初期のネパール共産党        
                   谷川昌幸(『東北芸術工科大学紀要』 No.5, pp.208-219)

                     
1. ネパール現代政治と共産党
 ネパール共産党(CPN=Comuunist Party of Nepal)は、国王(国王派)、コングレス党(N
C=Nepali Congress)と鼎立する現代ネパールの三大勢力の一つである。ラナ家専制末期の
1949年に設立された共産党は、政府による弾圧や内部抗争を乗り越えて生長し、199
0年革命以後一気に勢力を拡大した。1994年の総選挙では88議席を獲得し、83議席
のコングレス党を僅差で抑えて第一党となり、共産党政府を樹立し、ほぼ1年間政権を維持
した*1。その後、キャスティングボートを握った国民民主党(RPP=Rastoriya Prajatantra
Party)と連立を組み、1997年3月から9月まで再び政権を担当している。
 地方自治体レベルでも共産党はこの数年急速に勢力を拡大している。ライバルのコングレ
ス党が名望家政党から脱皮できず内紛に明け暮れているのに対し、共産党は党創立以来、農
民や労働者の闘争を積極的に支援し、地域の党組織を育ててきた。その結果、地方政治での
共産党の優勢は構造的なものになり、1997年春の地方選挙でも共産党が全議席の57%
を占め、26%のコングレス党に圧勝した*2。国政レベルではまだ共産党とコングレス党の
力はほぼ拮抗しているが、地方政治の構造変化はいずれ国政レベルの勢力関係にも影響せざ
るをえないだろう。共産党がネパールの政党の宿痾ともいうべき内紛を抑制し分裂を回避す
れば、近い将来ネパール政治のヘゲモニーは共産党が握ることになる可能性が高い。
 このように見てくれば、ネパール現代政治研究にとって共産党研究がいかに重要かがよく
分かる。王政復古(1951年)に始まるネパール現代史は、当初から有力な政治勢力の一
つであった共産党を抜きにしては語れない。とくに90年革命以降の政治の理解には、共産
党研究は不可欠である。ところが、現在のところネパール共産党の研究はきわめて手薄であ
る。わが国では本格的な研究は管見の限りでは皆無だし、外国でもモノグラフとしては A.
Utschig, Nepali Communism: Internal Politics(1992) があるくらいなものである。
 ネパールの現代史や現代政治の研究はある程度行われているのに、政党史とりわけ共産党
史が少ないのは、研究上いくつかの困難があったからであろう。まず第一に、ネパール共産
党といっても、とくに1962年の党分裂以降は離合集散が甚だしく、一貫した党史が描き
づらかったことが考えられる。分裂後は、正確には「ネパール共産党―マルクス主義派」「ネ
パール共産党―マルクス・レーニン主義派」「ネパール共産党―統一派」というように限定
し、多いときには十数派にも及ぶ共産主義諸党派を区別しなければならない。ネパール共産
党の場合、正統派と分派との区別が必ずしも常にはっきりとしておらず、研究対象が限定し
にくかったのである。第二に、信頼できる資料の不足が考えられる。言論出版の自由が抑圧
されてきたネパールでは利用可能な文献資料が少ない。重要な事件でも生存している関係者
にインタビューし、事実を一から再構成しなければならない場合が少なくない。これは共産
党についてはとくに甚だしい。共産党史研究は資料面での制約が大きいのである。第三に、
共産党はパンチャヤット制下の30年間を含め幾度か非合法化され、地下ないし半地下の活
動を余儀なくされた。部外者が共産党の活動の詳細を知ることが困難なのは当然といえよう。
 しかしながら、こうした困難があることは確かであるが、共産党史の概略を様々な文献に
散在する共産党関係の雑多な情報を分析総合することによって描き出すことは必ずしも不
可能ではない。以下では、1949年の党設立前後から62年の党分裂の頃までの共産党史
を公刊されている諸文献を用いて可能な限り跡づけていくことにしたい。


