谷川昌幸(C)
和服は,あえて言うなら,女性を紐で何重にも固く縛り,身体と精神の自由を奪い,男の愛玩物にするための衣服だ。カーライル流に言えば,「封建制の衣服」。
パルバテ(ヒシラ・ヤミ)同志といえば,マオイスト女性リーダーであり,女性解放の闘士であった。 ひそかに尊敬していたのに,よりによって封建的因襲的日本着物を着て喜ぶとは,信じがたい。
衣服は,単なる外面ではなく,内面でもある。だから身体の拘束は精神の拘束を意味する。ヤミさんは,人民解放のための毛沢東思想を脱ぎ捨て,人民拘束のための封建思想へと華麗な転身=転進を遂げられたのであろうか?
毛沢東同志は,革命成功後も,人民服を脱ぎネクタイで首を絞めるようなことはしなかった。人民と共にあろうと願ったからだ。
ヒシラ・ヤミ著『ネパールにおける人民戦争と 女性の解放』2006
女性の解放は,まず身体の開放から。戦闘服,人民服であればこそ,銃やクワを持つことができる。共和制要求集会(上掲写真下右)に参加した女性たちの掲げる ?? ? ? ????? (人民の力,人民の権力,民主主義)とは,このようなことだ。封建制の衣服で拘束された身体では戦うことも働くことも,そして自由を要求することも出来ない。
谷川昌幸(C)
「国民」「民族」「人民」は,古来,論争のある概念で,「国民」と「人民」は別概念だ。イギリス革命でもフランス革命でも,王制打倒後は,「国民」と「人民」の争いだった。
そうした古典的な,きわめてまっとうな議論を真っ正面からまじめにやっているのは,いまやネパールだけだ。たとえば,マオイストの制憲議会選挙公約の最後は,次の言葉で結ばれている。
2006年人民運動Uと制憲議会選挙における勝利を,プラチャンダ議長派が「デサの勝利」にしようとしているのに対し,バイダ派は「ジャナタの勝利」にしようとしている。
これは共和制における本物の問題であり,これを明確に意識し隠すことなく選挙公約に掲げ,そして勝利後,それをまじめに議論しているマオイストは偉い。日本では,こんな高級な議論はほとんど見られない。高校生はむろんのこと,大学生ですら,ほとんど理解できないのではないか。
いまやネパールは,少なくとも政治学や憲法学の理論と制度の面では,日本を追い抜きつつある。耳年増のネパール知識人層相手に人権や民主主義を説くなどと言ったことは,釈迦に説法,まったくナンセンスであり,止めた方がよい。最先端理論は,むしろ彼らの方にある。
問題は理論や制度ではなく,それらを実践するエートスだ。マルクス(毛沢東)ではなくM・ウェーバーなのだ。
谷川昌幸(C)
スワンナプーム空港については,これまで幾度か批判した。こんな新植民地主義的空港は,これを機会に庶民のための空港に全面改装すべきだ。
それは八つ当たりだ,と非難されるかもしれないが,そもそもこの空港のような新植民地主義的発想がタイ社会の近現代化とズレており,そこに今回の政治的混乱の根本的原因の一つがあることは間違いない。
第一に,タイ軍の権威主義的特権意識と文民統制の完全無視。26日もアヌポン陸軍司令官が,下院解散と総選挙を要求した(朝日11/27)。軍クーデターもあり得る。時代錯誤であり,ネパールにとってはよい反面教師だ。
第二に,タイ王室の政治介入。早く一切の政治権力を断念し,国民の象徴,儀式的王制とならないと,ネパール王室の二の舞となる。共和国となったネパールにとっても,国民と国家の象徴のあり方を考える良い機会である。
谷川昌幸(C)
なぜこんなサラ金広告が,ネパールのニュースサイトに出るのか? 考えられるのは,(1)ネパールに関与する米軍関係者が増加したこと,(2)ネパール人,あるいはネパール系米国人の米軍関与が増加したこと,のいずれかであろう。
(1)なのか(2)なのか? たぶん(1)なのだろうが,(2)も考えられる。では,(2)はどの程度なのか? 特に,湾岸やアフガンでネパール人がどの程度米軍に参加しているのか? 気になるところだ。
谷川昌幸(C)
取材地はチトワンの人民解放軍駐屯地。たぶん私が2007年3月27日に訪問したのと同じ駐屯地だ。当時はまだ皆ピリピリしていて表情も硬かったが,この記事の写真を見ると,かなり表情が和らいでいる。平和がとりあえずは維持されてきたからであろう。
