谷川昌幸「ネパール共産党政権の成立」『ars』(東北芸術工科大学文芸)3 、1995年9月


    ネパール共産党政権の成立
                               谷川 昌 幸

   一 陛下の共産党政府
 立憲君主国ネパールに一九九四年一一月、共産党政権が出現した。立憲君主 制とはいえ、国王の権力は象徴天皇とは比較にならないほど強大であり、国民の 多くが国王をヴィシュヌ神の化身としてあがめているこの国で、「ネパール共産 党(統一マルクス・レーニン主義派)」という堂々たる正式党名をもつ共産党が 、選挙で第一党となり、単独で内閣を組織した。陛下の共産党政府(His Majesty's Communist Government)の成立である。ヒマラヤの神秘か、はたまた共産主義 復活の兆しか。
 このヒマラヤの奇跡を、日本のマスコミは異例の早さで、かなり詳しく報道 した。そもそもネパールという国は、南アジアの小国であり、数年前までは日本 で広く話題にされることはあまりなかった。特殊な分野に関心のある人々、たと えば登山家、文化人類学者、宗教家などの中には早くからこの国に魅せられ虜に なってしまった人もいるにはいたが、それは少数の専門家に限られていた。ネパ ールは世界最貧国(LDC)の一つであり、めぼしい資源もないから日本企業は相 手にしなかったし、世界の耳目を集めるような悲惨な戦争や飢餓もなかったから 日本のマスコミも注目しなかった。ネパールは、良くいえば玄人好みの厳しい自 然と不可思議な文化の国、悪くいえば変人、奇人、ヒッピーの天国と見られてい た。
 ところが、一九八〇年代末頃から、ネパールの現代政治に関する記事がとき どき目につくようになった。一九九〇年春の市民革命ないし「民主化運動」につ いては、日本のマスコミは統制下のネパールのマスコミよりもむしろ詳しく伝え たくらいだし、九一年五月の革命後初の総選挙についても経過と結果の概略を要 領よく報道した。このマスコミの変化にはいくつかの要因が考えられる。八〇年 代末以降のネパール政治の流動化。九〇年革命によりネパールが民主化され、情 報が得やすくなったこと。それに、長らく欧米中心であった日本人の関心が東南 アジアへも広がり、さらに南アジアへと及び始めたこと、などである。だから、 九四年一一月に中間選挙が行われたときも、日本のマスコミが何らかの報道をす るだろうとはある程度予想していた。しかし、目が向けられ始めたとはいえ、一 般にはまだまだ知られていない小国ネパールの選挙と政権交替がこれほど大きく 扱われようとは、実のところ想像もしていなかった。
 日本のマスコミがこの選挙に注目したのは、選挙結果が多くの日本人にとっ て意表を突くもの、まさしくヒマラヤの神秘と映ったからである。
   「労働者階級がほとんど存在しない世界の最貧国のネパールに、突如翻 った赤旗。  ネパール共産党とはいかなる政党であり、何を実現しようとして いるのか。」(毎  日新聞、一九九四年一一月二四日)
   「立憲君主制の国に共産党政権という、世界に例のない政治体制が誕生 した。」  (朝日新聞、一九九四年一二月一日)
   「王様の国に共産党政権誕生へ。」(『アエラ』一九九四年一二月五日 )
これはもっともな驚きであり疑問である。「ソ連の崩壊後の歴史の大勢に逆ら い」(毎日新聞、一二月一日)、いまごろなぜ共産党が、しかも王制下で政権を 取ることができたのであろうか。いったい共産党は、資本主義以前のヒンズー教 国ネパールで何をしようとしているのであろうか。


   二 コングレス党政権の崩壊
 一九九四年一一月の共産党政権の成立は、共産党の勝利というよりは、与党 コングレス党の内紛による自滅の結果と見るべきであろう。たしかにネパール共 産党は一九四九年の設立以来、政党としてはコングレス党(正式設立は一九五〇 年)につぐ勢力であり、強大ではあるが、まだ単独で政権をとるほどの実力を備 えていたわけではない。もしコングレス党の内紛がなければ、あるいはそれがも う少し抑制されていれば、共産党の世界的凋落という逆境の中でネパール共産党 が政権をとるというようなことは、まず起こらなかったであろう。
