第1章 序論: 神秘の国ネパール


 ネパールに行きたいと考え始めたのがいつのことかはっきりは思い出せないが、おそらく1971年、私がまだ大学院生だった頃のことであろう。
 日本三大秘境の一つといわれていた奥丹後(京都府)――差別的地名とされ今では単に「丹後」あるいは北近畿、北京都と呼ばれる地方――の生まれで、もともと自然の山河が大好きであった私は、峰山高校卒業後、地元の京都府立織物試験場に勤務していた1965年夏、高校の恩師・山田先生、一年先輩のY氏と信州方面に6泊7日のバイクツアーをし、初めて夏なお雪を戴く穂高や乗鞍の霊峰を仰ぎ見、その神々しさにすっかり魅せられてしまった。その後、京都府庁を辞め、大学の通信教育部から昼間部に編入してからは、毎夏のように信州や飛騨にいき、山歩きを楽しんでいた。身長163cm、体重52kgと体格に恵まれない私は、冬山はもちろん登山部のような厳しい本格的な登山は無理だし性にも合わなかったので、鋭鋒に見とれたり高山植物を愛でたりと、勝手気ままな山登りを楽しんでいた。もちろん、時には思いリュックをかついでの長時間の強行軍や遭難寸前の危機もあったが、それはたまたまそうなっただけで、目的は苦行や鍛錬ではなく、高山に凝縮されている自然の神秘――計り知れない崇高さと優しさ――に触れ、気ままに戯れることであった。
 信州の山登りは大学院生になってからも続き、登りたかった山はほぼ登ってしまった。信州や飛騨の山々は「美が原」や「霧が峰」のように人間が手を加え醜く破壊しなければ、世界有数の美しさであり、何度行っても飽きることはないが、他方、山登りをしていると高山へのあこがれがつのり、もっと高い山を見たくなる。私も例にもれず、もっと高い山、できることなら世界の最高峰ヒマラヤの山々を見たくなったのである。
     

 ネパールへ ヒマラヤへの夢は1980年春、ようやく実現することになった。登山家でも文化人類学者でもない私にとって、ヒマラヤの国ネパールは全く未知の国であった。ヒマラヤが見たいという、ただそれだけの単純な動機なので、ガイドブックを読み、ネパール旅行に最低限必要な情報を集め、携帯品や旅行ルートを決めた。未開の地らしいというので、マラリヤ治療のためのキニーネから各種抗生物質、消毒薬、化膿防止薬、ガーゼに包帯まで、まるで小医院が開業できるくらい準備し、防寒服に寝袋など、文明人が生きるに必要なものを手当たり次第詰め込んだ。ヒマラヤ山麓を数日間トレッキングするだけなのに、そのときの私は人跡未踏の秘境探検に出かけるような気分だった。
 現在はネパール航空が大阪・関西空港とカトマンズを直行便で結んでいるので、大阪を昼過ぎに出発すれば夜の9時頃にはカトマンズに着く(時差3時間15分)が、当時は直行便がなかったので、バンコク経由で行くことにした。1980年3月12日、大阪・伊丹空港でタイ航空機に乗り、バンコクで1泊、翌日朝、バンコクからカトマンズに向かった。
 数時間後、前方右手のはるか雲海上にヒマラヤの山らしきものが見えてきた。しばらくすると真っ白に冠雪した鋭い巨大な山塊があちこちに現れ、これこそ憧れのヒマラヤにちがいないと確信したが、飛行機の窓から見ると高度差が感じられず、このときは「あれ、穂高連峰とそんなに違わないなぁ」と少々落胆した。飛行機が急角度で高度を下げていくと、ヒマラヤはたちまち見えなくなり、かわりに下界の田畑や村々が見えだし、ほどなく全体が茶色っぽい大きな街が現れ、その端の方に着陸した。ネパールの首都カトマンズのトリブバン空港に着いたのである。
     

