ネパール評論 2007年11月

2007/11/29

ガイ教授(1):UNDP憲法顧問の経歴

谷川昌幸(C)
最近のネパールの憲法論議は,なかなか面白い。憲法をめぐる政争は相変わらずだが,少なくとも理論的には水準が高い。どうしてかなぁ,と不思議に思っていたら,どうやらUNDPネパール憲法顧問ヤッシュ・ガイ教授の功績らしい。ガイ教授の正式職名は Head of Constitutional Advisory Unit of the UNDP in Nepal。
 
ガイ教授は途上国憲法の第一人者であり,学問的にも実務上も輝かしい経歴を持っている。そのガイ教授がつくるネパール憲法なら,まず安心が出来るだろう。あまりにも立派すぎて,ネパールが別の国に改造されてしまう恐れがあるにはあるが。とにかく,ガイ教授はそれほどスゴイ。(以下敬称略)
 
ヤッシュ・ガイ教授の経歴
Yash Ghaiは,1938年,ケニアでインド人家族の子として生まれた。国籍は不明。オックスフォードとハーバードで法律を学んだあと,Middle Temple in Londonに入り,英国法律家となる。
 
ガイはケニア生まれのインド人のため,ヨーロッパでさんざん差別された。その扱いへの批判を込めて,
  Public Law and Political Change in Kenya, 1970
を出版し,イギリス植民地支配の法的仕組みを分析した。また人種差別については,
 Asians in East Africa: Portrait of a Minority, 1971
を出版し,「アジア人−アフリカ人−ヨーロッパ人」の関係に注目,イギリス人がこれらの人々を植民地支配のためにどう位置づけたかを分析した。
 
1963−1973年,タンザニアのダルエスサラームに住み,初代大統領ニエレレの要請に応え,東アフリカ初の法学教育機関「東アフリカ大学法学部」を設立した。
 
ここでガイは,法を法だけで見るのではなく,社会の中にあるものとして学際的(multidisciplinary)に見なければならない,と気付いた。そして
 (1)法学の専門性,技術的厳密性
 (2)社会内で機能している法
の二つをどう両立させるかが,ガイの課題となった。むろん,これについてはマルクス主義法学があったが,これは法を経済やイデオロギーに解消してしまう傾向があり,これに従うことは出来なかった。この問題については,
  Limits of Legal Radicalism: Reflections on Teaching Law at the University of Dar es Salaam, 1986 
  The Political Economy of Law: A Third World Reader, 1987
がある。
 
こうした中,ガイは憲法,特に途上国の憲法に関心をもつようになった。途上国の多くは,多民族,多文化であり,紛争も多い。そうした中で憲法制定は平和構築の重要な部分を占める。諸集団の紛争を終結させ,永続的平和を実現するための憲法制定,そうして出来るconsociation constitution。この問題意識から書かれたのが,
 A Journey Around Constitutions: Reflections on Contemporary Constitutions, in South African Law Journal, 2005
  The Right to Development, ed. by S. Marks and A. Baarth,forthcoming
である。
 
ガイは,イエール大学客員教授,ウォーウィック大学教授(1975-89)を経て,香港大学教授(1989-1995),同名誉教授(1995-)となっている。香港返還にともない,「自治」に関心をもち,次の2著執筆。
 Hong Kong's New Constitutional Order: The Resumption of Chinese Sovereignty and Basic Law, 1997
  Autonomy and Ethnicity: Negotiating Claims in Multi-ethnic States, 2001
 
ガイは,15カ国の憲法制定に関与してきた。特にケニアでは,憲法委員会議長(2000-2004)として,憲法改正を主導した。その報告書が
 People's Choice: The Report of the Constitution of Kenya Review Commission, 2002
 
ガイの最近の関心は,紛争諸国における憲法制定過程,多民族社会における公権力の問題が中心となっている。ガイはまた,
 英国アカデミー会員(2005-)
 カンボジア国連事務総長特別代表(2007)
でもある。
ghai
 
 
2007/11/23

スーツケース,連続被害

谷川昌幸(C)
9月と11月,バンコク経由のタイ航空機で2回,ネパールを往復したが,2回とも帰途,トリブバン空港かスワンナプーム空港でスーツケースが被害を受けた。
 
9月は,布製スーツケースが雨中に放置されたらしく,中の本,雑誌等の資料がずぶ濡れ。一応被害届は出したものの,この種のものは私にとっては貴重でも,算出される被害額はわずかなので,バカらしくなって損害請求はあきらめた。
 
11月は,スーツケースの鍵が破壊され,中が物色された。本や雑誌,着古したセーター,肌着くらいしか入っていなかったので,被害は日本で投函するために預かった郵便物のみ。被害届は出したが,これも損害請求はあきらめた。
 
トリブバン空港かスワンナプーム空港か分からないが,両国とも政治不安定であり,規律が緩んでいるのであろう。治安不安は,旅行者には一時的なものだが,住民にとっては毎日の生活の問題,その深刻さはよく理解できる。
2007/11/22

過剰と欠如:スワンナプーム空港の悲喜劇

谷川昌幸(C)
タイの新空港ビル,スワンナプームを利用するたびに,この空港ビルの欠陥に唖然とする。設計はドイツ人建築家のヘルムート・ヤーン氏,即位60周年記念でプミポン国王がスワンナプーム(黄金の土地)と命名されたそうだ。それなのに,どうしてこんな奇っ怪なものになってしまったのか?
 
