谷川昌幸(C)
1.プラチャンダ首相と国歌斉唱
8月30日,プシュパカマル・ダハール=プラチャンダ首相を主賓とする会(Shanta Shresta,Yo Kanta Hoina出版記念会)に出席,ネパール国歌斉唱の栄誉に浴した。晴れがましい事ながら,いかんせん,この国歌,出来がよろしくない。壇上で生徒合唱隊が歌ってくれたが,私は口パク,プラチャンダ首相も他の出席者の多くも歌っているようには見えなかった。
特に最後の部分が不自然で,大いに盛り上がるべきところで盛り下がる。この部分を手直ししないと,次のオリンピックで金メダルをとったとき,陰気な「君が代」以上に観衆は戸惑うだろう。
2.厳戒の会場付近
開会予定は午後2時30分。その30分前から会場付近は交通規制が始まり,大量の警官が警戒を始めた。会場は,マオイスト中国援助の巨大国際催事場,転じて,巨大制憲議会会場となった建物の近くのC校。近くの建物の屋上にはテッポウを下に向けて構えた警官が配置された。
会場内では,どう猛な警察犬を連れた警官が歩き回り,壇上の長椅子から楽器まで念入りにチェックしている。
隠れ「王党派」としては,頭の中まで検査されるのではないかと,びくびくしながらプラチャンダ首相の到着を待っていた。
3.チャッカリ
主宰者側の代表が旧知のAA氏であり,他に知人も何人かいたので,ひな壇に座る賓客室で時間待ちをした。
十数人の客が来たが,庶民らしいのは紛争犠牲者の家族数名くらいで,他は旧体制内有力者ばかり。その雰囲気は,古き良き時代のチャッカリ(ご機嫌伺い)そのものだった。
その昔,1990年憲法ができたころ,絶大な人気を誇っていたドゥンガーナ議長の公邸を尋ねたとき,多数の名士がたむろし,ご機嫌伺いの順番を待っているのを見て,あぁ~これがあの有名なチャッカリか,と感動し,納得したものだ。
その後,ネパールは急速にグローバル化し,都市の風景も激変したが,チャッカリ政治は健在,マオイスト首相になっても何ら変わっていない。これは驚きであった。
4.半封建的・半資本主義的支配階級のチャッカリ
この日,マオイスト首相にチャッカリをしたのは,半封建的・半資本主義的な特権階級の人々。庶民には縁遠い超豪華エリート校で,列席者は旧体制の高官,名士,金持ちらで,労働者,農民は一人もいない。
会場では,アメリカ帝国主義支配の象徴コーラ,ファンタがふんだんに振る舞われた。「コーラ帝国主義万歳!」
人民戦争の英雄,プラチャンダ同志が到着すると,御用マスコミが雲霞のごとく殺到し,プ同志の一挙手一投足をまるでアイドルのように取材する。古き良き時代のチャッカリは,こんな下品ではなかった。チャッカリですら,劣化している。
5.組閣よりもチャッカリ
プラチャンダ首相は,30日は,組閣の最終段階。モメにモメ,ようやくまとまりかけた内閣案が,下手をすると崩壊するかもしれない。そんな最中に,どうして首相はわざわざ不要不急のこのような会のために出掛けてきたのか? これが労働者や農民の大会なら,よく理解できる。ところが,30日の会は,特権階級のための特権階級によるチャッカリなのだ。
プラチャンダ首相が相当無理して出席したことは,到着が開会予定よりも3時間遅れた事からもよく分かる。おかげで周辺住民は4,5時間も交通規制され,出席者は3時間も帝国主義の飲み物だけで待たされた。
チャッカリは,忠誠を試すための伝統的な統治技術だ。気の遠くなるような時間の無駄だが,有力者たちをどれだけ待たせることができるかが,権力者の腕の見せ所だ。プラチャンダ首相は,3時間も高官,金持ち,名士たちを待たせた。その意味では,成功といえる。
しかし,マオイスト党首としてはどうか? 粉砕すべき半封建的・半資本主義的諸階級から心地よくチャッカリを受けていてよいのか?
6.マオイストはマオイストらしく
この出版記念会の主催者代表らは知人であり,いずれも立派な人ばかりだ。これらの方々が出版記念会を開催されること自体は,めでたいことであり,批判の理由はない。疑問なのは,そこにマオイスト党首がチャッカリを受けるために政務を放り出して出掛けることだ。
プラチャンダ首相には,マオイストとしての威厳を堅持してほしい。人民の支持さえあれば,旧体制の高官,金持ち,名士等々からのチャッカリなど不要ではないか。ふるまいコーラを飲み,心地よいチャッカリを受けていると,革命精神がふにゃふにゃに溶けてしまいかねない。
左翼から演説するプラチャンダ首相 [右翼から撮影]
谷川昌幸(C)
時流に抗して一元国家,立憲君主制を断固主張したおかげで,いまや日本「王党派」と目され,昨日は,とうとうK王朝の超大物S氏のご招待を受け,邸宅へ参内した。
前回紹介した「ラナ将軍カフェー」には及ばぬものの,さすがK王朝,巨大な御殿であった。S氏は,世が世なら首相か副首相であらせられるのに,自ら紅茶を振る舞われ,親しく話しかけてくださった。
ご下問に恐れ入りつつ,持論をご進講申し上げた。
(1)1990年憲法は優れた憲法である。
(2)立憲君主制はネパールにとって望ましい。
(3)連邦制は止めた方がよい。
(4)K王朝の唱える社会主義は,マルクス・レーニンや毛沢東よりもはるかに由緒あるものであり,ヨーロッパ諸国は王国も含め,多くの国がこの社会主義を採用し,繁栄している。
(5)K王朝は,野に下ったのだから,理論的に社会主義を再構築し,果敢にイデオロギー攻勢に打って出るべきだ。共産主義的資本主義といった羊頭狗肉マオイズムごときに負けないよう頑張っていただきたい。
いささか不謹慎なご進講であったにもかかわらず,S氏は熱心に耳を傾けられ,賛意を示してくださった。由緒正しき王朝のお立場であるから,下々のように,本心をはしたなく述べられるようなことはないであろうが,不興を買ったようには見えなかった。基本的には賛成してくださったのだろう。
