J-P. サルトル『ユダヤ人』(1947)
                             安堂信也訳、岩波新書、2000(1956)


 異文化問題の中でももっとも古く深刻なものの1つは、いうまでもなく反ユダヤ主義である。今日の多文化主義の問題も、つきつめれば西洋におけるユダヤ人問題と本質的には同じである。
 ユダヤ人問題を扱った文献はおびただしいが、サルトルのこの本は鋭い分析と強烈な批判を簡潔な文章で展開しており、異文化問題の古典といってよい。


    1 ユダヤ人
 サルトルによれば、ユダヤ人は、反ユダヤ主義者が社会の諸矛盾を押しつけるためのスケープゴートとして創り出したものであり、要するに「他の人々がユダヤ人と考えている人々」のことである。
 反ユダヤ主義者にいわせると、ユダヤ人は他の人々とは違う「何か」、つまり「ユダヤ根性」を持ち、本質的に「悪をなす自由」を持っている。
 たとえば、フランスの本当の価値は、「真のフランスのフランス人にのみ達することの出来る価値であり、言葉であらわすことの出来ないものである」。この「フランス的真実」は真性フランス人だけのものであり、ユダヤ人はいくら努力しても所詮それは「ユダヤ的努力」であり、「ユダヤ的教養」にとどまる。「ユダヤ人は、ユダヤ人として考え、ユダヤ人として眠り、飲み、喰い、ユダヤ式に正直だったり、不正直だったりする。」だから、ユダヤ人はまさにユダヤ人であるが故につねに警戒されなければならないことになる。


    
2 理性への情熱
 反ユダヤ主義は、伝統、人種、本能といった非理性的根拠によって国家をわがものとし、ユダヤ人を排斥する。これに対しユダヤ人は、理性主義をもって対抗しようとしてきた。理性はすべての人のものであり、「それはすべての人間が同意できる普遍的真理を見せ
る。」

 もし、理性が存在するならは、フランス的真実と、ドイツ的真実があるということはない。
黒人的真実とかユダヤ的真実があるわけでもない。真実は一つしかなく、それを発見す
るのが、最もよい人間である。普遍的・永遠的法則の前では、人間自身も普遍的である。
ユダヤ人も、ポーランド人もなくなり、ポーランドに住んでいる人間と、戸籍に、「ユダヤ教
徒」と書かれている他の人間がいるだけである。普遍の場まで高められれば、人間達の
間には常に同意が可能である。(p.139)
 数学をするのにユダヤ的方式があるわけではない。従って、ユダヤ人の数学者は、理
論を進めている時には、自分の肉体を離れて、普遍的人間になっているわけである。そ
して、反ユダヤ主義者が、その数学者の理論の後をたどれば、いくら反抗して見ても、彼
の兄弟になってしまうのである。(p.140)

 ユダヤ人は、「自分たちは他の人間と同等の人間だ」ということを証すため、理性を求めた。「従って、ユダヤ人の理性主義は情熱である。普遍を求める情熱なのである。」
 この理性の追求は、プラトンのいうように「肉体の放棄」「肉体の死」である。「自分をユダヤ人と感じない最良の方法は、理論を押し通すことである。」しかし、サルトルによれば、ユダヤ人のこの理性主義への情熱は、「普遍への逃避」にすぎない。「彼は、普遍的人間という、人を酔わすような心よい立場を得て、それを、実験し、調査し、社会的な場において拒絶された同意と同化を、より高い場において実現しょうとしているのである。」(p.140)


    
3 民主主義
 この普遍の立場は、政治的には民主主義となる。したがって民主主義者はユダヤ人の味方であるが、サルトルにいわせると、これはじつに「情けない味方」にすぎない。

 民主主義者には、歴史のもたらす具体的な総合を見る目がない。彼等は、ユダヤ人も、
アラビア人も、黒人も、ブルジル人も、労働者も知らない。知っているのは、古今東西、常
に変らない人間というものだけである。彼等は、すべての集団を、各個別の要素に分解し
てしまう。彼等にとって、肉体は細胞の総和であり、社会は個人の総和である。そして、そ
の個人は、人間性を形づくる普遍的特徴が、単数の肉体の中にあらわれたものと考える
のである。(p.63)

 「このことから導かれるのは、民主主義者のユダヤ人擁護が、ユダヤ人を人間としては救うが、ユダヤ人としては、逆にその破滅をもたらすということである。」民主主義者は、ユダヤ人が集団としての「ユダヤの自覚」を持つことを恐れる。彼らは「ユダヤ人を、その宗教、その家族、その人種的共同体から引き離して、民主主義の坩堝に投げ入れ、ユダヤ人が他のすべての個体同様、孤独な個体としてたった独り、裸になるときまで出してやらない。アメリカにおいて、同化政策といわれたものがこれである」。反ユダヤ主義者がユダヤ人を「人間として」破壊しようとするのに対し、民主主義者は「ユダヤ人として」破壊しようとする。

 反ユダヤ主義者は、ユダヤ人が、ユダヤ人であることを非難するのだが、民主主義者は、
ユダヤ人が、自分をユダヤ人と考えることを非難しがちなのである。(p.67)

    
 
    4 正統なユダヤ人
 サルトルは、ユダヤ人はいかなる逃避によっても救われないと考える。彼によれば、人間は「状況における自由体」でなければならない。労働者が階級としての自覚を持つことで正統となるように、「ユダヤ人にとって、正統とは、ユダヤ人としての条件を、最後まで生き抜くことであり、非正統とは、その条件を否定したり、横道へ避けたりすることである。」

