2006/09/02

ロールズの正義と核保有

谷川昌幸(C)

John Rawls(1921-2002)は,現代アメリカの代表的哲学者であり,主著『正義論』(1971)は国家や社会について考える時の必読文献である。また『政治的リベラリズム』(1993)は,異なる価値観のあいだの「公共的理性」による合意の可能性を説いたものであり,いまのネパールの政治状況を考える時の参考にもなる。

そのロールズの3番目の著書『万民の法』(1999)の翻訳が出たので,読んでみた。

ジョン・ロールズ『万民の法』岩波書店,2006
 John Rawls, The Law of Peoples, Harvard UP, 1999

書名が興味をそそったので大いに期待したが,これにはがっかり,こんな議論はダメだ。むしろ,ロールズともあろう人がなぜこんな議論をするようになったか,そちらの方がはるかに知りたいところだ。

1.国家民衆の5分類
ロールズは,国の民衆(people)を次の5つに分類する(p.4)。
 (1)道理をわきまえたリベラルな諸国の民衆(reasonable liberal peoples)
 (2)良識ある諸国の民衆(decent peoples)
 (3)無法国家(outlaw state)
 (4)不利な条件の重荷に苦しむ社会
 (5)仁愛的絶対主義(benevolent absolutism)の社会

これらのうち(1)と(2)は「秩序だった諸国の民衆」とされ,「万民法」はこの2つの国の民衆に妥当する。単純化して言い換えるなら――
 (1)理想的なリベラルな民衆
 (2)リベラルではないが,許容される民衆(後述)
 (3)outlawの許容され得ない国
 (4)困窮下にあり援助されるべき民衆
 (5)いくつかの人権は守られているが,政治参加は認められていない民衆

ロールズ自身は,回りくどく否定しているが,これは実際には,西側リベラル民主主義が最高であり,これをお手本にしなさいということに他ならない。

2.カザニスタンは侮蔑では?
たとえば,ロールズは(2)の民衆を説明するのに,カザニスタン(Kasanistan)という架空のイスラム国を設定している。この国は,リベラルには劣るが,「良識のある」国であり,万民法を守ることができ,したがって許容される。

ロールズに悪意はないであろうが,カザニスタンの国名は中央アジア風であり,カザフスタン,アフガニスタン,パキスタンなどを当然連想させる。

ロールズは,このカザニスタンを「良識ある階層社会のイスラム教徒の民衆」と呼んでいる。しかし,ムスリムからすれば,堕落したリベラルごときに「良識ある」などとバカにされたくはないだろう。彼らにとっては,イスラム社会こそが最善であり,二流扱いされるいわれは全くないはずだ。この本がもしイスラム圏で読まれたならば,焚書にされてもおかしくはない。

ロールズのような一流の学者でも,「正義」を掲げると,他の価値観への想像力が失われ,西洋中心主義に傾いてしまうようだ。

3.民主主義の平和
この「正義」論から出てくるのが,民主主義平和論(democratic peace)だ。これは,もう,どうしようもない。ブッシュ氏が大喜びしそうな議論だ。

「戦争の問題にかんする決定的な事実は,立憲民主制社会同士が互いに戦争を始めるようなことはないということである。これは,そうした社会の市民がとりわけ正義を尊重するよき人々だからというわけではなく,ただ単に,彼らにはお互いに戦争をする理由がないということである。諸々の民主的社会と近代初期ヨーロッパの国民国家群とを比較して見よ。イングランド,フランス,スペイン,ハプスブルク朝オーストリア,スウェーデン,その他の国々は,領土や宗教的正統性,権力と名誉,列強間での優越的地位を手に入れるために,王朝間戦争を繰り広げた。これらは君主や王族たちの戦争だったのである。こうした社会は,その内的な制度構造からして,生来,他の国家に対して侵略的で敵対的な形に築かれていた。民主的社会間の平和という決定的な事実は,民主的社会のその内的な構造に理由を持っている。というのも,こうした社会は自衛のためであったり,諸々の人権を守るための不正な社会への介入などの危機的ケースを除けば,あえて自ら進んで戦争を開始したりしないからである。立憲民主制社会はお互いに安全が保障されており,それらのあいだでは,平和があまねく行き渡るのである。」(p.9-10)

これは,明白なウソだ。近代以降についてみると,ほとんどの戦争に民主主義国が関与している。特に第2次大戦以降のおびただしい地域紛争には,たいてい民主主義国が直接または間接的に関与している。これは常識だ。

またロールズは,民主主義国には「戦争をする理由がない」などと,とぼけたことを言っている。先進民主主義国は,周縁諸国からの搾取構造を作り上げ,これにより経済的繁栄と政治的民主主義を享受してきた。民主主義諸国の平和は,途上国にとっては構造的暴力である。もし途上国がこの構造を変えようとすれば,先進諸国は防衛行動を取るのであり,事実,世界各地で戦争をしてきた。先進民主主義国は相互に攻撃はしていなくても,構造的暴力という戦争の渦中にあるのであり,しかもその構造を守るための「戦争をする理由」は山ほどあるのである。