それにしても皮肉なものだ。マオイストがテロリストとして袋だたきにあっていた頃は,「日本のマオイスト」とけなされ,マオイスト天下になると「日本の王党派」として反動呼ばわりされる。私としては,同じことを言い続けているつもりなのが・・・・。
コングレス選挙マニフェスト
谷川昌幸(C)
元王宮南隣にラナ将軍カフェがある。Keshar Samsher Jung Bahadur Rana(1802-1964)が造ったものらしく,西洋新古典様式とのこと。入場料160ルピー。コーヒー100ルピー。将軍様並みの立派な値段だ。建物,庭園も,たしかに美しくはある。
谷川昌幸(C)
マオイスト政権が成立し,プラチャンダ党首が首相となった。マオイストは憲法公認の公党となり,もはや以前のように都合が悪くなると暴力で黙らせることは許されなくなった。
政権党として,マオイストがまず第一に誠実に対処すべきは,自らの戦争犯罪を精査し,責任をとることだ。この点につき,27日付カトマンズポストは,二つのマオイスト戦争犯罪に関する記事を掲載している。
1.子供兵
マオイストの最大の汚点は,国際人道法が厳禁する子供兵を組織的に大量に使用したことだ。たとえ内戦であろうと,これは絶対に許されない。
マオイスト子供兵は,国連監視下での宿営所収容の段階で社会復帰したはずだが,実際にはそうでなく,2006年5月時点で2973人,現在もなお約3000人がマオイスト宿営所に収容されている。
恥ずべき事だ。国連の要求に応え,マオイストは子供兵を直ちに社会復帰させ、そして,子供兵を組織的に徴用した党の責任を明確にすべきだ。
2.拉致,追放,財産強奪
野党に回ったコングレスからは,コングレス党員の被害調査,損害賠償,責任追求が出され始めた。
マオイストによるNC党員被害
殺害 603人
手足等の切断 306人
拉致・行方不明者 157人
迫害からの避難民 2986人
財産強奪(マオイスト所有,未返還) 1379人
3.政権党の恥
マオイストは政権党であり,プラチャンダ首相は国賓(?)として晴れやかに中国訪問した。得意の絶頂であろう。
ところが,その党首のもとの人民解放軍には子供兵が3000人もいる。拉致・行方不明者も放置されている。財産を強奪し,停戦後返却すると約束しながら,私物化し,いまもって返さない輩も多数いる。恥ずべき事だ。
国際人道法違反は,王国軍,警察側にも多い。その追求も当然だが,まずは政権党のマオイストが自ら率先して人道法違反を明らかにし,損害賠償をし,責任者を処罰すべきだろう。あるいは,処罰が無理なら,「真実和解委員会」方式で,事実を徹底的に解明し,損害を賠償し,そして罪を詫び,和解へ至ることを目指すべきだろう。
マオイスト選挙シンボルを掲げる民家(アサン付近)
谷川昌幸(C)
いま新憲法論議を強力に指導しているのは,いうまでもなく国連。国連はUNDP内に「憲法助言支援団(CASU)」を設置し,ネパールを思い通り改造しようとしている。その目玉の一つが,連邦制。
連邦制は,古い制度だ。ムスタン王国などがあった頃は,ネパールは実質的には連邦国家だった。徳川時代の日本も中世ヨーロッパも同様だ。その古くさい制度を,最新式と装い,ネパールに押しつけようとしている。何のために?
独立性の高いいくつかの小国が連合して連邦国家になったり,国内に独立性の高い地域がいくつかある国が連邦制に組み替えるという事はよくあり,これは理解できる。が,ネパールはそのいずれでもない。こんな小さな国を,9(マオイスト案)~25(H・グルン案)の小部分に分割してどうなるというのか?
つい2,3年前までは,何かというと地方分権,地方自治拡充だった。それが,いまでは連邦制の大合唱。昨年,連邦制批判の評論を書いたら,皆から袋だたきにあった。いまでも,一元国家を弁護したといって非難される。つい2,3年前の自分自身のことを,ころっと忘れてしまったようだ(NCの超大物B氏も連邦制に反対だったはずなのに,私の一元国家弁護論を読んで怒っているそうだ)。そんな自分自身の「自決」「自治」ですらできない人々に,民族自決のための連邦制など唱える資格はない。
とにかく,ネパールの連邦制論は面白くない。面白くないので,濃いコーヒーで眠気を払いいつつ,国連の連邦制論を読んでみた。
Federalism and State Restructuring in Nepal: The Challenge for the Constituent Assembly, Report of a Conference organised by the Constitutional Advisory Support Unit, UNDP, 23-24 March 2007, Godavari, Nepal, Kathmandu: Nepal, 2008
まったくもって処置なし。はじめは2,3行おき,そのうち10行に1行となり,最後は1ページ1行くらいしか読まなかった。くだらない。
とくにケシカランのは,CASUの不誠実さだ。はじめの概観で,“CASUが連邦制を推奨していると受け取られるとマズイので,CASUは,著名なプスパ・カンデル(トリブバン大)をはじめとする「反連邦制」の発表者を何人か招いた”といっているのに,本論には連邦制反対論はほとんど取り上げられていない。とばし読み部分にあるかもしれないが,全体としては連邦制万歳レポートだ。国連が音頭をとり,ネパール知識人たちに連邦制を合唱させている。中国式「口パク」よりはましだが,主体性の欠如,はなはだしい。
私は,連邦制そのものに反対しているわけではない。歴史的,社会的,政治的諸条件により,連邦制がのぞましい国はたくさんある。しかし,いまのネパールを連邦制にすることが,本当に必要なのか? そもそも,誰が連邦制を欲しているのか? 連邦制で,誰が儲かるのか?
