宇久とネパール: 教育をめぐって

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1.宇久とネパール
2005年12月19日,長崎県立宇久高校に招かれ,「人間の安全保障としての教育協力:ネパールの場合」というテーマの授業をしてきた。宇久とネパール――全く関係ないようだが,そうでもないのが現代という時代であり,改めて考えさせられることも少なくなかった。


2.宇久島
このホームページの読者は長崎県以外にもたくさんいらっしゃるし,私自身長崎はまだ5年あまりで,地元の地理に詳しくないので,宇久島とはどんな島か,長崎市からどのようにしていくのか,概略をまず説明しておきたい。

宇久島は五島列島の北端の小島。面積26.4平方キロ,人口約3500人。主な産業は漁業,農業,観光。魚影は濃いらしく,フェリー乗り場の岸壁で女性たち(近所の主婦?)が食べ頃のアジを面白いように釣り上げていた。今晩のおかずになるのだろうか?

  (宇久町HP)



3.佐世保へ
宇久島へは,佐世保からフェリーで渡る。長崎駅7:44発JR快速に乗ると,佐世保9:37着。2時間弱。朝の通勤,通学時間帯だというのに,乗客はわずか。JRなどと「植民地風」名称まで付けて頑張っているのに,これから先,維持は大変だろう。

佐世保駅の海側が佐世保港。ここから,五島の島々へのフェリーが発着する。ここも閑散としていて,人影はまばら。(右の写真の灰色部分が米軍基地,右下がフェリー乗り場。Yahoo地図)

   



4.米軍基地と海自基地
佐世保10:40発フェリー乗船。出航後すぐ,右手に広大な米軍基地が見えてくる。ここは「植民地風」ではなく,植民地そのもの。基地内治外法権だ。

  

フェリーは停泊中の米軍艦のすぐそばを通るので,こんな写真も平気で撮れる。ちょうど乗組員が外出から帰ってきたところらしく,ボートが本艦に接近していた。世が世なら,こんな写真を撮ると,スパイ容疑で逮捕,拷問,投獄,そして非国民の家族は村八分となるだろう。

  

米軍基地の隣が,海上自衛隊の基地なので,これが自衛艦(=軍艦)であったとしても同じこと。秘密主義は軍隊の本質そのものだ。

佐世保湾にいるかもしれない潜水艦に乗り上げ,転覆しないことを祈りつつ,30分ほど航行すると,やっと外洋に出た。ホッとした。やれやれ。

というのも,1988年,東京湾で釣り船が潜水艦「なだしお」と衝突,乗客30名が死亡しているし,2002年には宇和島水産高校の練習船がハワイ沖で米原潜と衝突し,9名が死亡・行方不明となっているからだ。


5.軍隊の本質的危険性
少し神経過敏かもしれないが,軍隊とは,日常生活者にとっては、うっかり写真も撮れないほど危険なものなのだ。隠そうとするから,うっかり写真を撮ったりすると,スパイ扱いされる。隠れるから,知らない間にモンスター化し,事故で日常生活を破壊したり,日常生活そのものを軍事化し非日常化してしまう。軍隊とは,そういうものだ。

これは,私がネパールに行くたびに感じることだ。以前,ネパールがもっと平和だったころ,シンハダーバー(政府庁舎)は出入り自由であった。そこで記念写真を撮っていると,警備兵に突然,威嚇され,いまにも撃たれそうになった。まだ撮っていないといい,あわててカメラをしまい,よく見ると,その向こうに国軍施設らしいものが見えた。

あるいは,王宮横では,もっと危なかった。友人らしき姿を見かけて,急に走り出したとたん,警備兵に銃を向けられ撃たれかけた(クリック)

そして,ネパールでは,軍隊が自己増殖し(15万人構想!),いまでは軍隊のために国があり,国民がいる,というような有様になっている。これはネパール関係者の間では,周知の事実だ。

いや,アメリカだって,産軍複合体は制御仕切れなくなっている。ブッシュ政権の戦略は,自由や民主主義を名目にしているが,実際には,戦争自体が目的と見た方が辻褄が合う。アフガン攻撃は無茶だったし,イラクについても9.11との直接的つながりはなかった。「大量破壊兵器」情報が虚偽だったことも,大統領自身が12月14日,認めた。しかし,それでもイラク戦争は正当だという。支離滅裂だが,自由や民主主義の花飾りを取り除きさえすれば,理屈は通る。ブッシュ政権は軍事化されており,戦争をすること自体が目的だとさえいいたくなる。

ネパールもアメリカも軍事化されているし,日本も戦前はそうだった。国民保護法に基づく避難訓練(11月27日福井など)や防衛庁の国防省への格上げ,そして教育基本法や憲法9条の改悪の動きなどを見ると日本はもはや戦後ではなく「戦前」だという感じを禁じ得ない。


6.平和な島
そんなことを思いながら,フェリーの船室で寝ころんでいると,佐世保を出航して2時間半弱で宇久島の宇久平港に着いた。

例にたがわず,この島も,土木工事のための土木工事で自然破壊はすさまじいが,佐世保のような軍事色はなく,至極平和である。内戦以前のネパールの村で感じた,あの穏やかな平和の雰囲気が島には満ちている。

