2006/10/10

ネグリ=ハート「マルチチュード」(1) グローバル帝国の解剖

谷川昌幸(C)

アントニオ・ネグリとその弟子マイケル・ハートの共著『マルチチュード』(NHK出版)を読み始めた。100円電車内だが,これはまた何たる明晰さ,揺れも騒音も遮断され,一気に現代世界の冷徹な解剖と怒りの告発に引き込まれた。翻訳も見事だ。

ネグリ=ハートの共著は,この本も『帝国』(以文社)も大著である。しかも,ネグリはイタリア急進左派の指導者であり,1979年テロリスト嫌疑で逮捕,投獄され,83年フランス亡命,97年イタリア帰国で収監といった「危険人物」である。これまで敬遠してきたが,彼らの本は,現代世界のグローバル化を語るには,やはり避けては通れないようだ。

で,ネパールとの関係? もちろん,直接的には,ない。しかし,グローバル化は,米欧日などの中心部分よりも,途上国の方に大きな衝撃を与えている。グローバル化は,資本主義システムの外部にいたネパールのような国々を,内部の周縁部分に組み込むことだから,その変化は大きく,破滅的な打撃を与える場合が少なくない。

ネパール・マオイストは,決して21世紀のアナクロ妖怪ではない。旧知の名だが,内実はこのグローバル「帝国」に対する「新しい」抵抗運動としての様相を持ち始めている。エベレストの赤旗が世界「帝国」への抵抗のシンボルとなるのも夢ではない。

では,マルチチュードとは,何なのか?

2006/10/13

ネグリ=ハート「マルチチュード」(2) 人民とマルチチュード

谷川昌幸(C)
 
   ネグリ=ハート「マルチチュード」(1) グローバル帝国の解剖

1.グローバル化の2側面
ネグリ=ハートによると,グローバル化には次の2側面がある。

「ひとつは,<帝国>が,支配と恒常的な対立という新しいメカニズムを通して秩序を維持する,階層構造と分裂に彩られたネットワークをグローバルに広げていくという側面である。」

「だがグローバリゼーションには,国境や大陸を超えた新しい協働と協調の回路を創造し,無数の出会いを生み出すという,もう一つの側面もある。これは,世界中の人びとが皆同じになることを意味するわけではない。そうではなく,それぞれの違いはそのままで,私たちが互いにコミュニケートしたり一緒に行動したりすることのできる<共>性を見いだす可能性が生まれているということだ。したがってマルチチュードもまた,ネットワークとして考えることができるだろう。すなわち,あらゆる差異を自由かつ対等に表現することのできる発展的で開かれたネットワーク,言いかえれば,出会いの手段を提供し,私たちが共に働き生きることを可能にするネットワークである。」(p.19)

2.人民・大衆・労働者階級
グローバル化の積極的未来を切り開いていくのが,マルチチュード。これは,旧知の「人民」「大衆」「労働者階級」ではない。

(1)人民=「人民は,伝統的に統一的な概念として構成されてきたものである。いうまでもなく,人々の集まり(ポピュレーション)はあらゆる種類の差異を特徴とするが,人民という概念はそうした多様性を統一性へと縮減し,人びとの集まりを単一の同一性と見なす。『人民』とは一なるものなのだ。」(p.19)

(2)大衆=「大衆の本質は差異の欠如にこそあるのだ。すべての差異は大衆のなかで覆い隠され,かき消されてしまう。人びとのもつさまざまな色合いは薄められ,灰色一色になってしまうのだ。大衆が一斉に動くことができるのは,彼らが均一で識別不可能な塊となっているからにすぎない。」(p.20)

(3)労働者階級=「労働者階級という概念は今や,生活を維持するために働く必要のない所有者から労働者を区別するためだけでなく,労働者階級をそれ以外の働く人びとから切り離すための排他的な概念として用いられている。」(p.20)

明快な区分だ。「人民」は,まさしく同一的単一性をもつ(べき)存在だ。だから,「人民の意志」とかpeople's powerといった美しいウソが掲げられ,人々は「人民」神を礼拝させられ,神を操る神官(人民共和主義者)どもの食い物にされるのだ。