(1)知識人。議論のタネがなくなると失業する。いまや「連邦制」産業,大流行。
(2)役人。行政機構が複雑となり,役人天国となる。
(3)政治家。口利きの機会が激増し,儲かる。
連邦制でマイノリティの権利や文化が守られる,というのは全く根拠のない幻想である。いまマイノリティの文化を浸食しているのは,グローバル資本主義。金儲けのためマイノリティ文化を容赦なく破壊しつつある。この資本主義化を阻止するくらいの元気のある連邦制ならまだしも,そうでないのなら,連邦制ではマイノリティの文化破壊は阻止できない。
なぜ一元国家ではいけないのか? 一元国家の下で人権を平等に保障する努力をしつつ,地方自治や集団自治を拡大していく方が,はるかに安全で効率的ではないか。
国連は,もし本当に連邦制をネパールに押しつける意図がないのであれば,2,3年前まで街中に氾濫していた地方自治論や分権論のなかから優れたものを選び,編集・出版し,議論を深める努力をすべきではないか。そうしないと,こんな一方的な「一元的」議論では,ネパール政治の成熟は到底期待できはしない。
一元国家でも千客万来のチベット系ホテル(屋上より元王宮を望む)
谷川昌幸(C)
性と暴力は人間存在の本質であり,本来,無規律な危険なものである。特に戦争で暴力が全面開放されたあと,和平がなり社会再建をおこなうときには,性と暴力をどう再規制するかが難しい課題となる。
1.マオイスト宿営地の性問題
(1)妊娠・出産の増加
人民解放軍には女性が多い。交戦中は,代替性行為でもある暴力が全面開放され,それは生命を賭したギリギリの戦いであったから,人民解放軍の性規制はかなり守られていたと思われる。
ところが,和平がなり,2万もの青年男女兵が山野の劣悪な宿営地に隔離収容されたまま,はや2年になろうとしている。彼らは生きているだけで,具体的な目標は何もない。暴力は禁止され,他の楽しみもほとんどない。性規律が乱れるのは,当然だ。
少し前から,宿営地内の性の乱れは,ウワサとしては聞いていた。それがどうやら事実らしいことが,今日(24日)のカトマンズポスト記事ではっきりした。正式の結婚か「乱れ」かははっきりしないが,マオイスト兵士間の性関係の拡大は,妊娠・出産の増加となって現れている。
Sahajpur/Badipur/Talbanda==出産300人以上,妊娠中300人以上
Lokesh Memorial Brigade(第7軍)==全女性兵士700人余,出産60人,妊娠60人
適齢期女性ばかりだから,当然とはいえ,これが宿営地の性の現状なのだ。
(2)党の無責任
現在,マオイスト兵には,月給3000ルピー,手当日当60ルピーが支給されているが,これでは妊娠,出産,育児は到底賄えない。
そこで怒れる女性兵士たちは,党のため戦ってきたのだから,母子の養育には党が責任を持つべきだ,と要求している。もっともな要求であり,私も全面的に支持する。
ところが,無責任党幹部たちは,党だけでは面倒を見きれないといって,NGOに支援を要望している。まったくもって,虫のよい話しだ。
(3)ミスコンにうつつを抜かす党首
しかも,マオイストの頭目,プラチャンダ氏は功なりていまや首相,先日は,ミスネパールの資本主義美人たちに囲まれ,にやけていた。資本主義も女性商品化も,マオイストが打倒を目指したものではなかったのか?
マオイスト幹部は,女性たちに武器を取らせ,戦わせた。生命を生む女性が生命を奪う。敵を死傷させ,自らも死傷する。捕まり性的虐待を受けた者も少なくない。そうした想像を絶する犠牲を引き受け戦ってきたのは,資本主義を打倒し女性を解放するという党幹部の言葉を信じたからだ。あぁ~,それなのに!
(4)金銭スキャンダル
女性解放の闘士,ヒシラ・ヤミ氏は何をしているのだろう。野宿同然の宿営地内で女性同志が子を産み,栄養失調と病気に苦しめられながら懸命に子育てをしているというのに,ウワサでは天文学的金額のスキャンダルの渦中にあるそうではないか。一体,どうしたことなのだ。
(5)見捨てられる女性兵士たち
とうの昔に社会主義を捨てたコングレス党や変節統一共産党なら,まだ許せる。しかし,マオイストはそうではない。資本主義打倒,女性解放は彼らの党是だ。それなのにミスコンや利権争奪にうつつを抜かし,悲惨に打ちひしがれている宿営地内同志を見捨てるとは。許せない。マオイスト幹部こそが,資本主義的女性搾取者だ。
2.YCLの暴力
マオイストは,人民戦争で解放した暴力の再規制にも本気ではない。昨日,友人夫妻が小学1年の子供を連れ,私のホテルに来る途中,カリマティで大乱闘に遭遇した。血だらけの負傷者が多数出ていて,子供はおびえていた。
今日(24日)のカトマンズポストによると,それはマオイスト青年共産主義者同盟(YCL)とカリマティ野菜・果物商組合との衝突であった。
記事によると,マオイスト労組員ミラン・タマンが,ククリをちらつかせ,市場商人たちを脅していたので,警察が逮捕した。これに対し,マオイストがタマンの釈放を要求し,市場を閉鎖しようとして,市場商人たちと衝突した。
YCLはバンで乗りつけ,ククリと鉄棒で無差別に攻撃し,十数人の負傷者を出した。ここに友人一家は出くわしたのだ。
さらに,この衝突で負傷し入院したマオイストに仕返しをするため,今度は,統一共産党系の青年部隊が病院に攻撃を仕掛けた。もう無茶苦茶。
人民戦争でいったん解放した暴力を,再び規制することは容易ではない。もしマオイストが本気でそれに取り組まなければ,平和は実現できないだろう。暴力団の縄張り争いのようなことを繰り返していると,平和は遠のくばかりだ。
谷川昌幸(C)
カゲンドラ・N・シャルマ博士が,ミスコン反対の暇があるなら悲惨なチャウパディ廃止運動をやれ,とマオイストを批判している。もっともな正論で,おっしゃるとおりだが,それで? という思いがしないではない。しかも,よく考えてみると,この議論はちょっとズレている。 Dr Khagendra N. Sharma, Chhaupadi and Beauty Pagent, Kathmandu Post,22 Aug.
