谷川昌幸(C)
開国期日本には多くの欧米人が訪れ,様々な観察記録を残した。この本は,それらの記録を分析し,まとめたもので,当時の日本がどう見られていたかがよく分かり,たいへん興味深い。
著者の石川栄吉(1925-2005)は社会人類学者で,本書『欧米人の見た開国期日本:異文化としての庶民生活』(2008, 風響社,2500円)以外にも,『南太平洋物語』(1984,毎日出版文化賞),『海を渡った侍たち』(1997)などの著書がある。
この本を読んで忸怩たらざるをえなかったのは,ネパールの内在的理解などとかっこつけていても,所詮,私の議論は当時の欧米人の態度とそっくりな点だ。開国期日本の人々が,高慢無礼な西欧人に抱いたのと同じような感情を,ネパールの人々も私に対して感じている――そう思うと,いたたまれない思いだ。
ネパールについては,すでにネパール人自身が日々大量の情報発信をしている。日本語情報発信も,現れ始めた。とくに次のHPは今後の発展が注目される(「けぇがるね?日記」参照)。
・Dip's Page http://dipnepal.web.fc2.com/
・Jigyan
Thapa's Diary http://www.jigyan.info/
日本人,とくに日本からのネパール情報発信は,ネパール文化の機微を知り尽くしたネパール人自身のそれには到底およばない。いくら正確であろうとしても「ちょっと違うよね」といわれるにちがいない。別の意味で,ネパールについて語ることは難しくなった。では,どうするか? この問題を考えるにも,この本は,たいへん参考になる。
1.みだらな日本人
本書によれば,私にとってと同様,欧米人にとっても,関心事は政治や芸術よりも,まずは性事(性治)であった。欧米人は日本の性的破廉恥に驚き,あきれた。
(1)混浴
男女混浴は,当時はごく自然なことであった。現代でも,東北ではあちこちで見られる。私自身,山形に務めていたとき,温泉に行くと,若い女性が平気で入ってきた。ゼミ旅行でそれほど古くない大きな旅館に泊まったときも,入口は別でも中にはいると混浴で,女子学生と鉢合わせしそうになり,あわてて退散したものだ。
この男女混浴は,欧米人には理解を超えたみだらな習慣と移った。「浴場の中には,男と女(その中には若く美しい娘もたくさんいた)が,ごっちゃにいるのを発見した。」「日本のように,男女両性がこれほど卑猥な方法で一緒に生活する国は世界中どこにもない」(リュードルフ日記,本書47頁)。
(2)裸体
浴場ばかりか,屋外でも,日本人は裸体を平気で人目にさらしていた。ポンペ医師は,夏の長崎では男女が湯屋から自宅まで裸で歩いて帰るのをしばしば目撃しているし,江戸でも男女が裸で湯屋から外に出てくることがよくあったという。
湯屋以外でも,男の褌姿,女の腰巻き姿は,夏では一般的であり,これが欧米人には羞恥心,道徳観念の欠如と映った。
(3)売春
日本各地に公認,非公認の遊郭や女郎屋があり,大繁盛しているのも,欧米人には驚きであった。
特に売春行為について,客の男にも身体を売る女の側にも,さしたる罪意識がなく,年季明けか身請けで自由となり,結婚して幸福に暮らすことができたし,才色兼備の遊女は称賛され良家に身請けされた。これも,欧米人には驚きであった。
ついでながら,日本人が売春にたいした罪悪感を持たなかったことは,第二次大戦敗戦直後,占領軍向けの「特殊慰安施設」を日本政府が全国各地に早々と開設したことを見てもわかる。売春防止法の制定は昭和31年。
(4)畜妾,一夫多妻
日本では,大正天皇からして明治天皇の側室の第3子だから,畜妾は常識であり,明治31年まで公認されていた。妻妾同居も多く,実質的には一夫多妻制に近い。徳川家斉は側室40人,子供55人だったという。これも,キリスト教的「純潔」と一夫一婦制を建前とする欧米人には,好色淫猥と見えた。
2.不誠実な日本人
異文化について,性の次に問題になるのが,交渉事の要である誠実さである。欧米人は,この点についても,日本人の不誠実を激しく非難し,軽蔑した。
ペリー艦隊通訳官ウィリアムズによれば,日本人は「野蛮人」である(本書158頁)。こうした観察は無数にある。「なんとかして真実が回避され得るかぎり,決して日本人は真実を語りはしないと私は考える。率直に真実な回答をすればよいときでも,日本人は虚偽をいうことを好む」(ハリス,本書160頁)。「日本人の悪徳の第一にこの嘘をつくという悪徳をかかげたい。・・・・彼らは,東洋人のなかではもっとも不正直でずるい」(オールコック,本書163頁)。
3.欧米人と日本,私とネパール
本書では,これ以外にも,日本人の容姿,服装,飲食,住居,技芸などについての欧米人の見方が幅広く分析,紹介されている。また,日本文化に対する外在的批判だけでなく,内在的な深い日本文化観察の事例もたくさん紹介されている。
しかし,全体として,欧米人の日本観が圧倒的に欧米文化を基準とするものであったことはいうまでもない。彼らは,自文化の高みから開国期日本を見て,野蛮,淫猥,不道徳,嘘つき,不誠実と非難し,蔑視したのである。
このような欧米人の日本蔑視は,愛国者たる私には耐え難いものだ。自分たちの生き方をよそ者に悪し様にけなされ,バカにされるいわれはない。「いやなら日本に来るな!」とそう叫びたい。
しかし,自分自身のことを少し振り返ってみると,私のネパール論は,まさにこれと同種のものであったことに愕然とする。欧米人が開国期日本に見たものと同じようなものを私はいまのネパールに見て,欧米化した日本の高みから,それらを蔑視し非難している。「いやならネパールに来るな!」とネパール人が怒って当然だ。では,どうすればよいのか?
