<紹介>

阿部浩己「要塞の中の多民族共生/多文化主義」
内海・山脇編『歴史の壁を超えて』(グローバル時代の平和学3,法律文化社,2004年)第10章

     【1】
グローバル化は世界のいたるところで社会の多民族化,多文化化を促進し,もはや国家は同質的「国民文化・民族文化」を前提とする近代的「国民国家」ではありえなくなった。

また,近代的国民国家は,グローバル化と共に深刻化してきた環境問題などの超国家的諸問題を扱うには小さすぎ,また多様化してきた日常生活の身近な諸問題を扱うには大きすぎるため,その機能を一方では超国家的国際機関に,他方では地方自治体(地域政府)やNGO等に委譲して行かざるをえないし,事実,その動きはグローバル化と共に世界各地で加速している。

この国民国家相対化の動きは,グローバル化がもはや止められないとするなら,誰にも止めようがないし,また世界の多様な人々がその多様性に応じて等しく尊重されるべきであるなら,止めるべきでもない。

ところが,この動きに対し,国民国家の危機を訴え,国民固有の「文化」や「伝統」により国民統合を再建強化しようとする復古的ナショナリズム運動が,日本だけでなく英独仏など世界各地で拡大している。これは明らかに時代に逆行するもの,つまり語の正確な意味での反動reactionaryであり,長い目で見れれば,成功の見込みはない。

しかし,短期的に見ると,情緒的ナショナリズムは悪魔的魅力を持ち,庶民の支持をえ,勝利する可能性は大いにある。もしそうした偏狭なナショナリズムがグローバル化の今日,再び勝利を得るようなことになれば,人権侵害,異民族・異文化弾圧など,甚大な被害を世界各地にもたらすことになるであろう。反動的国民国家主義は許されるべきものではない。

一方,国民国家はもはや時代遅れになったので解体してしまえという考え方も,短絡的である。国民国家は,ウェストファリア条約以降3世紀以上存続し,日独のような後発国でも100年以上の歴史がある。国民国家の枠組みは,人権保障や福祉実現にとって,まだきわめて有益であり,将来も,役割見直しは必然としても,その機能そのものが他の組織によって完全に取って代わられる,つまり国家は消滅する,ということはないであろう。

そこで,国民国家の枠組は今後も存続するし,存続すべきだとすると,問題はグローバル化=多文化化の下で国家にどのような機能を担わせるか,ということになる。

     【2】
浪岡新太郎「フランスにおける移民新世代結社と<新しい市民権>」(本書第9章)によれば,多文化社会における政治統合には,次の二つの類型がある。

(1)フランス共和制モデル 
 公的空間と私的空間を区別。公的空間では,人々は集団的属性から切り離された個人=抽象的市民としてのみ平等に承認される。集団的属性に関係なく,誰でもフランス市民として政治共同体に参加する。
(2)アングロサクソン・モデル(多文化主義モデル)
 個人でなく,エスニック共同体を公認する多文化主義的統合。(p.249-250)

これら2種類の統合モデルのうち,いずれが望ましいかは,一概には言えない。人権の普遍的保障という点では,フランス型が有利だが,これには人権のイデオロギー性や「差異への権利」の否認という問題がある。他方,アングロサクソン(多文化主義)モデルも,文化の多様性を認める結果,人権の普遍的保障が困難になり,文化(民族)を理由とした女性差別などの人権侵害を容認せざるをえない,という問題が生じる。

さらにグローバル化の下では,これに南北問題が絡むから,問題は一層複雑になる。グローバル化,多文化多民族化の下で,われわれはどのような政治統合を目指すべきか?

     【3】
この問題を考える上で,阿部浩己「要塞の中の多民族共生/多文化主義」(p.285-310)はたいへん示唆的である。

この論文で取り上げられているのはEUである。EUは多民族・多文化共生の先進地とされているが,皮肉なことに,EUが欧州条約などで域内の人権保障を図ろうとすればするほど,欧州中心主義となり,少数民族・文化は周縁化され,差別されていく。EU内の人権保障は,域外民族・文化の抑圧・搾取によりなり立っているのである。

・宇沢弘文
「EC,最近はEU(欧州連合)ですが,あれが戦後一番悪い役割を果たしてきた集団だと私は思います。ECが世界の,特にアフリカの貧困の大きな原因になったと思います。ECは,結局金持ちだけが集まり,高い関税障壁を設けて,自分たちだけの繁栄を謳歌しようとした動きです。・・・・アフリカの飢餓の問題は決定的にEUがつくり上げている。」(本書p.287,原著=内橋克人編『経済学は誰のためにあるのか』岩波書店,1997)

・斉藤純一
「南アフリカの看護師が旧宗主国のイギリスにお金で次々に引き抜かれている・・・・。南アフリカでは,看護師は高等教育を受けた準エリートなのですが,英語を話すということもあり,イギリスの病院や高齢者施設のケア・テイカーとして引き抜かれていく。ケアが手薄になった南アフリカは,今度は,ガーナなどのさらに貧しい地域から医師や看護師を引き抜いてその穴を埋めようとする。そうすると,最貧国におけるヘルス・ケアは空洞化せざるをえない。・・・・ケアの資源は先進国に引き寄せられ,その鎖の末端のところでは,ケアのない状態にならざるをえない。フィリピンの女性がアメリカなどにケア・テイカーとして出稼ぎに行くというのも,同じようなケアの収奪の例です。」(本書p.288,原著=斉藤純一「グローバル化のなかでのセキュリティ/公共性」季刊ピープルズ・プラン24号)