2. ラナ体制の崩壊
 ネパール共産党は、反英闘争や農民運動を闘ってきたネパールの共産主義者たちによって
ラナ体制末期の1949年に設立された。当初、共産党はコミンフォルムの掲げる「共産主
義世界平和運動」の一翼を担うことを活動方針としたが、ネパールでは英米帝国主義はラナ
家と結託していると考え、当面の目標をラナ体制打倒に定めた*3。
 ラナ体制は、共産党がいうように、たしかにイギリス帝国主義をその最大の後ろ盾として
いた。ラナ体制(Ranarchy/Ranacracy)とは、1846年に「コトの大虐殺」を断行したジ
ャン・バハズール・クンワール将軍によって樹立されたラナ家の独裁体制のことである。ジ
ャン・バハズールは、1846年9月14日王宮のコトに集まっていた主だった廷臣を皆殺
しにして一挙に全権を掌握し、翌日には自らを首相に任命させた。ジャン・バハズールは勇
猛なだけではなく、国際情勢にも敏感であり、彼の政権が英国の支持なしには存続しえない
ことをただちに見抜いた。彼は内政の安定化を図る一方、英国に接近し、50−51年には
英国を訪問し、ビクトリア女王にも謁見し、英国によるラナ家認知を内外に知らしめた。
 またジャン・バハズールは権威による権力の一層の強化を図るため、1849年には名家
ラナ家に属しラナ姓を名乗ることを申し立て国王にこれを認めさせた。彼に始まる体制がラ
ナ体制あるいはラナ家専制と呼ばれるゆえんである。しかし、ジャン・バハズールはこれで
も満足しなかった。彼は首相職をいったん弟のバム・バハズールに譲って自ら国王になろう
としたが、さすがにこれは大義名分がなく成功しなかった。そこで彼は56年8月6日、自
ら擁立したスレンドラ国王に対し、おそらく強要して次のような勅令を出させた。
「朕は貴下にカスキとラムジュンのシュリ・マハラジャの称号を与える。両地のマハラジャ
として、もし朕が英国女王および中国皇帝との友好を損なうようなことを企てるならば、貴
下はいつでも軍司令官、国民および軍隊の支援をえて朕を制御すべきである。もし貴下のそ
のような行動に対し朕が実力を行使する場合には、朕の軍司令官と軍隊は貴下を支持すべき
である。首相のバム・バハズールが国の政治や軍事、公務員人事、中国皇帝および英国との
友好について過ちを犯すときはいつでも、貴下は彼に助言すべきである。もし彼が貴下の助
言を聞き入れず抵抗するときは、朕の軍司令官と軍隊は貴下のいかなる命令をも遂行するで
あろう。*4」
この勅令によってジャン・バハズールは、身分上国王(シュリ・パンチ)に次ぐマハラジャ
(シュリ・ティン)の地位と、首相を支配する権限を得た。そればかりか、勅令の文言をよ
く読めば、事実上軍隊の統帥権と国王に対する支配権さえも彼は手に入れている。身分上、
形式的には国王は存在するが、実権は明らかにマハラジャのものになった。そして、翌年弟
のバム・バハズール首相が死去すると、ジャン・バハズールは首相職を兼任した。こうして
ジャン・バハズールは強大な権力を持つマハラジャ兼首相の地位を確立し、これをラナ家の
世襲と定めた。これが、ラナ体制である。
 ジャン・バハズールに始まるラナ家の歴代首相は、対内的には絶対的権力を享受しつつも
対外的にはその権力の存立条件である対英友好関係の維持に細心の注意を払った。ラナ家の
対英協力は、英領インドがまだ安定的であり、ネパールが辺境の帝国勢力圏内土侯国とみら
れていた19世紀中はラナ家支配と最大限の内政不干渉を認めてもらうためゴルカ兵募集
などでイギリスのインド統治に協力するくらいで、必ずしもそれほど積極的なものではなか
った。イギリスからすれば、辺境の貧国ネパールはさして魅力ある国ではなく、イギリスの
勢力圏内で安定しておれば、インド統治のためにはそれで十分であった。他方ネパールから
すれば、イギリスはインドを支配する強国で、警戒しつつもその庇護下にあれば、国家とし
ての安全は保障された。イギリスにもラナ家にも両国関係をより緊密にしなければならない
切迫した事情はなかった。
 20世紀に入り、後発資本主義国との競争激化や民族主義運動の高揚でイギリスのインド
支配が動揺し始めると、ラナ政府は政権基盤としての英領インド帝国の維持とその枠内での
ネパールの最大限の国益の獲得のため、積極的な対英協力を始めた。1903年にはラナ政
府はロシアの南下政策に対抗するための英国のチベット遠征を軍事的、外交的に支援した。
第一次世界大戦では、ラナ政府の対英協力はゴルカ兵20万人の募集、ネパール国軍1万数
千人の貸与、軍事物資供与、情報提供など、全面的なものとなり、それらは主にインド統治
のために使われた。この貢献をてこに、ラナ政府は1923年友好条約でイギリスにネパー
ルが独立国であることを正式に認めさせている。
 第二次世界大戦でも、ラナ政府は第一次世界大戦のとき以上の積極的対英協力を行った。
しかし、ラナ政府の期待もむなしく、インドの民族主義運動が激化し、イギリスはインド支
配をあきらめ、戦後インドから撤退した。インドでは1946年9月ネルー暫定内閣が成立
し、翌年独立によりネルー会議派政府が発足した。
 これは、イギリスを警戒しつつも頼りにしてきたラナ政府にとって政権基盤を揺るがす深
刻な事態の変化である。ラナ政府は、これまで敵視してきたインド民族主義者がつくったイ
ンド政府に、今度は自らの庇護を求めざるをえなくなった。インド会議派政府からすれば、
独立運動に参加し共に闘ってくれたのはネパールの反ラナ派の人々であり、イギリスのイン
ド支配に加担したラナ政府を助けるいわれはないが、イギリスからネパール権益を継承する
ことは国益にかなうので、インド政府はラナ政府の存続を容認しようとした。
 しかし、ラナ政府が前近代的旧体制をそのまま温存することはもはや許されなかった。イ
ンド会議派政府のネルーは、国益の立場からネパールの安定化を第一に考え、そのためには
ネパールの一定の自由化、民主化が不可欠だと考えた。
「われわれはもちろんすべての国々、特にアジア諸国における自由の発展を望んでい
る。・・・・もし自由の発展がなければ、自由は自由自体を結局は破壊するような勢力を生み出
し助長するであろう。それゆえ自由は絶対に必要であり、われわれはネパールの内政のため
にも世界の民主主義と自由の諸勢力の動きに目を向けこれらと歩調を合わせるよう・・・・ネ
パール政府に対し、出来る限りの助言をしてきた。ネパール政府がそうしないのは現代の考
え方からして間違いであるばかりか、今日の世界の動向からみて賢明ではないからである。
*5」
ネルーは、中国共産主義のチベット進出がインド勢力圏のネパールにまで波及することをお
それ、ネパールの政権の安定と一定の民主化によりネパール内の反ラナ勢力が中国に接近す
るのを阻止しようとした。これはラナ政府にとって生き残りの最後のチャンスであったが、
長期の独裁政治に慣れたラナ家の高官たちには情況への適応力がなく、改革を拒み、時代遅
れのラナ体制に固執し続けた。
 結局、ネルーはラナ政府の民主化をあきらめ、トリブバン国王による王政復古と立憲君主
制の樹立を支援することになる。インド政府がどこまで具体的に関与したかは不明だが、王
政復古がインド政府の筋書き通り進行し決着したことは明らかだ。ネルーは1950年、王
政復古後につくられるべき体制の大枠をメモランダムで示した。
「インド政府の第一の目的は、ネパールが独立、進歩的で強固となることである。このため
インド政府は、・・・・憲法改正を急務だと考える。インド政府は次のことを提案する。(1)全
員が適切に選挙された議員からなる憲法制定会議を早急に開き、ネパールの憲法を起草する
こと。(2)この憲法制定会議開催までの間、世論を代表し人民の信頼を得た人々を含む暫定
政府を設立すること。この政府にはラナ家の代表を含み、その一人は首相となる。・・・・(3)
トリブバン国王は王国の利益のため国王の地位に留まること。*6」
そして翌年はじめ、ネルーはこれをトリブバン国王、ラナ家、コングレス党の三大勢力に受
け入れさせたのである。
 このいわゆる「ニューデリー協定」にもとづき、1951年2月18日王政復古がなり、
暫定的な立憲君主制の下でのラナ=コングレス連立政府が成立した*7。これによりネパール
は専制的なラナ体制から立憲君主制の民主主義体制へと転換した。これがネパールの「王政
復古」ないし「1951年革命」である。この王政復古は、2月18日が今日でも「民主主
義記念日」として祝われているように、たしかに一種の民主主義革命ではあったが、他方で
はそれがインドの国益のためインドが筋書きを書き実行させた限定的な改革にすぎないと
いうことも事実である。ネパール人民は、イギリス帝国主義に後見されたラナ体制からは解
放されたが、今度はインド大国主義を後見とするラナ=コングレス連立政府に統治されるこ
とになったのである。
 ネパール共産党は、このラナ体制の末期に結成され、反ラナ闘争を闘い、ラナ体制崩壊後
はインドと結託したと彼らのみるラナ=コングレス連立政府に対する反対運動を繰り広げ
ていくことになる。


