序論 姓同一性障害


(1)
 希望する夫婦に別姓選択の自由を認めるようにする民法改正案が、国会で審議されることなく、またも廃案にされそうだ。
 夫婦同一姓を強制する現行法は、私にとってますます耐え難いものになっている。男女の本質的平等と「両性の合意のみ」に基づく婚姻の自由を信じていた私は、結婚の時、妻の姓を奪う合理的根拠を見いだせず、やむなくくじ引きをした結果、私が負け、戸籍上の姓を失ってしまった。
 しかし、長年にわたって形成してきた人格と社会関係を別名で再構築することは実際には困難であり、結婚後も「谷川」を通称名として使ってきた。私は自分を「谷川」と認識し、世間でも「谷川」として認知されてきた。
 ところが、金融機関をはじめ最近の本人確認の強化により、通称名使用は以前よりはるかに困難になってきた。いま私は職場でも買い物先でもいたるところで身元証明を求められ、その度に経済的時間的負担と精神的苦痛を強いられている。戸籍名と通称名の使い分けはもはや限界であり、このままでは「姓同一性障害」が進行し、自分でも自分が分からなくなるだろう。
 夫婦同一姓の一律強制は、個人人格の尊重や婚姻の自由を保障する憲法に違反しているし、ライフスタイルの多様化により現実社会の実態にも合わなくなっている。選択的夫婦別姓制への民法改正を強く要望したい。
                                 (「朝日新聞」2000年6月6日。新聞紙面では一部省略されている。)

(2)
 人格権の核、姓名権の尊重の点では、オーストラリアはおそらく世界最先進国だ。
 ラトローブ大学の杉本良夫教授によると、オーストラリアでは、姓も名も自由に変えられ、役所に名前変更届を出すだけでよい。杉本さんの息子さんも、自分で英語風の名前を付け、役所に届け、いまでは2つの名前を「正式名」(通称名ではない)としてもっているという。届けだから、役所には許可(拒否)権限はない。
 これが人権の本来のあり方だ。私事は最大限本人に任せ、公権力は、公平のための交通整理に徹する。公権力が名前まで決めようとするのは、、越権というより、むしろ倒錯だ。 (参照→杉本良夫「姓名は、わたくしごとで」朝日新聞、2002.6.20