーのおかげであろう。

まったくもって神秘的。マヌ法典などで性的汚れをおそれ女児に幼児婚(8歳で結婚)を強制する一方,寺院などでは性器・性交の大公開。もしリチャード・ギアさんがそんな風景を見ていたのなら,「なんで挨拶キスくらいで!」とびっくり仰天したに違いない。

2.キリスト教の倒錯的処女崇拝
ヒンズー教原理主義は困ったものだが,それでもタブーさえ守れば,性を開けっぴろげに開陳してもよいというのは,まことに結構なことだ。

これに対し,トンデモナイのがキリスト教。性=罪であり,しかもそのすべての責任を女性になすりつけている。男性の一人として,男のあまりの意気地なさ,卑劣さに恥じ入るばかりだ。

キリスト教は,男神が世界を創造し,男神が全人類を救済するなどと威張っていながら,性=罪は全部女性に押しつける女々しい宗教だ。

むろんキリスト教は大宗教であり,膨大な神学の蓄積がある。だから,こんな悪口を論破する理論は,当然,用意されているに違いない。この程度の悪口で怒るほど,キリスト教は柔な宗教ではない。それを前提に言うのだが,やはり父=息子の宗教は女々しい。

この思いは,甚野尚志『中世ヨーロッパの社会観』(講談社学術文庫,2007)を読んで,ますます強くなった。この本は,1992年に出版された本の文庫版。たいへん面白い。傑作だ。そのなかで,う〜んとうなり絶句したのが,キリスト教会愛用の蜜蜂の隠喩だ。

著者によると,中世において,蜜蜂の蜜は貴重な甘味料であり,蜜ロウは教会祭壇のロウソクとして使用された。そして,王蜂を中心とする蜜蜂の調和的分業秩序は,あるべき人間社会の隠喩として盛んに使用された。

中世キリスト教会の蜜蜂隠喩のタネ本は,古代ローマのウェルギリウスの『農耕詩』らしい。

「ある者は食料を集めることを任務とし,野外で働く。
 またある者は家の敷地の内にあって,
 水仙の涙と,樹皮から集めた粘り気のある樹脂で
 巣の最初の土台を作り,続いて,ねっとりとした蜜ロウの壁を取りつける。
 ある者は民族の希望たる若者を外へ連れ出し,
 またある者は,いとも純粋な蜜を濃縮して,
 澄明な蜂蜜を巣房に満たす。/

 彼らは交尾にふけることなく,その体が,愛の悦楽のために,
 柔弱になることもなく,子を得るにも生みの苦しみがない。
 彼らは木の葉や柔らかな草から,[交尾することなく]子供たちを
 口に拾い集め,世継ぎの王と,小さな市民たちを補充する。」(邦訳p338-342,本書p36-38)

著者は,この部分について,こう解説している。「ここで語られている,蜜蜂が交尾することなく,子供を増やしていくという説明は,のちにキリスト教神学のなかで,蜜蜂が清らかな処女であり続けながら生殖を行うという観念を生み出し,教会の聖なる構成員と蜜蜂を比較する議論として展開していくことになった」(p38)。

この蜜蜂の隠喩は,「ゲラシウスの式文」(6世紀)に取り入れられた。

「我々はこの素材[ロウソク]の由来を賛嘆しながら,蜜蜂を称賛しなければならない。蜜蜂は生活において質素である。その生殖は貞潔である。彼らは液状のロウから確固とした蜜房を作る。それは人間がまねできないものである。彼らは花のなかを飛ぶが,花を損なわない。彼らは子を生まず,口で子孫を拾い集めることにより,群れを生み出す。それはちょうど,キリストが父の口から生まれ出たのと同じである。彼らは処女性を保ち,受胎することなく子を生む。彼らのキリスト教的な敬虔さは疑いえない。」(本書,p51)

そして,これが12世紀の中世盛期に引き継がれる。

「ロウソクの光は処女から生まれたキリストを表している。このように生まれたキリストは,正しい心にとっての光である。ロウはマリアの処女性を示す。処女とはロウを作り,性交なしに子を生む蜜蜂である。……ロウは処女の形相をもつ。(ラヴァルダンのヒルデンベルロゥス,本書p55)

「ロウソクはキリストであり,ロウソクにおいて三つのものがある。それはロウ,燈心,炎である。ロウは性交によって作られるのではなく,さまざまな魅力的な花から集められる。そしてこれが,燈心の回りにおかれる。燈心は火がつけられると明るく輝く。ロウはその肉である。それは聖なる聖霊の業によって,性交を伴わずに処女により受胎されたものである。燈心はロウで覆われている。そのようにキリストの魂は,肉によって覆われている。それにより輝く炎は,神性それ自体である。」(サン=ヴィクトルのフーゴー,本書p55)

このようなキリスト教のマリア=処女=聖女崇拝は,処女たりえない大多数の女性を蔑視し,抑圧するための根拠となり,またそれは男性のゆがんだ女性呪詛,性倒錯の表現でもある。

このキリスト教の性=罪,処女=聖といった倒錯した不健全な性文化から見ると,ヒンズー教の性文化は,はるかにまともで健全である。

3.日本のおおらかな性文化
では,日本はどうか。この方面の知識は皆無に近いが,たまたま岩波書店(「岩」のようにお堅い出版社)の『図書』6月号を見ていたら,四方田犬彦「日本の書物への感謝18『天地始之事』」という短い連載のなかの面白い文章が目についた。

それによると,来日したカトリック宣教師たちが苦労したのがキリスト教特有の観念の翻訳。神,天使,恩寵などは翻訳をあきらめ原語をそのまま使わざるを得なかった。

「とはいえ説明に困難なのが,virgemというポルトガル語であったことは,想像がつく。フロイスが『日本覚書』のなかで嘆いているように,当時の日本人は未婚女性の処女性なるものにいささかも価値を置いていなかった。そのためvirgemなる単語のもつ神聖さに対応する日本語を宣教師たちは発見できず,マリアは翻訳不可能なまま「ビルゼン」と記されることになった。」(p55)

当時の日本庶民はキリスト教の処女崇拝とは対極の女性観,男女関係観をもっていたようだ。だから日本庶民はフリーセックスだったというのはいささか飛躍だが,キリスト教はいうまでもなく,ヒンズー教よりも日本庶民文化は男女関係についておおらかだったとはいえるだろう。

幸い,日本性治学の蓄積もスゴイとのこと。比較性治学のため,この方面の勉強もしたいと思っている。

2007/06/26

Mangal Dhoonに永遠を観る

谷川昌幸(C)

ネパール音楽は興味深い。オリジナルか外来か,民謡か宗教音楽か,古典か新曲か,慶事用か弔事用か,そんな初歩的なことさえ知らなくても,なんら音楽を楽しむ妨げとはならない。

昔々,夏のある日,カトマンズのどこかで耳にした曲がずっと気になっていた。最近,それがどうやらMangal Dhoonという曲らしいということが分かった。ネパール通には周知の曲だろうが,音楽に疎い私には,Mangal Dhoonが祝祭音楽を指す一般名詞かその曲の固有名詞なのかもよく分からない。ここでは,とりあえずMangal Dhoonと呼んでおく。

この曲は,主旋律は極めて単純,一度聴いたらすぐ覚え,口ずさむことができる。

ところが,あの夏の日の演奏は,その単純なメロディが微妙に変奏され,いつまでも,どこまでも続いていった。荘厳で軽快,明るく華やかで悲愴,権威的で庶民的,精神的で世俗的。ヘタウマの極致か,天使の戯れか。単純にして複雑,今にして永遠。異国の夏のけだるさの中でMangal Dhoonに永遠を観た(ように感じた)。

これは過去を理想化しているのかもしれない。過去はいま創られる。残念ながら,永遠に誘うようなMangal Dhoonは,その後,一度も聴いていないからだ。

一にして多,今にして永遠の神との融合がなければ,あのような神がかり的演奏はできないのかもしれない。

音楽を0と1に分解するデジタル録音Mangal Dhoonは,合理的(雑音なし)かつ民主的(どの曲も0と1)であり,理論的には永久かつ無限再生可能だ。が,そこには神の神秘も自由もない。デジタルMangal Dhoonを何万回聴こうが,神の永遠を観ることはできない。

