谷川昌幸(C)
朝日新聞(6月27日)が,また血液型政治家分類をやっている。血液型と政治信条・政治能力とは全く無関係なのに,あえてそれをやるのは,ナチス優生学を日本政治に導入する意図があると疑われても仕方ない。もしそうでないのなら,血液型政治家分類の必要性を理論的に論証して見せよ。
血液型政治家分類の危険性については,すでに何回か指摘し,朝日新聞「声」欄にも掲載された(「血液型の記載,記事には不要」朝日新聞西部本社版2006.10.8)。その際,私に確認電話をかけてきた西部本社の担当者は,私の批判の正当性を全面的に認め,なぜ東京本社がこのような血液型記載をするのか理解できないと語っていた。
にもかかわらず,また血液型政治家分類を,しかも三面ではなく政治面に堂々と掲載している。これは故意だ。朝日は,血液型優生学を導入し,日本に人種差別のタネをまき,大きく育てるつもりなのだ。
人を,自分の意志ではどうにもならない生物学的特徴により類別し,それを政治信条・政治能力と関係づけることが,いかに危険なことかは,激しい人種差別や民族紛争を経験してきた国々では常識だ。だから,そうしたことを惹起しかねない言動をしないよう,特にマスコミは細心の注意を払っている。
ところが,天下の大朝日が,またまたバカのことをやった。さんざん批判され,理論的に反論できないことを十分に知った上で,意図的にやった。これでは,朝日新聞社の中に,血液型優生学主義者がいるといわれても仕方あるまい。
こんなことは絶対に許されない。朝日東京本社は,わかった上で意図的にやっているので,もう朝日紙上では反論しない。ネットで,嵐のような朝日批判が巻き起こることを期待している。
▼朝日新聞の血液型優生学関係記事(一部)
livedoorニュース(2007.8.7)
2007年7月24日付の朝日新聞によると、2人の講師は県警を定年退職した60代の男性。07年2月頃から講義の最初に、「車の事故を起こす確率は血液型ごとに違う」という内容の話をしていた。「O型は最も事故率が高い」「A型は安全運転」「B型はメカ(機械)に強くて自信過剰で、不注意事故が目立つ」「AB型は神経質で疲れやすく、睡魔に襲われての追突事故が多い」などというものだった。
朝日新聞(1990.11.21)
三菱電機は、血液型がAB型の社員だけを集め、ファクシミリの商品開発を練るプロジェクトチームを作った。「アイデア、企画力に優れたAB型の特質」(発案者の伊藤円冗・通信機器事業部長)を利用して、ヒット商品に結びつけようという狙い。成果が上がれば、社外モニターの中からAB型の人だけを選んで拡大プロジェクトチームを組むことも考えている。社員管理の一環として血液型の性格分析を参考にしている企業もあるものの、ここまで徹底した例は珍しい。
谷川昌幸(C)
バンコクのスワナンプーム空港を使うたびに,その滑稽な植民地的倒錯に苦笑せざるをえない。今回は,写真付きで,実態をご紹介する。 (参照:過剰と欠如:スワンナプーム空港の悲喜劇/スーツケース,連続被害)
1.ソファーなし
この空港の非人間性の第一にあげられるのは,石のように固く冷たいイスはあるが,30分以上,時間待ちするに耐えるソファーがないこと。