 神秘の国 着陸し飛行機から降りたとたん、私はいいようのない激しい感動に襲われた。外国旅行はこれが初めてではない。1969年には香港、シンガポール、マレーシアを1週間ほど観光旅行し、まだ残っていた前近代的アジア的雰囲気に興味をもった。1973年には3週間ほどイギリス各地を回り、本で学んだ知識と、そこで生きられている文化との違いに気づかされた。いずれも田舎育ちの私には別の世界についての新しい経験であり、驚きも大きかった。しかし、歴訪したアジア諸国もイギリスも異文化であり完全には理解しきれないにしても、そのかなりの部分は近代的知識の常識で理解できるように思われた。両者ともかなり異なるが、全くの別世界とまでは感じられなかった。ところが、いま降り立ったネパールは私の常識の外にある「神秘の国」だ。それは、滑走路の横で牛がのんびり昼寝し、何をしているのか見当もつかないような人々がそこここにたむろしている国なのだ。(今は近代化され、牛と飛行機と人間は区別されている。)
 空港ビルに入ると、そこは見たこともない異次元の混沌の世界であり、およそ近代的ルールとか秩序はどこにも見あたらなかった。雑多な人々が右往左往し、何やら喚いている。この人たちは、いったい何をしているのだろうか。入国手続きはどこでどのようにすればよいのだろうか。まったく何がなんだか訳の分からぬまま諦めて混沌に身を任せていると、摩訶不思議にも何となく入国手続きを終え、ビルの外に出ることができた。 空港には予約先のペンションの車が迎えにきていたので、これに乗り込み、空港からカトマンズ市内へ向かった。車は古い町並みが残る旧街道を進んだが、車窓から始めてみるカトマンズの街は、これまた全くの混沌の世界だった。インドの街の様子は本で読んである程度知ってはいたが、この目で車と牛と人間と犬と鶏と、文明社会では本来区別されてあるべきものが雑然と狭い道路を何の規制もないまま、あるものは忙しく、またあるものはのんびりと行き交う様はまさに驚異であった。
 車は20分ほどでカトマンズの東の入口付近の旧街道沿いの街ディリ・バザールにあるペンションに着いた。日本人がよく利用していた小さなペンションで、庭には原色鮮やかな花々が咲き乱れ、椋鳥のような何種類かの野鳥が訪れ、当時は車も少なく静かで平和な宿であった。チャイ(ネパール紅茶)をご馳走になり、部屋でひと休みすると、さっそく車窓からかいま見た不思議の国の探検に出かけた。
     (カトマンズ)

 中世都市 カトマンズは、古い伝統に培われた調和のとれた中世都市であった。あちこちですでに近代化による無惨な破壊が始まっていたが、それでもまだ落ち着いたレンガ敷きの道路を挟んで木造やレンガ造りの見事な伝統的家並が続き、雰囲気としてはかつて訪れたイギリスの地方の古い町並みを感じさせた。
 ネパールは国民の9割以上が農民の農業国だが、カトマンズ盆地のこの小さな古都は近代化した現代日本の大都市以上に都市らしい雰囲気を持っていた。政治経済の中心であり商人や役人が多いものの、小さな市域の周囲は農業地帯であり、繁華街のタメル付近でも牛小屋や中庭で牛を飼っているなど、都市住民の相当数が何らかの形で農業にかかわっていると思われるのに、この街は農村社会の延長に近い日本の大都市よりも都市らしい。この驚きは、当時人口20万人ほどであったカトマンズよりもさらに小さなパタン(約**万人)、そして日本でいえば村の規模にすぎない農民中心のバクタプール(約*万人)を見たとき、一層大きくなった。日本の都市とのこの雰囲気の違いはどこからくるのであろうか。
     (パタン)

 バザール カトマンズの街には、ペンションのあるディリ・バザールをはじめ、あちこちにバザール(市場)がある。むしろ、バザールの集合体がカトマンズだといってよいくらいだ。八百屋、小間物屋、衣料店、荒物屋、履物屋、茶店、食堂、みやげ物屋などが店を連ね、道端や寺院前には果物、野菜、菓子、サリー、腕輪、供花、鶏、山羊、チャイなど、これまたありとあらゆるものを商う露店がひしめき、その間をおびただしい人と犬と牛と車と自転車と荷車が往来する。日本の大都市のかつての公設市場や商店街がこれに近い雰囲気であったが、やはりどこか違う。バザールの中で私はこれまでに経験したことのない居心地の良さを感じたが、それがなぜかは分からなかった。
     (バザール、カトマンズ)

 ヒンズー教寺院 トレッキングに出発するまでの数日間、毎日のように街に出て歩き回った。ほとんど何の予備知識もなかったので、かえって逆にヒンズー教や仏教の寺院の多さに驚いた。京都の寺町近くに数年住んだことがあるが、その比ではない。いたるところに寺があり、神や仏がいる。寺院の中に街があるという感じだ。とくにびっくり驚嘆したのは、ヒンズー寺院だ。ドクロの首飾りをし右手に剣、左手に生首をもつ女神、犠牲の血を浴びる神、ありとあらゆる露骨な男女合体像、異様としかいいようのない修行者たち。宗教学的にはもちろん説明できることだろうが、素朴なトレッカーには常識をはるかに越えた全く異次元の世界であった。
     (シバ&パルバテ)