2007/06/25

自由の代償

谷川昌幸(C)

権力はしたたかであり,しばしば,人民の要求を逆手にとって支配強化する。日本の年金問題も,用心しないと危ない。6月10日,私はこう書いた(少々長いが関連部分を抜粋)――

■年金通算の合理性か 痩せ我慢の美学か
デニズン,特に二重国籍は面白い。たとえば,日本とネパールが二重国籍になれば,交通が自由となり,市民には国家選択の自由が生まれる。ネパールは地理的にも経済的にも難しいとしても,韓国となら,できそうな気がする。九州からは東京より韓国の方がはるかに近いから,九州=韓国共同体がすぐにでも形成されるに違いない。

そうなれば,年金の通算も必要になる。知り合いの在日外国人は,いつ他国勤務となるかわからないからとアメリカの保険会社の個人年金に加入している。通算が制度化されれば,諸国政府が連帯して個人年金を保障することになる。これは面白い。

しかし,これには別の側面もある。国家あるいは超国家機構による管理強化,背番号制だ

実は,私の場合も,3年間ほどの国民年金加入不明期間がある。納付しているはずなのに,記録がない。20代前半,住所不定,不規則労働で,大阪どん底生活をしていた。釜が崎(実態隠蔽言い換え地名「愛隣地区」)の端っこの方も知っている。食パンの耳をかじりながら何とか生きのび,やっと定職に就いた。その間の年金納付記録がない。親不孝息子でも野垂れ死には忍びないと,いまは亡き父が納付しつづけてくれていたのだ。こら!,社会保険庁,どうしてくれるのだ。40年も前の領収書などあるはずがない。霊媒師に頼んであの世の父を証言台に立たせようか。

ここで困った選択を強いられる。社会保険庁のずさんな年金管理体制に対し,いますさまじい猛攻撃が起こっている。一億火の玉になって怒り狂い,社会保険庁をつるし上げ,責任追求をしている。私自身被害者だから,その怒りはよくわかるが,実は政府は内心ではこの事態にほくそ笑み,チャンス到来と大喜びしているはずだ。国民一人一人の一生がかかっている,絶対間違いの無いようにしっかりやれ,そう世論が一致して要求すれば,政府は待っていましたとばかり,喜び勇んでやるに違いない。国民に背番号を振り,一元管理する。そうすれば合理的であり,万が一にも間違いは生じない。

すでに年金番号はあるが,これはまだ不合理・不完全。私自身の共済年金も,問い合わせをしているのに,3カ月たっても加入期間がわからない。40年前の真面目な地方公務員時代の納付記録が消えているかもしれない。国民年金が消え,地共済年金まで消えた? こら!,公務員共済組合,一体どうしてくれるのだ。

こんなていたらくだから,絶対間違いの無いように国民総背番号制にし,国家が一元管理せよ,という要求が出るのも分からぬではない。しかし,である。ここはぐっと我慢。 自由は,実はこんな非合理とともにある。年金くらいもらえなくても,自由があればよい。大いなる痩せ我慢! カッコよい。が,そうはいっても,やはり年金は欲しい。

こうして結局は政府に対し行政の合理化を要求することになる。それは,先述の通り官僚制化の要求であり,安全だが自由なき鉄の檻への道だ。

年金の国際的通算とは,この合理化・官僚制化を超国家的レベルでやることに他ならない。通信技術の発達で,やろうと思えばこれはすぐにでもできる。世界中どこにいっても個人識別番号で,その経歴が全部瞬時にして分かる。便利,安全,確実には違いないが,人は本当にそんな世界に住みたいと思うだろうか?

EUは地域内に怪しげな前近代的伝統を無数にもっている。イギリス上院など,非合理のデパートだ。ネパールの合理的共和制論者が見たら卒倒するに違いない。だから,皮肉なことに,EUは年金通算などで統治を少々合理化,近代化しても大丈夫だ。

危ないのは,アメリカや日本,そして途上国だ。ヨーロッパは,非合理なもの,前近代的なものと数百年にわたって真剣勝負をし,そして,その結果,それらの存在意義を理解し扱い方にもかなり習熟してきた。安全と自由,合理的効率と自由のギリギリの二者択一を迫られたら,自由をとるのがヨーロッパだ。残念ながら,アメリカや日本,そして途上国には,まだそのような成熟した自由の伝統はない。 

――朝日記事(6/23)によれば,政府・与党は年金・健保等を住基ネットと統合した「社会保障カード」の検討を始めた。私が危惧していた国民総背番号制だ。これは合理的な反面,自由にとっては極めて危険だ。

ここで私たちは合理性・安全か自由かの選択を迫られる。自由の代償というリアルな政治認識だ。

同じことが,people's powerについてもいえる。人民権力,人民意思つまり民主主義は,「危険物につき取扱注意」であり,つねにその代償を考えるリアルな政治認識が求められる。政治においても,「タダほど高いものはない」。

2007/06/24

国王とライジングネパール

谷川昌幸(C)
ライジングネパールが,まだ王制で頑張っている。
  国家元首=ギャネンドラ国王
  国歌=国王賛歌
  国教=ヒンズー教
以前にも指摘したように,国名は変えてある。目立つページだから,99%更新忘れではない。故意に違いないが,とすると,誰がこんな事をしているのだろう。まだ確定していないから,もとのままという論理かな? 摩訶不思議。
2007/06/21

ブータン選挙のウラ事情

谷川昌幸(C)

妙だと思っていたら,やはりブータン模擬総選挙にはこんなウラ事情があるようだ。

朝日記事(6/21)によると,ブータンも急激にグローバル経済に引き込まれつつある。インド資本,インド技術でティンプーに巨大コールセンターを建設し,アメリカ企業の下請けをするという。では,なぜこれが選挙か?

ブータンは「国民総幸福」が示すように,全人格的人間関係の下での仕事が中心だった。意思決定もそれを前提に行われており,これこそが本物の日常的政治参加だ。民主主義としては,これの方が断然優れている。

ところが,こんな全人格的人間関係を維持されては,グローバル資本主義は儲けようがない。そこで資本主義の常套手段である人格解体をはじめたのだ。

コールセンターのオペレーター(何たる植民地的表現か!)は,応答機械であり,温かい人格的関係は不要というより邪魔だ。オペレーターとして働くには,日常的人間関係を切断し,機械を相手に顧客と応答する孤独な近代人が必要だ。お茶を飲みワイワイ,ガヤガヤ,共同体的楽しみにふけっていては,仕事にならない。そこで,選挙だ。

選挙は,最終的には個人の意志で投票先を決める。共同体的意思決定の原理的否定だ。

そしてそれと同時に,選挙は,コールセンターのような近代的産業により人格解体され,赤の他人の集合になり始めたブータンの人々を,国家支配の下に引きとめるための疑似社会構成手段だ。

民主的選挙は,伝統的共同体をバラバラに解体し,ハゲタカ資本のエサとし,それに文句を言わせないための詐術にほかならない。

選挙民主主義が共同体的寄合民主主義より優れているなどということは絶対にない。ハゲタカ御用知識人の巧言令色に乗せられ,模擬政党,模擬投票(しかも電子投票!)などといったバカなことをするのは,止めた方がよい。

それでも,グローバル市場化が押し寄せてきたら・・・・。どうするか? どうしたらよいのだろう?

