第4章 ネパール憲法の歴史         →→目次 →→Top                            


1.ネパールの近代化と国家観の変遷

2.ネパール憲政史研究


1.ネパールの近代化と国家観の変遷   谷川昌幸 

   1 多党制と政党規制
   2 国家観の変遷
    (1)多民族ゴルカ王国:プリチビ・ナラヤン・シャハ王
    (2)ゴルカ王国からネパール王国へ:ラナ政府・王政復古体制
    (3)国民国家ネパール:パンチャヤト制
    (4)多民族国家ネパール:1990年憲法体制

       *本節は、近藤則夫編『開発と南アジア社会の変容』(アジア経済研究所、2000.3)に発表した文章です。


1 多党制と政党規制
 1990年ネパール憲を読んでいると、曖昧なところや矛盾した規定が少なくないことに気づく。これは1990年憲法が、90年春の「民主化運動(民主化革命)」の結果を法的に確認したものに他ならないからである。周知のように民主化運動は、単純にいえば、国王主権の国王派、議会主権のコングレス党、国民主権の共産党系諸派連合という三大勢力の三つどもえの闘争であり、反国王政党勢力の優勢のうちに、結局は、これら三者の妥協によって終結した。決定的に勝利した勢力はなく、したがって国王主権、議会主権、国民主権のどの政治原理も貫徹しなかった。相互に相容れない三つの政治原理の妥協であり、その結果の法的表現である憲法に矛盾があるのは当然といえよう
 そうした憲法原理の矛盾の中でも特に注目に値するものの一つが、政党規制である。90年の民主化運動のスローガンは非政党制パンチャヤト体制の打倒であり、多党制(複数政党制)樹立であった。一般には、この運動は政党勢力により政党のために闘われ、政党勢力の勝利をもって終わったとされている。たしかに表面的にはその通りであり、これは憲法の規定として具体化されている。憲法前文は、「最近の憲法改正運動を通して表明されたネパール人民の要求」を受け入れ、「成人普通選挙権、議会制、立憲君主制および多党制民主主義を統合強化」することを宣言した。そして、第17編政治団体の第112条第1項において「共通の政治目的と政治綱領を支持する者は、この憲法第12条第2項の但書により定められた法律に従い自分の選択する政治団体または政党を組織して運営し、その目的や綱領への支持や協力を一般公衆から得るために宣伝し、もしくは宣伝させ、またこの目的のための他の活動をする権利を有する。この活動のいずれを制限する法律、規制または決定も、この憲法に抵触し無効である」と定め、非政党制や一党独裁を明確に否定した。これらの規定を見ると、憲法は多党制を全面的に承認しているように見える。
 ところが、他方で憲法は第12条第2項但書による規制に加え、第112条第3項で「宗教、共同体、カースト、部族もしくは特定地域を基礎にして組織された政治団体または政党に対し、選挙管理委員会は承認を与えてはならない」と定めている。これらの憲法規定に基づいて制定された選挙法をみると、さらに詳しく以下のような選挙キャンペーンが禁止されている
 (a)ネパール王国の独立、主権もしくは領土の統合性を害するもの。
 (b)宗教、共同体、カースト、信条、言語もしくは地域を基礎にした憎悪、敵意もしくは侮蔑を生み出したり煽ったりすること。
 (c)宗教、共同体、カースト、信条、言語もしくは地域を基礎にした投票や棄権を訴えたり行わせること。
こうした憲法や法律の政党規制を根拠にすれば、実際上、ほとんどすべての政党を禁止できる。事実、1991年選挙では、「モンゴル民族組織」(Mongol National Organization)と「ネパール全国民族党」(Nepal Rastrya Janajati Party)が政党登録を拒否され、「リンブー解放戦線」(Limbuwan Liberation Front)は選挙そのものをボイコットした
 1990年憲法は、高らかな多党制宣言(前文)で始まり、厳格な政党規制(第17編)と国王の強大な非常事態権限(第18編)を以て締めくくられている。これは、ちょうど天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」と定めた日本国憲法第1条が天皇主権と国民主権の政治的妥協の象徴であるのと同じく、ネパール90年憲法体制の妥協的性格を象徴的に示す法構成である。それではなぜネパール憲法はアクセルとブレーキを同時に踏むような無理な政党規定を置かざるを得なかったのであろうか。
 それは、結論を先取りしていうならば、近代化・民主化を迫られている多民族国家ネパールの苦悩の現れに他ならない。ネパールの政治家や知識人にとって「民主主義とナショナリズム」は疑うことを許されない自明の政治目標だが、実際には、両者の調和的結合の条件はネパールにはほとんど存在しない。近代化・民主化のためには政治活動の自由を認め多党制による民主的「国民」(nation)統合を目指さざるを得ないが、多党制は実際には多民族主義、多文化主義となりまだ脆弱なネパール「国民」を解体してしまう恐れがある。指導者たちは多党制の建て前とナショナリズムの本音を使い分けるつもりだろうが、憲法による多党制公認はパンドラの箱を開けることになる恐れが強い。90年憲法の政党規定は、国民国家ナショナリズムと多民族主義との相克の相の下に見なければならないのである。
