2006/09/05

「法の支配」と憲法の改正

谷川昌幸(C)

やっとまともな憲法論に巡り合えた。著者は,残念ながら,ネパール人ではない。

Jenik Radon, "A Constitution - A Living Instrument," eKantipur, Column, Jul.2

1.著者ラドン氏
著者の名前はラドン氏。放射線で焼き殺されそうな恐ろしい名前だが,たぶん本名だろう。コロンビア大学助教授で,インデラガンディー研究所の客員教授も務めた。

専門は国際経営法学らしく,石角完爾氏と共同で「Radon & Ishizumi法律事務所」を運営されている。扱っておられる分野には,いかにもラドン氏らしく,石油・鉱山等の資源関係もあるらしい。
  (参考)千代田国際経営法律事務所 / 石角完爾氏

 そのラドン氏が,どうしてネパールに興味を持たれ,カンチプルに憲法論を寄せられたのか,そこは全く分からない。ここでは,そうしたことはカッコに入れ,論文の内容そのものを紹介することにする。

2.90年憲法の改正
ラドン氏によれば,1990年憲法はたしかに王権規定に問題はあったが,この憲法で初めて人権が認められ,社会的,経済的公正の基礎が確立されたのであり,したがって全面廃棄ではなく,改正こそが望ましい。なぜなら,「継続性,法の支配の遵守」がなければ,ネパールの国際的信用は失墜し,発展は望めないからである。90年憲法は,ネパール民主化のpivot(原点)であり,土台なのである。

3.生きている憲法
「この憲法は生きている制度(a living instrument)であり,したがって時代に合うように変更,調整しなければならない。」
憲法は,ひとつの共有の正義感覚の下に様々な人々を一つにまとめている精神を文書化したものなのである。

4.法の支配
ラドン氏は,その憲法の精神ないし魂を「法の支配」と呼び替え,その起源はRechtstaatにあるという。つまり,「恣意的権力行使ではなく,予見可能で信用できる成文の規則や法律によって統治される国家秩序」である。

「1990年憲法は生きている文書であり生命を持つ制度だから,新憲法はそこから生まれ出るものでなければならない。そして,それは世界中で認められているように,法の支配によって,つまり憲法改正の合法的手続によって行われるものでなければならない。」

5.根本規範としての憲法
憲法は,すべての法の基礎であり,法の支配の中心である。 だから
「1990年憲法を安易に廃止してしまえば,ネパール人がこれまで享受してきた大切な人権や他の諸法の正統性も妥当性も否定されてしまうことになる。」

「1990年憲法は,基本的には,その精神において民主的であり,したがって改正による変更を予想し許容している。」だから,憲法の改正手続きに従って改正すれば,国家秩序の生命としての「法の支配」は少しも害されることはない。

6.「法の支配」否定の愚
「憲法改正以外の方法(憲法廃止)は,ネパールを治めている秩序と正義の命の鼓動を止めてしまうことだ。」
ここで「法の支配」を殺してしまうと,習い性となり,また「法の支配」は無視される。

「そうなれば,不安定と予見不能性が生じ,ネパールは政治的にも経済的にも国際社会で評価を落とし,受け入れられなくなり,信用を失うだろう。」

「投資家は,投資の安全を確保するため,安定した予見可能な法の支配の枠組みがなければ,その国には投資しないだろう。」

7.南アフリカに学ぶ
ここでラドン氏が引き合いに出すのが,南アフリカのネルソン・マンデラ氏だ。

南アフリカののアパルトヘイトは国際的非難を浴び,既存憲法の廃止を主張しても,それには十分正当な根拠があるように思われたが,「平等な権利への闘士にしてノーベル平和賞受賞者のネルソン・マンデラとその党は憲法廃止を求めず,その改正を要求した。」

「革命的精神を持っていたにもかかわらず,彼らは,現行統治体制と法の支配の精神との間の重要な区別をすることができた。その結果,彼らは法の支配の枠組み内で,新憲法を起草した。その1996年憲法は世界で最も進歩的な憲法と称えられているにもかかわらず,正式名称は1996年第108法(Act108 of 1996)である。名称は地味だが,はっきり示しているのは,この憲法は無から(ex nihilo)生じたのではなく,南アフリカの法の支配遵守の精神を具現していた前憲法から生まれたということだ。南アフリカがその後享受している平和と繁栄は,その法の支配遵守が正しかったことの証である。」

8.民主化過程の永遠性
ラドン氏は,民主化は「決して終わることのない永遠の発展過程」だという。それは「人類の不断の闘争」であり,終わりはない。民主主義(democracy)は民主化(democratization)としてのみ存在する。

「ネパールはいま難しい選択に直面している。勝利に浮かれ,1990年憲法を無視し抹殺してしまうか,・・・・それとも民主主義的手続により90年憲法を改正するという課題に取り組むか。」

ラドン氏は,ネパール人民が法の支配を遵守し,改正手続により憲法を改正し,こうすることにより「国民の生命の鼓動に新しい力を与える」ことを期待している。

9.革命か改良か?
以上のラドン氏の憲法論は,資本主義(企業・投資家)のための法秩序の安定というイデオロギー性はあるものの,それをとりあえず棚上げにするならば,議論自体は問題の核心をついており,私はほぼ全面的に同意する。

むろん,改良(改正)ではなく,革命が必要な状況はある。ラドン氏も,放射線で焼き殺さねばならないような悪質な,改良の余地のない体制や憲法があることは,おそらく認めているであろう。こうした場合は,革命,つまり旧憲法の全面的破棄もやむを得ない。

しかし,いまのネパールは,どう見ても革命の危険を冒さなければならないような状況にはない。90年憲法の改正手続で改正は十分に可能なのだ。

「法の支配」は,むろん保守的な政治原理だ。ラドン氏は,ドイツのRechtstaatを引き合いに出すが,むしろそれはイギリスの伝統的な「法の支配」と考えた方がより適切だ。

人々の歴史的に共有する根元的な規範意識(=法)にすべての人が従うというのが「法の支配」である。それが破壊されてしまえば,どんな憲法を作ろうが,憲法を支える共同体が崩壊してしまっており,守られはしない。「法の支配」の精神が失われたら,社会はアナーキーとなるだろう。