*小暮哲夫「ヒマラヤから答えます 英語コールセンター ブータンに開設準備」朝日新聞,2007.6.21

2007/06/18

宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』(9)

谷川昌幸(C)

]I 「第7章 家族,ジェンダー平等」について

1.私的領域の多様性を認めるシティズンシップへ
ヨーロッパのシティズンシップは,ジェンダー差別撤廃や家族の多様性容認によっても,促進されている。では,なぜジェンダーや家族のあり方がシティズンシップの問題になるのか。本書によれば――

「これまで『市民』とは,政治的意味での主権の行使と結びつけられてきた。しかし政治的に主権行使者である市民が,『私的』領域で自分のアイデンティティ,ライフスタイル,文化選択,さらには性的指向のために,社会的権利の行使が妨げられるとする。そのような個人が数の上でも無視できないものになり,その要求が切実なものとなれば,『私的』である問題も公的な場で解決されなければならなくなる」(p149)。

この点について,先進的であったのは北欧,これに対し遅れていたのがフランスやスイスであった。たとえば――

・スイス=女性参政権,1974年から。
・フランス=女性参政権,1944年から。
      夫の許可なく就職あるいは銀行口座開設が可能,1965年から。
      パリ証券取引所への入場が可能,1967年から。

そこで,フランスでもジェンダー差別を撤廃し家族の多様性を容認し,シティズンシップを拡大していくための努力がなされてきた。

2.民事連帯法(1999)
「法的な婚姻関係にないが共同生活を営む二人の異性または同性に,法的婚姻状態にあるカップルと同等の権利を認めるというもの」(p148)。

この民事連帯契約が認められると,事実婚夫婦でも同性結婚でも,税法(控除,相続等),社会保障,住宅,国籍取得など,多くの権利が一般の夫婦と同等に認められる。

同性カップルは,デンマーク,ノルウェー,スウェーデン,オランダ,ベルギー,フィンランド,ドイツではすでに認められていた。フランスもそれにならうことになったのだ。そしてEU議会も2003年年次報告で,すべての同性愛者が結婚と養子の権利を認められるべきだと述べた(p165)。

3.男女同数制(パリティ)
1999年,フランス憲法に「議員の職,および選挙に基づく公職への女性と男性の均等な接近を,法律によって促進する」という条項(第3条5)が追加された。

もともとフランスの女性議員は少なく,国民議会(下院)10.9%(1997),元老院(上院)5.6%(1997)であった。そこでパリティが導入され,2001年3月の比例制の地方選(候補者リストは男女同数とする)から実施されることになったのである。ただし国民議会は小選挙区制なので対象外である(p156)。

しかし,このパリティに対しては,「フランス国民の一体不可分」の大原則に反するとして反対も強く,憲法院も違憲判決を出していた。その結果,憲法そのものが改正されることになったが,国民をすべて「平等」に扱うか,それとも男女のような区別や層別を設け特別な扱いをするかは,原理的な問題として残っている(p160)。

しかし,全体的な方向としては,EUではジェンダー差別の撤廃,家族の多様なあり方の容認の方向にむけてシティズンシップが拡大されてきたことは確かである。

]II 「第8章 逆風とチャレンジ」について

著者によると,ヨーロッパでは1990年代にナショナル・マイノリティやEU諸国出身移民との共生が進み,排斥の動きは見られなくなったが,非西欧移民・難民の敵視は続き,また多文化主義政策も逆風にさらされるようになった(p168)。

1.イギリス
イギリスではサッチャー時代(1979-90)にイングランド中心主義をとり,1983年「国籍法」を施行した。
 イギリス人=(1)イギリス市民・・・正規のシティズンシップ
       (2)イギリス領民
       (3)イギリス海外市民
これは,有色移民制限が目的であり,「制度レイシズム」と批判された。

ブレア政権(1997-)になって,「スコットランド議会」「ウェールズ議会」が設置され,自治が拡大。しかし,今後の政権がどの方向に向かうかは,予断を許さない。

2.フランス
ジョクス法(1991)でコルシカの自治権の強化を図ったが,第1条の「フランス人民の構成要素たるコルシカ人民」が問題にされ,憲法院は,「フランス人民は単一不可分」を理由に違憲と判決。フランスでは,複数制,多様性の扱いが依然として問題となっている(p172)。

また,1992年には,「共和国の言語はフランス語である」を憲法に追加。これは「地域言語,マイノリティ言語欧州憲章」(1992)と対立する。ジョスパン政府は,1999年,留保をつけ,この憲章に署名。

これに対し,フランス憲法院は,フランス人民の単一性の原則は集団的権利の承認とは相容れない,憲法のフランス語公用語規定にも反する,としてこの欧州憲章条項を憲法違反と判定した(p173)。

これは国家をどう見るかの原理的対立であり,決着は容易ではない。

3.ドイツ
ドイツは難民増加に対し,ネオナチなどが移民排斥を煽り,政府も受け入れに慎重になってきた。

1993年「基本法」が改正され,「迫害のない国」から来た者,「安全な第3国」経由の者には庇護権を認めないことになった。また,本人が迫害の事実を示さなければ,庇護申し立てはできない。これにより,庇護申し立ては,前年比40%にまで激減した(p176-177)。

4.反移民右派政党の台頭
国民戦線(FN)=欧州議会選挙で11%得票(1984),ドゥルー市議選で17%得票(1983)
        大統領選でルペン党首が第2位(2002)
共和党(ドイツ)=西ベルリン市議選で7.5%得票(1989)
フランデレン連合(ベルギー)=総選挙で10%得票(1991)
自由党(オーストリア)=ハイダー党首,移民規制
フォルタウィン党(オランダ)=イスラム系移民排斥
人民党(デンマーク)=右翼政党
自由党(スウェーデン)=移民の統合

5.世論の右傾化
世論も,失業などを背景に,移民や外国人参政権について否定的になりつつある。オランダでは,「移民政策」(1989)が多文化主義政策を批判し,オランダ語優位で社会統合を進めよと提言。ドイツでは,二重国籍容認から否定に転換。外国人参政権要求は後退し,帰化(国籍取得)モデルになった。このように,移民問題がいつまでも問題になるのはなぜか。

「移民たちはすでに二世,三世の時代になっても失業,言語的不自由,学校のドロップアウトなど社会参加が困難な状況にあり,それが彼らの怠惰や依存心の問題とされる。くわえて,EU拡大を控え,東方から大量の移民(中国人なども含め)がやってくると報道される。「9・11テロ」が,移民の扱いに影響したことも否定できず,殊にイスラームとみられる移民への規制強化をいう声の前に,人権への配慮を訴える声は時にかき消されがちである。」(p189)

――以上のように,ヨーロッパでは,多文化主義によるシティズンシップ拡大の動きと,それに対する反対の動きがせめぎ合っている。これは,公的領域と私的領域の関係,あるいは個人―諸集団―自治体―国家―EUの相互関係の問題であり,容易に決着がつくはずはない。大勢として多文化共生シティズンシップに向かっていることは間違いないが,試行錯誤はなお続くであろう。

]III 「エピローグ」について

最後のエピローグでは,本書全体の内容が要約されている。簡潔な文章なので,要点をそのまま引用し,もう一度本書の議論を確認しておきたい。

「ヨーロッパでは,「国民国家」のあり方への問い直しが他の世界でも例がないほど自覚的に行なわれ,政治的分権化,文化的多元化,そして国家を超える新しいコミュニティが追求されている。・・・・

過去への反省と思想的伝統との関連で,人権はつねに重みをもっている。・・・・ヨーロッパ人権条約などが象徴的であり,人権,人道の原理が,しばしば制定法に優先し,難民受け入れや「不法」滞在者の正規化に示されてきた。

以上とならんで,国籍の相対化が,シティズンシップの意味を変えてきた。それぞれの歴史的事情から出生地主義や重国籍を容認してきた国,外国人労働者の定住化をうけて新たに出生地主義を加味するにいたった国などがある。定住の権利,社会的諸権利を承認し,それに国籍法も合わせようというものである。

さらに,文化的多様性の感覚も注目される。1960年代以降の分権化と,ヨーロッパ統合がこれを促進し,この感覚は市民にも浸透している。国民文化の次元はあいかわらず強く,逆に「ヨーロッパ」の文化次元はまだ暖昧ではあるが,地域・民族の次元は重要性もつようになっている。・・・・

この多様性の容認は「マイノリティの権利」を認めることにも通じる。主流文化に対し,そうでない文化の存在がみとめられるとき,後者の権利への顧慮が働く。その権利を具体化する際には,マイノリティ集団の権利ではなく,マイノリティに属する人々の権利として認められるのが一般的で,個人主義を重んじるヨーロッパらしい方向づけである。しかし彼らのこうむっている不利が構造的であるとき,状況を変え平等に近づけるのに,集団またはカテゴリーとしての権利を認める例もある。

そして,シティズンシップの行使の身近な場としての地域,自治体の役割,およびエンパワーメント施策の必要についても確認してきた。」(傍点略,p193-194)

]W おわりに

以上,宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』を最初から最後までかなり詳しく読んできた。

私は,一度もヨーロッパ大陸にいったことはなく,またEUを研究しているわけでもない。この本を大変興味深く読ませていただいたが,誤読や誤解があるかもしれない。それは,もちろんすべて私の責任である。