4.異文化理解の心得(石川)
本書の著者,石川栄吉は「おわりに――異文化理解の心得」において,次のように述べている。
(1)一般化の危険性
“ちょっとした印象や経験を安易・性急に一般化してしまうことの危険性は、われわれ自身異文化に接した場合によくよく自戒すべきことである。”(220頁)
(2)自文化絶対化の誤り
“何の情報も持たないままに初めて異文化に触れた場合、われわれは何を手がかりにその異文化の理解を試みるかといえば、言うまでもなくそれは、自分がその中に生まれ育った自分たちの社会の文化である。自分たちの文化を物指しにして相手を測るわけである。その際、世界には多種多様な物指しがあり、自分たちの物指しはその中の一つに過ぎないことを自覚せずに、世界には自分たちの物指しただ一つしか無いとか、かりに多種多様な物指しがあるにしても正確なのは自分たちの物指しだけだ、と思い込んで測定に当たるならば、それに外れたものはすべて異常もしくは誤りと目されてしまうことになる。」”(221頁)
(3)異文化理解の心得
“要するに異文化理解に際して心すべきことは、自文化を絶対視してこれに外れた異文化を蔑視し、無用の優越感に浸ることと同じく、異文化を絶対視して徒に自文化を卑下する愚に陥らぬことである。効率主義にせよ何にせよ、とにかく或る特定の視点に立ってでないかぎり、自文化と異文化との間に優劣の評価を持ち込むべきではない。視点を変えれば評価が逆転するのは何も珍しいことではない。
自文化を相対視したうえでの「自文化に照らせば」という異文化理解の視点は、同時に自文化の再発見、再認識の視点でもある。自己は他者と照らし合わせることによって初めて自己認識ができる。異文化理解は自文化理解と表裏一体である。”(224-225頁)
5.寛容の限界
石川の「異文化理解の心得」は穏当なものであり,無自覚な自文化中心主義や無反省な近代化論などよりは,格段に優れている。が,問題はむしろここから始まるのではないか?
「異文化を異文化として容認する寛容さ」とは,要するに文化相対主義であり,これについては石川自身がこう述べている。
“もともと異文化理解など出来なくて当然なのかもしれない。それでなおかつ異文化間の協調を保つためには、世間は他人ばかりであるのと同様に世界は多様な異文化の集合体であることを承知したうえで、己の文化、己の価値観を絶対視して異文化を評価することをせず、ましてや己の文化や価値観を相手方に強要することなく、異文化を異文化として容認する寛容さこそが肝要であろう。そのうえで押しつけではない協調点を探ることが国際交流とか国際化の前提である。世界の諸文化の画一化が国際化なのではない。画一化はむしろ人類文化の衰退である。”(226-227頁)
たしかにそうだと思う反面,このような「寛容」な立場を取れないのが人間であり,文化の特質なのではないか。石川自身,「異文化理解など出来なくて当然」といいつつも,それは「国際協調の問題」,「押しつけではない強調点を探る」といった助言でお茶を濁している。しかし,以前にも議論したように,「自文化を相対視」してしまったら,他文化は見えなくなってしまうのではないか? 本当の「寛容」は,そのような「仲良きことは美しきこと哉」といった甘いものではないのではないか?
たとえば,一夫一妻家族の隣に一夫多妻(あるいは一妻多夫)家族が移ってきたとき,そのような「寛容」を保てるか? おそらく,無理であろう。人は,自文化を大切と思えば思うほど,他文化に対してはこのような意味での「寛容」ではあり得ない。
私たちが,異文化に関心をもち,自文化を基準にそれを評価するのは,いわば業(ごう)であり宿命である。理解できない「他者」の闇がそこにある。理解できないものと,どのようにして「協調」するのか? これは難しい。人間の宿命的な業(ごう)としかいいようがない。
私のネパール論も業のようなものだ。ネパールの人々に余計なお節介だ,と怒られても,関心をもってしまったのは宿命であり,ギリギリのところでは私自身の立場からネパール文化の批判をせざるをえない。内在的理解に努力しつつも,結局は自文化という外からの批判にならざるをえない。因果だが,それが業であり宿命だから,致し方ない。
谷川昌幸(C)
ネパール暫定憲法第5条は,次のように定めている。
この憲法第5条を厳密に解釈すれば,母語の公的使用は地方機関に限定され,国家レベルでは使用できない。また,使用できても自分の母語だけである。ジャー副大統領は,元最高裁判事であり,こうしたことは十分わかった上で,「悪魔の代理人」となり,あえてヒンディー語宣誓をしたのだ。
たしかに,2006年革命=2007年暫定憲法の精神からすれば,ネパール語だけに特権的地位を与えることはできない。また,何が母語かは,結局は,本人が決めるべき事柄である。ジャー副大統領のヒンディー語宣誓は,母語-地域共通語-国家語の関係,つまりは民族自治,連邦制の在り方にたいし,悪魔的・原理的な挑戦状を突きつけているのだ。
言語問題ではEUですら手を焼いている。お隣のインドは比較的うまくやっている。さて,ネパールはどうなるか? やはり,副大統領の思惑通り,インドの教えを請うことになるのか?