2007年3月の訪問のときは,軍事施設なのでカメラはリュックの底にしまい,駐屯地内の見学だけさせてもらうつもりだったが,事前申し込み無しにもかかわらず,旅団長が面会してくれ,しかもカメラをもっているなら写真を撮ってもよいと先方から言ってくれた。
これには驚いたが,せっかくだから,旅団長テント内,つまり旅団指揮室内とテントを撮らせてもらった。駐屯地内の他の場所,あるいは全景を撮ってもよさそうな感じだったが,いくらなんでもそんな非常識なことは自制し,駐屯地をあとにした。
以上からも分かるように,マオイストや人民解放軍は,極めてネパール的であり,他のガチガチの共産主義人民軍やゲリラとは大きく異なる。人民戦争の根本原因である貧困,失業,差別さえ改善していけば,彼らはおそらく平和的社会秩序内に復帰するであろう。
1990年以降,アメリカをはじめとする先進諸国は,ネパールの内発的発展を待つことなく,外から乱暴に新自由主義的改革をネパールに押しつけ,伝統的な経済・社会・文化を見境なく破壊していった。人民戦争の責任のかなりの部分が先進諸国のこの利己的強欲にある。したがって,平和再建のための援助は,先進諸国の当然の義務なのである。
この援助にあたっては,軍事的援助は不適切だ。事前了解なしに丸腰でノコノコ出掛けていっても,駐屯地内に入れてくれ,旅団長に会わせ,写真まで撮らせてくれる。敵意さえなければ,丸腰文民で十分なのだ。軍隊派遣の莫大な経費を社会・経済・政治開発に回せば,援助の効果は何倍にもなるはずだ。日本はむろんのこと,他の先進諸国も,ぜひそうしてほしい。
なお,人民解放軍駐屯地はれっきとした軍事施設であり,物見遊山で出掛けると極めて危険である。私も,もちろんそれなりの準備はしていった。蛇足だが,念のため。
谷川昌幸(C)
そして,撤去跡には,人民の要望により新生ネパールに相応しい人物の肖像を建立するという。実にくだらない。
第一に,王制がけしからんのであれば,だからこそ王族肖像を残し,日々の反省の糧とすればよいではないか。歴史は善悪を含めて歴史であり,都合の悪い部分を隠すのは弱虫のやることだ。
ドイツは強制収容所やベルリンの壁を残し,「歴史を心に刻む」努力をしてきた。ところが,日本政府は歴史の中から都合の悪い部分を消す努力を一貫して続け,あの悲惨な原爆の遺構ですら,ほとんど残っていない。それでも広島は原爆ドームを残したが,長崎は被爆した浦上天主堂を撤去してしまった。歴史の否定的な部分を直視する精神と,それを見ないですまそうとする精神と,いったいどちらが誠実で強いか。
第二に,王族の肖像の代わりに別の肖像を建立するという発想そのものが貧弱だ。国家が肖像を建立し,人民にお手本として仰ぎ見させる。何たる時代錯誤か。肖像は変わっても,精神構造は全く変わってはいない。それは,都市や街路の名称についても同じことだ。
サントペテルブルク→ペテログラード→レニングラード→サントペテロブルク
こんな悲喜劇は御免被りたいが,お上が名付けるという発想に立つと,えてしてそうなりがちだ。住民の皆さんには申し訳ないが,ビート・たけし(11月14日TV発言)の権威を借りていうと,
南アルプス市,中央市
などは,歴史を無視した非文化的な命名の典型だそうだ。由緒正しい伝統的な地名があったはずなのに,お上の都合で命名すると,こんな風になってしまう。(その点,京都は偉い。お上の命令など完全に無視し,自分たちの地名を頑なに守り続けている。)
ネパール連邦民主共和国は,ハトの糞まみれの王族肖像を恐れなければならないほど柔なものなのか。イギリスを見よ。ロンドンなど,王侯貴族や将軍たちの肖像だらけだ。それどころか,女王や王族をいいように利用しながら,民主主義をやっているではないか。
第三に,人民推薦の英雄の肖像を建立するとして,いったい誰を選ぶのか? まさかプラチャンダ議長ではあるまいな。
とすると,平和の使徒,ゴータマ・シッダッタ氏か。しかし,そんなことをすると,ヒンドゥー教徒やイスラム教徒が黙ってはいまい。ギリジャ氏にせよ他の誰にせよ,同じことだ。
