ラウテの共産思想: 加藤著『「所有権」の誕生』を手掛かりに

谷川昌幸(C)

加藤雅信著『「所有権」の誕生』(三省堂2001)が,「所有権」や「入会権」の事例研究としてネパールを扱っている。

われわれ文明人は,「この土地は私のものだ」とか「この文章は彼のものだ」などと,所有権があることを当たり前と思っている。ところが,著者によると,ラウテはそうではない。

「彼ら(ラウテ)は,長期間,一定地域に居住することはなく,小さな差し掛け小屋を建てて2〜3週間1か所に居住するのが通常である。その短期間の居住のさい,自己の居住用地をそれぞれが選ぶと,灰を用いて境界線を明確にして自己の居留地を確定し,他者が自己の家屋に入ることを許さない。彼らは猿を中心とした狩猟をするとともに,森林の木から木の椀や木箱等の木製品を製作し,その木製品と定住民族が作っている穀物等を物々交換して生計を立てている。」(同書,p.92-93)

著者は「灰を用いて境界線を明確にする」というところに「所有の原型」を見るものの,狩猟採取民族のラウテには明確な所有権の観念はないという。

おそらくそうであろう。ラウテにとって,雄大なヒマラヤは皆のものであり,自由に移動し,そこにある自然の恵みは日々の生活に必要なだけ(決してそれ以上ではない)とり,利用してもよいのである。そして,ここに,「この土地はオレのものだ」と主張する文明人との対立が不可避的に生じる。

文明人=ネパール政府は,だから彼らを定住させ(囲い込み),学校に通わせ,ものには持ち主がいるということ,つまり所有権を教え込み,法に服従させようとする。アメリカ先住民に白人入植者たちがやってきたのと同じことだ。

ラウテにトランプを教えるのも,同じこと。これは「文明」と「文化」の対立であり,残念なことに,歴史は文明(武力で担保された)による文化の征服の歴史だ。(「文明」と「文化」については,西川長夫『国境の越え方』が参考になる。)

毎日放送の「ウルルン」がラウテに対し,なぜあれほど高圧的であり得たのか? それは,自分たちの背後に武力で担保された文明があることを暗黙の前提にしていたからだ。もし,その文明をはぎ取り,直に向き合ったら,取材陣はラウテに到底かなわないだろう。ヒマラヤ山麓にあっては,ラウテの方が文化的に圧倒的に優位にあるからだ。

いまだ文明にあまり毒されていないラウテは,人類の宝だ。著者も引用しているが,ラウテのことを見聞きすると,いつもルソーの『人間不平等起原論』の一節を思い出す。

「ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と言うことを思いつき,人々がそれを信ずるほど単純なのを見いだした最初の人間が,政治社会の真の創立者であった。杭を引き抜き、あるいは溝を埋めながら,「こんな詐欺師の言うことを聞くのは用心したまえ。産物が万人のものであり,土地がだれのものでもないということを忘れるならば,君たちは破滅なのだ!」と同胞たちに向かって叫んだ人があったとしたら,その人はいかに多くの犯罪と戦争と殺人と,またいかに多くの悲惨と恐怖とを,人類から取り除いてやれたことだろう。」(世界の名著,p.152)

まさにルソー=ラウテこそが真の革命思想家だ。マオイストなど,彼らの前では,文明で武装した厚顔無恥な征服者にすぎない。