▼ジャー副大統領の反論(追加)
谷川昌幸(C)
ジャー副大統領は,辛辣なユーモア精神にあふれた方だ。大好きになった。
マイティリ語が母語の副大統領が,わざわざヒンディ語で就任宣誓をされた。マオイストらの民族自治論を皮肉り倒した痛快な政治パフォーマンスだ。――君たちは階級闘争論のはずでしょ。それなのに,色気を出して「民族」にちょっかいを出すと,タライ(あるいはマデシ自治州)は親インドとなりますよ。
暫定憲法によれば,「ネパールで母語として話されているすべての言語は国民言語である」(第5条(1))から,ヒンディもれっきとした「国民言語」であり,たとえ母語ではなくてもそれを話すことは誰に対しても禁止はできない。ヒンディで宣誓して,何が悪い。
ジャー副大統領は,ネパールのスウィフトといってよい。
*2001年国勢調査によれば,ネパールには92の母語があり,ヒンディーもその一つ。母語としているのは105765人(全人口の0.47%)。
**タライの人が演説などでヒンディーを使用するのは,(本当は)少数派母語ではタライでも母語以外の人々には理解されないからではないか。
谷川昌幸(C)
“Nepal’s government is turning the screws on peaceful Tibetan protesters at
the behest of China,” said Brad Adams, Asia director at Human Rights Watch. “How
can a government that came to power on a wave of public protests justify
crushing peaceful protests by Tibetans?”
The 60-page report, “Appeasing China: Restricting
the Rights of Tibetans in Nepal,” documents numerous violations of human
rights by the Nepali authorities, particularly the police, against Tibetans
involved in peaceful demonstrations in Kathmandu, including:
In preparing the report, Human Rights Watch directly observed protests and
arrests, conditions in detention, and treatment in hospitals. Human Rights Watch
carried out regular observation visits to Tibetan areas of Kathmandu,
interviewed more than 90 Tibetan protesters and conducted interviews with
non-Tibetan protest eyewitnesses, Tibetan community and religious leaders,
Nepali medical personnel and police officers, and United Nations personnel in
Nepal.
Nepal, which borders the Tibetan region of China and is home to
approximately 20,000 Tibetan exiles, refugees and asylum seekers, has seen
numerous protests since March 10, “Tibetan National Uprising Day,” the
anniversary of the 1959 Tibetan rebellion against China’s rule in Tibet.
Protests in Kathmandu intensified in reaction to the Chinese government’s
violent suppression of protests in Tibet and neighboring provinces in China.
Nepali authorities have made at least 8,350 arrests of Tibetans between
March 10 and July 18 (many people have been arrested more than once). While the
frequency of protests has diminished since May, protests have continued to take
place regularly. Few of those arrested have been provided with a reason for
their detention, and virtually all have been released without charge.
Human
Rights Watch said that Nepal’s police have used unnecessary or excessive force
to carry out arrests, at times with the apparent intent to disperse crowds of
peaceful protesters. Police have beaten protesters with lathis (canes) on the
head and body, and kicked and punched them, and sexually assaulted Tibetan women
during arrest. Police, especially at Boudha police station in Kathmandu, have
severely beaten detainees. Many detainees, including those who suffered injuries
while being arrested, have been provided limited or no medical care. Threats of
violence, sexual intimidation and deportation to China by the police also appear
to have been used to deter future demonstrations.
“Kathmandu has provided a
home for Tibetan exiles for decades,” said Adams. “That is now under threat as
Nepali authorities cave into pressure from the Chinese government.”
China
has played an important, if at times opaque, role in the Nepali government’s
crackdown on Tibetan demonstrations. China’s ambassador to Nepal, Zheng
Xianglin, has publicly exerted China’s influence on the Nepali government
through strong and frequent statements, calling for the arrest of protesters and
urging the government to take strong action. For example, on May 12, Xianglin,
said, “We want the Nepali establishment to take severe penal actions against
those involved in anti-China activities in Nepal.”
The unusual number of
statements from Nepali leaders reiterating the ban on “anti-China” activities
suggests increasing pressure from Beijing.
“China has long claimed that the
bedrock of its foreign policy is ‘non-interference’ in the internal affairs of
other countries. Yet it has directly called for the Nepali authorities to crack
down on peaceful protesters,” said Adams. “Beijing’s attempts to export its
persecution of Tibetans across the Nepal-China border should stop immediately
and be strongly resisted by the government of Nepal.”
Nearly all Tibetan
protesters interviewed by Human Rights Watch reported being threatened by Nepali
authorities with deportation to China. This threat is being used during arrest
and against those in detention with the apparent aim of instilling fear within
the Tibetan community or to discourage future protests. The authorities’
widespread use of this threat suggests Nepali government policy.
“The
threat of detention and deportation to China is being used by the government of
Nepal to silence peaceful protest,” said Adams.
