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2007/10/28 中ネ道路
2007/10/26 満席ネパール便
2007/10/21 UNMINは国王代替物となるか?
2007/10/20 ネパール政治と「ネパリズム」
2007/10/17 老衰日本から青年中国へ
2007/10/16 「人の支配」のドタバタ政治
2007/10/12 海外活動の自由と自己責任
2007/10/11 チュラ食文化の未来
2007/10/07 朝日社説の小沢論文批判は自己矛盾
2007/10/05 選挙延期ほぼ決定
2007/10/04 新札透かしに国王,ネパール政治文化の奥義
2007/10/03 民族自治と関所の復活
2007/10/02 世俗国家元首の宗教行為
2007/10/01 日本大使館前で爆発


2007/10/28

中ネ道路

谷川昌幸(C)
新華社によると,中国は,中国−ネパール道路のチベット側を2010年までに無積雪舗装道路にするという。
 
ネパールは,かつてのような大国主義的印中イデオロギー戦争の場から新自由主義的市場競争の場に大きく転換する。印中どちらがネパール市場を制するか? といっても,ネパール市場なんか,たかがしれている。となると,もめそうなのは「独立国」ネパールを媒介とした印中貿易だろう。
 
南北両大国からの市場化攻勢でネパール社会が急激に変えられる一方,国際関係にも新たな難問が生まれる。他国のことながら,これからが思いやられる。
 
(地図)中国−ネパール道路 拡大地図を表示
(写真)この道路を中国商品満載トラックが行き交うようになるのか?
  dhurickel
 
2007/10/26

満席ネパール便

谷川昌幸(C)
急用のためカトマンズ便を探したが,どのルートも全くない。バンコク,上海,シンガポールまではあるが,そこから先が全部満席。平和なネパールの魅力を再認識した。
 
平和のありがたさは,ネパールの人々もよく知っているのに,なぜ平和がなかなか実現しないのだろうか? 理由は様々であろうが,根本はやはりグローバル化だ。以前なら問題があっても単純であり,取り組みも方法的には単純であった。ところが,グローバル化の影響はあまりにも複雑多様であり,人智をはるかに超えるといってもよい。制憲議会選挙をやってもスッキリと問題解決とはいきそうにないのは,そのためだ。
 
やはり,最低限度の平和は確保しつつ,漸進的に改革していくのが安全策ではないか。むろん,それを許さないのが,グローバル化の恐ろしさではあるが。
 village
2007/10/21

UNMINは国王代替物となるか?

谷川昌幸(C)
UNMINの期限は2008年1月まで。この期限満了をもってUNMINは撤退した方がよいかもしれない。
 
ネパリタイムズ(#371)のシディ・スベディ「不毛な中立:過剰な消極性がUNMINへの信頼を損なう」によれば,UNMINの町中での存在感は圧倒的だ。カトマンズ最高のビルを事務所にし,多数の車,ヘリ,航空機をバンダ,燃料不足に関係なく使いまくっている。UNMINは他に並ぶものなき強大な権力を持っているように見える。
 
ところが,スベディ氏によると,それは見てくれだけで,実際にはUNMINは「無能」で「幻滅」だそうだ。莫大な資材を持ち込みながら,和平仲介者にしかすぎず,「厳正中立」を盾に,難しいことは何もしない。
 
これは「ニセ中立性」だ,とスベディ氏は怒る。そして,どこかの政党(もちろんマオイスト)が和平を妨害するのなら,そのケシカラン政党に圧力をかけるべきだ,つまり,マオイストの比例制要求や共和制宣言要求を押さえ込むことが「UNMINの責任」だ,という。もしそれができないのなら,「UNMINはますます無用なものになるだろう」。
 
スベディ氏の怒りはよく分かるが,これはお門違いだ。決定し実行するのは,あくまでもネパールの人々であり,UNMINはその支援をするにすぎない。NCやUMLではマオイストを押さえきれないので,代わりにUNMINがやってください,というのは,責任逃れの虫のよい要求だ。UNMINはそんな面倒まで見きれない。
 
ネパールには,立ち上がったpeopleがいるではないか。世界中を感動させたあのpeople powerが決め,実行するのが筋だ。その気がないのなら,自己責任を引き受ける気がないのなら,UNMINは,便利な国王代替物とされる前に,さっさと撤退すべきだろう。そして,2008年3月末が期限の日本陸軍の6兵士も,「無用」だそうだから,期限をまつまでもなく,UNMINと一緒に撤退すべき事は言うまでもない。
2007/10/20

ネパール政治と「ネパリズム」

谷川昌幸(C)
ネパール政治の現状を見て,外人はそれを異常なこと,改めるべき状態と考えがちだが,本当にそうか? それが異常と見えるのは,外人が自分たちの政治を正常と見て,それを基準にネパール政治を批判し,自分たちの政治に合わせさせようとしているだけではないのか? 
 