そのため,今回6月16日には,なんと通路に布を敷き,寒さでふるえながら時間待ちをしている人を見た。怪しまれると困るので写真は撮らなかったが,グッチか何かの高級店の前で野宿。それで平気なのが,植民地文化なのだ。
2.トイレなし
さらに悲惨なのが,トイレがないこと。信じられないかもしれないが,本当なのだ。
少し早めに最終荷物検査を受け,搭乗待合室(下図エスカレータ下)に行こうとすると,まだ開いていない。そこで乗客は通路に1,2時間待たされることになるが,ここにはなんとトイレがない。6月16日も,出ることも入ることも出来ない数十人の乗客が通路で怒りまくっていた。その一人が,私。
*固く冷たいイス。早く来ると,ここにすら入れず,エスカレーターの上部右横の通路で待たされる。トイレなし。イスも少ないので,大半の乗客は通路で野宿となる。
3.寒い
南国では「寒さ」は北の宗主国を思い出させるためのサービスであり,この空港も環境,省エネなど完全無視,凍えるほど寒い。天井が高く,ガラス張り温室のような構造なので冷房効率は極端に悪いはずなのに,冷房ガンガン,ふるえながら,窓外の南国の太陽を楽しむことができる。南国の植民地的極上サービスだ。
リュックの衣類を全部着込み,やはり寒いタイ航空機で関空に着いたとたん,暑くなり,半袖になった。南国で寒く,北国で暑い。まさしく,植民地的倒錯だ。
4.暗い
太陽いっぱいの南国で,しかも総ガラス張りに近い構造なのに,空港内は異常に暗い。これも,北の宗主国の陰気な暗い冬を思い出させるための植民地的サービスだ。
倒錯の極みが,間接照明。明るいのは天井だけ。通路も待合室も恐ろしく暗い。傘を上下逆にするだけだから,たいした費用はかからない。宗主国に気兼ねせず,南国らしく明るくすべきだ。
*この照明は転倒している。室内は暗く,本も読めない。右の写真を見よ。搭乗券が見えないので,天井照明直下であるにもかかわらず,係員は読書灯をつけている。転倒した世界では,転倒が正常と思えるのだ。
5.高い
高級店ばかり。私は,この空港では1バーツも使わない。同志も多いらしく,開店休業で,閉店も出始めた。
この点でも,関空は偉い。ユニクロを出店させ,レストランも大学食堂より少し高いくらい。ユニクロ関空とグッチ・スワナンプーム。大衆文化と植民地文化の比較研究に絶好だ。
5.愚劣
この空港の愚劣さを象徴するのが,庭園。金をかけた一見美しい庭園に,なんと模型の白い鳥(白鳩?)が群舞している。
やれやれ。こんな愚劣なことをしていると,本物の野鳥が飛んできて,飛行機を自爆攻撃するぞ。飛行機のために野鳥を撃ち殺しておいて(多分そうしているのだろう),そのかわり模型の鳥をおく。愚劣の極みだ。
固いベンチで,おしりが痛くなった。気晴らしに,他の愚劣を見学に行こう。
谷川昌幸(C)
カトマンズ・パタン間の橋(名称?)からバグマティ川右岸上流に向け,写真のようなスラムが広がっている。この先,どこまであるか確かめてはいない。以前は,下流にもあったが,こちらは強制撤去されたらしい。
盆地各所での超豪華分譲住宅・マンションの建設ラッシュとの落差は天文学的だ。いつまでもつか?
