谷川昌幸(C)
1.養子・里親の必要性
子供たちの中には,様々な理由で親に養育されず,福祉施設や里親に養育されたり,養子として育てられる場合がある。それは,そうした境遇にある子供たちにとって必要不可欠の制度であり,救いである。
たとえば,SOSは国際的に著名な組織で,ゼミ学生の研究を見ても,その里親制度が高く評価されている理由がよく分かる。
*衣川あい 「社会的養護と愛着形成―フィンランドの実践から学ぶもの―」
しかし,ARKのHPを見ると,ちょっと違うようだ。どうしようもない違和感を感じる。
2.子供の選別
ARKによれば,子供を養子にするには,まず「子供を選ぶChoose Your
Child」ところから始まる。これは,5歳以下の「夢のような子供the child of your dream」を手に入れる最善の方法だ。
ARKは,子供の健康等の詳しい情報を提供し,希望者は,それに基づき,子供を選別する。写真だけだと,期待はずれで,失敗することが多い。手続は次の通り:
→希望国の選択
→養子選別プログラム申し込み
→手数料支払い(イリノイ事務所へ)
→養子情報提供,手続代行
→選別した国を訪問
→養子候補の子供たちの写真等を閲覧
→選別した子供と面接。気に入らなければ,別の子供たちを見て,その中から気に入った子供を選別。ARKが支援。
→養子選別後の手続はARKが代行
→養子(1人または数人)をつれ,帰国
養子の実態は,おそらく,こうしたものだろう。しかし,養子提供側と養育側との間に大きな経済格差があり,しかも間に民間仲介組織が入ると,率直には善意を信じられなくなる。
不謹慎な表現だが,正直に告白すれば,数年前,子犬を買うためペットショップに行ったときの気分に近い。買い主(飼い主)となる私は,圧倒的な優越者,買われるのを待っている子犬たちは,無力な弱者。美しく健康で気だてのよさそうな子犬を選んでいる私。
相手は子犬だ。が,選別している自分の,そのあまりの利己的傲慢さ,卑劣さ,醜さに,自嘲的とならざるをえなかった。子犬にとって,買われる方が買われないよりも幸せに決まっているが,しかしそれでも,ペットを選別して買い,飼うことの不正義感は,どうしても拭いきれない。
3.ネパール養子の有利さ
ARKが,養子提供国として特に推薦しているのが,ネパールだ。
「ネパールからの養子には多くの利点がある。ネパールは貧しい国だが,子供たちは,あまり虐待やネグレクトされることなく,非常によい状態で育てられている。赤ちゃんや幼児を希望する人には,ネパールは絶対お勧めだ。アル中も少ない。
ネパール養子は,結婚している人でも未婚の人でも可能だ。ネパール養子は,カトマンズのネパール政府の管轄になる。公立孤児院からと私設孤児院からの二種類の養子制度がある。ネパール養子プログラムには利点が多い。」
「養子可能なネパールの子供:乳幼児から十代までの子供。兄弟姉妹も可能.... 養育側:単身母は可。養父母は55歳以下。すでに子供がいる場合は,ネパール政府規則により,自分の子供とは別の性の子供。子供のいない家族には,異性の兄弟姉妹を養子にすることも可。別の性の子供2人を持つ家族は,ネパールでは養子をとれない。」 (http://www.adoptionark.org/public/pag24.aspx)
ネパール養子受入の手順:
4.そして,クリスチャンに
養子は,繰り返すが,必要な制度である。現実的でもある。そして,養子としてアメリカに連れて行かれた子供たちの多くも,幸せであろう。それは,分かってはいるが,やはり,どこか割り切れない。
キリスト教では,子供は両親の子供ではなく,神からの預かりものだ。だから,何らかの理由で子供の養育が出来なくなれば,神は子供を親から取り戻し,別の人に養育を委ねる。キリスト教の下では,養子は,完全に正当化されている。
しかし,ネパールの子供の多くは,キリスト教の神の子供ではない。ネパール文化には,子供についての,全く別の観念がある。そのネパール文化から見たとき,圧倒的な経済的・政治的・軍事的優位にあるアメリカの,この養子制度は,どう映るのであろうか?