 これは、ネパールの近代化・民主化を考える場合、避けては通れない難問である。国家ナショナリズムと多民族主義との相克は、法的には現行憲法の政党規定に最も露わな形で現れているが、その根は深くて広く、この問題の本質をよりよく理解し、問題解決に向けて取り組むには、少なくとも1769年のネパール国家統一にまでさかのぼって考察しなければならない。そこで、以下では、主として David N. Gellner, Joanna Pfaff-Czarnecka and John Whelpton(eds.), Nationalism and Ethnicity in a Hindu Kingdom(199) 所収の諸論文に依拠しながら、多民族社会ネパールにおけるナショナリズムの問題を国家観の変遷を手がかりにして検討していくことにする。


2 国家観の変遷
 (1)多民族ゴルカ王国:プリチビ・ナラヤン・シャハ王
 ネパールがプリチビ・ナラヤン・シャハ王(在位1742―75年)によって「ゴルカ王国」として国家統一されたのは、1769年のことであった。統一以前のネパールは、形式的にはインド・ムガール皇帝に臣従する50ないし80の小王国に分裂していた。ゴルカもそうした小王国の一つであったが、プリチビ即位(1742)の頃から急速に力を付け、次々と版図を広げ、1768―69年ついにカトマンズ、パタン、バドガウォンの三都市を攻略してマッラ王朝を滅亡させ、ネパール統一を成し遂げた。そして1770年にプリチビはムガール皇帝からバハドール・シャムシェル・ラナの称号を与えられ、ネパールの正式なマハラジャとして承認されたのである
 しかし、こうして国家統一はされたものの、ゴルカ王国の統治は既存の社会諸集団の自治を大幅に認める半封建的統治にとどまらざるを得なかった。ゴルカはもともと小国であり、版図の拡大のためには他の地域の伝統や慣習を最大限容認しつつ有力者を味方に取り込み、彼らを通してその地域を支配下に収めるという方法をとってきた。ゴルカのような小国が征服した他の王国や民族の既存社会をバラバラに解体しゴルカの直接的支配の下に置くことは不可能だし、不効率不経済でもある。ゴルカ王国にとって当面は地方の有力者や民族がシャハ王家に臣従し、割り当てられた公課を国家に収めてくれさえすればよい。今日でいう多民族、多文化の容認こそが、国家統一を達成したゴルカ王国にとって最も現実的な政策であったのである。
 このことは、「建国の父」プリチビ・ナラヤン・シャハ王自身がその有名な「布告」(Dibya Upadesh)の中で宣言している。
「皆が求めるなら王国はすべてのカーストの花園となる。この花園に住む者、この清浄なヒンズー教国において上から下まで4つのヴァルナと36のカースト(ジャート)に属するすべての者は、それぞれの祖先の宗教を捨てるべきではない。皆は国王の塩となれ」
ここでプリチビ国王は、国家と国王への忠誠を求める一方、様々なジャート(カースト/民族)や宗教の存在を容認している。これはたしかに近代的な一元的「国民」国家の主張ではない。しかし他方、今日の分権主義者や多民族主義者がしばしば願望を込めて解釈するような、多民族主義・多文化主義の積極的提唱でもない。ゴルカ王国の多様性は、中央権力の支配が中間諸権力に対する軍事的支配にとどまり、地域社会の解体、「国民」への再編にまでは及ばなかったからにすぎない。
 プリチビ国王は、ゴルカ王国の多民族、多文化の現実を容認せざるを得なかったとはいえ、同時に他方では国父としての強烈なナショナリズムをもっていた。彼は砂岩のようにもろいゴルカ王国、インドと中国という「二つの岩に挟まれたひょうたん(へちま)」のようなゴルカ王国を独立国として守らなければならなかった。そのためには軍事力だけでは不十分であり、新生ゴルカ王国を権威づけ正統化するものが必要になるが、彼にとってそれはいうまでもなくヒンズー教であった。ゴルカ(ゴラクサ)はもともと「牛の守護者」「(牛を養う)土地の守護者」という意味をもつ地名であり、ゴルカの人々はゴルカをヒンズー教の聖地と考えていた。プリチビ国王は、このヒンズー教国の理念を国家統一後のゴルカ王国にまで拡大し、王国を「清浄なヒンズー教国(asal hindustan)」と宣言した。ヒンズー教がナショナル・アイデンティティの核とされ、人々はそれぞれの民族や社会集団への帰属意識を持ちながらも形式的には唯一不可分のヒンズー教ゴルカ王国の「国民」とされた。それと同時に、王国も国王の家産ではなく、それ自体としての存在理由をもつ「国家」となり、人々は国王個人に服従するのではなく、不可分の「石(dhungo)」としての「国家」に忠誠を尽くすことになった
 しかし、初期のゴルカ王国を近代化しすぎてはいけないであろう。「国家」意識は少数の有力者に限られており、大部分の人々には、それは無関係である。その意味で、ゴルカ王国は前近代的な多民族、多文化国家であった。

 (2)ゴルカ王国からネパール王国へ:ラナ政府・王政復古体制
 ゴルカ王国の領土は、北方は1792年の中国(清国)との条約により、南方は1816年の東インド会社(イギリス)とのスゴーリ条約によりほぼ確定し、以後、ゴルカ王国は領土拡大から国内統治の強化へと大きく方向転換する。ヒンズー教によりナショナル・アイデンティティを函養し、国家の権威と権力を強化しようとする政策である。