バグマティ川右岸スラム(2008.6.21)
谷川昌幸(C)
ATMはグローバル搾取の象徴だ。そもそも金や金儲けは,古来,卑俗なものと敬遠されてきた。それを人間生活の中心に置く資本主義は,根本的に間違いである。
それでも勝ち組であればまだしも,資本主義はかならず大多数の人々を負け組にする。マオイスト政権になったら,初心に立ち戻り,資本主義打倒を掲げ,まずこのような24時間オープンATMを木っ端みじんに破壊すべきだ。
19世紀のラダイト(機械打ち壊し)運動は,資本主義化は阻止できなかったが,工場の劣悪な労働条件の改善に大きく寄与した。
いまATMを破壊しても直接的な効果はないかもしれないが,24時間入出金する現状の異常さ,非人間性を象徴的に告発する効果はある。
リキシャと24時間ATMの取り合わせを異様とも感じなくなったら,おしまいだ。
カトマンズ・ゲストハウス筋向かいに設置されたATM(2008.6.18)
谷川昌幸(C)
カトマンズ盆地は,ゴミまみれ。今回の直接的原因はゴミ埋め立て処分場付近の住民の反対運動だが,たとえそれが解決しても,ネパールのゴミ問題には他にも文化的,経済的に難しい問題があり,根本的な解決は容易ではない。
バグバザール・ラトナ書店前(2008.6.20) 学生街で書店も多い。100メートル先にはパドマカンヤ女子大がある。写真は撮り損ねたが,この名門女子大の正門前にも,これに数倍する生ゴミの山が出来ていた。いくら蓮の花は泥沼の上に咲くとはいえ,聖処女お嬢様たちが鼻ををつまみながら登下校されるのを見るのは忍びない。
パタン王宮広場(2008.6.18) 美しいパタン王宮前も,ご覧の通り。それに加え,罰当たりにも広場の各所がバイク置き場になっていた。神々をメタンガス・排ガス責めにするつもりか。
谷川昌幸(C)
交通ストは,ネパール学生,労働者の権利だ。国連(UN)は権利啓蒙のため,ネパールに派遣されている。そのUNがスト破り。この人民への裏切りは,いずれ怒りを招き,UN攻撃となるであろう。
交通ストのやり方はたしかに問題だが,それはネパール人の解決すべき問題。学生,労働者が慣行に従い権利要求のためストをしているのに,国連が特権的にそれを無視してよいわけがない。
私自身,帰国日に,スト破りをした。これはいけないことだった。リキシャを雇い,1時間早めにホテルを出るべきだった。深く反省している。
交通ゼネスト下,豪華4駆で夢の庭園レストランへ(2008.6.20)
(注)この「Dreams」は夢のように美しい庭園らしいが,入園料があまりにも高いので,まだ入ったことがない。楽しめるのは軽食だけかもしれない。UN4駆は,ここに長時間駐車していた。きっと「重要会議」だったのだろう。いわずもがなだが,手前の路上販売の食品(何だったか確認しなかったが)の何百倍もする。女性は,豪華4駆と,その向こうの豪華庭園レストランを見ている。女性の背後には,顧客となるであろう無数の庶民がいる。
谷川昌幸(C)
1.交通ゼネスト万歳
6月21日(土)交通ゼネスト。休めばよいが,働きバチの日本人。スト対象外の自転車を借り,スイスイ,バリバリお仕事。
そもそも私は,カトマンズ盆地の交通ゼネストそのものには,反対ではない。いや,むしろ賛成といってよい。
自転車で走ってみると,リングロード内(市内)では車は不要であることがよく分かる。もともとカトマンズは徒歩圏内の町だったし,リングロードまで拡大しても自転車で十分だ。盆地内の車は罪悪といってよい。車税,燃料税を100倍にし,車を閉め出すべきだ。生徒も学生も,徒歩か自転車で通学すればよい。いまやヨーロッパでは,自転車の方がかっこよいのだ。
2.パタンまで20分
この日の仕事先はパタンの高台サネパ。重いリュックを背負い自転車で悪徳租界タメルを出発。排ガスはなく,ラトナ公園を横目にスイスイ快走。丘の登りはちょっときつかったが,それでも20分ばかりで到着。車は不要だ。
サネパは天国。高級住宅地で花々が咲き乱れ,さわやかな高原の涼風が心地よい。バッチリ仕事をし,昼食はラナさんか誰かのお屋敷を改装したレストラン。中庭のプールでは良家の子女たちがお行儀よく水遊びをしている。それを愛でながら昼食。植民地的退廃のけだる〜い雰囲気。
3.キルティプールへ
退廃の快楽に後ろ髪を引かれつつ,次は虚学の地キルティプールへ。
前半は降りでラクチン,すぐキャンパス入り口に着いた。校門からの登りがちょっと辛いが,排ガスがなく苦にはならない。聖牛をからかいながら,汗をかきかき登る。そして,20分弱で到着。車,廃絶せよ!