 コングレス党の内紛が共産党を利することは、むろんコングレス党の政治家 たちにもよくわかっていた。しかし、名望家政党であるコングレス党にとって、 内紛はいわば宿痾のようなものであり、重々わかっていてもやめられない。そも そもコイララ政権は、九一年五月の発足時から変則的なものであった。九〇年革 命後の暫定政府に党首のバタライを首相として送り込み、政治の主導権を握って いたコングレス党は、革命後初の総選挙(九一年五月)でも過半数を超える一一 〇議席を獲得し、圧勝した(表1参照)。通常であれば、とうぜん党首のバタラ イが首相に指名されるはずであるが、皮肉なことに彼は同じ選挙区から立候補し ていた共産党のバンダリ書記長に敗れ、落選してしまった。憲法第三六条第一項 によれば、首相は衆議院(下院)議員の中から選ばれることになっているので、 バタライは資格を失い、党内の有力者G・P・コイララが首相に指名された。し かし、バタライは党首の地位を降りなかったので、コングレス党単独政権であり ながら首相と党首が別という変則の事態となった。さらに、コングレス党には非 公式とはいえ権威的な最高指導者(Supremo)の地位があり、これには長老のG ・M・シンが着いていた。こうして、九一年五月に発足したコングレス党政権は 、コイララ、バタライ、G・M・シンの三人が指導するトロイカ体制になった。
 この三人が協調すれば、コングレス党は議会の過半数以上を制しているから 、少々のことはあっても政権は安定するはずであった。ところが、ネパールの政 治家はほとんど例外なく個性的で自己主張がはなはだ強く、しばしば足の引っ張 り合いをする。図1の漫画に風刺されているように、コングレス党の指導者たち も仲が悪く、ついには政権を乗せたトロイカを転覆させることになってしまった 。もちろん、内紛以外にも政権崩壊の理由はある。たとえば、九〇年以降の民主 化が必ずしも期待通り庶民生活の向上をもたらさなかったこと、政府のインド寄 りの政策への反発、コイララ首相の汚職疑惑、等々である。しかし、たとえこれ らの問題が多々あったにせよ、内紛さえなければ、コイララ政権は存続しえたで あろう。
 コングレス党の内紛は、九四年二月七日の補欠選挙でバタライ党首が再び落 選したことで、一気に激化した。この補欠選挙は、カトマンズ一区からバタライ を破って当選したバンダリ共産党書記長が九三年五月のジープ事故(暗殺説もあ る)で死亡し、欠員となったために行われた。共産党は死亡したバンダリ書記長 の妻ビジャ・デビ・バンダリを身代わりに立て、議会復帰をねらうバタライに対 抗、同情票も集め、これに辛勝した。この選挙戦において、バタライは選挙戦術 かもしれないが、こともあろうにコングレス党政府を批判してコイララ首相との 溝を深め、落選してからは、敗因はコイララ派の非協力や反バタライ活動だと主 張し、対立を決定的なものにしてしまった。非がいずれにあるにせよ、党首と首 相がこれほど反目するようになっては、政権はもたない。
 これを見た共産党は九四年三月、憲法第五九条第二項に基づき、コイララ内 閣不信任案を提出した。不信任の理由は、コイララ内閣が憲法第四編「国家の指 導原理と政策」の精神に反した政策をとっていること、腐敗やネポティズム(身 内びいき)の拡大、そして「首相は自らの政党の信任さえ失ってしまった」こと である。この不信任案は、与党の反対でどうにか否決された。ところが、それ以 後も事態は改善されるどころか、一層悪化していった。七月になって政府の年次 政策案が下院に提出されると、今度は与党の中から多数の棄権が出て、賛成七四 票、反対八四票でこれは否決されてしまった(国王演説への感謝動議の否決)。 憲法上、内閣不信任案は衆議院の全議員(二〇五名)の過半数によって可決され なければならないが、予算案を含む年次政策案の否決は実質上内閣不信任を意味 するから、コイララ首相は結局辞職するか、解散するかを選択せざるをえないこ とになった。
