2007/09/29

ネパール平和構築と日本の役割(2)

谷川昌幸(C)
2.憲法の基本構造
 この平和実現のためにいま最も重要なのは,いうまでもなく国家をいかに構成するかを定めた憲法を確定することである。すでに多くの議論があるので,以下では,これまで見落とされてきた点を中心に述べていく。
 
2−1.成文憲法の限界
 まず第一に注意すべきは,成文憲法はごく限定された役割しかなく,あまり多くをそれに期待すべきではないということである。成文憲法は,それを守る立憲主義の精神,つまり遵法精神がなければ,単なる文字にすぎず,何の意味もない。
 たとえば,日本国憲法第9条は「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と規定しているが,日本政府はこれを完全に無視している。日本は世界有数の強力な軍隊を持っている。しかも,この4月,陸軍兵6名をネパールに派兵した。これらは完全な憲法違反だ。憲法第9条は文字としては書かれているが,現実にはほとんど無いに等しい。このように,立憲主義の精神がなければ,成文憲法は何の意味もないのである。
 ネパールでは,残念ながら,立憲主義の精神が日本以上に確立していない。1959年憲法は優れた憲法であったが,ほとんど守られなかった。1990年憲法は立憲君主制の憲法としては世界で最も優れた憲法の一つであり,守られておれば憲法改正の必要はなく,ネパールは民主主義国になっていたはずだ。ところが,諸政党も国王もこれを守らなかった。そればかりか,この1月,8政党が合意して制定した2007年暫定憲法ですら,たとえば第159条(3)decision about whether or not to give continuation to the monarchyや第63条 Formation of the Constituent Assemblyなど,最も重要な規定ですら否定しようとする動きがある。自分たちが決めた暫定憲法を,わずか6月後にもう否定しようとする。立憲主義の精神の欠如は明白だ。これは人の支配であり,法の支配ではない。
 1959年憲法も1990年憲法も守られなかった。それでも新しい憲法は守られると,どうしていえるのか? 新しい憲法を作っても,守られなければ,単なる文字であり,何の意味もない。
 
2−2.実践としての憲法
 成文憲法を守らせるのは,立憲主義の精神であり,この精神の育成には長い実践経験が必要だ。近道はない。現行の法を,たとえ自分は反対であっても,廃止されるまでは守る,という法遵守の地道な実践を一つ一つ積み重ねていくことにより,徐々に法の支配の慣習,立憲主義の精神が成立する。憲法は,成文憲法と憲法慣習とを合わせたものである。有効な憲法は,この実践としての憲法のことである。
 
2−3.安定した強力な国家権力
 現行の法を守らせるには何が必要か? それはいうまでもなく,安定した強力な国家権力だ。しばしば誤解されるが,権力と暴力は別のものであり,ハンナ・アレントがいうように両者は峻別されるべきだ。国家権力は,国民の自由や権利を守るためにある。強力な国家権力のないところに,自由も権利もない。国家権力が弱いと,違法行為を防止できず,弱者や少数者を強者や多数派の暴力や抑圧から守ることが出来ない。
 ネパールで自由や権利が十分に守られていないのは,国家権力が強いからでは絶対にない。国家権力が弱いから,ネパール人民の自由や権利は守られていないのだ。国家権力は社会の強者や多数派に法を守らせるものだから,当然,彼らの持つ力よりも圧倒的に強力でなければならない。国家権力は暴力をなくすためにある。
 この強力な国家権力を生み出す最も効果的な方法は,民主主義だ。国家が民主的であればあるほど,その国家はより多くの正統性をもち,国家権力はより強くなる。第二次世界大戦でアメリカが日本に勝利したのは,民主主義のアメリカの国家権力の方が全体主義的天皇制の日本の国家権力よりもはるかに強かったからだ。民主化の目的は,国家権力の強化にある。
 ネパールでも,民主化により,より安定した,より強力な国家権力を創り出し,この権力により憲法や他の法律を守らせることが必要だ。既存の法を守る努力を通して,法の支配,立憲主義の精神が少しずつ形成され,国家権力による強制なくしても憲法や他の法律が守られるようになってくる。この時,憲法は国民の実践として生活の中に定着したものとなる。イギリスは成文憲法をもたないが,国民生活の歴史そのものが生きた憲法である。イギリスのような不文憲法こそが,理想の憲法と言える。
 それはともあれ,すべての成文憲法は不完全な妥協の産物である。ネパール新憲法も諸勢力の妥協により作らざるを得ない。満足し得ない勢力が生じることは避けられないが,いったん新憲法をつくったなら,改正までは誠実にそれに従うという宣言を,全政党があらかじめするべきだ。この当たり前のことが実行できないなら,新憲法を作っても無意味だし,平和も実現できないだろう。
 
3.君主制か共和制か
 新憲法の具体的な争点について見るならば,まず第一に,君主制か共和制かの選択が問題になる。これは暫定憲法第159条(3)により制憲議会選挙後の最初の議会の単純多数決で決定すると決められているので,この手続通り決めるべきだ。そして,その決定には全政党が服従すべきだ。決めたことは守る,これが立憲主義への第一歩だ。
 では,この選択肢の一つである君主制はどのような君主制か? すでに政治権力を行使する王政は完全に否定されている。選択は,儀式的王制とするか共和制とするかである。
 
3−1.儀式的王制
 国家の統治には,精神的権威と政治的権力の2つの要素が不可欠だ。権威だけでも権力だけでも統治は安定しない。
 民主国では,国家の政治的権力は人民により選ばれた首相や大統領が担当する。国家の権威は,君主が担う場合と首相や大統領が担う場合がある。いずれがよいかは,その国の事情によって決まる。
 ネパールの場合,王制の長い伝統と,多民族・多文化の社会状況から見て,儀式的王制の方が政治の安定には適している。
 儀式的国王が国家の象徴だと,選挙で政権交替が起こっても,国家の継続性は国王によって象徴的に保障される。もし首相が国家の権威の象徴だと,首相の失政で国家の権威そのものが直接傷つき,政権交替で国家の継続性さえ危うくなる恐れがある。政治権力を一切持たない儀式的国王が国家を象徴する場合,国民統合の安定的維持はより容易である。
 また,首相が政治権力をに加え,国家のシンボルとしての精神的権威も合わせ持つことになると,首相の個人崇拝となり,民主独裁となる危険性が大だ。首相が疑似国王となるのだ。これは世界中に多くの実例があり,国王独裁よりもはるかに危険である。儀式的王制は,精神的権威(国王)と政治的権力(首相)を分割することにより,この民主的独裁の危険性を防止する優れた工夫である。
 
3−2.政教分離と儀式的王制
 さらにネパールにおいて,世俗国家化,政教分離を進めて行くには,儀式的王制の方がはるかに安全である。
 ヒンズー教徒が国民の約80%を占め,宗教が日常生活の中に生きているネパールにおいては,国家が宗教と無関係であることは不可能だ。ダサイン等々の多くの宗教行事に,国家はかかわらざるを得ない。
 完全な共和制にすると,それらの宗教儀式は首相がすることになる。たとえば,9月4日コイララ首相がパタンのKrishna Mandirで国家元首として祝福を受けた。これは宗教儀式であり,世俗国家,政教分離の原則に反する。コイララ首相は,イスラム教徒,キリスト教徒,無宗教の人々などの代表でもある。これらの人々は,コイララ首相のこうした宗教行為を許容しないだろう。世俗国家になったにもかかわらず,首相,国会議長,最高裁判所長官などがこうした宗教行為をすれば,必ずネパールもインドなどと同じく激しい宗教紛争に陥る。これは,ネパールの選択すべき道ではない。
 もし儀式的王制であれば,政治と無関係の国王が儀礼として宗教儀式を分担することになり,政教分離はより容易だ。長年の慣行であり,国民多数も認めている。
 以上の観点から,私は,ネパールは儀式的王制の方がよいと考える。私の王制に対する意見は,10年前と全く同じだ。参照 Rationale of the Kingship in Nepal,1996(http://www.edu.nagasaki-u.ac.jp/private/tanigawa/npl/archives/kingship.pdf)
 
3−3.共和制と儀式的大統領制
 しかし,この儀式的王制は,国王が政治権力の完全放棄に同意しなければ実現しない。残念ながら,今のところ国王や王党派はそのような動きを見せておらず,このままでは共和制への移行は避けられないだろう。
 ネパールが共和制になった場合,問題は国家・国民のシンボルを誰にするかだ。ガンジーのような偉大な国父がいればよいが,そのような人物は見当たらない。結局,ネパールは儀式的大統領制を選択せざるを得ないことになろう。民族,宗教に関わりなく国民から尊敬される人物を,国家・国民統合の象徴として大統領に選び,様々な儀式に出席してもらう。
 この儀式的大統領制は,実際には,儀式的王制とあまり変わりないものになるであろう。
 
4.民族と連邦制
 憲法のもう一つの重要問題は,民族や地域の権利をどこまで認めるかだ。具体的には,これは現行の一元的国家体制を改良して維持するか,それとも連邦制にするか,という形で議論されている。モデルは二つある。
 
4−1.個人主義的自由主義的民主主義
 一つは,国家は公的領域ではすべての人を独立の人格として平等に扱い,諸権利を公平に保障し,民族や文化などは私的な領域に属するものとして,そこには介入しないとする考え方。すべての国民は,民族や文化に関わりなく一人に一票を与えられ,国家の政治に参加する。個人主義的自由主義的民主主義。フランスがその典型だ。
 このモデルでも,分権を進め,地方自治を拡大すれば,地域の実情にあった政治は出来るが,言語など多くの問題について,結局は,社会の多数派が優先され,少数派の権利は侵害されるという問題が生じる。
 