谷川昌幸(C)
Bilash Rai (NepaliTimes, Dec.27) / Nepali Times (ibid)
それを前提に言うのだが,ネパールのメディアや人権派は,根本的な考え違いをしている。彼らは,自由と権力を二者択一の関係,反比例の関係と見ているようだが,これは見当違いである。
自由や権利は強力な公権力により守られる。報道の自由も私生活の自由も強力無比の公権力を前提とする。
が,その一方で,メディアは権力監視を任務としている。自分を守ってくれる権力が,公権力の正道から外れ,私権力に堕落することのないように常に監視し,その兆しがあれば,報道し警告する。その任務の忘却はメディアの自殺だ。
人民攻撃の警察隊や軍隊の後ろからカメラを構えるメディア,途上国攻撃の先進国軍隊に守られつつ取材するメディア,政府や政党の提灯持ち記事を垂れ流すメディア――そんなものは見たくもない。
メデイアが批判すべきは,公権力の私権力化であり,公権力そのものではない。強力で安定した公権力は自由保障の前提条件だ。特にネパールにおいては。
マーチンUNMIN代表(ibid) / 権力(警察)に保護を求めるメディア(クンダ・デクジト氏,ibid)
谷川昌幸(C)
唯一全能の神の御子イエス・キリスト生誕日を国定祭日にしてしまったので,当然といえば当然だが,ヤダブ大統領とプラチャンダ首相がクリスマス祝辞を述べた。カンチプルの報道する限りでは,両者の祝辞は抑制されたもので,特にキリスト教の神を讃えたものではない。
しかし,ヤダブ大統領はネワン制憲議会議長とともにクリスマス集会(カトマンズ)に出席し,唯一全能の神の御子イエス・キリストの生誕を祝った。(プラチャンダ首相は出席していない。)
世俗国家ネパールは,唯一全能の神の軍門に下ったのか? 「ザ・ヒマラヤン」の紙面を見ると,「アメリカ国会議事堂とクリスマスツリー」写真とあわせて大統領・議長クリスマス集会参加写真が掲載されている。これは意味深だ。
世俗国家政府や「ザ・ヒマラヤン」「ゴルカパトラ」がキリスト教寄りなのに対し,「カンチプル」や「ネパールニューズコム(マーカンタイル)」のクリスマス報道は地味だ。冷淡とさえいってよい。これは何を意味するか?
街はどうだったのだろう? クリスマス・デコレーションを飾り立て,乱痴気騒ぎをやっていたのだろうか?
谷川昌幸(C)
ネパールでは,今年からクリスマスが国民祭日(国家祭日)となった。2006年民主革命により世俗化したネパールが,なぜキリスト教の祭日を国民祭日とし,全国民にキリスト生誕を祝わせるのか? これは政教分離の原理問題であるばかりか,キリスト教と他宗教との関係をめぐる現実的な生臭い政治問題でもあり,理論的および政治的に慎重に検討し対処しないと,将来,深刻な宗教紛争に発展する恐れがある。
1.1990年革命とキリスト教
キリスト教は,1990年民主化革命以前は,厳しく規制され,民衆に布教すると,逮捕・投獄された。そのため,革命以前のキリスト教徒は,3〜5万人にとどまっていた。
この状況は,90年革命で信仰の自由が認められたことにより改善され,信者数も増加し始めたが,1990年憲法は依然としてヒンズー教を国教とし,しかも布教制限規定をもっていたため,布教の自由は実際には大幅に制限されていた。たとえば,2000年10月,ノルウェー人を含む4人のクリスチャンが東ネパールで布教したとして逮捕され,国際問題になった。
(注)1990年憲法
第4条 ネパールは,・・・・ヒンズー教立憲君主国である。
第19条(1) 何人も・・・・古くから継承されてきた自分自身の宗教を信仰しかつ実践する自由を有する。ただし,何人も,他人をある宗教から別の宗教に改宗させる権利をもたない。
2.2007年暫定憲法とキリスト教
2006年革命とその成果としての2007年暫定憲法は,この状況を大きく変えることになった。暫定憲法に基づき2008年4月10日に制憲議会選挙が実施され,これにより成立した制憲議会は5月28日の初会議でヒンズー教王制を正式に廃止し,ネパールを世俗の民主共和国とした。
むろん過渡期の憲法である現行2007年暫定憲法には,1990年憲法と同じ布教制限規定がそのまま残っているが,国家が世俗化され,ビシュヌ神化身としての国王も廃止されたので,この規定の発動は実際には難しくなっている。
(注)暫定憲法
第23条(1) 何人も・・・・古くから継承されてきた自分自身の宗教を信仰しかつ実践する自由を有する。ただし,何人も,他人をある宗教から別の宗教に改宗させる権利をもたない。
マオイスト幹部のバルシャマン・プン(アナンタ)も,全ネパール・キリスト教評議会の大会に出席し,世俗国家ネパールは宗教の自由に対する制限をすべて撤廃し,「すべての宗教を平等に扱う」と語っている(Christian Century, Jul.1, 2008)。
キリスト教会は,いまようやく,念願の布教の自由を獲得しつつあるのである。
3.キリスト教徒の激増
世俗共和制の成立を,キリスト教会は布教のチャンス到来と諸手を挙げて大歓迎した。
「世俗共和制は,人民の勝利であり,宗教の自由への前兆である。」Simon Pandey, General Secrretary of the National Churces Fellowship of Nepal (Christian Century, Jul.1, 2008)
「ネパールは世俗民主制への道を歩んでおり,宗教の自由はいまや確実なものとなっている。」Plus Perumana, Vicar General of the Roman Catholic Church in Nepal (ibid)
「以前のネパールでは,クリスチャンはゴスペル(福音)を説いたというという理由で逮捕・投獄されていたという。・・・・ナラヤン・シャルマ(アジア・ゴスペル協会ネパール代表)によれば,彼自身も信仰を告白したという理由で逮捕され,地下牢のような刑務所に投獄された。・・・・ところが,以前はクリスチャンの逮捕を報道していた国営ラジオ局が,いまではゴスペル番組を流している,とシャルマは語った。」(Christian Post, Jul.14,2008)