サイードのオリエンタリズムをもじっていうならば,それは「ネパリズム」だ。 すなわち,「オリエントに関するヨーロッパ的,西洋的な知の体系であるオリエンタリズム」(『オリエンタリズム』p202)こそが,「オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式」(p4)でありオリエント支配の本質であるとするなら,ネパールに関する西洋近現代的知の体系であるネパリズムは,「ネパールを支配し再構成し威圧するための先進国の様式」ということになる。
 
ネパールにはネパール特有の政治文化がある。たとえば,ネパールの利害調整方法は,日本援助交通信号が出来るまでの交差点や中央分離帯のない道路の交通慣習を観察すると,よく分かる。先方の交差点で渋滞していても,どの車も前へ前へと突き進む。そんなことをしたらますます渋滞することは分かり切っているのに,手前で待つことをせず,少しでも先に行こうとする。しかし,あ〜ら不思議,これ以上は絶対にダメとなる寸前に,何とはなく皆の合意のようなものができ,譲り合い,車は流れ始める。
 
あるいは,車線が4つあると,自ずと3:1,2:2,1:3の車線に変更される。中央分離帯をつくって2:2のルールに従わせるのが近代的だが,よく考えると,これは合理的ではない。人々が状況を見て自在に車線数を変え,道路を有効利用するネパール方式の方が,はるかに高度であり人間的だ。一応,2:2と決めてあるが,そんな規則は交通の実態に合わせ,その都度変更すればよい。これは「ルール(法)の支配」ではなく,典型的な「人の支配」だ。
 
ネパールの政治は,まさしくこの「人の支配」。ルール(法)はあっても守らない。私のような近代化された外人は,ケシカランと怒るが,「人の支配」はネパール固有の政治文化であり,こちらの方が高度だ。皆がそれぞれの利害を押し立てて1歩でも前に出ようと突き進む。あわやガチンコ,大変なことになるとハラハラするが,正面衝突寸前で何となく皆の合意ができ,最悪事態は回避される。ハラハラした外人は心配のし損だ。ネパール政治はなかなかしたたかである。
 
いまマオイストも7政党も,声を揃え,民族文化の権利を守れと合唱している。たしかにその通り。ネパールの「人の支配」政治文化は,ネパールの民族文化であり,これは守らねばならぬ。それをケシカランなどという外人は,外国の異文化をネパールに押しつける「ネパリズム」に毒されているのだ。西洋はオリエンタリズムで東洋の魂と身体を根こそぎ搾取した。同じことを外人は「ネパリズム」でネパールに対して行っているのではないだろうか?
 
(写真)ネパリズムの巣窟か?
book
 
 
2007/10/17

老衰日本から青年中国へ

谷川昌幸(C)
ネパールでも,老衰日本から壮年韓国,青年中国への転換が急ピッチだ。街では「韓国人?」「中国人?」と声をかけられることが多くなった。
 
それを象徴するのが両国の宣伝。韓国企業の宣伝は2,3年前から街中にあふれている。商魂たくましくエゲツナイものが多いが,特にラーニポカリ前の某電機メーカーの宣伝はあまりにも巨大であり,景観を損なうこと甚だしい(写真なし)。日本企業ならケシカランと抗議するところだが,外交問題になってはマズイので,黙っていることにした。それにしても,こんな広告を出されて,ネパールの人々は平気なのだろうか?
 