1.土牢チャウパディ
チャウパディ(Chhaupadi)は西ネパールに広くあり,生理中の汚れた女性を閉じこめておくための土牢。実物も写真も見たことがないので,それがどのようなものか見当もつかないが,きわめて不健康なもので,女性にとっては拷問に近いという。
日本でもかつては自宅出産がほとんどで,わが村でも妊婦は北西の一番悪い部屋で出産した。つい数十年前まではそうだった。だから,ネパールに土牢のようなチャウパディがあることは,容易に想像がつく。
そのチャウパディで15歳のダリット少女が下痢のため死亡した。同様の悲惨な事件は多数報告されている。
2.売春,女性売買,性的虐待
一方,ネパール女性の性的搾取は拡大の一方だ。被抑圧階層の女性が売春を強要される一方,ミドル・クラス女性の「コールガール」も増え,市中や道路沿いには売春宿が続々とつくられている。また,ネパール女性はインド売春宿に売られ,海外出稼ぎ女性も性的虐待に苦しめられている。ダウリー(持参金)殺害もあれば,魔女虐待もある。ネパールには深刻な女性問題が山積しているのだ。
3.ミスコン
これに対し,ミスコンに応募する女性は,ミドルクラス出身で,教養もあり意識も高い。家族の同意も得て自分で応募してくる。
たしかにミスコンは女の裸が売りで,身体の5%を隠しているにすぎない。しかしシャルマ博士によると,これは一種の芸術である。肉体美を様々な形で競う。しかも,会話センスや知性も問われる。ミスコンは,ネパールが近代化し,世界文化がネパールにも波及してきた結果に他ならないという。
4.ミスコンは自己責任
したがって,いま取り組むべきはミスコンではなく,チャウパディに代表される様々なネパール女性差別だ,とシャルマ博士は主張する。
「ミスコン応募女性は,自分の行動を十分に自覚しており,社会において自分を守ることができる。」
「ミス・ネパールに出場する女性たちには,救出ロビー活動は不要だ。彼女らは,社会のなかで好ましい地位を得ることができる。延期されたミスコンを計画通りやらせよう。われらは,見捨てられ,差別され,搾取されている女性たちのためにロビー活動をしよう。まず,危険なチャウパディ廃止運動から始めよう。生理の大切さを知らない人々を教育し,非人間的差別を故意に強制する者たちを処罰しよう。」
ところが,シャルマ博士によると,世間ではチャウパディ反対運動は低調なのに,ミスコンについては,マオイスト「革命女性同盟(RWL)」を中心に35団体もが,活発に反対運動をしている。これはおかしいではないか,と博士は批判するのである。
5.正論の平凡さ
このシャルマ博士の議論は,正論ではあるが,正直いって面白くないし,どこかズレている。
この議論が変なのは,前近代的女性搾取と近現代的搾取とを切り離し,前者を否定するため,後者を容認しているからである。
たしかに,政策課題としては前近代的女性差別が先だという議論はありうる。しかし,途上国ネパールでは,前近代的問題と近現代的問題が同時並行的に発生しているのであり,どちらがより深刻かは,一概にはいえない。
シャルマ博士は,ミスコンを世界文化へのネパールの参加として肯定しているが,ミスコンは資本主義的女性商品化文化である。女性搾取が,前近代的な直接的なものから近現代的な「自由意思」と貨幣を媒介としたものへと,変化してきたのだ。搾取の形態が高度化されたのであり,見方によれば,こちらの方がより深刻ともいえる。
そうした途上国における問題の二重性をシャルマ博士は見ていない。マオイストがどこまで問題を見抜いているかは分からないが,結果的には,マオイストのミスコン反対は正しく,従って,これについては先進諸国の女性団体からの支援も期待できるのである。
かつて「お茶くみ」程度で文句をいうな,と日本の男性たちは女性解放運動をバカにしていた。しかし,いまでは彼女らの方が正しく,いまごろ「お茶くみ」をさせようものなら,女性差別,セクハラで処罰されるし,そもそもそんなことをしている会社は生き残れない。
たかが「ミスコン」くらいで,などといっていると,マオイスト革命女性同盟の総攻撃を受けるであろう。
ミスネパールに喜悦満悦のプラチャンダ首相
前ミスネパールと2008年出場予定者(Nepali Times, 22 Aug)
マオイスト「革命女性同盟」同志が,真っ先に糾弾すべきは,プラチャンダ同志ではないか?