4.タメルへ
キルティプールの仕事相手とまたまた大いに働き,5時半すぎ帰途につく。いつもは人,自転車,バイク,乗用車,バス,トラック,犬,牛,鶏等々で大混乱の大通も,今日は閑散としていて,スイスイ走れる。テクの橋の手前から近道をとり,ビシュヌマティ川右岸を登る。この付近は食料品市場で,野菜,果物,肉,お菓子など色とりどりで楽しいが,清潔とは言い難い。
この食品市場やゴミまみれの市街地を見ていると,これでどうして感染症が流行しないのか不思議だ。いつかは,赤痢か何かが大流行するにちがいない。排ガスはないが,ゴミ腐敗臭からは逃れられなかった。
最初の橋を渡り,坂道をバサンタプール(旧−旧王宮)まで登り,タメルへ。車がいないので,ここも快適。かつてカトマンズは美しいレンガ敷き通路だったのに,車が全部破壊してしまった。自転車なら,そんなことはしない。破壊されるべきは,レンガではなく,車だ。
こうしてキルティプールからタメルまで,約30分。車なんか不要なのだ。むろん,運動不足の老人としては,少々,疲れたことは事実だが,これは快い疲れであり,車を正当化する理由にはならない。カトマンズから車を追放せよ!
(訂正) K氏のご指摘をいただき,ビシュヌマティ川の「右岸」と訂正しました(20086.25)。
谷川昌幸(C)
1.市街戦寸前
6月20日、運賃値上げ粉砕デモがカトマンズの各所で発生、かなり危険な状況になってきた。タイヤ燃やし、車破壊、そして王宮・文部省前(タメル入口)では、デモ隊と機動隊が一触即発の状況になり、あわてて近くの銀行に逃げ込んだ。
2.NSUも怖い
どのグループが中心かしかとはわからないが,NSUではないか? 怖いのはYCLだけではない。
3.臨界寸前
この国が臨界に近づいていることは明白だ。いまではタクシーで500ルピー札を出しても、平気で釣りをくれる。狂乱物価だ。地獄の底のような交通渋滞と排ガス、そしてゴミまみれ。
4.マモン教総本山
それでも外人租界転じてマモン教総本山となったタメルは襲われない。なぜタメルの24時間オープンATMが襲撃されないのか? このATMこそがマモン教の象徴であり、いまのネパールの苦境の元凶であるはずなのに。
5.マモン教国家ネパール
ネパール国家は、決して世俗化されていない。神がシバやビシュヌからマモンに替わっただけだ。
本気で世俗化を図るなら、このマモン教をネパールから追放すべきだろう。マモン教の奥の院、タメル租界攻撃が、いずれ始まるだろう。
谷川昌幸(C)
13日付カンチプルが,元国王に渡される車について,低俗な記事を書いている。乗用車2台,ジープ2台だとか,ジャガーやBMWではなく,「普通の」つまりトヨタやヒュンダイだとか,大衆的なひがみっぽく,せこい話しだ。
王制から共和制への大転換期に,王制に殉ずることも王者の清貧を甘受することも出来ない元国王,そして大衆根性丸出しで車の台数やメーカーを物欲しげに詮索するマスコミ――こりゃ,ダメだ。
谷川昌幸(C)
6月11日,ギャネンドラ元国王がナラヤンヒティ王宮を退去し,王制廃止手続きは完結した。2006年5月の議会主権宣言で王政は事実上終わり,2008年5月28日の共和制宣言で形式上(名目上)の国王も廃止され,そして6月11日の王宮退去で生活としての王室もなくなった。
それにしても,お粗末な王制終焉だった。美学も遺産も教訓も何もない。張りぼてガラクタが撤去され,荒涼たる更地にされたようなもの。
ギャネンドラ氏にとって,王位は7年前にタナボタで(あるいは他の方法で)入手したものにすぎず,王者の覚悟,王位に殉ずる究極の美学は持ち合わせていなかった。国王は俗人とは本質的に違う。善良な俗人にはとうてい出来ないようなことを平然とやる美学と野蛮こそが王族,貴族の証なのだ。
ギャ元国王にもパラス元皇太子にも,その王者の資質はなかった。平々凡々と権力をチビチビ使い,俗物的贅沢におぼれ,タナボタ(?)王位を無益に浪費した。ギャ氏は,小市民的俗物だった。