     
五島列島の北端が宇久島(マピオン)     宇久平港から平地区,東光寺方面を望む


7.縄文,弥生遺跡と平家盛
この小さな離島にも縄文の昔から人々が住んでいたらしく,弥生時代の埋葬遺跡も多数見つかっている。海は古くから交通路であり,国境などという無粋なものはなく,人々は大陸と自由に行き来していたらしい。宇久は五島文化の発祥の地といわれている。この写真は「支石墓」(弥生時代)遺跡。神島神社(平家盛創立)横の民家の庭にある。

  

その後,宇久島は平家盛一族が支配することになる。宇久町役場HPは次のように説明している。

「平安時代の終わり、1187年(文治3年)壇ノ浦の合戦で破れた平忠盛の嫡男「平家盛」は、安住の地をもとめて宇久島にたどり着き、島の士族を征服したのがはじまりで、平家一門は宇久島を拠点として五島列島を南下しながら各島々を支配下にして行きました。最終統括地の福江島では、福江に本家・冨江に五島藩の別家を築きあげ、平家七代をもって代々五島列島を支配しました。宇久島も、旧平町を本家の福江藩、旧神浦家を別家富江藩に支配され、平家一門の五島征服の発祥地となりました。」

宇久平港には,町興しであろうか,平家盛公のブロンズ像が建立され,夜には,いささか場違いな電飾で彩られることになる。

  



8.平家盛公菩提寺,東光寺
この家盛公以下7代の菩提寺となっているのが,港から歩いて数分の東光寺。時間待ちの間,ほんの十数分見学しただけだが,境内はひなびた風情がある。

感心したのは,供養塔などに,新しい花が供えてあること。これはこの寺だけでなく,街の神社や祠のようなところにも,たいてい花が供えてある。ネパールでそうであるように,この島でも広い意味の宗教がまだ生活の中にあり,人々は花を手向ける生活と心の余裕があるのだろう。

   



9.鯨供養塔
東光寺を見学していると,境内の一角に立派な鯨供養塔があるのに気づいた。もちろん新しい花が供えてある。

長崎は古くから捕鯨をやっており,各地に捕鯨のための鯨組があったらしい。鯨は巨大な生物であり,捕鯨は命がけの危険な仕事であったから,捕鯨には,その巨大な生物と闘い生命を奪うことへの怖れや畏れもまた,つねにつきまとっていた。人々は,鯨への畏敬,祟りへの畏れ,そして生活を支えてくれている感謝の念を込めて,鯨碑を建て,供養したのであろう。(建立年の確認を忘れた。供養塔自体はもっと新しいものかもしれない。)

こうした生命観は,水牛をも犠牲に供するネパール・ヒンズー文化とは大きく異なるように思う。

おそらく捕鯨経験があったからであろう,近代になって宇久の漁師たちは大洋,日水,極洋などの捕鯨船乗組員となって活躍したそうだ。港には,捕鯨銃が展示してある。

しかし,手こぎの舟に乗り,モリで鯨と命がけで,正々堂々と闘った近代以前の捕鯨と近代捕鯨は,精神が大きく異なる。安全圏からの一方的な攻撃は,生命への畏敬の念を失わせ,人間を倫理的に退化させるのではないだろうか? 「白鯨」のような感動はそこにはない。

  



10.非キリシタンの島
宇久には祈りの雰囲気はあるが,キリシタンはいない。長崎の島々には,たいていキリシタンがいた。五島の福江島を回ったときも,隠れキリシタンの深い伝統と,各地に建設され維持されてきた見事な教会の数々に圧倒されたものだ。キリスト教信仰が土着化し,いまも生活の中で生きている。

宇久島には,キリシタンの気配は全くない。寺と神社だけだ。その代わり,鯨供養をしたり,各所の祈りの場に花を手向けたりする生活宗教のようなものは色濃く残っている。これもまた,長崎文化の奥深さである。


11.宇久高校生の自発性
宇久高校では,体育館で200名弱の生徒さんに授業をした。下船後30分弱,冬の季節風でフェリーが揺れ,まだ船酔いが残っていて,身体も頭もゆらゆら,前半は話しがふらふらしたが,後半はまあまあの出来だったような気がする。寒かったのに(南国ながら長崎は寒い),がまんして聴いてくれた生徒の皆さん,ありがとう。

校長室で,校長先生に伺ったところでは,宇久の生徒さんたちは,自発的で学ぶ意欲が強いとのこと。これは,授業の時も感じていたし,クラブ活動の活発さを見ても理解できる。

多くの人は,都市部は競争が激しいので生徒も積極的になるが,地方はその逆で消極的になりがちだ,と思いこんでいるが,この「常識」には私は以前から懐疑的だった。全体としてみると,そんなことはいえないのではないか?

