2006/08/27

民主主義と自由主義:ムフを手掛かりに

谷川昌幸(C)

シャンタル・ムフは,名前が面白いだけでなく,本も小難しく面白い。「人民」観念の氷上でから滑りしているように見えるネパールの有識者の皆さんにも,ぜひ読んでいただきたい。

「民主主義の逆説」以文社,2006
 Chantal Mouffe, Democratic Paradox, 2000

ムフは,ウェストミンスター大学民主主義研究所教授。つまり,民主主義そのものを専門としている。その専門家中の専門家から見ると,民主主義にはどんな逆説があるというのだろうか? (以下,典拠明示以外の部分は,拙論。ムフ説の要約ではありません。)

1.二つの民主主義
民主主義は,少なくとも19世紀半ば頃までは下品で信用のならない軽蔑すべき思想と見られてきた。古代ギリシャでも,最善の政体は君主制であり,民主制は次善の実現可能な政体にすぎなかった。ネパール民主制原理主義者には想像もつかないだろうが,民主主義なんて,たかがその程度のものにすぎない。まずは幻想を捨てること。

ところが,産業革命による産業資本家階級,労働者階級の急成長により,その怪しげな民主主義が支持を拡大,19世紀後半には優位に立ち,20世紀にはいると,ほぼ思想的ヘゲモニーを確立した。「この紋所が目に入らぬか」と黄門様(アメリカ)が民主主義印を示せば,「恐れ入りました」とみな頭を下げざるを得なくなった。

しかし,アメリカ黄門様に待ったをかけるもう一人の黄門様がいた。ソ連だ。アメリカ民主主義はニセモノ,本物は社会主義であり,自分たちこそが民主主義の本家だと主張した。こうして両国は,核兵器を振りかざし,MAD幻想にとりつかれ,人類絶滅を賭けてつばぜり合いの真剣勝負を挑んだ。

忘れてはならない。人類絶滅を賭しても勝利しようとしたのは,民主主義者であって,断じて君主制論者や貴族制論者ではなかった。

2.アメリカ自由民主主義の勝利
この2つの民主主義の死闘に決着をつけたのは,ちゃっかり非民主主義的要素を取り入れていたずる賢いアメリカだ。

People's powerの理念からすれば,社会主義の方が明らかに純粋であり,民主主義的だ。そのかぎりでは,アメリカは理念的・思想的には社会主義には到底かなわない。ところが,アメリカ政治には非民主主義的諸要素が最初から巧妙に取り込まれていた。

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness. (The Declaration of Independence, 1776)

この独立宣言の生命,自由,幸福追求を天賦人権とする思想は,自由主義・個人主義であり,民主主義そのものではない。これはロックの自然権としてのpropertyを読み替えたものであり,要するにマクファーソンの言う「所有的個人主義」,つまり財産追求の自由を宣言したものに他ならない。アメリカ民主主義がソ連民主主義に勝利したのは,崇高な民主主義理念によってではなく,結局は,この個人主義的自由主義の理念,極言するなら人間の卑俗な獲得欲に迎合したその所有的個人主義によってであった。

こうして勝利した民主主義は,「自由民主主義(liberal democracy)」と呼ばれている。いまや,アメリカが自由民主主義の紋所を示せば,北朝鮮,キューバ,中東のいくつかの国などを除けば,みなが「恐れ入りました」と平伏せざるを得ない状況となっている。

3.ネパールにおける自由民主主義の勝利
ネパールでも,1990年革命により自由民主主義が勝利した。90年憲法の大原則は自由民主主義だったし,いま作成中の暫定憲法も2007年に制定予定の新憲法も,おそらく自由民主主義を原則とするだろう。

ネパール中がpeople's powerで燃えているのに,これはちょっと変だ。マオイストよ,もっと頑張らないと,アメリカのブルジョア民主主義のお先棒担ぎにされてしまうぞ。