この国家世俗化の効果は,早くもキリスト教徒の激増となって現実のものとなっている。いまでは,ネパールは「キリスト教社会の成長が世界で最も速い国の一つ」である(World Council of Churches, Sep.9, 2008)。概数であるが,いくつか数字をあげると:
<現在の信者数>
100万人[Christian
Century, Jul.1,
2008]
80万人,6000会衆(2007.11) ← 5万人(1991年以前)[Ecumenical News International, Nov.24,
2007]
70万人(2008.11) ← 3万人(15年前)[Anne
Thomas, Bible Society UK, Nov.27, 2008]
700万人[70万人?],1500会衆(2006.5) ← 5万人(1990年以前)[Simon Gurung, Ecumenical News International, May.8,2006]
これらの数字を見ると,1990年革命以前はほんの数万人にすぎなかったキリスト教徒が,現在では70〜100万人に激増したことが分かる。
信者数100万人といえば,すでに大勢力であり,政治的にも無視し得ない力を獲得しつつあるといえる。
4.青年層のキリスト教化
では,いったい誰がキリスト教に改宗しているのか? これは容易に想像がつくように,主に青年層である。
「ネパールの教会の成長の中心を担っているのは,青年たちだ」Raju Lama, President of the United Christian Youth Fellowship in Kathmandu (Ecumenical News International, Nov.24, 2007)
たしかに,ネパール関係の教会HPを見ると,まず家族の中の若者がキリスト教に改宗し,それに激怒する親族を根気よく説得し,容認させ,そしてついには親族一同を改宗させる「美談」がいたるところで紹介されている。
教会の宣伝だからある程度割り引くとしても,大筋では,このような形でキリスト教への大改宗が進行しているのであろう。
5.下層民のキリスト教化
もう一つ,注目すべきは,教会が下層民への布教に力を入れていることである。教会自身は明らかにしていないが,数が多いのはおそらくこの層の改宗者であろう。下層庶民に先駆けて,「目覚めた」中層・上層の知識人や若者が改宗し,彼らの指導の下で下層民が大挙して改宗する。そのような流れが始まっているのだろう。
教会記事によれば,教会は食事や物品を提供し,音楽やダンスをふんだんに織り込み,下層民を教会へと誘導している。
「バイダ(1995年ヒンズーからキリスト教へ改宗)の説明によれば,教会の人々は若者たちに音楽,スポーツ,能力開発の機会を恒常的に提供している。これがネパールの青年たちをキリスト教に引きつけることになっている,と彼は語った。」(Ecumenical News International, Nov.24, 2007)
「ミャンマーの宣教師によれば,サイクロン被災後,地方の人々は,宣教師や教会ボランティアたちが食事や物品を配っているのを見て,そこに神の心を見て取った。/『仏陀は,私たちが苦しんでいるとき,何もしてくれなかった。が,皆さんのイエスは,私たちを愛してくれている』と,ある家族が語ったのを,その宣教師は記憶している。『いまでは,日曜日になると,彼らは教会に来て,主を礼拝しています』と彼はつけ加えた。」(Christian Post, Jul.14, 2008)
ネパールに行くと,知識人や政治家たちが,キリスト教会は食事・物品・教育・留学などの供与や,音楽・ダンスなどの娯楽提供で改宗を働きかけているとさかんに教会批判をするが,この批判には全く根拠がないわけではない。ネットの教会HPやユーチューブを見ると,そんな宣伝記事や映像があふれている。
それにしても,イエスは助けてくれるが,仏様は冷淡だ,などといった下品なことは,たとえそうした傾向があるにしても,言ったり報道したりすべきではない。非難している方のお里が知れるだけだ。
6.神々の自由競争市場
1990年の民主化がネパールに資本の自由競争市場をもたらしたとすれば,2006年の世俗化はネパールに神々の自由競争市場をもたらしたといってよいだろう。
以前は,ヒンズー教が国教であり,ヒンズーの神々は国家権力で保護されており,競争は厳しく制限されていた。ところが,世俗国家になり,そうした参入障壁が除去され,ヒンズー教の神々は仏教の仏たちやキリスト教の神と,生き残りのための自由競争をせざるをえないことになった。
これは資本主義社会における企業の自由競争と同じく,勝つも負けるも自己責任であり,その限りでは公平だといえる。
しかし,ここで注意すべきは,資本主義社会の自由競争は,実際には対等者間のフェアな競争ではあり得ないことだ。アメリカを筆頭に,資本家は国家権力に保護・支援されており(政府は資本家の総代表),自己責任をとる意思も能力もない。今回のアメリカ発世界金融危機で図らずも露見したように,市場の公平を唱え,自己責任と自由競争を世界中に強制してきた先進諸国の政府や大企業が,手のひらを返したように,国家介入による自国企業の保護・支援を強硬に要求している。節操も,恥も外聞もあったものではない。
同じことが,神々の自由競争市場についてもいえる。かつてキリスト教会は「宣教師と軍隊」と言われるように,軍隊の力を借りて非西洋世界を強引にキリスト教化していった。
また,そうした露骨な軍事的脅しがない場合でも,キリスト教会には富と科学力の後光が差していた。非西洋世界の人々は,この光背に目を奪われ,教会に近づき,そしてキリスト教化されていった。もちろん,いかに光背が輝かしかろうと見向きもしない信仰堅固な国もあれば,日本のように,おいしいエサだけ喰って,ご本尊には見向きもしない不届きな国もあるにはあったが,そうでない多くの国々はエサもろともハリを飲み込み,釣られていった。
キリスト教会が,そうした手練手管で非西洋世界をキリスト教化し,土着の多様で豊かな文化を滅亡させていった経緯を見ると,キリスト教の神の偉大よりもむしろ神の強欲・無慈悲を感じざるをえない。