中国もすごい。写真(1)は,タパタリ交差点の中国ハデハデ公告。寺院や日本援助の信号を圧倒する巨大さ。写真(2)はその名もズバリ「中国商品城」。まだ中に入ったことはないが,きっとスゴイのだろう。
china1china2
 
その左隣が,ガソリンスタンド(写真3)。長蛇の列だったが,ここではスズキが気を吐いていた。頑張れスズキ!
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写真(4)は,ヒマラヤ銀行ビルの建設工事をしている「中鉄四局」の看板。事業内容は分からないが,いかにも共産中国といった名前。この調子で中国が本気で建設工事を請け負い始めたら日本企業は到底太刀打ちできないだろう。国民老化による国力衰退は宿命であり,それも仕方あるまい。
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*写真をクリックすると拡大表示します。
 
 
2007/10/16

「人の支配」のドタバタ政治

谷川昌幸(C)
内戦の「暴力の支配」よりはましだが,いまのネパール政治は「法の支配」ではなく「人の支配」だ。法の中の法たる「憲法」の制定が課題というのに,肝心の「法の支配」を完全に無視している。憲法を作る気があるのなら,初心に戻り「法の支配」から議論すべきだろう。
 
近代法は,強者の手を縛り弱者を保護するもの。最高法規としての憲法は,国家,つまり政府の手を縛り,国民を保護することを目的とする。国家の立法,行政,司法に関わる者はすべて憲法に拘束される。これが立憲主義だ。
 
ところが,いまのネパール政治は,この大原則を頭から無視している。王制や選挙制度などを「暫定憲法」で決めたということは,マオイストを含む諸政党が国民に対し約束し自らの手を縛ったということだ。むろん,改正規定があるから,改正できないことはないが,根本法をわずか1年足らずで何度も変えていては,何のために憲法を決めたのかわからない。ルールは少々のことでは変えられないからこそ,国民の予見可能性を保証し,国民生活の安定を実現できるのだ。
 
こんなドタバタ政治は「法の支配」でも「立憲主義」でもない。国民の権利を踏みにじる「人の支配」で新憲法を作ってみても,まず守られはしないだろう。1990年憲法が守られなかったように。
 
2007/10/12

海外活動の自由と自己責任

谷川昌幸(C)
ネパールでボランティア活動をしていた大学生が誘拐された。朝日新聞が「ネパールでボランティア活動」と巨大活字で報道したので,ネパールで誘拐されたかのかと,一瞬ギョッとしたが,誘拐はイランでのことであった。
 
1.自己責任の原則
こうした事件が起こると,政府の邦人保護責任と本人の自己責任の関係が必ず問題になる。イラク人質事件のとき,日本政府に邦人保護努力義務があるにせよ,原則は自己責任だ,と述べて囂々たる非難を受けた。しかし,私は今でもこの原則は正しいと思っている。
 
今回の誘拐事件も,イラン南東部付近は治安が悪いといわれており,それを承知で入ったのだから,原則は自己責任だ。日本政府や所属大学には,救済の努力義務はあっても,それ以上ではない。ヒマラヤ登山で遭難しても,それは登山者の自己責任であり,日本大使館や所属大学に救出努力義務はあっても,それ以上ではないのと同じことだ。
 
2.無謀なネパール旅行者
誘拐現場がイランなのに朝日新聞が「ネパール」と大書したのは,ネパール・ボランティアということの他に,ネパールが無謀海外旅行の玄関になっている,と見たからでもあろう。ネパールでは,ゾォーとするような話しを日本人旅行者からよく聞く。
 
あるとき女子学生らしき二人が,「ホテル予約なしで深夜空港に着き,タクシーらしき車に乗ったら,遠くの寂しいところに連れて行かれ恐ろしかった」といったことを,自慢半分で話していた。幸い最悪事態は免れたようだが,まったく無反省,これがいかに無謀なことかは,いうまでもない。
 
あるいは,タメルあたりで食事をしていると,よく学生旅行者らが大声で冒険話をしている。ある日,「これからパキスタン,イラン,イラクを経て中東方面に行ってみようと思っている。どう行ったらよいかな?」といったことを話していた。あまりにも無謀な無計画性にびっくりした。妙な功名心,競争意識が先走り,自らそれにとらわれ,焦りすら感じられる。これは危ない。
 
ネパールは,内戦状態であったのに,地域社会はまだ健在で,いまのところ外人は比較的安全。それに自信を得てであろう,地域紛争なんかたいしたことはない,と錯覚してしまったとしか思えない。こんな無謀な行動に,日本政府にせよ所属大学にせよ,責任は持てない。それは当然だ。
 
3.自己責任で大いに冒険を
しかし,これは冒険をするな,ということではない。冒険は若者の特権であり,危険を恐れるようでは若者ではなく若年寄りだ。青年よ,冒険をせよ。
 
では,ヒマラヤ登山と中東ブラブラ旅のどちらが危険か? 同じくらいではないか? だったら,ヒマラヤ登山と同等かそれ以上の調査,準備をした上で,中東などの危険地域には出かけるべきだ。
 
