谷川昌幸(C)
ウツウツはあまりに軟弱と,わが身にむち打ち,キリシタン殉難の地,外海(そとめ)に出かけた。(
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外海・出津
1.外海とキリシタン
外海は,遠藤周作『沈黙』の舞台であり,作中では「トモギ村」となっている。いまは道路がつき,長崎市内から40分程だが,以前は交通不便な半島の貧しい寒村だった。
外海は16世紀半,領主大村純忠の受洗後,キリシタンとなった。やがてキリシタン弾圧が始まったが,半島の僻地外海にまでは追及の手が及ばず,村人はキリシタンとして潜伏し,信仰を守り続けることができた。
この頃,外海で伝道していたのが日本人伝道士バスチャン(バスチャン暦で有名)であり,その師が後述のサン・ジワン神父であったとされている。
2.天福寺
禁教令(1614)以後のキリシタンの隠れ方には様々あるが,最も有名な事例の一つが樫山曹洞宗天福寺。この寺の檀家は潜伏キリシタンであり,寺も彼らを密かに守ってきた。禁教令廃止後,樫山や他の地区の潜伏キリシタンは,カトリック復帰,寺(仏教)を再選択,カクレキリシタンのまま,の3通りに分かれた。しかし,樫山では,カトリックに復帰した人々も庇護してくれた寺への恩を忘れず,いまも感謝し続けている。樫山は佐賀鍋島領。
天福寺と樫山地区
3.キリシタン墓地
樫山のように寺に密かに庇護されたところもあったとはいえ,潜伏キリシタンの生活は厳しいものだった。捕まれば,拷問,虐殺。
その厳しさは,外海・出津のキリシタン墓地に行くと,よく偲ばれる。石をただ置いただけの墓が雑草の中に累々と並んでいる。
キリシタン墓地
4.侵略と弾圧
徳川幕府は,なぜこれほどまでにキリシタンを警戒し,弾圧したのだろうか? そしてまた,過酷な弾圧にもかかわらずキリシタンたちはどうして信仰を維持し続けたのだろうか?
大浦天主堂での信徒発見(1865)を主題とした『女の一生(一部)』の中で遠藤周作は,この問題を図式化して,本藤(長崎奉行所・通詞)とプチジャン神父にこう語らせている。
本藤「たしかに西洋の国々には商いのため切支丹を伝えるため日本に参った人もいる。私もそのことは奉行所の文書をひもとき、多少は知っている。有徳のバテレン、医薬施療を日本人に施してくだされたイルマン(修道士)もいたことはたしかだ。しかしそのかわり西洋の国々は日本までの道のり、唐、天竺のあちこちを攻めとり、おのが属国となし無法に、土地を奪うた。・・・・日本はそれを怖れたのだ。日本は切支丹ゆえにこの教えを禁じたのではない。切支丹と共に日本を奪おうとする西洋の国々の野望を怖れたのだ」(p.257)
本藤「・・・・それではあの頃、切支丹の国々が東洋の土地を盗み、その国を侵し、殺していたことを、切支丹の法王とやらは、なぜ黙って見すごしていたのか」
プチジャン「法王さまは反対なされました」
本藤「口だけはな。だがその裏ではそのかすめとった国に切支丹をひろめることに同意していた筈だ。いや、切支丹をひろめるために、それらの所業に眼をつぶっておったのではないか」(p.258)
あるいは『切支丹の里』(『日本紀行』所収)では,こう述べている。
「キリスト教という個人の信仰の問題がヨーロッパ植民地政策の罪を背負いながら,個我意識の確立していない日本人の社会組織の抵抗をうけ,また汎神論的なこの国の風土のなかで根だやしになるか,続くかの試練を経ねばならなかったのだ。」(p246)
徳川幕府は,どんな弾圧にも耐えるキリシタン信仰の強さを恐れた。これは,これまでネパール政府がキリスト教布教を厳しく制限し,これからも制限しようとしているのと同じことだ(暫定憲法を見よ)。
客観的に見て,キリスト教は非西洋世界の侵略・略奪への露払いをしてきたのであり,だからこそキリシタンは弾圧されたのだが,それでも結局キリシタンは根絶できなかったし,ネパールでもキリスト教は拡大しつつあるようだ。
遠藤周作が偉いのは,キリスト教のこうした巨悪を認めた上で,にもかかわらずキリスト教への信仰を捨てず,神に救いを求めている点だ。正統カトリックから見ると異端かもしれないが,そのようなキリスト教信仰なら,私にも共感できる。
