王族殺害事件: 謎と解釈
           (日本ネパール協会『会報』167号、2001年7月)


 国王,王妃,皇太子ら王族がlO名も殺害された6月 1日の銃撃事件は,常日頃ネパール政治に関心を持ち, その動向に不安を感じていた私にとっても,全く予期 しない出来事であり,2日朝第一報を聞いたときも, にわかには信じられない状態だった。
 その後,テレピ,新聞,インターネットを通して情報を集め,徐々に事件の輸郭は見えてきたが,しかし今もって「誰が,何のために,殺害したのか」という, 事件の核心部分は,一向に明らかにならず,謎のまま である。
 したがって,現段階で事件について述べるのは時期尚早だし,関係王族への礼を失するという批判は,当然ありうる。しかし,これはネパール王制史上最大の惨事であり,政治的大事件である。誤認もあるかもしれないが,関係王族の方々には寛恕をお願いしたい。

1.事件の謎と様々な解釈
 銃撃事件は,ナラヤンヒティ王宮で起こった。殺されたのは,「ビシュヌ神の化身」と崇められ,立憲君主として尊敬されていたビレンドラ国王とその一族である(王室図参照)。ネパール国民にとって,この事件がいかに衝撃的であったかは容易に想像できよう。一方, 事件現場の王宮は,議会や法廷と違い,外部と遮断さ れた別世界であり,部外者には内部の様子を直接知る有効な手段はない。その上,事件後2週間もの間,王室からも政府からも事件の詳しい説明はなかった。
 事件の衝撃性と極度の情報不足。このような条件が重なれば事件の真相を巡って様々な噂や憶測が出てくるのは当然だ。さらに,それに加えて,この重大事件を政治的に利用しようとする内外の諸勢力の思惑も絡み,事件後1か月くらいは庶民やマスコミの間で事件に関するありとあらゆる解釈が乱れ飛んだ。
 これらの噂や憶測,あるいは説明や解釈は,類型化すると次の7説となる(出典は資料記号,月/日で表記)。
 (1)ディペンドラ皇太子説
 事件後ポウデル副首相発言を根拠に,まず流布し, 7日のシャヒ大佐目撃証言で肉付けされ,14日の調査委員会報告で追認された公式説明。
 それによれば,晩餐会当日,ディペンドラ皇太子の結婚問題が話し合われた。皇太子がデヴヤニ・ラナさ んとの結婚を希望したのに対し,国王と王妃は強く反 対,どうしても結婚するなら王位継承権を剥奪し,ギャネンドラ殿下(またはニラジャン殿下)にあたえると 警告した。怒った皇太子は,酒とドラッグを飲み,軍服に着替え,自動小銃を持ち出して国王らに向けて乱射,最後に自分を撃ち自殺を図った。銃撃は午後9時前後の15分間(a6/8,15,16;b6/12;e6/7;g6/3:朝日6/2夕)。
 この皇太子説は,多数の目撃証言や物証に基づくものだが,事件の核心部分についてはいくつか疑問が残る。@皇太子の立場を考えると,動機が薄弱。A事件直前に「もう寝るよ,また明日」とデヴヤニさんに電話。B酪酊状態でこのような銃撃は無理。C射撃は正確,「無差別の乱射」とは思われない。D戦闘服で「帽子を顔深く」かぷっていたのは,替え玉ではないか。E 女性たちを背後にかばったパラス王子が撃たれなかったのも,犯人が替え玉だからではないか。F7日のシャ ヒ大佐証言は,調査誘導のためではなかったか。
 この他,調査報告書記載の「赤いサリーの女」など, 皇太子説には疑問も多いが,政治的には当面これで決着した。
 (2)王族内紛説
 ギャネンドラ現国王とパラス王子が結果的に生き残ったため,この方面の陰謀ではないかという,憶測 として広まった説。BBC,ザ・タイムズ,ニューヨーク・タイムズなど世界の有力メディアや日本の多くのマスコミも,こぞってこの噂を伝えた(f6/6;g6/10;h6/ 5,6;毎日6/11)。
 (3)国軍説
 国軍が仕組んだという説。一つは,マオイストの人民戦争への国軍動員に反対しているビレンドラ国王を排除し,国軍でマオイストの鎮圧を図ろうとしたとい う説。もう一つは,逆に,ビレンドラ国王がコイララ首相の国軍動員案を受け入れそうになったので,これを阻止するために,国王を殺害したとする説(a6/7)。
 (4)事故説(犯人不在説)
 銃の暴発事故で,犯人は不在という説。3日朝,ギャネンドラ摂政がメッセージを発表し,「報告によると, 自動兵器が突然発射された」と説明した(a6/4;h6/5;f6/ 5)。この事故説は解釈としては説得力がないが,政治的には合理的な理由があった。つまり,これにより,意識不明のまま即位したディペンドラ国王を犯人と名指 しする必要がとりあえずはなくなり,翌日のギャネン ドラ殿下への王位継承が形式的には正統なものとなっ たからである。
 (5)マオイスト説
 マオイストが人民戦争への国軍動員を阻止し,暫定 政府を実現するために仕組んだとする説。