 ネパールのヒンズー化(Hinduization)そのものは、ヒンズー教インド系民族(パルバテ・ヒンズー)の西から東への移住やインドとの接触により以前から進行していた。チベット・ビルマ系先住民族にとってインドのヒンズー教は先進文明であり、自らこれを歓迎し同化する場合が少なくなかった。とくに部族の長や地域の豪族らは、カースト秩序の中で高位を得ることにより自らの権威を高めようとした。また、部族全体が一つのカーストを名乗ることもあった。こうしたヒンズー化現象は、弱小文化が強大文化と接触するとき生じる半自発的同化の一例といえるであろう。
 しかし、そうした半自発的ヒンズー化ではなく、明確な政治目的をもってヒンズー化を推進したのは、1846年の「コトの大虐殺」によって権力を握ったジャンガ・バハドール・クンワール(ラナ)に始まるラナ政府であった。ラナ政府は行政機構を合理化し中央集権化する一方、ヒンズー教によって国家権力を正統化しようとした。1854年、ネパール初の成文法典「国法(Muluki Ain)」が編成され、そこでカースト制が国内のすべてのカーストや民族を一つの社会秩序の中に位置づけるものとして法制化された。いまや人々は、中間諸集団への帰属意識を持ちつつも、国家社会の一員としてのアイデンティティをもつことを要求されることになったのである。
 ラナ政府(1846―1951年)は、ヒンズー教による国家アイデンティティ確立のため牛(雌牛)を国家の象徴とし、これを政治的に利用しようとした。プリチビ国王においてもネパール王国は「牛の守護者」であり、したがって「清浄なヒンズー教国」であったが、ラナ政府はこの考え方を一段と強化し、1854年には「国法」で牛屠殺を禁じ、「この王国は、牛と女性とブラーマンを殺してはならない世界唯一の王国である」と規定した。罰則は、故意の牛殺しは終身刑(1990年法では禁固12年)、故意ではない場合は罰金1ルピーであった。20年後には、ヤクも雌牛に準ずる聖牛とされた。こうして牛はゴルカ王国の象徴として法制化され、牛への敵対は国家への敵対とみなされ、外国の場合は開戦理由になったであろうし、国内の場合は処罰の対象となった。北部のマガール族は、この国家イデオロギーを逆手にとって、中央政府と対立したときは牛を殺していたという
 しかし、この牛殺し禁止が厳格に強制されたわけではない。ゴルカ王国には多くの民族がおり、なかにはグルン族のように早くからヒンズー化し牛肉を食べなくなった民族もいるが、他の多くの先住民族は牛を屠殺したり、自ら屠殺しなくても肉は食べる習慣をもっていた。また、牛は家畜であり、酷使や使役中の死も当然ありうる。牛を聖化しすぎると、大半の農民は生きていけない。だからラナ政府は、故意の牛殺しは国家への反逆として厳罰に処しても、他の場合には牛殺し禁止を厳格には強制しようとはしなかった。
 これは不徹底ということではなく、むしろこの二重規準の方が国民統合にとっては実際には都合が良かったと考えられる。ブラーマンが牛(国家)を宗教的に権威づけ、政府がこの牛(国家)の聖性を守りつつ、牛保護を多様な現実に合わせて柔軟に適用していく。牛を守るべきであるのにその聖性を守りきれない人や民族は、国民ではあるが、下位の地位に甘んじなければならない。また、ヤクを聖牛化したのは、明らかに北部高地に住むチベット系諸民族を象徴的にゴルカ王国に統合するためであった。彼らは、ヤク―下位の聖牛―を守ることによってチベットではなく、「牛の守護者」ゴルカ王国の国民―下位の国民だが―となった
 こうしてゴルカ王国は、肉食イギリス人の支配下に入ったインドと、やはり肉食中国人の支配下に入ったチベットの間に唯一残った最後の「清浄なヒンズー教国」となったのである。
 ラナ政府は、ヒンズー教による国民統合を進める一方、新たに生まれつつある国民国家の名前をゴルカから「ネパール」に変えていく。「ネパール」はもともとカトマンズ盆地のみを指していたが、20世紀に入るとラナ政府がイギリス人に習って自国を「ネパール」と呼びはじめ、ネワール・ナショナリストたちは抵抗したが、30年代にはこれを公式国名として用いるようになった同じ頃、ゴルカのゴルカリ語(カス語)も「ネパール語」と呼ばれるようになり、これがネパール国民の国語と考えられるようになった。その背景には、第一次大戦時の対英協力をてこにラナ政府が英国政府に対しネパールの独立国としての地位を公式に認めることを強く要求し、1923年の友好条約によってこれが実現したことがある。ネパールがロンドンに公使館を開設したのも1934年のことである(1947年大使館に昇格)。こうして独立国としての承認を得、ナショナリズムが盛り上がり、多言語・多民族ゴルカ王国からネパール語を国語とする国民国家としてのネパール王国への移行が促進された。
 ラナ政府末期に、パドマ・シャムシェル首相はネパール初の成文憲法「ネパール統治法1948年」(パドマ憲法)の公布宣言において、次のように述べている。
「この小さな山国が独立を維持したという事実、強大な中国帝国と津波のごときイギリス権力の狭間でネパールが世界の自由諸国民の中に列せられ正当な地位を維持し得たという事実は、統治者たるラナ家が誇りにしてよいことである。
   『頭上に国王を戴き、膝に国民を抱き』、われらラナ家は聖典(Shastra)に記されたヒンズー教立憲君主国の旗を高らかに掲げ、国王と国民の間の神聖な慣習に従い国政を進めてきた」