ネパールは,世俗化により,神々の自由競争の時代に入ったが,以上に述べたように,神々は決して対等な条件で競争するのではない。もしネパールの人々が,ネパールの社会的・経済的条件を無視し,キリスト教世界の言うがままに神々の自由競争を認めたら,大変なことになる。
先進諸国の大企業は,強大な国家の強力な支援を得ている。そんな大企業と自由市場で競争したら,途上国の企業や労働者たちは負けるに決まっている。同じく,もし富と力と科学のケバケバしい光背付きのキリスト教会と自由競争市場で競争したら,貧弱な光背しかないネパールの神々は負けるに決まっている。
ネパールのキリスト教徒はすでに70〜100万人に達している。日本が180万人程度(2000年)なので,人口比では日本よりもはるかに多い。このままだと,いずれ宗教紛争が勃発する危険性が高い。
7.政教分離の原則
宗教の勢力関係が急変しつつあるネパールにおいて,もっとも危惧されるのは,政治家たちが,こうした状況下で最低限必要とされる「政教分離の原則」について全くといってよいほど関心を示していないことである。
いくども指摘したように,ヤダブ大統領はヒンズー教宗教儀式に頻繁に参加している。一方,ネワング制憲議会議長は,キリスト教会の催しに出席し,祝辞を述べている(Christian Post, Jul.14,2008)。(この点,プラチャンダ首相は,管見の限りでは,いかなる宗教儀式にも首相としては出席しておらず,節を通している。やはり,勇敢であり,偉い。)
いまネパールでもっとも必要なことの一つは,政教分離の原則の確立だ。電力不足問題よりも,緊急度ははるかに高いといってよい。政教分離の原則を確立しておかないと,微妙な問題の多い宗教政策が無原則となり,大混乱を来すことになる。
信仰は個々人の内面の問題であり,ここに国家権力が介入することは,民主国家では絶対に許されない。その意味では,神々は人々の良心の前で自由競争をし,選ばれた神がその人の信仰となる。
しかし,宗教活動は社会の中で展開され,外面性を帯び,この部分については政治権力による規制を受ける。この規制をどのようにするかは,極めて難しい問題である。それぞれの社会が,その社会の実情に応じて,最適な方法と範囲をその都度具体的に決めていかざるをえない。
また,宗教の外面的活動のうち政治的・法的規制になじまない事柄については,社会が世論ないし常識(コモン・センス)による規制を行なう一方,宗教自身も信仰の本質に照らし自己規制していかなければならない。
信仰は絶対に自由だが,外面性を帯びる部分については,自由放任は許されない。自由放任は強者の利益である。政治でも経済でもそうであった。宗教が例外であるはずがない。
8.イエスの真実
私は,政治国家が,いずれかの宗教を国教としたり特権的に保護するのは誤りであり,民主国家では許されないことだと確信している。国家は,国民生活の外面的安全の保障に,その任務を厳しく限定すべきである。
したがって,当然,神々は人々の支持を求めて自由競争せざるをえない。ただし,その競争が真に公平な競争となるように,神々も富や力の外面的光背を外し,内面的な信仰の場で裸になって競争すべきである。
そのモデルの一つが,イエス・キリストその人である。イエスは,おそらく政治的権力も軍事的権力も経済的権力も何一つ持たない,世俗的には無力な人であったのだろう。イエスは,そのようなものは一顧だにせず,つねに貧しい人,悩み苦しんでいる人,虐げられている人と共にあり,その苦しみを共に苦しみ自らに引き受けようとし,そしてついには自分の生命までも罪深き人々のために献げてしまった。
私が理解するところでは,キリスト教の神は,人をしてイエスのこのような生き方に習うことを求める神であろう。
もしキリスト教の神がそうした神であるのであれば,たとえ他の神々が現れても,よもや富や外面的な力でそれを屈服させ排除することを人々に求めたりはしないであろう。
私はクリスチャンではないが,イエスが説き,身をもって示したこの神の真実こそが,真の平和への道であると信じている。このことは,近著(高橋・舟越編『ナガサキから平和学する』法律文化社)において,もう少し詳しく説明している。機会があれば,ご覧いただきたい。
(未完草稿)
谷川昌幸(C)
朝日新聞(12/17)の「天声人語」が,摩訶不思議な血液型性格論を展開している。正体見たり,だ。
議論は,造血幹細胞移植でA型からO型に替わった市川団十郎氏をダシにして,警戒するふりをしつつ,結局は血液型性格論を肯定している。
「定め(血液型)に身を任すのは,最後の最後でいい。」
血液型性格論や血液型優生学は,血液型がストレートに性格や行動に反映するなどといった馬鹿げたことを主張しているのではない。そんな単純な議論なら,誰も引っかからない。(血液型人事をやっている馬鹿な企業があることはあるが。)
血液型性格論や血液型優生学が恐ろしいのは,人々の性格や行動の基底が結局は血液型にあると主張し,科学的反証を難しくしている点にある。性格や行動の決定要因は無数にあり複雑に関係しているはずなのに,血液型性格論や血液型優生学はそれらをうやむやにし,科学手品的手法でもっともらしく血液型に還元し,説明しようとする。エセ科学の,危険きわまりない血液型基底還元論である。
朝日は,社をあげて,血液型優生学を支持している。いや,それはいいすぎだというのであれば,少なくとも,血液型優生学を応援してきた過去の過ちを訂正しようとはしていない。
市川団十郎氏の会見は見ていないが,天声人語氏の引用で見る限り,団十郎氏は血液型優生学を原理的に否定する趣旨で発言されている。団十郎氏は,A型だろうがO型だろうが芸は変わるものではない,芸は血液型などといった自然必然によるものではなく氏自身の努力による「芸=art」にほかならない,という確固たる自信に基づき発言されているようだ。
それなのに天声人語氏は,団十郎氏の病気をダシに血液型性格論を紹介し,結局はそれの宣伝に手を貸しているのだ。
たとえ一億人の「人声」が血液型優生学に与したとしても,それは決して「天声」ではない。かつてある首相が喝破したように,「民の声にも変な声がある」。朝日は,騒々しい巷の「変な人声」ではなく,本物の「天声」にこそじっと耳を傾けるべきではないだろうか?