 ここでコイララ首相が憲法どおり行動しておれば、コングレス党にとってダ メージはまだ少なかったであろう。ところが、彼は権力に固執し、選択を誤った 。憲法第三六条第五項によれば、衆議院で信任を得られなかったとき、首相は辞 表を国王に提出し、辞職しなければならない。年次政策案の否決を不信任決議と 同等と認めたコイララ首相も、七月一〇日辞表を国王に提出し、辞職した。とこ ろが、それだけではなかった。コイララ首相は辞表の提出と同時に衆議院の解散 も勧告した。そして国王は、この勧告に基づき、首相の辞表受理後の七月一一日 、衆議院を解散し、さらに解散後の暫定内閣の首相に再びコイララを指名したの である。
 この決定が憲法違反であることは明白である。共産党は、コイララ暫定内閣 の違憲性を激しく攻撃し、憲法の規定に従って新しい首相を現議会から選出すべ きだと主張した。これには与党コングレス党内の反コイララ派も賛成であった。 コイララが辞職すれば、少数派の共産党よりも、むしろ現議会では第一党である コングレス党内の反コイララ派が首相のポストを握る可能性が大きいからである 。こうした政治的混乱の中で、この議会解散を違憲とする訴えが最高裁判所に出 され、審理されたが、政治的判断もあったのであろう、結局この訴えは却下され た。最高裁判所のB・ウパダャイ長官は、首相の国王への勧告権と議会解散権を 幅広く認め、今回の解散に違憲性はないと明言している。しかし、訴えは却下さ れたものの、コイララ派と反コイララ派の相互不信は抜きがたいものとなり、と うとう最高指導者のG・M・シンが党を見限って離党することになってしまった 。コングレス党政府は、議会解散後もまだ暫定政府として存続していたが、党内 分裂のためもはやほとんど政府の体をなさず、実際上崩壊してしまっていたので ある。


   三 中間選挙
 七月一一日に解散された衆議院の選挙は、コイララ暫定内閣の下で四か月後 の一一月一五日に実施された。選挙戦において、コングレス党は正面から政策を 掲げて第二党の共産党と闘うよりも、むしろ党内の権力争いに明け暮れていた。 コイララ派(所属議員七〇数名)と反コイララ派は、相手側の立候補者を当選さ せないため、わざと当て馬候補を立てるなど、相互に足の引っ張り合いをし、ま すます反目を深めていった。
 これに対し、野党の共産党は圧倒的に有利な立場にあった。コイララ政権の 失政はいくらでも見つけだすことができた。経済は期待に反しいっこうに向上せ ず、インフレと貧富の差の拡大だけが進行し、都市部では水道も電気もまともに 供給されず、公害は深刻化するばかりだ。一方、コイララ首相のネポティズムや 役人たちの腐敗は目に余るものだった。また、反インド感情の強いネパール人に は、コイララ政権のインド政策は国益を損なう売国的行為と映った。もちろん、 これらの中にはネパールの経済的・政治的現状を考えるとコイララ首相の責任と するには酷なものも少なくないが、共産党は野党の気楽さも手伝って、それらを 次々に暴き、攻撃していった。とくにインド非難と絡めたコングレス党攻撃は執 拗であり、効果も大きかった。
 共産党に次ぐ第三勢力は、国民民主党(RPP)である。この党は、九〇年 革命以前の国王親政(パンチャヤット)体制をかつて支持していた人々を主力と しており、もともと地力がある。共産党が無責任な政府攻撃を繰り返している状 況の下では、国王に近い保守政党である国民民主党が漁夫の利を得て勝利する可 能性もあながち否定できないような状勢であった。
 一九九四年一一月の中間選挙は、このような状況の下で実施された。いくつ かの地方、とくにタライで選挙期間中と投票日に小競り合いや乱闘があり、数名 の死者とかなりのけが人が出たが、この国としては選挙はまずまず順調に実施さ れ、投票率は六二・〇%に達した。選挙結果は、表1のとおりである。


  表1 政党別獲得議席数(1991/1994)

政党              1991                1994
       立候補者数  当選者数   得票率 立候補者数  当選者 数   得票率