 ユダヤ人の正統性は、自己をユダヤ人として選ぶことにある。即ち、ユダヤ人の条件を
実現することにある。正統なユダヤ人は、普遍的人間という神話を捨てるであろう。彼は
自己を知り、呪われた歴史的存在としての自己を、歴史の中に求めるであろう。彼は自己
から逃避したり、自分の仲間を恥じたりすることを止める。彼は、社会が悪いことを理解し、
しかも、正統でないユダヤ人の素朴な一元論に、社会の複数論を対立させる。彼は、自分
が別もので、触れてはならぬもので、恥かしめられ、追放されているのを知っていて、そう
いうものとして、自分の権利を主張するのである。彼は、理性主義的楽観論を一度に退け、
世界が、非理性的なわけ方によって細分されていることを理解し、この細分を、少くとも、
自己に関してだけでも、受け入れ、自分をユダヤ人として主張し、これらの価値と分割の
あるものを、自分自身のものにしてしまう。彼は自分の兄弟と仲間を選ぶ。そして、それは、
他のユダヤ人達である。彼は人間の偉大さに賭ける。なぜなら、彼自身、正に生きるに堪
えないと規定される条件の中で生き抜くことを承知するのであるから、そして、自分の恥辱
から誇りを引き出すのであるから。彼はまた、受動的であることを止め、それによって、一
時に反ユダヤ主義のカや毒素を、全く除いてしまう。なぜなら、正統でないユダヤ人は、そ
のユダヤ人としての現実から逃避しょうとしていた。そしてその意志に反して、彼をユダヤ
人に仕立て上げているのが、反ユダヤ主義者であった。ところが、正統なユダヤ人は、す
べての人に対して、またすべての人に逆らって自分自身を、自らユダヤ人とする。彼は、
すべてを、殉教までを受け入れる。従って、反ユダヤ主義は、武器を失い、烙印を押すこ
とも出来ず、ただ通りすがりに吠えついて見るのが関の山となるのである。ユダヤ人は、
他の正統な人々同様、もう人相書は書かれなくなる。われわれが、正統でないユダヤ人達
のうちに認めた共通の性格は、彼等に共通な非正統性から出ていたものなのである。従っ
て、正統なユダヤ人には、全く認められない。言えるのはただ、彼は彼の思い通りの彼で
あるということだけである。彼は自ら受け入れて孤立し、一個の人間、即ち人間の条件が
もたらす形而上学的視界を持った完全な一個の人間となるのである。」(pp.169-171)



    
5 具体的な自由主義

 われわれがここで提案するのは、具体的な自由主義である。それは、各々の仕事によっ
て一国の繁栄に寄与する人々は、すべて、その国の完全な市民権を持つということを意
味する。そしてその市民権も、「人間の性質」などという謎のような抽象的なものを持って
いるから与えられるのではなく、積極的に社会生活へ参加しているからである。従って、
ユダヤ人であろうと、アラビア人や黒人であろうと、国家の事業に協力しさえすれば、その
事業を監視する権利を持つ。即ち、市民なのである。しかも、彼等は、それらの権利を、ユ
ダヤ人、アラビア人、黒人の資格において、即ち、具体的人間として、持つのである。婦人
に選挙権のある社会で、投票所に近づいたら、女性は性を変えねばならぬということはな
い。女性の票は、男性の票と全く同等の価値を認められている。しかも、女性は、女性とし
ての情熱、苦労、性格によって、女性として投票するのである。法的権利、及び、如何なる
法典にも成文化されていない、ぼんやりとしたものだが不可欠であるような権利について
も、それをユダヤ人に認める場合、彼のうちに、キリスト教徒になる可能性があるからでは
なく、彼が、フランスのユダヤ人だからでなければならない。われわれは彼を、その性格、
風習、嗜好、また、もしあればその宗教、名前、肉体的特徴とともに、受け入れるべきなの
である。そして、その受諾が、完全で、本心からのものであれば、第一に、ユダヤ人が、正
統性を選ぶのを容易にし、次には、強制によって得ようとしている同化を、歴史の流れに
従って、おだやかに少しずつ、可能として行くことが出来るであろう。(pp.180-182)



    6 社会主義による同化?
 この「具体的な自由主義」がサルトルの結論だが、それにしても、なぜここでまた「同化」
なのだろうか?
 サルトルは、マルクス主義を基礎に反ユダヤ主義を階級分裂の集約点と見なし、したがって
社会主義革命により階級のない世界が実現すれば、反ユダヤ主義は存在理由を失うと考える。
労働者階級に属し、その階級意識を持つ労働者が階級の消滅に反対しないのと同様に、ユダヤ
人もその時は同化に反対しないはずだ。「反ユダヤ主義を絶滅するためにも、社会主義革命は
必要であり、かつそれで十分である。われわれが革命を行うのは、ユダヤ人のためでもあるの
である。」
 しかし、本当だろうか?社会主義は反ユダヤ主義を絶滅するだろうか?サルトルの目指すよう
な「同化」は可能だろうか?また、可能としても、それは望ましいものだろうか?
 サルトルのユダヤ人問題批判は鋭いが、社会主義的展望については疑問が残るといわざる
を得ない。
                                  (谷川:2001.1.31)


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