4−2.多元的包摂的民主主義
 これに対し,民族,言語,宗教等の諸社会集団に集団としての権利を認め,集団代表や集団自治を認める多元的包摂的民主主義の考え方がある。
 議会は集団代表制やクオータ制とし,分権も単なる地方自治ではなく,民族自治,あるいは民族ごとの連邦制とする。
 これは,たしかに言語など集団の権利は守りやすいが,集団をどう定義するか,集団内の少数派の権利をどう守るかなど多くの問題が残る。たとえば,何世代も前からタライに住むチェットリ男性がネワールの娘と結婚し,教師をしている場合,彼の家族はどの社会集団に属するのか? 集団を作る基準は無数にあり,また集団は流動的だ。集団の権利は,アイデンティティ政治となり,人々に多くの重層的アイデンティティの中から一つの所属集団アイデンティティだけを選択することを強制し,その集団アイデンティティを固定・強化し,集団を相互に敵対させ,紛争を拡大させ,国家分裂をもたらす危険性すらある。
 多民族・多文化のネパールで,社会集団の権利を無視することは出来ないが,集団代表制や民族自治や民族連邦制にすれば問題が解決するということにもならない。
 
4−3.一元国家と二院制
 この問題にはクリアカットな解決はない。連邦制は邦区画・分割の困難さに加え,国家統一を危うくする恐れ,および邦内の少数派の人権侵害の恐れがあり,賛成できない。現在の一元的国家体制を維持しつつ,リージョン,ゾーン,郡,村等への分権化を図り,地方自治を強化していくのが現実的だ。
 国政については,二院制とする。下院は1人1票の個人主義的自由主義的民主主義により選出する。上院は民族,地域,職業等の社会集団代表を中心とする。下院優位とするが,第一義的に民族,地域,職業等にかかわる事柄については上院に一定の優先権を認める。
 これはむろん二原理の妥協だが,現状ではこれが現実的な最善の選択肢だと思う。
 
5.マオイスト運動と国際社会
 既存のネパール社会にはカースト差別,地域格差など深刻な構造的諸問題があり,マオイストが人民戦争によってそれらを激しく攻撃し,根本的な革命的変革をもはや不可避のものとしたという点では,マオイスト運動は「成功」である。この「成功」は,ネパールと同じように,中央政府権力が弱く,革命根拠地を建設しうる地方遠隔地があるような国々の革命勢力には大きな刺激となるだろう。直接的には南アジアや東南アジアだが,中南米やアフリカにおいても,そうした条件は多かれ少なかれ存在しているので,それらの地域の革命勢力は,多くの教訓をネパール・マオイスト運動から学ぶことが出来るにちがいない。
 先進諸国には,今のところマオイスト運動の起こる社会的条件はないが,自由市場経済化は先進諸国にも急速な格差拡大を引き起こしており,もしこれがこのまま続いていけば,先進国でも社会不安が拡大し,ネパール・マオイスト運動の「成功」が反体制派を結束させ,運動を激化させる可能性はある。
 しかし,ネパール・マオイスト運動は,強いナショナリズムや個人的人格的リーダーシップなど特殊ネパール的要素が強い運動であり,国境外への影響は間接的な精神的なものに限定され,直接的な国際的共闘関係の拡大というようなことは起こらないと思われる。
 
6.ネパール平和構築への日本の役割
6−1.世界と日本の責任
 ネパール・マオイスト運動は特殊ネパール的性格の濃い運動だが,それを引き起こした最大の要因は,先進国主導の世界の市場社会化である。
 アメリカを筆頭とする先進諸国は自由市場化を世界に拡大し,1990年代になるとインドに続きネパールにもそれを強制した。この自由市場化で,先進諸国の世界企業,たとえば日本のトヨタ,キャノンなどは安い労働力と市場の拡大により巨大な利益を得,ネパールへも多くの商品を売り儲けてきた。
 ところが,ネパールは他の多くの途上国と同様,この急激な自由化に適応できず,公営企業は解体され,伝統的産業は衰退し,多くの失業を生み,開発格差が急拡大し,そしてついには人民戦争を引き起こしてしまった。したがって,日本は,他の先進諸国と同様,ネパールの人民戦争に責任があり,平和構築支援への義務を負っているのである。
 
6−2.日本政府の意図は軍事的支援
 日本政府は,ネパール平和構築支援として,UNMINに6人の要員を派遣した。UNMINは政治ミッションだが,日本政府が送り込んだのは陸上自衛隊の兵士6名である。日本政府は公式には非軍事的支援と説明しているが,少なくとも日本政府にとってはこれは大きな軍事的意味をもつ支援であり,日本国民も自衛隊員を派遣しているのだからネパール平和構築に対する日本の軍事的貢献と見ている。
 しかし,これは二つの理由で,全くの誤りであり,ネパール国民は日本政府に対し,6兵士の即時撤退を要求すべきである。
 第一に,日本の自衛隊は,日本国憲法第9条「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」に明確に違反している。ましてや自衛隊の海外派兵は完全な憲法違反である。日本政府は,ネパールの制憲議会選挙,憲法制定を支援し,立憲主義がネパールに育つことを期待している。ところが,その日本政府が,違憲の自衛隊をネパールに派遣するという明白な憲法違反をしている。日本国憲法を守らない日本政府に,ネパールの立憲主義を支援する資格はない。ネパール政府および人民は,日本政府に対し,日本国憲法を守ること,そして陸上自衛隊兵士を即時撤退させることを要求すべきである。
 第二に,ネパール紛争の原因は,グローバル化による開発格差拡大にある。平和構築は開発格差縮小なくしてはあり得ない。その格差縮小に,自衛隊6兵士は何の貢献が出来るのか? 何も出来ない。日本政府は,わずか6名の兵士派遣のために,間接経費も入れると莫大な予算を使っている。この巨額予算は,ネパール平和構築にはほとんど役立っていない。
 ネパール人民は,6人の日本兵士はネパール平和構築のために派遣されているのではない,ということをよく知るべきだ。日本政府は,日本を再び軍事大国とするため,自衛隊の海外派兵の計画を着々と進めている。初めは自衛隊員を災害救援要員や非武装のPKO要員として派遣し,そして次はインド洋のアフガン支援艦隊やイラクへの後方支援部隊の派遣などを実施した。昨年末には,それまで1ランク下の防衛庁だったのが,他の省と同格の防衛省に昇格した。ネパールへの6兵士の派遣は,その新防衛省の初の海外派兵であり,日本の軍事化の先兵なのだ。ネパール派遣日本6兵士は,日本軍国化のシンボルだ。ネパール派兵の主たる目的は海外派兵の訓練と宣伝であり,決してネパール平和構築支援ではない。
 
6−3.開発援助:平和的手段による平和実現のために
 ガルトゥングがいうように,平和は平和的手段により実現されるべきだ。ネパールについても,ODAあるいは他のチャンネルを通した開発援助を,日本政府はもっともっと増加すべきだ。世界社会の基準からして,現在の日本の開発援助は少なすぎる。
 ところが近年,日本政府は巨額軍事費は維持する一方,ODA予算を大幅に削減している。これは日本国憲法の精神の侵害である。しかも最近,日本軍事関係者がネパール軍人に接近する動きを見せている。ネパール人民は,開発援助のかわりであるかのような,そうした日本とネパールの軍事関係の強化を願うのか? もしそうでないのなら,この動きにはっきりとノーというべきだ。そして,すでに派遣されている6兵士の即時撤退を要求すべきだ。ネパール人民にとって,そしてまた日本や他のアジアの人民にとっても,派遣6自衛隊員の存在は無意味というよりは,むしろ軍事的意味をもち危険であるからである。
 これに対し,これまでの日本のODAやNGO活動は,十分とは言えないにせよ,かなり大きな成果を上げてきた。多くのネパール人がこれには感謝し,私たち日本人民もそれを喜んでいる。この平和的な支援をもっともっと強化すること。これが,結局は,ネパールに平和を実現する一番の近道だ。私たち日本人民は,ネパールの友人とともに,平和のための開発援助の拡大を日本政府に要求していきたいと考えている。
2007/09/28

インドラ祭と祭政一致

谷川昌幸(C)

9月25日,ギリジャ首相がインドラ祭に出席した。昨年まで国王が担ってきた祭祀を「世俗国家の元首」として引き継いだのだ。

インドラ祭には様々な意味があるようだが,政治的には,支配者の宗教的正統化が最大の目的だ。ヒンズーの神々や仏教の神々により祝福され支配の正統性が保障される。神々の政治的保護者を神々が宗教的に守護する。宗教儀式そのものだ。世俗国家の元首がこんな祭政政治をやってよいのか?