Human Rights Watch called
on the government of Nepal to respect the fundamental rights of Tibetans to
engage in peaceful assembly and expression, and to end the arbitrary arrest,
harassment, and mistreatment of those who do so. Human Rights Watch also called
on the Chinese government to cease its public and private pressure on the Nepali
government to violate the rights of Tibetans.
Tibetan protesters in
their own words:
“I was peacefully protesting when I was hit on the head
by police and fell to the ground. I was then hit with lathis [canes] on the feet
and legs by three policemen before they ran off, and I was helped home by a
passerby. Both of my feet are fractured. The doctor told me my left foot will
never be the same again.”
– 25-year-old Tibetan, Kathmandu, March 19, 2008
“We are protesting because we want to tell the truth about our country and
we want justice from the UN and human rights. We want to show other countries
the real situation in Tibet. This is our aim.”
– Nun from Swyambu,
Kathmandu, March 29, 2008
“The police took my friend, so I tried to hold
onto him. Then the police tried to hit me with a lathi, so I put my arms up and
now I have a damaged arm. Then I fell to the ground and the police beat me while
I was on the ground, and now I have this large bruise on my back. My friend
picked me up because I couldn’t walk, and then the police put me into the van.”
– Protester, age 25
谷川昌幸(C)
制憲議会(CA)の議長に,統一共産党(UML)のSubash Chandra Nemwang氏が,他に候補者がなく満場一致で選出され,これでNC-UML-MJFの三派体制が固まった。
首相はどうするか? 包摂政治安定のためには,首相はネパール共産党マオイスト(M)とすべきだろう。ネパール政界のバランス感覚からみて,プラチャンダ議長か,さもなくばマオイスト系が首相になるだろう。
もし印米が三派を強力に支援し,マオイストを完全に外せば,マオイストは本家中国に接近し,ややこしくなる。あるいは,ジャングル復帰となるかもしれない。
人民解放軍2万余が控えている。実質的には,ネパールはまだ1国2政府(1国2軍隊)状態だ。内戦再発を防止するには,マオイスト(系)を首相にするのが大人の知恵というものだ。
谷川昌幸(C)
●大統領候補者(カッコ内は当初の支持政党)
●党別投票者数
2.非マオイスト政権の可能性
この非マオイスト連合成立の可能性は,数日前,情報を得ていたが,確認できなかったので,ここでは書かなかった。ネパール政界では,相当数の人が知っていたのではないだろうか。
ただ,微妙な票数なので,誰も過半数を獲得できず,再投票になる可能性もある。この場合の投票日は未定。
谷川昌幸(C)
1.ネパール政治の秘義
言葉と行動が一致しないのはどこでも見られることだが,ネパールは特にはなはだしく,言葉だけではネパール政治はほとんど理解できない。言葉で理解できないことを秘義(secret)という。
たとえば,今日(7月19日),過半数で選出されることになっている大統領。誰もが「儀式的(ceremonial)」大統領とする,といっている。そして,儀式的とは,いうまでもなく政治的実権を持たないと言うことだ。
ところが,誰もがその自分の言葉とは裏腹に,大統領の政治的利用を狙い,血眼になって争奪戦をやっている。言葉と行動との分離。言葉の存在の耐えられない軽さ。ネパールでは,行為は言葉ではなく,隠された基準,つまり「秘義」によって,導かれている。
秘義的なものはどの国にもあるが,ネパール政治のそれは決定的なまでに重要だ。したがって,ジャーナリストや政治学者は,その秘義を探り会得してから,政治については発言すべきだろう。