3. ネパール共産党の設立と王政復古
 (1)ネパール共産党の設立
 ネパールの共産主義運動は、他の主要な政治運動と同じく、ラナ体制末期にインドで始め
られた*8。
 インドは、ネパールの上・中流階級の青年の留学先であり、カルカッタ、ベナレス、パト
ナなどの都市には多くのネパール人学生が留学していた。また、これらの都市には、ラナ政
府に弾圧された反体制派の亡命者も少なくなかった。インドの都市は鎖国状態のネパールと
は比較にならないほど文明化され国際的であって、ここで彼らは世界の新しい動向に触れラ
ナ体制の時代錯誤性を思い知らされ、またそのラナ体制を支えているイギリスのインド支配
の実態をじかに見聞し、その不当性を強く意識するようになった。彼らの多くは、ネパール
の民主化はもはや避けられないし、インドの独立はネパール人民のためにも必要だ、と考え
るようになったのである。
 一方、インドではラナ専制下のネパールとは違い、様々な政治勢力がそれぞれ独立闘争や
民主化運動を繰り広げていた*9。最大の政治勢力はもちろんインド会議派であって、これに
は在印ネパール人が多数参加し、独立闘争を共に闘っていた。たとえば、王政復古後の19
59年にネパール初の民選首相となり、82年の死に至るまでネパール・コングレス党(会
議派)を指導することになるB・P・コイララは、34年インド会議派社会党に入り、執行
委員として活躍した*10。ネパール・コングレス党は、B・P・コイララらインド会議派に
近い人々が中心になって、インド独立後の50年4月9日カルカッタで設立されることにな
る。
 インド共産党(CPI)は、インド会議派に次ぐ政治勢力であり、在印ネパール人にも大きな
影響を与えた。インド共産党は、独ソ戦の間は反ファシズム人民戦争の立場から反英闘争を
控え会議派から裏切り者呼ばわりされたが、第二次世界大戦終結後は反帝闘争の立場を鮮明
に打ち出し、イギリスだけではなくイギリス撤退後のインドをも警戒せざるをえないネパー
ル人たちを引きつけた。たとえば、インド共産党は1948年の第2回党大会で、インド会
議派政権を英米帝国主義と結びついた反人民的な反動政権と規定したが、これは独立後、直
ちに始まったインドの大国主義的干渉に反発するネパール人の心をとらえた*11。ネパール
共産党の指導者の一人D・P・アディカリは50年3月、「戦争になれば、英米はネパール
の空軍基地から平和と社会主義の祖国ロシアと中国を攻撃するだろう*12」と述べ、インド
会議派主導のネパール民主化を批判している。
 またインド共産党は労働者、農民の間に広く浸透し、各地の労働運動や農民闘争を指導し
ており、これも名望家中心の会議派に飽き足らないネパール人活動家たちを共産主義運動に
向かわせる大きな契機となった。とくにダージリン地方の紅茶プランテーションにおけるイ
ンド共産党の労働運動は、そこで働く多くのネパール人労働者の間に共産主義思想を広める
ことになったといわれている。
 インド共産党の影響を受けたネパール人のうち何人かはインド共産党に入党し、インド独
立の頃、ネパール領内で政治活動を始めた。彼らは東タライ地方の農民に向かって納税拒否
闘争を訴え、ビラトナガルの工場労働者のストライキを支援した。しかし、これらの活動は
単発的なものであり、彼らはまだ独自の組織をもっていなかった。
 これらの在印ネパール人共産主義者たちは、闘争を重ねるにつれ組織の必要性を感じ、1
946年に設立されていたネパール国民会議派(NNC)への接近を試みたが、反共に傾いてい
たインド会議派に近いネパール国民会議派は共産主義者との共闘を拒否した。そこでネパー
ル人共産主義者たちは、自分たち自身の党をつくることを決意したのである。
 こうしてネパール共産党は、1949年4月22日インドのカルカッタで設立されること
になった。この日集まったのは、ニランジャン・ゴビンド・ヴァイジャ、ナラヤン・ヴィラ
シュ、ナラ・バハズール、ドゥルガ・デビ、プシュパ・ラル・シュレスタの5人だけであっ
たが、後に他の有力活動家たちも創立メンバーとして加入した。設立のイニシアチブをとっ
たのは、プシュパ・ラルである。中央委員会の構成員は、マン・モハン・アディカリ、トゥ
ルシ・ラル・アマチャ、D・P・アディカリ、シャイレンドラ・クマール・ウパダヤ、ヒク
マト・シン・バンダリ、そしてインド共産党代表のアヨダヤ・シンであった。 設立後、ネ
パール共産党は労働者、農民を組織し、世界共産主義のための平和運動をネパールにおいて
推進するという基本方針を定めた。共産党の組織した「全ネパール平和会議」の決議の中で、
共産党はそれをこう説明している。
「われわれネパールの民主的・平和愛好的人民は、われわれの偉大な義務を遂行するものと
する。すなわち、われわれは平和のために闘わなければならないのである。英米の帝国主義
者たちはラナ政府と協力し戦争準備をしているが、ネパールを始めあらゆるところで平和運
動を推進すれば、それをくじくことが出来るであろう。*13」
この共産党の活動方針は、コミンフォルムの指令のオーム返しで、ラナ体制打倒というネパ
ールの目下の課題をみようとはしない観念論だったという批判もあるが、イギリス撤退後の
ラナ政府の背後に反共に傾斜しつつあるインド会議派がいるとすれば、それは必ずしも的外
れとはいえない。共産党はインド会議派の支援でラナ体制が継続することを恐れていたので
ある。