(人)    (人)   (%) (人)    (人)   (%)

CPN-UML 177 69 28.0 196 88 30.9
NC 204 110 37.9 205 83 33.4
RPP 317 4 11.9 202 20 17.9
NMKP 30 2 1.3 27 4 1.0
NSP 75 6 4.1 86 3 3.5
諸派 323 11 8.3 341 0 3.9
無所属 219 3 4.2 385 7 6.2

計 1345 205 95.6 1442 205 96.8

(注)・無効票 1991年=4.4% 1994年=3.2%
    ・上記の表は、Development Associates Nepal, Peoples' Verdict: An Analysis of the Results of General Elections 1994(Kathmandu, 1994), T.1 より作成。 
・CPN−UML=ネパール共産党(統一マルクス・レーニン主義派)、NC =ネパール・コングレス党、RPP=国民民主党、NMKP=ネパール労農党、 NSP=ネパール・サドババナ党


表1を見てまず第一に気づくことは、獲得議席と得票率のアンバランスである 。得票率だけでいえば、コングレス党は共産党よりも三%弱多く第一党であるが 、議席数では第二党に甘んじている。また、国民民主党は一七・九%も得票して いながら、獲得したのは全議席の一〇%弱の一〇議席にとどまる。これに対し共 産党は、三〇・九%の得票で、効率よく全議席の四二・九%にあたる八八議席を 獲得した。これはネパールの衆議院が小選挙区制をとっているためである。コン グレス党が内紛を自制し、もう少し候補者をうまく調整しておれば、共産党はこ れほど多くの議席をとれず、両党の議席数は逆になっていたはずである。今回の 選挙は、共産党の勝利というよりは、コングレス党の自滅としか言いようのない ものであった。
 第二に目立つのは、国民民主党の躍進である。革命時の高揚がまだ残ってい た九一年の選挙では四議席しか得られなかったが、今回は三大政党の一つとして 復活した。これでネパールは、全選挙区に候補者を立てうる全国政党を三つもつ 三大政党制になったと考えてよい。国民民主党のチャンド元首相は、下層人民を 代表する共産党、民主主義を代表するコングレス党、ナショナリズムを代表する 国民民主党という風に説明している。この図式は単純に過ぎるとしても、今回の 選挙で成立した三大政党制は、事態の急変がない限り、しばらくは続くであろう 。
 第三に、得票分布を地域別にみると、共産党と他の政党との支持層の差がか なりはっきりしてきた。共産党は都市部で強い。首都圏の二大都市カトマンズと パタン(ラリトプール)の定員は一〇名であるが、なんと共産党はそれらすべて を独占してしまった。全国的にみても、都市部(四七議席)での共産党の議席占 有率は六〇%(二八議席)であり、他党を圧倒している。前回の選挙(九一年五 月)のときの政治意識調査によると、共産党は年代的には青年層、学歴では高学 歴者の支持率が高い。これらの属性の人々は都市部に集中しているので、共産党 が都市部で強いのはもっともである。近年、ネパールでも都市化が進行している ので、共産党の支持層は都市部を中心に今後さらに拡大するものと思われる。
 ところが、ネパール社会で最も重要な要因であるカーストについてみると、 三大政党の当選者の間には、ほとんど差が認められない。支配的上位カーストで あるバラモンとチェトリが各党の当選者の中に占める割合は、共産党六〇%、コ ングレス党六二%、国民民主党六一%である。これは共産主義ないしマルクス・ レーニン主義を党是とし、インテリや下層労働者を支持基盤とする共産党にとっ ては、とくに深刻な問題のはずである。今のところ顕在化していないが、教育の 普及や近代化が進行していけば、党内の上位カースト寡占支配と党是との矛盾が 噴出することは避けられないのではあるまいか。