それに輪をかけて低俗だったのが,知識人,マスコミ。本来なら,王制と共和制,権威と権力といった原理問題を喚起し,それぞれの意味をギリギリまで問い,理論化し,意味づけ,歴史の中に刻み込むべきはずなのに,肝心の原理問題を棚上げにし,些末な通俗的権力闘争の後追いに終始し,何とはなしの王制から共和制への無味乾燥な移行を許してしまった。ネパールに歴史はない。ただ,流れていくだけだ。
「王」や「権威」の本質を問わないから,共和制になっても,名が変わっただけで,同じような問題が起こる。
「大統領」をおくのだそうだが,その「大統領」と国王との違いは何か? その本質的な議論抜きで,プラチャンダかコイララか,文化人か女性か,などといった些末な事柄をめぐって延々と議論を続けている。誰を大統領にしようと,国の象徴たらしめるには,権威づけねばならず,超絶化,神格化は避けられない。別バージョンの国王をつくるのとどこが違うのだろうか?
あまりにも大衆的,小市民的で絵にならないから,日本ではもう報道はない。全くといってよいほど無い。王制は,娯楽として消費されたのだ。消費され,排泄されるようなものは,文化ではない。
谷川昌幸(C)
「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」が6月6日,衆参両院本会議で満場一致で採択された。
我が国が近代化する過程において、多数のアイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない。 1 政府は、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を踏まえ、アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族として認めること。 |
1.アイヌ民族弾圧の前科
日本政府が近代化のためアイヌ民族を搾取(共有地,共益権没収など),弾圧し,「北海道旧土人保護法」(明32制定,平9廃止)により「同化」政策を進めてきたことは周知の事実だ。(拙稿「宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生』(6)」参照)
アイヌ民族は北海道や東北北部に先住していた。もし彼らを先住民族と認めると,土地,資源に対する先住者の権利が認められ,日本政府には返却あるいは賠償の義務が生じる。これは大変なことだが,町村官房長官は
「アイヌの人々が日本列島の北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族であるとの認識のもと、国連宣言における関連条項を参照しつつ、これまでのアイヌ政策をさらに推進し、総合的な施策の確立に取り組む」(朝日6/9)
と述べ,かなり踏み込んだ政府見解を示した。まだ「先住民族」の定義が不明確で,実効性に不安はあるが,この国会宣言がアイヌ民族の権利回復に決定的な重要性をもつことは確かである。
2.グローバル市民社会の前進
世界で最も国民国家主義的な日本国家に,このような宣言をさせたのは,何といっても世界市民社会の圧力である。
対人地雷禁止条約にもクラスター爆弾禁止条約にも,当初,日本政府(日本軍=自衛隊)は米政府への配慮もあり強く反対していたが,国際社会の圧力に負け,結局はそれらを認めざるをえなかった。
今回のアイヌ先住民族宣言も,昨年9月の国連における先住民族権利宣言採択の圧力によるものである。アメリカは資源利権喪失を恐れ,強硬に反対したが,国際市民社会はそれを押し切り,宣言を採択,そして日本政府もアメリカの脅しよりも国際市民社会の世論に屈したのだ。
グローバル化には,アメリカ資本主義化と途上国も含む世界市民社会化の2側面がある。当初は,アメリカ資本主義化の側面が強く出たが,少しずつ流れが変わり,もう一つの世界市民社会化の側面が目立ち始めた。日本ももはやこの後者の流れを無視することは出来ないだろう。