そもそも根本の設計思想が間違っている。宣伝文では「新時代を予感させる空港」と謳っているが,前時代的王制と新時代的新植民地主義の結合という意味では,たしかに「新時代を予感させる」。
 
この空港ビルは,西洋と自国のブルジョア特権階級を顧客と想定しており,大多数の庶民旅行者の利便を無視した設計になっている。飛行機はいまや庶民の足。東南アジアでも格安チケットが出回り,ナベ釜しょってサンダルで搭乗する時代だ。その庶民利用客を無視した空港ビルは,西洋オリエンタル趣味とアジア的西洋崇拝が結合した,その意味では「新時代を予感させる空港」だ。
 
1.高級店の過剰
この空港ビルでは,利用客はやたら高い高級商店街を延々と歩かされる。こんな店の商品を買う客はごくわずかで,ほとんどの店は開店休業。大多数の旅行客は疲れ,腹が立つばかり。いまどきスコッチやダンヒルの運び屋をするような無粋な客はいない。
 
2.待合室なし
大金持ち,小金持ちのためのラウンジは便利なところにやたらとあるが,庶民旅行者のためのごく普通の待合室は,見た限りではない。通路沿いの固く冷たいベンチで待つか,通路にビニールシートを敷き座るかしかない。
 
いくら何でもヒドイと怒りまくり,案内係に尋ねても無愛想に「ない」というだけ。あちこち探し,前回,やっとタイ航空エコノミー待合室を見つけた。上客ではないので,ヒドイ扱いだが,それでもソファはあり,なんとか乗り継ぎ時間を座って過ごすことが出来た。
 
ところが,だ! その待合室が使用中止の表示,ソファーも片隅に集められている。あほ,バカ!と怒りつつ薄暗いフロアをよく見ると,やはり同志はいるもの,そのソファーを引っ張り出し,時間待ちをしている庶民客がかなりいた。そこで,使用中止看板を無視し,私もそこに入り,ソファを引っ張り出し,時間待ちをした。空港ビル内商店には1円も落とさなかった。痛快!
 
(追補)この待合室は,1週間後にはソファが撤去され,完全閉鎖。プロレタリア旅行客は通路でのビニール敷き路上生活を余儀なくされた。仕方なく,3時間前なのに搭乗待合室に入ろうとしたら,「まだ入るな。中には何もない」という。そんなことは分かっている,外に待合室がないのだから仕方ないだろう,と押し問答して入り込み,寒く暗い搭乗待合室の固く冷たいベンチで過ごした。高級店前通路で路上生活するよりはましだからだ。
 
3.冷房過多
空港ビル内は,メチャ寒い。南国なのに,寒い! 軽装プロレタリア旅行者はみな震え,ありとあらゆる衣類を引っ張り出し着込んでいる。ヒマラヤではなく,ここで風邪を引く旅行者も多い。まぜこんなバカなことになるのか?
 
それはいうまでもなく,西洋=寒い=近代的=高級と思いこみ,それに合わせ南国でもネクタイ・スーツで生活しようとする大金持ち・小金持ちを想定しているからだ。南国の庶民には,こんな北国のように寒い空港は使えない。南国の空港は暑くて当たり前。自然に戻せ!
 
5.照明不足
照明もヒドイ。間接照明としゃれたものの,天井は灰色で反射しない。明るいのは天井の一角だけで,通路も搭乗待合室も暗い。寝室と間違えているのでないか?
 
ここは空港だ。照明は通路や待合室を明るくするのが第一。天井だけ照らしてどうする。本もまともに読めない。電気の無駄遣い。こんなあほらしい空港は見たこと無い。
 
6.BGM過剰
この空港ビル内では,必要な案内放送は少なく,余計なBGMがひっきりなしに流れている。それも有り難い西洋音楽だ。
 
深夜便で来てトイレに入りほっとしていると,荘厳なワーグナー,おそれおおくて出るものも出なくなった。西洋音楽=高級=有り難い,と勘違いし,BGMとして流しているのだ。
 
いま流れているのは,結婚行進曲。旅行者の中には葬式に行く人,失恋旅行の人もいるはずだ。公共空間のBGMははた迷惑,音楽の冒涜だ。
 
7.庶民のための空港へ
その点,関西空港はエライ。BGMはない(たぶん)。ひっそりし,客もまばら。高級店の閉店御礼が目立つ。そのうち,新世界やナンバのようになるだろう。たこ焼き,たたき売りが開店し,吉本が進出すれば,そこで関空ははれて大阪庶民の空港となる。
 
いまや飛行機は日本では新幹線より安い。東南アジアでも格安航空会社が躍進している。その現実を無視したスワンナプーム空港は,西洋オリエンタリズムとタイ舶来趣味の悲喜劇的結合と言わざるを得ない。帰途も,この空港では1円も使わなかった。
thaiairport
2007/11/21