 このようにみてくると、共産党は中間選挙で第一党になったものの、その「 勝利」は様々な問題をはらんだカッコ付のものと言わざるをえないであろう。


   四 共産党政権の成立
 中間選挙でどの政党も過半数をとれなかった結果、新議会は「宙づり議会」 (hang parliament)になった。議席数は共産党八八、コングレス党八三、国民 民主党二〇であるから、キャスティングボートを握る国民民主党が政治的に近い コングレス党と組めば、両党の連立政権が成立し、コングレス党は与党の地位を 維持できたであろう。ところが、コングレス党内のコイララ派と反コイララ派の 対立は複雑かつ熾烈であり、とても一致して行動できる状態ではない。党内の一 派、たとえばコイララ派が国民民主党と組もうとすれば、反コイララ派は対抗上 、共産党と組み、コングレス党は完全に分裂してしまう。一方、キャスティング ボートを握ったはずの国民民主党にしても、議長のS・B・タパはコングレス党 との連立を求め、もう一人の有力者チャンド元首相(所属二〇議員のうち一三名 がチャンド派)はそれに反対し、これも身動きがとれない。結局、コングレス党 も国民民主党もそれぞれの党内事情のため動けなかった。
 派閥をもつ点では、共産党も例外ではない。現在の統一マルクス・レーニン 主義派共産党(CPNーUML)は、長い活動歴をもつ著名な長老活動家が中心 のマルクス主義派共産党(CPNーM)と、東部の急進的農民運動を母体として 生まれ、しっかりした地方組織をもつマルクス・レーニン主義派共産党(CPN ーML)が一九九一年に合流して成立したものである。この二大派閥の間にはイ デオロギー的にも政治手法上もかなりの相違があり、共産党も分裂の火種をもっ ている点では他の二大政党と大差ない。しかし、共産党は他の二大政党と比べる と、まだしも近代政党に近く、また結束すれば政権獲得が可能な位置にいた。共 産党は、政権獲得を求心力にして結束し、一致して選挙で第一党になった政党が 内閣を組織し政権を担当するのが憲政の常道だと繰り返し強く主張した。
 これに手を貸したのが国王である。選挙後、連立工作が次々に失敗し新政権 が成立せず、混乱が広がるのを恐れた国王は、一一月二八日に声明を発表し、四 八時間以内に首相を選出するように求めた。国王が自ら積極的に共産党を支援し たとは思えないが、この状況下での早期決定の要求は、結果的には、まとまって 行動しうる唯一の政党、共産党に有利に働いた。こうして、結局、共産党が国王 のある種の「支援」をえて単独で内閣を組織することになり、一一月二九日書記 長のM・M・アディカリが首相に指名されたのである。
 アディカリ内閣は、首相を含む一五名の閣僚で構成された。派閥的には、旧 マルクス主義派はアディカリ首相(七四歳)とその弟のB・M・アディカリ蔵相 くらいで、他の有力閣僚は、ジャパの急進的農民運動を指導したマイナリ兄弟( 兄のR・Kは農相、弟のC・Pは供給相)など、すべて旧マルクス・レーニン主 義派である。七四歳の首相をはじめ旧マルクス主義派の閣僚が高齢であるのに対 し、旧マルクス・レーニン主義派は国防省と外相を兼任するM・ネパール副首相 が四二歳、最急進派で党内で一五%位の支持を得ているとされるC・P・マイナ リ供給相が四三歳というように、四〇代が中心で若く、党の実権をほぼ握ってい る。首相はネパール副首相らの操り人形に過ぎない、といった極論もあながち否 定できないのである。
 アディカリ内閣をカースト別にみると、一五人の閣僚のうち、バラモン一〇 人、チェトリ二人、リンブー一人、ライ一人となっており、上位カースト寡占で ある。また当然かもしれないが、経済的にも豊かな人が多く、予想外の人事とし て注目された産業・水資源相のH・P・パンディは民族資本家代表とみられてい るし、アディカリ首相自身、三階建ビル、二〇ビガー(約五ヘクタール)の土地 、一三〇万ルピー(約二六〇万円)の預金、それに株式を所有資産として申告し ている。共産党内閣も富裕な上位カーストの議員を中心に構成されたのである。