 あふれる色彩 カトマンズには色彩もあふれ、万事モノトーンの水墨画のような日本とは対照的に、街全体が極彩色の万華鏡のようだ。男はダークの上着に白のズボンという伝統的民族服がまだ多く、トピー帽の色柄が違うくらいだったが、女性たちはたいてい赤、青、黄など強烈な原色のサリーを着ている。バザールには色とりどりの香辛料の山々、色鮮やかな果物や野菜、真っ赤な血の滴る羊や山羊の肉片や臓物や頭、ヒンズー寺院には祝福を祈る赤いティカや色とりどりの供花。仏教寺院にある巨大な目をもつ真っ白なストゥーパは経文を書いた赤、白、黄、青の無数の旗で満艦飾のように飾られている。カトマンズは「総天然色」の世界だった。

 漂う臭気 これらの色と同様、臭い(匂い、香り)もカトマンズでは日本のように蓋をされることなく、思う存分自己を主張していた。
 ネパールの農村には便所はなく、村人たちは大地のどこか適当なところで自由に用を足している。当時、カトマンズにも便所の数は少なく、庶民は路地裏や空き地で用を足していた。おびただしい数の犬や聖なる牛は、もちろん何の遠慮もなく気の向くままに糞尿をたれた。しかし、そんなことを気にする人は誰もいない。聖牛の糞はむろんのこと、他の糞尿についても、それに伴うものを悪臭とする感覚がここにはない。だから寺院、映画館、学校のような人が多く集まる施設の周辺には糞尿臭が空気を重くするほど濃厚に漂い、しばらくは息もできず窒息しそうだった。一方、街角の食堂に入り食事をしようとすると、たいていの料理には強い香辛料が使われている。日本の魚料理やたくあんも臭いが強いから、これは慣れの部分もあろうが、比較すれば、ネパール料理の方が香りははるかに強い。そして香辛料を多く使うから、刺激も強烈だ。

 音の氾濫 色と臭いだけでなく、カトマンズでは音も解放されていた。まだ少なかったが、車はわがもの顔に道路を歩く人や牛を避けさせようと始終ブーブーと警笛を鳴らし、バザールでは女性たちが老いも若きもいつ果てるともしれない品定めや値切り交渉を続け、男たちはあちこちにたむろし何やら議論をしている。サービスのつもりか、そこここから大音響のラジオ放送が流され、寺院からは教典朗読の声が聞こえてくる。日暮れになれば、昼間は死んだように道端で眠り、踏んづけてもコソコソ逃げていく飼い犬やら野良犬やら分からない貧相な痩せ犬たちがたちまち豹変、一気に野性を取り戻し、凶暴に吠えたて、うなり、夜通し遠吠えを繰り返す。カトマンズでは人も動物も機械も実に饒舌だ。

 五感の緊張と解放 こうした混沌の直中では、私は常に周囲に目配りしていなければならなかった。足元を見ていないと犬や糞を踏みつけ、上を見ていないと2階からごみや汚水が降ってくる。上下に注意していると前の人に突き当たり、前を気にしていると背後から自転車や車に当たられる。カトマンズでは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚がつねに極度の緊張を強いられた。
 しかし、緊張と同時に、私はいいようのない開放感を感じ始めていた。日本のような文明社会では、人間の行動、とくに本能にかかわる部分が強く規制される。生死は儀式化と合理化により病院と寺院に隔離され、五感は矯正文明化され、そうできない部分は抑圧排除される。文明人は合理的にコントロールできない本能の力に恐れをなし、自ら本能の自由を放棄して理性の檻の中に入り、そこに安らぎを感じ、もはや出られなくなった人間である。ときたま訪れる理解不能な本能のうずきに狼狽しながらも、文明人は文明世界を自らの世界と思い込み、その外に出ようとはしない。
 私もそうした典型的な文明人の一人であった。私の五感は強い文明的規制の下にありながら、とくに不自由を感じることもなく、これまで平和に過ごしてきた。だから、ネパールに来て多くの――動物や人間の――生死に直に触れ、いたるところで五感が激しく刺激されると、初めは狼狽し、このような極度の緊張の中ではとうてい生活できないと思った。ところが、不思議なことに、しばらくすると五感の緊張が徐々に解け、いいようのない開放感が広がってきた。それは、ちょうど篭の中で育った小鳥が、外に出されても、しばらくは不安そうに首をすくめるだけだが、やがて自由に空を飛び始めるのと同じことである。
 もちろんネパールには古来の高度な文化があり、生死や五感に対する厳しい文化的規制がある。しかし、それは私の慣れ親しんできた近代的規制とは非常に異なった種類の規制であり、予備知識のなかった当時の私には規制のない状態のように映ったのである。ネパールに来て私の感じた大きな開放感は、より正確にいえば、異文化との接触による自文化の相対化に起因する開放感であった。