【参考】
2008/10/16 血液型優生学を粉砕せよ
2008/06/29 朝日の血液型優生学
2006/10/08 カースト差別より危険な血液型差別
(「血液型の記載,記事には不要」朝日新聞西部本社版)。
谷川昌幸(C)
改装中の教育学部棟 / 左端壁面シートの電飾クリスマスツリー(2008.12.16)
さすが教育学部,学生・教職員こぞって,キリスト降誕を祝い,御子をつかわされた全能の神の無限の愛を讃えようというのだ。教育効果絶大だ。
この電飾クリスマスツリーを設置したのが施工業者か大学当局かは分からないが,それがキャンパスのど真ん中にあることは間違いない。
●マタイ福音書・第2章1−2
イエスがヘロデ王の代に,ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき,見よ,東から来た博士たちがエルサレムに着いていった,「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは,どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので,そのかたを拝みにきました」。
●日本国憲法・第二十条【信教の自由、国の宗教活動の禁止】
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
ネット版カンチプールの表紙が一新され,見やすくなった。それは結構なことだが,いささか性倒錯気味の女好きは変わらない。
ネパールの男性って,女好きだなぁ。高級紙がこんなことまでしなくても,ネットにはモロ見え写真・動画があふれているのに。
どうやら,ネパールではまだまだ性タブーが健在であり,高級紙のタブー破りが,いわば性的倒錯として,ウリになるらしい。古き良き秘められたる性の隠微な世界の名残が,ネパール・メディアでは楽しめる。
新聞協会の全面広告も,不可解だ。こんなことをいうために,なぜ1ページものスペースが必要なのか? 新聞協会は,森林破壊の旗手を務めるつもりか?
「次のページで,人が殺されていませんように。そう思いながら新聞をめくる。それだけでこの国の愛は育つ。」 本当かなぁ? 無数の木々の生命を無惨に奪いながら,生命への愛がどうして育つのかな?
* 「朝日新聞社が、半期ベース(連結)で100億円以上の赤字に転落したことがわかった。単体ベースでみても売り上げが約142億円減少しており、販売・広告収入の落ち込みが裏付けられた形だ。」(J-CASTニュース11月21日)
1.はじめに
1-1 市民教育先進国ネパール
ネパールではいま,市民教育が切実な課題であり,学校でも地域社会でも,国中いたるところで人々が熱心に市民教育に取り組んでいる。現在のネパールは,おそらく世界でもっとも活発に市民教育を行っている国の一つであり,そこでは様々な先駆的な方法が試みられ,教材も次々と開発され使用されている。
ネパールというと,私たちはすぐに,ネパールは貧しい開発途上国(*1)であり,先進国の日本は何であれ援助し教える立場にあると思いがちだが,これは根拠のない大いなる錯覚であり,他のいくつかの分野と同様,市民教育についても,日本はむしろネパールから学ぶべきことが少なくない。
*1 ネパールの人間開発指数(HDI)は世界177カ国中の第136位(2003年),一人あたりGDPは日本が33,713ドルであるのに対し,ネパールは237ドル(2003年)。ネパールは「開発中位国」の下位に位置づけられている。UNDP『人間開発報告書2005』参照。
そこで,以下では,ネパールの市民教育のいくつかの事例を紹介し,もって日本の市民教育の向上にいくばくかでも資することにしたい。
1-2 市民教育の名称
ところで,「市民教育」は,英語表記では Citizenship Education,
Civic Education, Civics
などとなる。これを「市民性教育」と表記する人もいるが,日本語としては,これはいささか語呂が悪い。また,「シティズンシップ教育」とすると,英語帝国主義迎合的(*1)であるばかりか,カタカナ表記のあいまいさ(*2)も免れないので,教育用語としては,これも望ましくない。市民教育は,よき市民の育成が目的だから,「市民教育」と称するのが最適である。
*1 「英語帝国主義(English