 このようにみてくると、共産党はチャンスをうまくとらえ単独政権を打ち立 てたものの、衆議院の過半数を制していないこと、党内派閥の存在、富裕上位カ ーストによる党指導といった様々な問題を抱えていることが判る。このことは野 党に回ったコングレス党や国民民主党にもよく判っており、したがって彼らは共 産党政権は長続きしないとみている。G・M・シンや国民民主党のP・S・ラナ 書記長らが、選挙結果を尊重して共産党に政権を渡すべきだと主張したのも、そ のような計算があってのことであろう。事実、一二月一四日の議長選挙では、コ ングレス党はさっそく国民民主党と組んで共産党候補のC・P・マイナリを破り 、自分たちの推すR・ポウデルを議長に当選させている。共産党政権は、成立後 二週間にして早くも大きな挫折に見舞われたのである。


   五 共産党政権のジレンマ
 共産党政府は、政権基盤がきわめて脆弱であり、発足早々、様々なジレンマ に悩まされることになった。
 なかでも最大の難問は、国王との関係である。マルクス・レーニン主義から すれば世襲王制など容認できるはずはないが、これに手をつければ、政権は一日 たりとてもたない。そこで共産党はイデオロギー上の問題を棚上げにし、憲法主 義に徹する立場をとった。国王は憲法上の機関だから、国王が憲法を順守する限 り、これを支持するという立場である。また、これには共産党の党利も絡んでい た。政権基盤の弱い共産党政府にとって、国王は、日本を占領したアメリカ政府 にとっての天皇以上に利用価値があったのである。
 国王の権威を借りようとする共産党の思惑は、歴史的な「国王演説」となっ て結実した。一九九四年一二月二三日、共産党政府になりかわって、国王は両院 合同会議に参会した全議員を前に施政方針を読み上げたのである。荘厳な衆議院 本会議場の正面中央上段に据えられた玉座は他を圧する威厳に満ち、たとえ国王 が臨席していなくても、その玉座を仰ぎみただけで、人はそこに象徴されている 権威の偉大さに威圧され、自ずとひれ伏したくなる衝動を抑えきれないであろう (図3)。ましてやこの日は、ヴィシュヌ神の化身とも崇められる国王その人が 臨席し、玉座から自ら「わが政府」のために施政方針演説を読み上げたのである 。もはや共産党は、不信心な不逞の輩の徒党ではない。その政府は「陛下の政府 」であり、その政策は陛下の口から直に述べられた正統な政策である。「国王演 説」によって、共産党政府は国王の権威という強力な後光を手に入れることがで きたのである。
 しかし、代償も大きかった。共産主義に忠実たらんとする左翼急進派は、共 産党の無節操を激しく攻撃した。コングレス党などの保守派は、羊の皮を被った 狼、共産党に警戒せよと呼びかけた。こうした左右からの攻撃に対し、共産党は もっぱら憲法を盾に防戦したが、マルクス・レーニン主義と世襲王制との不整合 は覆いがたく、苦戦は免れなかった。
 国王との関係だけではない。一八ページにも及ぶ「国王演説」に盛られた共 産党政府の政策は、総花的で具体性に乏しく、革命的なことは何も含まれていな かった。ちなみに、主な政策を列挙すると、次のようになる。
  @政治  多党制民主主義の確立。経済と社会の民主化による平等社会の 実現。国   威と国益の擁護。行政改革による行政の効率化と腐敗防止。平和 五原則に基づく   外交。
  A経済  バランスのとれた開かれた経済体制の実現。生活物資の安定供 給と市場   効率化による物価の抑制。公営事業の民営化。外国援助の導入と 活用。国内企業   の育成。道路、ダム、空港等の建設。低所得者のための税 制改革。
  B農業  貧農のための土地制度改革。「村おこし運動」(Build Your Village Y   ourself)の推進。
  C教育  識字教育と職業教育の推進。高等教育の拡充。
  D人権・福祉  人権擁護のための法整備。基礎的な保健サービスの拡充 。