3.多民族・多文化ネパールから学ぶ
日本を含む先進国には,重い前科がある。自分たちの自然を破壊した上で,途上国に環境保護を迫る。自分たちの民族・文化多様性を破壊した上で,途上国に民族・文化多様性の保護を要求する。重い前科を忘却し,平然と途上国に教訓を垂れるような鉄面皮は断じて許されない。
日本ついていえば,アイヌや沖縄の人々,あるいは私自身(丹後人)のような田舎者を,日本中央政府は弾圧し多数派文化への同化を進めてきた。いまでも,アイヌ民族(2万数千人)や沖縄住民(百数十万人)は差別され,地方(長崎県離島など)も差別されている。その反省の上に,異民族・異文化との共生の仕方を,ネパールの人々と協力し学んでいく。
ネパールは多民族・多文化であり,包摂(inclusion)・参加(participation)は避けられず,権力分有(pawer-sharing)も不可避だ。しかし,これは忘れてはならないが,日本や先進諸国がそれらを言うのと,ネパールは事情が異なる。
日本政府はすでにアイヌ民族を弾圧・搾取し尽くし,中央権力の支配は全国にあまねくおよんでいる。アイヌ民族を先住民族と認めても,日本国家の存立が危うくなるわけではない。(沖縄が民族自決を言い出すと,そうはいかないが。)また,アメリカのような世界帝国ではないから,アイヌ先住民族宣言の世界的波及を心配するにもおよばない。(本当は,世界に展開する大商社の資源権益が危なくなるのだが,そこまでは想像力がおよばない。)
ネパールはそうはいかない。途上国ネパールは,つねに国家権力の確立・安定=個人の権利保障と集団の権利保障の両にらみで行かざるをえないのだ。たとえば,ある人が貧しい土地無し農民である場合,ネパール政府は,彼個人の権利保障,生活保障のために介入するか,それとも彼の属する社会集団の権利保障という形で介入すべきか? これは難しい。
実際には,二者択一ではありえない。両にらみで行かざるをえないが,私自身は,ネパールでは集団の権利よりもむしろ個人の権利の平等を優先させるべきだと思う。日本国憲法の表現を借りるなら,「健康で文化的な最低限度の生活」を平等に保障するため,中央政府が民族・文化に関わりなく介入する。これが原則であるべきだ。そう,恥ずかしながら,ネパールについては私は時代遅れの近代主義者なのだ。
包摂(inclusion)・参加(participation)・権力分有(pawer-sharing)は,近代原理がある程度確立していないところでは,必ずボス談合,権力私物化となる。社会集団の参加は,集団代表=ボスの話し合いであり,つまりは新型カーストの形成,寡頭支配となるからだ。
私たちは,そのような実情を冷静に見ながら,ネパールの多文化・多民族状況との取り組みから謙虚に学び,過去のわが罪を反省し償う一方,未来の日本のいっそうの多文化・多民族化に備えるべきだろう。
谷川昌幸(C)
すでに指摘したように,先の制憲議会開会は,内閣指名26議員の指名なしに開会されたものであり,違憲である。これは,党派とは無関係の憲法原理の問題だ。ハナから,こんないい加減なことをやってはいけない。
今日の新聞によれば,ラム・クマール・オジャ弁護士が,制憲議会開会違憲訴訟を起こし,最高裁で審理されるそうだ。日本の御用最高裁でも,こんな明白な憲法違反であれば,違憲判決を出すに決まっている。権威あるネパール最高裁もきっと違憲判決を下すだろう。
そうなれば,連邦共和制宣言は,もちろん取消。また王制に戻る。
さて,暫定憲法(前文)では「法の支配」が高らかに宣言されている。議会が「満場一致」で可決した憲法だ。自分たちが決めた憲法だ。「法の支配」は「人の支配」ではない。「人民の支配」でもない。
これは見物(みもの)だ。よ〜く見ていよう。
谷川昌幸(C)
勇敢プラチャンダ議長に「批判は許さん」とキビシク叱られたカンチプルが,またまたこんな不敬な記事を書いた(1Jun)。