 (2)共産党と王政復古
 1949年に設立されたネパール共産党は、ラナ体制の打倒を目指したが、設立直後で弱
体であったため統一戦線を組んでラナ政府に対抗しようとした。共産党が期待していたのは、
1950年にB・P・コイララのネパール国民会議派(NNC)とスバルナ・シャムシェルのネ
パール民主会議派(NDC)が合併して成立したネパール・コングレス党(NC)である*14。ところ
が、コングレス党は共産党のこの申し入れを拒否した。そこで、共産党はネパール・コング
レス党を「スバルナ・シャムシェル=B・P・コイララのグループからなる国家資本家ブル
ジョアジー」の代弁者、ネルー反動政府の手先と非難し、コングレス党が中心になって始め
た50-51年の反ラナ実力闘争を支持しようとはしなかった。51年9月の共産党第1回
党大会では、コングレス党の実力闘争は「一方のトリブバン=スバルナ=コイララ・グルー
プと他方のモハン・シャムシェル=ラナ・グループ」との妥協を強制しようとする「英米帝
国主義者とネルー政府」の干渉のため革命とはなりえないものであった、と総括された。
 しかし、共産党の非難と抵抗にも関わらず、先に述べたようにネルー政府の強引な介入で
1951年1月デリー協定が受け入れられ、2月18日トリブバン国王による王政復古がな
り、立憲君主制の暫定政府が発足し、同年3月立憲君主制の暫定憲法が公布された。これに
より104年に及ぶラナ家専制体制が廃止され、ネパールが民主化に向け一歩踏み出したこ
とは事実であるが、他方で暫定政府は国王、ラナ家、コングレス党の妥協の産物であり、首
相は引き続きラナ家のモハン・シャムシェルが務め、大臣はラナ家とコングレス党とで分け
あった。すなわち、ラナ家は閣内序列1(モハン首相)、2、5、7、9位の5大臣をとり、
コングレス党は3(B・P・コイララ内相)、4、6、8、10位の5大臣をとった。R・
シャハによれば、ネパール政治の妥協による安定を求めたネルーは、共産党抜きのこの暫定
政府を理想的構成と考えていた*15。
 これに対し共産党は、コングレス党がラナ家と妥協しラナ家のモハンを首相とする連立内
閣をつくったことを革命に対する裏切りとして激しく非難し、反政府活動を継続した。たと
えば共産党は、コングレス党の不満分子であり妥協を拒否して西ネパールで反政府活動を続
けていたK・I・シン派を支援した。これに対し、連立政府のB・P・コイララ内相は、イ
ンドの警察と軍隊の出動を要請しシン派の反乱を鎮圧した。これは共産党の反政府キャンペ
ーンに絶好の口実を与えた。共産党は、コングレス党をインド政府と結託した反動政党とし
てさかんに非難攻撃した。
 このラナ=コングレス連立政府に対抗するため、共産党はすでにインドで設立していた
「全ネパール平和会議」に加えて、1951年には「農民組合」「女性協会」「学生連盟」
など多くの傘下団体をつくった。また他方で、共産党は反政府統一戦線の立場からタンカ・
プラサド・アチャリヤのプラジャ・パリサドとばかりか親ラナのゴルカ・ダルとも手を組み、
51年6月のネルーのネパール訪問の際は「黒旗デモ」を行った。51年10月には、共産
党はプラジャ・パリサド、ネパール青年組合、全ネパール労働者組合、全ネパール女性協会、
社会改良協会、全ネパール学生連盟などの諸組織を糾合して「全人民統一戦線」を設立した。
11月の宣言で統一戦線は、ラナ=コングレス連立政府はネルー政府の道具でありネパール
企業の三分の二はインドに握られていると非難し、また「膨張主義的戦争主義の英米陣営」
や中国との友好促進を妨害するインドを批判した。
 こうした反政府活動の盛り上がりを背景に、共産党は1951年9月、初の大規模な党大
会を開催した。参加した党の有力メンバーはすべてプチブル・インテリである。プシュパ・
ラル・シュレスタとトゥルシ・ラル・アマチャは中流ネワール、マン・モハン・アディカリ
とD・P・アディカリはインド留学帰りのブラーマン、ラヤマジは地主カトリ、カマル・シ
ャーはムスリムである。この党大会には、左翼インテリのマニク・ラル・シュレスタも自派
のガンガ・ラル・シュレスタとモティ・デビ・シュレスタを出席させたが、意見が合わず、
彼ら自身の党「赤色共産主義連盟」を結成した。党大会では、先に述べた反政府統一戦線の
推進や、中国の労農人民民主主義をモデルとすることが決定された。
 このように、共産党はインド主導の王政復古を認めず、ラナ=コングレス連立政府に対す
る抵抗運動を進める一方、党自身の基本政策を固め、党組織を拡大し始めたのである。


4. 暫定憲法から1959年憲法へ
 (1)暫定憲法体制と共産党
 ニューデリー協定に基づくラナ=コングレス連立政府は、ネルーの支援にもかかわらず1
年ももたなかった。ネルーは、国王、ラナ家、コングレス党の三大勢力の均衡によるネパー
ル政治の安定をねらったが、与党の内紛と野党の反政府活動のためモハン首相が1951年
11月辞任し、連立政府は崩壊した。これを機に、ラナ家は宮廷や軍隊で隠然たる力を維持
しはするものの、政治勢力としてのまとまりを失い、政治の表舞台から退場する。そしてラ
ナ家に代わって国王が力を回復し、最大勢力であるコングレス党とことあるごとに対立する
ようになった。勢力関係はラナ対反ラナから、国王対反国王に変わったのである。
 ところで、この頃の体制をどう呼ぶかはまだ定説がないようだが、最高規範である憲法に
注目するなら、1951年の王政復古から59年までは暫定憲法(51年3月公布)の時代
であったので、暫定憲法体制と呼ぶのが適当であろう。もっとも暫定憲法体制と呼ぶにして
も、この8年余りの変化は著しい。先に述べたように51年末で政治勢力の基本的対抗関係
は国王対反国王に変わったし、それ以後のいずれの政権も1年ほどしか続かず、しかもそう
した政治変動の中でニューデリー協定を前提とする暫定憲法のある部分は改正され、別の部
分は無視された。しかし少なくとも形式的には暫定憲法は59年まで存続したので、この時
代の体制を暫定憲法体制と呼ぶことにする。
 暫定憲法の下で政権は10回交代した。この頻繁な政権交代のそれぞれについて説明する
のは煩雑だし、細部にあまりこだわると大局が見えなくなるので、ここでは政権交代を一覧
表にまとめておく(表1参照)。
          表1   政権一覧表 1951-1963