 この「国王演説」には、王制への言及は一カ所もないし、他の点でも革新的 な提案は一つもない。たしかに貧農のための土地制度改革を謳っており、本当に これが実行されれば大きな成果であるが、スローガンだけであれば、パンチャヤ ット時代から掲げられている。共産党政府にどこまでやる気があるか疑わしくな るのは、「伝統的な宗教活動の継続を保障した上で、グチ所有地をライカール所 有地に移行させる」といったように、ちゃんと留保条件をつけ、予防線を張って いるからである(ただし、この種の留保は憲法でも多用されているから、憲法の 精神に合致しているとはいえる)。もう一つ、目新しいように見える提案は「村 おこし運動」であり、「国王演説」の三日後に行われた「予算演説」では一村当 たり三〇万ルピー(約六〇万円)の予算がつけられているが、これもパンチャヤ ット時代の農村活性化運動と大差なく、野党からは共産党の人気取りのための補 助金ばらまき政策だと厳しく批判された。
 むろん、共産党らしいところがまったくないわけではない。「国王演説」で は、国王をして「わが政府は、非識字の貧しい抑圧された人民の生活水準を引き 上げ、平等社会を実現するために、効果的な政策をとる」といわしめた。また「 予算演説」ではアディカリ蔵相が、共産党は「これまで国家が無視してきた無産 の貧しい人民」の声を代弁し、彼らの生活向上のために政治を行うと公約した。 しかし、そのような、いわば社会主義的な政策の後にすぐ続けて、共産党政府は 、経済における保護主義の害悪を指摘し、経済成長のために「公正な競争の環境 が創出される」ことを主張する。また公営事業の民営化や、外国からの投資と援 助の積極的受入れも表明している。
 このよう見てくると、共産党政府の政策は理念的なものから具体的なものま で折衷と妥協ばかり、悪くいえば混乱と矛盾ばかりということになる。これはお そらく政策を立案している共産党自身にもわかっているであろう。しかし、ネパ ールの社会的、経済的、政治的現状を考えると、これはある程度やむを得ないと いわざるをえない。インドと中国にサンドウィッチのように挟まれた多民族の最 後発途上国。国民の大半が資本主義以前の自給自足に近い農村に住むこの国の共 産党を、マルクス・レーニンの理論によって、あるいは北側先進国の共産党を規 準にして断罪してみても、何の意味もない。ネパール共産党は、理念的・戦略的 レベルでいうと、一方では封建制からの近代化・資本主義化を唱え、他方では資 本主義批判を行わざるをえない。これは矛盾には違いないが、封建制から共産制 への飛躍の奇跡を信じない限り、共産党はこの根源的ジレンマから逃れられない 。ネパール共産党の評価は、このジレンマを直視しつつ、封建的搾取と資本主義 的搾取の二重の苦しみから人民をいかに効果的に救済していくかにかかっている 。
 また具体的・戦術的なレベルでいうと、ネパール共産党は、政権維持のため コングレス党政権の大部分の政策を継承せざるをえず、ここにもジレンマが生じ てくる。英字週刊誌『スポットライト』の編集主幹スシル・シャルマによれば、 共産党は現実的であろうとすれば、過去のコングレス党政府の政策を継承せざる をえないが、そうすると支持者である貧しい農民や労働者の支持を失う。逆に、 彼らの人気をえようとすれば、ネパールの現実とそれに基づく過去の政策を否定 し、実現不可能な夢のような政策を掲げざるをえないが、そんなことをしても非 現実的な政策は早晩行き詰まってしまう。どちらにせよ、共産党政権の挫折は免 れえないというのである。これはたしかに共産党政府の戦術上のジレンマであり 、「国王演説」でも「予算演説」でも、空想に傾いたり現実に近づいたりと、危 なっかしい。コングレス党の政策立案の中心人物であるラム・S・マハートにい わせれば、「国王演説」における共産党の政策は「知的破産」である。この辺の ことは、共産党の実際上の指導者と目されているM・K・ネパール副首相はよく 心得ており、そうした批判を想定し、こう予防線を張った。「われわれは一夜に して奇跡を起こすことはできない。われわれは神でも魔術師でもない。」ここで もネパール共産党の評価は、理想と現実の狭間でバランスをとり、政権を維持し 、いかに人民の権利を実現していくかにかかっている。