それによれば,プラチャンダ議長は6月1日,もしNCとUMLがマオイスト政権成立を妨害するなら,人民をバックに街頭直接行動をすると警告した。NCとUMLの党内には「王党派感情」があるからだという。また,バブラム・バタライURPC議長も,NCとUMLの背後に外国の影があると非難し,場合によっては,再度革命をやると警告した。 (ここには「街頭政治」と「本質還元論」の2つの問題があるが,後者については,改めて別に論じる。)
変わらないなぁ。1990年代の街頭政治と,まったく何一つ変わっていない。立憲政治においては,少数派は,憲法の枠内であれば,どのような手段を使っても抵抗が許される。イギリス議会の無制限演説,日本の牛歩――これらは少数派の抵抗のための合法的手段だった。いつまでも終わらない長〜い演説や牛のよだれがたら〜りと垂れる無為の時間を使って頭を冷やすというわけだ。民主主義のコストでもある。
だから1/3少数決を使うのがコイララ首相であろうとプラチャンダ議長であろうと,それ自体は憲法で許されたことだ。それなのに,反対派がその制度を使うのはケシカランといって,街頭直接行動で脅すのは,近代的制度のなんたるかがまるで分かっていないからだ。(むろん街頭行動がつねにすべて悪いわけではない。)
制度とは何か。20世紀最大の思想家の一人,丸山真男は,その快著「肉体文学から肉体政治まで」において,こういっている。
“近代精神とは「フィクション」の価値と効用を信じ,これを不断に再生産する精神として現れる・・・・。そこで「フィクション」を信ずる精神の根底にあるのは,なにより人間の知性的な製作活動に,従ってまたその結果としての製作物に対して,自然的実在よりも高い価値評価を与えていく態度だといえるだろう。・・・・「つくりごと」というのは「現実にないもの」ということから遂にはフィクションにはうそというような悪い意味すら付着するが,うそとか現実とかが自然的直接的所与からの距離の程度を意味するとすれば,むしろ近代精神はうそを現実よりも尊重する精神だといってもいいだろう。実はそれがまさに媒介された現実を直接性における現実よりも高度なものと見る精神だということなのだ・・・・。”(著作集4,p.212-216,ゴシックは原文では傍点)
代議制は,丸山流にいえば,最もフィクションらしいフィクションである。だから,自分たちがつくったその制度を信じなければ,もともとうそなのだから,そんなものはたちどころに崩壊する。代議制に参加しながら,思い通り行かないからと行って,PLAやYCLをバックにすぐ直接行動で脅すのは,まさに「肉体政治」,「感情的=自然的所与に・・・・精神がかきのようにへばりついていてイマジネーションの自由な飛翔が欠けている」(p.212)といわれても仕方あるまい。
そもそも,マオイストお気に入りの民主共和制は,君主制よりもはるかに高度な制度である。君主制は,文字通り君主の肉体が支配の正統性を担保している。だから,かつては,王国においては,何人かの証人を国王の寝室に入れ,国王と王妃が確かに肉体関係を持ち,子をなしたことを確認させ,報告させたのだ。
ここではイマジネーションは不要だ。国王の男性器と王妃の女性器の肉体的=物理的結合と,射精・受精の自然的=生物的必然が,王位の正統性を保証する。君主制は肉体政治のそのものなのだ。
民主共和制ではそのような自然的=肉体的支配の正統性は原理的に認められないから,それはイマジネーションによって,つまりフィクションによって作り出されねばならない。たとえば,代議制であれば,「代表」のフィクションを信じるという行為によって,代議制は存立する。
それなのに,思い通り行かないからといって,すぐ街頭直接行動。媒介された代議制の現実よりも,街頭におけるに肉体の直接的現実を優先させる。そんな中途半端な肉体政治をやるのであれば,本物の肉体政治たる君主制の方がまだましではないか。
君主制よりもはるかに高度な代議制の連邦民主共和制をやるのであれば,うそを信じるくらいの遊び心は不可欠だ。「人民の意思」など,どこにも実在しない。