Imperialism)」とは,英語は世界共通語であり,世界のすべての人が英語を学び使用すべきだという考え方。日本では,日本国政府や地方自治体,経済界,大学などがこの立場に立つ。一般に,日本の古き良き伝統を維持し,愛国心教育推進を唱える機関や人々が中心になって,この英語帝国主義を提唱している。たとえば,ちょうどいまテレビでNHK(日本放送協会)アナウンサーが,「今日はノーマイカーデーです」と放送している。「ノーマイカーデー」は日本語ではなく,意味不明で,美しくもない。その証拠に,日本語の専門家のはずのアナウンサーが,この言葉をうまく発音できず,2,3回読み直していた。アナウンサーですら読めないような異国由来の言葉をわざわざ使用するほど,日本の国家や地方自治体や財界や大学は愛国的であり,英語帝国主義的だ。自虐史観批判をする人は,たいてい英語帝国主義者である。[参考文献:あとで追加]
*2 外国語のカタカナ表記は,その語の解釈を見聞きする人の側に委ねるものであり,意味をぼかすために用いられる。年月と共に日本語化し,意味内容が確定してくるが,それまでは,カタカナ表記は権力者,権威者が真意をごまかし責任逃れをするためのjargon(秘語)である。日本では,役所や大学で多用される。[参考文献:あとで追加]
1-3 市民教育と公民教育
この「市民教育」に近いのが,日本では,社会科の「公民分野」や「公民科」である。「公民」は「市民」とほぼ同じ意味で使用される場合もあるが,日本語としてみると,国家公民的な「公」優先のニュアンスが強い上に,歴史的にも「天皇の民(皇民)」の含意を払拭し切れていない。
「市民教育」は,このような閉鎖的な「公」優先や皇民思想を原理的に否定し,「個」としての市民を通して多元的な開かれた「公共性」を創出・育成することを目指すものであり,したがって,それは「公民教育」ではなく「市民教育」であり,「公民科」ではなく「市民科」であるべきである。
よほど経営状態が悪いのか,朝日新聞(12/9)がまた超巨大広告を掲載した。昨日(12/8)の倍,何と全紙2枚の表裏,計8ページにも及ぶ資源浪費・環境破壊のトンデモナイ広告だ(下図参照)。
しかも,広告の内容がアナクロで,反道徳的,反人民的だ。ASAHI NEXTと銘打ち,要するに,日本人民にまたまた金融商品を売りつけようという魂胆なのだ。
この巨大広告を,巨大顔写真入りで宣伝しているのが,竹中平蔵氏。例によって,庶民をばくちに誘い込むため,怪しげな理論を展開している。
竹中氏 「もし普通預金だけなら,利回りはほとんどゼロです。しかし,1%の利回りで運用することはそんなに難しいことではないはずです。/労働所得が上がらない時代には,資産所得を上げていく普通の努力はしていくべきだと私は思います。」
これはつい先日まで,銀行,郵便局,株屋でさんざん聞かされたことで,それに煽られ金融商品を買った善良な庶民は,いま財産が半減し,みな泣いている。
しかし,そんなことなどそしらぬ顔で,竹中氏はもっと金融ばくちに金を出せ,と庶民を煽っているのだ。朝日のキャプションによれば,「『日本には国民全体でみると1500兆円の個人金融資産がある』。竹中平蔵氏は個人の資産所得に未来への光明を見る。」
何たることか! 庶民が額に汗して働きコツコツ貯めてきた財産を,もっと金融バクチにつぎ込め,と煽っているのだ。こんなひどいことは,株屋のオヤジでさえ,いいはしない。彼らはプロやセミプロを相手にしているからだ。
しかし,その竹中氏よりももっとひどいのが,朝日新聞だ。超巨大活字で,「生きる力」をはぐくむ金融教育 とアジり,子供までも金融バクチに引き込もうとしている。
朝日によれば,「昔から日本には,お金のことは人前で話さない風潮がある」という。まるでイケナイコトのようだが,そんなことは決してない。「お金儲け」は,古代ギリシャ以来,まともな文化のもとでは,「人前では話さない」こととされてきた。日本だけが特殊なのではない。
「お金儲け」はあまりにも誘惑の多い危険な行為だから,取扱注意の最たるものとして道徳的に強く規制されてきたのだ。「お金儲け」を道徳的に規制しないような文化は,性を規制しない文化と同様,まともな文化ではない。
それなのに朝日新聞は,金融広報中央委員会が「小中高の学校教育を金融教育の核と位置づけ,教科や学級活動などの中で活用できる教材の提供やカリキュラム作成の支援などを行っている」ことを手放しで賞賛している。
朝日によれば,国民は「金融リテラシー」を持つべきだという。「例えば,高校生向けの教材には,『私の命を育んだお金はいくら?』というテーマで,生まれてから高校を卒業する18年間でどれくらいお金がかかったかを計算するという課題例がある。」
何たる品性下劣な教育か! 朝日は,本当に,こんな金融教育を提唱するのか? 小学生たちが,朝日新聞のお手本に習い,株式投資ゲームで「金融リテラシー」を向上させるといったことを,本当に期待しているのか?