また,本書を読みながら,随所で私自身の自由な感想を述べた。私の文章や意見はできる限り区別したつもりだが,あいまいな部分があるかもしれない。あまりよい読者とはいえず,この点でも著者にお詫びしたい。

本書からは多くのことを学ばせていただいた。著者には他にも『文化と不平等』『一つのヨーロッパ,いくつものヨーロッパ』などの著書がある。それらも機会があれば読ませていただきたいと思っている。

2007/06/17

奇妙なブータン選挙

谷川昌幸(C)

ブータンで5月28日,模擬総選挙が行われた。朝日新聞(6/15)が大きく報道している。妙な選挙,妙な報道だ。

1.敬愛される国王
朝日記事によると,ブータン国王は前国王(1972-2006),現国王(2006−)とも近代化,民主化を自ら主導してきた。

前国王は,首相1年交代制,国民議会(国民代表+政府代表+僧侶)の国王解任権,成文憲法案作成(2005,制定予定2008),「国民総幸福(GNH)」の提唱,森林保全・伝統文化重視の経済成長等を実現または推進し,現国王もこれを継承されている。国民に敬愛される開明的啓蒙君主といえる。

2.ブータン憲法案
2005年作成のブータン憲法案(2008年制定・施行予定)は,次のような構成になっている。

(1)立憲君主制。国王は65歳停年。国会決議と国民投票により,国王は解任できる。
(2)議会
  国民評議会(上院)=定数25。国王指名5,選挙20
  国民議会(下院)=定数47。小選挙区制

(3)森林保全。国土の60%を森林とする。

3.選挙制度
前国王を継承した現国王は,2008年に憲法を制定し,初の総選挙を実施する予定だ。選挙方法は――

 (1)第1回投票=政党投票により上位2政党選出
 (2)第2回投票=上位2政党の小選挙区候補に投票
 (3)選挙権=18歳以上,約40万人

4.模擬総選挙
この選挙制度の第2回投票を想定した模擬総選挙が先述の通り5月28日実施された。

【仮想模擬政党】
 黄色党=伝統文化継承(黄色は国王の色)
 赤色党=産業育成重視

この2党に対し,電子投票で投票し,国営テレビが中継,開票速報を流した。結果は,黄色党が46議席をとり,圧勝。

5.政党禁止の解除
来年の選挙に向け,禁止されていた政党が許可され,7月から登録が始まる。4党が設立準備中という。

6.成文憲法崇拝
さて,以上のように見てくると,こりゃぁ変だ,と誰もが思うだろう。誰が,こんなバカなことをやらせているのか? ブータン版鹿鳴館!

ブータンは一つのまとまった政治社会であり,不文憲法は当然もっている。一般に,成文憲法は,共同体が崩壊し,人間不信から紛争が多発し,どうにもならなくなったとき,やむなくつくられる人間不信文書。そんな成文憲法をありがたがるのは,文字フェチだ。

言葉の本質は話し言葉にある。話し言葉は話す人すべてが共有し,ここでは万人が参加し平等。ところが,書き言葉となると,文法とそれに基づく正誤が生まれ,文法制定者・解釈者・施行者が生まれる。そぅ,権威的支配の誕生だ。

全員参加・平等の不文憲法と,権威的支配の体系たる成文憲法。立派なのはむろん不文憲法だ。不文憲法の方が断然優れているのに,なぜブータンは成文憲法を作ろうとしているのか?

7.政党制
政党制も同じこと。どんな社会でも気のあった人々が集まり,集団を創る。伝統的社会では人間関係が全人格的だから,集団も全人格的調整を経て自然に形成される。

ところが,政党は,原理を同じくする人々の集まりだ。バラバラに人格解体された人間が,ある一つの目的のもとに集まり,行動する。投機家が一攫千金のため団結し行動する投機組合と同じことだ。こんなもの,全人格的伝統的集団よりはるかに不完全なものだ。

それなのに,わざわざ政党を作らせ,政党政治にするという。
  チベット系=60%,ネパール系20%
  チベット仏教=70%,ヒンドゥー教=25%

そうなれば,各民族,各宗教が自らのアイデンティティを探し,でっち上げ,それを原理として政党を作ろうとするだろう。アイデンティティ政治が始まる!

民主主義の本家ルソーは,政党があると,民主主義は機能しないといっている。アイデンティティ政治は民主主義ではない。

8.選挙
そして,極めつけが選挙。選挙は,人間不信の最たるもので,こんなもの本来は民主主義とは無関係だ。

共同体が崩壊し,隣人ですら信用できなくなってしまったとき,つまり人が自分だけしか信用せず,隣人と話し合いで解決できなくなったとき,殺し合うよりましだとして仕方なく採用したのが選挙だ。選挙は非倫理的な利己的人間の卑しい制度だ。恥ずかしくて人様に見せられないから,秘密投票にもするのだ。

共同体の意思決定へは,伝統的社会の方が,はるかによく参加している。人々は,共同体の事柄に日常的に参加し,意見を述べ,そこには女性も加わり,決定する。たとえば,伝統的社会の水利権,入会権などには,実に公平でよく考えられたものが多い。

ギリシャ民主制においても,選挙は民主主義の制度ではなく,むしろエリート支配の道具として非難されていた。

9.米印の陰謀
ブータンに,こんな人間不信の成文憲法,政党,選挙を強制しようとしているのは,ブータンを資本主義に引き込み,一儲けしようとたくらんでいる米印政財界と,そのお先棒担ぎ知識人に違いない。

2008年に成文憲法が制定され総選挙が行われるなら,ブータンはまず間違いなくネパール化する。民族,宗教や諸階層が自己の個別アイデンティティをでっち上げ,相互に敵対をはじめる。そんな社会へブータンはなぜ向かおうとしているのか?

10.国王の苦渋の選択
朝日記事によれば,ブータンの前国王,現国王は国民に敬愛される賢明な啓蒙君主だという。そんな賢明な国王が,率先して産業化,近代化,民主化に取り組んでおられるのであれば,これはよく考えた上での国王の選択であるに違いない。

ブータン国民は,伝統的な社会で幸福に生活してきて,これからもそれを維持したいと願っている。しかし,賢明な国王はおそらく,ひたひたと押し寄せるグローバル化の波をもはや阻止しきれず,早晩ブータンもネパールと同じくグローバル市場経済の中に本格的に組み込まれ,急激な資本主義化を迫られると観念されたのだろう。

ブータンの「国民総幸福」は世界最高水準だ。これをねらって,いま先進国のハゲタカ資本,ハゲタカ知識人が押し寄せてきている。このままではブータンは大混乱となり,国民はいいように食い物にされるだけだ。それはしのびない。近代化,成文憲法,政党,選挙民主主義などはくだらぬものだが,いまのうちに敵の非人間的だが効率的ではある武器を自分たちも使えるようにしておかないと,国も国民も滅びてしまう。選挙民主主義にすれば,アイデンティティ政治が猖獗を極め,王制は倒されるかもしれない。ネパールのように。しかし,それでもブータン国民のために,近代化,民主化の道を行かざるを得ない。国王の屍を踏み越えて。

エライ! これぞ本物の愛国王。心配なのは,崇高なブータン愛国王の願いを,品性下劣なグローバル資本家やお先棒担ぎ知識人どもが歯牙にもかけず,泥靴で踏みにじってしまうことだ。彼らは,成文憲法,政党選挙,民族自治などを巧妙に利用し,「21世紀型帝国支配」の便利な道具として利用する。彼らには,敵の武器すら利用せざるを得ないブータン国王の苦悩はおよそ理解できないであろう。良識はたいてい悪意に敗れる。残念ながら。

*小暮哲夫「王室主導 挑む民主化 ブータン,来年に初の総選挙」,『朝日新聞』2007年6月15日

2007/06/14

また改正,かる〜い憲法

谷川昌幸(C)

また憲法改正。鴻毛の如く軽〜い憲法。施行5カ月で2回目。こんなものは正しくは「憲法」とはいわない。

恥ずかしながら日本人はアメリカ押しつけ天皇制憲法を60年にわたって護持してきた。いきさつはどうであれ,正式の手続(帝国議会の議決,天皇の裁可)により制定された正式憲法だからだ。自分が決めたことは守る。それが国民としての誇りであり,だから私も護憲のため,「自衛隊ネパール派遣反対!」などと叫んでいるのだ。

