被爆60年周年のナガサキ

長崎大学 谷川昌幸

 

いまから60年前,1945年8月9日午前11時2分,米軍投下の原爆ファットマンが長崎・松山町の上空500mで爆発,一瞬にして街は全壊,7万4千人が死亡し,7万5千人が負傷した。その惨状は筆舌に尽くしがたく,今なお多くの人が後遺症に苦しんでいる。ノーモア・ナガサキは人々の心からの叫びであり,平和運動や平和学習もここ長崎ではさかんである。

しかし,その一方,この被爆平和都市には,どこか違和感を感じさせるところがある。5年前,初めて長崎に来たときまず第一に感じたのは,巨大な軍事産業と貧弱な被爆遺跡との大きなコントラストであった。被爆後,前者は再建復興され,後者については,被爆浦上天主堂の取り壊し(1958年)にみられるように,その保存には長崎は必ずしも熱心ではなかった。「浦上天主堂の残骸[は],原爆の悲惨を物語る資料として・・・・適切にあらずと,平和を守るために存置する必要はないと,これが私の考えでございます」(田川市長,1958年市議会答弁)。その結果,日米両国の軍艦は目障りな被爆遺跡を見ることなく平和裡に長崎港に入港できるし,三菱長崎造船所は,「被爆60周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が小泉首相参列のもと偶像的「平和祈念像」の前で粛々と挙行されている「平和公園」の対岸で,最新鋭イージス艦「あたご」を平然と建造(8月24日進水)することが出来るのである。

長崎でも,平和はますます名目化・形骸化してきた。平和祈念式典挨拶で,小泉首相はたしかに「平和憲法遵守」「非核三原則堅持」「核兵器廃絶」を言明したが,それらは日米安保,イラク派兵,劣化ウラン弾等々と矛盾しないまでに形骸化されている。また伊藤市長は,憲法9条を平和宣言に盛り込むべきとの要望を容れなかった。長崎市は,世界平和,核廃絶は求めても,市内の兵器生産,港の軍港化には反対しない。長崎の「平和」は名目化され,世界への軍事的平和貢献を目指す自民党や民主党の「平和」とほとんど変わらないものになってしまった。

この長崎の「平和」を非戦非核の本来の平和に引き戻すのは容易ではない。非戦平和の原点となるはずの戦争体験は,悲惨であればあるほど語るのも聞くのも難しく,継承が困難になる。被爆者に体験を語れというのはあまりにも酷だし,たとえ被爆トラウマを押さえ語られたとしても,それが激しい感情の表出を伴う――そうならざるをえない――ものであれば,聞き手は,あまりの悲惨さに恐れおののき,所詮体験の理解・継承は無理とあきらめ,聞くより先に耳をふさいでしまう。逆に,被爆者がある程度冷静に語れるように体験を整理し客観化して語れば,聞き手は,たとえば青山学院高等部入試問題文の「私」がひめゆり学徒証言について感じたのと同じく,「とても上手に話す」と感じ,たちまち「退屈」し「飽きて」しまう(朝日新聞2005.8.22)。そして,この間隙をついて,被爆の観光化,平和の名目化・形骸化が進行し,市民もそれらに慣らされていく。この被爆体験の風化への大きな流れに,長崎の反核平和運動もいまや呑み込まれそうになっている。

しかし,望みがないわけではない。ひめゆり学徒の証言を聞いた「私」は,洞窟内での戦争追体験に「強い印象」をもち,「なぜ,そのガイドが多くを語らなかったかを理解した」。換言すれば,「私」は,ガイドの戦争体験は語り得ぬほど酷なものだったことをよく理解したし,あるいはまた,ガイドの話は「退屈」だが筆舌に尽くせぬ体験を語ろうとしているのだということにもおそらく気づいていた。これは,不徹底といえばいえるが,戦争体験の本質をちゃんと捉えており,非戦への原点となりうるものである。長崎は被爆天主堂を取り壊したが,それでもなお被爆遺跡や資料はまだたくさん残っている。被爆語り部もいる。難しく,徒労のように思えるときもあろうが,被爆体験を語り伝え,非戦平和を訴え続けていくことが,被爆60周年を迎えた長崎が改めて思い起こすべき歴史的使命であろう。

(『憲法研究所ニュース』(憲法研究所)第20号,20051110日,p.1