谷川昌幸(C)
クマリも当然,神性を奪われ,世俗的見世物に落ちぶれるのがいやなら,失業するしかない。8月18日,最高裁がクマリ公益訴訟の判決を出した。それによれば,「クマリが,子供の権利条約の保障する子供の権利を否定されるべき根拠は,歴史的文書にも宗教的文書にもない」のであり,したがってクマリには他の子供たちと同様の教育の自由,行動の自由,食事の自由などが認められるべきだ,という。これは原告プンデビ・マハルジャンの主張通りである。
草木も判事もマオイストになびく。マオイズムからすれば,これは当然の判決であり,これでプラチャンダ首相のインドラ祭参加,クマリ拝跪はなくなった。最高裁がお墨付きを与えたのだ。めでたい。(注)
世俗化の影響は,クマリにとどまらない。他の護国諸宗教は,これから衰退に向かう。神々の大量失業時代だ。失業して怒るのは神も同じだが,怒ると,人間より怖い。
しかし,これはすべての神々の没落,失業ではない。封建的な古い神々に替わり,近代的な新しい神々が登場する。その頭目がマモン神だ。ミスコンを司るのも,このマモン神。
さて,そこでマオイストはどうするか? 封建的,反人権的なクマリ神は,たぶん見捨てるだろう。しかし,マモン神までつれなくできるだろうか? 共産主義はツチとカマでマモン神を退治するはずだったが,もしミスコンに拝跪するようであれば,看板に偽りあり,ということになる。これは見物だ。
* nepalnews.com, Aug.19; eKantipur, Aug.19.
谷川昌幸(C)
その肝心要の点について,適切かつ勇敢に報道しているのは,見たかぎりでは,マーカンタイル(nepalnews.com)のみ。横並びで面白味のないネパール・ジャーナリズムのなかで,突出している。
マオイストが,「神・女・酒」について厳格な規律を持つことは,周知の事実だ。人民解放軍宿営所(cantonment)での「風紀の乱れ」のウワサはよく聞くが,マオイストに限ってそんなことがあるはずがない。自己を厳格に規律しているからこそ,他に対しても厳しくできる。マオイストは,自己を厳しく律した上で,サンスクリット大学を攻撃し(注),女性を解放して兵士とし,人民政府支配地域に禁酒令を敷いた。史的唯物論からすれば,「神・女・酒」は階級搾取の苦痛を忘れさせるアヘンにすぎず,こんなものに惑わされていては,人民の解放はできない。論理明快であり,マオイスト政権になれば,当然その「科学的真理」の普遍的実現を目指すはずだ。
いまのところ,この肝心要の論点に目を向けているのは,マーカンタイルだけ。明らかに確信犯だ。反ミスコン記事にはジャーナリズムの反骨精神があふれている。
谷川昌幸(C)
女性の味方ダハール首相は,もちろんマオイスト女性同志の要請に「肯定的」な回答をし,検討を約束した。
マガール民族は勇猛果敢で知られている。そのマオイスト女性リーダーが,人民戦争における女性革命兵士の比類なき戦果をバックに,やや軟弱ではあるが伝統のあるマルクス・レーニン主義政党系の女性諸団体をも従え,ミスコン中止への協力を,マオイスト同志,プラチャンダ首相に要請しているのだ。
もう決まりだ。連邦民主共和国政府の命令でミスコンは中止。トレードマークからして反ネパール的,反人民的な,このインド帝国主義資本は,ネパールから撤退せざるをえないだろう。たぶん,そうなる。きっと,そうなる・・・・はずだ。
谷川昌幸(C)
しかし,マオイストの女性差別への怒りは,本物なのか?
1.生き神様クマリとマオイスト
AFP(Aug14)によれば,ネパール知識人たちが,ようやく世俗共和制移行に伴う難題,政教分離に注目し始めた。インドラ祭に代表される,国家元首と宗教儀式の関係だ。
昨年のインドラ祭では,コイララ首相が少女生き神様クマリの祝福を受け,統治の正統性を宗教的に認めてもらった。
チャンダ・バジラチャリヤ教授(TU)は,こうした宗教儀式は続行すべきであり,それらこそが国家統治者に支配の正統性を与える,と主張する。サチャモハン・ジョシ氏(ネパール文化論)も,ネパールの新指導者が国王の役割を引き継ぐべきだと考え,「文化ヘゲモニーが国王から人民に移った。・・・・大統領か首相がこれらの宗教儀式を実行するのが自然だ」と主張する。
両氏のこの発言には,もちろん政治的意図がある。それを分かった上でいうのだが,こうした議論は全くナンセンスだ。政教分離の厳しさが分かっていない。いや,正確には,分かっていても分からない振りをして,愚民観に立ち,こんな幼稚な,しかし政治的には高度な議論をしているのだ。
ここはマオイストに大いに期待している。明日の首相選挙で,大統領選のようなどんでん返しがなければ,プタチャンダ議長が初代首相に選出される。
プラチャンダ議長は勇敢なマオイストであり,当然,一切の宗教儀式への参加は拒否されるはずだ。特に人権蹂躙,少女虐待の象徴クマリには近づきもされないはずだ。グロテスクな迷信の典型,生き神様クマリに女々しく拝跪しなくても,プラチャンダ首相の正統性は人民が保証する。主権はクマリにではなく人民にある。それで十分だ。
マオイスト・イデオロギーが絶対に許さないクマリに拝跪するような,みっともないことを,勇敢プラチャンダ首相がするはずがない。
ところが,マオイストの潔癖さを固く信じつつも,やや不安にさせられたのが,いま話題のミスコンだ。
2.ミス・ネパールとマオイスト
女性の味方マオイストは,ミス・コンテストには一貫して反対してきた。今回の「ミス・ネパール(Dabur
Vatik Miss Nepal 2008)」についても,たとえばアムリタ・タパ議員は,こう述べて,開催阻止を訴えた。
「そんなイベントは認めない。新生ネパール連邦民主共和国には,女性を弄ぶようなイベントは不要だ。」ミス・ネパールは「反女性的」「資本主義的」だ。「ミスコンは,知性よりも肉体美が大切という誤ったメッセージを社会に送るものだ。」(AFP,Aug6)
タパ議員のいうとおりだ。タパ同志を熱烈支持する。
ところが,だ。8月12日になると,マオイストは一転,裏取引でミスコンを認めることにしたようだ。水着ショーはしない,ネパール文化を重視する,女性活動家らを招待する,ミスコンは8月23日に延期する,ということらしい。(PTI,Aug12; Nepalnewscom,Aug13) 何たる軟弱,人民への裏切りではないか。水着ショーなど,以前からネパールではやっていなかった。