通信簿の成績欄に先生が点数をつけている――株式投資ゲームで元金を倍増させた生徒は5点,損得なしが3点,そして元金を無くしてしまった生徒が1点。こんなことになれば,世は末世だ。
このアナクロ不道徳広告のスポンサーは以下の通り。
Citibank, Sony Bank,
オリックス証券,住友信託銀行,アクサ損保,あおぞら銀行,外為どっとコム
【ニューヨーク=丸石伸一、ワシントン=西崎香】経営難に陥っている米金融大手シティグループは23日深夜、米政府から追加支援を受けることで合意したと発表した。シティが持つ不良資産約3060億ドル(約29兆円)から将来発生する損失のうち、米政府が最大で約2493億ドル(約23兆9千億円)肩代わりするほか、公的資金200億ドル(約1兆9200億円)で追加資本注入する。
シティは10月28日、250億ドル(約2兆4千億円)の資本注入を受けたばかり。追加支援で注入額は計450億ドル(約4兆3200億円)に達し、米金融機関で最大となる。
リテール業務、公的資金返済も難航 新生、あおぞら銀“崖っぷち”(フジサンケイ・ビジネスアイ,11月28日)
1998年の金融危機で破綻(はたん)し、一時国有化されて10年目を迎えた新生銀行(旧日本長期信用銀行)とあおぞら銀行(旧日本債券信用銀行)の経営が“崖(がけ)っぷち”にある。両行は、海外向け投融資で多額損失を計上したことなどが響き、2008年9月中間連結決算で最終損益が赤字に転落した。リテール(個人向け)業務の強化に懸命だがメガバンクとの顧客争奪戦は激しく、国から注入された公的資金の返済も難航している。
金融バクチで破産しそうな金融機関の金融バクチを,「日本の良心」朝日新聞が素人衆に宣伝する。古来,胴元は絶対に損をしないはずなのに,「金融教育」を受け「金融リテラシー」をふんだんに持つ「金融エリート」を集めた米日の金融機関は破産の瀬戸際にあり,みっともなくも国家に救済を哀願している。自己責任ではなかったのか? いかさまバクチではないか? こんなことなら,アウトローの賭博胴元の方が,はるかに健全で良心的だ。朝日新聞がいくらけしかけようとも,素人衆は無責任な金融機関のいかさま賭博に手を出すべきではない。
しかし,これは斬新を衒っているが,こけおどしで,滑稽なほど空回りしている。朝日としては,印刷媒体たる朝日新聞の危機状況を読者に訴えたかったのだろうが,こんな浅薄なセンセーショナリズムでは,読者はしらけ,「どうぞ,ご自由に! 資源浪費朝日新聞が無くなっても,ネットがあるから,僕ちゃん,平気だもんね」と皮肉も言いたくなる。
こんなことが許されるのなら,朝日新聞の全紙面をスキャンしてネットに掲載することも出来るはずだ。そして,朝日が資源浪費超巨大記事で,やけくそ気味に書いているように,効率と便利を貪欲に求める世界は,おそらくその方向に進むだろう。
「わたしたちを待ち受けるのは,どんな未来か」と朝日は,巨大活字で問いかける。朝日には,その答えは,おそらく分かっているのだろう。分かっていても,自嘲気味にそう問いかけざるをえないのが,いかにも朝日らしい。
先日,公共図書館のDVD・CD貸出はケシカランと憤慨しつつ,それに流されてしまう情けない状況を自嘲気味に告白したが,ネットの現状はそんな生やさしいものではないらしい。
ネットはよく利用するが,これまでユーチューブは敬遠してきた。昨日,図書館DVD・CD貸出との関連でユーチューブを見たら,公共図書館がDVD・CD貸出の文化破壊に走らざるをえない苦しい状況がよく理解できた。
ユーチューブは,まさに何でもあり。これでは図書館もDVD・CDを貸し出さざるをえないだろう。そのうち,図書館もDVD・CDをサーバーに移し,ネット経由で映画や音楽の貸出を始めるに違いない。図書館のユーチューブ化だ。
これは図書館の自滅であり,文化の破壊だ。
図書館はもともと教会や王侯・貴族が知や文化を収集し秘蔵するため設置したものだ。文化にもそれを保管する図書館にも,近寄りがたい神秘性がつきものだった。ところが,民主化により図書館は皆のものになった。本来,文化は地域的・時間的特殊性を本質とし秘匿されるべきものなのに,皆のものになった図書館はそれを無原則に収集し公開し始めた。隠されてあるべきものを公開する。タコの足食いと同じで,図書館の自滅だ。
それは,神のものである「言葉」が皆に理解されてしまえば神は不要になり,秘仏が公開されれば御利益が無くなるのと同じことだ。
が,ネット化で世界がそう動いている以上,図書館も私もそれに追従せざるをえない。情けなく恥ずかしい限りだが,ネットの情報公開の理念には抵抗できない。まさに,世界はヘーゲルの言う通り,物ではなく理念の自己展開に支配されているのだ。
で,ネパールについてみると,ユーチューブはすごい。何でもあり。ヒマラヤの神秘など,もはやどこにもない。これはネパール文化の貪欲な消費であり,文化破壊だが,たとえネパールであろうとネット化理念の自己展開の外にいることは出来ない。ネパールは,数千年にわたって積み重ねてきた文化的伝統を瞬く間に費消してしまうであろうが,しかし,これも必然であり,いたしかたない。そこで,わが「ネパール評論」も,文化破壊の悪魔に加担し,ユーチューブ・ネパールへのゲートを開くことにした。
これは地獄門であり,先には文化の死屍累々,荒涼たる文化破壊が広がることになるが,これも必然,もはやこのゲートを通り,三途の川を渡り,餓鬼のごとく文化を喰い荒らし喰い尽くすより仕方ない。禁断の木の実を食べた人間の業であり宿命なのだ。
ようこそ,ネパール文化破壊の世界へ!