4.正戦論
ロールズ自身,リベラルな国の民衆には「戦争をする理由がない」と言っておきながら,平気で,次のようにいう。

「民主的平和の観念は,次のことをも含意する。リベラルな諸国の民衆が戦争をするとすれば,それは,満足していない社会,つまり(私のことばで言えば)無法国家との戦争以外にはあり得ないということだ。そのような国家の政策がリベラルな諸国の安全や安定を脅かすとき,リベラルな民衆は戦争を行うが,それは,自分たちのリベラルな文化の自由と独立を守り,自分たちを従属させ,支配しようとする国家に真っ向から対抗しなければならないからである。」(p.66-67)

5.無法国家への非寛容
ロールズの正戦論は,自衛戦争の域を超え,無法国家への非寛容,攻撃へと突き進む。

「われわれは,リベラルな諸国や良識ある諸国の民衆のための万民の法を彫琢してきたが,これにしたがえば,それらの諸国の民衆は,断じて,無法国家を寛容に受け入れることはない。このように,無法国家に対する寛容を拒絶することは,リベラリズム,ならびに,良識あるということの当然の帰結である。・・・・リベラルな諸国と良識ある諸国の民衆は,万民の法の下,無法国家に寛容な態度で望まない権利を有しているはずである。リベラルな諸国と良識ある諸国の民衆には,このような姿勢を示すことにかんし,極めて正当な理由がある。無法国家は好戦的で,危険な存在である。このような国家群がそうしたやり方を改めれば――ないしは,無理矢理にでも改めさせられれば――あらゆる国の民衆はますます安全に,かつ安心して暮らせるようになるだろう。」(p.117)

自由は,自由を否定する自由は認めない,という周知の議論であるが,ロールズのこの部分の主張は,そうした本来は防衛的な議論がいかにたやすく自衛の範囲を超え,積極的な正義実現のための正戦論に転化するかを如実に物語っている。

6.都市爆撃,核保有の容認
ロールズにおいては,無法国家が相手となると,都市爆撃も核兵器保有も認められてしまう。

「第二次世界大戦中,イギリスは適切にも,民間人の厳格な地位を一時停止とし,そして,これにより,ハンブルクやベルリンに爆撃を加えることができた。・・・・それは,こうした爆撃により何かとても大きな成果が得られる場合に限っての話しである。・・・・イギリスが孤立した状態にあり,ドイツの圧倒的な力をうち負かすためにそれ以外の手立てが見当たらなかったような段階なら,ドイツ諸都市への爆撃も,おそらくは正当化可能であったと言えるだろう。」(p.144)

「無法国家が存在する限り,無法国家を寄せつけず,無法国家が核兵器を手に入れて,リベラルな民衆の諸国や良識ある民衆の諸国を相手にすることがないよう,ある程度の核兵器は保持する必要がある。」(p.12)

正戦論を認めたら,結局は,核保有を認め,核保有を認めたら,核使用を認めることになる(使用を前提としない核保有は形容矛盾だから)。現代最大のアメリカ哲学者ロールズも,原理的にはネオコンのブッシュ氏と何ら変わらなくなってしまった。

むろん,ここで公平のために,ロールズが都市爆撃や原爆使用に厳格な制限を付していたことは,明記しておかなければならない。戦争の帰趨がほぼ決まった後のドレスデン爆撃や対日焼夷弾爆撃は許されないし,広島・長崎への原爆投下もむろん許されない。

しかし,無法国家に対する正戦を認めてしまえば,都市爆撃にも原爆使用にも歯止めはかからなくなる。ドイツ軍が圧倒的に攻勢だった頃,もしアメリカかイギリスが原爆を完成させていたなら,ロールズの理論からすれば,原爆は使用されてもよいことになる。しかし,本当にそれでよいのだろうか? このギリギリの選択に迫られたとき,最も観念的と思われていたガンジーの非暴力的抵抗が実際には非常に現実的な選択肢として浮かび上がってくるのである。

7.正戦論の危うさ
ロールズの正義論は,神はむろんのこと,人民の意思などを引証して絶対的正義を唱えるような類の正義論ではない。もともとそれは,社会契約論の伝統に立ち,個々人の権利を公平に調整するための権利調整原理に他ならなかった。

しかし,そのリベラルなロールズでさえも,「正義」「公共的理性」などを口にすると,民衆を「良識ある民衆」とそうでない民衆に分け,正戦論をとり,ついには都市爆撃や核保有まで認めることになってしまう。学者らしく周到な限定が随所に付されているが,それらを外し議論の大筋を追うと,現代アメリカの対テロ戦争のイデオロギーに近いものになってしまう。

いまネパールでは,「人民」「人民権力」「民主主義」などの抽象的政治観念が政治の場でさかんに唱えられている。そうした観念は,民衆動員力が大きいく,使いたくはなるだろうが,本質的に危険であり,取り扱い要注意である。幹部たちが「人民」といったら,「それは誰」とつねに問いただすくらいの気構えが必要であろう。