2006/08/17

Loktantra and/or post-modern(再説)

谷川昌幸(C)

8月3日の記事については,「author」「名前」などというのは無反省な近代主義であり,そうしたアイデンティティの追求自体が権力を正当化し抑圧を強化するのだ,という批判が聞こえてくる。「神」や「本人」「主体」「責任」など,ポストモダンでは時代遅れだ,と。

こういった議論は,戦後近代主義で育った私にはあまりにも難しく,よく理解できない。いまネパールでは,
 loktantra = democracy = people's power
が熱烈に求められている。これは,「人民」が自分の主体性を確立し,本人=authorとして,自ら国家を創りたい。そして,国政についても,人民が自分で創ったのだから,人民自身で責任を取りたい,ということだ。至極まっとうな考え方だが,ポストモダンからすると,そうした国民的主体性への欲求や民主主義的正義の要求自体が,人々の抑圧を生み出すことになるらしい。分かるような分からぬような?

自分では分からないので,フーコー,ドゥルーズ,ネグリらを見てみたがチンプンカンプン。仕方なく,彼らについて書かれたものを読んでみたが,やはりよく分からない。 それでも先日,新書コーナーに平積みされていた
 檜垣立哉『生と権力の哲学』(ちくま新書)
を買い求め,悪戦苦闘してみると,ほんの少しだけ分かるかな,という感じがしてきた。

1.「殺す」から「生かす」へ
フーコーによると,近現代の権力は「生かす」権力だという。かつての権力は国王のように人民から「見える」権力で,見える形で権力を行使した。典型は死刑で,日本でも西欧でも,権力行使の極限としての処刑は公開の場で見せ物として執行された。

しかし近現代では,権力に関する可視・不可視の関係が逆転する。ベンサムのパノプチコン(刑務所)では,収容者に光が当てられ可視化されるのに対し,それを見張る監視者は収容者からは見えないように合理的に設計されている。このように,近現代的権力の理想は,監視者が全く不可視であるにもかかわらず,いやたとえ存在しなくても,収容者=被支配者が自己監視し,支配システムから逸脱しない状態である。

2.死刑を見る義務
このような近現代的統治理念からするなら,支配の暴力性を見せつける死刑は望ましくないことになる。だから公開処刑は廃止され,日本では絞首刑執行の日時,場所ですら隠されるようになった。

しかし,日本のような立派な民主主義国では,死刑を宣告し執行するのは主権者たる私でありあなただから,私たちには死刑の一部始終をしかと見届ける義務がある。むろん1億人で一人の首を絞めるわけには行かないから,実際の執行は代理人に任せ,そのかわり絞首刑を完全生中継し,全国民に視聴を義務づけるべきだ。それが民主国日本の主権者の当然の義務だ。

3.人道主義の欺瞞
ところが,それは非人道的ということで,前述のように死刑は国民の目からはほぼ完全に隠されている。people's powerだから,死刑囚の生命を奪うのは人民自身なのに,人民はそれを見ようとはしない。子供にチキンを食わせながら,鶏の首を絞め,羽根をむしり,調理する過程を見せるのは残酷であり,子供の情操教育に悪影響を及ぼすとヒステリックに叫ぶ教育ママと同じ心理構造だ。

自分で暴力を行使し人の命を奪っているのに,その事実を直視できないので,「人道」や「人権」を持ち出し,見ないことを正当化しているのだ。ヒューマニズムや人権は,私たちの暴力行使を隠蔽するための隠れ蓑,血まみれの自分の手を美しく覆い隠す花飾りに他ならない。

4.公開処刑の倫理性
人間としては,現在の「人道的」「人権的」日本人よりも,悪人を裁き,公開処刑し,首をさらした江戸時代のお上の方がはるかに立派だ。権力者としての自らと,権力(暴力)行使の過程を下々に見せ,生命を奪ったことへの少なくとも倫理的責任は引き受けているからだ。

それに比べ,私やあなたは何と矮小なのか。人民の名で死刑を宣告し,残虐な絞首刑で生命を奪っておきながら,その事実を直視せず,「人道」や「人権」で見ないことを正当化している。逆にいえば,われわれの要求する「正義」や「人道主義」「人権」こそが,近現代的な権力行使を不可視化し,支配を強化しているのだ。

5.死刑廃止による権力強化
しかし,死刑はいくら人道主義で隠しても,支配にとっては失敗である。殺してしまえば,そこで支配は終わり,もはや権力行使は出来なくなる。そこで権力はさらに支配を徹底するため,殺すのではなく「生かす」ことを支配の目的にする。そして,その時の根拠も人権や人道である。

つまり,社会逸脱者は,ムチ打ち刑や死刑の対象ではなく,人道的観点から,むしろ社会に適応できない非行者,いわば病人とみなされ,その非行の原因が科学的に分析され,徹底的に治療され,そして治れば社会に戻されることになる。

近現代的支配は,以前であれば支配の外部に放置されていた様々な逸脱者をもはや認めようとはしない。「人道」「人権」の観点からあらゆる非行を予防,治療し,すべてを自らの正義の支配の下に組み込んでいくのである。

6.NGO,ボランティア等の共犯性
「正義」「人道」「人権」がこのようなものだとすると,私たちはもはや途上国とかマイノリティとかの立場に立ち,先進国や多数派の悪を告発するという分かりやすい戦略をとることが出来なくなる。「正義」「人道」「人権」の主張そのものが,グローバル化した世界秩序への彼らの組み込みであり,グローバル権力の強化に加担することになるからである。ちょうど死刑廃止運動が,「生かす」ことを目標とする近代的権力の加担者となってしまうのと同じことである。

グローバル化した現代では,もはや世界秩序に対する「外部」はない。

「『帝国』が現出する現在において,もはや素朴に語られる外部の世界は存在しない。世界システムにおいては,すべてが内的にネットワーク化されている。だからそこで,NGO,ボランティア,ローカルな組織を守ろうとするものは,人類学者よりもさらに強烈な仕方で,自分自身が『帝国』の尖兵であることをいつも認識しなければならない。」(檜垣,p.218)

では,どうすればよいのか?

「(ネグリの)『帝国』が見据えるのは,国民国家が崩壊し,あらゆるナショナリティーやそれを軸にうごめく情念が消滅し,すべての個的なアイデンティティーの主張が消え去っていく,雑多な混合体としての社会の現勢化なのである。それは,民族や国民国家にもとづく伝統的なブルジョワ共同体がすでに維持できないことを肯定し,社会が機械的技術に浸透され,そのなかで新たなシステムが現出することを評価する。だからそれは,伝統的保守であることからもっとも離れた政治スタンスであるだろう。
 しかし,同時にそれは,体制的な左翼の言説も根底的に拒絶する。『正義』やローカリティ,はたまたマイナーなアイデンティティーを自己の根拠としてもちだし,『平等』と『公正』を上からの統制によって推進するエリート主義的な左翼の姿は,近代的権力の最後のあがきにほかならない。マルチチュードとは,そもそもが統制不可能な民衆である。それは,いかなる進歩的政党もメディア的媒介者も,自己の『代表』として想定することはない。」(檜垣,p.230)

7.絶対的民主主義
う〜ん,分かったようで分からないような,分からないようで分かったような気がする。夏バテから回復した頃,もう一度考えてみよう。

ちなみに,「絶対的民主主義」とは,このポストモダン民主主義のことだそうです。念のため。