紹介: 関根政美『多文化主義社会の到来』
                      朝日選書、2000年刊、1200円)      (紹介者)谷川昌幸


多文化社会化と現代版「国体護持」論

 現代はグローバリゼーションと多文化社会化の時代であり、日本もその例外ではありえない。いわゆる保守主義者たちはこの流れに目をつむり、古来の日本文化を継承する日本民族の日本国家を再建強化しようとしているが、要するにそれは「国体護持」の現代版であり、歴史的根拠もなければ、世界政治の中での現実性もない。しかし、多くの日本人にとって、このロマンチックな幻想は――特に経済不況や社会不安の中では――聞くに心地よく、サイレンの歌声のごとく、危ないと分かっていても、つい引き込まれてしまう。

 この現代版「国体護持」論は、裏返せば「国体」がいよいよ危なくなっているという危機感の現れ、つまり加速度的に進行する日本社会の多文化・多民族化を押しとどめようとする時代錯誤的な抵抗に他ならない。しかし、国民国家ナショナリズムは妖艶な魔力を持ち、脱魔術化の努力を怠れば、再びこの近代の妖怪が跋扈することになろう。

 国民国家ナショナリズムは、いわば近代政治原理の鬼っ子であり、親の弱みをついて生長する。親の弱みとは、政治における文化の問題であり、たしかに近代政治原理はこの問題と真っ正面から取り組むことを避けてきた。しかし、この問題を避けていては、現代版「国体護持」論の脱魔術化はおぼつかない。

 

関根政美『多文化主義社会の到来』について

 現代政治と文化の関係を考えようとするとき、関根氏のこの本は大変参考になる。まず「人種」「民族」「エスニシティ」「国民国家」などの基本概念が簡潔に定義され、グローバリゼーションが次のように説明される。

 「近年盛んに使われるようになつたグローバリゼーションという言葉は、次の現象を指す。すなわち、工業化・脱工業化と資本主義経済システムの世界的展開によって、世界各地を結ぶ情報通信・運輸交通手段が急速に発展し、地球上の空間的・時間的距離が縮小し、資本(カネ)・商品(モノ)・サービスのみならず、人間、情報、文化(宗教・イデオロギー、思想など)、そして技術などの国境を越えた移動や交流・伝播が活発化し、世界の各地域あるいは各国の間の相互交流や依存関係(場合によっては支配従属関係)が強まる現象である。要するに、地球が小さくなり、各地域や各国での政治や経済の変化が相在に影響を与え合う可能性が高まり、世界が一つの社会的な場を形成しはじめ、各地域・各国民国家の政治的・経済的自律性、文化・社会的閉鎖性や自己完結性が低下していくことである。」(7-8頁)

 

 こうした現象は、われわれが日常的に実感していることであり、このグローバリゼーションの流れを押しとどめることが出来ると考える人はおそらくいないであろう(いるとすれば、たいへんな夢想家である)。グローバリゼーションは現代人の宿命になってしまったといってよいが、ここで注意すべきは、これが相互に対立するように見える二つの結果を生みだしていくことである。

 

「(グローバリゼーションは)一方では、資本主義と資本主義の生みだす消費主義の徹底により、各地域・各国の人々のライフ・スタイルを共通化し(アメリカ化・西欧化)、あるいは基本的人権・民族自決・民主主義などの基本的概念・価値観念やイデオロギーを普及させる。

 しかし、こうした文化の何質化・収斂(均質)化に対して、かえって文化の多様性・異質性が強化されることも軽視できない。国境を越えた人々の移動、すなわち移民・難民そして外国人労働者の移住と定着を促進し、各地域・各国の人口構成の異質化を進める。国際移民の定着によるエスニック・コミュニティの形成に加え、グローバルなメディア・コミュニケーションの展開は、膨大な量の文化情報を地球表面に流通させはじめ、国民国家の国民に世界の文化や言語の多様性を、印象づける。」(16頁)

 

 グローバリゼーションが避けられないとすれば、われわれは、弁証法的に展開するこの二つの結果を引き受けざるを得ない。これは難しい課題だが、著者によれば、現在最も現実的なのはオーストラリアやカナダが先駆的に取り組んできた多文化主義政策であるという。

 以上のような関根氏の議論は説得力があり、時代錯誤的国民国家ナショナリズムの脱魔術化のための有力な理論的根拠を提供してくれるだろう。

 

ネパール政治文化研究との関連

 ネパールは世界有数の多民族・多文化社会であり、民族と文化は常に政治問題の中心にあった。ネパールがわれわれの関心を引く大きな理由の一つも、それが一民族一文化の幻想にとらわれがちな日本社会の対極にある社会だからである。

 本書は、現代世界における実例を多く引きながら、文化と政治、民族と国家の関係を分かりやすく説明しており、日本と対比しつつネパール政治文化を理解しようとするわれわれにとって、大変参考になる好著である。(谷川昌幸:2000. 5. 13

追記
 上記紹介文で「現代版『国体護持』論」という、やや感情的な表現を用いたが、これが必ずしも的外れでないことを示す事態が発生した。
 森喜朗首相は2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会に出席して「日本は、まさに天皇を中心とする神の国」、「それ(宗教)を大事にせよと、もっと教育の現場でなぜ言えないのだろうか」などと発言した。また首相は、最近、親孝行や兄弟が仲良くすることなど、「教育勅語の中には、・・・・いいところもあった」とも発言している。
 森首相のこれらの発言は、決して失言ではなく、彼の真意、彼の政治信条の明確な表明であり、「取り消し」要求ではなく、その政治信条の妥当性や、首相の憲法擁護義務との関係を厳密に問うべきであろう。
 グローバリゼーションのもとで森首相のような国家観が本当に現実的かどうか、われわれは冷静に考えてみなければならない。  (谷川昌幸:2000. 5. 17)

首相発言(要旨)
 森首相のあいさつの要旨は次の通り。
 「神様を大事にしよう」という最も大事なことをどうも世の中忘れているじゃないか、ということから、神道政治連盟、そして国会議員懇談会を設立した。
 最近、村上(正邦参院議員)会長はじめとする努力で、「昭利の日」を制定した。今の天皇ご在位十年のお祝いをしたり、先帝陛下(在位)六十年だとか、政府側が及び腰になるようなことをしっかり前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心とする神の国であるぞということを、国民の皆さんにしっかりと承知していただくというその思いで我々が活動をして三十年になる。
 子供時代を考えてみますと、鎮守の杜(もり)、お宮さんを中心とした地域社会を構成していた。
人の命というのは両親からいただいた。もっと端的に言えは神様からいただいたものだ。神様からいただいた命は大切にしなければならないし、人様の命もあやめてはならないということが基本だ。こんな人間の体のような不思議な神秘的なものはない。やっはりこれは神様からいただいたということしかない。
 神様であれ仏様であれ、それこそ天照大神であれ、神武天皇であれ、親鸞聖人さんであれ、日蓮さんであれ、宗教というのは自分の心に宿る文化なんだから。そのことをみん大事にしようよということを、もっと教育の現場でなぜ言えないのか。信教の自由だから触れてはならんのか、そうじゃない。信教の自由だからどの信ずる神も仏も大事にしようということを、学校でも社会でも家庭でも言うことが、日本の国の精神論から言えは一番大事なことなのではないか。(朝日新聞:2000. 5. 17)

関連文献
・関根政美『エスニシティの政治社会学――民族紛争の制度化のために――』名古屋大学出版会、1994、¥2800
 人種、民族、エスニシティに関する今日的諸問題が、綿密に分析されている。

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