連邦民主共和国は,多文化・多民族の尊重を第一原理としている。それなのに,なぜ国家権力で人民のお手本を決め,押しつけなければならないのか。歴史を直視できない弱さと,その裏返しとしての虎の威を借りる狐ではないのか。バカなことは止めた方がよい。
谷川昌幸(C)
「ヒマラヤ・バックの勇姿」や「ゾウで巡回する我が隊員」といった,いかにも日本人受けする写真はまだないが,それに近いものはいくつも出てきた。
ネパール派遣は,田母神空幕長をはじめとする防衛省・自衛隊の面々にとっては,大いなる希望の星であろう。防衛庁から防衛省に昇格し,自衛隊の海外活動が「本来任務」として認められ,そして,その最初の本来任務派遣がネパールなのだから。
もちろん,自衛隊の猛将らは「ネパール派遣」が部隊としてではなく「個人派遣」であり,また「派兵」ではなく「派遣」であることに不満を抱いているであろう。部隊として壮行会を挙行し,家族との別れを演出し,一次隊の帰国を部隊として出迎えたのに,なぜ「個人派遣」なのだ! われらは兵隊派遣業ではない! と怒っているに違いない。
しかし,「ネパール派遣」が防衛省・自衛隊の無限の拡大への第一歩であることは間違いない。これが成功すれば,ソマリア沖への「軍艦」(麻生首相)派遣やアフガンへの陸自,空自の派遣にも弾みがつき,人員も予算もウナギ登りに拡大するだろう。しばらくは派遣業に甘んじていても,いずれ本来の部隊派遣に業態を改め,一人前の軍隊となれるだろう。
「ヒマラヤの我が隊員」や「ゾウで停戦監視活動」といった写真が宣伝に使われ始めたら,改憲目前と覚悟すべきだ。
谷川昌幸(C)
森林・土壌保全大臣のキラン・グルン氏(UML)が,大統領・副大統領の政治的行為を批判している。両者は儀式的地位だから,政治的行為はすべきではないということだ。(nepalnews.com,nov.9)
たしかに,ヤダブ大統領,ジャー副大統領とも,就任以来,政治的な発言や行為を繰り返しており,他の政治的役職とどこがちがうのかよく分からない。首相と正副大統領との役割分担をはっきりさせないと,いずれ大混乱となりかねない。
この点については,先日,ネパール制憲議会議員等を対象に開催された「政党管理・国会運営・憲法制定セミナー」(JICA東京国際センター,10月28日)において,次のような内容のお話をした。ネパールの新憲法制定において参考にしていただければありがたい。
(講義原稿より)
3(1) 共和制:儀式的大統領と首相
ネパールは現行暫定憲法ですでに君主制から共和制へ転換しており,新憲法でも共和制をとることが決まっているが,共和制にも問題はある。
古来,君主制が優れているとされた理由は,君主制では,君主(国王)が国家元首であり,主権を持つと同時に国民統合の象徴でもあるから,国民統合が容易であり,国家の意思決定も速いという点にある。主権者が2人以上の共和制,特に主権者が人民の民主共和制となると,君主制のこれらの利点がなくなる,と考えられていた。
この問題に対する解決策の一つは,すでにネパールでは実現されている儀式的大統領と首相との併用制である。大統領は形式的・儀式的な国家元首とし,国家と国民統合の象徴の機能を担わせる。一方,首相は主権者である国民を代表して民主的に統治権を行使する。つまり,大統領は国家の精神的「権威(authority)」を分担し,首相は国家の政治的「権力(power)」を分担するのである
。この大統領・首相併用制は,多民族・多文化国家ネパールにとっては,大統領か首相のいずれかが「権威」も「権力」も独占する体制よりも望ましいであろう。・・・・
現在のネパールの大統領についてみると,選出は制憲議会の多数決であり,首相と同じ方法である。・・・・これでは大統領も国民の一部の代表であり,国民全体の象徴とするには無理がある。
また,大統領の権限についてみても,政治的なものがいくつもある。
@軍の最高指揮官(内閣の助言により指揮)
A非常事態の宣言(内閣の助言により宣言)
B首相選任の助言
C宗教儀式等への参加
これらの権限のうち,@Aは第5次修正で暫定憲法に書き込まれたものであり,BCはヤダブ大統領が2008年7月21日の大統領就任以降,実際に行ってきたことであり,これまでのところ特に反対はなく大統領権限として容認されていると考えてよい