  存続期間        政  権 首  相

1951.2.18―51.11.12  ラナ=コングレス連立内閣   モハン・シャムシェル
1951.11.16―52.8.10  コングレス党内閣      M・P・コイララ
1952. 8.14―53. 6.14  国王顧問会議        ケザール・シャムシェル
1953. 6.15―54. 2.17  国民民主党内閣       M・P・コイララ
1954. 2.18―55. 3. 2  挙国連立内閣       M・P・コイララ
1955. 4.14―56. 1.26  国王顧問会議       S・G・シン
1956. 1.27―57. 7.13  プラジャ・パリサド内閣  T・P・アチャリヤ
1957. 7.26―57.11.14  K・I・シン内閣      K・I・シン
1957.11.15―58. 5.14  国王親政      (マヘンドラ国王)
1958. 5.15―59. 5.26  大臣会議         スバルナ・シャムシェル
1959. 5.27―60.12.15  コングレス党内閣     B・P・コイララ
1960.12.26―63. 4. 1  暫定大臣会議      ツルシ・ギリ、B・B・タパ他
                           (Gupta(1993),pp.273-6)
 この表1からは必ずしもはっきり読みとれないかもしれないが、国王がこれほど頻繁に政
府を取り替えたのは、国王が政治の主導権を巡ってコングレス党、とくにその主力である
B・P・コイララ派と綱引きをし、出来るだけ国王に有利な政権をつくろうとしていたから
である。国王の政治介入は、王政復古の頃から始まっていたが、トリブバン国王は性格的に
温厚でインドに王政復古の恩があり王権の基盤も整っていなかったので、遠慮がちであった。
ところが、1953年3月トリブバンが死去しマヘンドラが即位すると、国王の政治介入は
露骨となり、政党側との対立が激しくなっていった。国王は機会を見つけては王権の拡大を
試み、そのたびごとに政党側と衝突した。ニューデリー協定に基づく暫定憲法では、52年
末までに選挙に基づく憲法制定会議が開かれなければならないが、国王側はそれをズルズル
引き延ばし、57年10月には無期延期を発表した。これに政党側は激しく反発し、コング
レス党、国民コングレス党、プラジャ・パリサドなどの諸政党が幅広い統一戦線を組んで抵
抗したため、マヘンドラ国王は59年2月18日に総選挙を行うことを約束せざるをえなか
った。
 こうして国民の関心は59年2月の総選挙に向けられることになったが、ここで国王は決
定的な布石を打った。ニューデリー協定では、民主的に選出された議員からなる憲法制定会
議が開かれ暫定憲法にかわる正式の憲法が制定されることになっていたが、国王は民主的憲
法制定会議を認めず、自ら憲法をつくり、これを選挙直前の59年2月12日に「ネパール
王国憲法」として公布した。ここから新しい59年憲法体制が始まるのである。
 ネパール共産党は、この1951-59年の暫定憲法体制の下で党勢拡大を始めようとし
たが、その矢先の52年2月、ラクシャ・ダルのクーデタに絡んで禁止されてしまった。ラ
クシャ・ダルはコングレス党の軍事組織ムクチ・セナの隊員を中心につくられた政府の民兵
隊ないし武装警備隊だが、M・P・コイララ政府の親国王、親インド政策に不満を持ち、5
2年1月22日反乱を起こし、主要な官庁や空港、ラジオ局などを占拠し、中央監獄に収監
されていたアグニ・プラサド・カレル(全ネパール国民大会議)やK・I・シンを解放した。
ラクシャ・ダルは民衆に人気のあったK・I・シンを指導者に担ごうとし、シンもそれに乗
ったふりをして国王に対印・対中等距離外交の要求を出して時間稼ぎをし、仲間を逃亡させ、
自分もチベットへ脱出した。ラクシャ・ダルのクーデタは国王が派遣した軍隊によって鎮圧
された。
 共産党は、当初ゴルカ・ダルのクーデタには関与していなかったが、この反政府闘争を利
用しようと考え、K・I・シンの全政党連立政府の提案を支持し、いくつかのデモを組織し
た。そのため、K・I・シンが脱出し、クーデタが頓挫した翌日の52年2月24日、共産
党は禁止され、党幹部は地下に潜ることになった。
 共産党は禁止されたが、警察の追及はそれほど厳しくなく、党幹部や活動家はいわば半地
下にいて、傘下諸組織を通して半ば公然と活動した。1953年9月のカトマンズ市議会議
員選挙では、共産党は共産党系候補を立て、50%近くの票を得て、5ないし6人を当選さ
せた。カトマンズでは、「市民の自由擁護委員会」を通してさかんにストライキやデモを行
い、東部タライでは「全ネパール農民組合」に農民を組織し、1954年には14万人の組
合員と103の村委員会を擁するまでになった。
 1954年、共産党はカトマンズで全党大会を開き、一層急進的な活動方針を決定した。
@「封建的」王制に対する闘争の継続。A選挙に基づく憲法制定会議を設立し、ここで共和
制憲法を制定し、王制を共和制に改める。B大・中土地所有者から保障なしで土地を没収す
る。この決定を受けて、共産党政治局は54年2月20日、次のような決議を宣言した。
「国王は前の支配者ラナ家に劣らず封建地主の利益を代表し、この国における民主主義の前
進に反対し、あるいは土地改革、国内産業育成、行政・司法改革はいうに及ばず、人民に当
座の政治的・経済的救済を与えることにさえ反対してきた。*16」
この王制否定の急進的な方針は、共産党に同調してきた多くの人々を共産党から離反させ、
共産党の孤立を招いた。共産党の進めてきた進歩的諸勢力の統一戦線や全政党連立政府は不
可能になってしまった。
 1年後の1955年11月、共産党は全党大会を開き、従来の方針の誤りを認めた。「な
ぜ党綱領を変えるのか?」と題した文書において、中央委員会は50年以来の反王制急進政
策が結果的には王制強化をもたらしたことを認めた。「ネパールにとって共和制の方が君主
制や立憲君主制よりも適している」ことは確かだが、「農民や人民の多数が・・・・君主制打倒
闘争のために統一されていない限り」、反君主制をスローガンにして闘うのは不毛だ。共和
制や土地没収の主張は、「広範な統一戦線」の結成を妨げてきた、というのである*17。
 ところで、この頃、国王は1953年に即位したマヘンドラであった。彼はインドの干渉
や諸政党の抵抗を排除し王権を強化することに余念がなかった。おそらく、そうした計算が
働いたのであろう、国王は56年1月、プラジャ・パリサドのタンカ・プラサド・アチャリ
ヤを首相に任命した。アチャリヤは、51年革命に賛成し、国王に近く、かつ左翼であった。
彼は「自称左翼の素人マルクス主義者」であり、プラジャ・パリサドは「共産主義、社会主
義、〔インド会議派型〕新社会主義およびレーニン主義」を支持し、ロシア型の「無階級社
会」を目標にしていた。彼は、反インド、親中国であり、51-52年には共産党と統一戦
線を組んだこともあった。彼は、もし共産党が立憲君主制を認めるなら、党禁止を解除する
と提案した。この提案の背後には、むろん彼とつながりの深い国王の承認があったものと思
われる。
 共産党は、この提案をめぐって動揺した。ケシャブ・ジャング・ラヤマジらの右派は立憲
君主制支持であった。プシュパ・ラル・シュレスタらの左派は、共和制を目標とすることを
放棄すべきではないと主張した。結局、立憲君主制を暫定的に認めるとの両派の妥協がなり、
これを受けてアチャリヤは共産党の合法化を国王に助言し、1956年4月共産党は国王に
よって合法化された。そしてマン・モハン・アディカリ書記長は、共産党は立憲君主制を支
持すると公式に表明した。
 合法化された共産党は、T・P・アチャリヤ内閣の親中国政策や平和五原則を支持した。
しかし、右派のこうした国王よりの方針に対し、左派は激しく抵抗した。ラヤマジ派が社会
主義のコングレス党政権よりも王政の方が共産党にとっては好ましいと主張したのに対し、
プシュパ・ラルは封建的王制打倒がつねにかわることのない党の方針でなければならないと
反論した。ラヤマジ派は中央委員会を押さえていたが、左派は首都カトマンズで優勢であり、
また地方組織、とくに東タライで幅広く支持されていた。政治局も時には左派の主張に押さ
れ、たとえば1957年にはD・P・アディカリが、農業国のネパールでは農民のみが「ネ
パール民主主義革命の先駆者」になりうると宣言し、これに呼応して親中国のプシュパ・ラ
ル派が東タライで幾度か農民反乱を引き起こした。
 右派と左派の対立は、1957年5-6月にカトマンズで開かれた第2回全党大会でより
鮮明となった。中央委員会はラヤマジ派の線に沿った決議案を大会に提出した。それは「永
続革命」を自殺行為とし、土地国有化を「幼児的左翼主義」と決めつけた。書記長のラヤマ
ジは、開会式でこう述べている。
「後進的諸条件の下では、社会主義を語るのは非現実的であるばかりか愚劣でもある。人民
の民主主義実践の基礎が作り出されるまでは、つまり産業の発展により国内に資本が蓄積さ
れるまでは、社会主義や共産主義を語ることはおろか、共和制民主主義への道を見つけるこ
とも難しい。したがって、民主主義を発展させることが、共産党の当面の目標となるであろ
う。*18」
プシュパ・ラル派はもちろんこれを認めず、共産党は来るべき憲法制定会議において君主制
廃止を提案すべきだと要求した。
 しかし国王が1957年10月、憲法制定会議の開催を無期延期すると発表すると、コン
グレス党、プラジャ・パリサド、ネパール国民会議派は民主戦線を組織し市民的抵抗を始め、
これにプシュパ・ラル派の圧力に屈した共産党も同調した。ところが、国王が59年2月に
総選挙を実施すると発表すると、国民戦線は抵抗運動をやめ、共産党ではラヤマジ派が再び
力を回復した。ラヤマジはこう述べる。
「われわれは立憲君主制を支持する。われわれは国民の最高指導者の威信を傷つけるいかな
る行為にも反対である。国王が定められた選挙日は全く合理的だ。市民的抵抗運動を再開し
ようとする民主戦線の企ては有害といわざるをえない。*19」
ラヤマジは国王を国家の最高指導者と認め、コングレス党よりも国王の側についたのである。