ネパールの音楽と人生

谷川昌幸(C)
日曜の朝7時すぎ,突如,大音響の音楽が始まった。近くの集会場で祝い事があるようだ。曲は例のマンガル・ドーン。
 
初めはもうメチャクチャ。何の曲だが分からなかった。ラッパやら弦がめいめい勝手に音を出している。こりゃヒドイと思っていたら,あ〜ら不思議,徐々に旋律らしきものが現れ,勝手に飛び跳ねていた雑多な音が主旋律に集まり,大河となっていった。
 
時々変な音が入るが,それも「遊び」らしい。楽聖ベートーヴェンの「田園」の中に,田舎楽団のへたくそ音楽がわざと入れてあるが,それと同じ趣向のようだ。
 
そして,こうしたネパール音楽で特に気に入っているのが,いつ始まって,いつ終わったのかがよく分からないところだ。楽聖の音楽が典型だが,西洋音楽には始まりと終わりがある。明確な始まりと終わりがあるべきだ,というのが西洋音楽。これも悪くはないが,どうも不自然だ。これに対し,こちらの音楽は,楽器の練習でもしているような気軽な調子で始まり,徐々に盛り上がり,絶頂に達し,そして何となく楽器が少なくなり,いつの間にか終わっている。そんな感じの演奏が多い。
 
いいなぁ〜。自然な人生って,おそらくこんな風に始まり,終わるのだろう。あやかりたいものだ。
yoga
2007/11/17

火に入る聖牛の捨身救世

 1
すさまじい光景を見た(写真参照)。2頭の聖牛がタレジュ寺院参道で、まるで自ら火に入り、焼身自殺を遂げようとしているかのように見えた。聖牛の丸焼き? 終末を暗示する恐ろしい地獄絵だ。
 
2
即物的に説明すると――朝8時ころタレジュ寺院横の参道。まだ陽は昇らず、寒い。参道の少し広まったところ、小さなシヴァ神祠の横に大量のゴミが捨てられ、焼かれている。ゴミ処理と、暖を取るためだ。
 
その燃え盛る火の中に、2頭の聖牛が入り、ゴミをあさっている。火は一面に燃え広がり、熱いはずなのに、聖牛たちは火の中心へと入っていく。火の周りでは、十数人の善男善女が暖をとっているのに、誰一人これを止めようともしない。
 
3
牛を食う西洋人ですら、こんな光景を見たら、動物虐待と怒るにちがいない。2頭の牛の8本の足は火傷になっているはずだ。それでも火の中に入っていく。
 
一般に動物は火を恐れる。おそらく牛もそうだろう。それなのに、自ら火の中に入っていく。食欲が火の恐怖に勝ったのだろう。即物的に説明すればそうなる。
 
4
しかし、これは深い信仰を集めるタレジュ寺院横の参道であり、悪臭を放ち燃え広がっているのはビニール袋の山、聖牛が口にくわえているのもビニール袋だ。こんな光景を目にして即物的説明で済ますことができる外人はおそらく一人もいないだろう。
 
大げさだが、これは地獄絵だ。2頭の聖牛が、自らの身を焼きつつ、文明廃棄物を黙々と処理している。ビニールは胃に入り、反芻され、腸に入り、文明毒を身体中にめぐらせ、自らと子孫の生命を危うくするであろうが、それでも人間どもの罪を引き受け、廃棄物を黙々と食べてくれている。捨身救世。まさしく聖牛だ。
 
5
暖をとっている人々はヒンズー教徒のはずだが、誰一人として聖牛たちのこの犠牲的焼身を止めようともしない。聖なる牛だ。以前なら、おそらくそんなことはなかったはずだ。しかし彼らを責めることはできない。彼らは早朝から露天で働かざるをえない貧しい庶民であり、彼らも文明の犠牲者なのだ。聖牛を思いやる心の余裕すらも、彼らは失ってしまっているのだろう。
 
6
感傷的に過ぎると批判されるかもしれない。が、この光景を即物的に説明して済ますようなことだけは、したくない。人間性を疑われるからだ。
 cow1 cow2

 

 

 

2007/11/15

窓際から望むアジアの未来

谷川昌幸(C)
窓際族になったおかげか、久しぶりにTGから窓際席をもらった。
 
バンコク・スワンナプーム空港を飛び立つと、眼下は一面の農地。農家らしき家が点在しているにすぎない。飛行経路はよくわからないが、ビルマ、バングラ付近からインド上空を通ってカトマンズ入るらしい。
 
とにかく広い。すでに人口は多いとはいえ、この広大さ。無限の可能性を感じさせる。アメリカ主導バーチャル経済は針でつつけば破裂する可能性がある。これに対し、もしこの広大な土地が適切に開発され、生活のための農業や産業が発達し、伝統的文化と新しい文化が結合して独特の文化が育っていくなら、アジアの未来は洋々たるものだ。
 
そのアジアの発展の未来を上空から思い描くのは、窓際族の感傷かもしれないが、どんなものであれ夢は有ったほうがよいに決まっている。
asia
2007/11/13

ライジングネパールとCIA

谷川昌幸(C)
久しぶりにライジングネパールを見たら,ネパール国概要が書き換えられていた。
 
(変更以前)
国家元首=ギャネンドラ国王
国歌=国王賛歌
国教=ヒンズー教
(変更後)
国家元首=項目なし
国歌=項目なし
主要言語=ネパール語
主要宗教=ヒンズー教,仏教
平均余命=(CIA情報使用)
 
ライジングネパールの抵抗姿勢は明白だ。新国歌は認めないぞ,国語だって本当はネパール語だぞ,といったところだ。
 
極めつけは,平均余命。なんと,CIA情報をそのまま掲載している。平均余命データなど,たくさんあるのに,わざわざCIA。う〜ん,何かありそうだ。勘ぐりすぎかな?
 