。
これらの憲法に規定の権限や事実上の権限を見ると,ネパール大統領は,議会により任免される点を除けば,国王に近い権限を持つといってよい。・・・・暫定憲法規定の軍最高指揮官としての権限と非常事態宣言の権限は,いずれも内閣の助言が必要だが,これは1990年憲法規定の国王についても同じことだった。政治的混乱で組閣できないような状況になれば,国王と同様,実際には内閣の助言なしで大統領が非常事態宣言を行い軍最高指揮権を行使することは十分に考えられる。また,首相選任についても,ヤダブ大統領は就任直後から有力者への働きかけや諸党間の調整を活発に行っており,これは1990年憲法の下で国王が行使していたのとほぼ同じ政治的権限の行使である。
さらに宗教儀式についても,ヤダブ大統領は国家元首として多くのヒンドゥー教儀式に参加している。ネパールはすでに世俗国家となっており,新憲法でも世俗国家とされるとこと間違いない。もしそうだとすると,政教分離を原則とせざるをえず,国家元首の宗教行為は許されない。ネパールにはイスラム教徒もキリスト教徒も,他の宗教の人々もいる。大統領は,そうした人々の象徴でもある。したがって,世俗国家を選択するなら,大統領の宗教行為は禁止されなければならない。これはネパールのように生活が宗教と密接に関係している社会では,実際には非常に難しいことである。宗教と習俗をどう区別するか。大統領の公人としての行為と私人としての行為をどう区別するか。おそらく,これらの厳格な区分は困難であろうが,しかし,だからこそ政教分離の原則をたて,可能な限りその原則に照らして大統領の行為を規制することが大切となるのである。・・・・
(JICA東京国際センター,2008.10.28。一部修正補足。)
谷川昌幸(C)
このところネパールでは,仏教の政治的利用が目に余る。私も仏教徒であり,仏教は偉大な宗教の一つだと思うが,だからといってそれを政治目的で利用することは許されない。たとえば,このHPを見よ。
これは,平和復興省(Ministry of Peace and Reconstruction)のホームページの一部だ。れっきとした国家機関が,仏陀をあちこちに掲げ,平和を訴えている。ヒンドゥー教もイスラム教も道教も出てこない。 「仏陀の国に平和を,流血なき国を」「ネパールとネパール人の皆の誓い,平和」
これまでヒンドゥー教王政により仏教が差別され,冷遇されてきたことは事実だ。仏教徒の村で,ヒンドゥー教徒優遇への激しい怒りをよく聞いたことがある。しかし,だからといって,仕返しに,仏教を政治目的で利用してよいということにはならない。
この愚行にお墨付きを与えている――そう誤解されるような議論をしている――のは,平和学の権威ガルトゥング氏だ。手元にある著作をぱらぱら見ても,こんな記述が至るところにある。
米国 | アフガニスタン | |
D(2分法) | キリスト教原理主義 | イスラム原理主義 |
M(価値2元論) | キリスト教以外は悪 | アラーの教え以外は悪 |
A(最終戦争) | タリバン,アルカイダの壊滅 | 米国への徹底的なテロ攻撃 |
「仏教は,個人の心や『集団的無意識』についてばかりでなく,あらゆる生命について説き明かしている深遠な心理学です。そこでは,どんな『超越者』の意思にも従う必要がありません。こうした『超越者』というものは,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の場合に明らかなように,それらを生み出した側の人間の特性をどうしても帯びているものです。/仏教は,その非暴力への強い主張,自然界を利己的に利用してはならないとする態度,巧妙な詭弁など全く含まない慈悲の精神など,世界的なエートスを生み出すための豊富な素材を備えており,しかもこれらはすべて,深い混迷にある今日の世界が切実に必要としているものです。」(池田大作/ヨハン・ガルトゥング『平和への選択』pp.229-230)