 ネパール共産党は、わずかのチャンスをうまく生かし平和理に政権を獲得し たが、長期にわたってこれを維持していくことはたいへん難しい。しかし、もし 彼らが深刻なジレンマを直視しつつ、残された狭い道を巧みに歩み、政権を相当 期間維持することによって人民の生活向上を実現できるなら、それは同じような 情況にある南の国々の左翼政党に少なからぬ影響を与えることになるであろう。

(注)
(1)小林茂「補欠選挙とその後」『日本ネパール協会・会報』第一二三号、 一九九四年三月
(2)No-confidence Motion Against the Prime Minister, New Era, Aug. 1994, pp.7-8.
(3)小林茂「混迷する政治情勢」『日本ネパール協会・会報』第一二六号、 一九九四年九月。Independent, July 13-19, 1994.
(4)New Era, Aug. 1994, pp.8-9.
(5)Milestone, Nov. 1994, pp.24-26.
(6)Spotlight, Nov.18, 1994, pp.16ff.
(7)Bino Bhattarai, Election '94 The New Reality, Spotlight, Nov.25, 1994, pp.11ff.
(8)L.B. Chand, RPP should now have a bigger role(Interview), Independent, Nov. 30, 1994.
(9)Ole Borre, S.R. Pandey and C.K. Tiwari, Nepalese political Behaviour, Sterling Publishers, 1994.
(10)Development Associates Nepal, Peoples' Verdict: An Analysis of the Results of General Elections 1994(Kathmandu, 1994), T.7.
(11)S.K. Khatri, Political Parties and the Parliamentary Process in Nepal: A Study of the Transitional Phase, in Political Science Association of Nepal, Political Parties and the Parliamentary Process in Nepal, POLSAN, 1992, pp.23ff.
(12)Spotlight, Dec.2, 1994.
(13)Spotlight, Dec.9, 1994.
(14)Spotlight, Dec.30, 1994.
(15)Royal Address by His Majesty the King to The Joint Sitting of The Two Houses of Parliament at its Eighth Session, Kathmandu: Department of Printing, Dec.23, 1994.
(16)グチ(guthi)とは本来宗教目的のための寄進地だが、私物化されて いるものが多い。ライカール(raikar)とは 政府所有地またはその耕作権。
(17)Budget Speech of the fiscal Year 1994-95, His Majesty's Government, 1994.
(18)Sushil Sharma, The UML Government Caught in a Dilemma, Spotlight, Dec.30.
(19)R.S. Mahat, Royal Address--Intellectual Bankruptcy, Spotlight, Dec.30.
(20)M.K. Nepal, We Can Not Do Miracles(Interview), Spotlight, Nov.25, 1994.
                           (一九九五年六月 )