 
2007/11/10

邦人の「保護」から「安全」へ

谷川昌幸(C)
この方面には疎く,まったく気がつかなかったのだが,従来の外務省「邦人保護課(Division for the Protection of Japanese Nationals Overseas)」が「邦人安全課(Japanese Nationals Overseas Safty Division)」に名称変更されたらしい。「保護」と「安全」は同じようだが,精神は大きく異なる。
 
「保護」は,保護者,保護国,保護関税のように,子供あるいは自立できない弱者を強者が積極的に介入し守ってやるという意味だ。つまり父権主義(paternalism)の原理にたっている。そして,パターナリズムの理念型は,父の無限愛に基づく無限保護だ。父(や母)は,たとえ全財産や生命さえも失うことになっても,わが子を救おうとする。たとえわが子にどんな非があろうと,父(や母)は,わが子への無限責任を果たそうとするものだ。
 
外務省は,むろんこんな父のような無限責任は負えなかったが,邦人「保護」を任務とする以上,精神的にはパターナリズムであり,在外邦人をいわば「子供」と見なし,暖かく「保護」しようとしてきたし,また国民の側もそれに甘え(依存し),「保護」を要求してきた。
 
しかし,これは推測にすぎないが,これだけグローバル化し,大量の日本人が海外旅行や海外居住をするようになると,そんな生暖かい封建的パターナリズムは現実にはもはや維持できなくなり,クールな近代的合理的権利義務関係に外務省も移行していったのだと思う。パターナリズムの無限責任を放棄し,自己の義務を明確化し,それを越えることについては個々人の自己責任とする。これは冷たくはあるが,近代的合理的であり,なによりも現実的である。
 
「安全」は,本来,消極的(negative)な概念であり,パターナリズムを否定する近代国家の基本原理である。前近代国家や現代福祉国家は,人々の生活に積極的に介入し生暖かく人々を保護しようとする。いずれも個々人を自主独立の個人とは見ていない。領主や政府の「保護」がなければ生きていけない子供のような存在と見ている。これに対し,近代国家は人々を自主独立の個人と考え,警察と軍隊による「安全」は保障するが,それ以外は個々人の自己責任と見なした。近代人は,自由を得るため,自己責任を引き受けた。国家は父であることをやめ,「安全保障」に自己の任務を限定したのだ。
 
外務省が「法人保護課」を「邦人安全課」に改めたことには,名称変更以上の意味がある。それは外務省による自らの責任の限定であり,合理的かつ現実的な判断といってよい。したがって,在外邦人,海外旅行者も,外務省はもはや消極的「安全」しか保障してくれない,ということを前提に,行動すべきであろう。厳しいが,それが現実であり,仕方ない。
2007/11/08

自己責任,再々考

谷川昌幸(C)
海外に出る機会が増え,自己責任を考えることも多くなった。ネパールの村で,病気や怪我をしたり,災害,事故,事件に巻き込まれたら,自分はどうするだろうか? どうなるのだろうか? イザというときの準備はしていくが,当然,万全ではありえない。誰かの救援を仰がざるをえない。誰に,どの程度の救援を要請しうるのか?
 