自己責任の前に政府責任を言い立てるパターナりズムは,親切なようで実際には極めて危険だ。政府責任パターナりズムは,一人一人に自己責任の厳しさを自覚させないので,調査・準備をせず「なんとかなるさ」といった安易な無謀行動を誘発する。また,政府や大学は,事件に対する無限責任を追及されるので,若者の冒険の禁止に動く。山や海は危険だから行くな。途上国は危険だから行くな。小中学校も大学も「行くな,行くな」の連発。結局,政府や大学の無限責任を要求すると,若者は冒険の自由そのものを失ってしまう。
 
だから,若者は,男らしく,また女らしく,堂々と自己責任を引き受け,山へでも紛争地へでも出かけていくべきだ。十分調査,準備し,それでも遭難すれば,それは天命,潔く自分でその結果を引き受けるべきだ。世間は,その堂々たる冒険者の態度を称賛するだろう。逆に,何の調査・準備もせず遭難したとすれば,それは自業自得,無謀の非難は甘受すべきだ。むろん,蛇足ながら,いずれの場合も,日本政府には邦人保護の努力義務はあり,出来ることをしなければ,努力義務違反の責任が生じることはいうまでもない。
2007/10/11

チュラ食文化の未来

谷川昌幸(C)
カトマンズ東方の村への途中で,チュラ製造所を見つけ,少し買い求めた。谷間に小さな小屋があり,一家でチュラを製造していた。
 
チュラの製法はいたって簡単,蒸し米を圧延し,乾燥させるだけ。製造直後は,香ばしくて,そこそこ美味いが,冷え乾燥してくるとお世辞にも美味いとはいえない。
 
ネパール食文化の知識は皆無に近く,実際にこれがどのように食されているのか具体的には知らないが,想像するに,おそらく保存食として重宝されてきたのだろう。そして,チュラが大切な食品であれば,当然それにまつわる食文化の伝統もあるにちがいない。
 
しかし,このチュラ食文化は,近代化により,早晩,廃れてしまうだろう。近代的食品は保存が利き美味いが,チュラは残念ながらまずい。近代的食文化を知っている私は,チュラの未来をほぼ正確に見通すことができる。だから,人の良さそうなチュラ製造一家に対し,「チュラに未来はない,早く転業した方がよい」とアドバイスするのは簡単だし,親切でもある。これは間違いない。だが,外部の人間が先進国の高みから,そんなことを言ってよいのだろうか? これは難しい問題だ。
 
結局,私は自分が基本的には無責任な傍観者であり,心のどこかでその立場を楽しんでいることに改めて気がついた。このチュラ製造所は,いずれ廃れていくであろう。それは一つの文化の黄昏であり,傍観者には哀しくも美しい光景と見える。この美しさを「いとおしむ」のは,傍観者のエゴイズムだ。
 
(写真1)チュラ。この製造所の製品。製造後,2週間。
(写真2)谷間のチュラ製造所
(写真3)チュラ製造機
2007/10/07

朝日社説の小沢論文批判は自己矛盾

谷川昌幸(C)
朝日新聞は高級紙といわれているのに,社説の中には信じられないほどヒドイものがある。今日10月6日付の「アフガン支援,小沢論文への疑問符」もその一例だ。自社社説に矛盾しており,下品な表現だが,「天に唾する」がごとき無反省作文といってよい。
 
1.小沢論文の前宣伝
この社説は,『世界』11月号掲載予定の小沢論文の要旨を紹介し,それにコメントしたもの。発売以前だから,その筋からブリーフィングを受け,あるいはゲラを見せられ,その意に添って書かれたものに違いない。一応「疑問符」をつけたことになっているが,後述のように,「疑問符」には全くなっておらず,小沢論文の格好の前宣伝になっている。『世界』のような小難しく面白くもない雑誌は,朝日の宣伝でもなければ,私はまず買い求めたりしない。朝日は小沢民主党の隠れ応援団なのだ。
 
2.手強い小沢平和貢献論
小沢氏は小泉,安倍両氏と同じく新自由主義者ないしは新保守主義者だが,個性は大きく異なる。(小泉,安倍両氏の政治家像については「安倍首相の怪著『美しい国へ』」2006.10.29,参照)
 
