金子 勝『市場』岩波書店、1999年、1200円 


 金子勝氏は、無原則な規制緩和論やグローバリゼーション礼賛を批判し、セーフティネットの重要性を説く経済学者として知られている。本書『市場』は経済学の本だが、市場主義に席巻されようとしている日本の現状を鋭く分析しており、政治を学ぶものにとっても教えられるところが少なくない。
 著者によれば、近代人は「一人で自立して生きたい」と思いながら「一人では生きていけない」というジレンマ、つまり「自立性への要求と共同性への要求という分裂した要求」を抱えている。これが近代人の現実であるなら、その「弱い個人」を前提に理論を構築し政策を立てないと、理論は必ず現実によって裏切られ、不幸な結果を招くことになる。ところが、マルクス主義も新古典派経済学もこの近代人の分裂した要求を見ず、非現実的な「強い個人」を前提にしたため、その理論は観念的となり、現実によって裏切られることになった。

 1.マルクス主義
 マルクス主義経済学によれば、生産手段の有無あるいは経済的不平等という「下部構造」が階級意識という「上部構造」を規定するとされるが、実際には、そのような下部構造によって階級意識が形成されることはなかった。
 イギリスの労働者階級は、ルター派・高教会アルミニアン派に属するメソディズムの強い影響を受けた。ルター派は、「各人はひとたび神によって与えられた職業と身分のうちに原則としてとどまるべきだ」と説いた。この職業義務観から、服従と忍耐の労働規律がもたらされ、マスターとサーバントの身分関係が正統化され、ここから同じ職業の人々の階級意識が形成されていった。イギリスの労使関係法は、家族法から派生した主従法(Master and Servant Act)に由来する。イギリスの労働者階級は、マルクス主義のいうような資本主義による封建制の否定の結果として生まれたものでもなければ、ウェーバーのいうようなカルヴィニズムによる伝統主義の克服(近代化)の結果として生まれたものでもなかった。それは、逆に、封建的秩序=伝統を基礎にして形成された。主従の封建的身分関係が、やつら資本家階級とわれら労働者階級は違うのだ、「われら」は「やつら」にとって代わることはできないのだ、という階級意識を育成したのである。
 マルクス主義は労働者階級形成のこのような史実を見ることなく、他方で、搾取と絶対的窮乏化を前提に、労働者階級による階級闘争と権力奪取を求めた。これは「強い個人」を仮定するものだし、絶対的窮乏化が回避されてしまえば、階級独裁はメシア的前衛主義、絶望的英雄主義とならざるをえない。マルクス自身は革命による「自由人の連合」を考えたが、このような「高い負荷」に耐えられる個人は、どこにも理論化されていない。また、周期的恐慌をもたらす生産の無政府性は、社会主義的計画経済の採用により克服できるとされるが、無謬の中央計画当局の想定は非現実的である。そのことは、現存した社会主義国の歴史が示すとおりである。