これは第二次大戦後の民主化運動に追いつめられたラナ政府が、専制批判をかわすためにつくった憲法の公布文であり、自己正当化であることは事実だが、国民国家ネパールの形成強化にラナ政府が果たした役割は大きいといわねばならない。
 ネパールの国民国家ナショナリズムは、王政復古(1951年)による立憲君主制の成立とネパールの国際社会への参入(1955年国連加盟)によって、一層高潮していく。1959年に公布されたネパール初の本格的な正式憲法は、「ネパール王国憲法2015年」というタイトルをもち、国王が国民のために公布するという論理をとっている。公布文において国王はこう述べている。
「余の認可するこの憲法が全人民を結合して一本の強靭な糸となし、ネパール全土に栄光と発展と繁栄をもたらすことを余は切に願っている。・・・・
神よ、ヒマラヤ山麓の、西のマハカリから東のメチの間に住む全人民に力と英知を与えたまえ! 主パシュパティナートよ、全人民に祝福を恵み賜え」
この憲法がヒンズー教守護者たる国王の下での国民統合を強く意識したものであることは明らかである。前文でも憲法は、王政復古を達成したトリブバン国王を「国民(Nation)の父」、「アーリア文化とヒンズー教の守護者」と称え、憲法の目的を「人民の願いに応えることのできる効率的な君主制政府の樹立により政治的安定を実現し、国民の統一を堅固にすること」と宣言している。
 こうして権威と権力を一身に集めた主権者たる国王の統治する国民国家という近代的憲法体制は整ったが、他方、近代化とヒンズー教との矛盾も表面化してきた。カースト制を基礎にするヒンズー教は、様々な社会集団の自治を容認しつつそれらを一つの統合的カースト秩序に組み込むことができ、多文化多民族社会の統合には便利だが、諸個人からなる一元的「国民」という近代国家の理念とは原理的に相容れない。ネパールがヒンズー教的「多様性の統一」国家に留まることができるのであれば問題はないが、民主化・近代化を求める世界世論の圧力の下でネパールも民主化・近代化を進めざるを得ず、事実、59年憲法では「個人の自由」や「平等」が基本的権利として保障されている。この近代個人主義の原理とヒンズー教をどう両立させるか。1959年憲法は、近代的立憲君主制を一方の原理とし59年5月ネパール初の民主的選挙によるコングレス党政府を生み出したものの、結局、その原理によっても、また他方のヒンズー教国原理によっても安定的国民統合の実現には失敗し、1年後マヘンドラ国王のクーデタにより停止されてしまった。

 (3)国民国家ネパール:パンチャヤト体制
 クーデタで権力を回復したマヘンドラ国王は、王権を強化することにより近代的主権国家をつくり出そうとした。彼は「ネパール憲法2019(1962)年」を制定公布し、前文において「人民の意志」に沿う「ネパール人民」のための政治を行うことを宣言し、第1部・総則においてネパール王国の「国民」と「国家」を初めて憲法で明確に規定した。
 第2条(1) 共通の希望を持ち国王への忠誠という共通の絆で結ばれたネパール人民は、宗教、人種、カースト、部族にかかわりなく共同して国民を構成する。
  第3条(1)ネパールは、独立、不可分の主権的君主制ヒンズー教国家である
この国民国家ネパールは、ネパール語を「国語」(§5)とし、2層三角形の旗を「国旗」(§5)とする。さらに、国王賛歌が「国歌」、しゃくなげが「国花」、深紅色が「国色」、牛が「国獣」、ロホホルスが「国鳥」である(§6)。国語や国旗、国歌ばかりか国の花や色、動物や鳥まで憲法で定めている国は珍しい。1962年憲法がいかに強く国民統合を意識しているかがわかるであろう。
 このようにして一つの「国民」を主権者たる国王が統治することになれば、国民の分裂を想定する政党は不要となる。そこで1962年憲法は非政党制をとり、前文でこれを「非政党的民主的パンチャヤト制」と定めた。1990年革命以後のネパールの知識人や政治家は口をそろえて非政党制を反民主的と非難するが、近代民主主義の父ルソーの人民主権論では政党は存在の余地がなく、事実フランス革命において政党は反革命の象徴であり「政党の首領」はギロチンに送られることになった。また、マルクス・レーニン主義では人民の党による一党独裁こそが民主主義だと考えられた。したがって非政党制や一党制そのものは反民主的とはいえない。国王主権はむろん民主的ではないが、王権への中央集権化は、前近代的な権力の多元性の否定を志向し、弁証法的に真の民主主義に接近する。「非政党的民主的パンチャヤト制」は、その意味で近代化、民主化を目指すものであった。
 このパンチャヤト制国家は、政党禁止により民族やコミュナル勢力の成長を防止しつつ、近代的国民形成のため強力な同化政策をとった全国的行政制度が整備され、伝統的な地域社会の自治は奪われていった。一方、1962年の法律でカースト制の廃止が宣言され、人々は「法の前で平等」な市民とみなされ、ネパール文化を共有することによりネパール国民となることが求められたこの場合、ネパール文化とは実際にはパルバテ・ヒンズーの文化に他ならないから、国策としてネパール語とヒンズー教への同化が直接的あるいは間接的に推進されることになった。行政、学校教育、マスメディアにおけるネパール語の使用、ヒンズー教に則ったダサイン等の国家行事の挙行、国王夫妻の写真や国旗、国花等の国の象徴の全国的普及などである