4.自由主義と民主主義との永遠の闘争
自由民主主義に屈するマオイストの軟弱も情けないが,脳天気にpeople's powerを唱えている民主制原理主義者たちのいい加減さも見過ごせない。

民主主義は,元来,自由主義とは別の原理であり,両者は容易に結合できないし,また安易な結合は危険でもある。

これは,先駆的には17世紀のJ・ロックが警告していたし,本格的には,民主主義の優位がはっきりしてきた19世紀のトクヴィルやJ・S・ミルによって取り上げられ,徹底的に議論された。

だから,いまさらムフさんにお説教されるまでもないのだが,繰り返し警告されないと,つい忘れてしまい,people's powerが人権と問題なく両立するかのような甘い幻想に流されてしまうことになる。美しいサイレンの声に心奪われると,破滅だ。ムフはこう警告する。

「一方には,人権の擁護,個人的自由の尊重という法の支配による自由主義の伝統があり,他方には,平等,支配者と被支配者の一致,人民主権を主要な理念とする民主主義の伝統がある。・・・・これらふたつの異なる伝統には必然的な関連があるわけではなく,歴史的接合の偶発性によるものにすぎない。・・・・その結合はスムーズな過程であるどころか,痛烈な苦闘の結果であったことを忘れてはならない。」(p.7)

つまり,自由民主主義は,本来相容れない2原理の強引な結合であり,両者は永遠に闘技的(agonistic)な関係にある。私たちは,まずこの基本的事実の確認から出発しなければならない。

5.剃刀シュミットの民主主義論
ここでムフが参考にしているのが,剃刀のように切れ味の鋭いカール・シュミットの民主主義論である。

「シュミットは,個人中心の道徳的言説をともなう自由主義的個人主義と,本質的に政治的で,同質性にもとづく同一性を創出することを目指す民主主義理念とのあいだには,克服しがたい対立があると主張する。自由主義は民主主義を否定し,民主主義は自由主義をを否定する。」(p.62)

つまり,people's powerにおいて,人民は同質でなければならず,異質なものは絶滅させられる。これが,あくまでも民主主義の出発点だ。

このことは,民主主義帝国アメリカが,民主主義秩序に入らない人々を「テロリスト」と見なし,防衛的先制攻撃(何たる偽善!)で地上から抹殺しようとしているのを見てもよく分かる。

ネパール・マオイストも,民主主義を認めなければ,抹殺は免れない。むろん,マオイスト自身が権力を取り民主化を突き進めるなら,非マオイストが「人民」「民主主義」の名で抹殺されることになる。これこそが,剃刀シュミットが言うように,民主主義の本質なのだ。

6.自由主義の反民主性
これに対し,自由主義は素性の怪しい思想だ。「法の支配」も「権力分立」も起源は言わずとしれた中世封建思想。お手本のイギリス人の「自由」は「古来の自由」。いずれもpeople's power人民主権の断固たる拒否だ。

近代になって,万人の自然権,つまり人は人として生まれながらに生きる権利を有するという普遍的人権の思想が出てくるが,これまたpeople's powerの否定だ。

多数決によっても奪えない権利があるというのが人権思想であり,これは自由主義の核心。たとえば,主権者人民が圧倒的多数で決めても,自白強制など,やりたくてもやれないことがいくつもある。これほど反民主主義的なことはあるまい。自由主義は,人類=個人の立場から,国家=人民の民主主義を否定するのである。

7.自由主義と民主主義のあいだの闘技
ムフの考えによれば,自由民主主義は,この二つの原理のあいだの緊張を引き受け,相互を一つの競技場における競技の対抗者(adversaries)として認めなければならない。これが彼女の言う「闘技的民主主義(agonistic democracy)」である。

したがって,この緊張関係・対抗関係を取り除きうると考える合理主義的アプローチはすべて拒否される。ロールズの「よく秩序づけられた社会」,ギデンズの「第三の道」,ハーバーマスの「討議的民主主義」のいずれも,結局,不健全な「対抗者なき政治」をもたらすことになる。