 6月3日,マオイストはプラチャンダ議長声明を出 し,「ビレンドラ国王は愛国的,自由主義的」であり国軍による人民戦争弾圧に反対だった,と国王を讃えた。 また,バブラム・バッタライも,ビレンドラ国王の意を受けたディレンドラ殿下とインド膨張主義への対抗策を練っていたという。「王族殺害の数週間前わが代 表たちとの最後の会談の席で,ディレンドラ・シャハは自分と他の王族たちの生命が狙われていると打ち明 けた。これは歴史的に重要なことで,公的な記録として残されるぺきだ」(a6/4;b7/13)。
 このように,マオイストはビレンドラ国王を絶讃し, しかも実際に対インドで共闘していたとすれぱ,マオイストが味方の国王を殺害するはずがないと考えられるかもしれない。しかし,よく見ると,必ずしもそう とは言い切れない。先にも述べたように,人民戦争の過激化で,ビレンドラ国王は国軍投入の決断を迫られ, 一部にはコイララ首相の国軍投入案にすでに賛成した, という観測もあったからである。
 それともう一つ気になるのは,ギャネンドラ殿下とマオイストとの関係。ポウデル副首相によれぱ,ギャ ネンドラ邸はマオイストの「巡礼所」だという噂や,殿下とマオイストはぐる(cahoots)だという噂もあったと いう(b6/29,7/6;e6/14,7/5)。また,マオイスト側には, ギャネンドラ殿下をマオイスト共和国の大統領に迎える案があるとさえ報道された(b7/6)。
 もし本当にこうした政治的背景があるのなら,マオイスト犯人説も否定しきれない。
 (6)RAW・ClA説
 インド情報局(RAW)とアメリカ中央情報局(CI A)が共謀して,あるいは単独で関与しているという説で,マオイストが一貫して主張してきた。
 事件の翌日,プラチャンダ議長が事件は「政治謀略」 と発表,5日には,RAWとコイララ首相の共謀と主張した。6日にはバブラム・バッタライが,ギャネン ドラ国王も謀略に関わっていると非難した。lO日の声明では,王族殺害はアメリカとインドの情報局が中国 を封じ込めるためにやったと説明した(a6/4;b7/6)。
 たしかに,RAWの関与を疑わせる状況証拠はたく さんある。インドはこれまで繰り返し,ネパールの反インド姿勢や,ネパールにおけるパキスタン情報局(I SI)の反インド活動を非難し,警告してきたからである(a2000/6/14;b6/9;c2000/1/10;d4/27;e6/14)。
 外国ではパキスタン筋がこの説を採り,たとえぱISI関係者は「インドはネパール王室にパキスタンと中国に接近しすぎるなといつも警告していた。ネパー ル王室殺害の背後にいる首謀者はインドだ」と断言している(h6/5)。
 1990年の民主革命では裏でインドが介入し,ビレン ドラ国王の親中国パンチャーヤト政府を倒した。かりにRAW説を採るとすれば,今回は体制ではなくピレ ンドラ国王自身が倒されたことになる。
 (7)ISI説
 これはインドで報道されたもので,事件はパキスタン情報局(ISI)が仕組んだという説。ネパールが 混乱し,マオイストが勢力を拡大すれば,中国とパキ スタンがインドに対して戦略的に優位になるという分析である(e6/14;h6/6)。たとえば,ヒンドゥスタン・タ イムズは,「カトマンズ消息筋によれぱ,ギャネンドラ は反インド思想ばかりか,それほど遠くない過去においてパキスタンと深いつながりをもつ勢力を支援していたとも信じられている」と報道した(h6/5)。

2.事件解釈の政治的意味
 以上,主な7つの事件解釈を紹介したが,混沌としていて,よく分からないという印象が強いと思う。し かし,分からないのは「真相」に拘りすぎるからであり,これを棚上げし,事件解釈の解釈に問題を限定すれば,かなり合理的に7説それぞれの政治的意味を理解することが出来る。
 今回の事件は,これらの解釈を通して図らずも露呈 した力関係の中で発生し,今後そこに様々な影響を与えて行くであろう。王制に限定すれぱ,暴力と神秘は王制の本質だから,この事件そのものが直ちに王権を弱体化することはない。むしろ,この事件の背後にある全般的な自由化,民主化こそが王制にとっては問題であり,もしこれに対応し立憲君主化,象徴君主化が出来なければ,そのときこそネパール君主制は危機に立つことになるであろう。

 (文献)a=Kathmandu Post, b=Nepali Times, c=Rising Nepal, d=Spotlight, e=People's Review, f=TheTimes, g=New York Times, h=BBC News South Asia

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