 仕事の細分化 2、3日後、疲れてペンションの3階の部屋で寝ころび何気なく外を見ていたとき、不思議なことに気づいた。ペンションの隣はこざっぱりした屋敷で、使用人が何人かいるらしい。入口に鉄の門扉と小さな小屋があり、門番らしい人が1、2名いるのが分かった。この門番は、私がこのペンションに来てから、何もせず所在なげにごろごろしているか、仲間とおしゃべりしているかであり、仕事といえば、1日数回家人が車で外出するとき門扉を開閉することだけだ。用心棒をかねているのかもしれないが、それにしても日本では想像もできないことだ。大の大人が2人も1日数回の門扉の開閉だけで生活しているらしい。
 よく見ると、この種の不思議は私のペンションにもあった。ペンションに小さな食堂があり、3人が働いていた。働くといっても、客はたいてい4、5人だから、食事時に少し働くだけで、あとはごろごろしている。彼らは、部屋の掃除を手伝おうとはしないし、前庭の手入れをしようともしない。いやそれどころか、調理係は調理だけ、給仕係は給仕だけをする。
 この種の徹底した分業は、いたるところで見られた。後日のことだが、荷物を日本に送るため中央郵便局に行ったとき、その極限状態といってよいものを身をもって体験した。そこでは、内容物の検査係、荷物を麻布で包み針と糸で縫って綴じる係、縫い目に蝋を垂らし封印を押す係、計量係、発送書類受付係、料金受取係等々に分業されており、それぞれに順番待ちもあって、一個の荷物の発送にほぼ1日かかった。典型的な短気な日本人の私が、あきれ果て、内心で怒り狂ったことはいうまでもない。カースト制を知識として知ってはいても、実際にはこの社会の複雑怪奇な仕組みの了解には何の役にも立たなかった。
     (包装係、中央郵便局)

 時間の観念 カトマンズ見物をしながら、最終的にトレッキングをアンナプルナ周辺と定め、その準備をしていると、ここでも不可解に見舞われた。トレッキング許可証を入手するため旅行代理店に手続き代行を依頼すると、明日の昼過ぎにできるという。そこで翌日いくと店は閉まっていて誰もいない。腹が立ったが仕方ないので再び翌日いくと、まだできていない、明日こいという。さらに腹が立ったが、じっとこらえ次の日いくと、まだだという。もう堪忍袋の緒が切れ、申請書類を取り戻し、許可証なしで出発することにした(許可証の必要のない地域だったのか、結局提示を求められることはなかった)。
 同じようなことを帰途でも経験した。アンナプルナ・トレッキングを終え、ポカラから国内便でカトマンズに戻ろうと考え、空港のチケット売り場に行くと、明日の昼頃きてくれという。ここからの経緯は先の話しとほぼ同じで、翌日は留守、次の日にいくとまた明日だという。こうしてようやく飛行機に乗れたのは3日目だった。
 これは、ネパール人は約束を守らないとか時間にルーズだということではない。当時、庶民の多くは時計をもっていなかった。暦はありヒンズー教祭司や仏教僧に聞き、それに従って生活しているが、日常生活において1、2日の違いはどうということはない。ましてや1、2時間は。時間は太陽や月とともに自然に流れ、その大きなリズムの中で人々は生きている。これは、時計が合理的に支配する時間、過去から未来へ向かって同じテンポで機械的に進行する近代的時間の中で生きている私たちとは、全く違う時間感覚だ。おそらく彼らにとって、時間は彼らの意識とともに速く流れもすれば遅く流れもするのだろう。その生活感覚に彼らは素朴に従っている。いま思えば、これは私が遥かな昔、幼児期に置き忘れてきたものだが、最初のネパール訪問の時は、結局、それを最後まで思い出さず、意識を根源的に拘束している近代的時間からの解放という至福を味わうことはなかった。