しかしながら,この秘義は,秘め事(秘儀)だけに,会得は非常に難しい。また下手に会得すると,秘儀的世界に引きずり込まれ,出られなくなる恐れがある。そこで,外国のジャーナリズムや学問は,多かれ少なかれ,邪道である外在的批判に甘んじざるをえないのだ。
2.ネパール包摂参加の欺瞞性
ネパールの政治的言説のいい加減さは,全包括的(inclusion)といいながら,大統領を「男」にせよ,いや「女」にせよ,と言い争っていることを見てもよく分かる。
「男」にしたら「女」が,「女」にしたら「男」が排除され,包摂的にはならないではないか。また,首相が「男」だから大統領は「女」でよいという発想は,実権は「男」が握り「女」はそれに従属するだけ,という封建道徳そのものだ。
3.インド性治学
性治学の先進国インドでは,こんな低次元な論争はしない。朝日新聞(7月19日)によれば,インド南部のタミルナド州では,「アラバニ」が公認されたという。
“アラバニ インド南部のタミル語で「男でも女でもない」存在の意。英語で「トランスジェンダー」,日本の「性同一性障害」の人に相当する。ヒンドゥー教の神話には神々が男性から女性の姿に変身する話がよく出てくる背景もあって,インド北部では「ヒジュラ」と呼ばれ,超自然の能力があるとされ,男児が生まれた家庭や結婚式に押しかけ,繁栄や多産を願う音楽や踊りを披露して謝礼で生計を立てる。南インドにはヒジュラの伝統はなく,物ごいか売春で収入を得る人が多い。身体的に男女の別がはっきりしない人はまれで,ほとんどが「体は男で心は女」の人たち。仲間内で性器の除去手術をする例が多い。グルの元で集団生活を送り,女装をする。”(朝日,2008.7.19)
タミルナド州の人口は6240万人,そのうちの約15万人が調査後,アラバニとして公認される。身分証明書の性別欄には男女両方を意味する「T(テルナンゲ」が追加され,州立病院では性転換手術が無料化され,学校にはアラバニ用トイレの設置が義務づけられた。アラバニのための奨学金,職業訓練,起業融資なども検討されるという。
人間を「男」と「女」に分類すれば,この二分法に入らないヒトは,一方では超人間的能力を持つ神的な存在として畏敬されると同時に,他方では人間以下として蔑視され差別される。タミルナド州は,ヒトの分類に「テルナンゲ」を加えることにより,アラバニを「第三の性」を持つ人間として認めたのである。
しかし,ここで悩ましいのは,テルナンゲとしての公認がアラバニにとって一つの救いではあるが,人間の性的アイデンティティは無数に存在し,二分法を三分法にしたところで問題の根本的解決にはならないことである。
人間は,対象を切り分け認識せざるをえない宿命,われわれと彼らを区別して行動せざるをえない宿命,を持っている。その認識要求や独自アイデンティティ要求を普遍性要求とどう両立させるか? 難しいところだ。
4.トランスジェンダーを初代大統領に
ネパール大統領選は,ポストモダンを旗印にしながら,男女二分法で戦われている。低次元の言行不一致。
そんな争いは,トランスジェンダーの名士を大統領にすれば,一気に解決する。幸い,ネパール人の約1割が「男」でも「女」でもないとされ,法的にも世界に先駆けその存在が公認された。だから,適任者は多数いるはずだ。マレーシアのように,逮捕される恐れはない。
これは名案だが,しかし,もう一度念を押しておくと,三分法は二分法よりましだが,こうした本質主義的「集団」実在論を前提とした包摂参加政策は,問題の根本的解決にはならない。古き良き近代的普遍性原理が,やはり必要なのではないだろうか。
谷川昌幸(C)
宴の後,ネパールニュースがパタッと止とまった。日本ではほとんど報道されない。普通の国となり,報道価値がなくなったのだ。
わがブログも,3~6月はアクセス500/日以上となっていたが,急降下,最近は150/日前後だ。
私は,アクセスを大いに気にする。500/日以上になったときは,意気軒昂,友人知人に自慢して回った。それが,一気に暗転,憂鬱な気分で,ブログの話題を極力避けている。
ブログがどう読まれるか,他人の評価が気になってしょうがない。せっかく書いても読まれなかったり不評だと,ガックリ,死にたくなるほどだ。
普通の国となったネパールのルーティン化した政治は,もはや日本人の関心を引かない。大統領が誰になろうが,そんなことはどうでもよい。床屋政談なら日本政界の方が面白い。
日常化したネパール政界の床屋政談を見限り,一発逆転,アクセス数を激増させ,自慢するにはどうすべきか? やはり,「性談」への転進しか道はあるまい。政談記事は,ネタの政治に依存しており,ネタが陳腐になると,すぐ見捨てられる。
これに対し,性談は奥が深く,ネタが陳腐化することもない。わがブログでも性談記事は根強い人気がある。アクセス150/日の大半は,性談関係ではないか。
世俗化ネパールは,性治化に向かう可能性が高い。政談は性談となる。残された聖は性しかないからだ。(マレーシアでは7月16日,野党指導者アンワル元副首相が同性愛容疑で逮捕された。)
● 聖=正=政=性の具象化(2008.6.18)
谷川昌幸(C)
ネパールにおけるチベット自由運動は,いまどうなっているのだろう。日本にいては,状況がよく分からない。
チベット自由運動は中国マオイスト政府が弾圧しているのだから,理屈からして,ネパール・マオイスト主導政府もこれを弾圧することになるのだろう。
民族自治は中国憲法もネパール憲法も,どの先進資本主義国憲法にも負けないほど明確に規定している。完璧といってよい。完璧に自由を保障した憲法の下で,その自由が弾圧される。マオイズムはそんなものではないはずではなかったのか。
下記写真は,転載可の表示に甘え, 「ばなな猫」さんのブログより転載。
谷川昌幸(C)