もちろんガルトゥング氏は,池田大作氏との対談においてですら(対談の政治的意味は別として),宗教の政治的利用を厳に戒めている。
「政治権力者が仏教を私物化して,宗教上の事柄に支配力を発揮し始め,それに仏教が従うとき,仏教はあまりにもたやすく六つの短所に陥ってしまいます。・・・・国教としての仏教,といった考え方そのものがすでに“名辞矛盾”に陥っています。」(同上,pp.198-199)
ガルトゥング氏自身は用心深く仏教の政治的利用を戒めているものの,氏のユダヤ教,キリスト教,イスラム教批判は強烈であり,読者の多くは,平和のためには仏教思想が必要だと受け取り,仏陀を掲げて政治活動をすることになる。
ネパールを見よ。いまや政府機関,NGOなど,いたるところで仏教が政治的に利用されている。平和復興省がその典型だ。ヒンドゥー教は平和の宗教ではなかったのか? キリストは絶対平和を訴えたのではなかったのか? イスラム教は他民族への寛容の宗教ではなかったのか? このような仏教の政治的利用が,平和に貢献するはずがない。
▼追加(2008.11.12)
−−−−−以下転載−−−−−
ガルトゥング発言の曲解引用への謝罪および名誉回復の請求
(2004/02/16)
神崎武法 公明党代表
浜四津敏子 公明党代表代行
2004年1月23日、貴党の浜四津敏子代表代行は参議院において党を代表し、小泉首相 の 施政方針演説についての質問を行いました。その代表質問において、浜四津氏はガル トゥング博士の言葉を文脈を無視した形で引用を行ったと私たちは確信します。した がって 浜四津氏、および公明党に引用部分を撤回し、ガルトゥング博士に公式に謝罪を行う ことを求めます。
浜四津氏の代表質問においては以下の発言が含まれています。
このたびの自衛隊派遣の目的は、平和憲法に合致した人道復興支援であり、戦争や戦 闘を目的とするものでないことは論を待ちません。
行動する平和学者として世界的に著名なガルトゥング博士は次のように言っていま す。「頭は徹して現実主義であれ、胸には理想主義の炎を燃やし続けよ」と。わが党 は、これからも「行動する平和の党」として、胸には平和・人道・人権の時代をつく る理想を燃やしつつ、すべての課題に徹して現場に立ち、現場の目線から現実の解決 策に挑戦してまいる決意です。
ここで二点、注意を促さなければならない点があります。まず、第一にガルトゥング 博士は一貫してアメリカのイラク侵略および日本のイラクへの自衛隊派遣に反対で あったということです。したがって、アメリカ政府および日本政府の現在行っている 戦争行為を正当化する目的のための演説に用いるのはまったく妥当性を欠きます。第 二に、浜四津氏が引用した部分に続きガルトゥング博士は「現実に目を閉ざしても、 何の役にも立ちません。同様に、現実主義を超えて、理想主義を人間的に展開してい くことができない人達は、人類の進歩には貢献しないものです。」と前の発言を敷衍 しています。ガルトゥング氏の発言の全体を引用してみると、アメリカの対イラク政策をその初期の段階より支持してきた公明党は「現実主義を超える」ことに失敗し、 「人類の発展に 貢献する」ことに失敗したことは明白です。また、現在の公明党の アメリカ追随の外交政策が立党精神からかけ離れてしまっていることを深く憂慮しま す。
この代表質問は国会という公の場での発言であるため、浜四津氏の発言は歴史に残る ことになります。ガルトゥング博士が現在および将来にわたって誤解を受ける可能性 を排除するため、私たちは上記のガルトゥング博士の引用部分を議事録より公式に削 除するとともに、貴党および浜四津氏が公式にガルトゥング博士に対し謝罪文を送 り、それを機関紙に掲載することを要求します。また、ガルトゥング氏に現在のイラ ク紛争に関する同博士の立場を公式に表明する場を機関紙上に提供する事を要求しま す。
敬具
行動する平和憲法のネットワーク
World
Citizens Renouncing War
http://wcrw.org/html/galtung-quote.html
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