こんなことをすると,ろくでもない結果になる。今年のクマリ山車は,車輪が壊れ,泥溝に落ちたそうだ。また,ギリジャ首相も伝統的なクマリ礼拝行事は実際にはほとんど出来なかったらしい。理由は不明。

政教分離をやっていれば,山車がひっくり返ろうが政治とは無関係だ。それなのに,コイララ王朝をつくろうとするから,生臭宗教に足を引っ張られるのだ。

蛇足ながら,マオイストの方も9月23日,マハラ氏がインドのヨガ・グルと一緒に記念撮影し,新聞一面に登場したのには,ガックリ。インド某筋がヒンズー原理主義応援か何かの目的で送り込んできたと思われるかなり怪しいヨガ・グルと,なぜマオイストが記念写真を撮るのか? ずっこけ,階段から転げ落ちるところだった。

(写真)インドラ神と犠牲の血に染まる石畳

2007/09/25

UNMINと日中の存在感格差

谷川昌幸(C) 
1.日本の存在感なし
9月23日(日),ニューバネスワルのUNMIN本部へ行った。あれ? 西側職員はみなお休み。ここはネパール,西洋休日に合わせる必要はないのにね。といったことを,一見恐ろしそうな警備隊長とだべってきた。隊長氏によると,私はチェットリに似ているそうだ。こんな弱い兵隊ではすぐ負けるのにね。UNMINは高給だし,仕事は楽だし,天国だね。日本人はいるの? と聞くと,いるらしいけれで知らないね,といっていた。存在感まるで無し。

2.中国の圧倒的存在感
UNMIN本部は不思議なところにある。中国援助のばかデカイ国際催事場の右半分と別棟をUNMIN本部が使用している。中国の国威発揚施設だから,写真のようにUNMINはまるで中国の出先機関のよう。中国の圧倒的な存在感。勝負あり,といったところだ。

3.国連官僚主義
翌24日,UNMIN本部に行き,内部を見てきた。これはご立派! こんな御殿で「平和構築」出来るなんて幸せだ。

広報部に行きUNMIN活動に関する報告書か何か無いかと聞くと,何も無いという。最高紙質の広報紙とビラ数枚だけ。それはないだろう! 世界中から金を集め,こんな5星ホテルのようなところで仕事をしていて,一般向けの資料はない。国連大学もそうだが,国際機関はやたら豪華で庶民には開かれていない。国際官僚主義が進行しているのだろう。

4.日本の不思議な存在感
UNMIN本部への出入りを観察していると,見た限りでは,西洋人と現地採用ネパール人のみ。西洋人の相当数はNGO関係者のようだ。自由に出入りしている。ここでは日本の気配はつゆ感じられない。これからは日本人も遠慮せずヒマラヤ観光のついでにUNMIN見学をするとよい。自分たちのカネがどう使われているか,よく分かる。

これと対照的なのが外の駐車場。ピカピカのランドクルーザー約40台,小型バス約20台,作業車・緊急車が十数台。「UN」の紋所がまぶしい。そして,見よ! ランドクルーザーの大半は,トヨタ車だ。圧倒的な存在感! 

日本ナショナリズム・大国主義感情をくすぐられ,大いに満足。うっぷんが晴れた。トヨタさん,お国のために,ありがとう。

.愛国者横断幕
この中国付属のようなUNMIN本部を出ると,やはりいました,例のラクシマン・シン氏。ヒンズー教祈願の愛国的巨大横幕が国際催事場の前に張ってある。中国とUNMINを借景としたよい構図だ。前回の世界貿易センター前といい,センスがいいなぁ。

6.物価高にあえぐ
愛国者横断幕の向かいの庶民食堂に昼食に入ったら,これは高い。金がないので一番安そうなスープだけ頼んだが,それでも消費税込みで70ルピー弱。パンも付かず水のような貧相なスープ。貧乏人は惨めだなぁ。国連インフレに違いない。これまで外人租界タメルだから高いと思っていたが,そうではない。庶民物価も,天井知らずのネパール株高騰に負けず劣らず高騰しているのだ。

ガソリン1リットルが100〜150ルピー(200〜300円)。それでもスズキ・タクシーは走り回り,その雲霞のごときスズキ車を蹴散らしピカピカUN高級車も平和な街をわがもの顔に走り回る。いったいどうなっているのだ?

7.排ガス格差カースト制
カトマンズ盆地には,おびただしい車の排ガスと糞尿細菌混在土埃が混ざったスモッグがよどんでいる。貧乏人歩行者や路上業者はそれをたっぷり吸い込み,バス乗客や小金持ちタクシー乗客も糞尿細菌混在排ガスを吸い吸い移動する。ところが,エアコン付き燃料多消費UN高級車は窓を閉め,平然と走り回る。排ガス格差,排ガス・カースト制。

先進国が途上国とかかわる場合,自国の生活基準,生活水準をある程度持ち込まざるを得ない事情は分かる。私自身,ネパール庶民と同じ生活は無理だ。それはそうだが,そこにはやはり遠慮あるいは節度が求められる。それが出来ないなら,途上国には来るべきではない。

もし私がネパール庶民なら,窓を閉め切り,ふんぞり返っているUN高級車にクラクションを鳴らされたら,ピカピカに磨かれた車体を思い切り蹴飛ばしてやるに違いない。エアコンくらい外し,庶民と同じ糞尿細菌入り排ガス空気を吸うべきだろう。

8.新しいカースト制
庶民から見ると,国連も先進諸国も,古いカースト制は自分たちにとって都合が悪いので,それを破壊し,排ガス・カースト制に象徴されるような新しいカースト制を作ろうとしているように見える。ネパールにおいて,国連ファミリーに入ることは,最上位カーストになることだ。そう見られている。

こんなことをしていると,庶民の間に怨念が静かに沈殿し過激原理主義を生み出すのではないか? ラクシマン・シン氏がそうかどうか分からないが,そんな気配は感じる。

そして,排ガス・カースト制において圧倒的な存在感を示しているのは日本だ,
(上位カースト)エアコン付きランドクルーザー。かつてはパジェロ,いまはトヨタ
(中位カースト)スズキ・タクシー,バイク(ホンダ,スズキ)
(下位カースト)バス,トラック(タタ,トヨタ,日産)
(カースト外)排ガス排出移動手段を利用しない(出来ない)人々
日本は,こんなところで存在感を示している。嬉しいような嬉しくないような。

(写真1)国際催事場前の愛国横断幕
(写真2)国際催事場と中国祭
(写真3)UNMIN駐車場
(写真4)糞尿細菌混入排ガスまみれのクマリ様(インドラ祭)

2007/09/24

ネクタイで首を絞める ネパール版鹿鳴館

谷川昌幸(C)
 近代化モデルが西洋だとしばしば悲喜劇が起こる。ネパールでは生徒のネクタイがその典型。ネパール版鹿鳴館といってよい。

この蒸し暑い南国(高地を除く)で,生徒にネクタイを締めさせたのは,おそらく特権的エリート校からだろう。「われらは西洋人と同様ネクタイを締めている。君らとはちがう」。こんなエリート意識が,他の私学にも拡がり,いまでは公立学校にも及んでいる。

小さな幼稚園児や小学生が,炎天下,ネクタイ姿で歩いているのを見ると,これはもう拷問だ。どうしてこんなくだらない,非人間的なことをするのか?

しかし,少し反省してみると,そもそも近代化そのものが身体と精神の人工的矯正であることに気づく。ネクタイ(近代的規範)で窒息寸前まで締め付け,もはやそれを苦痛ではなく快楽と感じるまで,身体と精神を矯正する。ネパールのネクタイ生徒は,その戯画化だ。

蒸し暑いネパールでネクタイなどしなくてもよいのに,というのは,すでにネクタイで調教済みの人間のノスタルジアだ。都会人が田舎の素朴を求めるようなもの。

亜熱帯でネクタイは愚劣で滑稽だが,それが近代化への道であり,近代化を求める以上,それは仕方ない。が,それはそうとしても,そんなことが,人類にとって本当に幸福かどうかは,考えてみる余地がありそうだ。

この点,偉いのはやはりガンジーだ。イギリス留学前後はネクタイ背広姿だったが,それがインドで生きる人々の自然(本性)に反すると悟って以後,ガンジーは質素な民族服で通した。ネクタイ背広に象徴される西洋をインドの規範とすることを彼は断固拒否したのだ。大英帝国総督との会見にも民族服姿だった。彼は問いかけた。インドの規範はネクタイ背広か民族服か?

背広姿でマッカーサーと会見した日本国天皇は貧相で卑屈で惨めだった。日本人たるものこんな姿は見たくもない。これに対し,質素な民族服姿で総督と会見したガンジーは,インドの自然(本性)を体現しており高貴な自由なる精神だった。

願わくば,ガンジーのようでありたい。が,西洋近代の横暴は,日本人の首を絞め終え,いまやネパールの人々の首を絞めつつある。背広を着た日本人は,ネパールの人々にネクタイは風土には合わないから止めた方がよい,とはいえない。残念ながら。

(写真)昼休みの校庭(記事とは無関係です。)
2007/09/22

選挙啓発と村の生活

谷川昌幸(C) 
9月22日,カトマンズからバスで約3時間,終点の尾根筋の小さな村に選挙の状況を見に行った。

1.選挙啓発ビラ
村の掲示板と小さなお堂の壁に選挙啓発ビラが貼ってあった。ビラはカラー印刷で,かなり上質だ。

2.選挙啓発紙芝居
村の水くみ場では,水くみに来た女性を相手に,紙芝居で選挙の仕組みを説明していた。これもきれいな図版で,相当の予算をかけていることがよく分かる。このような説明会がどの程度行われているのか? また,その効果はどの程度か? こうしたことも知りたいところだ。

3.村の生活の変化
村の生活は,7年前と比べ,かなり変化していた。一つは電気がかなり普及したこと。また,ケイタイをもっている人もいた。ちゃんと通じていた。

景観上,最大の変化は,トタン屋根の増加。尾根から見ると白く反射する。トタンは軽くて便利だが,景観だけを考えるなら,これは自然と調和せず,不自然だ。外人観光客のエゴではあるが,これはちょっと残念。

平和な古き良きこの村も,これから2,3年で,激変するであろう。残念だが,これも運命。仕方あるまい。

(写真1)村の掲示板に張られた選挙啓発ビラ。
(写真2)小さなお堂に張られた選挙啓発ビラ。
(写真3)水くみ場で選挙啓発紙芝居
(写真4)茶店・花・ヒマラヤ(ランタン?、ガネッシュ?)
(写真5)牛乳搾り・茶店・ヒマラヤ
(写真6)村遠景
2007/09/20

Justice for Govinda Mainali jailed in Japan

谷川昌幸(C)
ネパールに来ると胸がチクリと痛むのが,ゴビンダさんのこと。人権や法の支配について議論することが多いのだが,ゴビンダ事件があるかぎり,大きなことはいえない。違法捜査,無罪判決後の再勾留,上訴。こんな人権侵害,違憲上訴,人種差別を放置したまま,ネパールで人権や法の支配を説く資格はないからだ。

そこで9月19日,勝手連的に、「日本で投獄されている無実のゴビンダ・マイナリ氏に正義を」署名キャンペーンを実施した。一人でやるので,学生・知識人相手がよいと考え,場所はキルティプールの大学前とした。