パンチャヤト政府は一種の開発独裁であり、国民統合の強化はネパールの開発促進のためであった。国家が近代化のイニシアチブをとり、国家イデオロギーとしてのネパール文化に同化しない様々な伝統的文化は遅れた文化として抑圧された
 こうした国家による国民化政策は、伝統的社会からの個人の解放の側面をもち、上位カーストでなくても学校教育を受けネパール語を学べば、首都カトマンズへ出て地位の向上を図る道が形式的には開かれた。またパンチャヤト制は、政情不安の続いた第三世界の中にあっては例外的に1960年から90年まで30年間も続き、その間に教育の普及や道路建設など一定の国家近代化を実現した。
 しかし近代化を進めるパンチャヤト政府の中枢は上位カーストによる非合理的、前近代的寡占であり、ここにパンチャヤト制国家ナショナリズムの弱点があった。不平等なカースト社会の特権階級が自分たちを支配エリートとして例外扱いしながら、他の人々については国民国家の「法の前に平等」な市民としようとしていた。この矛盾は明白であり、したがって同化圧力と差別の下にある人々の反政府活動はなくならなかった。彼らにとって、国民国家の象徴は抑圧の象徴に他ならない。たとえば、マイティリ族などタライの人々にとって、国鳥ロホホルス、国花シャクナゲ、ネパール服などは無縁のものであり、それらを国の象徴とするのは、心理的にも無理があった
 1970年代後半になると、パンチャヤト政府は近代化政策に行き詰まり、正統性を失い始めた。禁止されていた政党や民族集団の反政府活動が広まり、1980年にはパンチャヤト制の是非を問う国民投票が実施された。この国民投票は表向きは政党制の是非ということだったが、実際には民族諸集団の不満の爆発という要素が強い。たとえば、クリスチャン・マクドノウの調査した地域のタルー族は全面的に多党制支持であったのに対し、山地出身者(パハリ)はパンチャヤト支持だった。そのため政府は警官詰め所を設置し、タルーの動きを監視し、そのうちの何人かを投獄したこのような政府の強力な投票干渉にもかかわらず、国民投票の結果、パンチャヤト制は僅差でようやく維持が承認されたにすぎない。同年末、国家パンチャヤト議員選挙の一部も国民の直接選挙に改められた。
 この国民投票を機に、民族諸集団の活動が一気に活発化した。ネワールのデモ、Magurali(マガール、グルン、ライ、リンブー同盟)の結成、様々な民族集団機関誌・紙の発行「ネパール全民族プラットフォーム」(1982年)や「被抑圧人民向上プラットフォーム」(1987年)の設立などである。そして、1989年には東欧民主化革命の影響下にネパールでも政党の反政府活動が半公然化し、1990年春の「民主化運動」の成功により、パンチャヤト制は打倒され、多党制(複数政党制)民主主義が30年ぶりに回復されたのである。


(4)多民族国家ネパール:1990年憲法体制
 1990年春の「民主化運動」(民主化革命)は多党制民主主義をスローガンに闘われ、運動の勝利によって30年ぶりに政党政治が回復された。民主化運動の主力であったコングレス党もネパール共産党もともにナショナリズムを唱える全国政党であり、特定の民族や地域との結びつきは公式にはないことになっている。しかし民主化運動を推進したのがパンチャヤト体制の中枢から排除された有力政治家たちであり、彼らの背後には労働者、学生といった近代的勢力の他に同化政策に不満を持つ諸民族や地域集団もいて運動を支援していたことは確かである。ちなみに、90年革命の主力はネワールの住むバクタプールとパタンであり、カトマンズ盆地での犠牲者23人のうち20人はネワールであったもともとネパールの政党は共産党も含めて近代的イデオロギー政党ではなく様々な社会集団をバックとする名望家の集合体の性格が強い。したがって革命における多党制の主張は民族や地域の主張でもあり、一文化国民国家の否定につながるものであった。
 これは革命後の1990年憲法ではっきり認められている。1962年憲法が「ネパールは独立、不可分の主権的ヒンズー教国家である」(§3)と規定していたのに対し、90年憲法は「ネパールは多民族、多言語、民主的、独立、不可分、主権的、ヒンズー教的立憲君主制王国である」(§4)と規定している。これによりネパールは、近代的国民国家の形成途上で大きく軌道修正し、多民族多文化国家へと国家観を切り替えた。革命は政党のために闘われ多党制が実現されたが、それはプリモダンとポストモダンのない交ぜになった多民族主義、多文化主義の法的承認でもあった。
 90年革命後も国民国家ナショナリズムは大部分の政党に支持され、反政府活動や反インド・キャンペーンのスローガンとしてことあるごとに使用されているが、多民族主義の公認により弱体化してきたことは否定できない。たとえば多文化主義の圧力に押され、政府は1991年度の人口調査で初めてカースト別人口を公表している。1990年には、ネワール、タマン、マガール、グルン、キラント諸民族、リンブー、ライの代表からなる「ネパール諸民族連盟」(Nepal Federation of Nationalities=NEFEN)が結成され、95年には25民族が加盟した。国連先住民年に呼応してNEFENが定義した彼らネパール先住民とは、次のようなものである
  1)固有の言語と文化をもち、国家宗教としてのヒンズー教ではなくアニミズム的宗教をもつ人々。
