リティク暴動と左翼ナショナリズム
谷川昌幸(日本ネパール協会「会報」 No. 166 /2001年5月)
昨年末のリティク暴動は、今のネパールを象徴する示唆的な事件であった。
暴動の経過は、すでに会報1月号でも速報されたが、およそ次の通りである。@12月14日:スターTVがインドの人気スター、リティク・ローシャン(Hrithik
Roshan)のインタビュー番組放映。A15日:地方紙チトワン・ポストが、リティクの「反ネパール的」テレビ発言への抗議行動を小さく報道。B23日:ヒマラヤン・タイムズがチトワン事件報道。C全ネパール自由学生組合ANNFSUが抗議行動開始。D25日:カトマンズ発行全国紙が「リティク発言」報道。ローキャンパスのANNFSUが抗議デモ。E26−27日:抗議デモ全国化。カトマンズでは90年革命以来の大暴動となり、死者5人、負傷者数百人。F28日:暴動沈静化へ。
この暴動の発端となったTV発言について、リティク自身は「ネパールもネパール人も嫌いだ」などとはどこでも発言していないと断言した。ネパール各紙も、27日にはこのリティク声明を掲載し、作り話との見解を取るようになった。一方、著名な知識人マダン・レグミは、局はMTVだが、リティクの反ネパール発言は確かにあったと主張し、発言内容まで具体的に指摘している。
このように発端が曖昧なため、マスコミでは暴動の仕掛け人探しが盛んに行われた。パキスタン情報局説、インド情報局説、ムスリム女性と結婚したリティクを陥れようとしたとするヒンズー・ファンダメンタリスト説など、奇々怪々、これまた皆目見当もつかない。
しかし、発端がどうであれ、一つ確かなことは、当初から反リティク行動の中心に左翼系ANNFUSがいたということである。ANNFSUは、チトワンでいち早く抗議行動開始を決め、チトワン・ポストに圧力をかけて報道させ、カトマンズではローキャンパス前のデモやインド大使館への抗議行動を主導した。
また、ここで注意すべきは、反リティクは抗議行動のきっかけであり、たしかに当初はインド人やインド系の店が攻撃されたが、すぐに主な攻撃目標がコイララ政府にすり替えられたことである。コングレス系学生組合NSUが早々に離脱したのに対し、主力のUML系諸組織がマオイストや王党派との奇妙な共闘を続けながら、最後の段階で体制支持に回り暴動を終息させたのも、そのためである。きっかけは不可解だが、運動過程そのものは政党力学的に制御されていたといえる。
しかし、かりにそうだとしても、ネパールの有力者たちが反インド・ナショナリズムを党派闘争に利用し続けるのは、あまりにも危険だ。今回のリティク暴動では、インド人民党(BJP)のK・マルカニが「トリブバン国王がネパールのインド編入を申し入れたとき、インドはこれを受け入れるべきであった」と言い返したとされ、これがまたネパールの反インド感情を煽っている。危険な悪循環だ。また国内的にも、情緒的ナショナリズムは国民アイデンティティを巡る民族対立を先鋭化させる。リティク暴動も、当初は反インドだったが、すぐに反タライとなった。ナショナリズムは内外に「国民の敵」を必要とする。
この危険性に対し、ネパールの左翼はあまりにも無警戒だ。ヒマール2月14日号によれば、南アジアの左翼は「反帝国主義闘争におけるナショナリズムの進歩的役割」という50年代の理論に固執し、目的のためなら極右とも結託する一方、同調しない人々を国民統一の障害、ときには帝国主義の手先として攻撃してきた。しかし、そうした左翼ナショナリズムは、実際には、インド、スリランカのように分裂と果てしないコミュナル紛争をもたらすのみである。
リティク暴動で、ネパールの左翼諸政党は「反インド」を鼓吹し、民衆の間にナショナリズムの怪物を解き放った。今回はUMLの途中離脱で首都暴動は2日間で収まったが、それでも被害は甚大だった。前掲ヒマールはこう批判している。
「抑圧的エリートが人民を分裂させるために利用している『ネーション』を彼らの手から奪回すべきだ。ネーションは民主化され、すべてのアイデンティティを受け入れるものとされねばならない。これが出来れば、ネパールは南アジアの導きの星となるだろう。出来なければ、コミュナル憎悪の死のウイルスがこのネーションを民主主義もろとも破壊してしまうだろう。」
(Himal, 14/2/2001; Spotolight, 5/1/2001; People's Review, 29/12/2000,
5/1/2001; Kathmandu Post, 27/12/2000-3/1/2001)