すぐ思いつくのは,日本大使館だ。外務省設置法は外務省の任務として「海外における邦人の生命及び身体の保護その他の安全に関すること」(第4条9)を定め,パスポートにも日本国民に「必要な保護扶助」を与えることを旅行先の外国政府に要請している。具体的に言うと,たとえば要領よくまとめている在カナダ日本大使館のHPによれば,「できること」と「できないこと」は次の通り。
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邦人援護:大使館のできること・できないこと
<できること>
 ・ 事件、事故の被害に遭い、自助努力のみでは対応できず、かつ、緊急な対応を要する場合、当館は関係当局との連絡等を行う一方、親族に対し直接または外務省(邦人保護課、電話(代)03-3580-3311)を通じて、事件・事故の概要を通報すると共に、当地における事件・事故に関係する法律制度や手続き等について援助・助言をします。死亡事件・事故の場合には、御遺族に対し必要な援助を行うとともに、御遺族の意向に従って、御遺体を日本にお送りする手続きまたは適切な処置等について援助・助言を行います。
 ・刑事被告人または被疑者等として逮捕・拘禁されている日本人の方については、御本人及び関係者と緊密な連絡を保つとともに、必要に応じ親族または知人の方に直接または外務省を通じて連絡を行います。更に、要請があれば弁護士リストを提供します。皆様が、万一逮捕・拘禁された場合には、現地警察当局等に対し日本の大使館または総領事館に連絡するよう要請することが重要です。
  ・日本の方が、病気、特に緊急入院したような場合には、当館は個別の事情を考慮しつつ適切な助言等をするとともに、医師より病状などを聴取し、その結果を必要に応じて親族または知人の方に直接または外務省を通じて通報します。
  ・自然災害、騒乱や大規模な事故が発生した場合には、当館は直ちに日本人の方々の被害について確認に努めます。万一皆様がこのような被害に遭遇した場合には、たとえ無事であってもできるだけ早く当館領事班にその旨を直接または第三者を通じて連絡して下さい。確認された情報は、必要に応じて外務省を通じて親族または知人の方に通報します。
  ・所持金を紛失し、自分自身ではどうしても連絡ができず、当面の生活がままならない場合で、かつ緊急止むを得ないと当館が判断した場合には、当館から直接または外務省を通じ親族または知人の方に航空切符の手配や金銭的援助の依頼を連絡します。
  ・海外にいる日本人が、所在の調査に関する御親族の自助努力にもかかわらず、概ね6ヶ月以上音信が途絶えている場合には、当館は御親族の依頼に基づき、外務省の指示によりその所在確認のための調査を行います。
<できないこと>
 ・宿泊費、入院・治療費、航空切符代、その他の個人的費用を立て替えること、またはその支払いを保証することはできません。
 ・民事上の、個人又は商業取引上の相談及びトラブルについてはお応えできません。
 ・旅行業者、航空会社、銀行、弁護士、探偵、警察または病院の業務や役割を担うことはできません。
 ・犯罪の捜査や被疑者の身柄拘束はできません。
 ・逮捕・拘禁された方の通訳または弁護士の費用、保釈費用、訴訟費用の支払いを行い、またその支払いの保証をすることはできません。
 ・遺失物の捜索はできません。
 ・入国許可、滞在許可や就労許可の取得を本人の代わりに行うことや、その便宜を図ることはできません。例えば、「移民局から入国を拒否されたので、入国が許可されるよう先方と掛け合って欲しい」との依頼にはお応えできません。 (在カナダ日本大使館HPより)
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以上の<できること>は日本政府が日本人に対して具体的に約束していることであり,在外日本人は必要な場合には当然これらの保護要請をすることができる。
 
むろんこれらだけでなく日本政府には一般的な邦人保護義務があると思われるが,だからといってそれは政府の無限責任を意味するわけではない。ヒマラヤ遭難者の救出義務が法的に日本政府にあるとしたら,日本政府はヒマラヤ登山を許可制か全面禁止にしてしまうだろう。危険は当然予想されるのだから,十分準備し,自己責任で登るべきだし,事実,登山家たちはそうしていると思う。
 
一般の海外旅行においても,予想される危険の大きさに比例して,自己責任も大きくなる。政府は,一般的邦人保護義務以上の義務を,無謀旅行者に対して負う必要はない。自己責任だからだ。
 
民事事件や刑事事件においても,大使館は必要な情報提供や公平な裁判は要求できても,捜査や裁判には介入はできない。通訳・弁護士など,最低限必要な司法扶助はすべきだと私は思うが,上記説明では,どうやらそれもできないらしい。
 
日本大使館は,日本人について国際人権法や国内法で保障されている人権の侵害があれば,人権の回復・保障を要求できるし,またすべきだが,それ以上の介入はすべきではない。もしそんなことをすれば,捜査や裁判が政治化し,悪くすると,民族対立にまで発展しかねない。不幸にして外国で民事事件や刑事事件に巻き込まれたら,情報提供や公正な捜査・裁判,あるいは人権尊重や人道上の配慮は大使館を通して要請してもらうことはできても,それ以上は自己責任で対処せざるを得ないと覚悟すべきだろう。
 
日本政府は,自らの責任逃れのために国民に自己責任を押しつけてはならない。同じく個人も,自らの責任逃れのために政府の無限責任を言い立てるべきではない。政府の邦人保護責任と個々人の自己責任の区分けは,常識(コモンセンス)と慣習により,ほぼ妥当な線に落ち着くのではないか。
 
この自己責任論は,イラク人質事件やイラン誘拐事件のとき述べ,多くのご批判をいただいたが,いまも間違っているとは思わない。
 
海外に出れば,多くの危険が待ちかまえている。いくらリスク管理をしていても,いつどこで予想外の危機に陥るかもしれない。そのようなときは誰かの救援を仰がざるをえない。そのためには,困ったときに助けてもらえるような様々な人間関係を可能な限り作り上げておくことが肝要だ。むろん,イザというときのための金や保険も必要だ。そうした友人・知人のつながりや,ある程度の金と保険の備えがあれば,海外での安全は格段に高まる。
 
その上で,どうしても個人や民間では対処しきれないときは,大使館の救援を仰ぐべきだろう。大使館には大きな権限と専門知識があるから,邦人救援に大きな力を発揮することができる。
 
しかし,救援を要請する側は,大使館の介入は,アジアの大国,日本の国家権力の介入だということを,つねに自覚していなければならない。災害救援など,本来,まったく政治性のないものでも,もし日本大使館が日本人被災者だけを優先的に救済すれば,地元や他国の人々は不公平と感じ,憤るだろう。大使館は日本国家を代表しており,館員には外交官特権がある。そうした大使館や館員の介入は,強力である反面,外国主権下では当然大きな制約が伴う。個人やNGOならできるのに,大使館にはできないといったことも少なくない。厳しいが,主権国家からなる現在の世界においては,これが現実だ。
 