 ポカラへ さて、トレッキング許可証の取得をあきらめた私は、入国4日目(3月16日)の早朝、カトマンズの中心にあるビムセンタワー横からでるポカラ行きの長距離バスに乗った。ネパールのバス旅の珍談奇談は私も数々体験したが、多くの先達が語られているので、ここでは割愛する。バスはカトマンズから西へムグリンを経由し10時間ほどでポカラにつき、ペワ湖の側の退役グルカ兵経営の小さなロッジに泊まった。ポカラは中心街のバザールを除けば、まだブーゲンビリアの咲き乱れる緑豊かな田舎町であった。春霞でヒマラヤは見えなかったが、先進国の文明に病みつかれた人々がここに理想郷を求め、長期間逗留するのもよく理解できた。
 翌朝(3月17日)、日本で用意万端整えた装備一式をリュックに詰め込み、宿を出発した。当初から目的は高山に登ることではなく、ヒマラヤを山麓から仰ぎ見ることだったから、ルートは地図で景色の良さそうなところを選び、ポカラ―スイケット―ダンプス―ランドルング―ガンドルング方面とし、そこから先どこまで行くかは、景色を見ながら考えることにした。
 重いリュックを背負い、町の北はずれのバガラ広場まで行き、途中までいくジープを探した。広場はポカラの北の入口であり、交易の中継地であった。座って休んでいると、隊商が次々とやってきた。赤いチョンマゲのような飾りを頭や背中に立て、重そうな荷物を振り分けで担う十数頭の小さなロバがベルをカランカランと鳴らしながらやってくる。ロバより背丈の大きい馬の隊商もいる。それは始めてみる旅行者には感動的な光景であった。ここから先には道らしい道はなく、ヒマラヤ山麓の村の生活やチベットにいたる伝統的な隊商交易の文化がある。
     (ポカラに入る隊商)

 ダンプス ようやく乗せてくれるジープが見つかり、屋根にもステップにも乗れるだけ乗り込み、セティ・ガンダキ川沿いの道を上流に向かった。道といっても当時は全くの山道で、ステップに片足を乗せ窓枠にしがみついていた私は、崖で谷底に振り落とされそうになり、川の中を走るときは水濡れになった。2時間ほど走り、体力も尽き果てそうになった頃、スイケットに着いた。スイケットは茶店が数件あるだけの小さな集落だが、トレッキング客が来るので、ポーターの仕事をしようとする地元民が十数人たむろしていた。私は気ままにより道をしたり写真を撮ったりするのでポーターを雇う予定ではなかったが、尾根筋にあるダンプス村への道が谷底のスイケットから垂直と思えるほど嶮しいのを見て観念し、ポーターを頼むことにした。
 私のリュックは重いといっても登山客に比べればしれているし、ゆっくりゆっくりダンプス村の宿まで運ぶだけなので、一人の若者と交渉し、20ルピー(約200円)で引き受けてもらった。私はリュックを彼に預け、ダンプスへの登りにとりかかった。
 ネパールの田畑は、文字どおり耕して天にいたるものであり、丘や山は見事なまでに耕され段々畑が上へ上へと極限まで積み上げられている。細いがよく踏み固められた山道を登っていくと、両側に段々畑が広がり、背丈20〜30センチくらいの貧相な小麦や雑草と見分けのつかないような菜種が栽培され、あちこちで鮮やかな民族服の女性や子供たちが働いていた。この道は細く険しくとも生活道であり、所々に小さな茶店があり、チャイ(ネパール茶)やコカコーラを売っていた。こんなところにコーラがとアメリカ資本主義の底力(コーラ帝国主義)に驚嘆していると、うしろから背中にコーラ瓶を満載した竹篭を背負った女性が登ってきて、私を追い越していった。この付近では、あらゆる物資は牛馬か人力で運ばれているのだ。
 大いに道草を食い尾根筋に出たのは午後四時頃だった。目論見では、尾根筋に出れば、反対側の谷向こうに霊峰マチャプチャレ(6993m)や8千メートル峰のアンナプルナが圧倒的な迫力で控えているはずだった。ところが、春霞で山は一つも見えない。がっかりしたが、尾根沿いの農村は実に見事であった。藁葺きで白壁の丸っぽい家々は、いまは失われた日本の古い農村が自然と一体となって一つの穏やかな景観を作り出していたのと同じように、優しさに満ち、風景にとけ込んでいた。私は大いに感動し、ダンプス村の小さなロッジに投宿した。ロッジといっても、土間の上に木製の質素なベッドらしきものがあるだけで、一泊わずか4ルピー(約40円)であった。
     (ダンプス村)