  2)異文化の他民族の移入以前からネパールに住んでいた人々。
  3)この4世紀、とくに近代ヒンズー教国民国家の確立・拡大期に伝来の土地を奪われ、キパット(共用地)、水、鉱山、交易地等の資源に対する伝統的権利を奪われた人々。
  4)国家の政策決定過程から排除され、自らの文化、言語、宗教を非正統化され、その社会的存在を侮蔑されている人々。
  5)インド・アーリア的なカースト制や女性差別ではなく、古来からの平等主義的社会をもつが、これを国家によって否定されてきた人々。
  6)上記特性を根拠に自らを「ネパール先住民」と公式または非公式に認めている人々。
こうした先住民族の権利を守るため、NEFENは母語初等教育、サンスクリット語教育廃止、法廷での母語使用、国家世俗化等々の要求を掲げてきた
 民族政党や民族政治団体も設立された。Limbuwan Mukti Morcha, Khambuwan Mukti Morcha, Mongol National Organization, Rastrya Janamkti Party 等々である。明確に公言していなくても、ネパール労農党はバクタプールのネワールを母胎とする政党だし、サドバーバナ党はタライ地域政党である。また民族諸集団はそれぞれいくつかの文化団体を組織しており、実際上それらの多くも政党に近い活動をしている。たとえばタルーは1970年に Dangaura Taru を設立し、タルーの言語、文化、文学、音楽の継承発展のための活動を始めたが、パンチャヤト政府はタルー・アイデンティティの強化を恐れ、これを抑圧した。しかし90年民主化革命を機に民族意識が高まり、Backwards Society Education(BASE)が設立され、タルーの教育、意識改革を進め、現在ではネパール最大の地域NGOとなっている。特定政党との結びつきはないが、教育向上は権利意識の高揚となり、カマイヤ(土地なし農民)問題など、政治性をもつ活動も始めているあるいはまた、たとえば反体制派マガールがマオイストを支持するといったように、民族集団が小政党と連携する場合も少なくない。
 これらの諸民族の権利主張は、多かれ少なかれ一文化国民国家の理念の解体を志向せざるを得ない。政治的には、それは様々な分権主義の要求となって噴出している。たとえば、Janajati Mahasangh はネパールを12の自治州からなる多国民国家(multinational state)ないし連邦国家にせよと要求し、Janajati Party は実際に国土を民族ごとに12地域に分ける試案さえつくっているこうした民族連邦主義は、ネパールの諸民族混在状況から見て非現実的だが、サドバーバナ党のような安定的に国会議員をもつ政党でさえ、これを支持している。とくにサドバーバナ党の場合、タライのインド系住民の利益を代弁し、インドとの関係が深いだけに、分離主義が高まるとネパールの統合を現実に危うくする恐れがある。
 もともとインドとの結びつきが強いタライ住民の間では、反カトマンズ感情が強い。クレア・ブルカルトは、マイティリ族の多いジャナクプールの二つの寺院の興味深い対立関係を紹介している。一方の寺院ジャナキ・マンディールは、インド人の寄付により1911年に建立されたネパール唯一のムガール式大寺院で、ジャナキ(シータ)を祭っている。ジャナクプールの心ともいうべき寺院で、多くの参拝者が集まり、文化祭や政治集会がいつも開かれ賑わっている。ところが、これに対抗するためパンチャヤト期に政府がジャナクプールや周辺のタライ地域から税を取り立てジャナキ・マンディールのすぐ近くにビバ・マンダプを建立した。シータとその夫ラーマの結婚を記念する寺院だが、デザインは丘陵の寺院スタイルであり、参る人は少なく閑散としている。シータとラーマの結婚を祝う祭りの行列もジャナキ・マンディールから出発し、このビバ・マンダプは迂回して進む。サドバーバナ党員にいわせれば、ビバ・マンダプはマイティリを丘陵文化に同化しようとしたパンチャヤト期ナショナリズムの典型である。このようにジャナクプールの反政府感情は強く、ジャナキ・マンディールの庭に建てられたマヘンドラ国王の像は民主化運動中に倒され、その跡に、マヘンドラ国王が1962年ジャナクプールを訪問した際、爆弾を投げつけ絞首刑にされたブラーマン少年の像を建てることを人々は要求している。ジャナクプールの人々にとって、第一にマイティリ、第二にマドヘシ(Madheshi)、そして最後にネパリというのが正直なところであろう。そうした地域世論を背景に、マイティリ分離独立の主張が根強く続けられ、インド内にもそれを支持する動きがある。中央政府の側からすれば、神経質にならざるを得ない状況である
 多民族主義に基づく分権主義の主張は、政治、行政の各レベルにおける民族ごとの比例代表あるいは比例割当(クォータ制)の要求ともなっている。Nepal Rastriya Janajati party は、上院を比例制の「民族議会(House of Nationalities)」とする案や、議会にクォータ制を導入する案を主張し、統一人民戦線(UPF)とCPN−UMLもこれを支持した。ちなみに、1994年における下院議員の25%がエスニック出身であるまた公共部門の雇用のクォータ制の要求も強く、コングレス党は否定的だがUMLはこれを支持している。兵士採用差別については、特にサドバーバナ党が強く批判している