大学に出入りする教職員の多くが,快く署名してくれた。すでに10年たつが,かなりの人が事件のことを知っていた。それだけインパクトが強い事件だったのだ。用意した署名用白布は午前中でほぼ埋め尽くされた。

一人でゲリラ的にキャンペーンをしても効果はないという批判もあろうが,事件を忘れずにいる日本人も少なくないことを知ってもらっただけでも,多少は意味があったのではないかと思う。風化しているのは足を踏んだ方で,踏まれた方は決して忘れてはいない。

記者が取材に来ていたので,どこかの新聞に記事が出るかもしれない。これもネパールでというよりはむしろ,日本において事件を風化させないためには必要なことだろう。ネパールでは決して忘れていないということを,日本人が再認識するために。

(写真1)看板屋さんで横断幕・署名用白布制作(バグバザール)。
(写真2)署名キャンペーン(キルティプール,大学入り口)
(写真3)署名で埋め尽くされた署名用白布

(配布ビラ)

Justice for Govinda Mainali jailed in Japan

Govinda Mainali was arrested in 1997 and falsely convicted for the murder of a Japanese woman. The inaccurate investigation, prosecutor misconduct and an incompetent Japanese justice system railroaded him to prison.
Despite the fact that the Tokyo District Court found Govinda NOT guilty in April 2000, he remained incarcerated. Then the Tokyo High Court overturned the District Court s ruling and sentenced him to life imprisonment in December 2000. He appealed to the Supreme Court, but it dismissed his appeal in 2003.
Govinda has maintained his innocence from the very beginning. He is now appealing for a retrial. Please support innocent Govinda Mainali jailed in Japan.
2007/09/19

マオイスト、政府離脱

谷川昌幸(C) 
1.政府離脱集会
9月18日午後,雷雨があがったので,人力車でガネッシュマン記念碑礼拝に出かけたら,ラトナ公園でマオイストが大集会を開いていた。いま政府を離脱したところだという。外人は,このような政治集会に近づいてはならないとキツイお達しが出ているが,見ると,ピクニックかサッカー大会のような感じなので,マオイストのお兄さんにボディチェックを受け,入場させてもらった。

2.型通りの集会,子供利用の愚
野外ステージではマハラ氏がアジ演説をしているが,動員された大群衆はあまりやる気がない。木に登っている少年はヤラセか? 

ケシカランのは,少年少女の動員。公立校の制服を着た男女生徒たちが赤旗をもち,バス駐車場からゾロゾロ出てきた。あのね,動物と人間を区別し,子供と大人を区別するのが,近代人権のイロハですよ。集団の権利,民族自決,言語権ーーバカらしくて話しにならない。なぜ子供を政治の道具に使うのか?

サッカーで選手が子供の手を引いて入場するのも見苦しいが,マオイストが子供に赤旗をもたせ,動員するのはもっと見苦しい。こんなものは断じて「人民」ではない。

3.娯楽としての集会
ステージの偉いさんは見せ物で,会場の大衆はそれぞれの楽しみを見いだしていた。マオ本販売。ネパールで一番人気のヒトラーがないかと探したが,無かった。ポルノはどうかと探したが,これもなかった。まだ,時間が早かったのだろう。

キューリ屋さんやアイスクリーム屋さんは,繁盛。キューリをかじりアイスなめなめ,偉いさんの話をダシに仲間とおしゃべり。これはマオイスト集会に限ったことではない。日本でもどこでも「大衆」とはこんなものだ。

4.終わりの始まり
マオイストの政府離脱で,選挙はほぼ不可能になった。当面は合法的闘争だろうが、国王が余計なちょっかいを出しさえしなければ,もはやマオイストに同調する政党はあるまい。マオイスト=国王共闘の可能性は大いにあるが。

ここで考えるべきは,昨年秋以来,地上に出たがため,マオイストは身元を丸裸にされてしまったことだ。駐留地の人民解放軍3万余名は「登録」され,丸裸(誰が名簿を管理しているのか?)。有力幹部も,情報は十分収集されている。これで,政府はその気になれば,一網打尽。あっという間に勝負がつく。

そして,マオイストが人民戦争を再開した場合、7党は結束すれば軍隊が使える。民主主義のための戦争であり,マオイストどもを一人残らず殺すか投獄してしまうだろう。民主主義軍の残虐さは,米軍を見ても分かるように,国王軍の比ではない。軍の民主化とはそういうことだ。マオイストは,抹殺されてはじめてそのことに気づくだろう。

5.クーデターの可能性
が,7党がまとまらなければ,クーデター。その可能性大だ。この場合,マオイストがクーデターを支持する可能性もある。クーデターはいやだが,国王=マオイスト共闘などといった奇怪な怪物だけは何としても御免被りたい。

6.儀式王制の英知
国王と王党派にとって,ここは考えどころだ。クーデターは短期的に成功しても,国際社会が許すはずがなく,長続きはしない。やはり,当初から私が提案しているように,国王,皇太子は退位し,政治権力を全くもたない象徴国王に王位を継承させるのがよい。そうすれば,マオイスト問題は残るものの,国家崩壊の危機は免れることが出来るだろう。

(写真1)バグバザール交差点。解放区化しつつある。
(写真2)ラトナ公園。マハラ氏演説中。
(写真3)マオ本販売。
(写真4)キューリ販売。
(写真5)アイスクリーム販売。
(写真6)マオ宣伝リキシャ,マオ宣伝タクシー。
2007/09/18

反時代的な記事と横断幕

谷川昌幸(C)
 1.反時代的記事(写真1,2)
私の記事「Unitary State, Ceremonial Monarchy and Japan's Role in Peace Process」がブルジョア週刊紙Newsfront(Sep.17)に掲載された。見開き2ページの大記事。

表題通り,多数意見を真っ向から批判したものだが,編集長が気を利かせ危ない部分をカットしてしまった。ちょっと残念。日本政府批判の部分も,やはり,ここぞ,というところをカットしている。これはもっと残念。

ネパールの新聞発行事情はよく知らないが,ゲラ校正なしで印刷だから,編集長権限は強いのだろう。日本では考えられないことだ。でも,まぁ,いいたいことは伝わっているので,よしとしよう。儀式王制を維持せよ,連邦制はダメ,共和制はダメ,陸自6隊員は即時撤退せよーーこの4要求は十分理解していただけるだろう。

2.反時代的横断幕(写真3,4)
こんな記事を書いた後なので過激共和派に見つからないように帽子をかぶり,例のトリプレスオールの世界貿易センター前にいったら,何とその向かい,バス停爆破テロ現場の筋向かいに,皇太子全快祈願大横断幕が掲げられていた。

ビックリ仰天。なぜ,ここに,これが! マオイスト同志は,なぜこんなものの掲示を許しているのか?

Laxman Singh氏は少々エクセントリックに見えるが,なかなかどうして,かなりの策士らしい。某公館方面,某日ネ関係方面との懇ろな関係も巷では噂されている(噂があることは事実だが,噂が事実かどうかは不明)。内輪もめばかりしている人権・平和関係者よりも,この方面の方が政治はうまい。ひょっとしたら日ネ右派共闘が出来つつあるのかもしれない。

地元の人や長期滞在の人には事情が分かるだろうが,人力車で名所見学をしている一観光客の私には,まるで見当がつかない。ネパールは本当に不思議な国だ。

(注)私の反時代的記事は国王反動を利するという批判は当然ありうる。それは甘んじて受ける。薬に副作用は付き物だから。
2007/09/17

アメリカン・クラブの怪

谷川昌幸(C)
 王宮前,カトマンズのど真ん中にあるアメリカン・クラブはどうも怪しい。写真を撮ると逮捕されるので,遠景で紹介しよう。

1.文部省前(タメル入り口)から(写真1)
アメリカン・クラブは王宮の南に接した広大な施設で,高い塀に囲まれ,小銃を構えた多数の武装警官(兵隊といってもよい)が24時間警戒している。平和ボケ(誉め言葉)の日本人が気づかず写真を撮ると,即逮捕。

日本でいえば,皇居前の広大な土地がアメリカに占領され,治外法権になり,お上りさんが記念写真を撮ったら即逮捕されるようなもの。その異常さ,国辱を考えれば,これがいかに傲慢な植民地主義的行為か一目瞭然だ。

なぜマオイストはリキシャを攻撃し,こんな売国的施設を攻撃しないのか?