 ランドルング 次の日(3月17日)、朝起きる外に出てみると、マチャプチャレの魚の尾のような山頂がほんの少しだけぼんやりと見えた。宿の女主人がつくってくれたゆで卵、チャパティ、チャイの朝食をとり、ロッジをあとにした。ヒマラヤはすぐ見えなくなったが、尾根道は快適であり、樹林帯にはいるとシャクナゲの大木が深紅の花をいっぱいつけ、森全体を真っ赤に染め上げていた。昼頃、尾根筋から分かれ、モディコーラ川側の道をランドルングへ向かってぶらぶら降りていった。
 当時、このルートは川沿いに登っていくルートに比べ人気がなく、2日間で出会った外国人とレッカーはフランス人2人だけだった。そのかわり村人とはよく出会い、一緒に歩いたり、チョータラ(道端の休憩所)で休んだりした。
 村人の生活は、一介の旅行者にも非常に厳しいことが容易に見て取れた。家屋も衣服もごく質素であり、ほとんどの人がまだ裸足であった。どこでも子守をする5、6歳の女の子や木に登り牛の餌となる小枝を採取する少年少女が見られた。しかし、たいていの旅行者が感嘆するように、彼らは大人も子供も明るく、生活の苦しさに打ちひしがれている様子は、みじんもなかった。現在とは比べものにならないが、当時もすでに日本の子供たちは豊かさの中で希望を見失い、大人たちは過労で疲れはて、たいてい暗い顔をしていた。他の多くの旅行者と同じく、私にとっても、厳しい生活をするネパール人の快活さは驚異であり、人にとって幸福とは何かを改めて考え直させる強烈なきっかけとなった。
 18日は、結局ヒマラヤはほとんど見えず、もうダメかと落胆しつつ谷底のランドルング村に着き、小川沿いの小さなロッジに投宿した。昨日のダンプスよりもさらに奥で、ロッジもさらに質素になった。1泊わずか2ルピー(約20円)。ひと休みしチャイを飲んでいると、村の女性3人が畑から茎についたままのエンドウを抱えて帰ってきてロッジに立ち寄り、宿の女主人と延々とおしゃべりを始めた。そのエンドウは、他の作物すべてがそうであるように極めて貧相であったが、みずみずしく、食欲を誘った。この数日、新鮮な野菜を食べていなかった私は、無性にそれが欲しくなり、分けてくれないかと彼女たちに頼んでみた。しばらく思案していたが、彼女たちは結局収穫したエンドウを全部――といっても実を取り出せばコップ2杯くらい――を3ルピー(約30円)で売ってくれた。私は、それを携帯ガスコンロでゆで、日本から持参したマヨネーズをつけ美味しく食した。
 日が暮れるとロッジは静寂に包まれ、私は心地よい満腹感を味わいながら、今日一日の出来事をつらつら思い返していた。絵のように美しい農村と快活な子供たち。それと対比し、あまりにも厳しい生活環境。千枚田をさらに千枚重ねたような息をのむほど見事な棚田は、歓喜し写真に撮りまくったが、そこで働く村人たちのことを思うと愕然とせざるをえない。子供の頃、家の農作業を手伝わされたときの辛さをありありと思い出した。丹後の山間に先祖伝来の小さな田畑が散在し、父母と一緒に牛に荷車を引かせ農作業に出かけた。平地は少なく、傾斜地に3、4段から10数段の田畑がある。荷車は奥まで入れないので、肥料や作物の運搬はすべて人力である。春から初夏にかけてもつらいが、記憶に深く残っているのは作業の集中する秋の収穫期だ。腰をかがめての稲刈りは初夏の草取りと同じく苦しく、刈り取った稲束を運ぶのもつらい仕事だ。秋の日が落ち、一気に寒くなっても、たいてい取り入れは終わらなかった。寒さと迫りくる暗闇に怯えながら、重い稲束を背負い、ぬかるむ細いあぜ道を荷車まで運んでいると、惨めさに打ちひしがれる思いだった。しかし、これは丹後の緩い傾斜地での農作業にすぎない。それですらこれほど辛いとすれば、天まで届きそうな急傾斜地の千枚田を耕すネパール農民の労苦は計り知れない。
 ネパール農民がこれほど苦労して耕しても、痩せ地の千枚田では小麦も菜種もパラパラとまばらにしか生えず、背丈も低い。ネパールの麦は実っても頭を垂れようとはしない。そのギリギリの労働でギリギリの作物を育てギリギリの生活をこの地の人々はしているのだ。――そう考えたとき、私は先ほど収穫したばかりのエンドウを全部買い取り、食べてしまったことを思い出した。おそらくあのエンドウも、やせこけた小さな棚田で手間暇をかけ作られたものだろう。そのエンドウをわずか3ルピーで買い、あっという間に食べてしまった。彼女たちはその値段に同意したし、一家がよる食べるものも他にあったのだろう。強奪でも強要でもなく、不当ではないと思ったものの、釈然としなかった。
     (エンドウを買う)

