マオイストの「人民政府」宣言
                     谷川昌幸
(日本ネパール協会『会報』165)

マオイストが地域「人民政府」を設立し,新方針「プラチャンダの道」を宣言した。これは,5年前に始まった人民戦争が新しい段階に入ったことを示唆するもので,理論,運動の両面で注目に値する。
 「マオイスト」設立
 マオイストの正式党名は「ネパール共産党−マオイスト(CPN−M)」であり,1995年,毛沢東主義のプラチャンダ派とバブラム・バタライ派が合流して設立された。党是はマルクス・レーニン・毛沢東主義であり,「西部」「中西部」開発区を拠点とするが,地下組織のため党員数や党組織の実態はよく分からない。党の実権は,創立以来,議長(2001年2月までは書記長)のプラチャンダ(P・K・ダハール)が握っている。
 人民戦争の理論
 マオイストの革命理論は,毛沢東思想をネパールの現実に合うようにプラチャンダが解釈し直したものである。彼によれば,ネパールは半封建的・半植民地的国家で,革命の客観的条件は揃っている。したがって,マオイストは1990年憲法体制の改良に望みをつなぐのではなく,人民戦争により断固「継続を断ち」,革命へと「跳躍」し,「世界の最高峰サガルマータに赤旗を立て」ねばならない。「ネパール革命は世界プロレタリア革命の不可分の一部分であり」,サガルマータに赤旗が立てば,ネパールは「貧しい物乞い国家」の汚名を返上し,「プロレタリア英雄の国」として「世界中から仰ぎ見られるであろう」。
 人民戦争の展開
 マオイストの人民戦争は,この革命理論に従って展開してきた。1996年2月13日,マオイストは公然と人民戦争を開始し,ルクム郡,ロルパ郡など西部を中心に政府役人,警官,政党活動家,地主などを襲い,これらを追放,そのあとを次々とマオイスト支配地域にしていった。これらの地域では,マオイストが行政権を掌握し土地公有化と労働に応じた分配を始める一方,住民自身の文化革命も進行していった。この成果を背景に,98年末マオイストは第4回党大会を開き,人民戦争の次の目標を人民政府設立のための「根拠地」建設に決めた。
 この第4回大会以降,マオイストの行動は組織化が進み,とくに2000年9月25日のドナイ攻撃には1000人以上のマオイスト兵が参加し,6時間にわたって警官隊と交戦した。死者14名,負傷41名,行方不明12名。
 「人民政府」設立宣言
 この実効支配地拡大と軍事力強化を背景に,2000年12月20日,ついにマオイストはルクム郡バンピコットで「人民政府」設立を宣言した。設立集会にはジャーナリストも招かれ,支配地域を見学し,設立集会を直接取材した。また,集会はビデオで記録され,マオイストFM局が実況中継した。マオイストが白昼堂々と校庭に何千人もの支持者を集め,「人民軍」部隊やゲリラ兵行進を見せ,「人民政府」設立宣言をしたということは,彼らの地域支配が安定し,「根拠地」に近づいてきた証拠である。
 その後,ルクム郡に続きロルパ郡とジャジャルコット郡でも「人民政府」が設立されたという。これはまだ未確認だが,マオイストが支配の制度化,恒常化に力点を置き始めたことは確かだ。たとえば,ロルパ郡ジュンコット村では,月100ルピーの税金を払えば,マオイスト統治の下でほぼ平穏な日常生活を送ることができる。マオイストの圧力により,ルクム,ロルパ,サルヤン,ゴルカで,すでに100の村開発委員会(VDC)の職員が不在となっている。
 「プラチャンダの道」
 これら郡レベルでのマオイスト化,人民政府設立に続き,マオイストは2001年2月25日の党声明で「プラチャンダの道(Prachanda Path)」を宣言し,従来の人民戦争に加え大衆武装蜂起を進める一方,幅広い統一戦線の結成と新憲法制定のための暫定政府の設立を呼びかけた。これは全国レベルの人民政府設立が目標だが,行間を読めば,既得権を確保した上での和解の提案ともとれる。
 マオイストは,「プラチャンダの道」宣言で,和戦両様の構えへと戦略を転換しようとしているように見える。人民戦争はすでに1600〜4000人の犠牲者を出した。このまま本格的内戦に進むのか,それとも和平シグナルを読みとり,政治的交渉による和解を実現するのか。議会政治家たちの政治的手腕が試されている。
(資料)Prachanda, "Red Flag Flying on the Roof of the World"(2000), "Two Momentous Years of Revolutionary Transformation"(c1998); Nepali Times, 27
Sep.2000−9 Mar. 2001.
                     (日本ネパール協会『会報』165号、2001年3月)