 言語については、憲法でネパール諸民族の母語を「ネパールの国民的諸言語(national languages of Nepal)」(§6)として公認し、母語と文化を保存し、母語初等教育を行う権利(§18)を認めているが、ネパール語にのみ「国語(the language of the nation of Nepal)」、公用語としての特権が与えられていることに各民族とも不満である。シディ・ラル・シュレスタとローヒットは上院での宣誓をネワール語で行い、1991年議会では共産党議員が国王演説への反対演説をリンブー語やタマン語で、サドバーバナ党の党首がヒンディ語で行ったサドバーバナ党はヒンディを第二公用語とすべきだと強く要求している。こうした諸民族の要求に押され、1994年8月政府はラジオ・ネパールのニュース放送で、ネパール語、ヒンディ語以外に、1%以上の言語人口をもつすべての言語(計12言語)を用いることにした。しかし、公用語とそれ以外の言語との落差は大きく、不満はとうてい解消されていない。
 このように1990年憲法は多民族国家を公認したが、ネパールのような多民族多文化混在国家で民族自治を主張し始めると、問題は限りなく錯綜してくる。パルバテ・ヒンズー対先住諸民族、丘陵住民対タライ住民、モンゴロイド対アーリアン、ヒンズー対仏教、ヒンズー対ムスリム等々。
 また各民族自身のアイデンティティも必ずしも明確ではない。タマンは1932年に政府によってジャートとして認定された人々であり、国家によってつくられた民族という性格が強い。彼ら自身、タマン意識は低く、外部ではグルンといったりシェルパといったりしているまたネワールは、19世紀までヒンズーカーストの「シュレスタ」を意味していた。今日でも、上位カーストのブラーマン、下位カーストのカジや不可触民はネワールとは考えられていないこのように民族意識、カースト意識は必ずしも明確でないし、また各民族の地域画定も難しい。民族言語についても多くの方言がある場合が多く、学校教育をするにはある程度標準語化せざるを得ない。そうすると、今度は民族内で正統文化と非正統文化の対立が生じてくる。また、ネワール語のようにある程度まとまった言語を除けば、各民族とも自らの文化を対外的に主張しようとすれば、共通語として結局はネパール語を使わざるを得ず、ネパール語はパルバテ・ヒンズーの民族語にすぎないという主張と矛盾してくる。
 民族意識は必ずしも自然なものではなく、国民国家への統合の反作用という側面が強い。ライはもともと多くの下位集団をもち統一的な民族意識は希薄であったが、国民統合過程でライ民族意識がつくり出され、1990年の民主化以後、それが公に主張され始めた。1988年にライ民族組織 Kirat Rai Yayokkha が設立され、92年機関誌Yayokを発行、その中でこの組織の目的を次のように宣言した
  1)全キラント・ライの統一
  2)ライの言語、文字、宗教、芸術、文化、歴史の調査、保存、育成
  3)エスニック集団としての意識の向上
  4)学校や大学でライ語を研究、教育し発展させる
  5)他のエスニック集団との協力を通して国民文化の建設に貢献する
統一的民族意識をつくり出すため、ヤヨッカは Sakkhewa と呼ばれるキラント文化大祭をジャワラケルの動物園前広場で年一回開催する。白のターバン(sili makpa)をつけた僧が先導し、それぞれの出身地ごとの衣装を着けた男女が輪になって踊る。これは、ライとしての多様性と統一を意味する。しかし、この祭りは伝統的にあったものではなく、カトマンズ在住のライの統一のために創り出されたもので、多様なライ文化の標準化をもたらすことになる。言語についても、ライ語放送のため、標準ライ語として Bantawa が選ばれたが、これに反対する Kukunge はヤヨッカから分離し、別組織をつくった。ライ民族意識形成のため、同化か分離が民族内で行われているのである。またヤヨッカは、本来文化団体だが、1993年8月、Sakkhew 祭をトゥンディケルで行い、時のライ出身大臣が輪舞の先導役を務めるなど、政治的な性格をも持ち始めている
 このように見てくると、現在のネパールにとって国民国家の必要性も国内多民族の存在もともに否定できない現実であることがよく分かる。ほとんど近代政治原理の根付いていないこの国で、「国民」と「民族」の二重のアイデンティティを両立させ、多文化主義的国家統合を維持強化していくことは非常に難しい課題である。しかし、90年憲法が宣言しているように、それ以外にネパールの歩む道はおそらく存在しないであろう。


*1 Constitution of the Kingdom of Nepal 2047(1990), Kathmandu: Law Books Management Board; 谷川昌幸(訳)『ネパール王国憲法』ネパール研究会、1994年.
*2 谷川昌幸『ネパール憲政史研究』(科学研究費研究報告書)1998年、参照。
*3 Election(Offences and Punishment) Act, 2047,§6, Constitution of the Kingdom of Nepal 2047 and Electoral Laws, Kathmandu: Legal Research Associates.
