報道に見るネパールの動き
                                                   谷川昌幸

共産党の分裂
 ネパール共産党・統一マルクス=レーニン主義者(CPN−UML)が分裂した。3月5日、ゴータム派議員がUMLから離脱しネパール共産党・マルクス=レーニン主義者(CPN−ML)を結成することを議会に届け出、翌6日承認された。これで旧CPN−UMLは残存のCPN−UML(M・アディカリ党首、M・K・ネパール書記長、56議席)と新党CPN−ML(S・プラダン党首、ゴータム書記長、46議席)の2政党に完全に分離した。「民主化運動」以降のネパール議会政治はコングレス党(NC)と旧UMLの2大政党を軸に展開してきたが、後者の分裂でこの大枠が崩れ、ネパール政治は新しい局面を迎えることになったのである。
 それにしても今回の分裂は不可解である。旧UMLは議会第1党であり、次の総選挙でも地方選に続き圧勝が予想されていた。大部分の党員には、統一が力であり分裂はNCを利するだけだということがよく分かっていたはずである。それなのになぜ旧UMLは分裂せざるを得なかったのであろうか。
 旧UMLの2大派閥、M・K・ネパール派とゴータム派の間には基本的なイデオロギーの差はなかった。両派とも「マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東」の共産主義を支持し、ネパール革命の理論としてはマダン・バンダリ元書記長の「人民的多党制民主主義」を承認していた。したがって両派の対立はイデオロギー的というよりは派閥的である。ネパール書記長は党権力を握っていたが、ゴータムの処遇には苦慮し、UML政権時には副書記長職を彼のためにつくり、チャンド内閣では副首相の席を用意した。他方、ネパール書記長はつねに「ゴータムの野心を抑える」ことも考え対策をとってきた。一部の報道によれば、今回の分裂の原因も、実際には、チャンド内閣時にゴータムが副首相兼内相の地位を利用してUMLに地方選大勝をもたらし一躍党の英雄になったため、これを恐れたネパール派がゴータム派抑制に走ったことだという。
 UML内紛の実態は派閥抗争かもしれないが、どのような闘争にも口実がいる。今回のUML内紛の場合、それはマハカリ条約であった。ゴータム派は以前から反マハカリ条約をネパール派攻撃に利用し、96年9月の中央委員会では1票差にまでネパール派を追いつめ、議会でも30名が党決定に従わなかった。以来、マハカリ条約はUMLに打ち込まれた楔となり、抗争のたびに深く食い込み亀裂を広げていった。
 両派の対立が決定的なものになったのは、第6回党大会(ネパールガンジ、98年1月25−31日)においてである。ネパール派とゴータム派は大会に集まった5万人の支持者と17カ国49代表の面前で激しく争い、負傷者さえ出し、分裂を決定づけた。大会は、代議員の80%を握ったネパール派の圧勝であった。中央委員ポストはゴータム派の選挙ボイコットでネパール派独占となり、執行部提案の次期活動方針案も承認された。これに対し、ゴータム派は大会終了後、中央委員ポストの40%以上の割り当てを要求し、また@インドは地域覇権主義国である、Aアメリカは帝国主義国である、Bマハカリ条約批准は誤りであった、と公式に宣言することを求め、ネパール派と虚虚実実の抗争を続けた。しかし、結局、両派の妥協はならず、3月5日ゴータム派はUMLから離脱しCPN−MLを設立するに至ったのである。
CPN−MLはイデオロギー的にはUMLと大差ない。3月13日採択の党綱領はマルクス=レーニン主義を党是とし、人民的多党制民主主義をネパール革命の理論として承認している。しかし両党は政治力学により2極化し激しく対立する可能性が高い。3月11日付インディペンデント社説がいうように、共産党指導者たちは権力に接近するとすぐに立場を変え現実化してしまう。この力学は両党の政策にも反映し、権力に近い方が現実主義化・社会民主主義化していくのに対し、他方はこれに反比例して益々急進化し対決姿勢を鮮明にしていくであろう。
 事実、旧UMLの分裂は直後から党地方組織や傘下諸団体の中に深刻な分裂抗争をもたらした。すでに党財産や地方組織の熾烈な分捕り合戦が始まっているし、全ネパール自由学生組合(ANNFSU)や全ネパール女性組合は分裂した。ネパール農民組合、全国民主青年組合、ネパール労働組合連合といった他の有力団体でもいずれの共産党を支持するかをめぐって混乱が生じている。これらの団体は動員力があるだけに、内部対立が昂進すると政治不安にまで発展する恐れがある。UMLとMLには公党としての良識が期待される。

タパ首相辞任、コイララ新内閣成立
 旧UMLの分裂、弱体化は、予想通りNCに有利に働いた。タパ首相は旧UML分裂による力関係の激変で政権を維持できなくなり4月10日辞任し、NCを中心に多数派工作が進められた。今度はNCは第1党で圧倒的に有利な立場にあり、UMLとMLを天秤に掛け、結局、閣外協力を申し出た第2党のUMLを選んだ。こうしてNC−UML−RPP(チャンド派)連合がなり、4月12日NC党首G・P・コイララが首相に任命され、18日議会で信任された。副首相にはS・アチャルヤ(副党首)、大蔵大臣にはR・マハトが任命された。
 こうしてビクラム暦の新年とともにコイララ新内閣が発足したことはめでたいが、今回の政権交代でも派閥的離合集散が幅を利かせたことは残念だ。UMLのネパール書記長は「UMLが全面的なNC支持を決めたのは、分派のMLを権力から遠ざけるためだ」とあからさまに述べている。これがネパール政治の実態だとすると、次のような願いは全く虚しいということになるのであろうか。
 「自己のイデオロギーの根本を曲げることなく憲法の枠内で状況に適応し指導するには、真の指導力が必要だ。UMLの分裂はこの数ヶ月で2回目の分裂だ。すでにRPPのタパ派とチャンド派が先に分裂している。現在議会第1党のNC内にも深刻な対立がある。この新しい政治状況を利用し王国の待望久しい政治再編を実現し、この国の政治を人脈よりもイデオロギーに、権力よりも原理に基礎づけることが目指されるべきであろう」(3月7日付カトマンズポスト社説)。
(使用資料)1998年1月1日〜4月20日の下記資料。The Kathmandu Post; The Rising Nepal; Spotlight; The Independent.

                              (ネパール協会『会報』第148号、1998年5月)