<紹介>

パクス・デモクラティア 冷戦後世界への原理
      ブルース・ラセット(鴨 武彦訳),東京大学出版会,1996
       Bruce Russett, Grasping the Democratic Peace, 1993

いかにもアメリカらしい,たいへん興味深い本だ。「民主国家どうしは戦争をしない」という命題が,何のためらいもなく,真面目に,科学的装いの下に語られている。同じアングロサクソンでも歴史的なイギリス人ならこんな単純な発想はしない。文化的フランス人だと,はなから相手にしないだろう。それほどアメリカ的だから,この本は快著といえるし,また,これを受け入れているアメリカは空恐ろしいといえる。

議論の大筋は,単純である。
「(a)民主国家どうしが戦うことはまれである。・・・・(b)民主的な国は互いの紛争を解決する他の手段を持っているので互いに戦う必要がない。・・・・(c)民主的な国々は民主国家どうしは戦うべきでないことを信じている」(3頁)

「世界に民主国家が増えるほど,アメリカや他の民主国家にとって敵となりうる国が減少し,平和な地域が拡大することになる。」(3頁)

「二つの民主国家の間に利害の対立が生じたときには,これらの国々はお互いの関係に民主的な規範を適用できるし,これらの規範のおかげで紛争の多くは武力行使の威嚇や実際の武力行使にまで至ることはないのである。もしも紛争がそこまで発展してしまっても,少なくとも全面戦争までは至らないだろう。それと対照的に,民主国家が非民主国家と紛争を起こしたときには,非民主国家がこれらの規範によって制約されるとは期待しないだろう。その民主国家は,非民主国家が民主国家固有の穏健さに付け入って自国を搾取したり破壊するのを防ぐためには,非民主国家と同じようにより厳しい行動様式を取らざるをえないと感じるだろう。」(58-59頁)

「民主的な規範は,非民主的な規範よりも,譲歩を強いるために付け入れられやすい。このようにつけ入れられるのを防ぐために,民主的な国々は,非民主的な国々に対応するのに非民主的な規範を用いるだろう。」(62頁)

「非民主的な国々の指導者は,民主的な国々の指導者が拘束を受けていることを見越して,対立的な争点で民主国家がより大きく譲歩するように圧力をかけるだろう。・・・・民主的な国々は,要求どおりに大きく譲歩するよりは,非民主的な国々に対して大規模な武力行使を始めるだろう。」(70頁)

「もし,歴史を,戦争と征服の歴史と考えるならば,民主的世界は,その意味で,『歴史の終焉』を意味するだろう。」(231-2頁)

この議論は明快だが,間違っている。まず第一に,民主国家は,国内紛争を平和的に解決する文化・規範と構造・制度があるので,これが対外政策にも反映し,民主国家どうしの場合は戦争になることが少ないと主張されているが,民主国家が歴史的にどのように成立し,どのような条件の下で維持されているかを説明しなければ,説得力はない。他国に先駆け強国化,あるいは近代化・資本主義化した国々が,その特権的地位の上に民主制を築き維持しているとすれば,そうした民主国家どうしに戦争をする必要が少ないのは当然である。

パクス・ローマーナやパクス・ブリタニカに見られるように,強国が既存秩序維持のための「平和」を求めるのは当然である。世界秩序から見た場合,民主国家は明らかに既存秩序維持に利益があり,したがって戦争を避けようとする。この議論は,ナチスや軍国日本の「持たざる国」の戦争理由の正当化につながるおそれがあるので注意を要するが,たとえば南北対立の文脈の下で見れば,それが大きな真実を含んでいることは否定できない。

第二に,この本は,「人民」「国民」「大衆」の非合理性と,それに依拠する民主国家の危険性を完全に見落としている。いうまでもないことだが,「デモス」は往々にして熱狂し好戦的となる。健全なものであれば,君主制や貴族制の方が現実主義的であり,破滅的戦争は避けようとするものだ。

第三に,もし民主国家は戦争をしないとすれば,戦争原因はあげて非民主国家の側にあることになる。民主主義の錦の御旗を手にする国家は,何のためらいもなく,彼らが「非民主的」と見なす国家に対する戦争を「正戦」として戦うことが出来る。しかし,これは,民主主義も一つのイデオロギーにすぎないことを失念した,あまりにも素朴な議論である。マニフェスト・デスティニィは,アメリカ人には自明かもしれないが,他の多くの人々にとっては,アメリカ大国主義の正当化論にすぎない。

第四に,この本の致命的欠陥は,戦争を「大規模で制度的に組織された死者(千人以上)を伴う暴力」と定義し,主権国家間の正規戦にほぼ限定したことである。そのため,かつての植民地戦争やグローバル化時代の紛争の大半を占める内戦や地域紛争は,この定義に入らず,科学的に扱えないと言う理由で除外されている。まさに,科学を利用した民主国家の正当化論の見本である。科学の名により非正規戦を排除したおかげで,民主国家は戦争をしないという命題が客観的事実として統計的に認められ,そして民主主義のための介入の正当性がそこから導出されている。

先進民主国家は,たしかに相互の正規戦はほとんどしなかったかもしれないが,それ以外の戦争は無数に行ってきた。第二次大戦以後も,先進民主国家は世界のどこかで内戦や地域紛争に絶え間なく介入し,戦闘を行っている。しかし,この本の科学的分析によれば,これらは「戦争」ではなく,したがって平和的民主国家と矛盾するものではない。民主国家は,平和国家のまま,安心して民主化=平和実現のために「非民主的」諸国家や地域に介入できるのである。

この本には,自己相対化,他者感覚がまるでない。次の文章(本書57頁)は,アメリカ国際法学会のエリフ・ルート会長が1917年の年次総会で行った会長演説である。戦時下であり,一面の真理もあるが,この限定なき自己正当化は,基本的には本書の議論と同じであり,また「民主主義の帝国」と称される現在のアメリカの国策とも原理的には同じである。

「軍事的独裁制が存続するかぎり、民主制は攻撃を受ける危険がある。攻撃は確実に起こるだろうし、民主制の側に備えがないことが確実に分かるだろう。紛争は避けられず、また世界的な規模で起こる。そしてその紛争は徹底的なものとなる。民主制は、安全を守るためには、可能な時、可能な場所で、敵を殺さなければならない。世界は、半分が民主的で半分が独裁的というわけにはいかない。」(57頁)

(谷川昌幸/2004.11.30)