このように自己責任をいえば,必ず自分にはね返る。自分がもし外国で危機に陥ったとき,そんな呑気なことをいっていられるか? やはり大使館に泣きつくのではないか? たぶん,そうだろう。だからこそ,あえて自己責任をいう。将来,みっともないことになるおそれは大いにあるが,だからこそ,自戒の念を込めてこういわざるをえないのである。
2007/11/04

侵略と弾圧から共生へ:長崎キリシタン神社

谷川昌幸(C)
ウツウツはあまりに軟弱と,わが身にむち打ち,キリシタン殉難の地,外海(そとめ)に出かけた。(拡大地図を表示
sittu1 外海・出津
 
1.外海とキリシタン
外海は,遠藤周作『沈黙』の舞台であり,作中では「トモギ村」となっている。いまは道路がつき,長崎市内から40分程だが,以前は交通不便な半島の貧しい寒村だった。 
 
外海は16世紀半,領主大村純忠の受洗後,キリシタンとなった。やがてキリシタン弾圧が始まったが,半島の僻地外海にまでは追及の手が及ばず,村人はキリシタンとして潜伏し,信仰を守り続けることができた。
 
この頃,外海で伝道していたのが日本人伝道士バスチャン(バスチャン暦で有名)であり,その師が後述のサン・ジワン神父であったとされている。
 
2.天福寺
禁教令(1614)以後のキリシタンの隠れ方には様々あるが,最も有名な事例の一つが樫山曹洞宗天福寺。この寺の檀家は潜伏キリシタンであり,寺も彼らを密かに守ってきた。禁教令廃止後,樫山や他の地区の潜伏キリシタンは,カトリック復帰,寺(仏教)を再選択,カクレキリシタンのまま,の3通りに分かれた。しかし,樫山では,カトリックに復帰した人々も庇護してくれた寺への恩を忘れず,いまも感謝し続けている。樫山は佐賀鍋島領。
tempuku 天福寺と樫山地区
 
3.キリシタン墓地
樫山のように寺に密かに庇護されたところもあったとはいえ,潜伏キリシタンの生活は厳しいものだった。捕まれば,拷問,虐殺。
 
その厳しさは,外海・出津のキリシタン墓地に行くと,よく偲ばれる。石をただ置いただけの墓が雑草の中に累々と並んでいる。
tmb1 キリシタン墓地
 
4.侵略と弾圧
徳川幕府は,なぜこれほどまでにキリシタンを警戒し,弾圧したのだろうか? そしてまた,過酷な弾圧にもかかわらずキリシタンたちはどうして信仰を維持し続けたのだろうか?
 
大浦天主堂での信徒発見(1865)を主題とした『女の一生(一部)』の中で遠藤周作は,この問題を図式化して,本藤(長崎奉行所・通詞)とプチジャン神父にこう語らせている。
 
本藤「たしかに西洋の国々には商いのため切支丹を伝えるため日本に参った人もいる。私もそのことは奉行所の文書をひもとき、多少は知っている。有徳のバテレン、医薬施療を日本人に施してくだされたイルマン(修道士)もいたことはたしかだ。しかしそのかわり西洋の国々は日本までの道のり、唐、天竺のあちこちを攻めとり、おのが属国となし無法に、土地を奪うた。・・・・日本はそれを怖れたのだ。日本は切支丹ゆえにこの教えを禁じたのではない。切支丹と共に日本を奪おうとする西洋の国々の野望を怖れたのだ」(p.257)
 
本藤「・・・・それではあの頃、切支丹の国々が東洋の土地を盗み、その国を侵し、殺していたことを、切支丹の法王とやらは、なぜ黙って見すごしていたのか」
 
プチジャン「法王さまは反対なされました」
 
本藤「口だけはな。だがその裏ではそのかすめとった国に切支丹をひろめることに同意していた筈だ。いや、切支丹をひろめるために、それらの所業に眼をつぶっておったのではないか」(p.258)
 
あるいは『切支丹の里』(『日本紀行』所収)では,こう述べている。
 
「キリスト教という個人の信仰の問題がヨーロッパ植民地政策の罪を背負いながら,個我意識の確立していない日本人の社会組織の抵抗をうけ,また汎神論的なこの国の風土のなかで根だやしになるか,続くかの試練を経ねばならなかったのだ。」(p246)
 
徳川幕府は,どんな弾圧にも耐えるキリシタン信仰の強さを恐れた。これは,これまでネパール政府がキリスト教布教を厳しく制限し,これからも制限しようとしているのと同じことだ(暫定憲法を見よ)。
 
客観的に見て,キリスト教は非西洋世界の侵略・略奪への露払いをしてきたのであり,だからこそキリシタンは弾圧されたのだが,それでも結局キリシタンは根絶できなかったし,ネパールでもキリスト教は拡大しつつあるようだ。
 
遠藤周作が偉いのは,キリスト教のこうした巨悪を認めた上で,にもかかわらずキリスト教への信仰を捨てず,神に救いを求めている点だ。正統カトリックから見ると異端かもしれないが,そのようなキリスト教信仰なら,私にも共感できる。
 