むろん,ネパールのこと,以上の報道がどこまで本当かわからない。しかし,もし23日にミスコンが実施されたなら,大筋では報道通りということになる。そして,もしそうなら,怪しげな裏取引を続けてきた既成諸政党とマオイストは何ら変わらない,ということになる。いや,はるかに悪質だ。
マオイストは,女性に武器を取らせ,女性解放のため多くの血を流させた。それなのに,もし支配者男性の「女の美しさ」概念でネパール女性を洗脳し,身体を見世物にさせ,「美しく」なるための商品を買わせ,インド資本に儲けさせることを目的としたミスコンを容認するなら,マオイストは,ネパール女性を裏切り,その精神も身体も財産も資本家に貢がせたことになってしまう。
まさかそんなことを,世界女性の希望の星ネパール・女性マオイストが許すはずがない。23日には,会場まで飛んでいって,しかとこの目で見定めるつもりだ。
(参考)
谷川昌幸(C)
“中世には、中西欧の大きな言語-文化共同体が、徐々に成長した。その歴史をつくったのは、それ自身ではなく、教皇と皇帝、諸領主、諸身分、諸都市であった。十字軍は、一つの民族の仕事ではなく、民族の枠を超えた諸身分の仕事であった。ハンザ同盟は、数多くの言語共同体の諸都市を含んでいた。諸領主の支配領域さえ、多様に混じり合った民族的定住地域をまとめたものであった。かの共同体は、主体でも客体でもなく、まだ歴史をつくらず、歴史がまず共同体をつくるのである。したがって、その時代に行動する共同体は教会であり、次に、ローマ帝国や神聖ローマ帝国にまとめられていた国家的共同体である王国(regna)と都市国家(civitates)であり、さらに正統信仰のキリスト教徒の領域と、異端者と異教徒の領域があり、最後に普遍的な身分制共同体がある。王国と都市国家は諸フォルクの定住地域を引き裂き、教会と帝国は全フォルクを一つに融合し、諸身分は、僧侶、修道士、騎士のような民族の枠を超えた繋がりをつくる。
したがって、西欧社会の外的な存在は、一方では、非常に閉じられた分立主義によって特徴づけられ、他方では、全キリスト教徒の必然的統一の観念により、教皇の教会的普遍主義と神聖ローマ帝国の世俗的普遍主義という2重の普遍主義によって特徴づけられている。何らの民族的要因も、国家形成には役割を果たしていないのである。この雰囲気のなかで、民族が成長し、ながらくそれを意識することなく言語-文化共同体として成長し、ついにはフォルク歌謡や詩のなかで共属感情がほとばしり出るまでになる。ようやく中世の終わりになって、まずイタリア人、スペイン人、フランス人、それに続いてイギリス人、スカンディナヴィア人、ドイッ人といった諸民族が行動するようになる。
交易により、諸民族は、すでに予示されていた2重の対立に入った。上に向かっては、彼らは教会と世界帝国の普遍主義に対抗し、キリスト教世界の集合観念から精神的・政治的に離れた。宗教改革とハプスブルク世界君主国に対する闘争。下に向かっては、彼らは分立主義、大司教区、自由都市、権力保持身分に打ち勝つ。そして、民族のこの反抗過程は、なお数百年間持続する。中世的普遍からの完全な解放と身分的・地方分立的な寸断の克服の成功により、近代的民族国家は完成する。これが政治的な民族の生成過程である。その最後にあっては、民族は最初とは別のものになっている。”(p11-12)
“フランス革命の勝利は、その定式を見いだし、1789年の憲法で告知した。
主権は単一で不可分であり、完全な主権は民族(国民)に帰属する。
換言すると、民族(国民)、それだけが、自発的に世の中で行動する権利と権力とを持つ。宗教的にも世俗的にも、その上に立つ権力はない。そして、その下にあるものは、その授与あるいは寛容によってのみ、権能を持つのである。この根本理念の論理的帰結として、マッツィー二が、19世紀の中頃に、どの民族も1国家を、民族全体は1国家だけを、という2重の要求を持つ民族性原理を告知する。”(p12-13)
“1789年に、フランス大革命は、主権の担い手は民族(国民)であると宣言した。
民族(国民)の国家に対する優位は、19世紀において多かれ少なかれ、明白に歴史的に貫徹された。それに逆らい、それに屈しようとしない諸国家は、武力で征服され、民族国家に併合された(イタリア、ドイツ帝国)。この体制のなかに場を見つけられないカトリック教会は、地図から消された。民族(国民)は、不正確にではあるが、尊大に告げる。国家や教会に先だって、自分は存在するのだ、と。”(p13)
(2)
“1789年と1914年で、すなわちフランス革命と世界戦争で区分され、1848年と1870年に頂点に達したヨーロッパの発展の一定段階に、諸フォルクの言語-文化共同体が、数百年の静かな成熟の後、政治的に受身の状態を脱し、歴史的な使命をもつ権力と自らを感じ、その権力の最高の道具としての国家を意のままにできるよう要求し、まずその政治的な自決を志向し、まもなく他の諸フォルクを支配することを志向するようになる。オットー・バウアーが詳しく指摘し、私自身が以前に描いたように、この意思は、資本主義的生産様式の革命的な力による国民経済の転換から生み出される。それは、意思であり、したがって精神的なものであり、根拠と目標をもった意思である。その目標は個々に「民族的理念」の形で現われる。われわれはこの「民族的理念」を詳細に精査し、叙述するであろう。ここでは、それが本質において政治的理念であり、「ナショナリズム」の政策を導く理念であることを確認すれば十分である。”(p20)
“ナショナリストにとっては、権力はすべてに優先する。彼がつくる世界像においては、民族同士は無関係で無関連に陣取っているのであり、それゆえ互いに無政府的で、荒野の猛獣のごとくである。彼らのあいだでは、ホッブズのいう万人に対する万人の闘争(bellum omnium contra omnes)が、永続していて、自己保存と自己拡大の義務が、他者を政治的に屈服させ、すくなくとも経済的に搾取するために、最強者となる機会を待つように、万人に命ずる。かくして、戦争はナショナリズムの不可欠な方策であるのだから、戦争は民族の政治的理念にまさしく固有のものである! 「戦争は人倫的な必然である」”(p21)