 (3)1959年憲法体制と共産党
 マヘンドラ国王は、1958年2月1日の宣言で、新憲法はトリブバン国王や彼自身が約
束していた憲法制定会議により制定されるのではなく、彼自身が制定し、これに基づいて5
9年2月18日の選挙を行うと発表した。これに対し、共産党左派はもちろん反対し、北ガ
ンダキ地区委員会は約束通り憲法制定会議を開くことを求めることを決議した。ところが、
共産党中央委員会はあっさりと国王宣言を容認し、体制内改革の立場を表明した。
「国内の民主的諸勢力が手を組んで努力すれば、議会を強力な機関にすることが出来る。こ
の目標を達成するため、共産党は今後、国王から賜る憲法は民主的なものでなければならな
いというスローガンを掲げる。*20」
ラヤマジ派主導の共産党は国王与党に近くなり、58年6月には2人の党員が国王顧問会議
の大臣に指名された。
 総選挙直前に憲法を公布するという国王のこの作戦は巧妙であり、共産党も他の政党と同
じく憲法論議を棚上げにし、ネパール初の総選挙に没頭した。選挙キャンペーンで、共産党
は王制廃止や土地没収は主張せず、攻撃をもっぱら「人民の敵」であるコングレス党とゴル
カ・パリサドに向けた。外交政策では、@イギリスのゴルカ兵募集センターの廃止、A印ネ
通商条約の改正、B「アメリカの侵入」への抵抗を掲げた。
 総選挙は、1959年2月18日から4月3日にかけて行われた。選挙権は21歳以上、
被選挙権は25歳以上で、小選挙区制により109議員を選出する。選挙は予想以上に順調
に行われ、投票率は約43%であった。選挙結果は次の表の通りである*21。
表2  1959年総選挙の結果

   政 党    立候補者(人)当選者(人)得票率(%)

コングレス党 108 74 37.2

ゴルカ・パリサド 86 19 17.3

 統一民主党 86 5 9.9

 共産党 47 4 7.2
(Gupta(1993), p.146)
                