5.サンジワン枯松神社
それはともあれ,外海のキリシタンたちが,奉行所の摘発を警戒し,密かに集まりオラショ(祈り)を唱え親から子へと伝承してきた場所の一つが,海岸から切り立った険しい山腹の岩陰であった。見張りを立て,このような「祈りの岩」の陰で,オラショを唱えていた。
stone1 キリシタン墓と「祈りの岩」 
 
この周辺の雑木林の中には,このような石を置いただけのキリシタンの墓が点々とある。(どこかのカメラマンがその墓石に三脚を立てていた。罰当たり。取材の資格なし。)
 
宮崎賢太郎『カクレキリシタン』(2001)によれば,この付近は「カレマツドン」などと呼ばれる霊場であった。その後,1916年の出征安全祈願が成就したとして石の祠と灯籠が奉納され,祠に「サンジワン枯松神社」と刻まれたという。1939年には境内がつくられた。
 shrine 祠「サンジワン枯松神社」
サン・ジワンは,先述のバスチャンを指導した神父。外海では二人とも深く敬われている。そのサンジワン神父の墓(?)の上に,枯松神社の小さな社殿は建てられている(ここは確認を失念)。
 
これは不思議な神社だ。おそらくカクレキリシタンの一人が出征のとき願をかけ,無事かえってこれたときお礼にサンジワン神父の墓(?)の上に神社を建てたのだろう。神仏混淆はどこにでもあるが,これは神神混淆だ。一神教のキリスト教で,本来なら,こんなことはあり得ない。おそらく,長期の潜伏の間に,伝統的な神々とキリスト教の神が習合していったのだろう。
 
たとえば,この神社の横の新しい墓地の墓には,「土神」と十字架や洗礼名が同居している。諸神共存だ。キリスト教信仰からすれば異端だろうが,二百数十年も弾圧に耐え,潜伏してきたのだ,外海でそうなった理由は痛いほどよく分かる。
tmb2 十字架と土神
  
6.神仏の集う神社慰霊祭
今日(11月3日),この枯松神社でキリスト教徒,カクレキリシタン,仏教徒が集い,サンジワン神父と村の先祖を慰霊する祭礼が行われた。
 
神社で賛美歌が歌われ,カトリック司祭がミサをあげ,その後,曹洞宗住職の法話があり,最後にカクレキリシタンの一人がオラショ(祈り)をささげた。
 
カクレキリシタンの墓が点在する淋しい山の中。慰霊祭は2時間に及んだが,弾圧の過酷な日々が思い起こされ,参列者は異様な雰囲気にのまれ,席を立つ人はほとんどいなかった。自分でも不思議な体験だった。
 
カトリックからいえば,これは邪道だろう。あるいは,宗教弾圧のなくなった現在,カクレでいる必要はないともいう人もいる。また,神道,キリスト教,仏教の習合は無原則という人もいるだろう。しかし,そうした批判,非難は,ここに来て,この険しく淋しい森の中での慰霊祭に参加していると,およそカクレキリシタンの人々の真情からほど遠いものであることがよく分かる。
 
外海の多宗教共生は,無原則な野合から生じたものではない。二百数十年に及ぶ弾圧・迫害の末,人々がぎりぎりのところでたどり着いた生活なのだ。それしか,ここの人々には生きる方法がなかった。これは彼ら自身の本当の信仰生活なのだ。
karematsu1 ミサ
 
7.ネパールの多文化,多宗教
ネパールの多文化,多宗教にも,おそらくそのような厳しい争いの歴史があったのだろう。もう人々は忘れていて,ネパールには本来厳しい宗教対立はなかったとか,ネパールはもともと異文化に寛容だなどと思いがちだ。
 
しかし,そうではあるまい。異宗教,異文化とのすさまじい争いの末,諸宗教,諸文化が習合し,現在のような多文化共生の社会になったと見るべきだろう。
 
このように考えると,現在の多文化共生の歴史遺産を守っていくことの重要性がよく理解できるだろう。もし,外海地区で,宗教や文化の自立・自治を唱え始めたら,アイデンティティ政治となり,現在の多文化共生状況は崩れてしまい,再び神々の争いとなる。
 
ネパールも同じことではないか? 不用意に民族や文化の自治を唱えると,アイデンティティ独占のための争いとなり,大混乱となりかねない。高位カースト,大民族支配は,むろん修正されるべきだが,民族や文化の問題には,政治は細心の注意を払うことが必要であろう。
2007/11/01

満席・混沌・右傾化でウツウツ不健康

谷川昌幸(C)
ネパールは絶好のハイキングシーズンというのに,このところ絶不調,ブログ半休,何も手につかない。
 
1.満席,予約不可
所用でネパールに行きたいのに,席がない。ビジネスでもと奮発しても,ない。最近はネットで「航空会社直結空席検索・予約」ができる。これでどの日を組み合わせても,全くない。
 
いや,まったく平和ネパールの魅力はスゴイものだ。この平和の配当を多くの人々が実感できるようになれば,内戦などやってられないはずだ。戦争で大儲けするのはごく一部の「死の商人」「戦争屋政官関係者」だけだ。平和は,公平に配分すれば,万人が儲かる結構な状態だ。ネパールの皆さん,平和でこつこつ儲けよう。儲かる平和を要求しよう。
 