“ナショナリストは国際法上のアナキズムと同じであり,実際には主権概念はこのアナキズムの合い言葉である。”(p24)
“民族の名のもとに,国家がおこなうなら,不正,暴力,略奪,掠奪,殺人は,犯罪行為であることを止めるし,民族的な利害に無花果の葉をかぶせ,民族の名で技をふるうなら,暴君の振るまいとして悪評のあるいわゆるマキャヴェリズムは,民族的な美徳であり,人倫的な義務となるからである。“(p24-25)
(3)
つまり,中世においては,様々なフォルクや言語-文化共同体が普遍的な帝国や教会の法秩序に服していた。
近代になると,各民族が政治意識に目覚め,それぞれの領域国家(民族=国民国家)を形成し始めた。その過程で,領域内の弱小諸民族が抑圧され,国家を形成できない「歴史なき民族」に貶められていった。
これがナショナリズムであり,近代主権国家である。主権を持つ民族=国家は,上位の規範を持たないので,国際的には戦争状態となり,世界はアナーキーになる。
したがって,諸悪の根源は,近代における民族主権,つまり大民族が国家=法秩序の上に立ち,国家を支配の道具として使い,国内では他の諸民族を抑圧し,対外的には他の国家を征服しようとするところにある。
この解決策は,あとで詳しく説明されるが,要点をあらかじめ述べておくと,民族の属人的本質を認め,領域的国家と峻別し,諸民族を国家(および世界連邦国家)の普遍的法秩序に参加,服従させることである。
このレンナーの民族論においては,領域的国家(および世界連邦国家)は,死滅するどころか,諸民族の自治と平和共存にとって必要不可欠のものとなるのである。
谷川昌幸(C)
レンナーの民族は,政治的なものであり,種族などの自然的な要因から必然的に生まれるものではない。ハイネをドイツ人,ディズレーリをイギリス人というのは,民族が人種や種族から必然的に生まれることのないことの証拠である。
一方,レンナーの民族は,法律的領域支配団体,典型的には国家とは明確に区別されなければならない。後述のように,民族は領域に縛られない属人的社会だからである。
レンナーの民族論は,一方で民族を政治的言語・文化共同体(社会)としつつ,他方でそれを法律的領域支配団体(国家)と区別するところに,その最大の特徴がある。
レンナーは,民族の諸概念を次のように整理している。レンナー自身の民族概念は「B.b)1.」 。
民族の諸概念(p56)
A. 原子論的理解:
民族は、団体として構成されていない諸個人の集合である(個人主義)。不可分の統一国家は、直接に諸個人に対時している(集権主義)。
a)
純粋な個人主義:
民族は、「民族性」と呼ばれる個人の特性においてのみ存在する。民族性は、主体としての個人の権利にすぎない。
b)
権利においては個人主義的であり、それ以外では、民族は経済的および社会的な規定性をもつ非有機的な集団現象である。
B. 有機論的な理解:
どの民族も、法的単位を形成し(集団的)、諸民族の団体が国家を形成する(連邦主義的)。
a)
属地システム: 民族の領域は、一つの領域国家を形成する。
1. 歴史的な理解:
国家としての歴史を有する諸民族だけが、国家を建設できるものと認められうる。その歴史的な国家領域がその支配範囲であり、オーストリアの構成諸国である。より正確にいうと、伝統的な帝室直属地あるいは歴史的なラント集団である。
2.
エスニックな理解:
どの民族も、歴史なき民族でさえ、国家形成的な存在である。にもかかわらずその資格があるのは、各民族自身が定住している領域でだけである。構成諸国はまとまった民族的定住領域である。
b) 属人システム:
民族は、領域とは本質的な関連を持たない。民族存在の中核は、定住共同体ではなく、文化-言語共同体である。それゆえ属人団体として構成することができる。
1.
民族的団体が国家に編入される。国家資格の所有者、連合国家の構成国家:民族的自治。
2.
民族的団体が脱国家化される。国家資格のない自己行政権をもつ純粋な同輩団体:民族的文化的自治。
谷川昌幸(C)
レンナーは,資本主義の社会化,社会主義の民主化を目指し,レーニンや,社民党左派のバウアーと対立した。柔軟な現実主義者でナチス融和的とも批判されたが,幸か不幸か1934年社民党が禁止され,レンナーも投獄,以後,現実政治から離れ隠棲していた。1945年終戦後,政界復帰,スターリン(イデオロギー的には対立していたが)の後押しで新国家建設にあたり,第二共和政初代連邦首相・大統領に就任,在任のまま1950年に死去した。
著作:
Staats und Nation, 1899
Der Kampf der osterreichischen
Nationen um den Staat, 1902
Die soziale Funktion der
Reichsinstitute, besonders des Eigentums, 1904
Grundlagen und
Entwicklungsziele der osterreichich-ungarischen Monarchie, 1906
Das
Selbstbesimmungsrecht der Nationen in besonderer Anwendung auf Oesterreich,
1918
谷川昌幸(C)
2006/06/07 南アジア最高の指導者,コイララ首相
After American Presidents Bill Clinton and George W. Bush, it was today the turn of Nepal’s Prime Minister Girija Prasad Koirala to be received by the Indian Prime Minister at the New Delhi’s Indira Gandhi International Airport in the recent memory. “You are the greatest leader in South Asia,” said Man Mohan Singh, the Indian leader, while shaking hands of his Nepali counterpart. “We respect you and we are proud of you.”
