報道に見るネパールの動き                         谷 川 昌 幸
                            (日本ネパール協会『会報』154, 1999.5)
▼低開発とインフルエンザ
 この冬,ネパールでインフルエンザが猛威を振るった。『スポットライト』4月9日号のインフ
ルエンザ特集によれば,流行の始まりはカリコット・ディストリクトからである。保健省のマヘ
ンドラ・ビスタ博士は,インフルエンザが流行していたニューデリーに出稼ぎに行っていたネパ
ール人がビールスを持ち帰り,周囲に感染させたのだろうと推測している。流行の中心はカリ
コットだが,伝染は「中西部」から他の地域にも広がり,すでに800人以上が死亡したという。
 インフルエンザの犠牲者が「中西部」や「西部」に多いのは,これらの地域がネパールでも
低開発の地域だからだと考えられている。インフルエンザには直接効く薬はなく,最善の予防
は栄養と休養を取り体力をつけておくことだが,「中西部」を中心とするインフルエンザ流行地
域は低開発のため,人々の栄養状態はよくない。彼らは栄養不足と過労,不潔な飲料水と居
住環境のため体力を失い抵抗力を無くしている。インフルエンザは,そのような弱者を襲い命
を奪っていった。これらの地域では昨年もインフルエンザが流行し,フムラでは300人以上が死
亡している。
 低開発がインフルエンザ禍の大きな要因であることは,開発の進んだカトマンズのような都
市部ではインフルエンザがそれほど猛威を振るっていないことを見ればよく分かる。ラトナ・シャ
シによれば,政府はカルナリ・ゾーンの辺境5ディストリクトのためには年間予算のわずか0.01
%しか支出していない。保健予算もごくわずかだ。また,政府は保健政策の重点を伝染病から
他の疾病に移し,保健予算の80%以上を都市部の慢性病対策に使っている。ケシャブ・ポウデ
ルはこう批判する。「この国では,単純な治療可能な病気の方が不治の難病よりもはるかに大
きな被害を人々に与える。そのような病気は,概して都市富裕住民の生命を奪いはしないが,
栄養不足の人々にとっては致命的である。」
 「中西部」のインフルエンザ禍には人為的な要因が少なくない。この地域は,飢饉とマオイスト
問題に苦しめられている地域でもある。地方農村の疲弊はしばしば指摘されるように深刻だ。地
方開発に取り組まない限り,インフルエンザは他の社会問題と同様,繰り返しこの地方を襲うで
あろう。(Spotlight, April 9)

表1 ディストリクト別インフルエンザ死者数

ディストリクト 死者数 (人)a 一人当たり年収(ルピー)b 識字率(%)c 平均余命(年)c
○ カリコット 315 5,117 19.4 42
○ ジュムラ 157 4,834 25.1 47
× シンドパルチョーク 69 -- -- --
△ ゴルカ 54 -- -- --
○ ダイレク 42 -- -- --
○ ルクム 41 6,220 28.8 51
○ ジャジャルコット 34 3,889 23.5 46
* カトマンズd -- 20,939 70.6 67

(注)○=中西部,△=西部,×=中央部。(a) = EDCD, (c) = NPC,(b),(d) = 出典不記載。(a) は
インフルエンザ死者数。(b)の数値のうちカトマンズは一人当たりGDP。


アディカリ元首相,死去
 ネパール共産党(UML)議長で,元首相のマンモハン・アディカリ氏が4月26
日カトマンズ市内の病院で亡くなった。19日ゴタタルでの選挙演説からの帰途,倒れ意識不明となって
いた。78歳であった。
 アディカリ氏は,1920年カトマンズに生まれ,49年ネパール共産党設立に参加,53年党書記長,90年
UML議長,そして94年11月ネパール初の共産党首相となった。9ヶ月後,不信任案可決により下野し,
以後,議長としてUMLを指導してきた。
 アディカリ氏は,長老政治家として党派を超えた尊敬を集めていた。政府は3日間の服喪を宣言し,半
旗を掲げた。27日の葬儀にはコイララ首相が参列し,遺体に国旗を掛け弔意を表した。19発の礼砲が放た
れ,儀仗兵が葬列に付き添った。
 アディカリ議長の死は,政治的に大きな意味をもっている。5月の総選挙では同情票が集まり,コング
レス党の内紛もあってUMLが第1党になる可能性もある。また,政党指導者の王政復古世代から次の世
代への交代も促進されることになるであろう。
 アディカリ議長の死により,カトマンズ第1,第3選挙区の投票は,6月8日に延期された。 (The
Kathmandu Post)