 これは共産党の惨敗であり、当然、柔軟路線をとった党指導部への批判が高まり、共産党
は再び体制批判を強めていく。59年6月のジャナクプールでの全党集会で、共産党は選挙
後に成立したコングレス党政府を「反人民的」と呼び、インドのチベット介入を非難した。
9月にはラヤマジ書記長はこう述べている。
「われわれには二重の課題がある。一つは、政府の政策に対する人民の現在の不満を大衆運
動に導き、独裁的政策から人民の権利と利益を守ること。もう一つは、反動的、復古的勢力
の影響から人民を守ること・・・・。*22」
しかし、この段階では共産党はまだラヤマジの指導下にあり、基本的には改良主義的であっ
た。


5. 国王クーデタと共産党の分裂
 マヘンドラ国王は、総選挙で圧勝しインドの支持を背景に土地改革や行政改革に着手しよ
うとしたB・P・コイララのコングレス党政府に危機感を募らせ、1960年12月15日
大臣や主だった政治家を逮捕し、非常事態を宣言し、政党を全面禁止にしてしまった。以後、
国王は90年革命に至る30年間にわたって政党なき国王独裁政治を行うことになる。
 このネパール現代史の転機において、共産党は奇妙な態度をとった。国王はコングレス党
を厳しく弾圧したが、共産党に対しては目こぼしをし、共産党もむしろそれに迎合したので
ある。コングレス党の主な政治家たちは逮捕され、国王への忠誠を誓うまで釈放されなかっ
たが、共産党については、逮捕されたのは中央委員会の3人だけで、しかもすぐ釈放され、
政治局の5人は逮捕されさえしなかった。形式的に逮捕状は出ていたが、共産党の活動家た
ちは自由に政治活動を続けた。
 国王クーデタのとき、ラヤマジはモスクワに行っていて不在だったが、61年1月中旬に
帰国すると、彼の指導の下に共産党はクーデタを容認する態度をとった。むろん、これに対
してプシュパ・ラル派は激しく抗議し、解散させられた議会の再開を求める運動を始めるよ
う党指導部に要求した。プシュパ・ラル派よりも急進的な人々は、憲法制定会議を開いて新
憲法をつくり、共和制を実現せよと主張した。ラヤマジ派と反ラヤマジ派の対立は激しくな
ったが、61年3月の中央委員会秘密全体会議ではまだラヤマジ派がわずかに優勢で、党の
指導権を握っていた。ラヤマジと国王が近い関係にあったことは、いくつかの事件で傍証さ
れる。61年7月、反ラヤマジ派の密告のせいだといわれているが、ラヤマジが警察に逮捕
されたが、1ケ月後には国王への忠誠宣誓書に署名しないのに釈放された。9月には、ラヤ
マジはモスクワ行きのパスポートを発行してもらっている。
 共産党内のラヤマジ派とプシュパ・ラル派の対立は、1961年末の中央委員会で決定的
となった。プシュパ・ラルが「国王独裁」を革命によってでも打倒せよと主張したのに対し、
ラヤマジ派はそれを反党的として糾弾した。そのため、結局、62年4月の第3回党大会を
転機にプシュパ・ラル派はラヤマジ派と訣別し、インドに逃れ、そこで彼ら自身の党活動を
始めた。これに対し、カトマンズの党書記局は、プシュパ・ラル派を「中央の指導に反して
謀略をたくらみ、党生活のレーニン主義的規則を破り、党の統一を覆す分派活動に狂奔して
いる」として非難した*23。
 プシュパ・ラル派は、1962年5月、ベナレスで党大会を開き、@王制打倒、Aラヤマ
ジ、シャンブ・ラム・シュレスタ、カマル・シャー、D・P・アディカリ、P・B・マッラ
らの親国王的反党分子の中央委員会からの追放、を決議した。そして、新たに19人の中央
委員を選び、51人からなる全国委員会を設置した。こうして、共産党は立憲君主制の右派・
ラヤマジ派と、共和制の左派・プシュパ・ラル派に分裂した。7月、ラヤマジ派も正式にプ
シュパ・ラル、ツゥルシ・ラル・アマチャ、ヒクマト・シンを党から追放した。
 左派を切り捨てたラヤマジ派共産党は、ますます国王に接近し、国王との一種の共闘を唱
え始めた。同派共産党のスポークスマンは、こういっている。
「歴史的必然と事柄の性質からして、国民戦線のリーダーシップは、国民統一の始祖である
ばかりかその象徴でもある陛下にどうしても取っていただかねばならない。全国民も外国の
ネパールの真の友人たちも陛下を全面的に信頼している。陛下の偉大な人格を用いることが
国家統一に非常に役立ってきたのと同じように、陛下が国民戦線の形成を宣言しそれを指導
されることが適切である。・・・・国民戦線は政党ではなく、陛下のリーダーシップは党派性を
決して意味しない。むしろ、それは平等化を助長し、国民統一を促進するであろう。*24」
 ラヤマジ派共産党は、国王が王宮にナショナリズムの立場に立つ諸党派を召き、国民統一
戦線について協議することさえ真面目に提案した。共産党と国王との共闘は奇怪と見えるか
もしれないが、両者にはそれぞれの思惑があった。共産党は形式的には非合法であっても、
自らの細胞を国王公認のパンチャヤットや階層別諸組織に浸透させていき、党勢拡大が出来
るし、国王は共産党を使って最大勢力であるコングレス党とその背後にあるインドを牽制し、
ネパールの独立を強化できる。イデオロギーを棚上げにし、現実的に国内政治と国際政治の
力のバランスを計算すると、共産党と国王の共闘はあり得ないことではなかった。
 国王クーデタの2年後の1962年12月16日、国王は独裁体制の安定化と、中印紛争
によるインドの対ネパール政策軟化を背景に、「パンチャヤット憲法」を公布した。パンチ
ャヤット制は、政党禁止と段階的間接選挙を二大原則とする「ネパール型民主主義」であり、
イデオロギーを別にすれば、いわゆる「民主集中制」に近い。ラヤマジ派共産党は、このパ
ンチャヤット制をも容認し、むしろ積極的にそれを利用しようとした。ラヤマジは、国王顧
問会議の議員に列せられ、中央委員会の元委員は副大臣に任命され、さらに共産党員(公式
には無所属)が国家パンチャヤット(国会)の副議長に選出された。国家パンチャヤットの
議員の15%は共産党系議員だったという。しかし、このラヤマジ派共産党の体制内化は、
もちろん左派の激しい非難を受け、共産党は学生や青年知識人、そして一般の党活動家たち
の支持を失っていった。
 共産党と国王およびコングレス党とのこの関係は、今日のネパールの政党政治をみるとき、
きわめて示唆的である。しかし、62年以降はパンチャヤット憲法体制となるので、これ以
後の展開は稿を改めて考察することにしたい。
 