ここで残念なのがRA。せっかくのビジネスチャンスを見逃している。おしいことだ。
 
2.混沌ネパール政界
一方,ネパール政界は,めでたくコングレス統一(NC+NC-D,9月25日)がなったものの,混乱は一向に収まらず,西洋基準でいえば統治能力不足を露呈し,1990年代末の状況に近づいてきた。
 
ネパール政界はいま,NC−UML−Mの三すくみ(おなじみの権力パターン)となり,二進も三進もいかない状況になっている。そこで仕方なく,有力者たちが国連=UNMINに「助けて」とお願いし始めたが,この要請に対しては,当然ながらUNMINは「ダメ,支援はするが決定はしない,厳正中立だ」とつれなく拒絶している。ネパール政界は,このUNMINの態度に逆切れし,最近は「UNMINは無能だ,こんなUNMINはいらない」などと,八つ当たりし始めた。何のことはない,UNMINに国王の代わりをさせようという魂胆なのだ。
 
幸か不幸か,UNMINは代替国王にはなれない。そこで,最近はどうやら,本物の王様に再登場をお願いすべきだ,という声が出始めたらしい。この調子だと,イギリス革命と同様,王政復古になる。イギリスでは復活した王政は程なく専制になった。ネパールでもそうなる可能性が高い。せっかく専制王政を打倒したのだから,ここは知恵を絞り,「絶対共和制かさもなければ専制王政か」などという不毛なガチンコ対決を回避すべきではないだろうか。
 
といっても,これは以前述べた西洋基準の「ネパリズム」ではないだろうか。現在の混沌は,ネパールでは「異常」「例外状況」ではなく,「正常」「常態」。諸政党が党利党略の限りを尽くし大混乱しているが,大事故にはならず,何となくその日,その日が過ぎていく。ネパールの道路のように。これがネパール政治の正常な姿,「常態」ではないのか。
 
もしそうだとすると,自分でつくった「ネパリズム」に自分で縛られ,悲憤慷慨するのはまるでマンガ。あほらしくてやってられない,ということになる。人殺しはよくないので,それは絶対にやめよ,というべきだが,あとのことは「どうぞご自由に。面白く見学させていただきます」でよいのではないか。
 
3.朝日社説の正戦論
むろん,ネパールのことばかり言ってはいられない。日本政界も重病だ。社保庁もそうだが,もっと危険なのが防衛省と,その隠れ応援団の朝日社説(タカ派論説委員)。(関連記事参照)
 
自衛隊=憲法違反,海外派兵=憲法違反×憲法違反。これは明白。こうした見方に対して,朝日は右傾化世論に同調し,文民統制があれば大丈夫だ,と考えているらしい。が,これは全くの間違い。軍の本質は軍機であり,こんなものの統制ができるはずがない。また,そもそも戦争をよく知る軍人よりも知らない文民(文官)の方が,実際には好戦的で無責任となりやすいものなのだ。朝日はそんなことも分かっていないらしい。いや,それどころか,朝日は正戦論までも採用している。今朝の社説「イラク撤収で仕切り直せ 給油と対テロ戦」は,こんなことを言っている。
 
「・・・・アフガニスタンのタリバーン政権を,米国などが攻撃した。国際社会のほとんどがこれを支持し,戦列に加わった。日本の給油支援はその一環だった。/だからこそ私たちの社説も,憲法の枠内であることなどを条件に海上自衛隊の派遣を容認した。」
 
朝日は,「タリバーン政権を攻撃した」などといって,ごまかしている。アメリカは実際にはアフガン「国家=国民」を攻撃したのであり,これは明白な国際法違反だ。そして,給油が参戦であることは世界の常識だ。それなのに,朝日はこの国際法違反アフガン戦争への自衛隊の違憲参戦を「容認」した。いや,これもごまかしであり,積極的に支持し,戦意高揚したと書くべきだろう。そして,さらに次のように書く。
 
「日本の失敗は,米ブッシュ政権への配慮からイラク戦争に協力したことだ。・・・・これ(活動中の航空自衛隊)を一日も早く撤収させなければならない。」
 
アフガン戦争とイラク戦争のどこが違うのか? アフガン戦争は正義のための正戦,イラク戦争は不正義の侵略戦争と図式化したいらしいが,アメリカにとってはどちらも対テロ戦争だ。そんな区別はアメリカは絶対に認めないし,私も認めない。イラクから撤収すべきだとすれば,アフガン戦争からも撤収すべきだ。
 
いつからかははっきりしないが,朝日(タカ派論説委員)は「正戦論」を採用した。これがそもそもの間違い。日中戦争も太平洋戦争も「正戦=聖戦」だった。だから朝日は戦意高揚にこれつとめたのだ。また,同じことを始めようとしている。ハト派論説委員の皆さん,本当にこんなことでよいのですか?
 
4.ウツウツ不健康な日々
ネパールについては満席で行けず,「ネパリズム」で自縄自縛ともなり,日本については朝日の反動化で落胆し,ウツウツ不健康になるばかり。ブログに書いても嫌われ敵をつくるだけなのに,こうして憂さ晴らしをせずにはいられない。困ったことだ。