Koirala is officially visiting India as a Prime Minister of a government formed by the historical Peoples’ Movement that forced an autocratic king to give up the power and restore the House of Representative that was dissolved four years in mysterious circumstances. Koirala was demanding the restoration of the House from the very beginning and the 84-year-old president of Nepali Congress party was the leader of the Seven Party Alliance that organized the April Revolution with the direct help of the Maoist party. Koirala, as the head of the (new) Nepal government, genuinely deserved that respect from India, our closest neighbor. This response of Prime Minister Singh has been interpreted as Indian peoples’ salute to the Nepal’s historical peoples’ movement and its achievement.
But those were the words from India; we are yet to see those beautiful words turned into action. India can turn those words into actions by providing assistance and offering help to us without adding strings and hidden fees. Koirala is in New Delhi with a mission: to get as much help and assistance from India as possible. Nepal is in need of all kinds of help- from budgetary to bilateral- from India but not at any cost. We feel that India has done enough harm and taken things away from us already. This is the time India pays back. So far the signals have been encouraging. Results will be seen pretty much soon. Koirala will be holding formal talks with Man Mohan Singh Wednesday.
Based on reporting by Kantipur senior reporter Balaram Baniya and special correspondent Surendra Phuyal in New Delhi
2007/05/24 高位カースト寡占のマオイスト
谷川昌幸(C)
多民族国家の統治が難しいのは,民族と国家がともに領域支配を目指すからだ。近代はそれを「1民族1国家」で解決しようとしたが,多くの場合,失敗,グローバル化による国家相対化とともに,民族紛争が頻発するようになった。
これはいまのネパールの最大の課題でもある。ネパールは,開国後,近代国家の形成を目指し,特にパンチャヤト体制期(1960-1990)には,絶対王制的な上からの国民国家化を目指したが,世界はすでにポストモダンの時代,遅きに失し,この野心的な試みは挫折,1990年革命による民族の復活,復権となった。
革命後成立の1990年憲法では,「民族」や「カースト」が公認され,ネパール語以外の諸言語も「国民言語」の地位が与えられた。さらに,パンチャヤト憲法では禁止されていた「政党」が憲法で公認され,ネパールは多民族・多文化・多政党の議会制民主主義となったのである。
この多民族・多文化・多政党制は,アクセルを踏みつつブレーキをかけるような,不自然な体制であった。「民族」「カースト」「言語」が公認されたので,1991年国勢調査では「民族」「カースト」「言語」別の統計が出され,のちの「民族」「カースト」「言語」紛争に「科学的」根拠を提供することになった。他方,そうした諸集団は,国家統合や相互の「調和的関係」を害するものであってはならないし,「政党」に至っては,それぞれの民族,宗教,カーストごとに結成することが禁止された。民族等がそれぞれの集団利害を主張し,国家統合が危うくなることを恐れたからである。(2007年暫定憲法は,別の表現で「宗教」「カースト」「部族」「言語」「性」を基礎とした政党を禁止しており,厳密に解釈すれば,MJF等の地域政党,民族政党は公認されないことになる。)
いずれにせよ,1990年革命で絶対王制的近代的主権国家の蓋が外れ,社会諸集団が自己のアイデンティティを確認し,集団利益を主張することができるようになったことは間違いない。先進諸国の学者先生方がそそのかしたこともあって,H.グルン氏を筆頭に,これでもかとばかりに,民族の確認,権利主張が繰り返された。最高級紙・多色刷りの重い(重量が)民族識別地図本が続々と出版され,どこに,どの民族/カーストが住んでいるのかが美しく色分けされ,子供にでも一目瞭然よく分かるようになった。
H.グルン氏は快活愉快な人で大好きだったが,この民族/カースト識別宣伝には賛成できなかった。事務所でお目にかかったときも,これは危険ではないかと指摘したが,同意はしていただけなかった。
ここで不思議なのが,民族/カースト/言語をなぜ地図上に色分けするか,ということである。言語もカーストも,そして民族ですら,本来は,土地に結びついたものではなく,個々人の属性,つまり属人的なものである。日本語話者はネパールにいても日本語話者だ。ユダヤ人は,世界のどこにいてもユダヤ人だ。
そうした本来属人的なもので地図を色分けするのは,たまたまそこに,ある属性を持つ人々が多数住んでいるからにすぎない。民族と土地との必然的結びつきはないのである。
これは,重要な視点の転換だ。特に現代はグローバル化の時代であり,人々の地理的流動性はますます高まっていくし,情報化で文化の変化も早くなった。民族を明確に識別し土地に縛り付け固定することは,ますます難しくなっている。
民族の覚醒,民族紛争の頻発は,属地的民族の危機感の表明ともいえる。民族が,土地から切り離されつつあることに危機感を強め,土地にしがみつこうとしているのだ。それがいまの民族紛争の根源的理由である。
地図上で色分けできるような民族から,混在的な属人的民族へ。世界は,おそらくこの方向に向かうだろう。この観点から見るとき,属人的民族論を主張したカール・レンナーの次の本は,たいへん興味深い。「訳者解説」を手引きに,要点を紹介しよう。読み進めながらの紹介であり重複や混乱が生じるかもしれないが,ご容赦下さい。
●カール・レンナー(太田仁樹訳)『諸民族の自決権――特にオーストリアへの適用――』お茶の水書房,2007年,373頁,6500円
(未完)