先日,ブログ(スペース)のシステムを変更されましたが,利用者にとっては当惑するような変更がいくつかあります。特に問題なのは,画像の扱いです。
変更後,ブログ掲載画像は自動的に「ブログの画像」「ブログのフォト」「Blog Images」の3種類に分類されました。この3種類はどう違うのでしょう。普通の言語感覚では,区別できません。
しかも,「ブログのフォト」と「Blog Images」は公開制限できるのに,「ブログの画像」は強制公開です。
これまで私のブログでは,文章と一体化した形で写真を使用してきました。写真だけ取り出すことも出来なくないが,それには意識的にその操作をすることが必要でした。
ところが,今回の変更で,これまで文章と一体で掲載してきた多数の写真が,一方的に「ブログの画像」に分類され,RSS配信されてしまいました。これは著作権(著作人格権)侵害になる恐れがあります。
したがって,著作人格権を守るため,「ブログの画像」も公開制限できる(ブログ記事と一体化したものとしてみる)ようにすべきです。「ブログのフォト」と「Blog Images」は公開制限できるのに,「ブログの画像」だけ強制公開とせざるを得ない理由はどこにあるのでしょうか?
ぜひ,早急に改善していただくようお願いします。
下記写真は,「ブログの画像」「ブログのフォト」「Blog Images」のうちの,どこに分類されるのでしょう? この写真はそれだけでは,何の意味もありませんが,これもRSSで強制配信されるのでしょうか? これから実験してみます。通信量が増え,ネット社会の皆さんにはご迷惑をおかけしますが,ご容赦下さい。
キラント教のこともファルグナンダ師のこともよく知らないが,こうした宗教儀式に公人が,たぶん公費を使って,無原則に参加してよいのだろうか?
ファ師生誕99年祭において,ヤ大統領は「(ネパールは)多様なカーストとコミュニティの花園」と述べた。これは,歴代シャハ王家のモットーそのものであり,何ら新鮮味はない。彼らが考えるべきは,偉大な国王の真似事ではなく,国家と宗教の関係,公人と宗教行為のあり方なのだ。
ヒンドゥー教王国において,ヴィシュヌ神の化身たる国王が宗教行為をするのは当然だ。しかし,ネパールは,王制を否定し,世俗共和国になった。その大統領と国会議長が,平然と国王の真似をし,宗教行為をしていてよいものか?
その点,プラチャンダ氏は,共産主義者としても首相としても,偉い。キチンと節操を守り,宗教儀式には参加しない。この一点だけでも,勇敢プラチャンダ首相は尊敬に値する。多少,ブルジョア趣味があっても,どうということはない。俗物どもを適当に泳がせ,操り,少なくとも政教分離の原則を実現するまでは,政権を維持してほしい。
それにしても,どうかと思うのが,カンチプール。ヤダブ大統領キラント教祭典出席記事の下に,なんとサイエントロジーの大広告を掲載している。勇敢プラチャンダ首相のツメの垢でも煎じて飲むべきだろう。
谷川昌幸(C)
民主主義の定着には,市民の政治的成熟が必要なことは言うまでもない。この問題について,Dev Raj Dahal氏は次のように述べている。
(1)"Inner Party Democracy in Nepal," Nov.27,
2008
ネパールの政党幹部たちの「言葉」と「行動」の間には,甚だしいギャップがある。そのため,平党員や支持者が幻滅し,支持政党の激変がおこる。政治は不安定化し,諸勢力の間の社会契約をつくることが困難になっている。
また,ネパールではメディアや市民社会は活発だが,公共諸制度は弱体だ。政治は,きちんと制度化されていない。父権的文化が国家と公共部門ではびこり,公務員はこれを利用して自分の勢力拡大を図っている。
したがって,政党の党内民主化と市民の政治教育を促進していくことが,民主主義の定着には不可欠である。
(2)"Security Sector Reforms and Civil-Security Relations in Nepal,"
Nov.16, 2008
国家による正統的権力の独占は,国家存立と市民の安全保障の前提条件である。
しかし,安全部門に対する文民統制は民主国家では必要不可欠である。国軍,武装警察,警察,情報機関の,それぞれの役割を明確化すべきである。また,安全保障部門の専門職意識の強化と,議会・政府の安全保障に関する知識の獲得・文民統制能力強化も必要である。
こうした観点から見ると,現在のように私的・個人的権威主義が政府や政党にはびこっている状況は,憂うべきことだ。安全保障の面でも,市民の政治教育が必要なのである。