朝日新聞が変だ。血液型優生学に加担したり,海外派兵を扇動したり。気になったので,昨年末出版の『地球貢献国家と憲法』(朝日新聞社)を読んでみた。本書は,昨年話題になった社説21と関連記事の再録であり,そこでの議論については昨年すでに批判した。
今回読んでみてビックリしたのは,若宮啓文・論説主幹の「はじめに」(2007年10月付)である。他の論説委員も目を通した朝日の社論であるはずなのに,これはヒドイ。遺憾ながら「変節」と言わざるをえない。
1.変説と変節
説を変えること,つまり「変説」自体は問題ではない。状況が変わったり,誤りを発見したときは,きちんと説明した上で,説を変える。それはジャーナリズムや学者の良心であり義務である。
これに対し,理由を説明せずに,あるいは不合理な理由で説を変えるのは,「節」を屈し枉げること,つまり「変節」である。『新明解』の明解な定義によると,「貧困やさまざまの圧力のために,それまでの自己の信条を保持することを心ならずも断念する」ということだ。
朝日の「良心的兵役拒否国家」から「地球貢献国家」への社説の変更は,残念ながら「変節」と言わざるをえない。
2.良心的兵役拒否国家の訴え(1995年5月3日)
本書「はじめに」の要約によれば,1995年5月3日の社説は次のようなものであった。
“憲法9条と自衛隊や安保の関係について,私たちの先輩たちは長く熟慮し,悩んできました。そして「戦後50年にあたる95年5月3日に社説特集を組み,一つの結論を得ました。「良心的兵役拒否国家」の考えで「非軍事こそ共生の道」と訴えたのです。
国際協力は非軍事に徹する。9条の趣旨から自衛隊の目的はあくまで国土防衛に限られ,海外派遣は許されない。国連平和維持活動(PKO)には別組織をつくって派遣すべきだ。自衛隊は段階的に縮小し,やがて「国土防衛隊」(仮称)に改編する――そんな提言でした。”
(p.iv)
この要約は間違いではない。しかし,原文のニュアンスははるかに積極的で,社運をかける意気込みがひしひしと感じられる。冒頭部分はこうなっている。
“人類と地球を守るために日本は何をすべきか――敗戦五十年という節目の年を迎えるにあたって,朝日新聞はこの五年間,全社規模で討議を重ねてきた。憲法記念日のきょう,その成果を踏まえて執筆した社説と特集「国際協力と憲法」を掲げ,読者とともに考える素材としたい。
○益より害が大きい改憲
私たちの結論は次の二点に集約される。(1)現憲法は依然としてその光を失っていない。改定には益よりもはるかに害が多く,反対である (2)日本は非軍事に徹する。国際協力にあたっては,軍事以外の分野で,各国に率先して積極的に取り組む。
つまり非軍事・積極活動国家だ。国と個人の違いを承知のうえで,あえて比ゆ的に言うならば良心的兵役拒否国家,そんな国をめざそうというのである。
個人の良心的兵役拒否は,米英仏などの先進諸国ですでに法的に認められている。徴兵制をとっているドイツも,基本法(憲法)で「何人も,その良心に反して,武器をもってする軍務を強制されてはならない」と定めている。こういう考え方を国家にあてはめてみてはどうだろうか。
血を流すことが国際協力だと言う人は,これを利己的すぎると非難するだろう。個人の良心的兵役拒否も,長い間,批判され圧迫を受けてきた。だが,個人であれ国であれ,「殺すな」という信条を貫こうとすれば,これしか方法はあるまい。”(1995年5月3日社説)
これは5年間の全社的討論の結論であり,朝日が「信条」として確認したものだ。これを読んだ読者の多くは,朝日は本気だと信じ,大いに意気に感じ,崇高な良心的兵役拒否国家への道を朝日と共に歩もうと決意したにちがいない。
3.海外派兵の事実追認
ところが,朝日は,自ら高く掲げたこの「良心的兵役拒否国家」の理念を実現するための努力らしい努力もせず,それに反する事実がでてくると,ズルズルそれを追認していく。本書「まえがき」はこう説明している。
“熱い思いに満ちた提言でしたが,それから12年,残念ながらそのようにはなりませんでした。いや,むしろ日本は反対の道を歩んできたともいえます。ならば,今日の国際状況や国民意識に照らして、もう一度説得力のある論を再構成して展開すること。それは私たちが問われていた課題でした。
日々の社説では必要に応じて新たな主張を打ち出していました。例えばPKOです。カンボジアに最初のPKOを出して満10年を迎えた02年9月,社説は「もはやPKOを自衛隊の本務にし,そのための専門部隊を設けよう」と,方向転換を明確にしていました。
もちろん現状追認ばかりではありません。米国が始めたイラク戦争に強く反対した私たちは,戦火のやまぬイラクヘの白衛隊派遣にも反対の論陣を張りました。では,自衛隊は何をすべきで,何をすべきでないのか,私たちの考えを整理して打ち出す必要を感じていたのです。”
(p.iv-v, 赤字強調は引用者,以下同様)
これは変説の「ごまかし」と「いいわけ」でしかない。朝日の本気を信じた何百万もの読者への背信行為とさえいっても言い過ぎではあるまい。
4.前提条件は変化していない
変説が必要なのは,先述のように,誤りが見つかったときと,説の前提条件が変化したときである。
本書「まえがき」は,良心的兵役拒否国家の提言に誤りがあったとは一言も言っていない。したがって,わずか12年後の現在,自らそれを否定する理由は,説の前提となる状況が変化したという理由だけである。
しかし,朝日が良心的兵役拒否国家を訴えた12年前と現在とで,世界全体の構造は基本的には変わっていない。1991年のソ連崩壊で冷戦は名実ともに終わり,グローバル資本主義への流れは1995年にはもう明確となり,基本的にはそれが現在も継続しているのだ。世界平和を考えるための基本的前提条件は,当時と本質的には変わっていない。それでは,なぜ朝日は説を変えたのか?