「それ[第三の道]は,あらゆる利害が和解可能であり,あらゆる人々が『人民』を構成するふりをするのである。」(p.23)

「自由民主主義が正しく理解されるならば,そこでは権力関係がつねに問題化され,いかなる最終的な勝利もありえないのである。しかしながら,そうした『闘技的』民主主義では,政治には対立と分離が内在するものであって,『人民』の統一の十全な実現としての決定的な和解が達成されるような場が存在しないことを,私たちは受け入れなくはならない。」(p.24-25)

8.「人民」の危険性
昨今のネパールは,こんな議論とはおよそ無縁だ。知識人も政治家も,「人民」を代弁し,people's powerを大合唱している。「人民」を主張するには,非人民が不可欠なことなど,まるで頭にない。

幸か不幸か,これまでは国王が非人民として「人民」の構成を可能としてくれた。これから先,王制が廃止されれば,それと同時に「人民」も消散する。どうするつもりだろうか?

そうした場合,これまで世界各地で例外なくやられてきたことは,非人民(非国民)をでっち上げ,弾圧し,それにより「人民」を確認し,維持強化することであった。ネパールがこの悲劇を避けるには,people's powerの自己催眠から一刻も早く覚醒するしかない。

9.実践としての民主主義
それともう一つ確認しておくべきことは,人民が権力を取り,人民の意思通り法律をつくったからと言って,その法律が守られ,民主主義が実行されるわけではないということ。

それは,90年憲法の民主的諸条項がほとんど守られなかったことを見ても,あるいは日常生活のために作成された諸規則が多くの場合遵守されていない現状を見ても,すぐ理解されるであろう。peopple's powerで憲法をつくっても,まず絵に描いた餅,守られはしない。

「ウィトゲンシュタインにとって,『規則に従う』ことは一つの実践であり,規則についての私たちの理解はある技術の習得のうちにあるのである。一般的関係の語法は,したがって,間主観的な『実践』もしくは『慣習』として理解されることになり,それはチェスやテニスのようなゲームとさして変わらないのである。」(p.112)

「ウィトゲンシュタインにとって,規則とはつねに実践の要約であり,個々の生の形式から切り離すことはできない。・・・・こうした視座からみると,民主主義への忠誠とその諸制度の価値への信念は,それに知的基礎を与えることに依拠しているわけではないということになる。むしろそれは,ウィトゲンシュタインが,『あるひとつの座標系を情熱的に受け入れることにすぎないのではないか,と思われる。つまり信仰なのではあるのだが,ひとつの生き方,生の判断の仕方なのである』となぞらえるものの本性においてあるのである」(p.150)

「マイケル・オークショットが喚起するように,政治的諸制度の権威は合意の問題ではなく,公的なもののうちに刻印された諸状況に従う義務を認める市民の絶えざる承認の問題なのである。この思考にしたがうと,民主主義の諸制度への忠誠で真に問題になっているのは,民主主義的市民の創出を可能にする諸実践の総体の構成にあるということが理解できる。」(p.147)

10.人民主権の合理の上で空転
民主主義は,実体としての「人民」を想定し,そこから合理的に制度を作り出したからと言って機能するものではない。合理の氷上で空転するのみだ。

民主主義は,実践であり,エートスである。これはむろん合理的には説明し尽くせず,したがって非合理的な「摩擦」である。しかし――

「ウィトゲンシュタインは次のように言う。『われわれはなめらかな氷の上に迷い込んでいて,そこでは摩擦がなく,したがって諸条件がある意味では理想的なのだけれども,しかし,われわれはまさにそのために先へ進むことができない。われわれは先へ進みたいのだ。だから摩擦が必要なのだ。ザラザラとした大地へ戻れ!』。」(p.151)