小泉氏は,権力行使に自己陶酔する耽美的ニヒリストで危険ではあるが,格好悪くなる前にやめてしまうので,それなりの安全装置が働く。安倍氏は,複雑な政治の現実を直視せず,「美しい国」幻想を自ら本気で信じ,実現しようとした情緒的右派観念論者だった。小泉氏のような自己をも対象化する権力行使の美学を持たないので,安倍氏の方がはるかに危険であったが,暴走が止まらなくなる前に自滅してしまった。善良な安倍氏には申し訳ないが,国民にとっては幸運であった。
 
小沢氏は,耽美的権力ニヒリストでもなければ,善良な夢見る右派観念論者でもない。彼は本質的に権力リアリストであり,国家理性に従うマキャベリストである。
 
小沢氏は,合理的リアリストとして,政治における権力の機能をよく知っており,国際政治においては,当然,軍事力を重視する。といっても,リアリストだから,安倍氏のように情緒的・観念的に突っ走るような愚かなことはしない。合法性を重視し,国連決議や憲法解釈ないし改正により正当化した上で,自衛隊の海外展開を図ろうとしている。
 
小沢氏は,グローバル化した世界を見据え,そこで日本国益を確保するため,国連の承認の下に自衛隊を積極的に海外に出し,活動させようとしている。ただし,日本の国益ないし国家理性があくまでも小沢氏の指針だから,その場合でも冷徹な国益計算はするであろうし,事実,彼は現にアメリカに対してですら,一定の距離を取ろうとしている。それは,自らの権力ニヒリスト的快楽のためにアメリカを利用した小泉氏とも,夢想のおとぎ話のためにアメリカにこびた安倍氏とも,小説的ロマンのために反アメリカを気取る石原都知事とも,異なる態度だ。彼は,現実主義的国家理性主義者なのだ。
 
このリアリスト小沢氏は,小泉氏と同じく,憲法解釈でも自衛隊海外派兵は可能としつつも,元来は改憲論者であり,9条を改正し自衛隊を合法化した上で,国連の承認の下に自衛隊を積極的に海外に派兵し,世界平和に貢献させるべきだという信念をもっている。
 
したがって,この自衛隊平和貢献論からすれば,近刊『世界』論文で小沢氏が「国連の活動に積極的に参加することは,たとえ結果的に武力の行使を含むものであってもむしろ憲法の理念に合致する」とし「私が政権を取って外交・安保政策を決定する立場になれば,ISAF(アフガン国際治安支援部隊)への(自衛隊)参加を実現したい」と述べているのは,当然といえる。このような考え方は小沢氏のかねてよりの持論であり,断固対決すべきはいうまでもないが,朝日のように雑誌発売前に特権的にブリーフィングを受け,したり顔で大騒ぎしなければならないようなものではない。
 
3.朝日「日本の新戦略」の危険性
特に朝日の場合,このような形で大騒ぎすべきでないのは,5月3日付朝日社説「日本の新戦略」が,小沢氏の議論と事実上同じ立場をはっきりと宣言しているからだ。日本の目標を「世界のための世話役」「地球貢献国家」と定め,こう述べている。(参照:「海外派兵を煽る朝日社説」2007.5.4)
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15 自衛隊の海外派遣
●自衛隊が参加できる国連PKO任務の幅を広げる
●平和構築のための国際的部隊にも限定的に参加する
●多国籍軍については,安保理決議があっても戦闘中は不参加が原則
 ・・・・01年に同法(PKO協力法)は改正され,凍結されていた本体業務への参加が解除された。停戦や武装解除の監視,緩衝地帯での駐留,巡回などが本体業務にあたる。まだこの分野での参加例はないが,今後は協力していくのが適切だろう。・・・・
 ・・・・将来的には現在のPKO法では認めていない,国連や公的施設の警護などにも範囲を広げる道も探る。・・・・
 ・・・・(戦闘中の多国籍軍への参加は)@誰の目にも明らかな国際法違反(領土の侵略など)があり,A明確な国連安保理決議に基づいて,国際社会が一致する形で集団安全保障(軍事的制裁)が実行され,B事案の性格上,日本の国益のためにも最低限の責任を果たす必要がある,といった要件をすべて満たす,極めてまれな場合でしかない。
                                     (朝日新聞,2007.5.3)
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この提言社説は,「極めてまれな場合」と限定しつつも,戦闘中の多国籍軍への参加までも認めている。こと軍事に関しては,「極めてまれな場合」といった類の限定が何の歯止めにもならなかったことは歴史が幾度も実証しているとおりだし,戦時と平時,戦闘員と非戦闘員が判然と区別できない21世紀の「新しい戦争」の実態を見れば,朝日の議論が非現実的なものであり,実際には小沢氏の自衛隊平和貢献論と同じであることは明白である。小沢氏が論理的に明確に述べていることを,朝日は不誠実にぼかし,ごまかしているだけの違いだ。
 