5.現状追認
朝日の変説の理由は,日本の「現状追認」だけである。先の引用文を見ていただきたい。「日本は[提言とは]反対の道を歩んできた」から,朝日もそれに社説を合わせ「方向転換」したのである。赤字で強調した「ならば」のここでの違和感が,これが現状追認による変説であることを何よりも雄弁に物語っている。
また,1995年提案のわずか7年後に,「もはやPKOを自衛隊の本務にし,そのための専門部隊を設けよう」と言い放ち,平然としていられるのも,現状追認の変節による変説だからである。
1995年以降,世界の基本構造は変わっていない。また,日本政府の海外派兵政策も,すでに1992年にPKO法が成立しており,その強化はあっても,根本的な方針それ自体の変更はない。95年朝日社説はそれらを前提として書かれており,たとえPKF本体業務参加凍結解除(2001年)などがあったとしても,それは変説の合理的根拠たりえない。PKO法が成立すればそうなるであろうことは当然予測されていた。朝日も,そう予測したからこそ,それを阻止するために良心的兵役拒否国家を提唱したはずだ。それなのに,日本が提言とは「反対の道」を歩み派兵政策が既成事実化したという理由で,朝日はそれを追認し,政府に追従する。これはもはやジャーナリズムとはいえない。それは「変節」であり,無節操な現状追認,ジャーナリズムの御用化だ。
本書「はじめに」は「もちろん現状追認ばかりではありません」と述べ,図らずも現状追認を自ら白状することになっている。さすが朝日,正直である。が,正直に告白したからといって,ジャーナリズムにおける現状追認の罪が許されるわけではない。
6.現実主義の陥穽
朝日が「方向転換」や「現状追認」を自ら告白し,海外派兵路線に転換して平然としていられるのは,丸山真男がいう「現実主義の陥穽」にはまってしまったからである。
“現実とは本来一面において与えられたものであると同時に,他面で日々造られて行くものなのですが,普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは,既成事実に屈伏せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき,それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに,現実はいつも,「仕方のない」過去なのです。私はかつてこうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に喰入り,それがいよいよ日本の「現実」をのっぴきならない泥沼に追い込んだかを分析したことがありますが,他方においてファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのもまさにこうした「現実」観ではなかったでしょうか。「国体」という現実,軍部という現実,統帥権という現実,満洲国という現実,国際連盟脱退という現実,日華事変という現実,日独伊軍事同盟という現実,大政翼賛会という現実――そうして最後には太平洋戦争という現実,それらが一つ一つ動きのとれない所与性として私達の観念にのしかかり,私達の自由なイマジネーションと行動を圧殺して行ったのはついこの間のことです。”(『丸山集』第5巻,p194-195,原文傍点部分は太字とした。)
朝日には,かつて丸山学派がたくさんいた。もし彼らがまだ朝日社内で健在であり,師の教えを忘れていなければ,自ら平然と「現状追認」を認め,おめおめと「既成事実に屈服」していられるはずがない。わずか12年,この間に朝日社内で静かなクーデターか何かが起こったのではないか?
7.地球貢献国家の論理矛盾
それでも,「地球貢献国家」の提言が理論的,政策的に検討に値するものなら,まだ救いもあるが,実際にはそれは決してそのような代物ではない。
“「戦争放棄」を掲げ,軍隊をもたないことを宣言した憲法9条は,日本の野心のなさを印象づけています。それは「地球貢献国家」にとって格好の資産。だから9条は変えず,日本の平和ブランドとして活用する方がよいし。アジアで和解を進めつつ緩やかな共同体づくりをめざすにも,あるいは独自のイスラム外交を展開するにも,この憲法を日本のソフトパワーの象徴として生かす方が戦略的ではないか。それが結論でした。
自衛隊を否定的にとらえたわけではありません。自衛隊は万一のとき役立つ存在として,半世紀以上かけて日本社会に定着した組織です。そして,実は「地球貢献」のため,いま以上に果たせる役割もあるのではないか。
米国の同盟軍として海外派遣の道を突き進むのではなく,地球の未来を危うくするような破綻国家を世界につくらぬよう,国連が主導する平和構築活動にもう少し積極的に加わるのです。内戦や飢餓で破綻した国の存在は,テロや戦争だけでなく麻薬や感染症などの恐怖を広げる元凶にもなります。その防止もまた「地球貢献」の重要な一環であり,「人間の安全保障」につながるこうした活動は,憲法前文に掲げた精神とも合致するからです。 そして憲法と自衛隊の間にある溝を埋め,自衛隊の存在と役割を明確にするために,準憲法的な「平和安全保障基本法」を制定してはどうか。このように,従来の朝日新聞になかった提言ををしてみました。”(p.iv)
支離滅裂ではないか。まず朝日は,憲法と自衛隊との間に「溝」がある,つまり自衛隊は憲法違反だ,と認めている。そして,その上で,準憲法的な「平和安全保障基本法」を制定し,その違憲の自衛隊の存在を正当化すべきだという。これを「ごまかし」といわずして何と言おうか。それは「既成事実への屈服」にほかならない。