5.サンジワン枯松神社
それはともあれ,外海のキリシタンたちが,奉行所の摘発を警戒し,密かに集まりオラショ(祈り)を唱え親から子へと伝承してきた場所の一つが,海岸から切り立った険しい山腹の岩陰であった。見張りを立て,このような「祈りの岩」の陰で,オラショを唱えていた。
キリシタン墓と「祈りの岩」
この周辺の雑木林の中には,このような石を置いただけのキリシタンの墓が点々とある。(どこかのカメラマンがその墓石に三脚を立てていた。罰当たり。取材の資格なし。)
宮崎賢太郎『カクレキリシタン』(2001)によれば,この付近は「カレマツドン」などと呼ばれる霊場であった。その後,1916年の出征安全祈願が成就したとして石の祠と灯籠が奉納され,祠に「サンジワン枯松神社」と刻まれたという。1939年には境内がつくられた。
祠「サンジワン枯松神社」
サン・ジワンは,先述のバスチャンを指導した神父。外海では二人とも深く敬われている。そのサンジワン神父の墓(?)の上に,枯松神社の小さな社殿は建てられている(ここは確認を失念)。
これは不思議な神社だ。おそらくカクレキリシタンの一人が出征のとき願をかけ,無事かえってこれたときお礼にサンジワン神父の墓(?)の上に神社を建てたのだろう。神仏混淆はどこにでもあるが,これは神神混淆だ。一神教のキリスト教で,本来なら,こんなことはあり得ない。おそらく,長期の潜伏の間に,伝統的な神々とキリスト教の神が習合していったのだろう。
たとえば,この神社の横の新しい墓地の墓には,「土神」と十字架や洗礼名が同居している。諸神共存だ。キリスト教信仰からすれば異端だろうが,二百数十年も弾圧に耐え,潜伏してきたのだ,外海でそうなった理由は痛いほどよく分かる。
十字架と土神
6.神仏の集う神社慰霊祭
今日(11月3日),この枯松神社でキリスト教徒,カクレキリシタン,仏教徒が集い,サンジワン神父と村の先祖を慰霊する祭礼が行われた。
神社で賛美歌が歌われ,カトリック司祭がミサをあげ,その後,曹洞宗住職の法話があり,最後にカクレキリシタンの一人がオラショ(祈り)をささげた。
カクレキリシタンの墓が点在する淋しい山の中。慰霊祭は2時間に及んだが,弾圧の過酷な日々が思い起こされ,参列者は異様な雰囲気にのまれ,席を立つ人はほとんどいなかった。自分でも不思議な体験だった。
カトリックからいえば,これは邪道だろう。あるいは,宗教弾圧のなくなった現在,カクレでいる必要はないともいう人もいる。また,神道,キリスト教,仏教の習合は無原則という人もいるだろう。しかし,そうした批判,非難は,ここに来て,この険しく淋しい森の中での慰霊祭に参加していると,およそカクレキリシタンの人々の真情からほど遠いものであることがよく分かる。
外海の多宗教共生は,無原則な野合から生じたものではない。二百数十年に及ぶ弾圧・迫害の末,人々がぎりぎりのところでたどり着いた生活なのだ。それしか,ここの人々には生きる方法がなかった。これは彼ら自身の本当の信仰生活なのだ。
ミサ
7.ネパールの多文化,多宗教
ネパールの多文化,多宗教にも,おそらくそのような厳しい争いの歴史があったのだろう。もう人々は忘れていて,ネパールには本来厳しい宗教対立はなかったとか,ネパールはもともと異文化に寛容だなどと思いがちだ。
しかし,そうではあるまい。異宗教,異文化とのすさまじい争いの末,諸宗教,諸文化が習合し,現在のような多文化共生の社会になったと見るべきだろう。
このように考えると,現在の多文化共生の歴史遺産を守っていくことの重要性がよく理解できるだろう。もし,外海地区で,宗教や文化の自立・自治を唱え始めたら,アイデンティティ政治となり,現在の多文化共生状況は崩れてしまい,再び神々の争いとなる。
ネパールも同じことではないか? 不用意に民族や文化の自治を唱えると,アイデンティティ独占のための争いとなり,大混乱となりかねない。高位カースト,大民族支配は,むろん修正されるべきだが,民族や文化の問題には,政治は細心の注意を払うことが必要であろう。