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柄谷行人『倫理21』平凡社、2000年、1600


 戦争、犯罪など人間の行為について責任を問うとはどのようなことかが、理論的に鋭く問われている。
 
われわれは、戦争や犯罪が為されたとき、そうした行為の責任を追及し、行為者を処罰しようとする。
 しかし、少し考えれば分かることだが、スピノザが言うように、あらゆる行為にはそれに先立つ原因があり、行為はそうした原因の必然的結果に他ならない。捕虜虐待には上官の命令があり、殺人には生まれ育った家庭環境がある。そうした原因を余すところ無く数え上げていけば、捕虜虐待も殺人も自由意志による行為ではなく、本人のいかんともしがたい諸原因の結果――そうするより仕方なかった――であり、したがって責任は問えないということになる。
 しかし、著者によれば、これは原因と責任、認識と実践(倫理)を区別しないところから来る誤謬である。カントを引きつつ著者は次のように説明する。

 「それ(殺人)には、様々な現実的契機が必要です。殺意があっても殺せない時もあるし、殺意がなくても殺してしまう時もある。そのような諸原因をつぶさに見ていけば、この犯人に 「自由」などはなく、したがって、責任もないということになります。

  ――私は私の行為する時点において、決して自由ではないのである。それどころかたとえ私が自分の現実的存在の全体は、なんらかの外来の原因(神のような)にまったくかかわりがないと思いなしたところで、従ってまた私の原因性の規定根拠はおろか私の全実在の規定根拠すら、私のそとにあるのではないと考えてみたところで、そのようなことは自然必然性を転じて自由とするわけにはいかないだろう。私はいかなる時点においても、依然として〔自然〕必然性に支配され、私の自由にならないものによって、行為を規定されているからである。それにまた私は、すでに予定されている〔自然必然的な〕秩序に従って出来事の無限の系列――  すなわち<a parte priori(その前にあるものから)>つぎつぎに連続する系列をひたすら追っていくだけで、私自身が或る時点にみずから出来事を始めるというわけにいかないのである。要するに一切の出来事のこういう無際限な系列は、自然における不断の連鎖であり、従ってまた私の原因性は決して自由ではないのである。(『実践理性批判』、波多野精一他訳、岩波文庫)

 しかし、カントはこの犯人に「自由」があると考えます。それは、彼が行為する時点で自由があったということではないのです。それは決してありえない。ただ、彼は、自らが自由にこの行為をした「かのように」見なさなければならない、というのです。自由は、「自由であれ」という命令(義務)においてのみ存在する。それは、いいかえれば、決定論的な因果性を括弧にいれよ、という命令です。

例えば、或る人が悪意のある嘘をつき、かかる虚言によって社会に或る混乱をひき起こしたとする。そこで我々は、まずかかる虚言の動因を尋ね、次にこの虚言とその結果の責任とがどんなあんばいに彼に帰せられるかを判定してみよう。第一の点に関しては、彼の経験的性格をその根源まで突きとめてみる、そしてその根源を、彼の受けた悪い教育、彼の交わっている不良な仲間、彼の恥知らずで悪性な生れ付き、軽佻や無分別などに求めてみる。この場合に我々は、彼のかかる行為の機縁となった原因を度外視するものではない。このような事柄に関する手続は、およそ与えられた自然的結果に対する一定の原因を究明する場合とすべて同様である。しかし我々は、彼の行為がこういういろいろな事情によって規定されていると思いはするものの、しかしそれにも拘わらず行為者自身を非難するのである。しかもその非難の理由は、彼が不幸な生れ付きをもつとか、彼に影響を与えた諸般の事情とか、或はまたそればかりで  なく彼の以前の状態などにあるのではない。それは我々が、次のようなことを前提しているからである、即ち――この行為者の以前の行状がどうあろうと、それは度外視してよろしい、 ――過去における条件の系列は、無かったものと思ってよい、今度の行為に対しては、この行為よりも前の状態はまったく条件にならないと考えてよい、――要するに我々は、行為者がかかる行為の結果の系列をまったく新らたに、みずから始めるかのように見なしてよい、というようなことを前提しているのである。行為者に対するかかる非難は、理性の法則に基づくものであり、この場合に我々は、理性を行為の原因と見なしているのである、つまりこの行為の原因は、上に述べた一切の経験的条件にかかわりなく、彼の所業を実際とは異なって規定し得たしまた規定すべきであったと見なすのである。(『純粋理性批判』)

 カントは感性的世界と理性的世界、現象と物自体を区別しました。こ−チェは理性的世界のような「背後世界」を批判しました。しかし、カントがいうのは、二つの世界があるというようなことではない。われわれは、自由を括弧に入れたときに現象(自然必然性の世界)を見出し、自然必然性を括弧に入れたときに自由を見出す、ということです。人が何かをやってしまったら、それがどんなに不可避的なものであろうと倫理的に責任があるのは、「自由であれ」という当為があるためです。そこで、彼に事実上自由はなかったにもかかわらず、自由であったかのように見なされなければならないわけです。」(70−74頁)

 では、「自由であれ」という倫理的命令に従う人には、どのような責任が生じるか。一つは、「運命愛」(ニーチェ)によって引き受けた自分の行為を徹底的に検証し認識すること。もう一つは、自己のみならず他者をも「自由なもの」として扱うこと――つまりカントの「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を、決してたんに手段として用いるのみならず、つねに同時に目的として用いるように行為せよ」という道徳命令を自らに課すことである。「他者」――過去・現在・未来における――への義務を引き受けることによって初めて、人は倫理的主体となり、自らも自由となるのである。
 戦争や犯罪の歴史的社会的原因の追求は可能だし必要だ。しかし、原因がいかに科学的に解明されようと、行為者個人の倫理的責任は免除されない。いやむしろ、倫理は自己の行為の徹底的認識と、行為の結果責任の引き受けを自由の主体たるわれわれに厳しく要求しているといってよいだろう。
 本書は、戦争、犯罪、教育問題、環境問題など、現代の深刻な諸問題を根本から考え直そうとするとき、たいへん参考になる好著である。
  (谷川昌幸、2000.5.30)