ネパールに「人民」はいるか? 半封建的疑似「人民」はいるが,近代的な本物の「人民」はまだいない。

「大衆」はリースマンのいう「孤独な群衆」にほかならない。砂のようにバラバラで,堆積すれば砂漠のように風で動き,野蛮に文化を破壊する。

ネパールには,まだ「大衆」もいない。

「労働者階級」は,「人民」の矮小な代替物。国内に不平分子がいて「人民」を独占できないので,「われこそは労働者階級なり」といって,他者を差別するための概念となっている。同一性をもつ(べき)閉鎖集団。

ネパールに「労働者階級」はいるか? 都市部の工場被用者やタクシー運転手のような人々は,比較的近代化しており,階級意識を持ち始めているかもしれない。しかし,働く人々の大半は即自的(階級自覚を持たない)農民や奉公人で,近代的な「階級」はまだ形成途上の段階だろう。だから,ネパールで「人民」「大衆」「労働者階級」といった舶来概念を使うのは,要注意だ。

2.マルチチュードの定義
マルチチュード(Multitude)は,上記3概念とは異なる概念だ。すでに引用した部分に,マルチチュードは定義されているが,もう少し補足すれば,次のようになる。

「マルチチュードでは,さまざまな社会的差異はそのまま差異として存続しつづける――鮮やかな色彩はそのままで。したがってマルチチュードという概念が提起する課題は,いかにして社会的な多数多様性が,内的に異なるものでありながら,互いにコミュニケートしつつともに行動することができるのか,ということである。」(p.20)

モデルは,グローバル化の旗手ともいうべきインターネットである。「ここでも,インターネットのような分散型ネットワークは,マルチチュードにとっての格好の初期イメージまたはモデルとなる。その理由は第一に,さまざまな節点(ノード)がすべて互いに異なったまま,ウェブのなかで接続されていること,第二に,ネットワーク以外の外的な環境が開かれているため,常に新しい節点や関係性を追加できることである。」(p.21)

3.マルチチュードの民主主義
(1)<共>的行動
こうした特性を持つマルチチュードは,グローバル化世界の民主化に貢献することができる。

「マルチチュードが人民のような同一性も,大衆のような均一性ももたない以上,マルチチュードの内的差異は,相互のコミュニケーションや<共>的行動を可能にする<共(the common)>を見いださなければならない。(p.21)

つまり,差異を認めた上での「協働とコミュニケーションのネットワークを創り出す」こと。これこそが,グローバル民主主義の展望を切り開くのである。

(2)民主的組織化
革命独裁,people's powerではなく,「権威の所在を協働的な関係性の中に置くネットワーク状の組織への移行」であり,「抵抗と革命組織が単に民主的な社会を達成するための手段であるにとどまらず,その組織構造の内部に民主的な関係性を創り出す」(p.23)ということである。マルチチュードの様々な異議申し立てや抵抗がグローバル民主主義を創り出していくのだ。

4.ネパールとマルチチュード
ネパールにおいて,このようなマルチチュードを語ることに意味はあるのか? 「人民」「大衆」「労働者階級」ですら存在しないのに,時期尚早ではないか?

そうとも言えない。現代のグローバル化は,「帝国」(後述)の出現であり,中世世界の復活を思わせる要素がたぶんにある。

日本の戦前の「近代の超克」は噴飯ものだったが,後発者の優位ということは十分にありうる。

ネパールに押し寄せてきたグローバル化は,著者たちがいうように,一面では自由市場経済化(ウルトラ近代化)の暴力だが,他方では,それは差異(中世的社会の特質)のネットワーク型再構築でもある。「差異」は,要するに「差別」だから,要注意にはちがいないが,ネパールでもマルチチュード型民主化の可能性は大いにあるのではないか。

People's powerは血塗りの近代民主主義だ。人殺しに明け暮れ,いまも「アメリカ人民の民主主義」のため,あちこちで大量殺戮が行われている。

「人民の,人民による,人民のための政治」という場合の「人民」とは,いまのアメリカでは誰か? そして,いまのネパールでは誰であろうか?

* アントニオ・ネグリ,マイケル・ハート『マルチチュード』(上下)幾島幸子訳,NKKブックス,2005