2.選管前から(写真2)
いまやネパール最大の産業,選挙管理委員会。この選管ビルもすごい。たかが選挙のために,こんな豪華巨大ビル,パジェロ使い放題がどうして許されるのか? 警戒がいまほど厳しくなかった数年前,こっそり潜り込み探索したことがあるが,まぁ,暇つぶしが業務で,偉いさんの高級車ばかりだった。いまは警備兵が小銃で脅すので中には入れない。UNMINのおかげで,パジェロも激増したことだろう。

写真の手前,木の陰になっているのが旧英国文化会館。同じアングロサクソンでも,なぜこれほど品格が違うのだろう。英国文化会館は上品な植民地主義の見本で,建物も中の設備,サービスも文化の薫り高いものだった。私はいつもここを愛用していた。この廃屋ですら,ターナーの落日のような品格を感じさせる。

これに反し,このアメリカン・クラブの下品さはどうだ。文化のかけらもない。別の場所にアメリカン・センターもあるが,これも品格無し。利用者も少ない。スパイでもやっているのではないか? 軍事力がなければ,こんな国に威厳を感じる人はいないだろう。国力衰退,撤退後も文化の薫りを残す英国と雲泥の差だ。

高いアンテナも立っている。アメリカン・クラブといっても,イザとなれば,ここに米軍が進駐することは明白だ。これは軍事施設と見た方がよい。だから,写真1枚で逮捕するのだ。

3.王宮正面から(写真3)
王宮はいま,ひっそりとしている。右上奥が外人租界タメル。不良外人の一人の私もイザとなれば米軍に守ってもらうかもしれないので,あまり悪口は言えないが,いくら何でも,こんな施設を平然とつくる米国の神経は,信じがたい。ネパール人の誇りなど,歯牙にもかけていない。

もうこれからは,遠景からでも,写真は撮れないだろう。監視カメラで記録され,要注意外人となっている可能性があるからだ。

グーグルで見たら丸見えなのに,こんなことをしているのは,威圧効果を狙っているからだ。「ここに世界最強,米国がいるゾ!」 この脅しが,このこけおどし施設の目的だろう。全くもって下品だ。こんなことをしていると,優雅に衰退は出来ない。もう少し,文化的に上品にやって欲しい。
2007/09/16

ソフト統合型支援:NBSA

谷川昌幸(C)

「NBSA子供の日学校対抗クイズ大会」があるというので,いつものように,こっそり潜り込んだ。会場はラーニポカリ前の古き良きSanskrit University校舎(Darbar高校)。参加生徒は8年生までの中学生。

ネパールの障害者の状況について知識はほとんど無いが,少なくとも数年前までは視覚障害者や身体障害者が一人で街中で行動しているのを見ることはまずなかった。おそらく家庭内に閉じこもっていたのだろう。

ところが,最近は,車椅子や白杖で一人で行動している人を何人も見かけた。これは日本の現状と比較しても,大変な改善だ。まだまだ路上で物乞いする障害者が多数いるし,地方はおそらく手つかずだろうから,前途は多難だが,希望は持てる。

障害者支援については,物質的支援もさることながら,精神的エンパワーメントが重要なことを今日のクイズ大会で実感した。障害児は社会行動の場が少なく,人前での行動が苦手だ。そこで,クイズ大会など様々な機会を設け,発言,行動の練習をする。これにより,少しずつ社会行動になれ,自信をつけていく。

白杖や車椅子などを贈与するだけでは,おそらく障害児は外に出られないだろう。社会性が身に付いていないからだ。だから,社会性の育成,つまり社会行動のソフトウェアーの訓練,教育が重要となるのだ。

これは大切だ。モノや建物のような派手さはないので支援を受けにくいが,これからはこのような活動にこそ支援を拡大していくべきだろう。

クイズ大会では,各校の視覚障害児たちが間違えても物怖じすることなく,自信を持って回答していたのが印象的だった。

(写真1)クイズ大会会場。ダーバー高校(サンスクリット大学)校舎
(写真2)クイズ大会。

2007/09/15

ネパール行政文化の愉しみ

谷川昌幸(C)
 昨日,何回も確認し,案内にもそう書いてあるのに,イミグレはやはり10時には開かない。「ルール,約束を守らない」。これこそ伝統的ネパール行政の神髄だ。一日開かないことを半分期待しつつ待っていると,10時半頃からボツボツやってきて,だらだら仕事を始めた。30分もすると,もうフルーツ・タイム。申請者を立ったまま待たせ,中では果物を食べ,おしゃべり。これは愉快だ。

そこに半公認仲介やさんが約十人。「すぐやりまっせ!」と声をかける。これも実によい。ヒマラヤ遊覧飛行に何万円も出すより,イミグレ見学をしよう。

しかし,これに対し「ケシカラン」と怒るのは,濃厚味ネパール文化を知ろうとしない近代西洋人の傲慢だ。伝統的ネパール行政文化は,伝統的ネパール社会の文脈の中では,極めて合理的な仕組みである。

昨日も書いたように,時間の有り余っている大多数の人々は手数料を「時間」で払い,逆に時間はないが金はある人は「金」で手数料を払う。この金は仕事にあぶれている人の日当となり,失業救済,生活保障となる。何と合理的か!

この仕組みは社会全体に構造化され,これによりこの狭い国土で多くの住民が生活することを可能にしてきた。たしかアマティア・センがいっていたが,インド(ネパール)では近代化(西洋化)が始まるまでは大規模な飢饉はなかったのだ。これだけでも,伝統的社会の偉大さは十分に証明されている。

それなのに,先進国は浅薄な近代合理主義でこの人格的人間関係を破壊し,貨幣化し,人間をモノとして売買しようとしている。西洋人権運動家たちは人身売買は野蛮だと非難攻撃するが,グローバル資本主義こそが人身売買の仕組みではないか。ウソだと思う人は,日本援助のトリブバン空港へいってみよ。毎日のように,飛行機など見たこともないような地方の青年多数が,現代版奴隷商人に引率され,飛行機で中東などに売られていく光景を目にすることが出来る。アフリカの人々を奴隷として商品化し新大陸(これも先住民を虐殺して奪取したもの)に送り込んだのは,西洋人たちだった。アメリカ主導の先進諸国は,同じことをしている。ネパールの近代化,民主化は,伝統的社会を破壊し,商品としての労働者を創り出すためだ。ベンジャミン・フランクリンかだれかが,

Time is money.

と誇らしげに宣言した。何と浅薄な貨幣文化か! ネパールでは,決して「時は金なり」ではなかった。こんな非人間的思想は古代ギリシャでも軽蔑されていた。「時間」をもたないのは奴隷,自由な人間は時間を持つ。だから

 schole=暇=学問=学校

だったのだ。いま,ネパールの本屋さんが急速に劣化している。大規模書店以外の中小書店から,まともな本が消えつつある。また,以前は客待ちの人力車(リキシャ)車夫が新聞を読んでいる光景をよく目にし,この国の文化レベルの高さに感動したものだ。いま,そんなことをしている車夫やタクシー運転手はまず目にしない。彼らも「時間」を奪われ,新聞を読んでいる暇が無くなったのだ。

その古き良きネパール文化がまだ残っているのがイミグレだ。ネパールに来たら,ヒマラヤや寺より先にイミグレ見学に行こう。

が,残念なことに,文化は野蛮には勝てない。凶暴な資本主義の洪水に,いまネパールは呑み込まれ,押し流されつつある。はたしてこれはネパールの人々にとって,そして世界の人々にとって,幸せなことか?

結局,野蛮な先進国人の本性をむき出しにし「早くつくれ!」と恫喝し,12時半頃,発行させた。あとで,非文化的な行為を深く恥じた次第。でも,やはり腹が立ったなぁ。

(写真1)イミグレの庭に咲く花。文化の香りがする。
(写真2)ティージの大舞踏会(旧王宮)。こんな暇人の時間つぶしも,いずれ無くなるだろう。
2007/09/14

伝統的行政文化と民族舞踊の愉しみ

谷川昌幸(C) 
1.ビザも金次第(写真1)
ビザ延長のため,9月13日午後,イミグレにいったら,3時で終了,明日は10:00−13:00という。よい商売だ。外は豪雨,ベンチも満足にないので,軒下で雨宿りしながらこれを書いている。

ネパールの事務手続きはずいぶん合理化されたが,まだまだ人格的関係が残っており,大いに楽しめる。日本なら,証明書の発行は手数料と引き替えに機械的に行われる。法の支配,近代的合理的行政とはそのようなものだ。

ところが,こちらのイミグレには半公認の取次屋(ダフ屋)さんらしき人がおり,窓口が閉まった後でも100ドルですぐビザを発行してくれるという。私のように暇はあるが金のない外人には向かないが,逆の人には重宝だ。ビザ発行も人間関係に依存する人間味豊かな行政だ。以前は,どこでもこんな調子で,腹を立てつつも伝統的ネパール行政文化を楽しんだものだ。

今日は,イミグレで,古き良きネパールを久し振りに堪能できた。明日,10時に来て,「ティージで休みだよ」といわれたら,ネパール文化の真骨頂をもっと楽しめるはずだ。明日,窓口が開くかどうか? 乞う,ご期待!

2.民族博物館のネパール文化(写真2)
雨宿りのついでに,本館2階の民族博物館(入場料25ルピー)を見に行った。これもまた役人肥やし施設で,大いに楽しめた。

世はまさに「民族の時代」。もう少しやる気を出したら,どうかな。そもそも観光局ビルなのに,ビザ窓口は裏手,表玄関はランドクルーザーやら高級外車に占領され,展示室横の中庭では早くも出張パーティ。お役人天国。これまた古き良きネパールの文化だ。

3.民族舞踊の楽しみ(写真3)
異常気象豪雨はいつやむともしれず。観光局ビルで古き良きネパール文化を堪能したので,気分転換に,向かいの市民会館にこっそり潜り込んだら,学校対抗民族舞踊大会をやっていた。Namo Buddha Art & Media主催。各校が民族舞踊を披露し,優秀校を決める。

これがなかなか面白い。小中学生はみな芸達者。私学らしく衣装や舞台装置も凝っていて,ドライアイスの煙も出る。金を取ってみせるネパール民族ダンスよりもはるかによい。こんなものがダダで見られるなんて,ネパールはよい国だなぁ。外人は,むろん他には一人もいなかった。

(写真1)豪雨のイミグレ。本館左横。職員は室内ソファーで暇つぶし。外人客は立ちん坊。看板は傾き,i(愛)も無い。
(写真2)観光局ビル。2階に民族博物館。正面は高級車が占領。
(写真3)学校対抗民族舞踊大会。市民会館。
2007/09/12

皇太子回復祈願、バス停テロ、世界貿易センター

谷川昌幸(C)
不思議な取り合わせだが,いまのカトマンズの状況をよく示している。9月11日午後巡回。

1.皇太子回復祈念(写真1,2)
パラス皇太子が美食の果て心筋梗塞で入院したのがノルビック病院。外科では日本の一流病院と同等以上だ。

外には回復祈念の横幕。病院ビル入り口には回復祈念記帳所。入院5日後のせいか,警官はちらほら,やる気無し。落ち目は歴然。

ところが,二階テラス(写真1参照)で6ルピーのチャイを飲みながら観察していると,正装の男女が次々に記帳に訪れている。もちろん誰かは見分けられない。単なる想像にすぎないが,王制は案外ネワール社会では支持されているのではないか? 愛憎半ば。少数派ネワール(人口比5.6%)が政官財で特権的地位を維持してこれたのは王制のおかげともいえる。野蛮な征服者に名を与え,実を取る。文化的優位の民は,生き残るため,たいていこの戦略をとる。