ネパール憲法も,暫定とはいえ憲法だ。議会の全会一致で制定したものを,同じ議会が,コロコロ変えてどうする。こんな議会は何を決めても信用されない。共和制も民主制もあったものではない。人々の安全の根底にある法の予測可能性が崩壊しているのだ。

革命(クーデター)は例外状況であり,憲法は無視される。それは仕方ない。しかし,例外状況は例外だから許されるのであって,それが常態化してしまえば,結局は,力を持つものが勝つ。法は弱者,少数者の味方だからだ。

■第1次改正 2007年3月7日(制定54日後)
第33条(D)諸階層,諸民族等を国家の全領域に比例制により参加させる。
第138条 国家は連邦制とする。

■第2次改正 2007年6月13日(制定149日後)
・国会の三分の二の多数により王制を廃止できる。
・国会の三分の二の多数により首相を解任できる。
・最高裁判事および大使の任命については,議会が聴聞できる。
・人民運動弾圧者は被選挙権なし。

* eKantipur, 6 Jul. 2007
* AllHeadlinenews, 9 Mar. 2007

2007/06/12

陸自の勇姿,スワヤンブーも見守る

谷川昌幸(C)

出た! これぞ陸自の勇姿。スワヤンブー寺院の下の「毛派キャンプ」(こんなところに!?)で小銃の虫干し。背後からやさしく見守る仏陀の目。帝国陸軍バンザイ!

お国のために酷暑の秘境で任務についておられるのは――
  石橋克伸・2陸佐  軍事監視要員 隊長
  山本 豊・3陸佐  軍事監視要員
  稲田雅士・3陸佐  軍事監視要員
  小沢謙雄・3陸佐  軍事監視要員
  坂 英樹・1陸尉  軍事監視要員
  鬼東直亨・1陸尉  軍事監視要員

  五十嵐淳・2陸佐  連絡調整員
    (他4人)

ネパール観光のついでに,戦地慰問に行こう。スワヤンブーのすぐ下だから,簡単。女子学生大歓迎だ,たぶん。サインをいただいちゃおう。

スワヤンブーが出たら,つぎはきっとゾウだな。ゾウに乗り密林を行くわが陸自兵! カッコよい。

秋になったら,もちろんヒマラヤ。絶対出るぞ。銃後の一億国民が戦果を首を長くして待っている。ヒマラヤバックの陸自兵! もう完璧。これで海外派兵に反対するようなヤツは,非国民だ。

戦地の兵隊さんは大変だ。天幕内は50度になるそうだ。でも,ぼくちゃん,すぐ司令部に帰れるもんね。

マオイスト君は,恐い戦闘員じゃないしね。戦時国際法ではテッポウをもっていないような連中は「戦闘員」ではない。銃はたったの3475丁。その虫干しが仕事だもんね。あ〜ぁ,忙しい。

ここはお国を何千里,兵隊さん,暑い中をご苦労様で〜す。

*『朝雲新聞』6月7日

2007/06/10

宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』(8)

谷川昌幸(C)

] 「第5章 EUシティズンシップの理想と現実/第6章 移民とローカル・シティズンシップ」について

■(テキストの前に)EUの帝国化とアナクロ安倍首相
EUは近代国民国家を乗り越えようとする壮大な試みであり,そこには多くの試行錯誤があるのはいうまでもない。それはある意味では古代「帝国」あるいは中世「キリスト教有機体」の復興であり,未来のグローバル「帝国」(ネグリ),「世界市民」の先駆でもある。アメリカはもともと国家連合(United States)であったし,ヨーロッパのEU化が進行すれば,いずれ東アジア連合,南アジア連合も現実化し,国際連合(United Nations,諸国民連合)がそれら全体を治めるグローバル統治機関として存在感を高めていくだろう。

安倍首相のようなアナクロ・ロマン主義者がいくら国粋ナショナリズムを唱えようが,これはナイーブな21世紀のドンキホーテ,グローバル帝国化の風車に跳ね飛ばされるだけだ。ドンキホーテのように一人で風車に突撃するとロマンチックでカッコよいが,二流ロマン主義者は他人まで道連れにしようとする。カッコよいと思っているのは本人と取り巻きだけで,はた迷惑,ロマンも何もあったものではない。

安倍首相の大嫌いな進駐軍押しつけ憲法には「国籍を離脱する自由」(第22条)が保障されている。安倍ドンキホーテ首相が改憲し日本人を日本国家に縛り付ける前に(もちろん徴兵のため),さっさと国外脱出,EU市民にでもなってしまおう。

そもそも日本人を日本国家に縛り付け,一億火の玉,グローバル化の風車に突撃させようという発想が幼稚だ。本物のロマン主義は,本来,個人的,革命的なもので,群れて右往左往し,破滅に向かうようなものではない。安倍首相の惨めな駄作『美しい国へ』については,拙論参照。

安倍首相のアナクロ国粋主義は全くの観念論であり,日本人に多少とも理性が残っておれば,いずれ正道に戻るはずだが,世界のグローバル化の方はそうはいきそうにない。世界が匿名帝国権力への隷従に向かうか,それともネグリが望むようなマルチチュード(民衆)の自由な連帯に向かうか。

EUは,現代のこの根源的な問題を考えるために不可欠の先駆的な試行事例といってもよい。そして,一周遅れの先頭を行くネパールも,一周遅れを自覚しておれば,この世界史的課題に大きく寄与し,一周遅れを一気に挽回し,先頭集団に追いつけるかもしれない。頑張れ,ネパール!

と,またまた前置きが長くなってしまった。以下,第5,6章によりEUシティズンシップの現状を見ていくことにしよう。

1.連合市民権
本書によれば,EU域内では,国家の枠を超えたものが多数ある(p106-117)。
 (a)タリス(高速鉄道)=仏,蘭,独,ベルギー共同出資。パリ―ブルッセル―オステンデ―アムステルダム―ケルン。
 (b)ユーロクラット=EU公務員

EUには,EUデニズン(「定住しながら帰化しないEU出身者」p112)が550万人(2001年)もいる。彼らにとって,社会経済的不利益はもはやほとんど無い。EUはマーストリヒト条約で「連合市民権(Citizenship of Union)」を定め,社会経済的諸権利を保障し,制度の共通化を進めている。
 (a)移動の自由(マ条約第8条A)
 (b)参政権(第8条B)「連合の市民は,その滞在国の市町村選権挙,被選挙権を,その国の国民と同じ条件で有する。」
 (c)外国での被保護権=自国の在外機関がない国では他のEU加盟国の機関の保護を受ける。
 (d)勤労の権利=EU内では,労働許可は不要。求職・就職は自由(公務員を除く)。
 (e)職業資格の共通化=医師,看護士,美容師,理容師などの資格を相互承認。
 (f)社会保障=年金は各国の運用だが,加入期間は通算できる。これにより,国外への移動,就職が容易,安全になる。

著者は違いの方を強調するが,これは古代ローマ帝国の市民権に似ている。「さかのぼれば,古代ローマ帝国のシティズンシップ,すなわち『キヴィタス・ロマーナ』も,従軍義務とひきかえに,民会の選挙・被選挙権,土地所有権などを認め,帝政期になると,地中海を取り囲み,アフリカ北岸からメソポタミアまでを覆う,おそろしく広大な地域に生きる成人男子にこれを付与していた」(p115)。

2.ヨーロッパ・アイデンティティの弱さ
このようにEUはボーダレス化した。「国家主権を可視的に象徴するものに国境検問,税関,通貨,軍隊,国語などがあるが,少なくともこのうちの最初の三つの要素は,EUの中で影が薄くなっている」(p116)。

しかし,その一方,ヨーロッパ・アイデンティティは,まだ弱いという。

「人間はもともと『多・アイデンティティ的な存在』だと主張する社会学者エドガール・モランに同意するなら,自分をもっぱら『フランス人』とか『イギリス人』と考える者は相対的に減っていくと思われる。と同時に,『ヨーロッパ人』という極に集中するようなアイデンティティが生まれるとも考えられない。また,『人類』というアイデンティティは人々の意識の中ではなかなか成立しないが,といって人びとは人類的レベルでの思考をしないわけではなく(地球環境問題など),ヨーロッパ・アイデンティティも何かしらそうしたものに似ているように思われる。」(p117)