*1 谷川昌幸(1995)「ネパール共産党政権の成立」(『ars』第3号,1995年3月);
CRPS& DEAN(1994), People's Verdict, An Analysis of the Results of Gener
al Elections  1994(Kathmandu: CRPS & DEAN), 参照。
*2 The Rising Nepal, 6 Jun. 1997.
*3 ラナ体制については多くの文献がある。邦語文献としては、西澤憲一郎(1985)『ネパ
ールの歴史―対インド関係を中心に―』(勁草書房)が最も詳しく、西澤憲一郎(1987)『ネ
パールの社会構造と政治経済』(勁草書房)と合わせ読めば、ラナ体制期の政治史の概略は
ほぼつかめる。英語文献としては、Shaha, Rishikesh(1990), Modern Nepal, A Political
History 1769-1955, 2 vols(New Delhi: Manohar Publications) の分析が明快である。
本節では、上記3文献を使用した。これら以外の文献としては、次のようなものがある。Se
ver, Adrian(1993), Nepal under the Ranas(New Delhi: Oxford & IBH); Prasad, Sh
wari(1996),The Life and Times of Maharaja Juddha Shumsher Jung Bahadur Ran
a of Nepal(New Delhi: Ashish Publishing House); Rana, Pramode Shamshere(1995),
Rana Intrigues(Kathmandu: R. Rana).
*4 Shaha(1990), I, p.247.
*5 Bhasin, A.S.(ed.)(1994), Nepal's Relations with India and China: Documents 19
47-1992, 2 vols(Delhi: Siba Exim Pvt.), I, p.37.
*6 Shaha(1990), II, pp.228-9.
*7 君主制を中心としたネパール憲法史については、谷川昌幸(1997)「ネパール現代政治
と君主制」(『ワールドトレンド』第27号、アジア経済研究所)参照。
*8 以下、ネパール共産党史の一般的記述には次の文献を使用した。Utschig, A.(1992), N
epali Communism: Internal Politics(Research Report); Rose, Leo E.(1965), Communi
sm under High Atmospheric Conditions: the Party in Nepal, in Scalapino, Robert
A.(ed.), Communist Revolutions in Asia: Tactics, Goals and Achievements(New Jers
ey: Prentice-Hall Inc.); Gupta, A.(1993), Politics in Nepal 1950-60(Delhi: Kalinga P
ublications).
*9 この時期のインド政治史については、中村平治(1993)『南アジア現代史T・インド』
(山川出版社)、サルカール(1993)『新しいインド近代史U』(長崎ほか訳、研文社)等
を使用した。
*10 B・P・コイララについては、Mishra, K.(1994), B. P. Koirala, Life and Times(N
ew Delhi: Wishwa Prakashan); Chatterji, B.(1990), B. P. Koirala, Portrait of a Rev
olutionary(Culcutta: Minerva Publications) 参照。
*11 1951年の「インド共産党綱領」によれば、ネルー政府は英・米・仏のアジアでの
軍事行動に加担し、また「イギリス帝国主義者に対するこの〔軍事的従属という〕屈辱にく
わえて、インド政府の政策は、わが国の経済と生活のなかに、国務のなかに、アメリカ帝国
主義の侵入を許す結果になっており、アメリカ資本にも隷属する危険にわれわれをおとしい
れている」(三一書房編集部編(1954)『各国共産党新綱領集』三一書房、56頁)。
*12 Gupta(1993), p.200.
*13 Ibid., pp.200-201. ちなみに「インド共産党綱領」はこう述べている。「インドには、
平和と平和な発展が必要である。・・・・/平和のおもな敵、そして侵略戦争の弁護者は、いま
ではアメリカ合衆国であり、アメリカは自分のまわりにあらゆる侵略国を結集してい
る。・・・・/そこで、インド共産党は、つぎのことを保障することが必要であると考えている。
/[50]平和を愛するあらゆる国と同盟して、誠実で終始一貫した平和政策をとり、これら
の国との統一戦線をむすんで、侵略者に反対すること。・・・・/[52]パキスタン、セイロン
そしてネパールとの同盟と友好の政策。」(三一書房編集部編(1954)、69-71頁)。*14
ネパール・コングレス党については、Parmanand(1982), Nepali Congress since Its Ince
ption(Delhi: B.R. Publishing Co.) 参照。
*15 Shaha(1990), II, p.250.
*16 Gupta(1993), pp.203-4. インド共産党も1951年の「綱領」で、「外国帝国主義
―おもにイギリス帝国主義にむすびついている地主=資本家国家の憲法」である現行憲法を
改め、@人民主権の1院制議会、A地主の土地没収、B国内産業の育成、などを実現せよと
主張していた(三一書房編集部編(1954)参照)。
*17 Rose(1965), pp.348-9.
*18 Ibid., p.351.
*19 Ibid., p.351. ちなみに、1957年6月の共産党役員は次の通りである(数字は席次)。
政治局=(1)K・J・ラヤマジ(書記長)、(2)プシュパ・ラル、(3)トゥルシ・ラル・アマ
チャ、(4)D・P・アディカリ、(5)=カマル・シャー。/中央委員会=(6)ジャンガ・ラム、(7)
マドゥ・シン、(8)K・P・ウパダヤ、(9)カマル・R・レグミ、(10)K・R・ヴァルマ、(1
1)K・P・アディカリ、(12)モハン・ビクラム、(13)クリシュナ・ラル、(14)ヒクマト・シ
ン、(15)A・N・リマル、(16)P・B・マッラ、(17)D・N・ラナ。〔Gupta(1993), pp.28
6-7.〕
*20 Rose(1965), p.353.
*21 1959年頃の共産党は、党員6,000人、準党員2,000人、農民組合員125,000人を擁し
ていたとされる。Cf. Rose(1965),p.366.
*22 Gupta(1993), p.208.
*23 Rose(1965), p.357.
*24 Ibid., p.358.