もし共和制,比例代表制となれば,わずか5.6%の人口,いまの特権的地位を失い,少数派に転落する。私がネワールなら,弾よけとして利用価値のある王制を支持する。これはむろん想像だが,記帳者はたまたまかもしれないがネワールらしき人が多かった。

2.バス停爆破テロ(写真3,4,5)
ノルビック病院から西に徒歩10分弱のところに,9月4日午後4時爆破テロのあったトイプレスオルのバス停がある。怒りを押さえきれなかった。この道路はよく通る。このバス停はいつもバス待ちの生徒で一杯。そんなことは外人観光客の私ですらよく知っている。そのバス停を選んで下校時に爆破するとは,許し難いことだ。生徒を狙ったと考えざるを得ない。他の国でこんなテロが行われたら,社会は絶対に許さないだろう。モラルのかけらもない。

3.世界貿易センター(写真6,7,8)
そのバス停の向かいが,最近建設された「世界貿易センター」。地主はトリブバン大学らしい。資産活用か?はたまた流用か?どちらにせよ、大学資産が、下記のような形で使用されることは納得がいかない。

中に入ってみると,その豪華さに驚く。最上階にはボーリング場や宴会場があり,驚いたことに,平日昼間というのに,ゲイ(あるいは女装)大パーティが開かれていた。ゲイ(あるいは女装)の権利は尊重するが,これはどう見ても異常。向かいの爆破テロ現場を見下ろしながら,楽しくパーティが出来るとは!

さらに驚くべきは,こんな高級店ばかりの巨大ショッピングセンターが,大繁盛していることだ。レストランにも客は多い。貧乏外人の私には,とても利用できない。

やはり,これは異常だ。退廃というべきだろう。不謹慎を承知でいえば,どうしても爆破する必要があったのなら,なぜ向かいの退廃ビルを狙わなかったのか? 生徒下校時のバス停ではなく,夜間にこのビルを爆破すれば,効果大で,被害は搾取退廃ビルだけだ。これは,豪華退廃ホテルではなく人力車(リキシャ)を攻撃する論理とも似ている。

なぜ一部特権階級の退廃生活を攻撃せず,下層労働者,乗合バス庶民乗客,バス停の子供をターゲットにするのか? なぜ庶民はもっと怒らないのか? こんなことでは,右も左もない,本物の社会革命が必要になるだろう。  

(写真1)ノルビック病院。一階が回復祈念記帳所,2階が喫茶テラス。
(写真2)皇太子回復祈念記帳所
(写真3)トレプレスオル・バス停。世界貿易センター前から撮影。
(写真4)破壊されたバス停ベンチ。高性能爆弾がベンチ下で爆発。
(写真5)犠牲になった女生徒。バス停裏のレンガ壁。
(写真6)世界貿易センター。バス停の向かい。
(写真7)同上8階。宴会場とゲイ(又は女装)パーティ出席者たち。
(写真8)同上。吹き抜けとエレベーター。1階には仏像安置。
 
2007/09/11

人間疎外、物価高、株高

谷川昌幸(C)
ネパールの人には悪いが,いまのネパールは経済学や政治学の実習地として最適だ。来年度の政治学演習はネパールとしたい(夢だが)。

1.人間関係の貨幣化
たとえば,人間疎外。スーパーが出現するまでは,たいていの買い物は値段交渉で行った。売買は値段交渉を通した濃密な人間関係,人格的関係で成否が決まった。商店はむしろ社交場だった。資本主義化した日本から来た私にとって,それは何よりも面白い体験だった。ちょっとした買い物が目的だったはずなのに,値段交渉しているうちに,買い物より話しの方が主となってしまったという経験が日常的にあった。

ところが,十年ほど前のスーパーの出現により,商品に値札がつき,売買は貨幣を媒介とした物のやりとりとなってしまった。人間疎外,人間関係の貨幣化だ。

今回,さらに驚いたのは,ペットボトル・コーラや紙パック・ジュースに,定価が最初から印刷されるようになったことだ。資本主義の先兵コーラ帝国主義は,ネパールの濃密な人間関係を資本主義化の障害と見なし(この認識は正しい),これを破壊し,人間関係の貨幣化を押し進めようとしているのだ。

事実,ジャマルの商店で初めてペットボトル・コーラを買い「はい,32ルピー」といわれたとき,「ちょっと高い,まけられへん」と交渉しようとしたら,店主は「ここを見よ,32ルピーと書いてある」と断固いい放った。店主との人間関係は定価表示により瞬時に絶たれ,貨幣化されてしまった。売買から人格的要素を排除し貨幣化することによって合理化するという,資本主義の要請に見事に応えている。定価印刷の威力だ。恐るべし,コーラ帝国主義!

2.物価高,株高
貨幣化の始まったカトマンズは,金余りで大変な物価高,ルピー高。先日,王宮前の喫茶店に行ったら,100ルピー以下のものはほとんど無く,仕方なく100ルピーのバナナラッシーだけを飲んで退散した。この店の客はほとんどネパール人。流行っている。

金はだぶつき,行き場を求め,不動産から株に向かっている。大変な株高だ。十数年前(もう少し前か),株式取引所開設というのでディリーバザールに見に行った。貧相なもので,銀行など上場も数えるほどだった。そのころ10万円ほど投資しておれば,いまは大金持ち。コーラをラッパ飲みできたのに,残念!

3.安い日本レストラン
少なくとも外人むけレストランは,めちゃくちゃ高い。大学食堂と同等か,ファミレスなみ。豪華ホテルはトイレ拝借だけなので不明。

外人租界タメル付近では,いまや日本レストランが一番安い。安さゆえに,日本食を食べる。客もネパール人や西洋人が多い。かつては日本レストランは高くて入れなかった。隔世の感。

そんな中,さる方に連れて行ってもらった小料理店は,比較的安く美味かった。チベット料理のツクパが40ルピー前後。薄味のラーメンかソーメンのようなこの料理は,淡泊な日本人には向いている。3回目なのに,女店主はもうニコニコ,2ルピーまけてくれた。人格的関係の成立。うれしいなぁ。

写真は,その小料理屋の入り口。女性は隣のお店の売り子さん。借景であり,本論とは無関係。
2007/09/10

曇天遠雷、反動記事投稿

谷川昌幸(C)
カトマンズは、昨日から少し秋めいてきたものの、依然、うっとうしい曇天、雨。おまけに何が悪いのか下痢と風邪の毎日。ミネラル(Rs10-12)が怪しい。水道水かな?

政治も曇天。こちらはますます悪化。パンドラの箱を開けるなといってきたのに、もはやどうにもならない。タライのテロがカトマンズにも広がりそうな状況。そうなれば、たぶんクーデターだろう。わが陸軍兵諸氏も難しい状況に立たされる。なんといっても、日本国家の兵隊だから。

こんなうっとうしい毎日、憂さ晴らしに遠雷のような、犬の遠吠えのような反動記事を書き、こちらのブルジョア反動週刊紙に投稿した。やたら長い八つ当たり記事。この「評論」の英語版のようなものだ。

こちらの政治家、知識人たちが、オームのように、メダカの学校の生徒のように繰り返している「進歩的」議論を真っ向から否定したトンデモナイ反論記事だ。掲載する勇気があるかな? もし掲載されたら一大事、非難攻撃の雨あられ、隠れ家を探しておこう。

写真は(9月5日)、雨上がりのカトマンズ市街。ソルティHの隣のグランドHから撮影。この両ホテルは、植民地的雰囲気を今に残す貴重な存在。マオイスト流にいえば「半封建的半植民地的」。特にソルティHは超豪華植民地風。貧乏外人でもトイレ拝借かコーヒー1杯なら利用可能。古きよき時代の退廃的植民地気分を味わいたい方にお勧め。

曇天遠雷的反動記事は、9月17日(月)の某ブルジョア反動英語週刊紙に掲載予定。
2007/09/06

ネパール平和構築と日本の役割(1)

谷川昌幸(C)
 1.平和構築の見通し
 ネパールの平和構築は,短期的には悲観的な状況だが,長期的に見ると,成功の可能性は高い。

1−1.悲観的なシナリオ
 現在の8党は,反国王では一致していても,それ以外の点ではほとんど一致していない。否定では合意しても,積極的建設では合意できていない。平和再建は,基本諸原則で合意し,他の具体的な政策では政治的妥協をすることによってのみ,達成できる。今のところ,8党はその基本諸原則ですら合意できておらず,したがって政治的妥協も出来ない状況にある。
 政治は「可能性の技術」であり,議会は政治的妥協の場である。この議会における政治的妥協は,社会が経済的,文化的に大きく分裂しているところでは不可能だ。いまのネパールは,残念ながら開発格差が大きく,議会での政治的妥協が困難な状況だ。
 開発格差は,客観的および主観的な格差である。1990年以降の経済自由化で,ネパールの開発格差は急拡大した。それは諸統計により客観的に裏付けられている。ネパールは開発格差を示すジニ係数の悪化がアジアでは中国の次に大きい。実質的には,ネパールの開発格差はアジアで最悪と言ってよい。一方,教育の普及と情報化により,地方の人々もカトマンズの繁栄や,東京,ニューヨークなどのけた外れに豊かな生活を見聞きするようになった。地方の貧しく苦しい生活とカトマンズの豊かな生活,あるいは東京の夢のような生活。両者の格差は巨大だ。格差は主観的・心理的なものでもある。
 この3月,チトワンで衝撃的な光景を見た。広大な麦畑で,多くの家族が総出で伝統的な方法で小麦を収穫していた。突然,その隣の畑に巨大なコンバインが現れ,あっという間に広大な麦畑の収穫を終えてしまった。1台のコンバインは,数百人あるいは千人以上の農民の仕事をする。コンバインを買うことの出来る豊かな農家はますます豊かになり,買えない貧しい農家はますます貧しくなる。コンバインにより,多くの農業労働者が解雇され,失業者になっていく。かつてエンクロージャーの時代の英国では羊が人間を食ったが,ネパールのタライではコンバインが農民を食っている。
 これは農業だけではない。経済自由化により,同じようなことが至るところで起こっている。経済活動の近代化,合理化がネパールでも大量の失業者を生み,客観的格差を拡大し,また心理的格差意識を強化している。
 こうした大きな客観的格差,主観的格差意識があり,社会が分裂しているところでは,議会における政治的妥協は困難だ。たとえマオイストがこのまま主流に入り指導者たちが議会で妥協することを望んでも,生活苦の支持者たちがそれを認めない。その結果,マオイストはもう一度,議会外闘争に戻るか,それとも分裂して,急進派が新たな組織を作り実力闘争を始めることになるだろう。
 開発格差のドラスチックな縮小がすぐには困難だとすると,ネパールにおける平和構築はしばらくは期待できないことになる。これが悲観的シナリオをである。