 2. 新古典派経済学
 新古典派経済学も、合理的経済人(ホモ・エコノミカス)という非現実的な「強い個人」を前提にする。人間は、短期、長期の見通しのもとに自己利益を追求するものだから、規制を緩和し市場メカニズムにまかせれば、各人の自己責任のもとで資源配分が最適化され、経済は発展するというのである。
 しかし、人間の合理的計算能力は限定されており、ケインズのいうように長期的期待は計算ではなく「慣行(convention)」によって形成される。したがって、この慣行を自由化により破壊してしまうと、長期的期待を形成することができず、社会は不安定となり、経済は萎縮する。
 自由な市場は、本来、他者との関係を切断し、他者との間に形成されている共同体の慣行を破壊するものである。
 封建時代、人々は土地に縛られ、職業も自由ではなかった。土地も職業も共同体の強い規制のもとにあった。ところが、資本主義化により土地と労働に対する所有権が認められると、人々は共同体の規制から解放され、個人人格の自由と独立を得たが、他方、労働の所有者として市場に出ることによって他の商品と同じく貨幣という共通の価値基準に服することになった。市場は、市場外の様々な共同体的価値を破壊してしまった。
 それは、「顔の見える市場」から「顔の見えない市場」への移行といってよい。共同体的な「顔の見える市場」においては、他者との関係が見える(想像できる)のであり、人々の行動の背後には共同体の制度やルールがあり、慣行が機能している。人々はその信頼関係の上に行動し、そして、個人では負いきれないリスクは社会のセーフティネットにより保障されている。ところが、資本主義的な「顔の見えない市場」になると、他者との関係が見えなくなり、慣行が機能せず、セーフティネットもなくなってしまう。 このように市場は市場外の価値を破壊するが、皮肉なことに、市場は他者との関係、共同性なしには成立しえないものである。
 たとえば、手形は特定個人間の「顔の見える関係」をもとにした他者との信用関係が、その流通を保障していた。銀行券になると、初期にはそれを発行する地方名望家への信頼がその流通を保障し、中央銀行券になると国家への信認がその流通を保障した。今日の貨幣は、国家への信認が無くなれば通用しなくなる。
 他方、貨幣は流通範囲が広くなればなるほど匿名性を高め、他者への無関心を生み出し、自らの基盤である共同性の破壊へと向かう。共同性が弱体化すれば、貨幣は暴力的となり、市場を麻痺させ、自滅することになる。
 一方、市場も同じく他者性を排除するものである。新古典派の取引所モデルによれば、売手と買手は「せり人」を媒介とすることにより、相手を十分に知らなくても市場に参加することができる。双方の情報を完全に知り媒介する「せり人」がいるおかげで、市場で「他人にかかわりなく自己利益を追求」できるのだ。(この「せり人」の位置に中央計画当局を置けば、計画経済型社会主義になる。)
 しかし、現実には、このような全知全能の「せり人」(あるいは政府)はいない。市場主義を徹底すると市場原理は自滅し、市場の暴走が始まる。
 このように、合理的経済人、「強い個人」を前提とし、他者との関係とそこから生まれる共同性や慣行を排除する新古典派経済学は、自己の原理を徹底しようとすれば、破綻せざるをえないのである。

 3. 労働規制の緩和
 新古典派経済学によれば、労働についても規制緩和をし市場にまかせれば、効率的な分配ができるとされる。
 しかし、労働については、雇用主と労働者は本質的に対立する。雇用主は、労働者を自由に使うため、熟練や技能の個別性を解体し、どの労働者によっても代替可能なものにしようとする。これに対し、労働者は、自分の労働が他の労働者によって代替可能なものとなってしまえば、自分の地位が不安定になるので、これに反対する。労働者の自由を守るには、熟練や技能の所有を社会的に制度化し、これを守らなければならない。資格制度、雇用・昇進・解雇等の制度化によってはじめて、労働者は自己の労働力の所有権を確保できる。熟練を「自己のもの」として所有することを可能にする制度やルール、そして病気等に対して生活を保障する社会保障制度がなければ、労働市場の安定はない。
 ところが、日本企業は、熟練の所有を可能にするルールを作らせず、従業員を代替可能な労働力商品としてきた。労働者の側からすれば、自己の熟練所有の制度的保障がないので、他人によって代替されないためには、自分ですべての代替可能性を引き受け、他人の穴埋めをすることにより自分が穴埋めされることを防止しなければならない。こうして労働者は会社人間となり、過労が常態化する。企業社会では「自己なるもの」が否定され、均質化と微妙な違いによる差別化が進行する。これが、同質でないものを排除しつつ差異を示そうとする日本の会社集団主義である。ここには、労働者の自由も独立もない。
 労働、土地、貨幣のような本源的生産要素については、所有の限界、市場化の限界がある。もし市場にまかせたなら、弱者から順に市場から排除されていき、結局、市場は麻痺する。これを防止するには社会的共同性に基づくルールや制度が必要であって、こうしたセーフティネットに守られることによってはじめて、人は本当の「自己決定」をなしうる。個人の自己決定権と社会の共同性は、相補関係にあるのである。

 ――以上、『市場』の内容を私なりにまとめてみたが、比較的小さな本に多くの議論が詰め込まれているため、誤解や不正確な紹介になっている部分があるかもしれない。関心を持たれた方には、直接本書を読まれることをお勧めしたい。
                                      (谷川昌幸2000.6.18)