ちょっと歯切れが悪いが,おそらくこれが現実であろう。方向としては,そちらに向かう。これはまず間違いない。

3.参加によるアイデンティフィケーション
アイデンティティは,その社会への参加なしには生まれない。EUは,国家レベルでは難しい外国人の参加を地方レベルで促進しようと努力してきた。「今日のヨーロッパ諸社会は,『参加』を合い言葉にかかげる分権化社会を自任している」(p128)。

 (a)ベルリン市(人口350万人,外国人40万人)=二重国籍を認め(条件付き),帰化を促進。また,職業訓練,ドイツ語教育も支援。
 (b)ニュルンベルク市=外国人会議設置(1970年代)
 (c)マント・ラ・ジュネ市(仏)=地区会議(1993〜)
 (d)マルセイユ市=「希望のマルセイユ」1989-95頃設置。諮問機関。各民族,各宗派を承認し,補助金を支給。アイデンティティの多数性を許容。(p128-146)

フランスの場合,こうした多文化主義政策は,共和国の政治の普遍主義,非宗教性と真っ向から対立する。しかし,それでも参加を通して,各民族,各文化の人々を市民化しようとしているのである。

これは,私には一種のアイデンティティ競争のように見える。人間が多アイデンティティ的存在であることは間違いないが,多アイデンティティの平和共存はなかなか難しい。どのレベルの共同体ないし社会が,最重要のアイデンティティの位置を占めるか? 一つに限定する必要はないとはいえ,状況が危機化すれば,その選択は必ず迫られる。「アイデンティティ政治」においては,それは実利とも不可分の関係にあり,そう簡単には決着はつかない。

3.移民のEU市民権排除
この観点から注意すべきは,EU市民権の排外性だ。著者によれば,EUは域内諸国民にはEU市民権を認めても,域外からの移民には,いまのところ同じ権利を与えてはいない。つまり,EU市民権は域内各国の国民に限られ,帰化条件は各国に委ねられているからだ(p120-124)。域外からの移民→EU各国への帰化→EU市民
 (a)血統主義=伊,オーストリア
 (b)出生地主義=仏,蘭,独(条件付き)
 (c)二重国籍=英(旧植民地出身者)

この帰化条件の違いにより,同じ移民であっても,EU市民権の扱いが大きく異なることになる。これは矛盾といえば矛盾だが,過渡期のものであろう。

これよりもむしろ大きな問題は,本書では触れられていないが,EUが市民権を拡充しアイデンティティを強化して行くにつれ,EUが全体としてEU市民を非EU市民から防衛するという役割を担うようになるのではないかということである。域内では多アイデンティティを認めようとするEUが,外に対しても開かれていることは可能か? これは,グローバル市民化を考える場合,避けては通れない難題である。

■(テキストの後で)年金通算の合理性か痩せ我慢の美学か
デニズン,特に二重国籍は面白い。たとえば,日本とネパールが二重国籍になれば,交通が自由となり,市民には国家選択の自由が生まれる。ネパールは地理的にも経済的にも難しいとしても,韓国となら,できそうな気がする。九州からは東京より韓国の方がはるかに近いから,九州=韓国共同体がすぐにでも形成されるに違いない。

そうなれば,年金の通算も必要になる。知り合いの在日外国人は,いつ他国勤務となるかわからないからとアメリカの保険会社の個人年金に加入している。通算が制度化されれば,諸国政府が連帯して個人年金を保障することになる。これは面白い。

しかし,これには別の側面もある。国家あるいは超国家機構による管理強化,背番号制だ。

実は,私の場合も,3年間ほどの国民年金加入不明期間がある。納付しているはずなのに,記録がない。20代前半,住所不定,不規則労働で,大阪どん底生活をしていた。釜が崎(実態隠蔽言い換え地名「愛隣地区」)の端っこの方も知っている。食パンの耳をかじりながら何とか生きのび,やっと定職に就いた。その間の年金納付記録がない。親不孝息子でも野垂れ死には忍びないと,いまは亡き父が納付しつづけてくれていたのだ。こら!,社会保険庁,どうしてくれるのだ。40年も前の領収書などあるはずがない。霊媒師に頼んであの世の父を証言台に立たせようか。

ここで困った選択を強いられる。社会保険庁のずさんな年金管理体制に対し,いますさまじい猛攻撃が起こっている。一億火の玉になって怒り狂い,社会保険庁をつるし上げ,責任追求をしている。私自身被害者だから,その怒りはよくわかるが,実は政府は内心ではこの事態にほくそ笑み,チャンス到来と大喜びしているはずだ。国民一人一人の一生がかかっている,絶対間違いの無いようにしっかりやれ,そう世論が一致して要求すれば,政府は待っていましたとばかり,喜び勇んでやるに違いない。国民に背番号を振り,一元管理する。そうすれば合理的であり,万が一にも間違いは生じない。

すでに年金番号はあるが,これはまだ不合理・不完全。私自身の共済年金も,問い合わせをしているのに,3カ月たっても加入期間がわからない。40年前の真面目な地方公務員時代の納付記録が消えているかもしれない。国民年金が消え,地共済年金まで消えた? こら!,公務員共済組合,一体どうしてくれるのだ。

こんなていたらくだから,絶対間違いの無いように国民総背番号制にし,国家が一元管理せよ,という要求が出るのも分からぬではない。しかし,である。ここはぐっと我慢。 自由は,実はこんな非合理とともにある。年金くらいもらえなくても,自由があればよい。大いなる痩せ我慢! カッコよい。が,そうはいっても,やはり年金は欲しい。

こうして結局は政府に対し行政の合理化を要求することになる。それは,先述の通り官僚制化の要求であり,安全だが自由なき鉄の檻への道だ。

年金の国際的通算とは,この合理化・官僚制化を超国家的レベルでやることに他ならない。通信技術の発達で,やろうと思えばこれはすぐにでもできる。世界中どこにいっても個人識別番号で,その経歴が全部瞬時にして分かる。便利,安全,確実には違いないが,人は本当にそんな世界に住みたいと思うだろうか?

EUは地域内に怪しげな前近代的伝統を無数にもっている。イギリス上院など,非合理のデパートだ。ネパールの合理的共和制論者が見たら卒倒するに違いない。だから,皮肉なことに,EUは年金通算などで統治を少々合理化,近代化しても大丈夫だ。

危ないのは,アメリカや日本,そして途上国だ。ヨーロッパは,非合理なもの,前近代的なものと数百年にわたって真剣勝負をし,そして,その結果,それらの存在意義を理解し扱い方にもかなり習熟してきた。安全と自由,合理的効率と自由のギリギリの二者択一を迫られたら,自由をとるのがヨーロッパだ。残念ながら,アメリカや日本,そして途上国には,まだそのような成熟した自由の伝統はない。

国境を越えて人々が交流する世界,そこに向かうことは間違いないが,その代償が何かはまだよくわからない。EUの先行実験を見守りたい。

2007/06/07

宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』(7)

谷川昌幸(C)
 
\ 「第3章 新しい移民大陸ヨーロッパ/第4章 どのようにシティズンシップを保障するか」について

■(テキストの前に)中世復興で国家相対化
近代国家は,ホッブズがいうように,地上最強の組織だ。統治は近代化されるにつれ強化される。近代化とは合理化であり,組織の合理化とは,ウェーバーがいうように,法(ルール)の支配としての官僚制化である。官僚制は,合理的に立法された客観的な法を公平無私に執行する。この近代的官僚制支配こそが,最も効率的であり,したがって最も強力である。

これは民主化と言い換えてもよい。近代化は民主化であり,民主化は官僚制化である。「人民を人民が人民のために統治する(government of the people,by the people, for the people)」という民主主義の理念は,合理的官僚制なくしては実現不可能だ。近代国家は民主化すればするほど官僚制化し,そして官僚制化すればするほど統治は効率化し,強化される。

この近代民主国は,客観的な法とそれの執行に当たる官僚制により,国民の安全を守る。われわれは国家によって守られている。近現代において,国家なき民,outlaw(法的保護外の者)がいかに悲惨か。まずこの基本的事実をしかと確認しておかなければならない。