1−2.楽観的シナリオ
 しかし,以上の見方は,あまりにも悲観的にすぎる。私のような部外者から見ると,ネパール社会は驚くほど急速に変化し,発展している。民主化のためイギリスは400年以上かかった。日本でも百数十年かかった。これに対し,ネパール民主主義の歴史は,1951年以降,あるいは厳密には1990年以降であり,わずか十数年しかない。しかし,この十数年の間に,ネパールは政治的にも経済的にも驚くべき発展を遂げた。このネパール人民の政治的経済的能力は正当に評価されるべきである。
 また中間層も,都市部から着実に増加している。中間層を主要な担い手とする市民社会が力を持つようになれば,社会は安定し,民主主義も成熟していく。
 国際環境についてみると,これは劇的に好転した。インドと中国は平和共存を確認し,経済関係を強化しつつある。インドも中国も,ネパールを代理戦争の手段として使う必要はほとんどなくなった。このインド・中国関係の好転を背景に,インドはネパールへの国連介入を認め,これにより国際社会はネパール平和構築を積極的に支援することが出来るようになった。いまインドも中国もアメリカもネパールの平和を望んでいる。これはネパールのような国際関係に敏感な国にとっては,平和実現への絶好の条件が整ったということを意味する。
 むろん開発格差に起因する多くの問題を一気に解決することは現実的には不可能だ。大切なのは,ネパールの人々が,それらの問題の解決に向かってネパールが一歩一歩前進しているということを実感し確信すること。現状に多くの不満があっても,改善への希望があれば,人々は平和のための妥協を受け入れることが出来る。第二次大戦直後の日本は,都市を破壊し尽くされ,いまのネパールよりもはるかに劣悪な経済状況だった。多くの人々は食料も衣服も家もなく,非常に厳しい生活を余儀なくされた。しかし,この時アメリカは非常に寛容であり,日本の安定のために多くの援助をし,日本人は未来への希望を持ち,アナーキーやクーデターを防止できた。明日への希望がどん底の日本人を救った。
 ネパールのいまの諸問題を一気に解決する魔法の解決策はない。どの政党が権力を取ろうと,ネパールの人々の苦しい生活は続く。大切なのは,ネパールの政府,諸政党,市民社会が,国際社会と協力し,人民に未来は少しずつ良くなるというたしかな希望を与えること。これは出来る。それが出来さえすれば,平和は実現される。
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(写真)タメルの牛祭り
2007/09/05

爆破テロ:ブランクの意味を探る

谷川昌幸(C)
ニュース記事については,かなり用心深い方だが,それでもまだまだ甘いことを教えられた。昨日,在ネのさる方と爆破テロについて話していたとき,スンダラ爆破の不自然さを指摘され,アッと思った。

新聞で見たとき,他の二現場の詳しい状況説明に対し,スンダラ爆破については,国軍兵ネパリ氏が胸部に負傷し軍病院に運ばれたというだけで,爆弾がどこに仕掛けられていたかも爆発後の状況なども,写真はおろか具体的な説明は何もなかった。

そのとき「変だな」とは感じたが,それ以上深くは考えなかった。昨日,その不自然さを指摘され,これは変だ,書けない何かがあるのでは,と疑わざるをえなくなった。たしか内田義彦が書いていたと記憶しているが,専門家と素人の違いは,「変だな」と漠然と感じたとき,それを確かめる努力をするか否かの違いである。密かに恥じ,反省した次第。

今日の新聞は,徹底調査の政府方針を伝えている。カトマンズポスト社説によると,犯人とウワサされているのは(1)マデシ集団,(2)王党派,(3)マオイスト。マデシ系は「ネパール人民軍」と「タライ軍」を名乗る2件の電話で実行声明を出しているが,信憑性は不明。これに対し,上述の不自然な報道は事実だ。これをどう見るか?

ネパールは情報分析のトレーニングになる。

* Kathmandu Post, 23-24 Sep,2007

写真:3連続爆破テロと2枚の写真(カトマンズポスト,9月3日)
2007/09/03

パンドラの箱から同時多発テロ

谷川昌幸(C)
1.カトマンズ同時多発テロ
ついに本物のテロが発生した。9月2日午後4時過ぎ,カトマンズの3カ所でほぼ同時に爆発が起き,2人死亡,19人負傷。重体3人もいて,死者は増える恐れがある。

これは恐ろしい事件だ。爆発があったのはいずれもよく行く場所。トリプレスオルでは,バス停のイスの下に爆弾が仕掛けられ,バス待ちの人など1人死亡,17人負傷。死亡したのは12歳の生徒,負傷者の6人も生徒だ。

バラジュでは,路線バス内の爆弾で40歳の女性が死亡,2歳の子供を含む9人が負傷。このバスは私も利用している。スンダラでは国軍兵1名負傷。これは街のど真ん中だ。

これらの爆発に私が巻き込まれなかったのは,単なる偶然にすぎない。

2.テロルのためのテロル
これまでにもマオイストが爆弾を仕掛け,多くの死傷者を出してきた。これもテロだが,マオイストはよく統制のとれた共産主義集団であり,爆弾攻撃も統制がとれていた。

今回の同時多発テロは,よく似ているが,本質的に異なるものと見た方がよい。これは完全に無差別の,テロル(恐怖)そのものを生み出すためのテロ,本物の現代型テロであり,自爆攻撃まであと一歩だ。タライの2団体が犯行声明を出し,ネパール人民軍(NPA)は200人の志願兵をもち,共和制宣言まで全国で同様の爆弾攻撃を続けると述べた。

間違えたのではない。無差別に,恐怖を生み出すために爆発させた。外人特権は一切あり得ない。

3.パンドラの箱を開けたのは?
禁断のパンドラの箱を開け無差別テロを生み出したのは,先進諸国の無責任多文化主義者と,援助がらみでそのお先棒を担いできたネパール知識人たちだ。

先進国は,諸民族,諸文化をさんざん弾圧し,国民国家を形成し,強力中央権力と経済成長を達成し,政治的経済的基盤を確保した後で,やりすぎた諸民族,諸文化弾圧を反省し,彼らの要求を少しずつ認め始めた。が,イザとなれば,強力国家主権で諸民族,諸文化の要求をいつでも弾圧する用意は出来ている。最近の英仏を見よ。

ネパールには,そんな条件は全くない。国家権力は情けないほど弱い。西洋知識人にたぶらかされ,「国王の専制支配」などと攻撃してきたが,国王権力など同規模の先進国の大統領や首相の足元にも及ばない。ましてや歴代首相の権力など,およそ政治権力とも呼べないほど弱いものだ。

そんなネパールの現状を無視し,やれ民族自治だの連邦制だのとバカなことをいい,パンドラの箱を開けてしまった。この第一の責任は,先進国知識人にある。

4.パンドラの箱を閉じるのは?
このパンドラの箱を閉じるのは,開けるのよりも何倍も難しい。大河は蟻1匹でも決壊させられるが,堤防修復は至難の業だ。

一番手っ取り早いのは,軍事クーデター。ウワサは確実に広まっている。次の可能性は「国王=マオイスト神聖同盟」。このウワサも広まっており,今日のカトマンズポストが報じている。昨日紹介したガイジャトラ誌の「NC=マオイスト同盟」はUMLが反対するのでまず無理だろう。軍事クーデターは手っ取り早いが,国際社会が認めない。他の方法は,面白くはあるが,これでは箱は閉じられないだろう。

5.選挙の限界
公式見解は,選挙によって正統政府を樹立し,国家統一を再建するということだが,これは無理だ。ネパールの国民や社会が政治的にそんなに成熟しているのなら,そもそもこんな問題は起きない。前後転倒だ。

選挙民主主義の惨めな失敗は,アフガン,イラクで実証済みなのに,まだ懲りずにネパールを実験台にしようとしている。したたかなアメリカは,失敗後に備え,大使館の要塞化(地下に数千人収容の非常設備完備)をすすめ,また王宮前の広大な敷地の軍事基地化も進めているのではないかと疑われている。選挙民主主義を信じていないのは,実はアメリカなのだ。

いまのネパールで,投票で問題が解決すると信じている人は,よほど脳天気といわざるをえない。

6.保守思想の出番
いまのネパールに決定的に欠けているのは,本物の保守思想だ。ルソー,マルクス,毛沢東よりも,ネパールが学ぶべきはE・バークだ。

保守思想は進歩的でも開発志向でもなく,したがって援助資金獲得の役には立たないが,先進国知識人は罪滅ぼしのため,自腹を切って保守思想を伝えるべきだ。

保守思想は,人間理性の限界を自覚し,国家を設計図通りに建設し運営することは不可能だと考える。国家はあまりにも複雑なものだから,歴史的に生成してきた諸制度を可能な限り尊重しつつ,時代に合うように修正していく。また,人間は理性よりもむしろ情念で動くものだから,情念に働きかける権威を政治の中に安定的に位置づけ統治に利用する。

7.自生的秩序の尊重
この保守思想は,多民族・多文化問題を解決する最善の方法だ。

多民族・多文化問題は,近代合理主義やマルクス主義では解決できない。たとえば,民族自治,連邦制にしても,その区画をどうするか,などということは,あまりにも複雑すぎて,人智ではいかんともしがたい。もしいまの合理主義的設計主義的方法で民族区画,連邦区画を定めようとすれば,必ず血を見る。民族浄化は不可避だ。

民族自治や連邦制に移行するにしても,それは結局,歴史の中で生成してきたものを緩やかに追認していくという形にならざるをえない。これは保守の考え方である。

8.権威のパッチワーク的修繕
また,保守思想によれば,権威の回復も不可避だ。ネパール国家の権威は,2005年国王クーデターによりほぼ崩壊した。権威は権力以上に重要で,権威なくして統治できた国は一つもない。ネパールは失墜した国家の権威を何によって回復するか?