 物価の安さ 思い返してみると、ネパール入国以来、物の安さに驚き喜んでいた。日本の半分から三分の一、時には十分の一以下の物もある。お金で支払っても安いが、断然割安感のあるのは物々交換の場合だ。まだネパールには先進国の工業製品があまりはいっておらず、人々はお金よりも私の持ち物との交換を望んだ。ボールペン、ペンライト、腕時計、合繊衣料等々、何でも工業製品は彼らの関心を引きつけた。とくに山麓トレッキングを始めてからは、交換比率はますます有利になった。当時、彼らが最もほしがったのは、軽くて強いケミカル・シューズであった。スイケットでも予備の運動靴を見て、それをくれればポーターをする、という申し出を何回も受けた。数百円の、それも古びた運動靴と交換に1、2日働こうというのだ。このときは交渉しなかったが、ガンドルングからの帰途、もう予備は不要になったので、実際にそれと交換で一日ポーターをやってもらった。帰り道では、他の持ち物も不要になったので、さんざん物々交換をした。何と何を交換したのかいまは忘れてしまったが、いつも驚くほど有利だったことは確かだ。
 驚くべき低物価のおかげでネパール入国以来、にわか成金のように幸せで有頂天であったが、交換比率がここまで極端になると、どこか変ではと不安になってくる。ロッジで売っているコーラは、おそらくポカラからスイケットまでは人力か馬で半日、スイケットからランドルングまでは人力で一日かけて運ばれてきたものだろう(空瓶返却にもほぼ同じ労力が必要)。運び賃がいくらか分からないが、ポカラとの差額からして、おそらく1本1ルピー以下であろう。ロッジでコーラを買うということは、その運搬に投下された労働にせいぜい1、2円しか支払わないことを意味する。あの急峻な山道を重いコーラ瓶を背負い、あえぎあえぎ運び上げる女性たちの労働をこんな値段で買い取り、一瞬の快楽のために消費してしまってよいのだろうか。

 仰ぎ見る高峰 ガンドルングの夜は、かすかな小川のせせらぎの音とともに深々と更けていった。私はネパールの神秘に魅せられていたものの、2日も歩いてまだヒマラヤが見えないのにすっかり意気消沈していた。ガイドブックではポカラの町やペワ湖の背後に神々しいマチャプチャレの姿がくっきりと写っていた。それなのに、ここまで来て見えないとすれば、たぶんもうダメだろう。槍ヶ岳でも、運が悪いと目と鼻の先の肩の小屋にいても穂先は見えない。はるばるネパールまで来たのに、全く運が悪い。私はもうほとんど絶望し、翌日(3月19日)の朝、起きてロッジの外に出たときも、山が見えるか確かめようともしなかった。深い谷の底であり、明るくはなっていたものの東の急峻な尾根の陰になって陽はまだ射していなかった。寝惚けまなこで歯ブラシとタオルをもち、ロッジの裏の小川に行き歯を磨き、うがいをするため氷のように冷たい山水を含んで上を向いた。その時である――朝日を浴びて輝く真っ白なアンナプルナの鋭鋒が目に飛び込んできた。全く予期しないとき、思いも寄らぬところにヒマラヤが忽然と出現したのだ。奇跡に打たれたように、私は茫然自失、しばし立ち尽くした。それは美しいというより、美的判断以前の感覚に対する衝撃、あるいは崇高の感覚に近いものだった。そうした感覚は、信州の山でも幾度か経験したが、今度は衝撃の程度が違った。このような大きな仰角で、これほどの高度差をもって山を見たのは、初めてだった。それは創造の威厳に打たれた瞬間といってもよかった。
     (ランドルングより仰ぐアンナプルナ)

