議会解散、5月総選挙へ    (日本ネパール協会『会報』153)
                             谷川 昌幸

 98年8月発足のNC-ML連立政権が12月崩壊、NC-UML連立の選挙管理内閣が成立し、
99年1月15日議会解散、5月3日総選挙実施となった。
 NC-ML政策協定 NC-ML連立はもともと不自然なものであり、8月22日の政策協定にも
マオイスト鎮圧時の警察権力乱用の犠牲者救済、カラパニからのインド軍撤退、対インド不
平等条約の改正、物価対策など実行困難なものが多い。協定はNCにとってはリップサービ
ス、MLにとっては連立正当化のための建て前にすぎなかった。
 MLがこうまでしてNCとの連立に走ったのは、与党特権を利用しライバルのUMLを叩くため
であったが、この戦略には無理があった。98年3月にUMLから分離独立し有力な党組織を持
たないMLは、総選挙を99年11月の任期満了まで先送りし、その間に民衆的基盤を強化し左
翼諸党派の支持を拡大する目論見であった。しかし総選挙の先送りはコイララ首相の解散権
を縛るし、民衆や左翼諸党派へアピールしようとすれば、MLは政策協定の実行をNCに迫らざ
るをえない。NCはむろんMLのこれらの要求を無視した。
 最後通告 他方、UMLは強力な地方組織を動員しイラム、ゴルカなどの地方選で次々に圧勝
し、総選挙態勢を整えていった。NCに無視され、このままでは政党としての存続さえ危うくなる
と危機感を募らせたMLは、最後の手段として、98年11月17日コイララ首相に対し、政策協定を
守らなければ15日以内に連立を解消するという最後通告を突きつけた。
 この最後通告の中で実際上もっとも重大であったのは、マオイスト鎮圧の推進者A・K・カレル
警察総監の解任要求である。MLのゴータム書記長は内相のときカレルを左遷したが、のち左
遷違法判決により復職していたので、再びマオイスト鎮圧時の警察権力乱用の責任をカレル
にとらせようとした。しかしNCはカレルを擁護し、UMLもそれを支持した。
 議会解散 MLの最後通告はやぶ蛇となり、NCはMLを連立から外し、98年12月21日早期選
挙を唱えるUMLと組み、コイララを再び首相に指名した。そして99年1月15日、コイララ首相の助
言に基づき国王が議会を解散し、5月3日の総選挙実施を宣言したのである。
 選挙の争点 前回の94年選挙以来、ネパール議会は可能な政党の組み合わせをすべて試
み、ほぼ全議員を一度は大臣としてみたが、5種類におよぶどの政権も結局は安定しなかった。
したがって、NCが「政治の安定と民主主義の確立」を訴え、UMLが「政治的安定、良好な統治、
国民統一、多数党政府」を選挙スローガンに掲げているのは、当然といえよう。小政党は同意
しないであろうが、大局的に見て、次の総選挙の第一の争点は単独政党に過半数議席を与え
安定政権をつくらせるかどうかである。
 今のところ安定政権に最も近いのは、首相候補にK・P・バタライを押し立て、党内抗争が珍し
く沈静化しているNCである。
  アディカリを首相候補とするUMLは分離独立したLMとの競合で苦しいが、RPP-T、NSP等
との選挙協力が成功し、NCが候補者調整に失敗すれば、大勝の可能性がある。
 目下、選挙戦は様々な選挙協力を模索しながらも、基本的には「バタライ対アディカリ」を軸
に展開している。NCとUMLは選挙キャンペーンでいかに激しく対立していようとも、共に90年
憲法を是認しており、いずれが勝利しても現実政治が大きく急変することはない。5月総選挙
で注目すべきは、やはり、過半数議席をもつ安定政権ができるかどうかであろう。
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  政党別議席数(解散時)
共産党−統一マルクス・レーニン主義者(CPN-UML) 49
共産党−マルクス・レーニン主義者(CPN-ML)  40
コングレス党(NC) 89
国民民主党−タパ派(RPP-T) 10
国民民主党−チャンド派(RPP-C) 9
友愛党(NSP) 3
農民労働者党(NPWP) 3
共産党−マサル派(CPN-M) 2
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(参考文献)Spotlight; The Independent; The Kathmandu Post; The Rising Nepal; People's
Review; Explore Nepal Weekly