特効薬はない。使えるものは何でも利用し,パッチワークで修繕していく。儀式王制,選挙,国際社会の支持等々。選挙は重要だが,選挙だけで支配の正統性が確保されることはあり得ない。どの先進国でもそうだ。ましてやネパールにおいては。

* Kathmandu Post & The Himalayan Times,3 Sep.2007.

写真:共和制宣言を求めるマオイストYCLの横断幕
 
2007/09/02

国王隠棲とガイジャトラ漫画の低調

谷川昌幸(C)
ガイジャトラ(牛祭り)漫画が低調,面白くない。以前なら,王族や有力政治家を徹底的に皮肉った,低俗,悪趣味,毒山盛りのガイジャトラ紙誌が街にあふれていたのに,今年はほとんど見かけない。なぜは?

おそらく国王がバラジュの森に隠棲し,皮肉る権威の総本山がいなくなったからだろう。民主化万歳といいたいところだが,そうともいえない。

このまま共和制になれば,政治家が国家元首になり,権威となる。その権威と権力を合わせ持つ政治家元首が,国王のようにガイジャトラ漫画の猛毒攻撃に耐えられるか?

民衆の人気に依存する政治家の場合,一般にそのような低俗,悪趣味の猛毒攻撃には耐えられず,たいてい弾圧を始める。ネパールの作家,出版社は,早くもそれを察知し,自己規制を始めたのではないか? めでたいような,めでたくないような。

写真(上):ガイジャトラ特集雑誌の表紙。ギリジャ首相が国王、プラチャンダ議長が王妃に擬されている。意味深。
写真(下):ガイジャトラ漫画の一部
 

2007/09/01

売春カーストと性産業セックスワーカー

谷川昌幸(C)

1.売春カースト
8月下旬,売春職業カースト,Badiが他のダリット団体と共同で,国会周辺で生活改善要求運動を続け,逮捕者,負傷者が多数出ている。

2.バディの裸デモ
The Himalayan Times社説によれば,バディ・カーストは次のような現状にある。

いま国会デモをしているのは,西タライのバディ。国会周辺で「半裸デモ」を行い,もし要求が通らなければ「全裸デモ」をすると予告している。

主な要求は,売春をやめるための耕地の分配と子供の無償教育。売春職業のため,父不明の子供がたくさんいる。

法律は,売春を合法とも違法とも決めていない。ネパールでは,売春職業カーストが罪の報いとして古くから代々継承されてきた。社説は,法律で明確な規制を定め,女性搾取を禁止した上で,自由売春を認めるのが現実的という結論のようだ。

3.恥ずかしいのは社会
売春を家業とせざるをえないというのはいまの人権基準では明らかに正義に反する。生活に必要な「耕地を分配せよ」,「子供に無償教育を受けさせよ」というバディの要求は謙虚なものであり,文句なしに正しい。

「半裸デモ」はすでに新聞が報道した。人々の不幸をメシのタネにするのはケシカランが,しかし半裸バディ写真を掲載することで,彼女らの現状が世界中に知られた。マスコミは因果な商売だが,これは業,頑張って欲しい。

バディは次は「全裸デモ」をするという。服を脱いで全裸で100人,1000人がデモすれば,もはや誰もとめられない。これも,ぜひ一面トップで掲載し,世界中にネパール文化の深遠を知らしめて欲しい。

恥ずかしいのは,売春家業でも半裸デモでもない。それはネパール社会が彼女らに強制してきたことだ。ありのままを人々に見せる。恥ずかしいのは,見ている社会の側だ。世界への恥さらしと見るなら,即刻バディの謙虚な要求を受け入れ,全裸デモをやめてもらうべきだ。

4.マオイストのリキシャ攻撃,大使猟官運動
マオイストは何をしているのか? 人権団体はいくつか連帯を表明しているが,腰が引けている。マオイストはよく分からない。こんなときこそ,バディを全面支援し,解放を勝ち取るべきだ。

それなのに,マオイストは先日のバンダで,何とリキシャ(人力車)を攻撃して回った。リキシャの運ぶ人や物などたかがしれている。かつてのバンダでは,リキシャだけは例外で,「人民のためのバンダ」をアピールした。そんなことも出来ないマオイスト。リキシャなど攻撃せず,一泊数万円もする某高級ホテルでも攻撃してみよ。

その一方,マオイストは,一番おいしい官職である大使に4候補を出した。デンマーク,オーストラリア,フランス,マレーシアだという(8月28日4大使閣議決定)。リキシャ攻撃と大使猟官運動。それらと,バディの「全裸デモ」のどちらが恥ずかしいことなのか?

5.バディとセックスワーカー
バディ問題が難しいのは,文明社会でもセックスは「産業」として成立しているからだ。「売春職業カースト」と「性産業セックスワーカー」は,どこが違うのか? 日本でも欧米でも,性産業は認められており,売春そのものを堂々と公認している先進国もある。

あるいは,「バディの半裸や全裸」と,先進諸国の半裸夏ファッションやネット性無法状態は,どこがどう違うのか? 29日午後,ネパール文部省正門前で,ヘソだし半裸ファッションの日本女性を見た。ビーチと勘違いしているらしい。ギョッとし,猥褻罪で逮捕されないかと心配になった。

ネパールでも,伝統的性交像満載のヒンズー寺院の周辺には,近代的性産業が続々進出してきている。数日前,寺院の向かいの飲食店に迷い込んだら,これはイカン,性的退廃ムード瀰漫。イカン,ケシカランが,道の反対側のヒンズー教寺院と,このケシカラン飲食店,あるいは全裸で踊らせているあまたの酒場(先週ヌードダンサー80人が逮捕された)と,どこがどう違うか?

裸や性を見せている点では,両者は何ら変わらない。違いは,宗教性の有無,あるいは経済外的強制の有無だけだ。現代性産業は,世俗化され,民主化され,共和制化されている。そこが違う。

バディなど前近代的売春職業は,宗教や親など他者により売春を強制された。これに対し,近代民主主義社会では,本人の自由意思で,売春する。自由・独立の個人が,自分の自由意思により,新しい服が欲しいといった理由により,自分の財産(property)である身体の一部である性器を貸し,使用料を取る。資本主義の原理からいって,自分固有の財産(性器)をどう使用しようが,他人の同等の自由を侵害しない限り,それは自己責任であり,何ら問題はない。だから,ヒマラヤンタイムズも,世俗的民主的共和制的な法律により規制した上で,自由意思による売春を認めるという現実的な提案をしたわけだ。(性器の使用契約とは卑猥な表現だが,くそまじめな哲学者カント大先生の表現を拝借しただけ。抗議はカント先生にしてください。)

6.拝金教による強制
しかし,その近現代セックス・ワーカーの自由意思は,本当に自分の意志か? もし資本主義文化により巧妙に創り出されたものなら,売春強制者がヒンズー教などの宗教から資本主義(拝金教)に替わったにすぎない。

先進文明国の教養ある人々は,バディ売春職業カーストを野蛮な未開国の因習と見下すが,見方によれば,自己責任で性産業に従事させられている先進国のセックス・ワーカーの方がはるかに悲惨な状況にある。バディの売春は強制されたもので,性器を貸すだけだが,先進国の性産業セックス・ワーカーは自分の自由意思で性を売り金品を得ている(と社会から見られている)からだ。バディにはまだ魂の救いがあるが,先進諸国のセックス・ワーカーには救いはない。性を売ったことの責任を全部引き受けて死んで行かねばならない。

いまのネパールは,過渡期だ。売春職業カーストが残っている一方で,資本主義型性産業が急成長している。バディはカースト差別でケシカランが,では,民主化され万人に開かれた近代的性産業はどうなのか?

7.民主主義の偽善は許されない
カースト規制から解放されたバディが,餓死の自由を得,自らの自由意思で資本主義的性産業にセックス・ワーカーとして就職するといった民主主義の偽善は,絶対に許されてはならないだろう。

* ネパールの性問題の現状については、アイウエオサークル 「セックス産業花盛り」(8月28日)http://aiueo.blog.ocn.ne.jp/nepal/2007/08/post_3887.html

* The Himalayan Times, 28 Aug. 2007.

写真(上):文部省玄関。国民道徳総本山への入り口。
写真(中上):筋向かいのヒンズー教寺院と敷地内の銀行。宗教と資本主義先兵の結託(この寺は観光収入目的で建設されたというウワサもある)。
写真(中中):ヒンズー教寺院の性交像。この種のものが無数にある。
写真(中下):同上
写真(下):寺院反対側(文部省の並び)の繁華街。近代性産業もこうした繁華街内に増殖中という。