大学で授業をしていると,学習意欲そのものの低下に驚かされる。知識の量はどうか知らないが,学ぶことそのものに,あまり希望も喜びも感じていないようなのだ。これまでにも指摘されてきたことだが,やはり早くからの学習競争でエネルギーを使い果たし,入学時にはほとんど燃え尽きてしまっているのではないか?

知ることは,知ることそのものに意味があり,だから面白いのであって,受験のため,就職のため,儲けるためといった,他の目的のための手段となってしまっては,面白くも何ともない。子供の頃から学ぶことを他の目的の手段と教えられ,したがって面白くないから無理矢理強制して勉強させられてきたら,学ぶ意欲がなくなるのは当然だ。

もちろん,外的強制を内面化し,自らしゃにむに勉強する学生もいる。そして,そうした学生の方が,就職などで「成功する」のも事実だ。しかし,それでよいのだろうか? 大学は,そのような「成功」のためにあるものなのだろうか?

かつての大学は,少なくとも建前では,そのような考え方を原理的に拒否していた。「産学協同」は学問の堕落であり,ましてや「産官学協同」など批判精神の放棄――学問の自殺――として,軽蔑されていた。学ぶこと自体が目的であり,学べば結果的に就職がうまくいったり,儲かったりすることはあっても,それはあくまでも結果であって,それが学問の目的ではなかった。

この学問の誇り,学ぶためのやせ我慢を放棄してしまったところに,今日の大学のいびつさの根源がある。学問の手段化により学ぶ意欲を失ってしまった多くの学生と,手段化された学問への強制を内面化ししゃにむに学習するエリート学生――より健全なのは,はたしてどちらの学生だろうか?

不自然な強制された学習競争は,生徒を疲れさせ,消耗させる。大学入学までは,授業時間外の学習を一切禁止してしまってもよい,とさえ思う。

宇久高校の生徒さんたちが,自発的な学習に意欲的だとすれば,競争への不自然な外的強制が都市部ほども激しくないからだろう。教育とは,本来,そうあるべきだとすれば,これからの教育の希望は,たとえば宇久島のような自然な教育の可能性のまだ残っている地方にこそあるといえる。


12.ネパールの教育への希望
ネパールの教育についても,同じようなことがいえる。ネパールでも,都市部は学習の手段化が進行し,受験競争は日本よりもはるかにすさまじい。全国統一中等教育修了試験(SLC)の上位獲得を目指し,生徒の親も,学校も血眼になる。SLCの成績優秀者は新聞・雑誌で褒め称えられ,学校も成績順に序列化される。親も学校教師も,子供を競争へと駆り立て,競争心を内面化させ,「成功」を獲得させようとする。

ネパールの都市部の受験本位教育は,もはや本来の教育ではない。日本の教育支援NGOの中には,支援校のSLC成績向上を援助成果として誇っているところもあるが,よく注意しないと,いびつな受験競争の下働きをさせられる結果になってしまう。

これに対し,地方に行くと,学習環境は劣悪なところが少なくないが,「学ぶ」ということのもつ本来の意味に気づかされることが少なくない。電気も水道も道路も,何もない。教室は日本で言えば薄暗い倉庫のようなところ。そのような学校であっても,学校に行ける子供たちは,嬉々として学校に行き,元気に勉強している。学校に行けること,勉強できること,それ自体が喜びなのだ。(教育成果の直接的利用機会が地方にはほとんどないことの裏返しなのではあるが。)

もちろんそのような学校ばかりではないし,地方へも受験競争は及び始めている。しかし,たとえそうであっても,地方にはまだ,学ぶこと,それ自体が喜び,という本来の姿の教育が見られる。

    
    ゴルカの民家と子供たち                マナスルの麓の小学校

日本の高校生や大学生がスタディツアーでネパールの地方の学校を訪問して真っ先に感じる驚きは,日本の子供たちとネパールの子供たちとの表情の差だ。日本の子供たちの大人びた無感動な表情に対し,ネパールの子供たちは何と天真爛漫で,学校を楽しんでいることか! 物質的には圧倒的に自分たちの方が豊かなのに,ネパールの子供たちには,自分たちが物心ついた頃にはすでに失ってしまっていた無限に豊かな「子供の世界」がある。大人になるための準備・訓練のために消費される子供時代,将来の成功のための手段としての教育――大人子供を強制され,子供本来の喜びを奪い取られ,疲れ果ててしまった日本の子供たち。そんな子供時代を過ごしてきた日本の高校生や大学生にとって,ネパールの子供たちは驚異であり,救いでもある。ネパール・スタディツアーが,日本の高校生や大学生に深い印象を与え,その後の生き方を考えさせることになるのは,そのためである。

この学ぶこと,それ自体が喜び,というその気持ちを大切にし,それが実現できるような環境整備のお手伝いを,これからも出来る範囲でしていきたいと願っている。

――こんなことを,6時間かけていった宇久島からの帰途,フェリーの客室に寝ころび,最終列車に揺られながら,考えていた。長旅の疲れで,少々,議論が飛躍しているかもしれないが,大筋はご理解いただけるものと思う。

(この文章は12月19日の旅中にメモした備忘録。不正確な点があれば,後日修正します。) 


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