*4 Cf. General Election in Nepal 1991, Kathmandu: Election Commission, 1992.
*5 Gellner, David N., Joanna Pfaff-Czarnecka & John Whelpton(eds.), Nationalism and Ethnicity in a Hindu Kingdom, Amsterdam: Harwood Academic Publishers, 1997. 以下、Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity と略記する。
*6 西澤憲一郎『ネパールの歴史』勁草書房、1985年、参照。
*7 Sharma, Prayag Raj, Nation-Building, Multi-Ethnicity, and the Hindu State, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, p. 479.
*8 Cf. Whelpton, John, political Identity in Nepal: State, Nation, and Community, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, p. 42; Sharma, op. cit., p. 477.
*9 Michaels, Axel, The King and Cow: On a Crucial Symbol of Hinduization in Nepal, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, pp. 86, 91.
*10 Michaels, Axel, op. cit., p. 92.
*11 Gellner, David N., Caste, Communalism, and Communism: Newars and the Nepalese State, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, p. 158.
*12 Pant, Shastra Dutta, Comparative Constitutions of Nepal, Kathmandu: Research Centre for South Asia, 1995, p. 166.
*13 Ibid., p. 132.
*14 Ibid., p. 103.
*15 Cf. Pfaff-Czarnecka, Joanna, Vestiges and Visions: Cultural Change in the Process of Nation-Building in Nepal, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, pp. 432ff.
*16 ちなみに、インドが多くの共同体の統合体としての国家から「個々の市民」からなる国民国家とみなされるようになったのは1920年代からである。Cf. Gellner, David N., Ethnicity and Nationalism in the World's only Hindu State, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, pp. 9-10.
*17 1968年から1992年における国民意識の生長は、つぎのような問いに対するグルン族の一般的な回答の変化からも推測できる。Macfalane, Alan, Identity and Change among the Grungs(Tamu-mai) of Central Nepal, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, p. 188.
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              (1968年)       (1992年)
  住んでいるところは?   グルンの村         ネパールの町
  着ている服は?      グルン服          ネパール服
  話す言葉は?       グルン語(ネパール語)   ネパール語(グルン語)
  政治的には?       グルン人          ネパール人
  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 また、王権のヒンズー教的正統化儀礼である中央のダサイン祭がヒンズー化とともに各地に広がり、族長がダサインを執り行うことにより自己の権威を宗教的に正統化するようになった。1990年革命以後、ダサイン祭のこの政治的役割に対する批判が生じている。Cf. Gaenszle, Martin, Changing Concepts of Ethnic Identity among the Mewahang Rai, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, pp 363-364.
*18 隣国ブータンでも、一足おくれ、国民統合が強化され、ブータン文化(言語、民族衣装など)への同化政策が採られると、ネパール系住民は抑圧され、88、000人ほどが難民化し東ネパールへ逃れた。こうしたブータン文化アイデンティティの形成は、西側ジャーナリズムの報道の仕方にも一因がある。西側ジャーナリズムがブータン文化のユニークさを強調し、それを受けてブータン政府が国王と固有文化を強調、それと異質なネパール系住民の同化、排除へと向かわせたという。Cf. Ramble, Charles, Tibetan Pride of Place; or, Why Nepal's Bhotiyas are not an Ethnic Group, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, pp.401-402.
*19 Burkert, Claire, Defining Maithil Identity: Who is in Charge?, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, p.241.
*20 McDonaugh, Christian, Losing Ground, Gaining Ground: Land and Change in a Tharu Community in Dang, West Nepal, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, p.287.
*21 Tharu-Sanskriti(Tharu), Tamun(Gurung), Khanglo(Thakali), Paru-hang(Kiranti), Kongpi(Kiranti), Kairan(ethnic minorities in general), Chahara(ethnic minorities in general) etc. Grung, Harka, State and Society in Nepal, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, p. 526.
*22 Gellner, David N., Caste, Communalism, and Communism: Newars and the Nepalese State, p. 170.
*23 Gellner, David N., Ethnicity and Nationalism in the World's only Hindu State, pp.20-21.
*24 *グルンは、失われたグルン・アイデンティティを回復するため、ヒンズー教的な名前を本来のグルン的な名前に変更し始めた。Singh, Bahadur, Maya は使用せず、Gurun を Tama に変える。たとえば、Debi Bahadur Gurun であれば、Debi Kromje Tama とする。 Macfarlane, Alan, op. cit., p. 190.
*25 McDonaugh, Christian, op. cit., pp. 277-279.
*26 Sharma, Prayag Raj, op. cit., p. 489.
*27 Brukert, Claire, op. cit., pp. 243-251.
*28 Grung, Harka, Nepal Social: Demography and Expressions, Kathmandu: New Era, 1998,p. 149.
*29 Sharma, Prayag Raji, op. cit., p. 485.
*30 Gellner, David N., Caste, Communalism, and Communism: Newars and the Nepalese State, pp. 176-177.
*31 Campbell, Ben, The Heavy Loads of Tamang Identity, in Gellner et al.(eds.), Nationalism and Ethnicity, pp.221-231.
*32 Gellner, David N., Caste, Communalism, and Communism: Newars and the Nepalese State, p. 163.
*33 Gaenszle, Martin, op. cit., p. 365.
*34 Ibid., pp. 366-367.
                                 

(谷川昌幸2000.6.15)