・阿部浩己
「「北」の先進性,EUの先駆性は「南」の物的・人的資源の一方的収奪の上にはじめて成り立っている。・・・・域内で発現する多民族共生の風景は,そうした負の行為を幾重にも積み重ねてきた歴史の所産といってもよい。共生・人権という美しい言辞には醜悪な暴力の構造的陰影が宿っているということを忘却してはなるまい。」(p.288)
「人権保障へのコミットメントを強め民族・文化の多元性に寛容な姿勢を示しているようにみえるEU/欧州人権条約体制のもつ暴力性を,非欧州人/「他者」の存在を可視化させながら批判的に見つめ直してみる。」(p.288)

このEU中心主義を,もう少し詳しく分析すると,次のようになる。
(1)EU市民権
EU市民には域内における移動・居住の自由が保障されている。これは,普遍的人権の理念に沿うポスト国民国家的市民権だといわれている。しかし,「構成国の国籍を有する者は何人も連合の市民となる」(第7条)ということであり,この市民権はEU構成国の国民に限定さている。そして,EU各国は,多かれ少なかれ国籍付与を主流民族,主流文化により条件付け,それに反する者は排除してきた。

(2)EU加盟国
「自由,民主主義,人権および基本的自由の尊重ならびに法の支配」などの諸原則を守る国が,加盟国になりうる(第49条)。人権劣等国の国民を排除することにより,EU内での人権は保障されている。EUの要塞化。入域阻止政策。その結果,被庇護者であっても,入域が難しく,不法入域せざるを得ないことになる。

(3)定住外国人
EU域内では,外国人は第二世代であっても刑罰に加え,出身国への国外退去の可能性をつねにもっている。これは自国民にはない危険であり,人権侵害の「二重の危険」といえる。

この多民族,多文化差別を,EU人権保障の中心的機関である欧州人権裁判所も,事実上,容認している。つまり欧州人権裁判所は――
 (1)国家の国境管理権を人権より優先させている。
 (2)加盟国の国籍法は,植民地主義的,人種主義的な要素をもっているのに,それを容認している。
 (3)同じ犯罪でも,外国人には退去強制を課している。
 (4)事実上,一元文化論をとっている。たとえばフランス主流文化でないと,フランス人ではない。阿部によれば,「裁判所にとって,チュニジア人コミュニティへの帰属はフランスへの統合を示す事象とは解されていない。チュニジア人のサークルは現代フランス社会を構成する動態的な一部なのではなく,「中立的な」フランス主流社会,つまり「フランス的次元」の周辺に位置する,人種化された異質な外部と見られている。そうした人種化されたコミュニティへの帰属は,滞在国への統合を意味するものとは解されていないのである。」(p.300)

結局,EUの多民族/多文化共生は,EUの中心性を認めた上での共生にすぎないと,阿部は厳しく批判する。

「欧州の現実に表出しているように,多民族/多文化共生にかかわる「北」の法言説は,「南」からの人の移動を統制し消去しようとする力学と対になって構成されている。「北」は常に,中心にあって安全でなくてはならない。「共生」が許されるのはその限りにおいてである。安全を脅かす異質な存在は,「北」の構成員性を認められないだけでなく,(外周)国境上で拒絶の対象になり,さらに家族がいようとも,「北」の領域から放遂される。その営みを人権の論理が擁護してきたのは皮肉というほかない。」(p.302)

      【4】
たしかに,阿部の批判するとおり,EUの多民族・多文化共生は,EU中心主義の枠内のものであろう。そして,他民族・他文化は,EUにより抑圧・搾取されてもいるであろう。それは,その通りだ。

しかし,それではどうすればよいのか? EUや国家は,国境(国籍)管理を放棄してしまう,つまり人々の移動を完全自由化してしまうべきだろうか? 人権の普遍性を徹底すべきだとすれば,おそらくそうなるであろう。

しかし,それで人権や文化が果たして守られるであろうか? 多民族・多文化が花開き,平和共存できるのであろうか? 私の見るところ,そのようなバラ色のユートピアは実現しそうにない。

複数の人間,複数の民族・文化が存在するところ,共存のための一定の枠組みが必要であり,それを保障するのが政治権力である。人権や文化もその枠組みの中で権力(暴力)により守られている。このパラドックスを見つめない国家批判は,十分な説得力を持ち得ない。

近代的人権は,普遍性を主張したからこそ,ブルジョアの枠を超え「国民」に広がり,そして,いま「北」の枠を超え,「南」にも広がりつつある。しかし一方,人はそのアイデンティティにおいて尊重されるべきだという考え方,つまり集団の人権,文化への権利も認められるようになった。普遍的人権と個別的文化への権利をともに守る政治的枠組みとしては,何が最も有効であり現実的なのであろうか? また,政治統合は,フランス共和制モデルとアングロサクソン(多文化主義)型のいずれが望ましいのであろうか?

近代は,国民国家に文化的統一と人権保障の機能をほぼ独占的に担わせようとした。しかし,グローバル化の下で,それはもはや無理となった。国家の現有機能のうち国家以外のものに委譲する方がよい部分は,超国家的国際機関や国内諸機関に委譲すべきであろう。しかし,そのように権限委譲しても,現在の国家の多くは適切な政治的枠組みとして残り,人権や文化の保障機能の重要な部分を担っていくにちがいない。

将来,地域政府―国家政府―国際的地域政府―地球政府といった段階的政治統合が実現しても,やはり普遍的人権と個別的文化の対立は残るだろう。文化は本質的に特殊的なものであり,守るためには,多かれ少なかれ他から区別された自らの社会を必要とする。その根本的事実を無視し,人権の普遍性だけを唱えても非現実的だし,またもしかりに地球政府による人権の一元的保障が可能になったとしても,そうすることは各人の多様な文化的アイデンティティを求める人類の幸福にとっては決して望ましいものではないであろう。 

(谷川昌幸2004.12.13)