 ガンドルング 待望のヒマラヤを見てすっかり興奮した私は、ランドルングのロッジを立ち、モディコーラ川のつり橋を渡り、右岸の道をガンドルングへ向かって登っていった。すこし登ると視界が開け、手前の南峰(7219m)をはじめとするアンナプルナ山群が眼前一杯に広がり、マチャプチャレも対岸の尾根筋の上に山頂付近から徐々に姿を現し始めた。濃紺の空には大きな鷲のような鳥が舞い、道端には春の野草が黄色い花をつけていた。道草をくいくい、ようやく昼過ぎ、ガンドルング村に着いた。日程的には、あと1、2日先に行けたが、この村が一目で気に入り、ここに2、3日滞在することにした。
 ガンドルングは、モディコーラ川右岸丘陵の中腹にある数十戸くらいのこじんまりした村だが、東斜面にあり、南北も開けていてアンナプルナやマチャプチャレの展望には絶好であり、少し登れば真っ赤な花をつけたシャクナゲ林もあった。いまはどうなっているか分からないが、当時はまるで桃源郷のような村であった。村には外国人トレッカー向けのロッジが2、3軒あり、フランス人、アメリカ人、ドイツ人など、十数人が滞在していた。私もロッジの一つに泊まり、庭先でヒマラヤの山々を眺めたり、村の散策や小学校の見学に出かけたりし、夕食時には他のトレッカーたちとおしゃべりを楽しんだ。
 ガンドルング村でヒマラヤを満喫した私は、3日目(3月21日)、後ろ髪を引かれる思いで村を立ち、往きと同じルートをポカラへと下っていった。帰途には、ダンプス村から少し靄がかかっていたもののマチャプチャレの全容を望むことさえできた。ヒマラヤを見たいという長年の夢が、当初の期待以上に劇的な形で達成できたのである。
 それから20年、私はネパールを毎年のように訪れることになったが、ポカラ、ダンプス、ランドルング、ガンドルングへは一度もいってはいない。霧ケ峰や美ケ原の再訪で味わったあのいいようのない怒り、悲しみ、かけがえのないものを失ってしまった絶望的喪失感をネパールで味わいたくないからである。彼の地でも楽園は失われてしまっているにちがいない。これは、もちろん田舎の素朴をもとめる都会人のエゴであり、余所者の無責任な郷愁であろう。滔々たる近代化、資本主義化の波がネパールの辺地にも押し寄せるのを止めることはもはやできないし、外界を見てしまった人々が快適と富をを求めるのも至極当然である。それは彼らの運命であり、彼らの選択であって、部外者の私が云々すべき事柄ではない。私としては、何らかの事情でかかわらざるを得なくなれば別だが、そうでない限り、そこには2度と行かないつもりである。
            ガンドルング村

 
    ↑早朝のガンドルング                     ↑野の花
 
   ↑子守する少女                    ↑機織り

 政治研究へ こうしてアンナプルナ山麓は自ら封印したが、ネパールへはその後毎年のように出かけることになった。それは、当初は何の関心もなかったネパール文化に興味を引かれ、最初は単なる趣味で、その後は政治文化を中心にやや専門的に勉強を始めたからである。私の本来の専門であるイギリス政治思想と一見無関係に見えるが、必ずしもそうでなく、日本―ネパール―イギリスと並べると、いろいろ面白い問題が見えてくる。勤務先の大学の授業案内に次のように書いた。

「ネパールは南アジアの小王国だが、自然と文化は驚くほど多様だ。小さな国土に高温多湿のタライ低地から極寒のエベレストまで擁し、約2千万の国民は
30以上もの民族から構成されている。
 政治文化も多様だ。都市部は近代化し、テレビや新聞では政治や憲法がさかんに議論されている。ところが農村部は近代文明とは無縁であり、辺境にはいまだ隷農さえ残っているという。まさに多種多様な政治の見本市だ。おまけに国が小さいので万事こじんまりし、間近で子細に観察できる。この国では封建制と資本主義、農村と都市、伝統的支配と民主主義が、言い換えるなら中世と近代と現代がヒマラヤの高峰のように鋭く対峙している。これは世界的にも希有な事例だ。私たちは、この実験室のような小王国の政治文化から私たち自身の問題を考えるヒントを見つけだせるかもしれない。」

 多少、誇大広告めいているが、ウソではない。近代政治思想を現代日本から眺めているだけではよく見えなかった問題が、ネパールを介在させることにより、よりよく見えるようになった。「神秘の国ネパール」への個人的郷愁はそれとして大切に保存しつつ、ここ十年来のネパール政治研究を――ますます味気ない灰色の認識になるであろうが――今後も進めていきたいと考えている。  (2000.5.11修正)