そしてまた,国民の安全保障のためにも近代民主国は最強国家だということも忘れてはならない。近代国家は,合理的な法の合理的な執行のために,国民生活の合理化を目指す。合理的に認識し制御できないような情念や慣習の類は,統治の安全と効率の障害物として除去される。こうして近代民主国は,合理的な人民意思による公平無私な効率的統治を実現し,国民にあまねく安全を保障する。完全な予測可能性の下に無駄なく動く統治マシーン。これが地上最強の民主国家なのだ。

しかしながら,近代民主国において,人民が官僚制をマシーンとして使い人民自身を公平無私に統治するということは,具体的には誰も統治しないということ,つまり統治するのは抽象的な「人民」に他ならないということだ。人民意思の支配とは各人が全人民によって支配されることであり,「法(=人民意思)の支配」とは万人が法に支配されること,つまり法を忠実に執行する官僚制の支配に服従することだ。こうして「人民意思」や「法」が物神化され,それに忠実に従う官僚制が自己目的化し始め,やがてそれは官僚主義に堕落し,万人を閉じこめる鉄の檻となる。

哲学におけるポストモダンや政治における多文化主義は,近代合理主義や近代民主主義のそうした非人間化から人間性を救い出し,再生させようとする試みに他ならない。近代の合理化,官僚制化,民主化に抗して,非合理的なもの,非民主的なものを再生させる試み,ルネッサンスが「暗黒の中世」に対する古代的人間性の復興であったとするなら,現代の多文化主義は「光明の近代」に対する中世的ないし前近代的人間性の復興,いわば「第二のルネッサンス」である。

むろん,近代合理主義,近代民主主義を経てきた先進諸国においては,近代の遺産を継承した上での中世復帰である。イザとなれば,国家による法の保障に逃げ込むつもりで,選択的に先祖帰りをしている。これに対し,途上国はいまだ近代国家の強さもその法による保護も十分経験しないまま,先進国にたぶらかされ国家たたきに走っている。そんなことをしていると,「暗黒の中世」がそのまま蘇りかねない。

むろん,先進諸国においても,多文化主義は要するにごまかしであり,つねに民主主義の理念と対立している。近代合理主義の無菌室,近代民主主義の鉄の檻の中では生きづらいが,さりとてバイ菌うようよ,魑魅魍魎跋扈は困る。先進諸国は,国家による安全保障を残しつつ,中世復興による人間性回復を試みているのだ。途上国の人々は,この先進国の狡さを見落としてはならない。

先進諸国の「第二のルネッサンス」は,「暗黒の中世」を「豊穣の中世」と読み替え,現代に再生させようとするが,いかんせん中世は過去のもの。これに対し,近代合理主義による文明浄化をあまり受けていない途上国は,先進諸国にとっては現実にいまそこにある文化の豊穣の海そのものだ。先進諸国の多文化主義は,一面では,近代合理主義,近代民主主義による文明浄化で非人間化し活力を失ってしまった先進諸国が途上国の多様な文化を搾取するための策略に他ならない。

それは,同じような構造を持つ生物多様性条約(1992年)を見ると,よく分かる。先進諸国は,生産効率だけを考え,原野を開拓し,化学肥料や農薬を乱用し,「害虫」「害獣」や「雑草」「雑菌」を絶滅させた。また生活環境を清潔・快適にするため,自然を合理的に改造し,また強力な医薬品や殺虫剤,殺菌剤を多用し,人間にとって不快な他の様々な生物も次々と抹殺してきた。その結果,先進諸国では生物の多様性が失われ,生物の一種にすぎない人間も生きづらくなってきた。人間中心の合理主義の観点からは「雑草」「雑菌」「害虫」「害獣」としか見えなかったものも,複雑な自然秩序の不可欠の構成部分であり,人間の都合だけでそれらを除去してしまえば,自然の調和が損なわれ,その一部にすぎない人間も結局は生きられなくなることが,ようやく先進諸国の人々にも分かりはじめてきたのである。

その先進諸国にとって,途上国の自然はいまや農業,医学,環境など先進国自身の生活の維持向上のためになくてはならない自然資源の宝庫となった。生物多様性条約は,途上国のためというよりは,むしろこの自然資源を先進諸国が無秩序に乱獲しないための条約なのである。

多文化主義は,極論すれば,この生物多様性条約の文化版である。それは,合理化,民主化により生殖力も文化創造力も失いつつある先進諸国が,自らの過去(近代以前)からというよりはむしろ,現存する途上国から根源的な「生きる力」を奪い取るための策略である。先進国主導の多文化主義は,途上国の人々のためのものではない。先進国は,近代合理主義・民主主義の権化としての強力国家を手にしつつ,自らの精力回復のため多文化主義を使っているのだ。途上国は,この事実を見据えた上で,先進国主導の多文化主義への対応を考えるべきだろう。

さて,またまた前置きが長くなってしまったが,こうしたことを念頭に置きつつ,以下,テキストを読んでいくことにしよう。

1.移民の受容
本書によれば,ヨーロッパは大量の移民を受け入れる「移民大陸」である。移民人口比率はすでにフランスで11%,イギリスで8%となり,全体的にはアメリカ(8%)以上となっている。

移民が人口の1割ともなれば,当然地域的にはもっと高いところもあるから,移民の受け入れは,理念というより現実の政策の問題となる。事実,ヨーロッパ諸国では,1970年代以降,次々と移民受け入れ政策が具体化されていった(p54-61)。
 ・仏=移民労働者庁(1974),ほぼ自動更新の滞在許可証(1980年代)
 ・独=外国人委任官(1979),無期限滞在許可(1980年代)
 ・蘭=マイノリティ施策覚書草案(1981)
 ・蘭,ベルギー=条件付き出生地主義(1980年代)

また,用語としても,無資格滞在者を「不法」ではなく「不正規(irregular)」と呼び,いずれ正規化(市民化)される可能性のある者として処遇している。たとえば,人道基準によりフランスで15000人(2000年)が正規化されるなど,大規模な正規化が行われている(p61-62)。

こうした「市民化」は,移民・難民側からの要求でもあるが,著者によれば,国家・行政側の必要によるものでもある。これは常識でも分かることだ。もし住民の1割もが移民であれば,彼らを市民化しなければ,ゴミ収集から学校運営まで支障が出ることは目に見えている。だから,地方参政権なども,むしろ自治体の必要から付与されるといってもよいだろう。

2.多文化容認
ヨーロッパは移民を「市民化」してきたが,これは「同化(assimilation)」ではなく,「相違への権利」を認め異文化を受け入れる「編入」,つまり「多文化容認」だという。たとえば,英ブラッドフォード市では,ムスリム住民の要求に応え,ウルドゥー語教育,ハラール肉給食,イマームによるコーラン授業が導入された。もちろん,こうした多文化容認政策には反対も強い。ブラッドフォード市では,やりすぎだと攻撃され,大紛争(ハニフォード事件)になってしまった(p63-64)。

その一方,移民の側も,ホスト社会への適応の必要性は感じ,自ら適応していく(p65)。したがって,多文化政策を「上から」と見るか「下から」と見るか,移民の文化変容を「同化」と見るか「適応」と見るか,その判断は難しい。いまのところ,個別事例の分析を積み重ね妥当な評価を探っていく以外に方法はないだろう。

3.J・レックスの「多文化社会」
国家統治の一元性と文化の多様性の問題を解決する便利な方法の一つは,いうまでもなく生活を公的領域と私的領域に二分する近代自由民主主義の方法の転用である。

著者によれば,社会学者のジョン・レックスは,多文化容認と平等とを結びつける努力をしてきた。レックスは――

「移民は公的領域では完全に平等な処遇を受け,私的領域ではその行動の多様性が保障されるべきだとして,それをもって『多文化社会(multicultural society)』と規定する」(p66)。

多文化社会をこのように規定すれば,それはたしかに自由民主主義の大原則と一致する。フランスの不動の国是も全くそのとおりだ。しかし,私の見るところ,公私二領域を分離できないとするのが多くの異文化の特質であり,またこの議論は,私的領域で社会的に抑圧され抹殺されていく少数派文化の救いにはならない。これは,あからさまな同化主義よりはるかにましだが,しかし結局は公的領域を支配する社会的強者の支配の便利な方便になってしまう。