こんなごまかし憲法論なら,ライバルの読売「憲法改正試案」(1994)の方がはるかにましだ。読売は,自衛隊を合憲としつつも,憲法規定の曖昧さを認め,それを解消するための憲法改正を主張している。「第12条(1)日本国は,自らの平和と独立を守り,その安全を保つため,自衛のための軍隊を持つことが出来る。」正々堂々たる改憲論であり,軍隊保有に論理矛盾はなく,スッキリしている(『憲法 21世紀に向けて』読売新聞社,1994)。
海外からすれば,不安なのは,論理矛盾がなく合理的に理解し反論できる読売案よりも,むしろ既成事実に屈服しつつ変節し変説する朝日ごまかし憲法論だ。
朝日は,一方で「戦争放棄を掲げ、軍隊をもたないことを宣言した憲法9条」と言いつつも,他方では「自衛隊を否定的にとらえたわけではありません」という。軍隊を持たないといいつつも,「自衛隊は万一のとき役立つ存在として、半世紀以上かけて日本社会に定着した組織です」とか「いま以上に果たせる役割もある」といっている。
朝日は,そんな頭隠して尻隠さずの憲法論により,9条を「平和ブランド」として活用せよという。
8.危険な平和偽装
朝日は諸外国をなめているのではないか? こんな見え見えのごまかし9条論が「平和ブランド」として通用すると考えるのは,まったくもって脳天気だ。このような人をバカにしたような9条論を聞かされたら,諸外国は「なめんじゃない!」と怒り,何か下心があるに違いないと警戒するに決まっている。
朝日は,トンデモナイ思い違いをしている。9条が「日本の野心のなさを印象づけて」きたのは,曲がりなりにも,9条が日本の軍事化を抑制してきたからだ。9条に依拠して多くの人々が日本の軍事化に抵抗してきたからこそ,9条は「平和ブランド」たりえたのだ。
それなのに,朝日は,額縁だけ残して中身を入れ替え,「平和ブランド」で売ろうとしている。羊頭狗肉,食品偽装ならぬ平和偽装だ。
こんな平和偽装にだまされるほど,世界は甘くない。朝日は「地球貢献国家」を撤回し,「良心的兵役拒否国家」に立ち戻るべきだろう。
谷川昌幸(C)
制憲議会の内閣指名26議席が確定し,ようやく暫定憲法規定の制憲議会が正式に成立した(eKantipur,July 7)。各党配分数は5月27日予想通りであり,これが確定総議席となる。おめでたくはあるが,これまでの議会はいったい何だったのかな?
それにしても,こんな反民主的な議員任命方法をどうして「人民」は許しているのか? 暫定憲法第63条(2)(c)によれば,「26名は,卓越した人々および(a)(b)項による選挙では選出されなかった少数民族・先住民族の人々であって,国民生活に顕著な貢献をした人々の中から,合意に基づき,内閣が指名する。」
建前は別として,実際には各政党の山分け。ボスの権益に他ならない。(「議席未確定でも開会?」参照)
もともと内閣指名議員は,選挙民主主義とは別の,国王に代表されるエリート主義の観点から選ばれていた。これも実際には国王権益であったが,民主主義以外の観点を入れるという点では矛盾はない。
しかし,ネパールはいまでは世界に冠たる「完全民主主義」。こんな王制のしっぽのような,変な任命制は新憲法では廃止すべきだろう。
谷川昌幸(C)
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると,東ネパール・ダマクの国際移住機関(IOM)が継続的に攻撃され,6月31日にも事務所付近で爆弾3発が爆発した。どうやら,ブータン難民の第三国移住計画に対する妨害工作らしい。
現在,ブータン難民10万8千人が東ネパールの7つのキャンプで生活している。彼らはブータン帰還を望んでいるが,目途が立たず,17年もキャンプ暮らしの人もいるという。
そこで,2007年,第三国移住計画が始まり,今年に入ってから1350人が米,オーストラリア,加,デンマーク,蘭,ニュージーランド,ノルウェーに移住した。現在,第三国移住希望者は,38500人という。
IOM連続攻撃は,ブータン帰還希望者たちが,この第三国移住を阻止するために,行っているらしい。
これは難しい問題だ。本来なら難民は本国ブータンに戻るべきだろうが,それが出来ない現状では,第三国移住を考えざるをえない。しかし,第三国移住が本格化すれば,本国帰還はさらに難しくなる。
多数のチベット難民に加え,ブータン難民10万余。島国日本では想像も出来ないほど難しい問題が,ネパールには少なくない。
* UNHCR, News, July 1, 2008
谷川昌幸(C)
1.海外派兵の急拡大
福田首相は6月30日,潘基文国連事務総長に対し,スーダンPKOに自衛隊派遣を表明,さらにガーナなどにも派遣するという。またアフガニスタンについては,人的貢献を検討すると表明したが,これは要するに自衛隊派遣に他ならない。
いよいよ海外派兵の歯止めが利かなくなり始めた。名誉の戦死も時間の問題だ。一気に軍国化する恐れがある。
2.海外派兵を煽動する朝日新聞
政府・与党以上に危険なのが,朝日新聞。7月1日付社説「スーダンPKO 腰が引けすぎていないか」は,タイトル通り,イケイケドンドン。読んでいて,背筋がゾォーとしてきた。
防衛省はむしろ部隊派遣に消極的である。この「腰が引けている」軟弱防衛省や政府を,朝日は「前のめり」になって声高に叱りつける。
「国連PKOとなると『危ないから』といって腰を引くのでは,日本の姿勢が問われる。」
「今回の司令部派遣を手掛かりに,現地の安全状況や要請をよく調べ,日本の役割を広げることを考えるべきだ。」
朝日は,戦争煽動をした敗戦以前に回帰し始めた。血液型優生学の宣伝をしたかと思ったら,今度は海外派兵煽動。いったい朝日はどうなっているのだ。軍国主義者に乗っ取られてしまったのか?