4.何が「疑問符」なのか?
朝日の自衛隊平和貢献論は,小沢氏のそれと実質的には同じものだ。だから,いつものように進歩派ぶって「論文にはいくつか基本的な疑問がある」と大見得を切ってみても,どこが疑問なのやら,さっぱり分からない。支離滅裂,みっともない社説になっている。
 
社説によれば,疑問は「まず,国連のお墨付きがあれば武力行使に参加できると読める点だ」そうだ。まだ小沢論文そのものを読んでいないので確言は出来ないが,合理的リアリストの小沢氏がそんな浅薄な議論をするわけがない。そう「読める」とすれば,朝日の文章読解力は小学生以下だということになる。朝日記事を入試問題に使うのは金輪際やめた方が良さそうだ。
 
国連決議については,「それぞれの背景にある国際社会の合意の実態を踏まえて,判断しなければならない」と,小沢氏も当然考えているはずのことを得意げに指摘している。そして,何と,次のように続ける。
 
「米国のアフガン作戦は国連そのものの枠組みではないにせよ,国際社会の広い共感はあった。『あれは米国の戦争』と切り捨ててしまうには違和感がある。」
 
馬脚を現したというか,あまりにもお粗末というべきだろうか。アフガン戦争は「米国の戦争」ではなく国際社会の戦争だから,テロ特措法を延長せよ,自衛隊をアフガンに派兵せよ,と朝日はいいたいのか? きっとそうにちがいない。朝日は現代紛争についてあまりにも無知であり,あるいは知っていても知らない振りをしており,現代紛争への派兵の危険性を真面目に考えようとはしていない。合法性を派兵の歯止めとしようとする小沢氏よりも,むしろ朝日の議論の方が危険だ。「疑問符」も何もあったものではない。朝日社説の方こそ滅茶苦茶な疑問符だらけの議論だ。
 
なぜ朝日社説が,こんな惨めな支離滅裂に陥ってしまったのか? それは,朝日が小沢氏の自衛隊平和貢献論を認めているにもかかわらず,進歩派ぶって無理に「疑問符」をつけようとしたからに他ならない。「天に唾する」ようなみっともない議論をしなくてもよいように,朝日は5月3日の提言社説を撤回し,憲法9条の原点に戻るべきではないのか?
 
2007/10/05

選挙延期ほぼ決定

谷川昌幸(C)
10月5日,政府は制憲議会選挙延期を決定,選管は選挙手続きを停止した。次の選挙日は未定。
 
選挙については,議会諸政党が様々なことをいっているが,本音は議席を持つ全政党が延期を期待している。NC,UML等の議員諸氏は,任期はとうの昔に切れているのに選挙なしに議員復権し,またマオイスト83(84)議員はお手盛り指名で,これまた選挙なし。ネパール議員の諸特権は,よだれが出るほどおいしいもので,マオイスト議員も含め,330人が党派を超え選挙忌避特権集団を形成しているといってよい。
 
国連は面目丸つぶれで,UNMINも1月までの任期を延長せざるを得ないだろう。だが,これで困るのはマーチン氏くらいで,他の職員は冷房完備トヨタ車使用の特権的地位が延長され,困ることは特にない。特に現地雇用スタッフは仕事が継続され,喜んでいるにちがいない。
 
わが陸軍兵6名は困るか? これも困りはしない。要員を交代させ,南方実戦訓練が継続できる。これは日本陸軍(自衛隊)にとって得難いチャンスだ。
 
だから,選挙なんかやらなくても,関係者は誰も困らないのだ。選挙はダシで,国際社会からカネをせしめ,多くの人が特権的生活を続けられる。選挙への切実な動機が,どの党派にも,国連関係者にすら,実際にはないのだ。
 
しかし,このネパールの特権体制Establishmentは,人民とは決定的に乖離している。そして,人民もそのことに気づきつつある。マオイストのような人民の「動員」ではなく,その怒りに火をつけ,扇動し,誘導できる有能な指導者が出てきたとき,ネパールは人民参加型クーデターか本格的な社会革命になる。本番は,おそらくこれからだろう。
 
* eKantipur, Oct.5, 2007