4.デニズンの増加
社会生活を公的領域と私的領域に二分する考え方は,T・ハンマーのいうデニズン(denizen)に通ずるところがある。著者の要約によれば――

「デニズンとは,永住者的地位,居住,移動,就労の自由などを獲得し,しばしば選挙権のみを欠いているような外国籍の市民を指す」(p67)。

EUには長期滞在外国人が多い。ドイツには外国人が734万人(2002年)いるが,そのうち56%が10年以上,33%20年以上。つまり,帰化できても,しないのだ。その主な理由は――  (a)郷里,親族との関係を切れない,あるいは切りたくない。 (b)国籍以外のシティズンシップの拡大。社会保障,住宅,教育など国籍に関係なく保障され,そして地方参政権も与えられるとすれば,国籍をとる必要なくなる。 (c)帰化しても,社会的差別はなくならない。国籍に関係なく,異民族,異文化への差別は継続するから。

5.デニズンのシティズンシップ
このデニズンは,要するに国籍なき市民であり,私には近代以前への先祖帰りのように見える。

(1)近代以前のシティズンシップ
著者によれば,「シティズンシップの観念は遠くギリシア,ローマに遡り,近代以前のそれでは,都市(古代都市国家,中世自治都市),領邦,ギルド・社団,宗教宗派,民族コミュニティなどへの所属がより重要な意味をもっていた」(p74-75)。

また,所属については,アンシャンレジームでもプロイセン王国(19世紀初)でも出生地主義だったという(p75)。

(2)非国家組織のシティズンシップ
現在のヨーロッパでも,移民の受け入れは,国家以外の諸組織が先導してきた。労働組合,社会党系諸政党,キリスト教系諸組織,NGO等々。これにより労働については労組加入権,経営協議会委員・労働裁判所参審員選挙権などが獲得され,社会への適応,社会的諸権利の獲得も進んでいった(p84-85)。

(3)地方参政権
地方参政権も拡大されていった(p86-92)。
 ・フランクフルト市(外国人人口30%)=外国人会議(1991)。地方参政権に代わるもの。3カ月以上ドイツに滞在し外国人登録をしている者に選挙権。選出された代表は市議会委員会に出席し意見を述べる。
 ・モン・サンバロル市(仏)=準議員制度(1985)。外国人が代表として準議員3人選出。市議会に出席し意見を述べる。
 ・スウェーデン=地方選挙権(1975)。3年以上合法に居住する外国人に選挙権。
 ・オランダ=外国人地方参政権(1983)
 ・欧州議会=外国人地方参政権への支持表明(1985〜)

以上のように,労組,教会,NGOの成員資格にせよ,地方選挙権等の自治体市民権にせよ,いずれも国籍とは一応切り離されたものである。これらにより,外国人はそれらの非国家組織への帰属意識を持ち,シティズンシップを獲得している。これは,私流の言い方をすれば,いわば近代以前の復興である。

■(テキストのあとに)デニズンの二面性
以上の第3,4章の議論から,私は以下のようなことがいえるのではないかと思う。

デニズンの非国家的シティズンシップは,一方では在住外国人の様々な文化要求を受け入れ,多文化共生社会を目指すものであり,またそれは国籍の二重化,多重化ともあいまって国家を相対化し,将来的には世界市民化,地球市民化にすら向かう可能性のあるものである。これにより近代の主権国家の合理的一元的支配が否定され,人間と社会の多様性が回復されていくことが期待できるであろう。

しかし,その反面,デニズンは危険でもある。国家の側からすれば,デニズンは国民としての義務を負担せず,国家サービスにただ乗りし,都合が悪くなると,さっさと逃げ出してしまう無責任な存在と見える。税等は負担するにせよ,戦争とか経済危機とか自然大災害となれば,損得計算で損とわかれば逃げ出す。そんなデニズンを国家は信用できるわけがない。

国家は,あるいは国家というと特定の政府と取り違えられるのであれば祖国というとすれば,その祖国は構成員が生命を賭して守るべきものだ。全体主義を徹底的に批判し自ら武器を取って戦ったG・オーウェルに「右であれ左であれわが祖国」という文章がある。そう,ギリギリのところで,人は自分の祖国に命をかけるのだ。

特に民主主義国は,国家のために生命を捧げるという約束によって成立している。自由民主主義国も社会主義国も,非民主主義の君主国や寡頭支配国以上に国民の生命の犠牲を要求し,国民も自発的にそれに応じてきた。第1次,第2次世界大戦の何千万人もの死を見よ。民主主義による自発性がなければ,こんな大量死は不可能だ。

危機において,デニズン国家は,民主主義国の敵ではない。デニズン国家は,デニズンの安全を保障しない。国家も危ないがデニズンも危ない。逃げ込む祖国があればよいが,もしそれがなければ,危機状況においてデニズンは祖国なき流浪の民となる。

さらに個人の側からしても,デニズンは危険である。国家は老獪であり,人々の虫のよいデニズン要求を逆手にとり,住民をフルメンバーとしての国民と二流市民としてのデニズンに分け,巧妙に分割統治する。新自由主義経済の正社員と非正社員の二分法の論理と同じだ。

好景気のとき,人々は会社に縛られるのはいやだと考え,自由な働き方を要求,若者を中心に多くの人々が非正社員の生き方を自ら選んだ。会社も国家もその要望に応え,そのような人事制度,法制度を作り上げてしまった。雇用の多様化は,むろん企業側の強い要求であったが,同時に労働者側の要求でもあったことを忘れてはならない。

しかし,これは周知のように,労働者を苦しめることになった。企業とその代弁者の国家は老獪であり,労働者側の雇用多様化要求を逆手にとり,労働者をフルメンバーの正社員と二流メンバーの非正社員に分け分割統治,非正社員の雇用条件をどんどん切り下げていった。そして,不況になると,企業や国家が守ったのは,結局,正社員だけだった。労働組合も,非正社員は見捨てた。これは大変だ,と気づいたときは,もう手遅れ。社会も企業も正社員・非正社員の二階級構造となり,もはやどうすることもできない。階級格差は固定化し,カースト化しつつある。

デニズンは,国家フルメンバーの重責を忌避し,利益だけを得るという,虫のよい要求だ。会社に縛られず自由に働き,いつでも辞めたいときに辞めようと思っている労働者と同じようなもの。そんないい加減なデニズンや非正規社員を,国家や企業が国運を賭け社運を賭けて守るはずがない。逆に,これ幸いと,浅はかなデニズン要求,自由雇用要求を利用し,使い捨てにするだけだ。

地方参政権にしても,むろん無いよりましだが,それはむしろ統治のための方便の要素の方が大きい。一流市民と二流市民に分け,一流市民が地方参政権しか持たない二流市民を便利に利用する。そして,イザとなれば,二流市民を踏み台にして自分たちだけが生き残ろうとする。権力の側からリアルに見ると,そうなる。

しかし,である。以上は,あくまでも国家の側から,しかも危機状況を想定すれば,そうなるということである。そして,そのような見方に相当のリアリティがあることもまた残念ながら事実である。

しかし,これまで見てきたように,デニズン化,非国家シティズンシップは,国家の相対化であり,新しい社会を創っていこうとするものでもある。非国家的シティズンシップの拡充により,人間関係が多元的,多層的に形成され,ネットワーク状の社会が構築されていけば,中央集権的国家ではなく,ネットワーク的人間関係により,個人の安全が保障されるようになってくる。

たとえば,日本の国家権力により守られていると信じている日本人と,ネパールなどアジアの国家権力による保障の弱い国とを比較してみると,個人の生活は日本の方が安全とは必ずしもいえない。いまの日本では,年金問題に見られるように,国家がこけたら皆こける。ところが,中国系やインド系,あるいはネパール人にしても,親族,身内,同郷等のネットワークが世界中に張り巡らされており,イザとなればそれらの相互扶助が働く。もちろんまだ不十分なものだろうが,そうしたネットワークが拡充していけば,国家による安全保障以上のものが出来上がる可能性はある。つまり,ここでも中世復興なのだ。

以上のように,デニズン,非国家的シティズンシップには二面性があり,複眼的に見なければならない。そうした観点からEUを見ると,これは現在進行中の壮大な国家相対化の試みであり,今後の展開が大いに注目される。

戻る